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『日本の賃金を歴史から考える』を書くにあたって、組合の皆さんを前に、今、組合というと、世間の人はユニオンのようなものをイメージするけれども、労働組合はその中心に技能を持つ人たちがいるということこそが交渉力の源泉になっているのだから、そのことを訴えていきたいということを話した。組合の中心で働いている人たちにとっては当たり前のことだと思う。あれから、5,6年経って、今年になって初めて社会政策の講義の中で、新しい労使関係の教え方をしてみた。もちろん、異論もあると思うが、とりあえずそのときの話の一端をここで再現しておきたいと思う。

今回、組合の交渉には二つの種類があると大雑把に分けてみた。一つは、反福祉状態の回復。多くの場合、こちらがスポットライトを浴びやすい。もう一つは、最低条件はクリアしているんだけれども、それをより良いものにしていくための交渉である。前者の基盤は、日本の場合、憲法の基本的人権の尊重にある。労働関係だから、もちろん民法、各種労働法は関連するけれども、根本的な基盤は憲法にある、と説明した。では、後者の基盤はどこにあるのだろうか。ここで私が説明したのは、その人たちがいなければ事業が動かなくなってしまうような、そういう仕事についての能力を労働者側が持っていることである、ということである。

JCMの市川さんから6月の末に、IGメタルの新労働協約についての記事をまとめて、それが公表されたのでというご連絡をいただいたので、早速、これと市川さんが読んでくださったといっていた私の情報労連でのストライキについてのインタビュー記事をあわせてその日の講義で配った。市川さんとは4年前に私が書いたブログエントリにコメントをいただいて、少し議論したことがあって、その後、何度か直接お目にかかる機会もあった。ちょうど、この前の何回かというか、わりと社会政策の講義の中でILOの重要性を繰り返し説明してきたこともあり、ILOでまさにストライキ権をめぐって抜き差しならない戦いを国際的な労働運動の共闘で守って来た市川さんとの議論したことと、IGメタルの話を枕にしたのである。

この話は結構、重要なので、私としては珍しくサルベージしておきたい。いつもやらないのは、しばしばエントリを書くときは勢いで書くので青臭くなりがちで、後から読み返すのが嫌だからというのと、単純に面倒くさいだけだが、今回はそれらを上回る、ぜひこの問題は広く共有してもらいたいという思いがあって再掲する。
市川さんがコメントしてくださったきっかけとなったエントリ 
それについて私の意見を書いた「ストライキ権について

ストライキ権は、然るべき手続きに則ってストライキを行うという条件の下で担保されていること、すなわち、交渉の一手段として認められているんだよ、というところまでを話した。情報労連のREPORTで語ったことは、それを超える祝祭の話であったわけだが、そこまでは一回の講義の中では無理であった。というか、実は、労使関係で二回も使ってしまった。

ストライキ権がどういうものなのかは良いとして、その次にはストライキを打つことがなぜ交渉に役立つのか、交渉力の源泉とは何かということを話さなければならない。ここでもう少し仕事の力でまかり通ればよかったんだけど、少し弱気になって、社会的な世論の影響の話をしてしまった。これはロジックとしてはまずかったなあ。

このIGメタルの記事はすごく大事なことがたくさん書いてあって、ぜひ労使関係に関係する方や労使関係の研究者は必読だと思うのだが、絶対に学部生には分からないだろう。それは読んだ瞬間から分かった。たぶん、労働問題を研究する院生レベルの人だって(それはかつての若き日の私も含めて)、なかなか理解するのは難しいと思う。これを精密に読めるレベルに達する学生を育てれば、どの産別でも、連合でも、私としては自信をもって送り出すことが出来るが、まあ、でも、この記事、どう考えても、大学院レベルだよな。

とはいえ、記事については、分かる分からないはどうでもよく、アクティブなタイミングだったので、こんなこともやっているんだよ、というリアリティを出すために配ったところもある。労働問題は、たとえば実際に働いてみたり、職安に通ってみたりすることで、初めて理解できる側面があるので、学生の段階で理解するのが難しいところがある。私自身、テストのための一夜漬け的な勉強をしてきたタイプなので、あえて言うが、労働に関わることはテストの対策としての知識問題としてではなく、やがて社会に出ていく自分たちに関わる問題だということをだけを理解して欲しいのである。実際に問題が起こったら、誰もがその時点で真剣に悩みだす。そこで解決できなければ私が何か話していたことを思い出して、相談に来てくれれば、それでいい。

もちろん、日々、学生がどういう力を身につけたらよいのか、ということは考えていて、それについてもいつか書いてもいいと思うけれども、しかし、本音で言えば、私は教え子がそれぞれ元気で幸せに暮らしてくれているのならば、それ以上、望むことはない。だから、そのためのヒントを一つでも多く持って帰ってくれればそれでよいといつも思っている。労使関係のなかにはそういうものがきっとあるよ。

ちなみに、この枠組みでは解雇の条件闘争などのシビアな話が捨象されてしまう。
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Tak.さんの新著『アウトライン・プロセッシングLIFE』が出版されたので、早速読んでみた。実はあまり期待しないで読んだのだが、期待に反して面白かった。なぜ期待していなかったのかというと、アウトライナーは私にとってはたしかに福音だったけれども、新しいものを学び、それを自分なりのものにカスタマイズするためのコストを払って得るベネフィットは逓減していくので、自分の今までの仕事のやり方とアウトライナーの折り合いをつけていたからだ。しかし、今回はそうしたライフハック的な意味とは別に、私が専門的に学んできた労働分野の研究にとって、かなりヒントになり得る本ではないか、と思ったので、あえてこのブログで紹介したい。

この本は端的に言えば、タスクということを徹底的に考えている本である。そもそも、タスクというのは何かといえば、切り分けられない最小単位の仕事であった。こういう特別な概念になったのは、テイラーや同時代の能率技師たち(ギルブレス夫妻など)の研鑽のせいで、彼らはあるタスクの最良の方法を発見して、その習得方法を学べば、誰にでもその方法を実践できると考えた。そう有名なストップウォッチを使った時間動作研究がそれである。テイラーが自らの方法に科学的管理法と名付けたように、これはある地域のある時代の科学観が色濃く反映されている。同時代人のフレックスナーは医者のプロフェッションに、誰にでも伝達できるプログラムがあること(秘教的でない)を掲げており、その発想はほぼ同じであると言えるだろう。

時間動作研究はその後、職務分析へと展開した。その歴史は私もまだよく分からないところが多いので、そのうち研究したいと思っているが、一般にはブルーカラーの仕事についての研究として日本では取り上げられてきた。私が教わってきたのは、アメリカのジョブという概念はタスクを積み上げられて構成される概念であるということであった。これはある時期のブルーカラーについては正しいが、アメリカではホワイトカラーの職務分析は少なくとも私が1960年代の動作研究についての文献(元NKKの奥田健二先生が60年代にアメリに留学した時に買って来た文献で、その甥の鈴木玲先生から私が譲り受けたもので、引っ越しの段ボールのどこかに入っていて、名前は分からない)には、ブルーカラー的な積み上げ型の職務分析とは違う方向を模索していたようだ。実際、ミルコッビチのコンペンセーションになると、下からの積み上げではない、現場や上からの職務の定め方というのが書かれている。この数十年の間に何が起こったかは丁寧な文献サーベイが必要である。

日本の場合、大手製造業の現場レベルでは積み上げ型の職務分析もやっていたが、分析と実際の仕事は別で、おそらくもっと高度な判断を含めてやってきた。それを学問的に迫ったのが小池和男先生の1980年代までの仕事である。ところが、この後、かつての労働問題研究ではホワイトカラー研究に向かっていったが、個人的にはあまり深まっているとも思っていない。完全にスタックしていると思う。個人的には、高橋弘幸さんの三井物産のホワイトカラー史研究は新しい可能性を持っていたと思っているが、残念ながら継承されることはないだろうと思う。というのも、そもそも内容が難しすぎ、これをちゃんと議論しようという学者グループがいないということである。私は何年も高橋さんの議論に付き合ってきて、その作業途中の話も聞いてきて、文献も何度も読んだが、なおよく分かっていないということだけは分かっていて、まだ半分くらいかなと思っている。その途中報告はこの書評である。

こういう方向からすると、まったく意外なところから正面突破したのが若き日のミンツバーグの研究、そう有名な「マネジャーの仕事」である。これは取締役研究なのだが、彼は一週間張り付いて、時間動作研究を敢行した。簡単に約めていえば、取締役の仕事は複雑に見えるけれども、意外とパターン化できるということだ。たとえば、誰と会うというのは、一様に法則化できないけれども、誰かと会う、電話を掛けるなどのレベルで抽象化すれば、意外とパターン化しているということである。この話を取締役経験のある人と議論したときに、その人がおっしゃっていたのは、そう重役になれば意外とそうなんだよ、難しいのはその手前まででこれはパターン化できない、ということだった。そう、ここで話はホワイトカラーに戻って来る。

このTak.さんの新刊である。これはまさにタスクがどう変化していくのか、ということをご自分の事例で語っている本である。Tak.さん自身が、実際の仕事とアウトライナーについての洞察(研究)とで試行錯誤のなかで作られたもので、もちろん、その変化を全部つぶさに記録しているわけではないので、あくまで再現であるが、それでもかなりタスクのあり方がどう変化しているのか、ということを明らかにしており、その点でとても興味深かった。この本から、いろいろと考えることは出来るのではないかと思う。その意味で、非常にリソースフルな本である。

後半の人生論は、私には不要だが、それはそれで面白い。個人的な経験で言えば、いかに生きるかというのは20代くらいには悩んだけれども、その後も個別具体的な問題にどう対応するかはよく迷うものの、原理原則的なところでまったく悩んでいないので、自分事としてはあまり共感できなかった。ただ、客観的な素材としては興味深い。中澤二朗さんの『働く、なぜ?』は仕事論・人生論という点では同じだが、ビジネスマン人生も終わり近くになって、後進世代に伝えたいことを書かれている。実際、自分の経験よりも先輩の話も多い(新日鉄だから偉大な先輩に事欠かないということも大いに関係しているが)。Tak.さんも中澤さんも少し求道的なところがあって、それゆえの人生論だが、これ昔の青年気質だよなあと思う(今の若者にはないと思う)。でも、Tak.さんは注で「恥ずかしいので全部読まなくていいです」とか書いてあって、ちょっとカワイイ。お陰で飛ばし読みしてたけど、戻って全部読んじゃいましたよ(笑)。

ちなみに、このエントリはまったくアウトライナーを使ってません。

濱口先生から問題提起をいただいたのですが、すっかりお返事がおそくなりました。すみません。

私はこの日本で「公正」という概念を探求することに意味があるとは考えません。それは公正という概念が法学や思想の言葉であったり、あくまでヨーロッパ由来の概念で、それが多くの日本人の思考様式に定着しているとも思えないからです。もう少し範囲を限定した「公正な賃金」についても、それを原理的に探求することが重要だとはまったく思いません。ただし、これはあくまで日本では、という限定つきの話です。

結論だけ言ってしまえば、公正は常に目指しておくべきものであって、公正な賃金はあくまで社会において公正が達成できた後に賃金として具体化するのであって、賃金を変えれば、社会の公正が達成するというのは、賃金制度を変えれば経営改革が実現できると考えるのと同様に倒錯した話で、そのようなあるべき「公正な賃金」は少なくとも私は存在しないと考えています。もちろん、その達成すべき公正に向かうための順番としてパターンセッターに賃金が来てもいいわけですが、個人的にそれは難しかろうと感じています。

1970年代、福祉国家の見直しが行われた時期に、社会政策の見直しも行われ、その中で香川大学の木村正身先生が「労働条件と福祉条件」という論文を書かれました。その最後の結論が生活ニードの充足または福祉は反福祉状態からの回復というネガティブな形で具体的に検証されるとしました。この考え方は、実はここだけではなく、日本人の「権利」理解にも通ずるところがあります。それは権利が侵害されている反権利状態において、はじめて権利の意味が理解されると言い換えることが出来るでしょう。私は正直、驚いたのですが、わりと尊敬する友人も権利をそのように教えているという話でした。これは裏返すと、「権利」というと左派が文句を言っていてうんざりするという反応になるわけです。

しかし、ヨーロッパでは最大保守のカトリックのカテキズムのなかにも、というよりは、カテキズムのなかにこそ「人権」概念の説明があります。私自身はカトリックではないですが、カトリック的な思想はわりと好きなので、抵抗感はありません。なぜ、カトリックの話を出したかと言えば、人知を越える秩序(もちろん自然法も深く関わっています)が、現在、それを信じるか信じないかは別に、思想的に脈々と受け継がれているからです。本当はそこに体験しているかいないかという軸もあり得るのですが、それは除外しておきます。なお、第二バチカン公会議ではカトリックは他宗教のうちにみえる真理のあり方も認めるようになりましたし、キリスト教からもジョン・ヒックのような宗教多元主義も出て、スピリチュアリティを重視する立場はわりと広く見られます(日本でも宗教者災害支援連絡会はこうした理念を共有していると言えましょう)。

もちろん、その普遍的な意味を重視しない立場もあり得るわけで、尾高朝雄の「法哲学における形而上学と経験主義」はその一つです。端的に言うと、尾高は経験は誤ることもあるのだから、正しい経験に上書きすればよいという相対主義を提示していて、その論理だったら自然法はいらなくなるし、実際いらなくなると言っています。ただ、自然法というか、キリスト教における経験とは元来、ある種の神秘体験、絶対的な体験を意味していたのだろうと思うので尾高的な議論が正しいとも思わないのですが、この現代の法治国家においては、尾高の方が現実的でしょう。我々は自然法の思想的流れを引き継ぐコモンローで、いかに妻が夫の従属物であると言われても、まったく説得されないわけです。こういうのは男女の性的役割分業や多様な性のあり方を問い直してきたジェンダー研究や、作られた意味の問い直しをしてきた社会構築主義に多くを学ぶことが出来るでしょう。

ここで終わると話が進まないので「公正な賃金」にうつりますが、結局、相対的にどう納得させるのかという話に過ぎません。相対的価値観を前提とした世界のなかで、どれだけ多くの人を納得させるロジックを持てるのか、というコトになると思います。そして、濱口先生が考えているのはこの意味での労働組合が人々を納得させる賃金の主張をするということでしょう。ただ、今のところ、公正の概念は、権利が毀損されている状態の人を通じてだけしか持ち得ません。この場合、多くの人が気の毒だなと認める場合には、そういう共通了解が得られやすいのですが、それが回復されるべき権利という思想信条によってなされるのか、たんに気の毒な状態を誰もが見たくないだけなのか、よく分かりません。

日本にも比較的広まっている「公正な賃金」に近い考え方にフェア・トレードがあります。これはイギリスで始まった発展途上国からの商品にちょっと高めにお金を払って、そのお金で彼らの所得(賃金だけではないので)を向上させようという考え方です。どれだけその理念に賛同しているかは別にして、東京にいれば、フェア・トレードを掲げたコーヒーを飲むことも珍しくはありません(というか、説明書きを読まないと気づかない)。でも、これも突き詰めれば、国際的な児童労働においては子供たちが福祉を毀損されている状態に対しての異議申し立てであり、それを他者を糾弾するのではなく、連帯の力で変えていこうという話です。

連合の須田さんも公正な賃金などないとおっしゃっています。その言いたいところをまとめると、最初から公正な賃金などというものが存在するのではなく、みんなで納得が出来る賃金を作っていくしかないんだということです。須田さんは別に尾高の論文なんか読んでないと思いますが、結果的に彼の理念に近いことをやっています。

それでもなぜ「同一労働同一賃金」という言葉に多くの人が引きつけられるのでしょうか。同一労働同一賃金という言葉が一体何を指し示すのかというのは昔から議論があったところで、なかにはそういう曖昧な表現が良くないから、同一価値労働同一賃金と言うべきだという主張もありました。しかし、結局、今でも人々の間に残っているのは「同一労働同一賃金」という表現です。それは男女差別を解消する、後に人種差別を解消する、差別という社会的な不公正を解決する、そういう理念として受け取られてきたからです。

昔、何十年も前、ある大物政治家が予算を持ってきてこれで保母さんたちの賃金を上げてくれ、やりかたはお前たちに任せるといってきたそうです。当時の担当の方たちは、彼女たちの賃金を上げようと工夫しますが、結局、他の公務員とのバランスで、大して上げられないで終わってしまったそうです。その話を聞いたときに、賃金論なんかに意味があるのかということを言われたのですが、それに対して、私は意味なんかないですよとお答えしました。ただ、一つ言えるのは、賃金を変えて社会を変えようとするのは社会改革である。社会改革をやると思って漸進的にやるしかない、と。

思想というのは、そんなに複雑なものは不要なんです。敵を含めた他者へのコンパッション(愛情といってもいいですが)と社会をよくしようという社会改良主義を胸に秘めていれば、それで十分です。あとは最後まで投げない根気じゃないですか。

このようにまとめてしまうと、ずっと議論してきた年功的な賃金(ないし職能資格給)的な世界だけで成立していかなくなっているのに、それに代替する制度(たとえば、職務分析にもとづく職務給ないし職種給)について論じていないではないかと言われそうです。まあ、しかし、その問題はその問題で重要なのですが、持続可能性を担保してどのように制度を考えていけばよいのか、その設計思想にはどういうものがふさわしいのかという議論は、別に公正な賃金論とは関係ないんですね。

それについての私の考えは、約めて言えば、賃金だけで考えていても仕方ない、社会保障もセットで考えなければならない、地方単位ではなく国家単位で考える必要がある(シビル・ミニマムではなく、ナショナル・ミニマムで)、ということですが、これ、もういろんなところで書いているし、言っても来たので、今回は繰り返しません。一つだけ、日本的雇用システムを補完する財形貯蓄はいいんですか?と、組合と経営者の労使だけが制度を作ってきたわけじゃないですよね、と確認しておきたいと思います。
連合総研の「雇用・賃金の中長期的なあり方に関する調査研究報告書」が2ヶ月ほど前に発表されました。連合総研のホームページで全文、読むことが出来ます。私も「日本の賃金と歴史と展望に関する研究委員会」(座長:龍井葉二連合総研副所長)では深く関係したので、この報告書に少しコメントというか、補足したいと思います。

濱口先生がこの報告書についてエントリにされています。その勘所を「一人前労働者の賃金とは、単に生存が保障されるだけではなく、次世代の労働力の再生産を可能とするような生活を保障する賃金でなければならない」「このあるべき賃金を、一定の仕事スキルを持った一人前労働者に一律に保障するというところで、労働力の市場価格とは区別された一人前労働者の固有の賃金水準を設定するというイメージです」と要約されています。

前半部分の生活保障賃金の考え方が具体的に「親一人子一人」モデルが提示されました。この点が最終報告書と中間報告書では決定的に変わっています。これは明らかに藤原千沙さんの影響でしょう。ただ、ちょっとこの報告書だとこのモデルの意味が分かりにくくないかなと心配です。藤原さんの考え方については、同じく連合総研のDIOに掲載された「「多様な働き方」における生活賃金の課題」を読むとよく分かります。これもまた、濱口先生が勘所だけを紹介されているので、そちらを読んでもいいでしょう。コメント欄も早川さんと濱口先生のやりとりも重要です。そして、例によってまったく覚えていませんが、私も登場していますね。

わりと感情を刺激する議論でもあるので一つだけ補足。「親一人子一人モデル」というのは、藤原さんがシングルマザー世帯の研究をやってきたということの帰結でもあるのですが、ポイントは別に「二人親二人子世帯」モデルを否定しているわけではないんですね。単純に言えば、倍になるわけで、307万円の倍、614万円になるので、別に問題ないんですね。これは最低線を決めようということですから。だから、標準家族という考え方も、それはそれなりに問題があって、いろいろ言われるんですが、仮にそれを認めたとしても問題ないのです。標準家族の考え方の問題は家族計画の進展と結びついて理解する必要があるんですが、それはそのうちどこかで書くことにしましょう。

実はこのモデルは、長時間労働の相対化にも射程が及んでいるのです。つまり、シングルペアレントの世帯では、保育所や周囲の人の助けを借りたり、子どもの手伝いがあるにしても、基本的にはケアを一人でやらなければならないわけです。ということは、経済学の世界では、労働時間と余暇時間という分け方があるわけですが、この余暇時間もさらに、生活必要時間と余暇時間に分けるということが出来ると思います。この考え方は、今のインターバルの議論をさらに一歩、進めたものです。ワーク・ライフ・バランスということを考えるのであれば、実はこれはシングルペアレント世帯だけでなく、すべての世帯に関係する問題なのです。

後半部分、濱口先生が批判されているのは、一人前の仕事を全員に等しく与えるのは困難ではないか、ということです。ここはたしかに、具体的な仕事があげられていないので分かりませんが、具体的に確定するためには職務分析をしなければなりません。なお、ここでの職務分析は、仕事をよく知るベテランに話を聞くということです。この点は企業ごと、あるいは職種ごとに、産業ごとに定めていかなければなりません。これについては、実は既に実験的に試みたものが報告書になったと聞いているんですが、私はもらってないので、その後、どうなったか分かりません。
濱口先生が私の前エントリを枕に「竹中理論はなぜ使えないのか」ということを書かれているのですが、もう少し内在的になぜ今、読んでもあまり意味がないのか、ということを考えてみたいと思います。まあ、しかし、私は竹中恵美子を読もうとは思っても、自分から『家父長制と資本制』を再読しようとは思わないですし、大沢さんの『企業社会を超えて』もそうですね。今、ちょっと読み返してみたら、やっぱり古いなと感じました(竹中先生ほどではないにしても)。今、読むなら、やっぱり『生活保障のガバナンス』ですよ。これ、大沢先生の中で一番じゃないかなと思います。

でも、アカデミックなトレーニングをするという意味では、竹中先生の方がよいと思いますよ。濱口先生も言及されている大沢さんの竹中批判については完全に的外れで、その昔、大河内先生の型論が批判されたときとまったく同じパターンの理解不足ですから、これを仮に論争と呼ぶならば、完全に竹中先生の勝ちです。要は、特殊というのは抽象次元の問題で、すべて現象は特殊なのであって、理論をやっている人は現象の対極として普遍を考えますから、特殊という言い方をするんですね。大河内先生のときは日本特殊論、竹中先生のときは女性特殊論というのがひっかかったわけです。そういう発想自体がそもそもどうなの?というのは問いかけてもいいですが、あまり生産的にはなりませんよ。読みやすさの問題では、理論志向かどうかというところもありますね。

まあ、そんなつまらないことはどうでもいいんですが、なぜ竹中先生の議論が今一つ、私に響かないかと言うと、マルクス主義の用語ということだけじゃなくて、ちょっと別の次元の話なんです。竹中先生はその当時の労働問題研究は製造業の労働者を問題にしていたのに対し、そこに女性労働者の問題を押し込もうとされたんですが、そのときに設定枠組みを根本から鍛え直すというよりは、もとの資本制モデルを近代家族に拡張したんですね。そこは建て増しじゃなくて、建て替えなきゃいけなかったんじゃないの、というのが私の感想なんですよ。

近代家族というのは、産業化によって人口増加が起こって近代都市が誕生し、そこに登場してくるというのが一般的なストーリーなんですが、これで語っちゃっていいのは1920年代前半くらいまでで、ミルズのホワイトカラーも1950年代には出ているし、要は工場労働者だけで都市もそこの近代家族も語れないんですね。それと同時に農村も入れれば、さらに日本全体を語れないのも明らかなんですよ。まあ、竹中先生も不生産労働の増加という形で第三次産業に触れたりもしているんですが、じゃあ、それで大きな枠組みが組み替えられたかと言われれば、やはりそれはなされていないんですね。

だから、その延長線上にある竹中先生のアンペイド・ワーク論も、ほとんど興味がないんです。アンペイド・ワーク論はある特定の運動においてはすごく重要で、その限りにおいて、というか、そのアクチュアルな国際的な展開とあわせて理解すべきですが、理論的に探究することについては展望が開けないんじゃないかなと思っています。実際は、どう測定するかという技術的な問題なんですよ。もっとも、そのどう測定するかということは、思想と無縁ではないので、そこから切り込むことも出来ますが。

そもそも雇用関係をつきつめて考えると、労働の対価が賃金でなければならないということ自体近代の発想であって、必ずしも雇用関係の必要条件じゃないんですね(もちろん、濱口先生のように政策志向で労働問題を考えるならば、対価としての賃金は所与の条件です)。そこまで行くと、雇用関係そのものの問い直しにもなります。この点は実は森建資先生の『雇用関係の生成』木鐸社の主テーマで(実はジェンダー問題もサラッと触れられていますが)、様々な社会関係を考察して行くことになるでしょう。そうすると、ジェンダーの問題もあるんだけど、福祉的就労や、ボランティア・ワークの問題をどう考えるのか、それと雇用労働はどう違うのか、同じなのか、雇用労働の中で自主性をもって仕事をすること(自発性)とボランティア精神はどう違うのか、といったことをどんどん問いかける必要が出て来るでしょう。そこまで来ると、ことは労働そのものの考察になりますから、今、ジェンダーを仮に「作られた社会関係」と定義するならば、具体性が高すぎて、理論的につきつめて考えて行くと、捨象することも可能だろうと思います。

マルクス主義は左派運動的には支配・被支配と独立や自由、自主性の問題と密接に歩んで来ました。でも、その問題を突き詰めていくと、どちらかというと、権力の問題になって、政治学や政治哲学(ないし思想)の方が得意分野なんですよね。男性社会の無意識のなかに隠された権力性みたいな話なんですが、それを批判するんであれば、別にマルクス主義である必要はどこにもなくて、スーザン・M・オーキンやマーサ・ヌスバウムのようなリベラリズムの立場からの批判もあり得るわけです。むしろ、ラディカル・フェミニズムとマルクス「経済学」系の労働問題の接合って、そんなに相性よいんかいなという疑問もあります。

西洋文化圏の人たちが西洋思想を乗り越えようとするのは分かるんですが、本当は日本で同じような仕事をやって欲しいんですよね。たとえば、丸山眞男の政治思想史、あるいはそのフォロワーたちを批判的に乗り越えるようなフェミニズムの本とかです。丸山に「女性」が出てこないと指摘するだけでは不十分で、それを入れたら、どういう風に彼の議論を組み替えることが出来るのかというところまで示して欲しいのです。まあ、ないものねだりをしても仕方ないので、次は岡野八代先生の『フェミニズムの政治学』とリベラリズム系のフェミニズムを比較して勉強しますかね。
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