『擬制の論理』は戦前と戦後初期の議論を中心にしていながら、それでいて、現在の問題意識を鋭く反映させた問題提起の書であるが、古いスタイルにありがちだったポレミークな装いをしていないため、その性格は見えにくい。それは本書が過去の論争を通じて、どちらかの立場に立つのではなく、その論争という舞台に照明を当て、演者を光らせることに徹していることから来る必然にも思える。私が『日本の賃金を歴史から考える』を書いたときも、左右の対立、労使の対立のいずれかに立つのではなく、それぞれの考え方が理解できるようにと配慮したが、こういう書き方は新しいということで、驚かれたことが何度もあった。実は、私の書評も同じスタイルなので、もっと自分の主張を前面に出すべきだと言われたこともあった。こうやって後から考えてみると、今は理念先行のイデオロギー対立の時代が去って、新しい時代が到来してきたのかもしれないという気がする。

擬制の論理で面白いのは、著者が考証を重視する研究についてよくよく知っていて、それを限定的に使っている点である。2002年に羽生辰郎『マックス・ウェーバーの犯罪』という本が出て、ウェーバーをめぐる論争が活況を呈したことがある。ちょうど私が大学院生になったばかりの頃で、何しろドイツ語が出来ないので、その決定的な判断が出来ないため、丁寧に論争を追うことはなかったが、論争が展開される風景は興味深く眺めていた。考証による事実の訂正と、それに対するイザコザというのは、わりとどこでも見る風景であるので、そのことにはここでは触れない。ただ、私の周りではもともとウェーバーの考証については椎名重明先生の研究があり、そういうものをすっ飛ばして、あたかも世紀の大発見をしたかのように言うことに疑問を持つ声があった。丸山眞男についてもほぼ同時期に似たようなスタイルでの研究が出た。安川寿之輔の『丸山眞男と福沢諭吉:「丸山諭吉」神話を解体する』である。私も20代の頃は、歴史研究者として、資料の正確な読解による考証ということに惹かれていたので、考証によってことの成否が決まると考えていて、その文脈でポパーの反証可能性の議論をよく聞いた。

ただ、もう一方で歴史研究においても、その研究者は自らが生きる時代から自由ではない、ということも聞いた。このことを仰っていたのは武田晴人先生で、日本経済史研究の研究史を勉強していく中でそういうことを学んだ。現代の問題意識と歴史の関係という点では、カーの『歴史とは何か』岩波新書を誰しも思い浮かべるであろう。この点では今年亡くなった安丸良夫の民衆研究もそうであったと思うし、よりナイーブに自分との語りという形で展開して見せたのが阿部謹也と言えるかもしれない(『自分のなかに歴史を読む』)。だが、武田先生たちの世代は、講座派的な運動的志向を持った先輩たちに、史料が語る事実をもって反論してきた、すなわち、客観的志向が強かったにもかかわらず、その時代から自由ではないという点がカーたちとは違う。そこが面白い。

山内史朗『誤読の哲学』という本があって、哲学者が過去のテキストを誤読、もっと言えば意図的に文脈を切り離したり、読み替えたりするなかで新しい哲学が展開した、ということを描いている。この文脈の読み替えこそは、その時代に制約された問題意識を反映している。丸山のように同時代人たちに大きな影響を与えた人物は、その読み替え自体が研究対象であり得る。これは丸山門下の松下圭一や堀尾輝久についても同じ事が言えよう。

そうやって考えていくと、松田先生の丸山分析は、丸山の読まれ方という時代的な問題の剔出と、フィクション(虚妄)という着眼への評価の二点に特徴があるといえる(前者は5章、後者は6章)。ただ、とりわけ後者の読み方については、丁寧に丸山の着想になったであろう先行研究が検討された上で分析されているのだが、松田先生によるフィクションではないかという気も実はちょっとしている。もちろん、それを判定するには本文および注で扱われている文献を再検討するというのが学問的手続きであるのだが、私は別に当該分野の研究者ではないので、どちらでもよい。しかし、あえて私の希望を言うならば、フィクションという概念を巧みに使ったこの研究がその主張自体もフィクショナルな性質を持っていて欲しいと思うのである。それもまた思想と言えるだろう。
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松田宏一郎『擬制の論理』を読み始めたら、面白い。少しずつ考えておいたことをメモしておきたい。というか、本当はこのブログはそういう趣旨で始めたものだし。

まず、「序」から始めたいわけだが、この短い間のなかで深く検討すべき論点が既にたくさん含まれている。松田先生の立場は、きわめてプラクティカルである。真理に到達する方法など確立されていないのだから、セカンド・ベストであっても現実的な「擬制」を利用するということが重要である、というものであろう。

冒頭、イェーリング、ブラックストン、ベンサムの言葉が比較されているが、ブラックストンはコモンローを重視した人で、ベンサムは制定法を重視した人と言えるだろう。大まかに言って、最初の二人は自然な法(ロー)の発見を重視、ベンサムは人為的に制度を設計するのを重視、と分類していい。法の発見というときの法は絶対神、ないし絶対的な法則と言い換えてもいい。その方法はないので、セカンド・ベストとして擬制を重視するという話である。これは西洋で発達した統治技術で、日本でも明治以降にこういう問題を取り扱わなければならなかったということである。

どうも松田先生の論の運び方を見ていると、擬制には政治的とつけてやや厳密に理解した方がよいのだが、政治的から離れても通用するような一般的な理解でよい場合をちゃんと意識しているな、というところがあって、そこのバランス感覚は絶妙である。たとえば、荀子と徂徠の「道」概念が出てくるのだが、この例示がもし老子だとうまくいかない。老子は言葉で言い尽くせない「世界、ないし宇宙、ないし存在の法」のようなものがあって、名前のつけようがないけれども、とりあえず「道」と呼んでおこうといって議論が始まる。荀子、徂徠の議論も当然、これを踏まえているのだが、礼楽刑政まで来ると、ぐっと政治的擬制という意味合いが強くなる。松田先生の言う徂徠の意図は制度は正しい道に則って運用されなければならないということだろう。だが、「道」の考え方は、キリスト教でいうところの否定神学における「神」の扱い方に近いので、具体的にどうやるかは別にして、自然法のような形で展開して、法思想になってもおかしくないのではないか。というところに、深入りしないのが松田流である。これ、突っ込んでいくと、普遍論争のような話になる。というところから話を展開してもいいが、名前が何を表すのかというのは、この本の次の展開として、作られた擬制がどのように機能するのか、ということは当然、次に考えられるべき課題になってくるだろう。

ロミオとジュリエットに出てくる有名なジュリエットの「バラの名」の台詞がある。モンタギューの名がなんだというの、バラをバラと呼ばなくても甘い香りがするじゃない、名前なんて意味がないわ。という内容である。その一方で、名前そのものがその人の記憶や存在そのものを表す場合もある。2016年に大流行した「君の名は。」にもそのモチーフがあるし、歴代興行収入トップの「千と千尋の神隠し」にも実は同じモチーフがあった。名前を奪われると、その存在までも失われるのでは、ある機能に名前をつけましたというような、ただ(唯)の名前だというわけにはいかない。というか、日本の神話的世界ではわりと王道である。では、こういうところをどう考えていくのか、というのは問題としては面白いが、面白いのでまた取っておこう。

とはいえ、方法が確立されていないので、それを有用性において割り切って利用しようという発想は、きわめて日本的な解かもしれない。この点では松田先生の立場は尾高朝雄の「法哲学における形而上学と経験主義」にも似ている。尾高は経験というのは未熟なもので、だからこそそれが修正される点を重視する。そして、その考察を進めて現象学にたどり着いていって、それはそれでよいのだが、実は方法がない、と言っていたところがそうじゃないという立場がある。簡単に言えば、秘教、行の伝統である。近代ではもっとも有名なものの一つは、スピリチュアル界隈では「いか超」という略称で呼ばれるシュタイナーの行論であろう。まあ、人間が一人残らず、覚者になれば、擬制などはいらないかもしれないが、思考実験としてもあまりに現実から遊離しすぎている。結局のところ、「擬制」の作りものの性格(これはだから偽りであるとは限らない)を前提にするというのは、プラグマティックではないかもしれないが、プラクティカルには有用であり、私もすごく共感する。
夏に東京ブックフェアに出かけたときに、あまりに面白そうだったので、衝動買いした本。博士論文を本にしたもので、おそらく近代日本思想史において今後、必ず参照されるべき研究と言えるだろう。前川さんは島薗進先生のお弟子さんということだが、先生の問題意識を少し違った角度から継承し、発展させている。前川さんがこの研究に取り組んだきっかけは蔵書整理ということで、そういう資料との邂逅体験というもの、よい歴史研究ではよく見られることのように思う。ともかく、このような形で師弟で学問を進めるというのはなかなか珍しいのではないか、と感じた。

この本は「宗教」概念をめぐる議論、すなわち宗教論が、人格陶冶を導いて、それが国民統治の道具たる国民教育へと展開していく過程を描いている。と、普通だったら、これだけでも十分に博士論文になると思うのだが、前川さんの場合、それは第二期の段階で、その幸せな国体論と宗教論の結びつきが破綻していく第三期(昭和十年代)まで描いている。前川さんが直接の先行研究として検討しているのは宗教学と教育学がメインだが、ざっくり言って、統治論、政治思想、法思想のような国の上の方での議論に関心を持っている人は、分野が多少違っても、必読の文献になっている。時期的に見ても、島薗先生の『国家神道と日本人』が教育勅語で終わっていることを思い出すと、まさに正統な継承者といえる(もちろん、島薗先生の仕事はこれだけにとどまるわけではないが)。

ざっくりとした感想だけれども、やっぱり明治期の日本というのは、貧しい中で無理して国家に学問させてもらっているという意識があって、だからその成果をなんとか還元しよういう気持ちの人が多いんだな、それは分野を違えても同じなんだなというのがまず浮かんだ。その意味では第2章でイノテツ(井上哲次郎)、第3章で姉崎正治という形で人物をベースにして、その対立者をうまく登場させた思想史研究で、第4章以降、宗教学の枠組みがどのように国家教学、国民教育として展開していくのかをマクロ的な広がりで捉えていて、これは構成と手法の組にみ合わせの妙だな、と唸るほかない。お手本というべきであろう。

この本が明らかにしたことは、人格修養主義がどのように登場してきたのかということを「宗教」をキーワードに見てきたことであろう。これは大正教養主義から戦後啓蒙主義までを理解する上でのカギになるだろう。本書でいえば、第1期から第2期にかけての基盤を明らかにしたと言える。ただ、第2期から第3期への移行については、やはりメインは社会科学、とりわけマルクス主義の影響を看過することはできないと思うのだが、この点はやはり十分に検討されているとは言えない。宗教、国体という明治期の枠組みの展開でこの時期を乗り越えるのは難しいと言える。T・H・グリーン思想を自らのコアとして鍛え直そうとした大正教養主義の申し子河合栄治郎は、宗教とは距離を置いたが、マルクス主義への対抗を思想的立場として置いていた。

1920年代以降、神道、仏教、キリスト教の社会事業は華々しく展開するのだが、それでもなお、社会問題を全面的に解決するようには見えず、多くの若者たちを魅了していったのはマルクス主義であった。マルクス主義こそが社会問題を全面的に解決するように信じた人が少なからずいたからである。分かりやすく言えば、人格修養主義では河合栄治郎は相当に努力したにもかかわらず、思想善導が実現できるとは思われなかったのである。1920年代から徐々に自然発生的に出てきて、1930年代に大々的に展開する日本主義はマルクス主義の影響から自由ではない。あとは大谷さんの日蓮主義運動も重要な導きになるはずである。

もう一つは、人格主義と人物論についてだが、カーライルの英雄崇拝はたしかに影響力が大きかったというのは私もそう思うけれども、より視野を広げてみると、いくつかの疑問がある。戦前期の人物論はゴシップが多い。このゴシップへのカウンターパートとして理想論が必要だったという面があるのではないか。さらに、宗教学の影響がどれくらいあったのかもなかなか難しいところではないか。多くの人々は今でも厳密に物事を考えたいわけではなく、適当に考えたいのである。そういう人たちを魅了するのは、方便を駆使する法話であろう。要するに、この時代の講演は宗教者の法話的なものも含めて娯楽なのである。この辺のリアリティがやや伝わってこない感じがする。私はまさにこの時代の労務管理を研究していたので、そういう資料も読んでいるから実感としてそう思った。具体例を少し書こう。たとえば、全体的な方針としては教育重視、修養主義で婦徳が重視されているのだが、実際の講話とかだと、ダメな亭主を陰に陽に叩き直す話が喝采を浴びたりしているわけである。本当にありがたい法話というのはそういう娯楽性をうまく取り込んでいる。何が言いたいのかというと、宗教が人格修養に寄与すると考えられたから宗教者が利用されるというより、単に話が面白くて、ときどき難しかったり、素晴らしい人生訓が入ったりするから、場が持って重宝だったのではないかという気もするのである。もちろん、知識階級にはいかに生きるべきかというようなニーズもある。

そうすると、やはりテーマだから仕方ないけれども、国家と宗教を結び付けて考察しすぎている気がする。それが少し窮屈である。素人からすると、やはりここのところは別の何かで補わなければならないな。とはいえ、冒頭で繰り返し褒めたように、本格的な歴史研究で教えられることは多いので、ぜひ手に取られることをお勧めする。
友人の酒井泰斗さんの協力によって単著執筆支援研究会が始まりました(いつの間にか単著執筆準備作業進捗報告会になっていた)。三つが並行して始まっているのですが、とりあえず、私のものが見切り発車で先日、第一回が行われました。酒井さんのは論文だからというよりは、もうちょっと違う狙いがあるような気がするので別枠で、カウントしませんでした。

私の報告は「社会政策における医療」というタイトルでしたが、研究会でそもそも「衛生」の方がよいんじゃないかと指摘されたとおり、衛生行政から始まった医療と社会政策の関係を概観するという試みを行いました。取り組みを始めて、なるほど、この分野はすごく重要だなという思いと、これは自家薬籠中にするにはなかなか時間がかかるなという印象を持っています。面白いなあと思ったのは、日本の近代医療史の中では大きな足跡を残されたのは川上武先生、それから、佐口卓先生、野村拓先生がいらっしゃいますが、彼らは戦後の革新運動の中にいたんだなというのが実感されたことです。そして、1968年革命を通じて、フーコーもある意味では何か通底する問題意識を持っていたように思えたことです。医療まわりは、生命を媒介にいろんなところに展開していくので、こういうところとくっつけた方がいいなというアイディアもいくつかあるのですが、それはまだもうちょっと先にお話しすることにしましょう。

研究会は、内在的に、どうやったらまとまるかという点から議論していただいたので、今まで数年間、一人でバラバラにやって来たことが課題として少し整理された気もします。というか、最初の構想とは異なって、自分の中ではブラックボックス化していた二つ目の章の構成を考えるヒントをいただいたようで、その線で作業を進めたいと思っています。なぜ、こんなことをわざわざ書くのかというと、これは酒井さんとしても新しい企画で、こういう途中過程を私なりに記録したり、感想を残しておくのも意味があるかなと思ったのです。

私も藤原さんと畠中さんという二人と一緒に、大原社会政策研究会という研究会をここ2年間やって来ました(というか、藤原さんと畠中さんの情熱に引っ張ってもらっているのですが)。この研究会はややもすると、大学院生活のなかで閉塞しがちな若手を支援するために開いたものです。個人的には、もっと継続的にこの研究会を利用してもらって伴走型の研究会になるものと思っていたのですが、どうも継続的に出席するのが難しいからか、スポット的な報告が多いのです。もちろん、それでもその時点で自分に必要な使い方をしてもらっているのでそれで構わないのですが、もうちょっと連続的にやるとなると、別の仕組みが必要なんだなということも分かりました。今回の単著執筆支援研究会というのは、そういう意味で面白い仕組みだなと感じています。

アドバイスされる側に立って研究会をやっていただくと、よく考えてみると、いつも自分が言っていることがそのまま当てはまったりして、ああそうだよなあと唸ることしきりです。やっぱり、言うのとやるのでは違いますねえ。一番のポイントは、まとめるためには何を切り捨ててどこに集中するのかということで、とくに期限を切ったら、その中で何をやるのかということです。しかし、実際に自分が何かを調べ始めると、面白くなってどんどん調べるのを止められなくなってしまいます(不安になってという人もいるでしょう)。それはやらなくてもいいんじゃないか(次に持ち越す課題にするということも含めて)というのは大事な視点で、ここは人から指摘されないと分からないというか、見失いがちですね。

もちろん、やらなくてもいいというアドバイスを全部、受け入れる必要はないんですが、そのときにはそれに対してはなぜ入れなければならないのかということを説明する必要があります。そのプロセスは案外重要です。削れないというのは、自分にとっては重要だということで、つまりは核の部分を説明することになるからです。私の場合、社会運動を入れなくても、政策に主軸を置けば、いけるのではないかという話があったのですが、どうもことに戦後については政策形成に大きな影響を与える主体であった社会運動抜きにも出来ないと思っていて、そこで対象(何をもって社会政策と呼ぶのか)と主体の関係の説明という問題が出てきました。何を対象とするのかは数年前、学会で別の報告をしたときにも出てきた質問でした。

しかし、ここまで書いてて思い出したけど、6年前に書いた「日本における「社会政策」概念について」とも決着をつける必要があるだろう。
いやあ、すごい本だった。

ぱっと、手に取って、一瞬でよい本だというのは分かったけど、ちゃんと読んでみて、これは改めてすごい本だと思った。まず、本の作り手ということでみると、30名以上が参加して、これだけ統一感が出ているもの、そして玉石混淆なく、ほぼ玉しかないものというのはちょっと類を見ない。そして、これだけ重厚なのに1時間ちょっとでとりあえず通読できてしまった。それだけ読みやすいということである。ガイドブックで読みやすいというのは最高の評価である。

構成は1章が定義、2章が歴史、3章が活動の全体像、4章がナビゲーション、参照文献、年表、索引である。1章の定義は大谷栄一さんが単独で書いているのだが、これもしっかりそこが入っていて、見通しがよい。ざっくり言えば、理論化して考えられているということに尽きるのだが、その体系をビリーフとプラクティスという縦軸と、在家と出家の横軸による四象限の図であろう。ただ、教学と実践ならば、分かるのだが、ビリーフとプラクティスで分けられるのかというところもある。ここはシンポジウムのところで書いたが、結局、社会運動や政治運動と宗教体験は違う位相のものであろう。また、日本の近代思想においてはカール・レーヴィットの二階建ての思想という問題があるのだが、体験を伴う思想というのはそのような脆弱さを克服している側面がある。そうすると、脆弱なインテリ思想と比較したとき、宗教思想や哲学は違う意味を持っているのではないだろうか。ここのところ、碧海さんの『入門近代仏教思想』はよく踏み込んで書いてあると思う。ただ、ここであえて、仏教と限定しなかったのは、ハンセン病患者へ奉仕を尽くした岩下壮一神父などが念頭にあるからである。宗教をアヘンといったマルクスを起源にするマルクス主義が一種の宗教だと言われるのも、たぶん、この運動的実践志向のゆえではないかと思う。そして、近代日本における最大の運動志向こそは日蓮主義を研究してきた大谷さんが明らかにしてきたことと重なってくる。実際に、社会運動(史)研究は思想研究と切っても切り離せないところがある(道場さんにしても絓(すが)さんにしても)。

ビリーフとプラクティスの関係にこだわるのは、キリスト教においてはたしかに教義の体系化は重要だろうが、仏教にはそうではない考え方もあるのではないかと思うからである。むしろ、「知」が体験の邪魔になるということがあるのではないか。分かりやすく言えば、念仏を唱えるということで信仰を得るという教えが難しい教義を理解できない者に対するただの方便なのか、本当に信仰に至る道なのかということである。まあ、このあたりはじつはよく分からない。体験と理解が結びつくのならば、体験しない限り、分からない世界だし、だからこそ口伝のようなものもあるのだろうとも思うが、そうであれば、そもそも人文社会科学的な学問に合うのかという問題もある。そう簡単に割り切れない。

というか、本の紹介するつもりが余計なことを書きすぎた。

この本の特徴は、なんといってもそれ自体が学際的なことだ。大谷さんの宗教をめぐる定義、仏教の定義についてもそうだが、もともと西洋の仏教学において比較宗教学が大きな役割を果たしたこともあり、キリスト教や神道、(スピリチュアリズムなども含めた)新宗教なども目配りされている(藤本頼生先生も書いてる)。習俗のところでは民俗学や新宗教研究、社会史研究などの成果が取り入れられている。また、メディア研究が重視されているのも印象深い。メディア史と並行しながら考えると面白いだろう(労働運動史はこの視点がすこぶる弱かったし、労働運動もすこぶる弱い)。もちろん、文学研究、思想研究などもちゃんと入っている。そういう意味では、広く学際的な問題に目配りしたい研究者にとって、かなり役立つガイドブックではないだろうか。

もう一つは、人物情報が本当に豊富で、その掘り下げ方もポイントが効いていて、本当にマニアにはたまらない。たとえば、石原深矛(みよ)さんが書かれた女性仏教者では横浜の橘女学校を作った土光登美が出てきて、その息子が土光敏夫であると触れている。ああそうか、第二臨調の中心人物、目刺しの土光さんはそういう背景があるのか、とか。友愛会(後の総同盟)と深い関係にあったユニテリアンと仏教の関係とか。あと、哲学者とか、学者とか、仏教社会事業家とか、そことそこが繋がるんだとか、ああこの人はそういう人だったのかというような情報がたくさん。とにかく、ええ、そうなの?というのが目白押しだった。国学、神道でもこういうの作って欲しいな。

索引は人物索引と事項索引に別れているんだけれども、事項索引もほぼ団体名とかお寺の名前とか具体名ばかりで、それがこの本の二つ目の特徴を表していると思う。最初に書いたとおり、理論がないわけじゃないんだ。でも、そういうのは入ってこない。これは酒井さんが『概念分析の社会学2』の索引で実現したのとは全く逆の行き方(単にスペースが限られていただけとは言っていたけれども、結果的には一つの模範を示したと思っている)。この辺は徹底した歴史研究の特色がいかんなく発揮されている。

しかし、待てよ。これ、入門書にしてはちょっと敷居が高くないか、という気がにわかにしてきた。どう考えても中級以上じゃないかな。体系だって整理されているという点では、さすがに学者のプロの仕事だなと思うし、素人として私が積み重ねてきた知識がクリアに整理されるのは気持ちが良いけれども、なんにも知らない人には案内人(身近で質問することが出来る先生)がいないとちょっときついかもしれない。前に有斐閣の近代経済学的な『社会政策』を激賞しながら、ちょっとレベルが高いかなと書いたけど、それより要求水準が上だね。具体性が高い情報、人物だったり、宗派、学問の流派のつながりだったりを楽しむには、それなりに事前知識がないときついもんな。そう考えると、結構、読み通すのは時間かかるかも?でも、それを補ってあまりあるだけのリターンがあると思います。あ、リファレンス・ブックのように、読みたいとこだけ、拾い読みも出来るようになってます。