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いつもやっている学習支援の研修で、性教育の問題を扱うことになった。最近はFacebookに友達限定で書いているので、そこから、引用しよう。


性教育にかかわるテーマ。今年は社会政策で保健室のNさんに話してもらったら、大学生も結構、ストレートに刺さった。Nさんオススメのシオリーヌさんが書いた本、CHOICEはメッチャ良い(勧められたのはYouTubeの方だけど、まだ勧められたときは出版されてなかった)。普通の意味での性教育の教科書はこれで十分じゃないかと思う。

ただ、実はここから先は社会科学の領域になって行くんだよね。家族観とか、文化観とか、そういうものが関係してくるから。ここから先、私が書けるのは、人口政策の家族計画の話と日本的雇用慣行、それから性別分業の話くらいかな。この話、もっとも最近だと、広瀬先生の性教育政策の話にも関わってくる。そうすると、保守主義とかそういう背景も知る必要がある。あとシオリーヌさんの本でも、根幹に置かれてるコミュニケーションは、これはこれでめっちゃ深い話だからなー。身体的な境界線の話はいいけど、実は心理的な境界線の問題と切り離せない深い問題でもある。心理的な方では、ヘンリークラウドとジョンタウンゼントの境界線という本がある。ただ、身体との関係はあまり書いてなかったような気がする。

わりと暴力的なコミュニケーションが多いところで、ある子と仲良くなったことがあって、よく抱っことか肩車とかせがまれてたんだけど、ある日、私が彼の頭を優しくなでていつくしんでたら、急に他の人に対する身体的な接触が変わったことがあって、みんなで驚いたことがあった。その小さな男の子は別に頭で理解したわけじゃない。そういう他者との関係の理解の仕方もあって、バーバルなコミュニケーションや知識的なものだけだと、いわゆる腹に落とすのは難しいんだよね。ここら辺は本当に難しい。

この他、キリスト教のこととか、聖職者や教師の性犯罪問題とか、カーマスートラや房中術とかのテクニカルな話(方法というより歴史的な意味)とか、その裏にある哲学の話(ヨガもそれに入るときもある)、60年代のカウンターカルチャーまわりの中の話とか、あと言語における性の問題(ヨーロッパ語)、中国の陰陽思想とか、イスラムの話とか、まあでもこうやって広げると宗教の問題とかも結構知らなきゃいけないからなあ、それはそれで大変よね。多文化理解とかにもつながってくるからなあ。


私はもともと、紡績女工の研究をやっていたので、職場での男女別分業を取り扱うことがあったので、ジェンダー研究は関心を持っていた。だから、ここで書いていることはその時以来、考えていることを吐き出した感じだが、いろいろ忘れていることもあるかもしれない。ちょうど、このテーマだと赤坂真理さんが書いているというコメントをいただいたので、彼女の本を読んでみた。

赤坂さんが『愛と暴力の戦後とその後』を書いていたのは知っていた。この本が出版された頃、私はよく東京駅の丸善によく通っていて、そこで平積みされていたことをよく覚えている。あれは東日本大震災の後の高揚の中で、自分というものを見つめ直す本ものとして書かれたものだった。たぶん、どこかに買った気もするのだが、新書はほぼ実家に置いてあり、どうせ積読なので、この際だからKindleで買い直して、読んでみた。ただ、率直に言うと、ふーんという感じだなあ。これは東京の人が書いた本で、東京の人が東京のことを書いて、それが日本全体のことを語れると思ってしまうこと自体はいかにも近代日本的な問題を投げかけていると思うが、そういうメタ認知的な話は論点がそれるので措いておこう。文学畑の人の文明論は、私の好みだが、学者とが異なる系統で呼んでいる本の知識が雑学的に出てくる教養的なのが面白いと思うが、この本にはそういうところはほぼなかった。

そこに行くと、『愛と性と存在のはなし』はとてもとてもよかった。この本の白眉はほぼ元男性の友人との会話で、自分が感じたことから、広く世の中で言われていることからは自由になって、マイノリティもマジョリティも両方、それが何か理解されていないし、我々は理解しきれていない、というところに到達していく。そして、それは「存在」、英語で言う「Being」としか表現できない何かをめぐっての考察になっていく。この部分の原理的な考察をしている点で、私はこの本は、思想というか、哲学というか、どちらでもよいが、そういう領域の読むべきもので、やはり教育のスタートにはこういう理念的なものが重要ではないかと思う。

どこまでが性教育として扱うべきなのか、というカリキュラム的な問題はあるが、とりあえずその根幹に「愛すること」を置くというのは私の中でほぼ落ち着いた。それは第一に、自分を愛することであり、第二に他者を愛することである。その他者との関係において、多様性の容認、そこから感情的な面での受容を包含したディープデモクラシーにまで射程は拡がるだろう(後者は性教育でなくてもよい。人権教育でもある)。私がここで考えている「愛すること」は、仏教用語で言えば「慈」であり、キリスト教用語で言えば「(友)愛」であり、シオリーヌさんが根幹に置くコミュニケーションのあり得べき一つの形である。通常の恋愛で見られる愛着(これも仏教用語)はここでは除外して考えている。といっても、それを悪いものとして非難しているわけではなく、ただ根幹に置くわけではないという意味においてである。

じゃあ、根幹だから、たとえばカリキュラムを組むとして、その一番最初にその回を設けるのか、と問われればたぶん、否と答えるだろう。私はたまたま言葉として「慈」も「友愛」も知っていたが、言葉を知らなければ、それを知らないわけではない。たとえば、小さい男の子の頭を優しくなでるということに「慈」という表現を知っている必要はない。逆に、言葉として「慈」や「友愛」を知っていたところで、誰かを思い遣ることが出来ない、ということもあるだろう(これはむしろマイクロアグレッションまわりで考察されてきたことだと思う)。と思ったけど、最初の一回はワークとして「コミュニケーションとは?」の回を作ってもいいかもしれない。愛だとややこしいので、大事にする、という方がピントが合うかな。

性教育の根幹に置くのは、ここくらいで良いと思うんだけど、考察はもっと深めて行くことが出来る。愛、存在と来ると、次は生命そのものにたどり着くと思うんだよな。まあ、この辺もスタックしている本の執筆が終わったら、考えてみる。

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Aダッシュワーク創造館の高見館長が、Facebookで公共職業訓練について重要なことをつぶやいていらっしゃたので、ここでもシェアしておきたい。高見さんのつぶやきは、こちら。お願いして公開設定にしていただいたので、私も宣伝したい。

なぜ公共職業訓練の利用者が減っているのか、について、要約すると、次の二点を言われている。
1,必要な人に情報が十分に届いていない。特に、生活相談などは活況であるにもかかわらず、そこから繋がらない。
2,届いていても給付の10万円をうけとるのに、厳しい条件がついていて、これが避ける原因になっている。

この二つは一見、別の問題系だが、根幹では福祉的な視点が忘れられているという意味で通底している。要は、ワンストップの生活相談で積極的に職業訓練を紹介してくれればよい、ということで、具体的には、自治体ないしそれを受注しているNPOレベルでも相談員が相談の中で紹介するだけなので、仮に相談員にそういう知識がなかったとしても、短い研修のオンデマンドビデオを作ってもらって、それを相談員に見てもらうということでも事足りるだろうと思う。

2はこれは古い福祉のタイプで、要は懲罰型である。正直、今でも日本の福祉ではこういう発想が強い。ただ、これはもう少し弾力的な運用を許容すべきではないか。こうした処遇の狙いは、サボってカネだけ受け取る人の排除だと思うのだが、生活がきつい人たちは実際、家族のケアなどさまざまな要因で、真面目にやっていても、遅刻や早退せざるを得ないことがあるだろう。そういう人を排除するのは本旨ではないはずだ。これは現場レベルで、原則事前連絡、緊急の場合には事後連絡があればよいことにして、あとは現場に裁量をおろしてよいのではないか。

このように考えていくと、もっとも大きいのは1の方で、制度的にどういうことが出来るのかの説明の要領をまとめた短い動画、あとはもう少し余裕が合ったり、深く勉強したい人が見る用の職業訓練についての動画のようなものを作成できればいいのではないかと思う。コンテンツの方はプロの力が必要だが、編集にこだわれなければ、素人でもわりと気軽に出来るような気もする。あとはそれを各地方自治体やこうした事業を受注しているNPO等の人に広報していければ、いいのかなあと思う。

数日前、多様な教育機会を考える会で中田正敏先生のご報告を聞く機会があった。中田先生にはこの研究会でも午前中の読書会でご報告いただいたこともあり、そのときも刺激的だった。今回も議論自体はとても盛り上がって、よい感じになったのだが。。。個人的には、物足りないな、深く切り込めなかったなという感じが残った。

なぜ、そうなのかというと、中田先生は一方でアカデミックな文献も読みつつ、現場での課題を深め、その一方で現場に立てば、そういう舞台裏はあえて見せないというようなこともなさっており、そもそも中田先生の実践とは何なのか、どうアプローチすればよいのか、ということが私には見えないのである。

アカデミックな研究者の書くものであれば、ある程度、系譜探しをすれば、その人の発想の出自も分かる。でも、現場でものを考える人の場合、それはすごく分かりにくい。現場での経験とその刺激になる文献との往来で、しばしば文献同士のつながりなどには関心を持たないからである。アカデミックなものでも、学際的な領域ではこういうことは起こり得るが、それでも中田先生のような場合とは少し違う。系譜探しをするならば、ロシア思想を勉強しなければならないかもしれない。ただ、そこを掘り下げただけでも見えてこない気もする。

中田先生がよく引かれるエンゲストロームを少し勉強しようと思って引っ張り出したんだが、教育といっても心理学、次のFrom Teams to Knotsを読むと、これはどちらかというと、労使関係論がベースになっている領域。ということは、経営学や工場管理とも縁が深い。彼が成人教育の担当部署に所属していることとも関係している。実際、私は当日、わりと労使関係に似てるなあと思って聞いていた(そこがホームグラウンドの一つなので。ってここを読む人はみんな知っているか)。それから、中田先生といくつかのやり取りの感じでは組織論的な造詣も深そうと思ったんだけど、そこらへんはよく分からなかった。私も最近、やってないからなあ。

先生はおそらくアカデミックな背景をもっている人が多くいるので、ご自身の背景的な話も出される報告をなさったのだと思うけれども、では、エンゲストロームを勉強すればそれが分かるかというと、そうはならないだろう。問題は、エンゲストロームなり、なんなりをどのタイミングでどう利用して、そこでどう考え方が深まったのかということである。多くの現場の人は、その実践に比して自分の言葉を十分に持ち合わせないけれども、それはこれだけ博識な中田先生でさえも同じことである。場合によっては労使関係関連については私の方が詳しいこともあるだろう。でも、だから何?という話なのである。問題にすべきなのは、たとえば中田先生にとってエンゲストロームの書いたものがどういうタイミングでアンテナにひっかり、それをどういう風に使ったのかということなのだと思う。その使うときに、エンゲストロームなり他の思想家が意識的、無意識的かを問わず前提としてきたことがどう先生に影響を与えたのか、ということは考察する価値があるだろうが、それは最重要トピックではない。

なんでこんなことを書くかというと、優れた実践の成功事例は「結局、他の人にはマネ(コピー)できないよね」ということになりかねないのだが、その学習プロセスを学ぶことによって、自分の学習プロセスに刺激を与えることは可能だろうと思っている。ただ、アカデミックな研究者というのは、全体を俯瞰するというよりも、自分の問題意識を深める刺激を与えられれば、それで満足というところがあり、しばしばよい研究会というのは、多くの参加者(研究者)がそれぞれの問題意識を深める刺激を与えられた会であったりする。今までの私はわりとそれで良しとしてきて、なんなら研究者ならば、その刺激を受けることが出来ない方が悪い(日ごろからアンテナを立てられていない)と思ってきたのだが、私たちがRED研で目指してきたことは、きっとそういうことだけではダメなんだろうなと思う。今の私の勘では、純粋にアカデミシャンとして楽しめてしまう会は警戒しなくてはというところだろうか。

実践というのは軸を欲するタイミングがあり、それが歴史だったり、思想だったり、何でもよいのだが、知的なものに求められるタイミングがある。他方で、それを全部、忘れなければならないタイミングもある。アカデミックな関心はどうしても前者の側面に注目しがちだと思うが、実はこの両輪、特に両者をスイッチングをしている意識が大事だと思う。ただ、これは実は本人でも分からない。私はたぶん、自分でも意識的に結構、やっているが、それでもいつどうやってと聞かれたら、すぐには分からない。ほぼ感覚でやっていて、意識化するのは難しい。少なくとも他者の力は必要だろう(たとえば、誰かから尋ねられるというようなきっかけ)。ここのところ、もう少し自分で意識して、いろいろ深めていかなければならないなあ。

全然、まとまっていないし、言葉を尽くせていないが、なんとなくモヤっと感はこの文章でも表現できているだろうか。

2019年はILO(国際労働機関)、そして大原社会問題研究所が設立されて100年にあたります。大原は長くILOの活動を紹介するシンポジウムを毎年、東京で開催してきました。今年は100年を記念して、大原社研が設立された大阪で開催されることになりました。案内は以下の通りです。

第32回国際労働問題シンポジウム ILOと日本

大阪市中央公会堂 中集会室
11月11日(月) 13時30分~16時

1910年代後半から世界的に、社会労働政策が発展してきました。特に第一次世界大戦がその後の秩序形成の中で重要な転機になりました。ここで最初の国際機関である国際連盟が作られ、ILOもそれに連動して作られたのです。ILOは今でも政労使の代表が送り出されて年に一回会議をします。

大原社研の初代所長・高野岩三郎は、1919年当時、東京帝国大学経済学部(今の東大)の統計学の教授で、日本でもっとも早い時期に労働組合を作った高野房太郎の弟だったこと、また友愛会(その後の総同盟、同盟)の創設者鈴木文治が東大法学部卒業者(彼が在学中は経済学部も法学部から独立していなかった)であったこともあり、その支援をしていました。しかし、第一回のILOの労働者代表選出の際に、高野が選ばれそうになったところ、労働者から大きな反撥があり、それを辞退せざるを得ませんでした。その後、高野は大原孫三郎の誘いを受け、大原社会問題研究所を作り上げていきます。

1920年代以降、日本の社会労働行政はILOの動向を横目に見ながら、展開してきました。その過程で作られたのが労働組合、経営者、政府で構成された協調会です。最初の数年こそ労働者代表選出問題で労組は協力しませんでしたが、関東大震災以降の支援活動をするなかで、総同盟は現実主義を前面的に押し出すようになって、ここに参加します。この協調会には内務省OBの大物も結構関わっていて、一部内部資料も残していました。協調会は戦後、GHQによって解散に追い込まれますが、その教育機能の一部が法政大学の社会学部の母体になります。大原社会問題研究所も戦後、法政大学の一機関になります。その縁もあって、大原社会問題研究所には協調会文庫があり、その一部には戦前のILOとも関連する資料も含まれています。

自分で書きながら、説明が難しくて、あまり魅力的な宣伝になっていない気もしますが、個人的にはメッチャ楽しみなイベントでもあります。大原のメンバーも来ますので、タイミングが合えば、いろいろ紹介しますので、大阪近郊の方、ぜひいらしてください。そして、今回の会場になる大阪市中央公会堂はなかなか入れませんから、そんなところに興味がある方もぜひこっそり参加なさってください。

ご参加される方は、

 oharains@adm.hosei.ac.jp

まで「お名前、所属、連絡先」を書いてご一報ください。
申込期間は過ぎていますが、まだ枠が残っているそうなので、ご検討いただけたら幸いです。
どうぞよろしくお願いします。
この二週間くらい、ちょうど学会の二次会(MさんとSさん)、この前のAダッシュの講座、今日のMinamiこども教室のボランティア研修会の三つを聞いて、いろいろ私の中では整理できたので、ここにまとめておきたい。というか、本当は明日の「社会政策」の講義の準備をするために泣く泣く懇親会をあきらめて帰って来たんだけど、このテーマはそこにもつながるし、また、書いとかないと忘れるので、まとめておこう。

教育にせよ、支援にせよ、あるときに権力(言葉が強ければ、単にパワーでもいい)を使わなければならない仕事の場合(今日は面倒なのでケア的教育で一元化しておく)、そのことに何のためらいもない人は、実は対話可能性が低い。現場にいると、こういう人は少なくない。教員、相談員(役所の人も含む)でもそうだろう。本当に重要なのは、コンパッション、他者を受け入れる力である。人によっては愛という人もいる。これをちゃんと持ち続けられる人は意外と少ない。

こうしたビーイング、あり方の問題においてなかなか他者(権力を使うのにためらいのない人)をコントロールできないし、またすべきでもない。あるときにその大切さを気がつくのを待つほかない。でも、逆に言うと、このコンパッションを持った人はとても貴重である。特に現場の人こそそういう思いを持っているので、勢い強調点はここになる。

もう少しテクニカルなことを言うと、コンパッションは基盤となるもので、その上にテクニカルなことが来る。会話の仕方を含めたコミュニケーションの取り方、教え方などである。テクニカルな不足分はコンパッションで超えていくことが出来ることもあるし、それどころかテクニックがないことがコンパッションを育んでいく、そういうきっかけになることさえもある。

ただ、コンパッションとは別の次元でテクニックがあることも事実で、それをないがしろにしてはいけない。テクニックよりもコンパッションが大事だと、ベテランの教員や支援員が言うときに、実はこの点が見逃されている。というよりも、おそらくは本人もこの違いを意識していないのではないかと思う。

ケア的教育には、どこまでいっても、完全な正解といったものは存在しない。根幹のコンパッションを忘れないように心を尽くして、少しずつ経験が積み重なって、それが自信として積み重なっていく、というのが普通のパターンだろう。このときたしかに重要なのはコンパッションなんだけど、その経験を共有できないかというと、そうでもない。また、経験のなかに埋め込まれたテクニックを使うことで自信を深め、よりコンパッションを深めることが出来る。

人間は決して完ぺきではないので、完全な愛情を示すことは出来ないけれども、それでも不安があると、相手には愛情とともに不安も伝わる。ケア的教育や支援において重要なことは、相手が安心感を得られることで、それは見守っていることであったり、そういうことを通じて受け入れられていると感じられることであったりする。愛情深い人の場合、コンパッションが足りないということはほとんどないが、経験やテクニックが足りないということはあり、それがコンパッションが深いゆえにその人を不安にさせることがままある。こういうときに、コンパッションがあるから、愛情があるから、それで十分なんだというのは適切な答えではない。

では、先人の経験やテクニックをどうやって学んでいくのか、ということになるが、その前にテクニックが二種類あることを考察しておく必要があるだろう。本当にテクニカルな教授法と、コンパッションと切り離すことが出来ないテクニックである。後者は徹底的な「ケース」を聞いていくしかない。具体的な場面で、どういう状況認識をして、どういう風にやったのか、というようなことであり、どういう風にやったのかをどういう風にやるのかに置き換えれば、それはそのままケース会議である。やったことを語れるのは経験者だけである。

本当にテクニカルな部分については、それこそカリキュラム論や職業訓練のプロの領域だし、何より具体例がないと、分かりづらい。今日の研修では、12÷3をどう教えるのかみたいな話が出たけど、それはかなりの部分はテクニカルな領域。ちなみに、私は具体的に「みかん12個を3人で分ける」「たこ焼き12個を3人で分ける」を考えさせるでした。その含意は長くなるので、今日はやめておきます。