濱口先生から問題提起をいただいたのですが、すっかりお返事がおそくなりました。すみません。

私はこの日本で「公正」という概念を探求することに意味があるとは考えません。それは公正という概念が法学や思想の言葉であったり、あくまでヨーロッパ由来の概念で、それが多くの日本人の思考様式に定着しているとも思えないからです。もう少し範囲を限定した「公正な賃金」についても、それを原理的に探求することが重要だとはまったく思いません。ただし、これはあくまで日本では、という限定つきの話です。

結論だけ言ってしまえば、公正は常に目指しておくべきものであって、公正な賃金はあくまで社会において公正が達成できた後に賃金として具体化するのであって、賃金を変えれば、社会の公正が達成するというのは、賃金制度を変えれば経営改革が実現できると考えるのと同様に倒錯した話で、そのようなあるべき「公正な賃金」は少なくとも私は存在しないと考えています。もちろん、その達成すべき公正に向かうための順番としてパターンセッターに賃金が来てもいいわけですが、個人的にそれは難しかろうと感じています。

1970年代、福祉国家の見直しが行われた時期に、社会政策の見直しも行われ、その中で香川大学の木村正身先生が「労働条件と福祉条件」という論文を書かれました。その最後の結論が生活ニードの充足または福祉は反福祉状態からの回復というネガティブな形で具体的に検証されるとしました。この考え方は、実はここだけではなく、日本人の「権利」理解にも通ずるところがあります。それは権利が侵害されている反権利状態において、はじめて権利の意味が理解されると言い換えることが出来るでしょう。私は正直、驚いたのですが、わりと尊敬する友人も権利をそのように教えているという話でした。これは裏返すと、「権利」というと左派が文句を言っていてうんざりするという反応になるわけです。

しかし、ヨーロッパでは最大保守のカトリックのカテキズムのなかにも、というよりは、カテキズムのなかにこそ「人権」概念の説明があります。私自身はカトリックではないですが、カトリック的な思想はわりと好きなので、抵抗感はありません。なぜ、カトリックの話を出したかと言えば、人知を越える秩序(もちろん自然法も深く関わっています)が、現在、それを信じるか信じないかは別に、思想的に脈々と受け継がれているからです。本当はそこに体験しているかいないかという軸もあり得るのですが、それは除外しておきます。なお、第二バチカン公会議ではカトリックは他宗教のうちにみえる真理のあり方も認めるようになりましたし、キリスト教からもジョン・ヒックのような宗教多元主義も出て、スピリチュアリティを重視する立場はわりと広く見られます(日本でも宗教者災害支援連絡会はこうした理念を共有していると言えましょう)。

もちろん、その普遍的な意味を重視しない立場もあり得るわけで、尾高朝雄の「法哲学における形而上学と経験主義」はその一つです。端的に言うと、尾高は経験は誤ることもあるのだから、正しい経験に上書きすればよいという相対主義を提示していて、その論理だったら自然法はいらなくなるし、実際いらなくなると言っています。ただ、自然法というか、キリスト教における経験とは元来、ある種の神秘体験、絶対的な体験を意味していたのだろうと思うので尾高的な議論が正しいとも思わないのですが、この現代の法治国家においては、尾高の方が現実的でしょう。我々は自然法の思想的流れを引き継ぐコモンローで、いかに妻が夫の従属物であると言われても、まったく説得されないわけです。こういうのは男女の性的役割分業や多様な性のあり方を問い直してきたジェンダー研究や、作られた意味の問い直しをしてきた社会構築主義に多くを学ぶことが出来るでしょう。

ここで終わると話が進まないので「公正な賃金」にうつりますが、結局、相対的にどう納得させるのかという話に過ぎません。相対的価値観を前提とした世界のなかで、どれだけ多くの人を納得させるロジックを持てるのか、というコトになると思います。そして、濱口先生が考えているのはこの意味での労働組合が人々を納得させる賃金の主張をするということでしょう。ただ、今のところ、公正の概念は、権利が毀損されている状態の人を通じてだけしか持ち得ません。この場合、多くの人が気の毒だなと認める場合には、そういう共通了解が得られやすいのですが、それが回復されるべき権利という思想信条によってなされるのか、たんに気の毒な状態を誰もが見たくないだけなのか、よく分かりません。

日本にも比較的広まっている「公正な賃金」に近い考え方にフェア・トレードがあります。これはイギリスで始まった発展途上国からの商品にちょっと高めにお金を払って、そのお金で彼らの所得(賃金だけではないので)を向上させようという考え方です。どれだけその理念に賛同しているかは別にして、東京にいれば、フェア・トレードを掲げたコーヒーを飲むことも珍しくはありません(というか、説明書きを読まないと気づかない)。でも、これも突き詰めれば、国際的な児童労働においては子供たちが福祉を毀損されている状態に対しての異議申し立てであり、それを他者を糾弾するのではなく、連帯の力で変えていこうという話です。

連合の須田さんも公正な賃金などないとおっしゃっています。その言いたいところをまとめると、最初から公正な賃金などというものが存在するのではなく、みんなで納得が出来る賃金を作っていくしかないんだということです。須田さんは別に尾高の論文なんか読んでないと思いますが、結果的に彼の理念に近いことをやっています。

それでもなぜ「同一労働同一賃金」という言葉に多くの人が引きつけられるのでしょうか。同一労働同一賃金という言葉が一体何を指し示すのかというのは昔から議論があったところで、なかにはそういう曖昧な表現が良くないから、同一価値労働同一賃金と言うべきだという主張もありました。しかし、結局、今でも人々の間に残っているのは「同一労働同一賃金」という表現です。それは男女差別を解消する、後に人種差別を解消する、差別という社会的な不公正を解決する、そういう理念として受け取られてきたからです。

昔、何十年も前、ある大物政治家が予算を持ってきてこれで保母さんたちの賃金を上げてくれ、やりかたはお前たちに任せるといってきたそうです。当時の担当の方たちは、彼女たちの賃金を上げようと工夫しますが、結局、他の公務員とのバランスで、大して上げられないで終わってしまったそうです。その話を聞いたときに、賃金論なんかに意味があるのかということを言われたのですが、それに対して、私は意味なんかないですよとお答えしました。ただ、一つ言えるのは、賃金を変えて社会を変えようとするのは社会改革である。社会改革をやると思って漸進的にやるしかない、と。

思想というのは、そんなに複雑なものは不要なんです。敵を含めた他者へのコンパッション(愛情といってもいいですが)と社会をよくしようという社会改良主義を胸に秘めていれば、それで十分です。あとは最後まで投げない根気じゃないですか。

このようにまとめてしまうと、ずっと議論してきた年功的な賃金(ないし職能資格給)的な世界だけで成立していかなくなっているのに、それに代替する制度(たとえば、職務分析にもとづく職務給ないし職種給)について論じていないではないかと言われそうです。まあ、しかし、その問題はその問題で重要なのですが、持続可能性を担保してどのように制度を考えていけばよいのか、その設計思想にはどういうものがふさわしいのかという議論は、別に公正な賃金論とは関係ないんですね。

それについての私の考えは、約めて言えば、賃金だけで考えていても仕方ない、社会保障もセットで考えなければならない、地方単位ではなく国家単位で考える必要がある(シビル・ミニマムではなく、ナショナル・ミニマムで)、ということですが、これ、もういろんなところで書いているし、言っても来たので、今回は繰り返しません。一つだけ、日本的雇用システムを補完する財形貯蓄はいいんですか?と、組合と経営者の労使だけが制度を作ってきたわけじゃないですよね、と確認しておきたいと思います。
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連合総研の「雇用・賃金の中長期的なあり方に関する調査研究報告書」が2ヶ月ほど前に発表されました。連合総研のホームページで全文、読むことが出来ます。私も「日本の賃金と歴史と展望に関する研究委員会」(座長:龍井葉二連合総研副所長)では深く関係したので、この報告書に少しコメントというか、補足したいと思います。

濱口先生がこの報告書についてエントリにされています。その勘所を「一人前労働者の賃金とは、単に生存が保障されるだけではなく、次世代の労働力の再生産を可能とするような生活を保障する賃金でなければならない」「このあるべき賃金を、一定の仕事スキルを持った一人前労働者に一律に保障するというところで、労働力の市場価格とは区別された一人前労働者の固有の賃金水準を設定するというイメージです」と要約されています。

前半部分の生活保障賃金の考え方が具体的に「親一人子一人」モデルが提示されました。この点が最終報告書と中間報告書では決定的に変わっています。これは明らかに藤原千沙さんの影響でしょう。ただ、ちょっとこの報告書だとこのモデルの意味が分かりにくくないかなと心配です。藤原さんの考え方については、同じく連合総研のDIOに掲載された「「多様な働き方」における生活賃金の課題」を読むとよく分かります。これもまた、濱口先生が勘所だけを紹介されているので、そちらを読んでもいいでしょう。コメント欄も早川さんと濱口先生のやりとりも重要です。そして、例によってまったく覚えていませんが、私も登場していますね。

わりと感情を刺激する議論でもあるので一つだけ補足。「親一人子一人モデル」というのは、藤原さんがシングルマザー世帯の研究をやってきたということの帰結でもあるのですが、ポイントは別に「二人親二人子世帯」モデルを否定しているわけではないんですね。単純に言えば、倍になるわけで、307万円の倍、614万円になるので、別に問題ないんですね。これは最低線を決めようということですから。だから、標準家族という考え方も、それはそれなりに問題があって、いろいろ言われるんですが、仮にそれを認めたとしても問題ないのです。標準家族の考え方の問題は家族計画の進展と結びついて理解する必要があるんですが、それはそのうちどこかで書くことにしましょう。

実はこのモデルは、長時間労働の相対化にも射程が及んでいるのです。つまり、シングルペアレントの世帯では、保育所や周囲の人の助けを借りたり、子どもの手伝いがあるにしても、基本的にはケアを一人でやらなければならないわけです。ということは、経済学の世界では、労働時間と余暇時間という分け方があるわけですが、この余暇時間もさらに、生活必要時間と余暇時間に分けるということが出来ると思います。この考え方は、今のインターバルの議論をさらに一歩、進めたものです。ワーク・ライフ・バランスということを考えるのであれば、実はこれはシングルペアレント世帯だけでなく、すべての世帯に関係する問題なのです。

後半部分、濱口先生が批判されているのは、一人前の仕事を全員に等しく与えるのは困難ではないか、ということです。ここはたしかに、具体的な仕事があげられていないので分かりませんが、具体的に確定するためには職務分析をしなければなりません。なお、ここでの職務分析は、仕事をよく知るベテランに話を聞くということです。この点は企業ごと、あるいは職種ごとに、産業ごとに定めていかなければなりません。これについては、実は既に実験的に試みたものが報告書になったと聞いているんですが、私はもらってないので、その後、どうなったか分かりません。
濱口先生が私の前エントリを枕に「竹中理論はなぜ使えないのか」ということを書かれているのですが、もう少し内在的になぜ今、読んでもあまり意味がないのか、ということを考えてみたいと思います。まあ、しかし、私は竹中恵美子を読もうとは思っても、自分から『家父長制と資本制』を再読しようとは思わないですし、大沢さんの『企業社会を超えて』もそうですね。今、ちょっと読み返してみたら、やっぱり古いなと感じました(竹中先生ほどではないにしても)。今、読むなら、やっぱり『生活保障のガバナンス』ですよ。これ、大沢先生の中で一番じゃないかなと思います。

でも、アカデミックなトレーニングをするという意味では、竹中先生の方がよいと思いますよ。濱口先生も言及されている大沢さんの竹中批判については完全に的外れで、その昔、大河内先生の型論が批判されたときとまったく同じパターンの理解不足ですから、これを仮に論争と呼ぶならば、完全に竹中先生の勝ちです。要は、特殊というのは抽象次元の問題で、すべて現象は特殊なのであって、理論をやっている人は現象の対極として普遍を考えますから、特殊という言い方をするんですね。大河内先生のときは日本特殊論、竹中先生のときは女性特殊論というのがひっかかったわけです。そういう発想自体がそもそもどうなの?というのは問いかけてもいいですが、あまり生産的にはなりませんよ。読みやすさの問題では、理論志向かどうかというところもありますね。

まあ、そんなつまらないことはどうでもいいんですが、なぜ竹中先生の議論が今一つ、私に響かないかと言うと、マルクス主義の用語ということだけじゃなくて、ちょっと別の次元の話なんです。竹中先生はその当時の労働問題研究は製造業の労働者を問題にしていたのに対し、そこに女性労働者の問題を押し込もうとされたんですが、そのときに設定枠組みを根本から鍛え直すというよりは、もとの資本制モデルを近代家族に拡張したんですね。そこは建て増しじゃなくて、建て替えなきゃいけなかったんじゃないの、というのが私の感想なんですよ。

近代家族というのは、産業化によって人口増加が起こって近代都市が誕生し、そこに登場してくるというのが一般的なストーリーなんですが、これで語っちゃっていいのは1920年代前半くらいまでで、ミルズのホワイトカラーも1950年代には出ているし、要は工場労働者だけで都市もそこの近代家族も語れないんですね。それと同時に農村も入れれば、さらに日本全体を語れないのも明らかなんですよ。まあ、竹中先生も不生産労働の増加という形で第三次産業に触れたりもしているんですが、じゃあ、それで大きな枠組みが組み替えられたかと言われれば、やはりそれはなされていないんですね。

だから、その延長線上にある竹中先生のアンペイド・ワーク論も、ほとんど興味がないんです。アンペイド・ワーク論はある特定の運動においてはすごく重要で、その限りにおいて、というか、そのアクチュアルな国際的な展開とあわせて理解すべきですが、理論的に探究することについては展望が開けないんじゃないかなと思っています。実際は、どう測定するかという技術的な問題なんですよ。もっとも、そのどう測定するかということは、思想と無縁ではないので、そこから切り込むことも出来ますが。

そもそも雇用関係をつきつめて考えると、労働の対価が賃金でなければならないということ自体近代の発想であって、必ずしも雇用関係の必要条件じゃないんですね(もちろん、濱口先生のように政策志向で労働問題を考えるならば、対価としての賃金は所与の条件です)。そこまで行くと、雇用関係そのものの問い直しにもなります。この点は実は森建資先生の『雇用関係の生成』木鐸社の主テーマで(実はジェンダー問題もサラッと触れられていますが)、様々な社会関係を考察して行くことになるでしょう。そうすると、ジェンダーの問題もあるんだけど、福祉的就労や、ボランティア・ワークの問題をどう考えるのか、それと雇用労働はどう違うのか、同じなのか、雇用労働の中で自主性をもって仕事をすること(自発性)とボランティア精神はどう違うのか、といったことをどんどん問いかける必要が出て来るでしょう。そこまで来ると、ことは労働そのものの考察になりますから、今、ジェンダーを仮に「作られた社会関係」と定義するならば、具体性が高すぎて、理論的につきつめて考えて行くと、捨象することも可能だろうと思います。

マルクス主義は左派運動的には支配・被支配と独立や自由、自主性の問題と密接に歩んで来ました。でも、その問題を突き詰めていくと、どちらかというと、権力の問題になって、政治学や政治哲学(ないし思想)の方が得意分野なんですよね。男性社会の無意識のなかに隠された権力性みたいな話なんですが、それを批判するんであれば、別にマルクス主義である必要はどこにもなくて、スーザン・M・オーキンやマーサ・ヌスバウムのようなリベラリズムの立場からの批判もあり得るわけです。むしろ、ラディカル・フェミニズムとマルクス「経済学」系の労働問題の接合って、そんなに相性よいんかいなという疑問もあります。

西洋文化圏の人たちが西洋思想を乗り越えようとするのは分かるんですが、本当は日本で同じような仕事をやって欲しいんですよね。たとえば、丸山眞男の政治思想史、あるいはそのフォロワーたちを批判的に乗り越えるようなフェミニズムの本とかです。丸山に「女性」が出てこないと指摘するだけでは不十分で、それを入れたら、どういう風に彼の議論を組み替えることが出来るのかというところまで示して欲しいのです。まあ、ないものねだりをしても仕方ないので、次は岡野八代先生の『フェミニズムの政治学』とリベラリズム系のフェミニズムを比較して勉強しますかね。
名著『技手の時代』を読んで、その書評を書いていたんですが、小路さんが描く実業教育史のなかで一つのひっかりがありました。小路さんは、資料ベースで飛んだ議論をなさらない方なので、あまり掘り下げておられないのですが、実業教育のもう一つの重要なテーマは倫理でした。もちろん、1910年代から20年代にかけて、実業補習教育から出た公民教育が重要な役割を果たし、それが普通教育のなかに浸透していったことは小路さんもよく分かっていて、安岡正篤らの職分論なんかも検討しているのですが、なかなかその先まで突っ込んで行ってくれない。

なぜ、この時期に実業教育から公民教育が重要になったのかにはざっと考えると、いくつかのフェーズが考えられます。まず、大正期には学校制度があんまり社会から遊離していて、このままじゃダメだろうという反省が起こったこと。ちゃんと社会と結びつくという意味で実業教育の重要性がクローズアップされました。もうひとつは、時期的に普通選挙が実施されるようになると、公民(国民、ないし、市民)教育が重要になってきました。さらに、普通教育の最高機関の学生たちが軒並み左傾化するなかで、倫理が重要になってきたわけです。

小路さんは由井常彦先生の研究を引いて西田哲学と倫理の関係なんかも触れているので、この重要な問題をよくご存じなんですよね。由井先生の経営思想史研究って、私も直接先生からお話を聞いて、禅の重要性とかを教わったわけですが、ほとんどの人は注目していないんじゃないかと思います。それがさらっと書いてある。

なんでこの話を書くかというと、中澤二朗さんの『働く。なぜ?』はそういう忘れられた仕事と倫理の問題の探求の書ではないかと感じていたからです。これ自体が修養の書と言ってもよいでしょう。

この本を取り上げるにあたって、マシナリさんが「会社の仕事の土台は「行動量」」ということで、仕事の「量」が大事だという話に注目されているのは興味深いですね。これは研究も同じ事がいえるので、とくに歴史研究であれば見た資料の数であったり、あるいは読んだ本の数(ちゃんと自分の糧にしたという意味ですが)が研究に奥行きを与えるんだろうなと私も思います。どんなに若い頃、評判を取って、その後大家になった人でもその遺産を食いつぶしている人というのはいるわけで、それは見る人が見れば分かります。

マシナリさんも引用されている加賀乙彦がラッシュの新宿の群衆をして「非常招集された兵隊」と描いたという話ですが、1960年代の会社人、特に戦争を経験した世代はそういう意識を持っていたと思います。というのは、少なからぬ人が若くして戦争で死んだ友人たちを安心させるために復興し、経済大国を作ろうとしたわけですから、文字通り、戦争の延長戦という意味があったわけです。だけど、その経験は中澤さんなどの戦後世代では共有されていないし、共有する必要もないと思います。それとは別の何を作るべきなのかなのです。

これだけ過労死やメンタル・ヘルスが注目を集める時代になると、はっきり言って、仕事を中核にだけではなかなか難しいなと感じました。たとえば、キャリア論なんかは人生全体をキャリアと見立てて構想されているわけで、そういうものが入り込んでいます。仕事か趣味かというつまらない二項対立は論外にしても、地域社会のなかでどう生きるのかは退職後の人生の中でも重要なことですし、無視し得ない。

この本を著者から恵贈された労務屋さんがやはり、長期雇用・長期育成に対する堅固な精神で書かれた本と紹介されており、それはそのまま、新日鉄住金だけでなく、トヨタ自動車の哲学もそうなんだろうと思いますが、一番大事なところはそこではなく、仕事観と人生観に触れる部分なんだろうという風に感じました。

私、学生に話そうと思って、わりとすぐにこの本を読みました。しかし、読み終わって、この本は使えないなと思いました。これはちょうど私やもう少し若い20代後半から30代前半の人にこそ大事な本ではないかと思うのです。若いうちはがむしゃらに仕事をして、少し余裕が出て、次に忙しくなっていくその間にふと立ち止まって読むといいんじゃないでしょうか。

でも、結局は人と人のリレーの話なんだと思います。私の心に残ったのは中澤さんの上司の大江さんの話です。それは結局、長期雇用や長期育成ということではなく、ただコツコツと小さな作業を積み上げて、大きな仕事を成し遂げるということに尽きると思います。藤田若雄の影響を受けた大江さんについて、大江さんの部下だった中澤さんが無教会派・藤田の源流である内村鑑三の言葉で語るのもなかなか粋です。

考えてみれば、『技手の時代』というのはそうやって働いてきた日本人を描き出そうとした本で、そのことは何より著者の小路さんが奥田健二さんの研究を継承したいと願い、そうして、大江さんの翻訳のように、自身が30数年かけて大成させた本なんです。数ページずつでいいので、ぜひ読んで欲しいですね。

いつだったか、小池先生が何かの折に、ともに働くことを通じてしか倫理は生まれないというようなことをおっしゃったことがあって、いつも折に触れて思い出しては考えてみるんですが、『働く。なぜ?』はそのときのことをまた思い出して考えさせる本でした。
先日、数年ぶりに孫田良平先生とお会いしてお話ししました(お会いした理由はもう少ししたら、ちゃんとこのブログでもご報告します)。すこし体調を崩されているとお伺いしていたのですが、結構、長い時間、お話しました。そんななかでまた貴重なお話をお伺いしました。孫田先生は佐々木孝男さんとは盟友で、私が佐々木さんのことを『日本の賃金を歴史から考える』のなかで取り上げたことをすごく喜んで下さっているのですが、同時に、生産性基準原理の問題で、私も知らなかったことを教えていただきました。それは、生産性基準原理は熊谷委員会以前にある労働組合が既に労使交渉のなかで使っていたということでした。そして、日経連に生産性基準原理として利用されるときに、実質賃金を名目賃金には変えられてしまったとのことでした。

今、手許にあった労働省編『最新労働用語辞典』(1993年版)の生産性基準原理の項目を改めて調べてみると、さらに59年(1984年)に同盟の研究機関である経済、社会政策研究会が実質国民経済生産性に対しては名目賃金ではなくその年の物価上昇分を差し引いた実質賃金を比較の対象にして考えなくてはならないとする「逆生産性基準原理」を提唱した、とされています。

私は佐々木孝男さんの逆生産性基準原理の論文も読みましたが、あの話は物価が安定しているんだから、むしろ、消費を活発化させるためには賃金を上げた方が良いというのがその趣旨で、つまり、物価の上昇を抑える時期と安定している時期ではマクロ経済政策が変わってくるのは当たり前だというところがポイントだと思っていました。しかし、これが実質か名目かというポイントで議論しているのだとすると、議論の本丸はこちらですね。

これは深い議論ですね(用語辞典として分かりやすいのかという問題は別にありますが)。最近、議論していないから頭の回転が落ちてると言いながら、さらっと一言でポイントを教えて下さる孫田先生。そして、そのポイントを余すことなく短い文章のなかで書いている労働省編の用語辞典。濱口先生いわく、内務省社会局以来の伝統、畏るべしです(ただ、厳密には後藤新平の衛生局まで辿った方がよいんじゃないかという気もしないでもないですが)。