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小島寛之さんの『使える!経済学の考え方』を読んで、石川経夫先生の『所得と富』を初めて読んだときと同じ印象を持った。『所得と富』の第2章を読んだとき、その内容が説得的であるとは思わなかったし、本全体の内容はほとんど理解できなかったけれども、この問題に対して真摯に向き合う石川先生の姿勢は伝わってきた。石川先生のお弟子さんといえば、いろいろな方がいらっしゃるだろうけれども、こういう根幹を引き継いだのは小島さんなんじゃないかという気がした。何ともバランスの悪い本だが、そここそがこの本の魅力なのかもしれない。

私自身は初歩的な数学的思考くらいは頭の中では使うが、基本的には数学を駆使して論文を書こうなどとは思わないし、そもそも出来ない。とはいえ、もちろん、数学が有効なツールであることくらいは認識している。だが、第1章を読むと、あんまり数学的手法が魅力的に思えてこない。非常に残念なことだ。正直、初めて読む著者の本でこの部分とあとがきだけを立ち読みしたら、買わなかっただろう。小島さんは魅力的に数学を語る名手だが、数学が他の手段より優れている、ということを語るのは下手だ。

小島さんの基本メッセージの一つである、日常語に感情を込めてしまうというのは、私にはどうも自戒の念もこめられている言葉のように思えた。たしかに、小島さん個人というより、日本人全体にもそういう傾向はあるのかもしれないが、もしそうだとしても、原因は名著『理科系の作文技術』で指摘されているように、初等教育の作文指導で事実と意見を峻別する訓練が徹底されていないことだ思う。実際、数学を使わずとも、法学や哲学を使って個人の感情を排除して思考することは可能である。要するに、それが出来ないのは功夫が足りないのだ。

数学(ないしモデル)を使う利点は問題がクリアになることだろう。小島さんの本にもこの思想は貫かれている。そうしたメリットはわざわざ冗長な説明がなくても、この本を熟読玩味すれば、よく分かることだと思う。ちなみに、私にはまったく理解できないことなのだが、世の中には完全情報が非現実的だといって経済学を否定する人がいる。完全情報はあくまで仮定であり、現実に情報の非対称性(という言葉は後に出来た概念だが)が機能していると考えるからこそ、これを定義によって制御するのだ。その重要性に気づいてさえいないのであれば、制御する必要性などどこからも生まれないではないか。しかし、小島さんの本はそもそも、そういう当たり前のレベルの議論に紙幅を費やさない。この本はそういうレベルを超越している。

数学やモデルを使う研究のよいところは、そのエッセンスが継承されやすいことだ。この違いが顕著に出るのはアマルティア・センの扱い方だろう。小島さんはセンの議論を単なる思想として扱うことを潔しとせず、理論家として遇することに徹する。つまり、センの議論はアローの社会選択論を下敷きにして、その上に様々な理論を構築されている。まったく当然の方法である。というか、この本を先に読んでいれば、何も鈴村・後藤『アマルティア・セン』を苦労して読む必要はなかった。先に読んだから理解しやすかったという側面も大いにありそうだが、門外漢には小島本で十分だとも思った。逆にいうと、センを論じるときはこの本のレベルは最低限踏まえて欲しい水準だとも思う。今後、社会政策、福祉関連の研究者でセンを引き合いに出す人と議論するときには、小島本をどう評価するかか、読んでなければ社会選択論との関係をどう理解するか、聞いてみることにしよう。

この本の魅力は、数学的思考を前面に出すことで、逆説的に経済学のいかがわしさを伝えていることだろう。私はすぐに答えを求める優等生タイプの思考法が嫌いなので、こういういかがわしさは大歓迎だ。実は思想がアヤフヤだとかいいながら、小島得意の手法は、数学と思想の結婚生活を魅力的に語ることなのだ。私の言うことを疑う人がいたら、ハルサーニの生い立ちを論じている箇所、センのベンガル大飢饉の話、等が単に読者を飽きさせないための演出かどうか、じっくり確認していただけばよい。付け加えて言えば、自身の原体験をここまで書いているのも同じように意味があることなのだ。

この本はたしかに厚生経済学の入門書的な役割を担っているのだが、単に読者の理解を促すという意味で新設である以上に、ある危険な感じを匂わせている。昔、谷崎の文章読本を丸谷才一が論じたときに、現役作家の野望みたいなものが織り込まれていると書き込んだことがあったが(そして、そう論じた丸谷自身の文章読本が多分にそういう性格を持っていたと思うが)、小島の本は「初心者に最初のところを分かりやすく書きました」というような態ではなく、谷崎と同じように現役の経済学者として自分はこういうことを考えているというところまで踏み込んで書いてある。そして、それを初学者に伝えようとしている。かつて小西甚一は古文の参考書を書くにあたって、この本は平易に書いたが、学術的水準を一ミリも下げていないというような趣旨のことを記した。小島本は同じ心意気で書かれている。

追記1
彼のブログに書いてある、代替医療を前近代と混同する見解は根本的に間違っている。代替医療は補完医療とも呼ばれ、文字通りある意味で近代医学の行き詰まりを補完するために生まれた医療である。だから、あえて分かりやすく言えば、ポスト近代医学である。おそらく、小島さんが言いたいのはあやしげな民間療法であろう。たしかに、代替医療の中にはあやしげな民間医療を含める定義もあるが、重要なことは代替医療が器官別に細分化した近代医療に対し、東洋医学的な全体思想を汲みとった医療を目指した点にある。だからこそ、西洋医学と代替医療をあわせた統合医療やホリスティック医療といった方向が模索され始めているのである(日本では少ないが)。もっとも、近代の科学は数学偏重であったから、思想のような怪しいものも明示的に取り入れて、経済学の体系を構築していくんだという意気込みであれば、平仄のぴたりと合った垢抜けた比喩といえよう。

追記2
タイトルはミスリーディングで、たしかに前著の確率的思考は使えるものだったが、今回の経済学は大して使えないだろう。あるいは、使えるようにカスタマイズするには読者一人ひとりの努力が必要だと言い換えても良い。
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