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数日前、多様な教育機会を考える会で中田正敏先生のご報告を聞く機会があった。中田先生にはこの研究会でも午前中の読書会でご報告いただいたこともあり、そのときも刺激的だった。今回も議論自体はとても盛り上がって、よい感じになったのだが。。。個人的には、物足りないな、深く切り込めなかったなという感じが残った。

なぜ、そうなのかというと、中田先生は一方でアカデミックな文献も読みつつ、現場での課題を深め、その一方で現場に立てば、そういう舞台裏はあえて見せないというようなこともなさっており、そもそも中田先生の実践とは何なのか、どうアプローチすればよいのか、ということが私には見えないのである。

アカデミックな研究者の書くものであれば、ある程度、系譜探しをすれば、その人の発想の出自も分かる。でも、現場でものを考える人の場合、それはすごく分かりにくい。現場での経験とその刺激になる文献との往来で、しばしば文献同士のつながりなどには関心を持たないからである。アカデミックなものでも、学際的な領域ではこういうことは起こり得るが、それでも中田先生のような場合とは少し違う。系譜探しをするならば、ロシア思想を勉強しなければならないかもしれない。ただ、そこを掘り下げただけでも見えてこない気もする。

中田先生がよく引かれるエンゲストロームを少し勉強しようと思って引っ張り出したんだが、教育といっても心理学、次のFrom Teams to Knotsを読むと、これはどちらかというと、労使関係論がベースになっている領域。ということは、経営学や工場管理とも縁が深い。彼が成人教育の担当部署に所属していることとも関係している。実際、私は当日、わりと労使関係に似てるなあと思って聞いていた(そこがホームグラウンドの一つなので。ってここを読む人はみんな知っているか)。それから、中田先生といくつかのやり取りの感じでは組織論的な造詣も深そうと思ったんだけど、そこらへんはよく分からなかった。私も最近、やってないからなあ。

先生はおそらくアカデミックな背景をもっている人が多くいるので、ご自身の背景的な話も出される報告をなさったのだと思うけれども、では、エンゲストロームを勉強すればそれが分かるかというと、そうはならないだろう。問題は、エンゲストロームなり、なんなりをどのタイミングでどう利用して、そこでどう考え方が深まったのかということである。多くの現場の人は、その実践に比して自分の言葉を十分に持ち合わせないけれども、それはこれだけ博識な中田先生でさえも同じことである。場合によっては労使関係関連については私の方が詳しいこともあるだろう。でも、だから何?という話なのである。問題にすべきなのは、たとえば中田先生にとってエンゲストロームの書いたものがどういうタイミングでアンテナにひっかり、それをどういう風に使ったのかということなのだと思う。その使うときに、エンゲストロームなり他の思想家が意識的、無意識的かを問わず前提としてきたことがどう先生に影響を与えたのか、ということは考察する価値があるだろうが、それは最重要トピックではない。

なんでこんなことを書くかというと、優れた実践の成功事例は「結局、他の人にはマネ(コピー)できないよね」ということになりかねないのだが、その学習プロセスを学ぶことによって、自分の学習プロセスに刺激を与えることは可能だろうと思っている。ただ、アカデミックな研究者というのは、全体を俯瞰するというよりも、自分の問題意識を深める刺激を与えられれば、それで満足というところがあり、しばしばよい研究会というのは、多くの参加者(研究者)がそれぞれの問題意識を深める刺激を与えられた会であったりする。今までの私はわりとそれで良しとしてきて、なんなら研究者ならば、その刺激を受けることが出来ない方が悪い(日ごろからアンテナを立てられていない)と思ってきたのだが、私たちがRED研で目指してきたことは、きっとそういうことだけではダメなんだろうなと思う。今の私の勘では、純粋にアカデミシャンとして楽しめてしまう会は警戒しなくてはというところだろうか。

実践というのは軸を欲するタイミングがあり、それが歴史だったり、思想だったり、何でもよいのだが、知的なものに求められるタイミングがある。他方で、それを全部、忘れなければならないタイミングもある。アカデミックな関心はどうしても前者の側面に注目しがちだと思うが、実はこの両輪、特に両者をスイッチングをしている意識が大事だと思う。ただ、これは実は本人でも分からない。私はたぶん、自分でも意識的に結構、やっているが、それでもいつどうやってと聞かれたら、すぐには分からない。ほぼ感覚でやっていて、意識化するのは難しい。少なくとも他者の力は必要だろう(たとえば、誰かから尋ねられるというようなきっかけ)。ここのところ、もう少し自分で意識して、いろいろ深めていかなければならないなあ。

全然、まとまっていないし、言葉を尽くせていないが、なんとなくモヤっと感はこの文章でも表現できているだろうか。

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来週の日曜の午前中に行われるセンの読書会に向けて、準備しようと思う。とりあえず、ダンボールのなかを漁ったりしながら、手許に揃えてみたのはこんな文献群。指定文献は不平等の再検討。



センを勉強するのに、いくつかの目標を立てたいと思う。とはいえ、私はこの分野の専門的トレーニングを受けていないので、文献の選択は間違ってるかもしれない。その点はご教示いただければ、幸いである。

センを取り扱うときに、何が重要かと言えば、1990年代以降の世界的な人権概念の相場になった人間の安全保障の考え方の背景に、ケイパビリティ論があることだろう。現実世界を理解する上ではこことの関連性を押さえておきたいのだが、そのためには別様の準備が必要になるだろう。ただ、これは最終的には最重要論点1である。

次いで、そもそもセンは理論家なので、理論の中で彼をまずどう理解すべきなのか、というところからスタートすべきではないかと思われる。その準備作業として必要なのが厚生経済学の中に彼を位置付けることで、これが第2-1の論点である。この領域では鈴村後藤のセン本が有名。ただ厚生経済学そのものを学ぶ必要もある。幸いこの分野は、セン、アローとともに鈴村が最高のハンドブックを作っていて、これに当たるという方法がある。鈴村自身の著作も少し集めたが、今回はそこまでは行けない。

厚生経済学および社会選択論の素晴らしいところは、先行研究の踏襲がちゃんとされているところではないかた思う。当たり前ではないかと言われるかもしれないが、むしろ、そうではない分野の方が多いのではないか。そういう意味ではセン以降の展開も重要で、個人的にはヌスバウムも気になるが、ここでは日本においては鈴村の後継である後藤玲子の業績が重要だろう。これが第3の論点である。

ただ、理論に関連すると、センの踏破して来た道は、あくまで学際的なので、経済学以外との関係も考える必要がある。この意味では経済学と倫理学も参考になりそうな気がする。これはもちろん後藤本を読む前提にもなるけれども、2の派生問題とも思えるので、論点2-2としたい。

こんな感じで見取り図を作ってみたが、大丈夫だろうか。
著者の仁平典宏さんから『市民社会論』をいただきました。ありがとうございます。

濱口さんが既に紹介されていますが、「幅広くシビル・ソサエティをめぐる諸問題を解説している手ごろな本」という評価は私も同意します。これで十分だとは思いませんし、ここに書いてある内容をそのまま信じるという形で勉強するのは、むしろやめておいた方がいいと思いますが、なんといっても幅広い範囲をカバーしているという点において類書がない中では価値のあるものだと言えるでしょう。ざっと一読する必要と価値があるという意味において、必読文献です。端的に言って、持っていると便利ではあると思います。

本書のカバレッジの広さは、「偏り」「バイアス」を避けようという姿勢(編集方針)とも関連しているのでしょう。しかし、その従来の研究とも、著者たちの市民社会論とも関係ない私から見ると、結構、偏ってるよなという印象が拭えないというのも否定しがたいところでした。それから、これを読んでも実務的にインパクトを与えられるようなものはほぼないんじゃないでしょうか。

基本的に、就職していない若手の業績と、それからいただいたものについては厳しく批判しないというのが、このブログの方針なのですが、本書には類書がなく、多くの人が読み、重要な役割を担うだろうということが予想されるので、やや辛めに批評しておきたいと思います。

はじめにに市民社会論は「法学、政治学、経済学、経営学、社会学などの伝統的な学問領域の下位分野」として研究されてきて、実務家が経験にもとづいた市民社会論を展開したために、偏りがあったと書かれています。まず、この認識が正しいかどうかなのですが、一般論としては私も「社会政策」という学際領域をやっているので、従来の学問領域との関係をどうするのかというのは悩ましい問題だなというのはよく分かります。しかし、事実としては戦後の市民社会論は大きく言って戦後革新というグループにおいてわりと横断的に研究されてきたと思います。ですが、その故に偏ってきたということも事実です。そして、その偏りは新自由主義=保守への反撥という意味では、私なんかから見れば、本書においてもリニューアルされて再生産されているなと感じましたし、何なら拡大させているのではないか、という気さえもしました。はじめにの希有壮大な問題意識が実現されているかどうかは疑問ですが、社会運動研究には大きく社会学の社会運動と政治学の新しい社会運動の研究があって、この両者をカバーするという狭い意味においては本書は成功していると思います。

ただ、ざっくり言うと、諸外国の研究の紹介をしながら、それを日本の事例にあてはめるという形式がそもそもあまりうまくないです。これは営業上の関係からも仕方なかったのでしょう。一般論的に言うと、外国の研究ももちろんそれぞれの具体的な事実があって、そこから抽象的なレベルでの理論が議論されるわけです。その文脈こそを我々は知りたいのであって、理論が外国なら、事例もその外国のものをやってくれというのが営業を度外視した読者の一人の私の希望です。この点では、濱口先生は日本のものと、EUのものをきっちり分けられています。私はそういう意味でも『EUの労働法政策』が好ましいのです。

たとえば、ソーシャル・キャピタル論は、普通はコールマンが人的資本批判(発展的な意味で)から始まりますが、この本ではパットナムから始まります。パットナムからでも構わないのですが、それ自体政治学的文脈でもあり、パットナムを通じたアメリカ的な文脈でもあります。パットナム以降の研究動向の紹介もよいのですが、そもそもなんでパットナムの議論が出て来たのかは2段落くらいで説明されても初学者にとってはよかったと思います。私は別に動向だけでもよいのですが。

もう一つは、仁平さんの政治動向の話です。どうもこのところ、仁平さんの新自由主義批判の議論が非常に影響力を持っているようなので、日本における歴史的文脈では別に考えなければならない問題系を指摘しておきたいと思います。いつも言っていますが、この本の中にもたまに出てくる松下圭一先生をどう理解するのかが一つのポイントです。60年代までは社会党構造改革派のブレインでもあり、シビル・ミニマムを通じて市民運動にも深く関わりました。松下先生の敵は大きく分けて二つ。保守、しかし、この場合は自民党よりも背後でそれを支えた旧内務省的なものであり、この時の対立軸は中央か地方かです。実際、松下先生は革新自治体にも影響を与えましたし、その著作は地方公務員によく読まれてきたわけです。もう一つは、社会党内の争いで、主として社会主義協会の太田薫、岩井章、66年までの総評指導部でした。『政治家の人間力江田三郎への手紙』の中の「構造改革論争と《党近代化》 」でははっきり労働運動との立ち位置が書かれています。こういうことを意識しないと、革新と保守のねじれ、なぜ革新の中から60年代初頭に出て来た構造改革が、1990年代後半以降、保守のなかで進展していったのかというような問題を考えることが出来ないでしょうし、脱政治化しないといわれても、どこに向かえばよいか分からないのではないでしょうか。市民運動と政治への接続の問題は現実の活動を飛躍させるために、政治と関わる必要があったという事例の方が分かりやすいと思います。

逆に言えば、日本の文脈を言うのであれば、市民社会論と銘打ってこなくても、その当該分野の研究はそれなりにあるのであって、そういう研究動向および日本社会における歴史的展開を紹介するという形でもよかったと思います。それぞれの章で文字数の制限がある中でみなさん、工夫されているなというのは分かるのですが、それでも外国の理論と日本の文脈のつながりが遠すぎると私は感じました。

その他、個別にはいろいろ不満がありますが、書いていくときりがないので、このあたりにしておきます。ただ、逆に、これはよかったというのを紹介します。

私がバランスがいいなと思ったのは、「第2章 熟議民主主義論―熟議の場としての市民社会―(田村哲樹)」ですね。正直、これを読むまで熟議を胡散臭いなと思っていただけですが、これは学説史整理を通じて主要な論点がよく分かります。今の日本の現状についてはそもそも分量も少ないので、不満が残りますが、それでもお勧めできます。実践的には『日置真世のおいしい地域(まち)づくりのためのレシピ50』の方が良いと思いますが。

それ以外でしたら、

第11章 法制度―市民社会に対する規定力とその変容―(岡本仁宏)
第13章 ローカル・ガバナンス―地域コミュニティと行政―(森裕亮)
第15章 公共サービスと市民社会―準市場を中心に―(後房雄)
第16章 排外主義の台頭―市民社会の負の側面―(樋口直人)

あたりがいいかな。宗教、国際社会におけるNGOを取り上げたのはよいのですが、うーん、お勧めできませんねえ。NGOの方はちょっとどの本(読みやすいサイズでは)を読んだらいいのか分かりませんが、宗教の方は稲場圭信『利他主義と宗教』弘文堂をお勧めします。あと、この本は企業と組合(ないし企業家、組合活動家)に対する理解が浅いのですが、この点は組合については高木郁朗先生の『共助と連帯』の増補改訂版が去年、明石書店から出ましたのでそれを読むといいと思います。企業の方はいいのがないですねえ。古いのだと山岡義典先生のものとかあるんですけどね。ローカル・ガバナンスはやっぱり町内会にいきなり行かずに、基礎自治体や都道府県庁との関係ももう少し触れて欲しかったです。中央と地方という対立のときの地方はその単位だと思うので。ヘイト文化は、日本では公務員バッシング、組合バッシングくらいからではないかと思うのですが、そのあたりとのつながりももうちょっと知りたかったですね。

ただ、いろいろ言ってきたものの、今までの市民社会論については植村邦彦『市民社会論とは何か』という思想史的文脈でのよい研究、かつよい入門書がありますから(この本でもところどころ引かれています)、その次の段階の基本テキストとしてこの本は申し分ないと思います。私の不満は、技術的なものと、そもそものこの分野に対するものとの二種ですが、いずれにしても、この本を一つの水準として、どんどん競合する本が出てきて欲しいと思います。そう、そういう意味ではメルクマールになるようなレベルの本として推薦します。
濱口先生から『EUの労働法政策』をいただきました。ありがとうございます。

おそらく、労働法関連からのコメントはそのうち、どこかで紹介されると思いますので、私は違った観点からこの本をお勧めしたいと思います。この本は、タイトル通り、EUにおける労働法の概説であるわけですが、その前提としてEUにおける社会政策(ソーシャル・ポリシー)を丁寧に説明しています。この点から今日は特にお勧めしたいのです。

日本では、社会政策研究の中で労働、とりわけ労使関係を重視したグループと、社会保障グループというのがきれいに分かれています。前者が作ったのが日本労働協会であり、後者は後に社会保障研究所を作ることになります。別に、そこを対立的に捉える必要はないのですが、労働政策と社会保障を含めた社会福祉政策が社会政策と言われながら、なかなかこれらを概観するよいテキストは今の日本では見当たりません。というか、通常、研究所としてはJILPTと社人研はすみ分けています。ただ、他の国というか地域のことを知るためには労働時間規制をどうしているかという細かい問題も必要ですが、その背景として、まさにヨーロッパのソーシャルという感覚が何かを理解する必要で、そのどちらが欠けてもいけません。そういう意味で、この本は非常に重要です。ソーシャルは2000年代以降、何人かの学者の努力によって、再評価を受けるに至りました。ただ、その紹介者の多くは実務というよりはやや思想に重きを置いているように思います。それはそれで価値があるのですが、実務的な意味で、社会を変えていこうと考えている人にはぜひこういう本こそ読んで欲しい。

日本には厚い入門書という考えがなく、どうしても薄いものから入ります。ですから、いわゆるhandbookという発想がほとんどない。ただ昔からそこのところはみんな考えていて、日本では事典がややそれに代替する役割を果たしている場合があります。事典と名乗らず、単に辞典という場合もあるので、そこは内容を確認しないといけません。『EUの労働法政策』はこの事典的役割を相当程度、果たしていると思います。ですから、全編、読めないと思っても、文字通り備えておくとよい本です。

国際比較的に言えば、今は東アジアが注目されたりしていますが、地域としてのアジアとヨーロッパでは全然違います。ヨーロッパはローマ帝国、キリスト教、ローマ法という統治秩序をかつて経験していますが、アジアにはそれに該当するような共通経験はまったくないと言えるでしょう。モンゴル帝国が広大な土地を支配しても、その後の歴史で別にモンゴル帝国に擬して国家づくりを試みる国はありません。その点、日本を含め、いわゆる西洋国家を模倣して近代国家を作った国にとっても、ヨーロッパという括りは大事で、それを専門としない者にとってはヨーロッパの「ではの守」は大変貴重で、かつ、特定の国民国家でなくヨーロッパ地域全体を射程に収めているというのはさらに希少です。

まあ、しかし、そういう大きな話をすると、なんで労働という狭い範囲なのに、と思われるかもしれません。しかし、世界的にはILOの存在も大きいんですよ。ILOは基本的には第一次世界大戦というヨーロッパの戦争の戦後処理で作られたものですから、国際的な統治の問題に深く関わっています。1927年に世界人口会議が開かれますが、やはりILOの影響ありますからね。そういう意味でも、ヨーロッパの労働法政策から、いろいろ考えるというのは、なかなか有効な手段ではないかなと思います。まあ、ただ、このあたりは私も勉強中なので、もう少し先で考えていきたいと思います。

啓蒙書には啓蒙書の役割があるので、別にそれはそれでよいんですが、出来れば、その中から少数でも『EUの労働法政策』『労働法政策』のような体系的政策理解、『日本の雇用修了』の法社会学的視点などを継承して深めていく人が出てきてほしいなと期待しています。そして、折に触れて言っていますが、そろそろこちらも改定されたので『労働法政策』も新しいものを出してほしいと念を押しておきます。

夏に東京ブックフェアに出かけたときに、あまりに面白そうだったので、衝動買いした本。博士論文を本にしたもので、おそらく近代日本思想史において今後、必ず参照されるべき研究と言えるだろう。前川さんは島薗進先生のお弟子さんということだが、先生の問題意識を少し違った角度から継承し、発展させている。前川さんがこの研究に取り組んだきっかけは蔵書整理ということで、そういう資料との邂逅体験というもの、よい歴史研究ではよく見られることのように思う。ともかく、このような形で師弟で学問を進めるというのはなかなか珍しいのではないか、と感じた。

この本は「宗教」概念をめぐる議論、すなわち宗教論が、人格陶冶を導いて、それが国民統治の道具たる国民教育へと展開していく過程を描いている。と、普通だったら、これだけでも十分に博士論文になると思うのだが、前川さんの場合、それは第二期の段階で、その幸せな国体論と宗教論の結びつきが破綻していく第三期(昭和十年代)まで描いている。前川さんが直接の先行研究として検討しているのは宗教学と教育学がメインだが、ざっくり言って、統治論、政治思想、法思想のような国の上の方での議論に関心を持っている人は、分野が多少違っても、必読の文献になっている。時期的に見ても、島薗先生の『国家神道と日本人』が教育勅語で終わっていることを思い出すと、まさに正統な継承者といえる(もちろん、島薗先生の仕事はこれだけにとどまるわけではないが)。

ざっくりとした感想だけれども、やっぱり明治期の日本というのは、貧しい中で無理して国家に学問させてもらっているという意識があって、だからその成果をなんとか還元しよういう気持ちの人が多いんだな、それは分野を違えても同じなんだなというのがまず浮かんだ。その意味では第2章でイノテツ(井上哲次郎)、第3章で姉崎正治という形で人物をベースにして、その対立者をうまく登場させた思想史研究で、第4章以降、宗教学の枠組みがどのように国家教学、国民教育として展開していくのかをマクロ的な広がりで捉えていて、これは構成と手法の組にみ合わせの妙だな、と唸るほかない。お手本というべきであろう。

この本が明らかにしたことは、人格修養主義がどのように登場してきたのかということを「宗教」をキーワードに見てきたことであろう。これは大正教養主義から戦後啓蒙主義までを理解する上でのカギになるだろう。本書でいえば、第1期から第2期にかけての基盤を明らかにしたと言える。ただ、第2期から第3期への移行については、やはりメインは社会科学、とりわけマルクス主義の影響を看過することはできないと思うのだが、この点はやはり十分に検討されているとは言えない。宗教、国体という明治期の枠組みの展開でこの時期を乗り越えるのは難しいと言える。T・H・グリーン思想を自らのコアとして鍛え直そうとした大正教養主義の申し子河合栄治郎は、宗教とは距離を置いたが、マルクス主義への対抗を思想的立場として置いていた。

1920年代以降、神道、仏教、キリスト教の社会事業は華々しく展開するのだが、それでもなお、社会問題を全面的に解決するようには見えず、多くの若者たちを魅了していったのはマルクス主義であった。マルクス主義こそが社会問題を全面的に解決するように信じた人が少なからずいたからである。分かりやすく言えば、人格修養主義では河合栄治郎は相当に努力したにもかかわらず、思想善導が実現できるとは思われなかったのである。1920年代から徐々に自然発生的に出てきて、1930年代に大々的に展開する日本主義はマルクス主義の影響から自由ではない。あとは大谷さんの日蓮主義運動も重要な導きになるはずである。

もう一つは、人格主義と人物論についてだが、カーライルの英雄崇拝はたしかに影響力が大きかったというのは私もそう思うけれども、より視野を広げてみると、いくつかの疑問がある。戦前期の人物論はゴシップが多い。このゴシップへのカウンターパートとして理想論が必要だったという面があるのではないか。さらに、宗教学の影響がどれくらいあったのかもなかなか難しいところではないか。多くの人々は今でも厳密に物事を考えたいわけではなく、適当に考えたいのである。そういう人たちを魅了するのは、方便を駆使する法話であろう。要するに、この時代の講演は宗教者の法話的なものも含めて娯楽なのである。この辺のリアリティがやや伝わってこない感じがする。私はまさにこの時代の労務管理を研究していたので、そういう資料も読んでいるから実感としてそう思った。具体例を少し書こう。たとえば、全体的な方針としては教育重視、修養主義で婦徳が重視されているのだが、実際の講話とかだと、ダメな亭主を陰に陽に叩き直す話が喝采を浴びたりしているわけである。本当にありがたい法話というのはそういう娯楽性をうまく取り込んでいる。何が言いたいのかというと、宗教が人格修養に寄与すると考えられたから宗教者が利用されるというより、単に話が面白くて、ときどき難しかったり、素晴らしい人生訓が入ったりするから、場が持って重宝だったのではないかという気もするのである。もちろん、知識階級にはいかに生きるべきかというようなニーズもある。

そうすると、やはりテーマだから仕方ないけれども、国家と宗教を結び付けて考察しすぎている気がする。それが少し窮屈である。素人からすると、やはりここのところは別の何かで補わなければならないな。とはいえ、冒頭で繰り返し褒めたように、本格的な歴史研究で教えられることは多いので、ぜひ手に取られることをお勧めする。