著者の仁平典宏さんから『市民社会論』をいただきました。ありがとうございます。

濱口さんが既に紹介されていますが、「幅広くシビル・ソサエティをめぐる諸問題を解説している手ごろな本」という評価は私も同意します。これで十分だとは思いませんし、ここに書いてある内容をそのまま信じるという形で勉強するのは、むしろやめておいた方がいいと思いますが、なんといっても幅広い範囲をカバーしているという点において類書がない中では価値のあるものだと言えるでしょう。ざっと一読する必要と価値があるという意味において、必読文献です。端的に言って、持っていると便利ではあると思います。

本書のカバレッジの広さは、「偏り」「バイアス」を避けようという姿勢(編集方針)とも関連しているのでしょう。しかし、その従来の研究とも、著者たちの市民社会論とも関係ない私から見ると、結構、偏ってるよなという印象が拭えないというのも否定しがたいところでした。それから、これを読んでも実務的にインパクトを与えられるようなものはほぼないんじゃないでしょうか。

基本的に、就職していない若手の業績と、それからいただいたものについては厳しく批判しないというのが、このブログの方針なのですが、本書には類書がなく、多くの人が読み、重要な役割を担うだろうということが予想されるので、やや辛めに批評しておきたいと思います。

はじめにに市民社会論は「法学、政治学、経済学、経営学、社会学などの伝統的な学問領域の下位分野」として研究されてきて、実務家が経験にもとづいた市民社会論を展開したために、偏りがあったと書かれています。まず、この認識が正しいかどうかなのですが、一般論としては私も「社会政策」という学際領域をやっているので、従来の学問領域との関係をどうするのかというのは悩ましい問題だなというのはよく分かります。しかし、事実としては戦後の市民社会論は大きく言って戦後革新というグループにおいてわりと横断的に研究されてきたと思います。ですが、その故に偏ってきたということも事実です。そして、その偏りは新自由主義=保守への反撥という意味では、私なんかから見れば、本書においてもリニューアルされて再生産されているなと感じましたし、何なら拡大させているのではないか、という気さえもしました。はじめにの希有壮大な問題意識が実現されているかどうかは疑問ですが、社会運動研究には大きく社会学の社会運動と政治学の新しい社会運動の研究があって、この両者をカバーするという狭い意味においては本書は成功していると思います。

ただ、ざっくり言うと、諸外国の研究の紹介をしながら、それを日本の事例にあてはめるという形式がそもそもあまりうまくないです。これは営業上の関係からも仕方なかったのでしょう。一般論的に言うと、外国の研究ももちろんそれぞれの具体的な事実があって、そこから抽象的なレベルでの理論が議論されるわけです。その文脈こそを我々は知りたいのであって、理論が外国なら、事例もその外国のものをやってくれというのが営業を度外視した読者の一人の私の希望です。この点では、濱口先生は日本のものと、EUのものをきっちり分けられています。私はそういう意味でも『EUの労働法政策』が好ましいのです。

たとえば、ソーシャル・キャピタル論は、普通はコールマンが人的資本批判(発展的な意味で)から始まりますが、この本ではパットナムから始まります。パットナムからでも構わないのですが、それ自体政治学的文脈でもあり、パットナムを通じたアメリカ的な文脈でもあります。パットナム以降の研究動向の紹介もよいのですが、そもそもなんでパットナムの議論が出て来たのかは2段落くらいで説明されても初学者にとってはよかったと思います。私は別に動向だけでもよいのですが。

もう一つは、仁平さんの政治動向の話です。どうもこのところ、仁平さんの新自由主義批判の議論が非常に影響力を持っているようなので、日本における歴史的文脈では別に考えなければならない問題系を指摘しておきたいと思います。いつも言っていますが、この本の中にもたまに出てくる松下圭一先生をどう理解するのかが一つのポイントです。60年代までは社会党構造改革派のブレインでもあり、シビル・ミニマムを通じて市民運動にも深く関わりました。松下先生の敵は大きく分けて二つ。保守、しかし、この場合は自民党よりも背後でそれを支えた旧内務省的なものであり、この時の対立軸は中央か地方かです。実際、松下先生は革新自治体にも影響を与えましたし、その著作は地方公務員によく読まれてきたわけです。もう一つは、社会党内の争いで、主として社会主義協会の太田薫、岩井章、66年までの総評指導部でした。『政治家の人間力江田三郎への手紙』の中の「構造改革論争と《党近代化》 」でははっきり労働運動との立ち位置が書かれています。こういうことを意識しないと、革新と保守のねじれ、なぜ革新の中から60年代初頭に出て来た構造改革が、1990年代後半以降、保守のなかで進展していったのかというような問題を考えることが出来ないでしょうし、脱政治化しないといわれても、どこに向かえばよいか分からないのではないでしょうか。市民運動と政治への接続の問題は現実の活動を飛躍させるために、政治と関わる必要があったという事例の方が分かりやすいと思います。

逆に言えば、日本の文脈を言うのであれば、市民社会論と銘打ってこなくても、その当該分野の研究はそれなりにあるのであって、そういう研究動向および日本社会における歴史的展開を紹介するという形でもよかったと思います。それぞれの章で文字数の制限がある中でみなさん、工夫されているなというのは分かるのですが、それでも外国の理論と日本の文脈のつながりが遠すぎると私は感じました。

その他、個別にはいろいろ不満がありますが、書いていくときりがないので、このあたりにしておきます。ただ、逆に、これはよかったというのを紹介します。

私がバランスがいいなと思ったのは、「第2章 熟議民主主義論―熟議の場としての市民社会―(田村哲樹)」ですね。正直、これを読むまで熟議を胡散臭いなと思っていただけですが、これは学説史整理を通じて主要な論点がよく分かります。今の日本の現状についてはそもそも分量も少ないので、不満が残りますが、それでもお勧めできます。実践的には『日置真世のおいしい地域(まち)づくりのためのレシピ50』の方が良いと思いますが。

それ以外でしたら、

第11章 法制度―市民社会に対する規定力とその変容―(岡本仁宏)
第13章 ローカル・ガバナンス―地域コミュニティと行政―(森裕亮)
第15章 公共サービスと市民社会―準市場を中心に―(後房雄)
第16章 排外主義の台頭―市民社会の負の側面―(樋口直人)

あたりがいいかな。宗教、国際社会におけるNGOを取り上げたのはよいのですが、うーん、お勧めできませんねえ。NGOの方はちょっとどの本(読みやすいサイズでは)を読んだらいいのか分かりませんが、宗教の方は稲場圭信『利他主義と宗教』弘文堂をお勧めします。あと、この本は企業と組合(ないし企業家、組合活動家)に対する理解が浅いのですが、この点は組合については高木郁朗先生の『共助と連帯』の増補改訂版が去年、明石書店から出ましたのでそれを読むといいと思います。企業の方はいいのがないですねえ。古いのだと山岡義典先生のものとかあるんですけどね。ローカル・ガバナンスはやっぱり町内会にいきなり行かずに、基礎自治体や都道府県庁との関係ももう少し触れて欲しかったです。中央と地方という対立のときの地方はその単位だと思うので。ヘイト文化は、日本では公務員バッシング、組合バッシングくらいからではないかと思うのですが、そのあたりとのつながりももうちょっと知りたかったですね。

ただ、いろいろ言ってきたものの、今までの市民社会論については植村邦彦『市民社会論とは何か』という思想史的文脈でのよい研究、かつよい入門書がありますから(この本でもところどころ引かれています)、その次の段階の基本テキストとしてこの本は申し分ないと思います。私の不満は、技術的なものと、そもそものこの分野に対するものとの二種ですが、いずれにしても、この本を一つの水準として、どんどん競合する本が出てきて欲しいと思います。そう、そういう意味ではメルクマールになるようなレベルの本として推薦します。
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濱口先生から『EUの労働法政策』をいただきました。ありがとうございます。

おそらく、労働法関連からのコメントはそのうち、どこかで紹介されると思いますので、私は違った観点からこの本をお勧めしたいと思います。この本は、タイトル通り、EUにおける労働法の概説であるわけですが、その前提としてEUにおける社会政策(ソーシャル・ポリシー)を丁寧に説明しています。この点から今日は特にお勧めしたいのです。

日本では、社会政策研究の中で労働、とりわけ労使関係を重視したグループと、社会保障グループというのがきれいに分かれています。前者が作ったのが日本労働協会であり、後者は後に社会保障研究所を作ることになります。別に、そこを対立的に捉える必要はないのですが、労働政策と社会保障を含めた社会福祉政策が社会政策と言われながら、なかなかこれらを概観するよいテキストは今の日本では見当たりません。というか、通常、研究所としてはJILPTと社人研はすみ分けています。ただ、他の国というか地域のことを知るためには労働時間規制をどうしているかという細かい問題も必要ですが、その背景として、まさにヨーロッパのソーシャルという感覚が何かを理解する必要で、そのどちらが欠けてもいけません。そういう意味で、この本は非常に重要です。ソーシャルは2000年代以降、何人かの学者の努力によって、再評価を受けるに至りました。ただ、その紹介者の多くは実務というよりはやや思想に重きを置いているように思います。それはそれで価値があるのですが、実務的な意味で、社会を変えていこうと考えている人にはぜひこういう本こそ読んで欲しい。

日本には厚い入門書という考えがなく、どうしても薄いものから入ります。ですから、いわゆるhandbookという発想がほとんどない。ただ昔からそこのところはみんな考えていて、日本では事典がややそれに代替する役割を果たしている場合があります。事典と名乗らず、単に辞典という場合もあるので、そこは内容を確認しないといけません。『EUの労働法政策』はこの事典的役割を相当程度、果たしていると思います。ですから、全編、読めないと思っても、文字通り備えておくとよい本です。

国際比較的に言えば、今は東アジアが注目されたりしていますが、地域としてのアジアとヨーロッパでは全然違います。ヨーロッパはローマ帝国、キリスト教、ローマ法という統治秩序をかつて経験していますが、アジアにはそれに該当するような共通経験はまったくないと言えるでしょう。モンゴル帝国が広大な土地を支配しても、その後の歴史で別にモンゴル帝国に擬して国家づくりを試みる国はありません。その点、日本を含め、いわゆる西洋国家を模倣して近代国家を作った国にとっても、ヨーロッパという括りは大事で、それを専門としない者にとってはヨーロッパの「ではの守」は大変貴重で、かつ、特定の国民国家でなくヨーロッパ地域全体を射程に収めているというのはさらに希少です。

まあ、しかし、そういう大きな話をすると、なんで労働という狭い範囲なのに、と思われるかもしれません。しかし、世界的にはILOの存在も大きいんですよ。ILOは基本的には第一次世界大戦というヨーロッパの戦争の戦後処理で作られたものですから、国際的な統治の問題に深く関わっています。1927年に世界人口会議が開かれますが、やはりILOの影響ありますからね。そういう意味でも、ヨーロッパの労働法政策から、いろいろ考えるというのは、なかなか有効な手段ではないかなと思います。まあ、ただ、このあたりは私も勉強中なので、もう少し先で考えていきたいと思います。

啓蒙書には啓蒙書の役割があるので、別にそれはそれでよいんですが、出来れば、その中から少数でも『EUの労働法政策』『労働法政策』のような体系的政策理解、『日本の雇用修了』の法社会学的視点などを継承して深めていく人が出てきてほしいなと期待しています。そして、折に触れて言っていますが、そろそろこちらも改定されたので『労働法政策』も新しいものを出してほしいと念を押しておきます。

夏に東京ブックフェアに出かけたときに、あまりに面白そうだったので、衝動買いした本。博士論文を本にしたもので、おそらく近代日本思想史において今後、必ず参照されるべき研究と言えるだろう。前川さんは島薗進先生のお弟子さんということだが、先生の問題意識を少し違った角度から継承し、発展させている。前川さんがこの研究に取り組んだきっかけは蔵書整理ということで、そういう資料との邂逅体験というもの、よい歴史研究ではよく見られることのように思う。ともかく、このような形で師弟で学問を進めるというのはなかなか珍しいのではないか、と感じた。

この本は「宗教」概念をめぐる議論、すなわち宗教論が、人格陶冶を導いて、それが国民統治の道具たる国民教育へと展開していく過程を描いている。と、普通だったら、これだけでも十分に博士論文になると思うのだが、前川さんの場合、それは第二期の段階で、その幸せな国体論と宗教論の結びつきが破綻していく第三期(昭和十年代)まで描いている。前川さんが直接の先行研究として検討しているのは宗教学と教育学がメインだが、ざっくり言って、統治論、政治思想、法思想のような国の上の方での議論に関心を持っている人は、分野が多少違っても、必読の文献になっている。時期的に見ても、島薗先生の『国家神道と日本人』が教育勅語で終わっていることを思い出すと、まさに正統な継承者といえる(もちろん、島薗先生の仕事はこれだけにとどまるわけではないが)。

ざっくりとした感想だけれども、やっぱり明治期の日本というのは、貧しい中で無理して国家に学問させてもらっているという意識があって、だからその成果をなんとか還元しよういう気持ちの人が多いんだな、それは分野を違えても同じなんだなというのがまず浮かんだ。その意味では第2章でイノテツ(井上哲次郎)、第3章で姉崎正治という形で人物をベースにして、その対立者をうまく登場させた思想史研究で、第4章以降、宗教学の枠組みがどのように国家教学、国民教育として展開していくのかをマクロ的な広がりで捉えていて、これは構成と手法の組にみ合わせの妙だな、と唸るほかない。お手本というべきであろう。

この本が明らかにしたことは、人格修養主義がどのように登場してきたのかということを「宗教」をキーワードに見てきたことであろう。これは大正教養主義から戦後啓蒙主義までを理解する上でのカギになるだろう。本書でいえば、第1期から第2期にかけての基盤を明らかにしたと言える。ただ、第2期から第3期への移行については、やはりメインは社会科学、とりわけマルクス主義の影響を看過することはできないと思うのだが、この点はやはり十分に検討されているとは言えない。宗教、国体という明治期の枠組みの展開でこの時期を乗り越えるのは難しいと言える。T・H・グリーン思想を自らのコアとして鍛え直そうとした大正教養主義の申し子河合栄治郎は、宗教とは距離を置いたが、マルクス主義への対抗を思想的立場として置いていた。

1920年代以降、神道、仏教、キリスト教の社会事業は華々しく展開するのだが、それでもなお、社会問題を全面的に解決するようには見えず、多くの若者たちを魅了していったのはマルクス主義であった。マルクス主義こそが社会問題を全面的に解決するように信じた人が少なからずいたからである。分かりやすく言えば、人格修養主義では河合栄治郎は相当に努力したにもかかわらず、思想善導が実現できるとは思われなかったのである。1920年代から徐々に自然発生的に出てきて、1930年代に大々的に展開する日本主義はマルクス主義の影響から自由ではない。あとは大谷さんの日蓮主義運動も重要な導きになるはずである。

もう一つは、人格主義と人物論についてだが、カーライルの英雄崇拝はたしかに影響力が大きかったというのは私もそう思うけれども、より視野を広げてみると、いくつかの疑問がある。戦前期の人物論はゴシップが多い。このゴシップへのカウンターパートとして理想論が必要だったという面があるのではないか。さらに、宗教学の影響がどれくらいあったのかもなかなか難しいところではないか。多くの人々は今でも厳密に物事を考えたいわけではなく、適当に考えたいのである。そういう人たちを魅了するのは、方便を駆使する法話であろう。要するに、この時代の講演は宗教者の法話的なものも含めて娯楽なのである。この辺のリアリティがやや伝わってこない感じがする。私はまさにこの時代の労務管理を研究していたので、そういう資料も読んでいるから実感としてそう思った。具体例を少し書こう。たとえば、全体的な方針としては教育重視、修養主義で婦徳が重視されているのだが、実際の講話とかだと、ダメな亭主を陰に陽に叩き直す話が喝采を浴びたりしているわけである。本当にありがたい法話というのはそういう娯楽性をうまく取り込んでいる。何が言いたいのかというと、宗教が人格修養に寄与すると考えられたから宗教者が利用されるというより、単に話が面白くて、ときどき難しかったり、素晴らしい人生訓が入ったりするから、場が持って重宝だったのではないかという気もするのである。もちろん、知識階級にはいかに生きるべきかというようなニーズもある。

そうすると、やはりテーマだから仕方ないけれども、国家と宗教を結び付けて考察しすぎている気がする。それが少し窮屈である。素人からすると、やはりここのところは別の何かで補わなければならないな。とはいえ、冒頭で繰り返し褒めたように、本格的な歴史研究で教えられることは多いので、ぜひ手に取られることをお勧めする。
土曜日に参加した吉田久一シンポジウムについて、備忘録がわりに少し書いておく。というか、長くなったので、ブログエントリにしよう。

今回のシンポジウム、参加してよかった。吉田久一展を拝観してきたこと、その図録をいただいたこと、さらに追悼本を購入して、そのときの関連論文集をいただいたこと、そして、何より吉田久一と縁の深い湘徳大学に実際に行ってみて、その関係者の息吹というか熱量に触れたことは、なかなか得がたい経験だった。日本仏教社会福祉学会、社会事業史学会、日本近代仏教史研究会の3学会共催というのも新しい試みで、それをどういう形になるか分からないけれども、続けていこうということになったのは素晴らしい。

学術的な内容という意味では、なかなか課題も多い気がしたのも事実である。まず、相互の使っている用語が異なっているので、意思疎通が難しい。全員、講座派を知っていて、理念型を知っていて、戦後啓蒙主義者のものを読んでいて、というような状況は今は望めない。そういう中で、どうやって橋頭堡を築いていくのかはかなり難しい課題である。

私は、正直に言えば、社会事業史研究側には少なからぬ違和感があった。あの『社会福祉学研究の50年』のなかで何度も大河内理論(ちなみに、社会政策分野で言う総資本による総労働の保全というあれではなくて、日本では資本主義が十分に発達していないので、社会政策が貫徹し得ず、その穴を埋めているのが社会事業であるというやつである)について語られているのだが、丸山とか講座派とか関係ない名前はバンバン出てくるのに、大河内の名前が一度も出てこないのは驚いた。念のために言うが、私はこのような意味での大河内社会政策論も大河内社会事業論もすぐにでも清算してほしいと思っている。

関連して言うと、野口友紀子さんの研究とかもスルーなのはなんでだろうと思った。あれは結構、勇気ある問題提起だったと思うけれども、黙殺はよくない。昔、野口さんから本をいただいて、エントリを書いたのだが、今見返すと、facebookの反応が430もついていて、ビビった。誰が読んでるの?

段階論については、講座派の克服という話がされていたが、それについては日本ではないけれども、方法論的に岡村重夫が試みたわけで、そういうものへの言及がなかったり、そもそも経済史の認識が50年くらい前のものであったりと、あとは細かいことは書かないけれども、いろいろ驚いた。

それに比べると、仏教側はすごく元気で、こんなにシンポジウム中に自分たちの本の宣伝をする人たちを初めて見たが、それはそれでよかったと思う。

用語の問題で言えば、まったくかみ合っていない「実践」という言葉はもうちょっと精査する必要があるだろうと思った。ざっくりいえば、仏教における実践とは、素人がイメージする限りでも「行」を含めた宗教体験のことであり、必ずしも社会運動的実践ではないだろう。もちろん、吉田がそういう活動の中から信仰を深めることについて語っていて、それを大谷さんが引いていたんだけれども、それは一つの考え方であり、個人的には共感するものの、議論が必要なところだと思う。だから、やっぱり二つは違うものと捉えた上で、その意味を考えることを課題としたい。ちなみに、これは前に読んだ蓑輪先生の『日本仏教史』の着想に触発されていて、まだ始まったばかりなんだろうなという気もしている。でも、宗教体験は宗教関連の思想では重要で、碧海さんの『入門近代仏教思想』や稲垣先生の『カトリック入門』はそういうところを押さえている(碧海さんの本は別にエントリを立てます)。

正直に言うと、一応、吉田の主要な著作は持っているのだが、吉田の研究がこれからの導きになるかというと、それは難しいだろうと思う。吉田の著作を読むと、謙遜もあるが、細かいことに拘泥するよりも(十分細かいことをやっているのだが)、とにかく概観を示すことが開拓者の役割であることをよく自覚していた。そういう意味で、フロント・ランナーは専門分化せずにいろんな議論が出来るので、吉田を通じて学際的対話のきっかけになるということはあり得る。まあ、仏教史どころか、社会政策と社会福祉さえも対話してないからな。。。

もう一つ、ずっと議論になった「近代」と「現代」の区分の話。モダニティをどう考えるのかというのは60年代以来の西洋でも一つの重要なテーマだと思うが、現代というのは、その世代で揺れる。近世の定義もそうだし。現在に近いところは時間の経過とともにズレてくるし、同じ生きているものでも世代が違うと感覚がズレるのは避けられない。それでも、モダニティで理解する局面はあって、それがなんであったのか、それを切り取った後に設定できる時期とは、という問題提起はあり得る。あり得るが、ポストモダンが言われてからもう少しで半世紀だからなあ。
70年代以降の教育社会を考えているが、なかなかまとまらない。とりあえず、メモ代わりに。一つの論点は、教育と福祉。

ただ、この教育と福祉の関係がすごい複雑。なぜなら、社会福祉の側がもうちょっとまとまっていたら、話は違っていたと思うんだけれども、時期によって重点がズレすぎていて、参照基準としてはなはだ頼りない。

今、一つの立脚点は、岩田正美先生の一般化と特定化という発想だと思う。これで行くと、高度成長期までの日本では、特定化の方はあきらかに障害者の特別支援教育、それから保育であろう。逆に、これを一般化と言ってよいのかどうか微妙だが、より広範な問題として捉えられていたという意味で、貧困である。

社会福祉の中心が貧困であった時代は、たとえば籠山京のような研究があり得たわけだが、70年代以降になると、そういう貧困から生活を見つめる流れは衰退して、もっぱら児童福祉という観点になっていく。これは勤労青年問題がなくなったことも大きいと思うが、どうだろうか。特定化に流れない方は、幼保一元化の話としての保育の問題が重要トピックになる。

70年代の後半に城戸とか、小川とかが座談会をやっていて、これ小川の全集にも社会・生涯教育文献集にも収められていて、それだけ重視されてきたということだと思う。座談会だから重要論点がいっぱいある。そのなかで、一つのテーマは、教育とケアをつきつめていくと、共通するのではないかという問題意識である。だから、具体的な問題として、幼保一元化を取り上げても、それは一ケースであって、もっと普遍的な教育=福祉と捉えうるパースペクティブを持って、小川なんかは教育福祉学という領域を切り開こうとしたんだと思う。が、誠実にいろんな学説に目配りしすぎて、この問題意識が見えにくい嫌いはある。ただ、この視点はほとんど継承されてないんじゃないか。

時はめぐり、子どもの貧困が問題になると、貧困リバイバルになる。福祉=貧困になる。日本だとここ10年のことである。学問的に言うと、深刻な社会問題を扱うのは楽な面がある。要は、方法的に、あるいは思考として、それを扱う研究者がつきつめてなかったとしても、問題の深刻さという下駄を履かされて、とても大切な重要な問題を扱っていると認めてもらえるからである。

私の個人的な考え方では、子どもの貧困は親の貧困が元であり、その顕現する、あるいは把握可能になる場所が学校という教育の場であるという意味において、社会福祉研究の応用問題、教育編という風に捉えている。教育のロジックに内在的に行くならば、教育とケアの共通性の探究は一つの方向ではないかと思う。

思うが、同時に、この問いの立て方はきわめて日本的であるとも思う。この生活指導的側面という性格がたぶんにあるからだ。ここら辺を問題にしているのが、松田忍さんだったり、冨江直子さんだったり、する。それとドイツ新教育やアメリカ・プラグマティズム的新教育の輸入はどう関係したのかしないのかにも繋がってくるだろう。まあ、ここら辺は社会教育史研究とつきあわせる必要がある。ということは、ここでも小川利夫だが、小川の社会教育史は時代の影響もあると思うが、ちょっと講座派色が強いので、そこら辺の脱色も必要だろう。ここでキーワードは貧困から、といよりは、貧困を突き詰めていって出てきた「生活」に移ります。

今のところ、この問題で一番、突き詰めてるなと感じたのは、小林甫「生活教育研究と生活社会学の視座」。直リンク貼っておくので、書誌はそこで確認して下さい。布施鉄治の調査研究、すごくよいけど、理論的にはマルクス主義か。ちょっと展望が開けない感じだなあ。みんな、戦後の革新だからねえ、この時代にそうなるのはわかるけど。。。

とはいえ、これ、マニアにはたまらん論文ですな。言ってみれば、北大教育の歴史でもあるんだけど、人的にも学問的にも、城戸だったり、鈴木栄太郎だったりと繋がっていて、東大系では忘れられた、しかし、私はこっちがもともとの教育社会学のメインストリームにいた気がする。まあ、社会教育も小川利夫さんがまさにその中心だと思うけど、国民教育運動と近くになりすぎて微妙になったように思う。それは、この論文での結論、すごい大事なことなんだけど、疎外論か、ポスト・フォーディズムか、うーん。。。やっぱり、時代的制約を強く感じざるを得ない。