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今さらながら、必要があって新旧の教育基本法の冒頭を読み比べていて、気が付いたが、旧法は「勤労」という言葉に表されるように、学校に通えないで仕事に就いた若者が触れる企業内教育にも十分に配慮されていた。義務教育どころか、高校全入(もちろん、文字通り全員が行けるわけではないが)が実現された後の世界では、工場法を施行するときに企業内に学校を作ったり、学校に行きたかったけれども行けなかった勤労青年をどう支えるのか、という問題意識は、時代の推移の必然として消えている。戦前の企業内教育というのは、当然のことながら学校教育の動向を意識せざるを得なかった。これは戦後のある時期までそうだったと思う。ところが、高卒以降の若者を採用するということは、それがなお有効な意味を持っていたにせよ、企業から初等教育および中等教育の学校の教育への関心を薄めさせてしまう。少なくとも、主体的に自分たち学校に代わる意味での教育を担うという当事者意識は消えてしまう。

企業は自分たちの事業を遂行するために労働者を教育する必要が完全にゼロになることはない。加えて、従業員教育を社会的使命と考えている企業がないわけではもちろんない。しかし、社会の情勢として、企業が学校教育の役割を代替せざるを得ない状況下では、否が応でもその問題を考える企業の割合が多くならざるを得なかったのは当然であろう。

1990年代後半以降に企業内訓練にかける費用が下がったこと、そしてそれは不況の中で企業の体力が落ちているからとして説明されてきた。それはその通りなのだが、なんというか、政策的にも、OJTにせよ、OffJTにせよ、人的資本の枠組みだけ完結してしまいがちになってしまう。そうなると、費用対効果の文脈に、全部回収されてしまう。

もう一つ、企業が学校的機能を果たす必要がなくなると、企業の学校への関心というのは、採用だけになる。これも仕方ない。学校の代替的機能が求められていたときは、学校の中でどういうことがやられているのかについて関心も知識もある程度、用意せざるを得ず、そのことが企業内訓練にも多少、影響を与えたていたのではないかと思う。今のように人事のリソースがかなり「採用」に注がれるというのは、私には異常事態のような気がするんだけど、こんなこととも関連があるかな。

ちなみに、このエントリの趣旨は昔はよかった、という話ではないです。昔のように思い付きを備忘しただけです。今日はきまぐれにブログを更新したんですが、以前ほどではないけれども、ある程度、書くかもしれません。でも、前ほどサーっとは書けなくなったなあ(笑)。



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みなさん、大変、ご無沙汰しております。まだ読んでくださる方いるかな。

実は、コロナ禍になる前から連合総研の「障害者雇用と労働組合」プロジェクトにかかわってきました。夏くらいにその報告書が出たんですが、今週の金曜日、2022年11月18日13時にそのシンポジウムをやることになりました。今日はその告知とご紹介です。紹介ページはこちら

もっと早く告知しろよ、と我ながら思うんですが、いろいろバタバタしていて、タイミングを逸してしまいました。大阪に来てから実践ばかりに関心を持つようになって、全体的にSNSやブログを最近やっていないですしね。ちなみに、今、メインでやっているのはうちの大学内での学生支援です。こんなに遅きに失したタイミングで、それでも告知しようと思ったのは、障害者雇用について身近に考えることが、今週だけでも2件別々にあったので、今からでも意味あるかもしれないと思ったからです。

まあ、私のブログなので、少し楽屋裏をお話ししようかなと思うのですが、このプロジェクトは当初、一人一つとかの調査先を調査するという予定だったのですが、コロナ禍になってしまい、予定変更を余儀なくされました。しかし、逆に、オンラインでお話を聞くということになったので、私は全部の調査に参加できましたし、多くの先生もやはり同じように参加することが出来ました。全部のお話を聞けたことがとてもよい経験になりました。今回の調査は障害者雇用について労働組合の様々な取り組みを明らかにしたものとしては画期的なものではないかと思います。

私自身も自分のパートで普通の学術論文よりも絶対に役立つものを書けたと思っています。労使関係という視点から描いたんですが、連合総研さんからの依頼なので、当然、労働組合、それもナショナル・センター、産別、単組、それぞれのレベルで示唆を与えられるものを意識しました。具体的には、ナショナル・センター、産別では理念レベルでどう位置付けているのか、単組では相談支援事業の考察をしています。また、今回の事例では、協調的労使関係、つまり現場レベルで、現場、人事、組合が協力できる関係にあることが前提になっているので、人事の方も役に立つと思います。

眞保先生の総論、永野先生のフランスの動向、若林先生のナチュラルサポート、繩岡先生の従業員の意思決定、このそれぞれの論考も素晴らしいです。これは眞保さんと連合総研の人選の勝利だと思います。私自身、最近は学生支援をどうするか考えているのですが、相談支援に関わる人には役に立つなと思うので、送られてきて全然開けていなかったこの報告書を関係部署に配ろうかなと思っています。というか、今から行きます。

まだ申し込みできますので、この問題に関心があって、お時間の合う方はぜひご参加ください!

https://www.rengo-soken.or.jp/info/2022/10/191802.html?fbclid=IwAR0v5uST4KIXxmeT7JDFtGXTVIovc8VivEypx9-O-QNq8LxD-AP4Nm0iR2Y
このエントリは、新しい労働運動の可能性:教職員の声を集める、の続きです。

武田緑さんたちが始めた教職員の声を集め、それを政策形成に活かしていこうという試みのどこが新しいのかということを今日は考察して行こうと思うのですが、まだ応援していない方はあと二日ですから、ぜひSchool Voice Projectをお願いします!。こういうのは少しでも参加することに意味がありますよ!書いているうちに達成してしまった(笑)。

武田さんは、新著『読んで旅をする、世界の教育』を読んでいただくと、分かるのですが、彼女が大事にしたいと思っている教育に示唆を与える海外の事例を、実際、ツアーを組んで訪ねて行ったり、様々なメディアで紹介したりしてきました。また、私が初めて出会ったエデュコレでは、国内の様々な教育活動をしている団体が一堂に会する場を作ってきました。彼女には彼女の理想があって、その道を一歩一歩探しながら、歩いています。そして、ここが私が彼女を含め他の人たちと決定的に違う点なんですが、私はそういう理想を持ち合わせていないで、せいぜいが学生たちが元気で幸せにやってくれれば言うことない、と思っているくらいです。だけど、理想が高ければ高いほど、そこに到達できない苦しさも伴います。この本を読むと(正直に言うと、読んだ話なのか、聞いた話なのか、記憶が曖昧ですが)、武田さんがオルタナティブな教育を紹介しながら、実は学校というものを大事に考えていることが分かります。大事に考えているがゆえに、学校をもっとよくできる、そのために出来ることがこの活動なんだと思います。

この運動が従来の労働組合運動と異なることは前回のエントリでも書きましたが、この産業の労働組合は言うまでもなくまず日教組が出てくるわけですね。そして、この日教組は日本の労働組合の中では、やや異色な存在でした。それは労働者の組合でもあるんですが、何よりも教職という専門職の職能団体という性格を持っていたからです。私は別に日教組研究に関わっていたからそういうわけではなく、何人かの組合の友人から実感として聞いたことが私の中では大きいですね。曰く、連合になって総評と一緒になったとき、教育のことまでやろうとしていたので、驚いたというのです。総評では日教組は中核組合の一つですから、当たり前ですが、民間製造業出身の方からすると、教育問題は労働問題とは別なんですね。その日教組の特色の一つが教研集会を開催し続けて来たことです。

教師による教育研究というのは、私はおそらく明治30年くらいまで遡れると思っているのですが、普通は1930年代の教育科学運動くらいがその淵源と考えられています。ざっくりいうと、1920年代の新教育運動は世界的には第一次世界大戦期を契機とするデモクラシーの高まり、国内的には大正デモクラシーの影響を受けていると考えています。この後、第二次世界大戦をはさむことで、政府(保守政党と文部省)と教育現場(日教組)を上と下とみなす構図が出来上がって、下からということがとても重要になってきます。とはいえ、たとえば、生活綴り方(そして、そこを源にする日本の学校で習う作文)はそれを書く人の実感を大事にするものだったはずなのに、実際は大人が好きな表現の型が決まっていて、それに則ることで上(大人)から評価されるという捻じれたことが起こるわけです。読書感想文なんかでそういうことを味わった経験がある人は少なくないんじゃないでしょうか。まあ、でも、それは一応、今はカッコに置いておきましょう。

教師というのはどこまでいっても、生徒・学生に対しては、最終的に権力を持っています。それが何で担保されるかというと、成績をつける権利が与えられているということです。個人的な話をすると、この権力をどこまで使わないで済ませるかということにこだわりがあるんですが、一般的にね、権力を持つと、やっぱりそれは楽なんですよね。ついつい、それに頼って済ませたくなる。でもね、それはもっとも頭を使わない方法であって、およそ何かを学ぶ場である学校とはもっとも遠い位置にある。だから、本当に民主的にやるというのは難しいんです。

日教組だけでなく、労働組合というのは、下からの声だけでまとまりきらないとき、多数決という闘争で白黒をつけるんです。そして、それを不可避として考えて来た。そういう意味では一人一票ではなく選挙権(株式)を売買できる株式会社も同じです。争いの原理がシステムの中枢にある。その現実的、妥協的解決策として多数決があります。だから、多数派工作というものもあるわけです。スクールボイスプロジェクトは、組織ではないので、この意味での多数決はない。もちろん、これからたくさんの声が集まる中で、どうやってそれを整理するのかで、優先順位はついてしまうわけですが、原理的にはそこを対立を重視していない。それは新しい社会運動的であろうと思います。

学校での生徒が息苦しい世界は、きっと職場としてもまた息苦しい。その閉塞感をなんとかしたい、そういう思いから、このスクールボイスプロジェクトは始まっています。それは社会運動としての労働運動の原点だったはずなんですよね。どんな運動やあるいは事業と言い換えてもいいけれども、組織がgoing concern(という永続体)である限り、慣性で続けている活動は増えるばかりです。そうなると、原点はどうしても見失われる。

このプロジェクトが始まる前に、私は日教組とやらないのか?ということを最初、聞いてみましたが、そうではない形で始めたいという答えが緑さんから返ってきました。でも、それは敵対するというわけではなく、別の形で始まるということです。組合において数は力です。今の日教組に純粋なカンパだけで、組織の力に頼らずに1000万円を集めるだけの力があるのだろうか。もちろん、敵対する必要はないんだけれども、これだけの力のある運動をどう受け止めて、それを自分たちの運動への刺激とすることはおそらくこれから問われることになるでしょう。
友人の武田緑さんが、今、School Voice Projectという新しい取り組みにチャレンジしています。私は久しぶりに書くこのエントリで、みなさんにこの試みへの応援をお願いしたいと思っています。それはもちろん、友人として彼女を応援したいという気持ちもあるのですが、それよりもこの試みが日本の労働運動にとっても新しい可能性があるのではないか、と感じています。今日はそのことについて書いてみようと思います。

教職員の労働運動と言えば、私たちはすぐに日教組やそこから分かれた全教を思い出すわけですが、なぜ武田さんは日教組ではなく、新しい形での取り組みを始めるようになったのか、という疑問がまず浮かびます。というのも、武田さんは大阪の人権教育の盛んな地域出身で、社会運動や労働運動をよく知っていて、日教組の運動を知らないわけではないからです。日教組というのは、戦後の労働組合運動揺籃期の1947年に結成され、総評の中では自治労とともに官公労運動の雄であり、総評議長も送り出している伝統を持つ組合です(念のため、総評は今の連合になる前、4つに分かれていたナショナル・センターの最大の組織でした)。長く文部省や自民党と対立してきましたが、1990年代の歴史的和解以降は、自民党の一部からの硬直的な非難を別にすれば、是々非々で活動を展開しています。

労働組合運動での核の一つに労働相談があります(ここからは日教組のことをいったん忘れて、労働組合一般の議論として読んでください)。個人的には、単組レベルではこの機能がもっとも大きいのではないかと思います。私はこの間、あるプロジェクトで久しぶりに労働相談の重要性を再確認する機会がありました(そのうち、成果を発表できる機会があれば、また紹介します)。労働組合というのは民主的な組織で、一人一人の構成員の声を蔑ろにせず、その人たちの労働環境を良くすることを目的としています。ここでいう民主的は、トップダウンの対極と考えてもらえれば良いです。古い言葉では、草の根、英語でグラスルーツと言います(今の人はあまり使わないですよね、たぶん)。

ただ、この労働相談での相談内容がより大きな、たとえば運動方針等に取り入れられるかというと、必ずしもそうなっていないところがあります。というのは、労働相談はあくまでその相談事を現場で解決することが第一で、それを集約して新しい運動にするというのは大変な労力のかかることだからです。現場でやっていることを中央が統制も管理もせず、その場で解決しているということが結構見られるのです。これは日本的組織の得意な現場主義でもあります。

今回のこのプロジェクトは、この声を集める、ということに特化しています。声を集めて、それを社会に届ける。組合は民主的とはいえ、組織なので、下からだけでなく、上からの力も強く働きます。そして、そのこと自体は決して悪いことではありません。ただ、今回のこの試みは完全に下からの、参加したい、声を上げたい、そういう意欲だけで成立しています。また、労働組合ではないので、管理職も入ることができます。

2014年に官製春闘という形で、春闘が復活した際、私はちょうどその直前のタイミングで賃金の本を書いていたため、多くの組合関係の人と話す機会を持つことが出来ました。その際、「賃金を上げて欲しい」という要求を出せない、声を上げられない、という話をよく聞きました。歴戦のベテランからすれば、信じられないようなことだけれども、教員だけではなく、私たちはいつしか社会の中で声をあげるという習慣が少なくなってきたんだと思います。もちろん、東日本大震災以降、デモが復活し、様々なデモがある風景は見られるようになりましたが、それでもまだ声を上げられない、という習慣は根強くあるのではないか、というのが実感です。

そして、一見、気が弱いようなそういう小さき声を大切にする、ということはかつての運動でもしばしば等閑視されてきたことです。世界の歴史で見れば、オキュパイ・ウォールストリート運動のときに、参加者の声を拾う草の根運動が展開したことがありました。ただ、日本ではまだ十分に古い運動と新しい運動を融合させて、次に向かっていくというのが見えないのではないかと私は思っています(念のために言っておくと、それがダメなのではなく、ある程度今までのやり方でちゃんと機能しているがゆえに、大胆なイノベーションが出てこないということなんだろうと思います)。

正直、私自身、声を上げられない声を大事にするということを大事にしてきませんでした。個人的には、このブログの古くからの読者の方ならばご記憶かと思いますが、私は初期から言いたいことを言ってきました。その頃、いくつかの非常勤講師を掛け持ちしながら、正規のポストを探す上で、敵を作りかねない言動が不利に働くということは分かっていましたが(助言してくれる友人たちもいました)、それでも学者としていったん書いたことをなかったことにするかのような卑怯なマネをするなら、(少なくとも学者としては)死んだ方がマシだと思っていました。そのことは今も後悔していません。しかし、声を上げられない、その奥にある声に耳を傾けるそういうことはしてこなかったし、関心も持ってきませんでした。

緑さんが自分の体験を基盤において、こういう運動を展開したのは本当に素晴らしいことだと思います。すべての運動はコンパッション、共感がその基底にあります。そして、このプロジェクトはテクニカルに、ウェブアンケートや動画など、様々なツールを駆使して展開されていて、その点も日本では従来の運動になかった可能性を感じさせます。

学校を支えるのは、誰にとっても大切なことです。ぜひ、みなさん、ご支援いただけると幸いです。どうぞよろしくお願いします。

追記
もう既に長くなったので、いったん終わりますが、もう少し別の角度からもこのプロジェクトの意義を考察したいと考えています。
いつもやっている学習支援の研修で、性教育の問題を扱うことになった。最近はFacebookに友達限定で書いているので、そこから、引用しよう。


性教育にかかわるテーマ。今年は社会政策で保健室のNさんに話してもらったら、大学生も結構、ストレートに刺さった。Nさんオススメのシオリーヌさんが書いた本、CHOICEはメッチャ良い(勧められたのはYouTubeの方だけど、まだ勧められたときは出版されてなかった)。普通の意味での性教育の教科書はこれで十分じゃないかと思う。

ただ、実はここから先は社会科学の領域になって行くんだよね。家族観とか、文化観とか、そういうものが関係してくるから。ここから先、私が書けるのは、人口政策の家族計画の話と日本的雇用慣行、それから性別分業の話くらいかな。この話、もっとも最近だと、広瀬先生の性教育政策の話にも関わってくる。そうすると、保守主義とかそういう背景も知る必要がある。あとシオリーヌさんの本でも、根幹に置かれてるコミュニケーションは、これはこれでめっちゃ深い話だからなー。身体的な境界線の話はいいけど、実は心理的な境界線の問題と切り離せない深い問題でもある。心理的な方では、ヘンリークラウドとジョンタウンゼントの境界線という本がある。ただ、身体との関係はあまり書いてなかったような気がする。

わりと暴力的なコミュニケーションが多いところで、ある子と仲良くなったことがあって、よく抱っことか肩車とかせがまれてたんだけど、ある日、私が彼の頭を優しくなでていつくしんでたら、急に他の人に対する身体的な接触が変わったことがあって、みんなで驚いたことがあった。その小さな男の子は別に頭で理解したわけじゃない。そういう他者との関係の理解の仕方もあって、バーバルなコミュニケーションや知識的なものだけだと、いわゆる腹に落とすのは難しいんだよね。ここら辺は本当に難しい。

この他、キリスト教のこととか、聖職者や教師の性犯罪問題とか、カーマスートラや房中術とかのテクニカルな話(方法というより歴史的な意味)とか、その裏にある哲学の話(ヨガもそれに入るときもある)、60年代のカウンターカルチャーまわりの中の話とか、あと言語における性の問題(ヨーロッパ語)、中国の陰陽思想とか、イスラムの話とか、まあでもこうやって広げると宗教の問題とかも結構知らなきゃいけないからなあ、それはそれで大変よね。多文化理解とかにもつながってくるからなあ。


私はもともと、紡績女工の研究をやっていたので、職場での男女別分業を取り扱うことがあったので、ジェンダー研究は関心を持っていた。だから、ここで書いていることはその時以来、考えていることを吐き出した感じだが、いろいろ忘れていることもあるかもしれない。ちょうど、このテーマだと赤坂真理さんが書いているというコメントをいただいたので、彼女の本を読んでみた。

赤坂さんが『愛と暴力の戦後とその後』を書いていたのは知っていた。この本が出版された頃、私はよく東京駅の丸善によく通っていて、そこで平積みされていたことをよく覚えている。あれは東日本大震災の後の高揚の中で、自分というものを見つめ直す本ものとして書かれたものだった。たぶん、どこかに買った気もするのだが、新書はほぼ実家に置いてあり、どうせ積読なので、この際だからKindleで買い直して、読んでみた。ただ、率直に言うと、ふーんという感じだなあ。これは東京の人が書いた本で、東京の人が東京のことを書いて、それが日本全体のことを語れると思ってしまうこと自体はいかにも近代日本的な問題を投げかけていると思うが、そういうメタ認知的な話は論点がそれるので措いておこう。文学畑の人の文明論は、私の好みだが、学者とが異なる系統で呼んでいる本の知識が雑学的に出てくる教養的なのが面白いと思うが、この本にはそういうところはほぼなかった。

そこに行くと、『愛と性と存在のはなし』はとてもとてもよかった。この本の白眉はほぼ元男性の友人との会話で、自分が感じたことから、広く世の中で言われていることからは自由になって、マイノリティもマジョリティも両方、それが何か理解されていないし、我々は理解しきれていない、というところに到達していく。そして、それは「存在」、英語で言う「Being」としか表現できない何かをめぐっての考察になっていく。この部分の原理的な考察をしている点で、私はこの本は、思想というか、哲学というか、どちらでもよいが、そういう領域の読むべきもので、やはり教育のスタートにはこういう理念的なものが重要ではないかと思う。

どこまでが性教育として扱うべきなのか、というカリキュラム的な問題はあるが、とりあえずその根幹に「愛すること」を置くというのは私の中でほぼ落ち着いた。それは第一に、自分を愛することであり、第二に他者を愛することである。その他者との関係において、多様性の容認、そこから感情的な面での受容を包含したディープデモクラシーにまで射程は拡がるだろう(後者は性教育でなくてもよい。人権教育でもある)。私がここで考えている「愛すること」は、仏教用語で言えば「慈」であり、キリスト教用語で言えば「(友)愛」であり、シオリーヌさんが根幹に置くコミュニケーションのあり得べき一つの形である。通常の恋愛で見られる愛着(これも仏教用語)はここでは除外して考えている。といっても、それを悪いものとして非難しているわけではなく、ただ根幹に置くわけではないという意味においてである。

じゃあ、根幹だから、たとえばカリキュラムを組むとして、その一番最初にその回を設けるのか、と問われればたぶん、否と答えるだろう。私はたまたま言葉として「慈」も「友愛」も知っていたが、言葉を知らなければ、それを知らないわけではない。たとえば、小さい男の子の頭を優しくなでるということに「慈」という表現を知っている必要はない。逆に、言葉として「慈」や「友愛」を知っていたところで、誰かを思い遣ることが出来ない、ということもあるだろう(これはむしろマイクロアグレッションまわりで考察されてきたことだと思う)。と思ったけど、最初の一回はワークとして「コミュニケーションとは?」の回を作ってもいいかもしれない。愛だとややこしいので、大事にする、という方がピントが合うかな。

性教育の根幹に置くのは、ここくらいで良いと思うんだけど、考察はもっと深めて行くことが出来る。愛、存在と来ると、次は生命そのものにたどり着くと思うんだよな。まあ、この辺もスタックしている本の執筆が終わったら、考えてみる。