2019年03月04日 (月)
この一年間、明らかに比重が教育よりになりました。それは私の大阪での人脈がそこから始まったということも大きいと思います。ただ、ここに高齢者問題以外の多くの問題が集約されているなあとも思いました。同時に、やはり教育機関に勤めていることもあり、ここで実践として何が出来るのか、ということを考えているからでもあります(それはまだお話しする時期ではありませんが)。
現場に出て行って、大学の先生という形でお話しするのではなく(あまりこういうのは好きではないのです)、一参加者として話すという段になると、やはり自分の来し方、そう学校生活とは何であったのかということを考えざるを得ません。自分だけそこから逃げるというわけにもいかないからです。
私は今は特に高校までの学校生活に思い残しのようなものはありません。楽しい思い出もないではないですが、どちらかというと、気持ち的にはしんどかったなあという思いがあります。良かったのはこんなに適当でもいいんだというのを同級生と一部の先生が実践してくれていたことでしょうか。ただ、ゲームにはのめりこんでたし、あれは今から考えてもあまりよかったとは思えません。
今のゲームと昔のゲームでは全然違います。ちょうど、1990年代に格闘ゲームがゲーセンで流行って、私はその最後の世代でしたが、ゲーセン自体がその後、アミューズメントパーク化していきます。プリクラとかが出てくる時期です。その頃の家庭用ゲームはあくまでゲーセンの練習用でした(言い過ぎですが、私たちにとっては)。私は大学に入ってから、ほとんどゲームをやらない時期が長かったので、その後の経過はよく分かりません。やめたのはなんでこんなことやってるんだろう、勉強しなきゃと思ったからです。古い世代の私からすると、たとえばRPGでグラフィックがきれいになっても、プレイよりもエンディング時間がやたらと長いとかに違和感も出てきました。その後、世の中はインターネット、というより、回線が強化されたので、オンラインゲームがはやります。オンラインゲームは、単にゲームとしての機能だけではなく、そこに付随する人間関係のコミュニケーションもあります。
私自身、ネットの世界も長いですし、オンラインゲームをやっていたこともあるので、多少は分かりますが、ネットの人間関係はオフラインの人間関係とは違います。あえて、リアルという言葉を使わずに、オフラインという言葉を使ったのは、私は現実の世界の人間関係がリアルだとはあまり思ってないからです。というよりは、むしろ、虚飾にまみれていると言った方がよいでしょうか。きれいな言い方をすれば、オブラートに包む、ということが美徳とされる世界です。学者の世界はそれでも多少、少ない領域があるかなとも思いますが、そうでない汚い世界もたくさんあります。でも、ネットの世界はテキスト情報がメインなので、その細やかなやり取りで、オフラインの世界だと騙されてしまうようないろんな情報がない分、その人の本質的な部分が見えてしまうことがあると私は実感として思っています。その人の汚い本性も、時には普通の社会では素直になれないその人の良質な部分も、ネットを通じて垣間見ることがあるでしょう。
子どもの話を聞くと、大人よりもよく人を観察しているなと思うことがあります。それはあくまでネットという環境が与えたものでもあります。こういう、インフラが全然違う世界の中で、今の子どもたちと私たちは生きているんだということからしかスタートできない。私はまだ何が正しいのかということを断言できるほど、自分のもとに情報量があるとは思っていません。複雑な状況のなかで物事を考えていかなければならないなと思いを新たにしました。
現場に出て行って、大学の先生という形でお話しするのではなく(あまりこういうのは好きではないのです)、一参加者として話すという段になると、やはり自分の来し方、そう学校生活とは何であったのかということを考えざるを得ません。自分だけそこから逃げるというわけにもいかないからです。
私は今は特に高校までの学校生活に思い残しのようなものはありません。楽しい思い出もないではないですが、どちらかというと、気持ち的にはしんどかったなあという思いがあります。良かったのはこんなに適当でもいいんだというのを同級生と一部の先生が実践してくれていたことでしょうか。ただ、ゲームにはのめりこんでたし、あれは今から考えてもあまりよかったとは思えません。
今のゲームと昔のゲームでは全然違います。ちょうど、1990年代に格闘ゲームがゲーセンで流行って、私はその最後の世代でしたが、ゲーセン自体がその後、アミューズメントパーク化していきます。プリクラとかが出てくる時期です。その頃の家庭用ゲームはあくまでゲーセンの練習用でした(言い過ぎですが、私たちにとっては)。私は大学に入ってから、ほとんどゲームをやらない時期が長かったので、その後の経過はよく分かりません。やめたのはなんでこんなことやってるんだろう、勉強しなきゃと思ったからです。古い世代の私からすると、たとえばRPGでグラフィックがきれいになっても、プレイよりもエンディング時間がやたらと長いとかに違和感も出てきました。その後、世の中はインターネット、というより、回線が強化されたので、オンラインゲームがはやります。オンラインゲームは、単にゲームとしての機能だけではなく、そこに付随する人間関係のコミュニケーションもあります。
私自身、ネットの世界も長いですし、オンラインゲームをやっていたこともあるので、多少は分かりますが、ネットの人間関係はオフラインの人間関係とは違います。あえて、リアルという言葉を使わずに、オフラインという言葉を使ったのは、私は現実の世界の人間関係がリアルだとはあまり思ってないからです。というよりは、むしろ、虚飾にまみれていると言った方がよいでしょうか。きれいな言い方をすれば、オブラートに包む、ということが美徳とされる世界です。学者の世界はそれでも多少、少ない領域があるかなとも思いますが、そうでない汚い世界もたくさんあります。でも、ネットの世界はテキスト情報がメインなので、その細やかなやり取りで、オフラインの世界だと騙されてしまうようないろんな情報がない分、その人の本質的な部分が見えてしまうことがあると私は実感として思っています。その人の汚い本性も、時には普通の社会では素直になれないその人の良質な部分も、ネットを通じて垣間見ることがあるでしょう。
子どもの話を聞くと、大人よりもよく人を観察しているなと思うことがあります。それはあくまでネットという環境が与えたものでもあります。こういう、インフラが全然違う世界の中で、今の子どもたちと私たちは生きているんだということからしかスタートできない。私はまだ何が正しいのかということを断言できるほど、自分のもとに情報量があるとは思っていません。複雑な状況のなかで物事を考えていかなければならないなと思いを新たにしました。
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2018年11月03日 (土)
皆さん、ご無沙汰しておりました。9月の末に自転車で転倒事故を起こして、左ひじを骨折したりして、なんともいろんなことが回らなくなっていました。ですが、今回、ちょっと書き残しておきたいことがあったので、書いておきます。
来週の水曜日に阪南大学経済学部くらしと経済パッケージで、伍賀偕子さんをお呼びして、講演会を開くことになりました。学内イベントなので、告知の必要というのは、あまりないと思います。開催するのも、水曜日の15時から16時30分という時間帯なので、多くの人は働いている時間でしょう。
伍賀さんは知る人ぞ知る総評の元オルグです。大阪で女性労働運動をやっていて伍賀さんのことを知らない人はもぐりです。私は『日本の賃金を歴史から考える』を出したときに、エル・ライブラリーで学習会をやってもらって、そこで初めて伍賀さんにお会いしました。職務給の話について質問されたことをよく覚えていますが、その話を書くと、たちまち読む人を選ぶので今日は割愛します。もう一つ、昔、私が竹中恵美子先生の著作について批判的なことをこのブログに書いたことがあって、大原で労働資料協のシンポジウムがあったときに、そのことで何か言われたことを覚えています。その禊は、大阪に行ってから、竹中先生を囲む会というのがありまして、先生の前で直接、済ませましたが、なかなかの緊張感に包まれた、しかし本当にありがたい一期一会でした。
竹中先生の話を書いたのは、竹中先生が大阪女性労働運動の理論的な中心であり、また先生自身が運動に主体的に関わられていたからです。その運動側から竹中先生を求めた一人、そしてずっと一緒にお互い支えあって来たのが伍賀さんなのです。伍賀さんの活動は女性労働運動だけでなく、女性運動としても広がって、今なお継続しています。ただ、私はそういうことを学生に理解してもらおうとは、実はあまり思っていないのです。
今回、伍賀さんを呼ぶ理由というのは、本物に触れる、という機会を作りたいということなんです。だから、極端なことを言えば、伍賀さんがいらしてくださって、そこで喋ってくだされば、それで良いくらいに考えています。今風に言えば、オーラを感じるというのでしょうか(ちょっと古いかもしれませんが)。
実は、前に挙げた竹中先生を囲む会(茶話会)のときに、竹中先生に会うのは初めてだけれども、何十年も働いてきた人生のなかで先生の本を支えにしてきましたという方がいらして、私、今、学者の立場を一瞬降りて書きますけど、これは本当に素晴らしいことだなと思いました。理屈じゃないんですよ。竹中先生の本が今、読んでいかに古くなっていても(誰が書いても基本的に時代に即して書けばそうなります、条件が変わるんですから)、その人の人生を支え続けた真実は変わらないわけです。たぶん、私が書いた批判は少なくない方に、そういうことも否定されたように感じさせたのかもしれませんが、私はそういう人と人とのつながりを否定したことはまったくありません。伍賀さんたちがやってきたことは、そういう人たちを支え、共にあるということなのです。それは素晴らしいことなのです。
とはいえ、そういうことを20歳前後の学生たちに伝えようと思ってもですね、それは難しいわけです。もちろん、プロテストすることは人生のなかで必要なんだけれども、それだけじゃない。先輩たちがつらかった、でも諦めなかった、君たちもあとへ続け、というだけでは若い人たちにはアピールしていかない。それは、きっと運動の課題でもあるんでしょう。
そんなことを考えながら、私が企画したので、チラシを作らなきゃいけないということで、火曜日に作ったのです。正確に言うと、前からワードの使い方とか、フリー素材を眺めたりしながら、伍賀さんの講演のイメージに合うものを作ろうと考えていました。一番、簡単なのは、過去の写真とかポスターとか、労働運動に関わるものを探してきて、それを使うことです。それこそ、私は大原にいたので、そういうものを普通の人よりは数多く見て来たと思います。でも、今回のイメージはそうじゃない。そんな中で昔の揶揄する言葉で「立てば生休、座れば産休、歩く姿は保育所づくり」というのがあって、これ、そもそも「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」を若い人は知らないよなというのもあって、あえて百合の花の素材を探そうと思って、実は最初、それでポスターを作りました。
印刷し終わった後、ふとね、机の上を見たら、一枚のコピーされた紙があったんですよ。それで、これだと思いました。何かというと、実は先週、講義の前に女子学生が二人で研究室に遊びに来たんです。私は講義の準備してるからあまり話せないよと言ったんですが、それでもいいと言って来ていたんです。そのうち、プリンターのコピー機能で遊びだして、手を写したりしていたんですが、その一枚に二人でハートマークを作ったやつがあったのです。
ここまで来た後に、文字を何色にするか迷っていたら、もう一枚ポスターがあって、その白抜きを真似することにしました。そのポスターとは、阪南大学の国際交流会というところが模擬国連をやるので、そのプレゼンを入門演習でやらせてほしいという依頼があって、そのときに置いていったものです。そのテーマが今年は女性と暴力に関連して「平等なジェンダー社会にしよう」なんですね。おお、これは繋がってるぞと思いました。

この二重の偶然で完成したこのポスター。私の技術力のなさゆえに、もう一工夫できる余地は残っていますが、結構、私なりに今回の講演のテーマを表現できて、良かったなと思っています。本番もうまく行くといいなあ。
ちなみに、この講演会、社会政策の講義の一環でやるので、1時間50分ほど、間が空いてしまうのですが、18時20分から補講で、分かち合い会的なものもやろうと思っています。たぶん、出席を取らないので、数人しか出ないと思うので、それでもなお来てくれる人で、ディープな話をしたいと考えています。
来週の水曜日に阪南大学経済学部くらしと経済パッケージで、伍賀偕子さんをお呼びして、講演会を開くことになりました。学内イベントなので、告知の必要というのは、あまりないと思います。開催するのも、水曜日の15時から16時30分という時間帯なので、多くの人は働いている時間でしょう。
伍賀さんは知る人ぞ知る総評の元オルグです。大阪で女性労働運動をやっていて伍賀さんのことを知らない人はもぐりです。私は『日本の賃金を歴史から考える』を出したときに、エル・ライブラリーで学習会をやってもらって、そこで初めて伍賀さんにお会いしました。職務給の話について質問されたことをよく覚えていますが、その話を書くと、たちまち読む人を選ぶので今日は割愛します。もう一つ、昔、私が竹中恵美子先生の著作について批判的なことをこのブログに書いたことがあって、大原で労働資料協のシンポジウムがあったときに、そのことで何か言われたことを覚えています。その禊は、大阪に行ってから、竹中先生を囲む会というのがありまして、先生の前で直接、済ませましたが、なかなかの緊張感に包まれた、しかし本当にありがたい一期一会でした。
竹中先生の話を書いたのは、竹中先生が大阪女性労働運動の理論的な中心であり、また先生自身が運動に主体的に関わられていたからです。その運動側から竹中先生を求めた一人、そしてずっと一緒にお互い支えあって来たのが伍賀さんなのです。伍賀さんの活動は女性労働運動だけでなく、女性運動としても広がって、今なお継続しています。ただ、私はそういうことを学生に理解してもらおうとは、実はあまり思っていないのです。
今回、伍賀さんを呼ぶ理由というのは、本物に触れる、という機会を作りたいということなんです。だから、極端なことを言えば、伍賀さんがいらしてくださって、そこで喋ってくだされば、それで良いくらいに考えています。今風に言えば、オーラを感じるというのでしょうか(ちょっと古いかもしれませんが)。
実は、前に挙げた竹中先生を囲む会(茶話会)のときに、竹中先生に会うのは初めてだけれども、何十年も働いてきた人生のなかで先生の本を支えにしてきましたという方がいらして、私、今、学者の立場を一瞬降りて書きますけど、これは本当に素晴らしいことだなと思いました。理屈じゃないんですよ。竹中先生の本が今、読んでいかに古くなっていても(誰が書いても基本的に時代に即して書けばそうなります、条件が変わるんですから)、その人の人生を支え続けた真実は変わらないわけです。たぶん、私が書いた批判は少なくない方に、そういうことも否定されたように感じさせたのかもしれませんが、私はそういう人と人とのつながりを否定したことはまったくありません。伍賀さんたちがやってきたことは、そういう人たちを支え、共にあるということなのです。それは素晴らしいことなのです。
とはいえ、そういうことを20歳前後の学生たちに伝えようと思ってもですね、それは難しいわけです。もちろん、プロテストすることは人生のなかで必要なんだけれども、それだけじゃない。先輩たちがつらかった、でも諦めなかった、君たちもあとへ続け、というだけでは若い人たちにはアピールしていかない。それは、きっと運動の課題でもあるんでしょう。
そんなことを考えながら、私が企画したので、チラシを作らなきゃいけないということで、火曜日に作ったのです。正確に言うと、前からワードの使い方とか、フリー素材を眺めたりしながら、伍賀さんの講演のイメージに合うものを作ろうと考えていました。一番、簡単なのは、過去の写真とかポスターとか、労働運動に関わるものを探してきて、それを使うことです。それこそ、私は大原にいたので、そういうものを普通の人よりは数多く見て来たと思います。でも、今回のイメージはそうじゃない。そんな中で昔の揶揄する言葉で「立てば生休、座れば産休、歩く姿は保育所づくり」というのがあって、これ、そもそも「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」を若い人は知らないよなというのもあって、あえて百合の花の素材を探そうと思って、実は最初、それでポスターを作りました。
印刷し終わった後、ふとね、机の上を見たら、一枚のコピーされた紙があったんですよ。それで、これだと思いました。何かというと、実は先週、講義の前に女子学生が二人で研究室に遊びに来たんです。私は講義の準備してるからあまり話せないよと言ったんですが、それでもいいと言って来ていたんです。そのうち、プリンターのコピー機能で遊びだして、手を写したりしていたんですが、その一枚に二人でハートマークを作ったやつがあったのです。
ここまで来た後に、文字を何色にするか迷っていたら、もう一枚ポスターがあって、その白抜きを真似することにしました。そのポスターとは、阪南大学の国際交流会というところが模擬国連をやるので、そのプレゼンを入門演習でやらせてほしいという依頼があって、そのときに置いていったものです。そのテーマが今年は女性と暴力に関連して「平等なジェンダー社会にしよう」なんですね。おお、これは繋がってるぞと思いました。

この二重の偶然で完成したこのポスター。私の技術力のなさゆえに、もう一工夫できる余地は残っていますが、結構、私なりに今回の講演のテーマを表現できて、良かったなと思っています。本番もうまく行くといいなあ。
ちなみに、この講演会、社会政策の講義の一環でやるので、1時間50分ほど、間が空いてしまうのですが、18時20分から補講で、分かち合い会的なものもやろうと思っています。たぶん、出席を取らないので、数人しか出ないと思うので、それでもなお来てくれる人で、ディープな話をしたいと考えています。
2017年10月08日 (日)
Facebookで回って来た「日米仏の思考表現スタイルを比較する」というインタビュー記事が面白かったのと、ここのところ、Facebookのコメントのやりとりや、リアルでの大学院生にいろいろなことを伝えたりするなかで、この方法の問題を改めて考えるようになったので、そのあたりの話題を今日は書いてみたいと思う。
明治以前(もうちょっと延伸して戦前)の日本は漢文の型というものを持っていたけれども、それが失われてしまったと一般的によく言われている。今の生活綴り方的なスタイルの作文って、大正期に作られたものではないかと私は思っている。学校教育のなかで誰に言われたのか覚えてないけど、作文を日本の随筆の伝統に連ねるのはおそらく嘘、というか、少なくとも創られた伝統だろう。その推測の根拠は、この問題には丸谷がよく論じていたように口語の成立の問題が関わっており、これは間違いなく明治以降、もっと具体的に言えば、二葉亭四迷以降の話である(ただ、講談とかを含めるともうちょっと微妙だと思うけど)。生活綴り方作文は、ドイツの新教育とか、アメリカのデューイの経験主義(プラグマティズムの一つ)の影響を受けたもので、「生」とか「経験」とかを重視する流れで、だからこそ、1920年代以降に広まったんだと思うんだよね。
丸谷才一流に言えば、型の重要性を見失ったということでもあるんだけど、他方、型のありようがつまらないものを生み出すということはたしかにあって、それに対して辟易していた側面も否定できない。具体的に上げると、戦後の作文論では一世を風靡した清水幾太郎に『日本語の技術』という本があって、その本の中には紋切型の漢文で文章を書いてくる人の話が書いてあって、それよりは作文力は上がっているというのが彼の評価だったと思う(というのは、この本が見当たらなかったため)。何といっても圧巻なのは、阿部 筲人の『俳句』(講談社学術文庫)で、素人の紋切型表現をこれでもかというほど具体的に並べて、分類している。だから、型があった方がかって自由というのは、そこまで到達できる人の話で、広く言えるかというと、そう言えないと思う。
私は欧米と日本の違いは、方法論の差ではないか、と思う。たしかに、近世以前から日本には型があったけれども、それは素読のようなもので、有無を言わさず、文字通り体得するものであって、そのことについての方法論が十分に発展してきたとは言えないのではないだろうか。この分野は西洋ではレトリックとして古代から研究され、蓄積されてきた。もちろん、日本でもそういうものは輸入され、あるいは独自に咀嚼されてはいるが、十分に文化として定着しているとは言えない。それは「レトリック」がまるで詐術、そう「嘘も方便」のような意味で使われることからも知られる。
個人的には、佐藤信夫のレトリック本、丸谷才一『文章読本』の大岡昇平の『野火』だけで鮮やかにレトリックの具体例を解析して見せたもの、渡部昇一のレトリック関係のエッセイ、篠沢秀夫の文体論なんかは、20代にはずいぶん、読んで、表現方法ということについては考えてきた。テキスト分析をする人にとってはこのあたりの知識は当然、一般常識の範囲なんだろうけれども、私の周りには概念とか思想を分析する人がいなかったので、話を共有することは出来なかったし、今日書くまで話したこともなかった。渡部、篠沢は保守論客だし、左右のレッテルで思考停止してしまう人も少なくないので、そういう人たちには説明するのも面倒くさいというのもあったのだが。まあ、しかし、話をした方が有益な話が返ってくることが多いので、話せばよかったと思うけど。
体得信仰は歴史の実証史研究系の人には結構今でも生きている(私は理論の検証という意味と差別化するために若いころから出来る限り、考証という言葉を使って来たが)。なので、方法論を嫌って、方法は研究のなかに埋め込まれているという考え方の人も少なくないと思う。でも、それって掘り出してくれなきゃ、いつも議論している同世代の仲間内以外、分かんないじゃん。これと対比的なのは、コースワークで、経済学では昔、近代経済学と呼ばれて、今は主流派と自称しているグループがアメリカのそれに飛びついていったのも故なしとはしない(ただ、誤解のないように言っておくと、いわゆる近経の研究者が全員、コースワークを無条件に良いものと考えているわけではない)。東大だと経営もこれに乗った。労働もやろうと思ったけれども、失敗したという噂は聞いた。
方法論は気を付けないと、方法論のための方法論に陥っちゃうけど、そこのところに焦点を当てて、うまく深めていく研究会を組織していったのが酒井泰斗さんの一連の試みだと思っていて、私もそこから多くのことを学んで、ここ数年、研究会での発言はそういう視点からの「何を明らかにしたくて、どうやるの?」というタイプのものが多くなった気がする。
さはさりながら、歴史研究では読んだ資料の数がものをいうという側面があり、これは完全に体験なんだけど、逆に言えば、ここから先は体得するしかない、というのと、もうちょっと方法論で詰めることが出来るというのを区別してアプローチすればよいんだと思う。これ、労働領域で言えば、要は体得=OJTで、しかし、OJTをより有効にするためのOffJTの組み方もあり得るよねという技能形成の話になるかな。
明治以前(もうちょっと延伸して戦前)の日本は漢文の型というものを持っていたけれども、それが失われてしまったと一般的によく言われている。今の生活綴り方的なスタイルの作文って、大正期に作られたものではないかと私は思っている。学校教育のなかで誰に言われたのか覚えてないけど、作文を日本の随筆の伝統に連ねるのはおそらく嘘、というか、少なくとも創られた伝統だろう。その推測の根拠は、この問題には丸谷がよく論じていたように口語の成立の問題が関わっており、これは間違いなく明治以降、もっと具体的に言えば、二葉亭四迷以降の話である(ただ、講談とかを含めるともうちょっと微妙だと思うけど)。生活綴り方作文は、ドイツの新教育とか、アメリカのデューイの経験主義(プラグマティズムの一つ)の影響を受けたもので、「生」とか「経験」とかを重視する流れで、だからこそ、1920年代以降に広まったんだと思うんだよね。
丸谷才一流に言えば、型の重要性を見失ったということでもあるんだけど、他方、型のありようがつまらないものを生み出すということはたしかにあって、それに対して辟易していた側面も否定できない。具体的に上げると、戦後の作文論では一世を風靡した清水幾太郎に『日本語の技術』という本があって、その本の中には紋切型の漢文で文章を書いてくる人の話が書いてあって、それよりは作文力は上がっているというのが彼の評価だったと思う(というのは、この本が見当たらなかったため)。何といっても圧巻なのは、阿部 筲人の『俳句』(講談社学術文庫)で、素人の紋切型表現をこれでもかというほど具体的に並べて、分類している。だから、型があった方がかって自由というのは、そこまで到達できる人の話で、広く言えるかというと、そう言えないと思う。
私は欧米と日本の違いは、方法論の差ではないか、と思う。たしかに、近世以前から日本には型があったけれども、それは素読のようなもので、有無を言わさず、文字通り体得するものであって、そのことについての方法論が十分に発展してきたとは言えないのではないだろうか。この分野は西洋ではレトリックとして古代から研究され、蓄積されてきた。もちろん、日本でもそういうものは輸入され、あるいは独自に咀嚼されてはいるが、十分に文化として定着しているとは言えない。それは「レトリック」がまるで詐術、そう「嘘も方便」のような意味で使われることからも知られる。
個人的には、佐藤信夫のレトリック本、丸谷才一『文章読本』の大岡昇平の『野火』だけで鮮やかにレトリックの具体例を解析して見せたもの、渡部昇一のレトリック関係のエッセイ、篠沢秀夫の文体論なんかは、20代にはずいぶん、読んで、表現方法ということについては考えてきた。テキスト分析をする人にとってはこのあたりの知識は当然、一般常識の範囲なんだろうけれども、私の周りには概念とか思想を分析する人がいなかったので、話を共有することは出来なかったし、今日書くまで話したこともなかった。渡部、篠沢は保守論客だし、左右のレッテルで思考停止してしまう人も少なくないので、そういう人たちには説明するのも面倒くさいというのもあったのだが。まあ、しかし、話をした方が有益な話が返ってくることが多いので、話せばよかったと思うけど。
体得信仰は歴史の実証史研究系の人には結構今でも生きている(私は理論の検証という意味と差別化するために若いころから出来る限り、考証という言葉を使って来たが)。なので、方法論を嫌って、方法は研究のなかに埋め込まれているという考え方の人も少なくないと思う。でも、それって掘り出してくれなきゃ、いつも議論している同世代の仲間内以外、分かんないじゃん。これと対比的なのは、コースワークで、経済学では昔、近代経済学と呼ばれて、今は主流派と自称しているグループがアメリカのそれに飛びついていったのも故なしとはしない(ただ、誤解のないように言っておくと、いわゆる近経の研究者が全員、コースワークを無条件に良いものと考えているわけではない)。東大だと経営もこれに乗った。労働もやろうと思ったけれども、失敗したという噂は聞いた。
方法論は気を付けないと、方法論のための方法論に陥っちゃうけど、そこのところに焦点を当てて、うまく深めていく研究会を組織していったのが酒井泰斗さんの一連の試みだと思っていて、私もそこから多くのことを学んで、ここ数年、研究会での発言はそういう視点からの「何を明らかにしたくて、どうやるの?」というタイプのものが多くなった気がする。
さはさりながら、歴史研究では読んだ資料の数がものをいうという側面があり、これは完全に体験なんだけど、逆に言えば、ここから先は体得するしかない、というのと、もうちょっと方法論で詰めることが出来るというのを区別してアプローチすればよいんだと思う。これ、労働領域で言えば、要は体得=OJTで、しかし、OJTをより有効にするためのOffJTの組み方もあり得るよねという技能形成の話になるかな。
2017年08月13日 (日)
田中萬年先生からコメントをいただきました。先生からは外在的な批判ではないかという趣旨をいただき、その限りでは「その通りです、すみません」というお答えしかできないのですが、そうなった理由もそれなりにあって、そして、そのことを説明することが、萬年先生が一番気にされている先生と私の意思疎通の問題に答えることにもなるのではないか、と思います。
運動としてなのか、研究としての評価なのか、ということで、そこはたしかにきれいには線引きしていません。ただ、私から見ると、田中先生の問題設定自体が極めて、学問的というよりは、職業教育の今日的立場を明らかにするという実際的な、それ自体は切実な問題意識に基づいていると思っています。そして、佐々木先生ほど田中先生の書かれるものは、そこが線引きされていない、というのが私の印象なのです。
ここでは研究として、ということで、書いておきましょう。私は先生の研究アプローチ自体に大きな疑問を持っていて、政策理念についての分析はその当事者がどう考えていたかを明らかにすることは出来ても、日本全体で職業教育、職業訓練、教育(いずれでも構いませんが)を論じるには適当な素材ではないと考えています。そうしたテーマであれば、代表的な論者の議論を検討するだけでは明らかに不足しており、より広範な雑誌、新聞、その他での意見などを精査して、実際の教育が日本においてどのように受け取られていたのかということを明らかにすべきでしょう。端的に言って、もっと考証すべき事柄が多いと思います。だから、私の田中先生の御著書への評価は、歴史研究の考証作業としての貢献には興味深い点が多くあり、かつ学ぶべきことも多いが、その成果は必ずしも先生の主張をサポートしていないということです。言い換えれば、問題設定と方法が必ずしも一致しているとは言えない、そういう判断です。
その上で、田中先生の質問に答えるならば、「教育勅語」についてどう思うかですが、端的に教育勅語についての私の見解を述べよという意味ならば、答えは「分かりません」です。少なくとも帝国日本における憲政のあり方、皇室制度の位置づけを理解しているとは言えませんし、さらに、ある種のナショナリズム的高揚がどのように起こったのか、そのなかで教育勅語はどう利用されたのか、あるいはどう受容されたのかについて、研究史を精査した上で、どのように考えているとは言えません。さらに、教育勅語廃止に関連しても、日本国憲法の成り立ち、その思想的背景、とりわけ若き日の稲垣良典先生が研究されたらしいカトリック思想の寄与について、あるいはそれらの事柄を踏まえた田中耕太郎の思想を検討して、国体レベルでの連続性をどう考えるのかということも分かりません。こちらは上の方の議論なので、それと受け止められ方はまた別に考える必要があります。それに皇室あるいは共産党流にいう天皇制と教育との関係でいえば、戦前には教育勅語だけでなく、戊申詔書を中心とした地方改良運動、その後の明治神宮設営における青年団の活躍、1920年代の日本主義の興隆などをトータルに考えなければならないのは言うまでもありません。
加えて、戦前の実業教育で教育勅語が問題になるのは1920年代に公民科を作るときくらいで、それ以外の時にはいろんな審議会等の速記録を読んでいますが、教育勅語との関係を踏まえて議論するなどということはほとんどないのではないでしょうか。だから、そもそも学校以外での狭義の職業訓練、普通教育ではない学校で行われる実業教育のいずれにしても、教育勅語と組み合わせて考えなければならないという局面はほとんどないと考えています。具体的に言えば、実業教育史研究のなかで、三好信浩さんの産業教育史研究、小路行彦さんの『技手の時代』にも私の記憶する限り教育勅語は出て来ません。そもそも、教育勅語をどう考えるのかは大して重要ではありません。それよりも、戦後の教育学界隈を縛ったのは戦時総力戦体制の中で学校がどう組み込まれていったのか、そこで産業とどう関係していたのかということであって、この文脈において教育勅語が果たした役割は、あったとしても限りなく周辺的なものであっただろうというのが私の見通しです。とはいえ、私は「勤労新体制」でさえもただのキャンペーンで大して重視していないので、そのあたりはそれぞれで割り引いて受け取ってください。
田中先生の職業訓練の概念は、通常の職業訓練だけでなく、私が実業教育と呼ぶものから、普通教育のなかで教えられる一部にも及んでおります。私は概念を拡張する試みを中身としては別に否定しませんが(そういう解釈もあり得るとは思います)、実践的にも研究的にもあまり意味がないのではないかと思っています。読み書きそろばんも職業訓練そのものだという考え方も、実際にはそのような職業訓練を拡張する考え方を提示することは別段、何をもたらすこともないでしょう。この限りでは以前、『非教育の論理』の合評会をやった頃から私は何も変わっていません。今読み返すと、内容は別に変らないのですが、自分の青臭い感じが恥ずかしくて、わああああという気分なので、リンクは貼りません。なお、この段落だけ部分引用禁止です。
運動としてなのか、研究としての評価なのか、ということで、そこはたしかにきれいには線引きしていません。ただ、私から見ると、田中先生の問題設定自体が極めて、学問的というよりは、職業教育の今日的立場を明らかにするという実際的な、それ自体は切実な問題意識に基づいていると思っています。そして、佐々木先生ほど田中先生の書かれるものは、そこが線引きされていない、というのが私の印象なのです。
ここでは研究として、ということで、書いておきましょう。私は先生の研究アプローチ自体に大きな疑問を持っていて、政策理念についての分析はその当事者がどう考えていたかを明らかにすることは出来ても、日本全体で職業教育、職業訓練、教育(いずれでも構いませんが)を論じるには適当な素材ではないと考えています。そうしたテーマであれば、代表的な論者の議論を検討するだけでは明らかに不足しており、より広範な雑誌、新聞、その他での意見などを精査して、実際の教育が日本においてどのように受け取られていたのかということを明らかにすべきでしょう。端的に言って、もっと考証すべき事柄が多いと思います。だから、私の田中先生の御著書への評価は、歴史研究の考証作業としての貢献には興味深い点が多くあり、かつ学ぶべきことも多いが、その成果は必ずしも先生の主張をサポートしていないということです。言い換えれば、問題設定と方法が必ずしも一致しているとは言えない、そういう判断です。
その上で、田中先生の質問に答えるならば、「教育勅語」についてどう思うかですが、端的に教育勅語についての私の見解を述べよという意味ならば、答えは「分かりません」です。少なくとも帝国日本における憲政のあり方、皇室制度の位置づけを理解しているとは言えませんし、さらに、ある種のナショナリズム的高揚がどのように起こったのか、そのなかで教育勅語はどう利用されたのか、あるいはどう受容されたのかについて、研究史を精査した上で、どのように考えているとは言えません。さらに、教育勅語廃止に関連しても、日本国憲法の成り立ち、その思想的背景、とりわけ若き日の稲垣良典先生が研究されたらしいカトリック思想の寄与について、あるいはそれらの事柄を踏まえた田中耕太郎の思想を検討して、国体レベルでの連続性をどう考えるのかということも分かりません。こちらは上の方の議論なので、それと受け止められ方はまた別に考える必要があります。それに皇室あるいは共産党流にいう天皇制と教育との関係でいえば、戦前には教育勅語だけでなく、戊申詔書を中心とした地方改良運動、その後の明治神宮設営における青年団の活躍、1920年代の日本主義の興隆などをトータルに考えなければならないのは言うまでもありません。
加えて、戦前の実業教育で教育勅語が問題になるのは1920年代に公民科を作るときくらいで、それ以外の時にはいろんな審議会等の速記録を読んでいますが、教育勅語との関係を踏まえて議論するなどということはほとんどないのではないでしょうか。だから、そもそも学校以外での狭義の職業訓練、普通教育ではない学校で行われる実業教育のいずれにしても、教育勅語と組み合わせて考えなければならないという局面はほとんどないと考えています。具体的に言えば、実業教育史研究のなかで、三好信浩さんの産業教育史研究、小路行彦さんの『技手の時代』にも私の記憶する限り教育勅語は出て来ません。そもそも、教育勅語をどう考えるのかは大して重要ではありません。それよりも、戦後の教育学界隈を縛ったのは戦時総力戦体制の中で学校がどう組み込まれていったのか、そこで産業とどう関係していたのかということであって、この文脈において教育勅語が果たした役割は、あったとしても限りなく周辺的なものであっただろうというのが私の見通しです。とはいえ、私は「勤労新体制」でさえもただのキャンペーンで大して重視していないので、そのあたりはそれぞれで割り引いて受け取ってください。
田中先生の職業訓練の概念は、通常の職業訓練だけでなく、私が実業教育と呼ぶものから、普通教育のなかで教えられる一部にも及んでおります。私は概念を拡張する試みを中身としては別に否定しませんが(そういう解釈もあり得るとは思います)、実践的にも研究的にもあまり意味がないのではないかと思っています。読み書きそろばんも職業訓練そのものだという考え方も、実際にはそのような職業訓練を拡張する考え方を提示することは別段、何をもたらすこともないでしょう。この限りでは以前、『非教育の論理』の合評会をやった頃から私は何も変わっていません。今読み返すと、内容は別に変らないのですが、自分の青臭い感じが恥ずかしくて、わああああという気分なので、リンクは貼りません。なお、この段落だけ部分引用禁止です。
2015年12月30日 (水)
前回の社会政策と教育についての覚書からちょっと時間がたってしまいましたが、いくつか文献を読んでいると、なかなか面白い記述に出会いました。そのなかでもとびきりなのは荒井明夫編『近代日本黎明期における「就学告諭」の研究』東信堂、2008年と清川郁子『近代公教育の成立と社会構造』世織書房、2007年でしょう。この二冊は、社会政策史的にも必読の文献だと思います。
簡単に言うと、社会政策研究が比較的、自分たちの隣接分野だと考えていた教育社会学の分野では、竹内洋『日本のメリトクラシー』や広田照幸『陸軍将校の教育社会史』や、天野先生の仕事などでも、立身出世の世界が描かれているという印象で、それは比較的、社会の下層から中間層あるいは上層に駆け上がって行く仕組みの解明です。最初に挙げた二冊は教育によってもっとボトムラインから押し上げていく仕組みづくりの話で、6・3制のインパクトを見ながら、いやいや、意外と階層は温存されているよ、という苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』に繋がって行きます。
就学告諭というのは、1872年に頒布された学制(日本の近代教育制度の濫觴といわれています)以前の時期から、地方の府藩県や地元の有志たちによる近代的な学校を作ろうという啓蒙文書です。学制の後も作られている。私から見ると、中央からではなく、地方レベルでどうやって近代学校を作ろうとしたのかということが観察されていて、そこが面白い。やはり、中央統制だけで全国津々浦々に学校を作るのは困難で、地方におけるこうした下地や、教育要求があって初めて国民教育が完成したのでしょう。[荒井編,2008]では、今までは学制はフランスからの輸入という点で見られたけれども、実はこうした就学告諭の要求を統合したという側面があったのではないか、という仮説が提出されていて、今後の検討課題とされています。これは通説を大きく修正させるような大胆な仮説ですが、決してアクロバティックではなく、大量の史料観察に支えられているという点で、分野を問わず、このスケールでの転換が行われるというのは珍しいという事例です。今後の研究も楽しみです。というか、この7年の間に続きが発表されてるのかな。ご存じの方は教えて下さると、ありがたいです。
もう一つの清川さんの本も面白い。小学校の就学率は明治30年の義務教育無償化以降、上がって行くのですが、みんなが卒業するということになると、もう少し後の時期になる。それを清川さんは1910-1930年と見る。これだけ幅があるのは地域差です。この定着過程で、工場法と社会事業(児童福祉)の存在を重視しているのも面白いところです。これもある意味で、地方行政です。
そうすると、この二つの研究から見えてくるのは、教育(学校)を理解する上での補助線としての地方行政です。特に、荒井編の方は、始期と終期の設定で地方行政を利用している。廃藩置県の前の府藩県時代から、府県統合が落ち着く明治9年までです。もちろん、この間に学制頒布があって、その前後の変化を検討しています。しかし、その大きな枠に、地方行政を採用しているのは重要です。清川さんの本は4章において、ちょうど学制頒布から教育令の時代まで、地方自治制度と教育制度を描いていて、その後に、まさに普及過程で社会事業と工場法が出てくる(5章)。この二つを繋げると、地方自治と国民教育の成立の全体像が浮かび上がってくるようです。
階級を超えた国民教育を作ろうとするんだけれども、実態は階層が残るよね、というのはまさに教育社会学的視点で、清川さんの本にもそういう問題意識はありますし、『大衆教育社会のゆくえ』はそのテーマの戦後版です。教育要求、教育拡張、デモクラシーとかの繋がりは一つのポイントだろうな。臨時教育会議から1970年代まで。さらに、昔考えた、終点・起点としての四六答申を考えると、海後宗臣『教育改革』までは見えて来たけど、最後は臨教審を経て矢野先生のルートと、子どもの貧困にどう不時着するのかってところだな。って、これ本当にA4,12,3枚で書けるかな。
簡単に言うと、社会政策研究が比較的、自分たちの隣接分野だと考えていた教育社会学の分野では、竹内洋『日本のメリトクラシー』や広田照幸『陸軍将校の教育社会史』や、天野先生の仕事などでも、立身出世の世界が描かれているという印象で、それは比較的、社会の下層から中間層あるいは上層に駆け上がって行く仕組みの解明です。最初に挙げた二冊は教育によってもっとボトムラインから押し上げていく仕組みづくりの話で、6・3制のインパクトを見ながら、いやいや、意外と階層は温存されているよ、という苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』に繋がって行きます。
就学告諭というのは、1872年に頒布された学制(日本の近代教育制度の濫觴といわれています)以前の時期から、地方の府藩県や地元の有志たちによる近代的な学校を作ろうという啓蒙文書です。学制の後も作られている。私から見ると、中央からではなく、地方レベルでどうやって近代学校を作ろうとしたのかということが観察されていて、そこが面白い。やはり、中央統制だけで全国津々浦々に学校を作るのは困難で、地方におけるこうした下地や、教育要求があって初めて国民教育が完成したのでしょう。[荒井編,2008]では、今までは学制はフランスからの輸入という点で見られたけれども、実はこうした就学告諭の要求を統合したという側面があったのではないか、という仮説が提出されていて、今後の検討課題とされています。これは通説を大きく修正させるような大胆な仮説ですが、決してアクロバティックではなく、大量の史料観察に支えられているという点で、分野を問わず、このスケールでの転換が行われるというのは珍しいという事例です。今後の研究も楽しみです。というか、この7年の間に続きが発表されてるのかな。ご存じの方は教えて下さると、ありがたいです。
もう一つの清川さんの本も面白い。小学校の就学率は明治30年の義務教育無償化以降、上がって行くのですが、みんなが卒業するということになると、もう少し後の時期になる。それを清川さんは1910-1930年と見る。これだけ幅があるのは地域差です。この定着過程で、工場法と社会事業(児童福祉)の存在を重視しているのも面白いところです。これもある意味で、地方行政です。
そうすると、この二つの研究から見えてくるのは、教育(学校)を理解する上での補助線としての地方行政です。特に、荒井編の方は、始期と終期の設定で地方行政を利用している。廃藩置県の前の府藩県時代から、府県統合が落ち着く明治9年までです。もちろん、この間に学制頒布があって、その前後の変化を検討しています。しかし、その大きな枠に、地方行政を採用しているのは重要です。清川さんの本は4章において、ちょうど学制頒布から教育令の時代まで、地方自治制度と教育制度を描いていて、その後に、まさに普及過程で社会事業と工場法が出てくる(5章)。この二つを繋げると、地方自治と国民教育の成立の全体像が浮かび上がってくるようです。
階級を超えた国民教育を作ろうとするんだけれども、実態は階層が残るよね、というのはまさに教育社会学的視点で、清川さんの本にもそういう問題意識はありますし、『大衆教育社会のゆくえ』はそのテーマの戦後版です。教育要求、教育拡張、デモクラシーとかの繋がりは一つのポイントだろうな。臨時教育会議から1970年代まで。さらに、昔考えた、終点・起点としての四六答申を考えると、海後宗臣『教育改革』までは見えて来たけど、最後は臨教審を経て矢野先生のルートと、子どもの貧困にどう不時着するのかってところだな。って、これ本当にA4,12,3枚で書けるかな。