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2019年はILO(国際労働機関)、そして大原社会問題研究所が設立されて100年にあたります。大原は長くILOの活動を紹介するシンポジウムを毎年、東京で開催してきました。今年は100年を記念して、大原社研が設立された大阪で開催されることになりました。案内は以下の通りです。

第32回国際労働問題シンポジウム ILOと日本

大阪市中央公会堂 中集会室
11月11日(月) 13時30分~16時

1910年代後半から世界的に、社会労働政策が発展してきました。特に第一次世界大戦がその後の秩序形成の中で重要な転機になりました。ここで最初の国際機関である国際連盟が作られ、ILOもそれに連動して作られたのです。ILOは今でも政労使の代表が送り出されて年に一回会議をします。

大原社研の初代所長・高野岩三郎は、1919年当時、東京帝国大学経済学部(今の東大)の統計学の教授で、日本でもっとも早い時期に労働組合を作った高野房太郎の弟だったこと、また友愛会(その後の総同盟、同盟)の創設者鈴木文治が東大法学部卒業者(彼が在学中は経済学部も法学部から独立していなかった)であったこともあり、その支援をしていました。しかし、第一回のILOの労働者代表選出の際に、高野が選ばれそうになったところ、労働者から大きな反撥があり、それを辞退せざるを得ませんでした。その後、高野は大原孫三郎の誘いを受け、大原社会問題研究所を作り上げていきます。

1920年代以降、日本の社会労働行政はILOの動向を横目に見ながら、展開してきました。その過程で作られたのが労働組合、経営者、政府で構成された協調会です。最初の数年こそ労働者代表選出問題で労組は協力しませんでしたが、関東大震災以降の支援活動をするなかで、総同盟は現実主義を前面的に押し出すようになって、ここに参加します。この協調会には内務省OBの大物も結構関わっていて、一部内部資料も残していました。協調会は戦後、GHQによって解散に追い込まれますが、その教育機能の一部が法政大学の社会学部の母体になります。大原社会問題研究所も戦後、法政大学の一機関になります。その縁もあって、大原社会問題研究所には協調会文庫があり、その一部には戦前のILOとも関連する資料も含まれています。

自分で書きながら、説明が難しくて、あまり魅力的な宣伝になっていない気もしますが、個人的にはメッチャ楽しみなイベントでもあります。大原のメンバーも来ますので、タイミングが合えば、いろいろ紹介しますので、大阪近郊の方、ぜひいらしてください。そして、今回の会場になる大阪市中央公会堂はなかなか入れませんから、そんなところに興味がある方もぜひこっそり参加なさってください。

ご参加される方は、

 oharains@adm.hosei.ac.jp

まで「お名前、所属、連絡先」を書いてご一報ください。
申込期間は過ぎていますが、まだ枠が残っているそうなので、ご検討いただけたら幸いです。
どうぞよろしくお願いします。
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この二週間くらい、ちょうど学会の二次会(MさんとSさん)、この前のAダッシュの講座、今日のMinamiこども教室のボランティア研修会の三つを聞いて、いろいろ私の中では整理できたので、ここにまとめておきたい。というか、本当は明日の「社会政策」の講義の準備をするために泣く泣く懇親会をあきらめて帰って来たんだけど、このテーマはそこにもつながるし、また、書いとかないと忘れるので、まとめておこう。

教育にせよ、支援にせよ、あるときに権力(言葉が強ければ、単にパワーでもいい)を使わなければならない仕事の場合(今日は面倒なのでケア的教育で一元化しておく)、そのことに何のためらいもない人は、実は対話可能性が低い。現場にいると、こういう人は少なくない。教員、相談員(役所の人も含む)でもそうだろう。本当に重要なのは、コンパッション、他者を受け入れる力である。人によっては愛という人もいる。これをちゃんと持ち続けられる人は意外と少ない。

こうしたビーイング、あり方の問題においてなかなか他者(権力を使うのにためらいのない人)をコントロールできないし、またすべきでもない。あるときにその大切さを気がつくのを待つほかない。でも、逆に言うと、このコンパッションを持った人はとても貴重である。特に現場の人こそそういう思いを持っているので、勢い強調点はここになる。

もう少しテクニカルなことを言うと、コンパッションは基盤となるもので、その上にテクニカルなことが来る。会話の仕方を含めたコミュニケーションの取り方、教え方などである。テクニカルな不足分はコンパッションで超えていくことが出来ることもあるし、それどころかテクニックがないことがコンパッションを育んでいく、そういうきっかけになることさえもある。

ただ、コンパッションとは別の次元でテクニックがあることも事実で、それをないがしろにしてはいけない。テクニックよりもコンパッションが大事だと、ベテランの教員や支援員が言うときに、実はこの点が見逃されている。というよりも、おそらくは本人もこの違いを意識していないのではないかと思う。

ケア的教育には、どこまでいっても、完全な正解といったものは存在しない。根幹のコンパッションを忘れないように心を尽くして、少しずつ経験が積み重なって、それが自信として積み重なっていく、というのが普通のパターンだろう。このときたしかに重要なのはコンパッションなんだけど、その経験を共有できないかというと、そうでもない。また、経験のなかに埋め込まれたテクニックを使うことで自信を深め、よりコンパッションを深めることが出来る。

人間は決して完ぺきではないので、完全な愛情を示すことは出来ないけれども、それでも不安があると、相手には愛情とともに不安も伝わる。ケア的教育や支援において重要なことは、相手が安心感を得られることで、それは見守っていることであったり、そういうことを通じて受け入れられていると感じられることであったりする。愛情深い人の場合、コンパッションが足りないということはほとんどないが、経験やテクニックが足りないということはあり、それがコンパッションが深いゆえにその人を不安にさせることがままある。こういうときに、コンパッションがあるから、愛情があるから、それで十分なんだというのは適切な答えではない。

では、先人の経験やテクニックをどうやって学んでいくのか、ということになるが、その前にテクニックが二種類あることを考察しておく必要があるだろう。本当にテクニカルな教授法と、コンパッションと切り離すことが出来ないテクニックである。後者は徹底的な「ケース」を聞いていくしかない。具体的な場面で、どういう状況認識をして、どういう風にやったのか、というようなことであり、どういう風にやったのかをどういう風にやるのかに置き換えれば、それはそのままケース会議である。やったことを語れるのは経験者だけである。

本当にテクニカルな部分については、それこそカリキュラム論や職業訓練のプロの領域だし、何より具体例がないと、分かりづらい。今日の研修では、12÷3をどう教えるのかみたいな話が出たけど、それはかなりの部分はテクニカルな領域。ちなみに、私は具体的に「みかん12個を3人で分ける」「たこ焼き12個を3人で分ける」を考えさせるでした。その含意は長くなるので、今日はやめておきます。


福祉国家と総力戦が密接に関係していることは、よく知られているところです。戦時体制とは何かというのは、1990年代くらいに1940年体制論とかそのあたりで注目されたことがあったのですが、一般にはその後、どんどん関心が薄れていった分野ではないかと思います。

欧米の国家社会学では、わりと近代国家の形成そのものと戦争の関係を議論してきていてそれはすごく示唆深いのですが、日本の場合、短期間にいろんなことをバッと進めたがゆえに、いろいろな文脈があるなあと考えています。戦争そのものでは戊辰戦争とか士族の反乱も重要なわけですが、その後、日露戦争をきっかけに国民意識の醸成が目指されていきます。有名な戊申証書です。たぶん、山室先生の『日露戦争の世紀』なんかが代表ですが、この点で第一次世界大戦前の日露戦争が日本にとっては総力戦のインパクトがあったということを強調されます。おそらく、実証的に間が飛ぶので禁欲的に書かれてはいますが、古典中の古典になった宮地正人先生の『日露戦後政治史の研究』も問題意識としては戦時期まで見通されていると思います。私も国民国家の形成という意味では、日露戦争重視する立場です。

でも、実際の総力戦は第一次世界大戦のヨーロッパで行われるわけで、いろんな政策とかはここで実践され、議論されます。日本もこの時期に総力戦の準備を始めるわけですが、そのことと、1930年代以降の戦時期は区別されなければなりません。私は個人的には、満州事変から第二次大戦までをつなぐ15年戦争史観というのには立たないのですが、仮に15年戦争といって1930年代を重視するにせよ、1910年代と1930年代の間、いわゆる戦間期!の1920年代をどう理解するのかということが重要になってくると思います。

この総力戦体制、実は陸軍はあまり具体的なプランがなく予算請求するものだから、大河内正敏先生に貴族院で叱られるわけです。大河内先生は大正6年の時点で農商務省の視察団で総力戦を観察してきますから、当時の権威です。大河内先生の批判は、軍備をそろえるにせよ、それを可能にする経済体制をちゃんと作らないと話にならない、ということですが、もうね、ぐうの音もでない。このあたりは私、一応、論文の中で詳しく書いたんですけど、まだ自分でもまとまってないんですよね。

大河内先生のアイディアは徐々に官僚のなかに受け入れられていくんだけれども、それは戦争を起点としてというより、経済体制の立て直しという面で、むしろ、直接的には大戦不況とか、昭和金融恐慌とか、昭和恐慌とかの不況で農村が疲弊していく、そういうプロセスが重要だったのではないかと思うのです。それ自体が戦争の原因になっているというのは、226事件をみても否定しがたいと思うのですが、戦時総力戦体制みたいに捉えるのがよいかどうかはよく分からない。農村の近代化の一つの解としての農村工業化は総力戦体制と独立しても提起されていたようにも思うんですよね。歴史にifはないので、難しいですが。

ここらあたりを研究史との関係で書ければいいんですが、既にして社会政策から遠く離れているというか、私は分かっていますけど、そういう世界から遠い人にどこまで説明を加えて行けばよいのかは難しいところです。私、研究史とかも、正道の研究史をレビューしないで、その横で重要なことを指摘してきた人たちの一群を注で紹介したりするのが好きだったりするからなあ。そんなことをしているので、もっと親切に書けというもっともな指摘を友人からもらうわけですが。。。まあ、マニアックな研究史トリビアみたいな注は控えるようにします。もう終盤ですけど。
今、書いている本がいよいよ医療にも関わって来るので、復習がてら引越以来あけていなかった段ボールを開けてみたところ、二箱しかないのに、なんでこんなに多岐にわたる本を集めてるの?という思いに駆られる。大変じゃん。

社会政策における医療が重要なことは誰も否定しないと思うんだけれども、医療は医療で独立した領域なので、社会政策としての考察というのは意外とされてこなかったのではないかと思っている。これは猪飼さんが『病院の世紀の理論』で書いていることなんだけど、猪飼さんの先行研究整理ってきれいにまとめ過ぎていて、文献等をちゃんと丁寧にあげないので、よく分からないことが多い。読んでないのではなくて、あげられていないことが多い。人のことは言えないけど。

一応、大雑把にどんなことを考えとけばよいのか、ちょっと整理しておこう。誰でも、考えそうなところは、

1 社会保険としての医療
2 医療供給の問題
3 医療の福祉化、ないし高齢化社会における介護とのかかわり
4 公衆衛生

あたりだろうか。このうち、3は1970年代以降のことだし、専門家がたくさんいるので、触れなくてもいいかなと思う(というか、正直、1970年代以降のことは別にもう一冊書かないといけないことが多い気がしている。書かない気もするが)。

1も専門の研究がいっぱいあるので、それに乗っかって、整理すればいいんじゃないかなと思う。というより、医療として、という括りではなく、社会保険全体の歴史的考察が重要だと思っているのだが、それは明らかに私の仕事ではなく、中尾友紀さんにあと15年くらいかけて仕上げて欲しい仕事である。本にもそう書いちゃおうかな。もっとも、私が書く本より、ここを読む人の方が多そうだけど。あ、でも、おそらく本人は嫌がるだろうけれども、わざわざ書いているのは、その力がある人だと信じているからです、念のため。

医療供給の問題は、いわゆる「医療の社会化」問題と関連して、蓄積されてきた。これがいわゆる社会改良思想とともにあったことはたぶん、誰も否定しないと思うんだけど、その戦後の担い手だった革新が弱くなってくると、こういうところも弱くなってくるよね。とりあえず、青木郁夫先生の大著がその一つの集大成だと思う。思うけれども、もちろん、それだけじゃない。これ、担い手論にもなってきて、そうなってくると、社会をどう理解するかという問題と表裏一体をなしていくことになる。ここの話は重要だけど、そこは論点が行きつ戻りつになるから、うまく触れられないんだよね。

この供給問題に触れるときに、避けて通れないのは、皇室の存在。まず、赤十字と済生会は見逃せない。これ、昔の講座派よろしく天皇制絶対主義的に理解する人もいるけれども、その起点になった戊申証書もね、大半は反対で、これは平田東助が押し切ったものだからね。そういう文脈も横目に入れながら、この問題は考える必要がある。済生会は医療でもあるし、貧困でもある。そして、その先には岡山の先駆的な方面委員の話がある。皇室と医療、社会福祉は重要。それから、日本の寄付文化とか、ノン・プロフィット・セクターのあり方を考える際の役割にも重要。革新側からだとここが見えなくなる。それと赤十字については、ILOに先駆けて、国際的活動だったということは無視しえない。有名な昭憲皇太后基金についてもここで出てくる。

公衆衛生の成立みたいなことに関しては実はよい本が二冊あるので、それで何とか整理できる。一冊は衛生の専門職の誕生みたいな話。

ここで出てない話で重要なのは人口政策とのかかわり。これをどう描くのかというのは、優生社会みたいな話があって、その派生としての家族計画みたいなところまでつながっていく。まあ、人口政策についてはあまりよい概説書がない。ここは仕方がないから、私が一次資料にあたって考えて来たことを少し出していくしかないだろう。

なお、文献名をエントリであげてないのは、別に隠す意図があるわけじゃなくて、単に面倒くさいだけです。これはあくまで私のメモなので、私的には細かい出典よりも、どの部屋のどこに置いてあるかと、文献リストに加えたっけ?とかいう方がはるかに重要なんです。初心回帰。



この一年間、明らかに比重が教育よりになりました。それは私の大阪での人脈がそこから始まったということも大きいと思います。ただ、ここに高齢者問題以外の多くの問題が集約されているなあとも思いました。同時に、やはり教育機関に勤めていることもあり、ここで実践として何が出来るのか、ということを考えているからでもあります(それはまだお話しする時期ではありませんが)。

現場に出て行って、大学の先生という形でお話しするのではなく(あまりこういうのは好きではないのです)、一参加者として話すという段になると、やはり自分の来し方、そう学校生活とは何であったのかということを考えざるを得ません。自分だけそこから逃げるというわけにもいかないからです。

私は今は特に高校までの学校生活に思い残しのようなものはありません。楽しい思い出もないではないですが、どちらかというと、気持ち的にはしんどかったなあという思いがあります。良かったのはこんなに適当でもいいんだというのを同級生と一部の先生が実践してくれていたことでしょうか。ただ、ゲームにはのめりこんでたし、あれは今から考えてもあまりよかったとは思えません。

今のゲームと昔のゲームでは全然違います。ちょうど、1990年代に格闘ゲームがゲーセンで流行って、私はその最後の世代でしたが、ゲーセン自体がその後、アミューズメントパーク化していきます。プリクラとかが出てくる時期です。その頃の家庭用ゲームはあくまでゲーセンの練習用でした(言い過ぎですが、私たちにとっては)。私は大学に入ってから、ほとんどゲームをやらない時期が長かったので、その後の経過はよく分かりません。やめたのはなんでこんなことやってるんだろう、勉強しなきゃと思ったからです。古い世代の私からすると、たとえばRPGでグラフィックがきれいになっても、プレイよりもエンディング時間がやたらと長いとかに違和感も出てきました。その後、世の中はインターネット、というより、回線が強化されたので、オンラインゲームがはやります。オンラインゲームは、単にゲームとしての機能だけではなく、そこに付随する人間関係のコミュニケーションもあります。

私自身、ネットの世界も長いですし、オンラインゲームをやっていたこともあるので、多少は分かりますが、ネットの人間関係はオフラインの人間関係とは違います。あえて、リアルという言葉を使わずに、オフラインという言葉を使ったのは、私は現実の世界の人間関係がリアルだとはあまり思ってないからです。というよりは、むしろ、虚飾にまみれていると言った方がよいでしょうか。きれいな言い方をすれば、オブラートに包む、ということが美徳とされる世界です。学者の世界はそれでも多少、少ない領域があるかなとも思いますが、そうでない汚い世界もたくさんあります。でも、ネットの世界はテキスト情報がメインなので、その細やかなやり取りで、オフラインの世界だと騙されてしまうようないろんな情報がない分、その人の本質的な部分が見えてしまうことがあると私は実感として思っています。その人の汚い本性も、時には普通の社会では素直になれないその人の良質な部分も、ネットを通じて垣間見ることがあるでしょう。

子どもの話を聞くと、大人よりもよく人を観察しているなと思うことがあります。それはあくまでネットという環境が与えたものでもあります。こういう、インフラが全然違う世界の中で、今の子どもたちと私たちは生きているんだということからしかスタートできない。私はまだ何が正しいのかということを断言できるほど、自分のもとに情報量があるとは思っていません。複雑な状況のなかで物事を考えていかなければならないなと思いを新たにしました。