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戦後の労働戦線のうつりかわりを書く必要があり、というか、書かなくてもよいけれども、労戦統一の話をするのに、その前提の部分を整理しなきゃいけないのだが、ここのところが実は結構、複雑な様相を呈していて、実はあまり整理されていない。と私は思ってる。なので、自分で考えなきゃいけないのだが、これまた難しい。

大きく言うと
1945~1948 総同盟と産別会議の時代
1948~1956 共産党指導批判から始まって、大まかに4つの軸のナショナル・センターが出てくる時期
この4つとは、総評、同盟、新産別、中立労連。

という風に整理したいのだが、細かいことを言い出すと、同盟が出来るのは1964年で、それまでは同盟系は全労会議と総同盟に分かれていて、同盟会議を経て、同盟になる。それから、中立労連も結成は1956年だけれども、ナショナル・センターになるのは1970年代。ただ、同盟系の再結集は、同盟関係者には申し訳ないけれども、そんなに大問題ではなく、むしろ、総評から新産別が出て行ったこと、電機を中心に総評でも同盟でもない中立労連が作られたことが一つの画期になると考えている。六全協もあるしね。

あとは1950年代後半というのが次の時期への大きな転換になっているということもある。第一に、50年代後半に公務員労働運動では完全に総評がヘゲモニーを握ることになった。これは平和運動とのかかわりも無視しえない。第二に、生産性運動が開始され、結果的に、民間労組の組織化では同盟が総評をリードすることになる。つまり、この二つは、総評=公務員中心、同盟=民間というような構図理解の土台を作った流れなのである。

ただ、この後、現在につながる大きい流れは、IMF-JCの登場であり、これはナショナル・センターと産別の力関係を比べたときに、産別のイニシアチブが決定的に重要になる。実は、ここのところはまだ十分に研究されているとは言えない。なぜ、そんなことを言うのかと言えば、鉄鋼労連がちゃんと位置づけられていないと思うからである。鉄鋼は総評に属し、総評内同盟などとも揶揄されていたが、それはたぶんに総評の鉄鋼外から見た位置づけであろう。鉄鋼と総評、同盟の関係はきちんと整理してほしい(誰かが)。岩崎さんに聞いてもよく分からないんだよな。ただ、私は総評内にいることにこだわり続けたということの意味は決して小さくないと思っていて、このことは後生の歴史家が検討してほしいと思っている。誰かやらないかなこの問題。

まあ、でも、こうやって眺めていくと、10年に一回くらい潮目が変わるんだなという印象。でもね、これ、ブログだからこんなに誰も分からなくてもいいや、とりあえず吐き出して整理するかと思うけど、これをさらにもっともらしく整理したら、労働の歴史研究をやっていない人にはなんだか分からなくなるなということだけは、分かっている。さて、どうしよう。
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RADWIMPSのHINOMARUが話題になって、ツイッター上でも賛否両論ですね。私は思想的な嫌悪感というより、中途半端な漢文調が気持ち悪かったです。漢文もある種の語学のようなものなので、私も近年、全然触れる機会がないので、偉そうなことも言えないのですが、それでももうちょっと硬いんですよね。それならそれで通してほしかった。まあ、そんなことはどうでもいいのですが、私が気になったのは左でも右でもないの話です。ねずみ王様のこのツイートです。

私はファシズム論争よろしく戦前の日本をファシズムとして論じる議論には懐疑的ですが、日本主義が1930年代半ばから影響力を増して行き、それがやがて日中戦争から太平洋戦争の際の思想的な中心になっていったこと否定しません。で、そのいわゆる右翼なんですが、右翼というのは北一輝とか、そういう人たちをイメージしやすいですけど、戦前、右翼というのは左翼と対になる言葉でした。そんなの当たり前じゃないかと言われるかもしれないけれども、意外とそうではないかもしれません。どこに焦点を当てるかによって、見える景色が変わって来ます。

戦前の左翼というのは、今と違って分かりやすいんですよ。大雑把に言えば、共産党関係者ないしそれにシンパシーを感じる人たちです。これに対して、敵対する層がどこであったのか。まずは労働組合、総同盟主流派、戦後で言えば社会党右派ないし民社党系、あるいは河合栄治郎周辺の社会思想社系なんです。戦前の文書を読んでいくと、右翼組合と呼ばれています。戦時中に西尾末廣のスターリンのごとく、ムッソリーニの如くという有名な失言がありますが、後に西尾は日本で共産党ともっとも苛烈に戦ってきたのは自分たちであるという自負があったので、まさか誤解されるとは思わなかったと回想しています。連合になってから、右左というのは分かりにくくなってしまいましたけどね。

日本の場合、右でも左でもないというのは、この二者ではない、というところから始まった話じゃないかと思うんですよ。いわゆる中間派ですね。これは石川島造船の自彊組合の具体的人物で言うと、神島という人が始めたんですよ。それを協調会の町田とか、吉田とかがバックアップした。この後ろには安岡正篤なんかも控えている。神島自身は1920年代に亡くなってしまいますが、これが後の産報運動の一つの流れになる。ただ、1930年前後だとまだまだ戦争と関係ないですけどね。

ちなみに、神島はもともとは国粋主義的というより、インターナショナルな世界に憧れていたんですが、なんかのヨーロッパの労働組合の大会に希望を抱いて出席したら、見事に人種差別にあって方向転換するわけです。きれいごとを言ったって、実際は全然違うじゃないかというのが彼の実感なんですね。だから、西洋ではなく、日本に戻らざるを得なかったのです。そういう立場ですから、総同盟、彼らはその最初の名前が友愛会(Friendly Society)といったことからも分かるように、もとは英国流の労働組合主義ですかね(これは総同盟に近かった村嶋歸之が書いています)、そういうものとも相容れないわけです。というような経緯ですから、ヨーロッパとは全然事情が違うわけです。

もうちょっと時間が出来たら、この辺りも少し思想的に整理したいですね。ただ、論文はおろか、ブログエントリにするのも面倒なので、多分、ツイッターでつぶやいて、終わりですが。
本田一成さんから『オルグ!オルグ!オルグ!』新評論、2018年をいただきました。いつも、ありがとうございます。3月にいただいていたのですが、私が生活の基盤を大阪に移したことなどもあり、いつもは一日あれば、大体、書けるのに、こんなに遅くなってしまいました。この間、何度か本田さんに早く紹介せいと催促されてしまいました(いや、実際はもっと丁寧な表現ですが)。

この本はUAゼンセンの研修資料をもとにされていて、その限りにおいて研究というよりは、教材として書かれたものだと思います。いや、それは別に研究として、この本を見ることが出来ないということではなく、次世代の運動家を育てようという本田さんの意思が基盤にあって、それがロマンを語るというところをさらっと語ることを可能にしています。一般に、研究は素材を生のままで持ってくることはせずに調理するわけですが、素材がどんなに魅力的でも、調理に向かないために、泣く泣く取り扱わないことはあります。本当に大事なことは書かれない、というのは私が尊敬する先生お二人がよくおっしゃっていました。このオルグのロマンというのもそういうものです。

オルグのロマンというのは、言ってみれば、オルグの精神とか魂とか思いとかいろんな言い換えが出来ると思います。言葉は何でもいいんですが、これが分かるか分からないのかで運動家になれるかどうかの分水嶺である、と言っていいと思います。余談ですが、以前、組合の方に労使関係を教えて学生を育ててくださいということを頼まれたことが何度かあったのですが、そもそもそういう感覚は分かる人には分かるし、分からない人には分からないと思っていて、それは教育によって作るというより、そういう資質の人に出会うものだと思っているところがあって、あまり乗り気ではないというのが正直なところでした。そういう点では、教育や研修に期待していません。しかし、本田さんはそうではない。

冒頭でオーラルヒストリーを批判されていますが、私から見たらどうでもいい、つまらないことです。それは調査屋としての本田さんのアイデンティティかもしれませんが、オーラルヒストリーであっても、たとえば岩永理恵さんや田中聡一郎さんたちがやった厚生省官僚のオーラルのようにトピック重視の設計も可能ですし、オーラルと呼ばれる前から、古くからいろんなものがあったわけで、それをひとまとめにすることなどできません。それこそフィールドノートのつけ方だって人それぞれですから。いろんな分野と学際的につきあってきた私の経験では、どの分野もすごい人とダメな人がいるというだけだと思います。特定の研究が念頭にあるのに、それを名指しで批判しないのはよくない。こんな中途半端に書くくらいなら、名指しで批判すればよかったと思います。

さて、本体の話に戻りましょう。この本が何を考察しているのか、ということですが、徹頭徹尾、「組織」です。もちろん、オルグは組織化の意味なので、組織について考えるのは当たり前に思われるかもしれませんが、本田さんの場合、産別、企業別組合のロジックを丁寧により分けて記述し、さらにはその背後にある業界動向、経営者の理念などもさらっと解説しています。そういう意味ではいつもながらに産業史、経営史という点から読んでも面白い。ただ、そこからもう一歩踏み込んで、人に入り込んでいる点がこの本の特徴です。そして、その特徴の由来はやはり対象が労働組合であることから来ます。一般に、組織論は軍隊とか企業とかからスタートしていて、人が人を通じて組織を大きくすること自体を目的としていません。これに対して、組合は組織化自体がしばしば組織目標になります。それは他の組織にない特徴です。

しかし、そうした視点に支えられた個別の分析はそれ自体が優れた成果であるとはいえ、それさえも私にとってはどうでもいいことに思えるのです。なぜ、すぐれたオルグの皆さんは本田さんに語ったのか。それは本田さんが調査屋だったからでしょうか。おそらく、そうではないでしょう。私は本田さんが語るに足る人間であると認められたからだと思っています。

労働運動家というのは労働組合に就職すればなれるようなものではありません。もちろん、その組織に属せば、フォーマルにもインフォーマルにも先輩から影響を受ける機会は間違いなく多くなるでしょう。飲み会で何度も聞いた話にそのエッセンスが込められているかもしれません。しかし、だからといってそこに何年、何十年勤続して、その話を聞いたことがあったからといって、本物の運動家になるのかと問われれば、保証の限りではない。本田さんはゼンセンの人間ではありません。一人の高い研究能力を持った研究者です。しかし、それ以上にオルグのロマンを語り継ぐものです。

昨年、私のお世話になった運動家が亡くなって、その人の書いた論集をまとめるので、緒論を書いてくれという依頼をいただきました。その最後に「労働運動に命をかけた一生は男子の本懐である。その精神が後進の労働運動家に引き継がれることをただ祈りたい」と書きました。追悼の言葉よりも、それこそが本当に伝えたいことだったろうと思って。そうして、偲ぶ会が企画され、その論集もそこで配られました。その会で、皆さんの思い出話を聞くうちに、実際に思いが引き継がれていったその姿を見ることが出来ました。

本田さんは歴史が大事だといいます。そういう言葉を組合の方からうかがったこともあります。でも、私はその当時も今も、歴史が大事だとは思っていません。歴史は現在の理解を深める素材に過ぎません。本当に大事なことは、やはり本田さんの言葉で言えば「オルグのロマン」に通じる何かが伝わるかどうかです。別に組合に限らなくてもいいのです。労働運動の精神と呼ぶべきものが本当に一人でも多くの人に伝わるといいなあと思います。それはきっと分野を超えて他の社会運動にも資するところがあるはずです。
田中萬年先生から『「教育」という過ち』をお送りいただきました。ありがとうございます。

濱口先生が既にこの本を紹介されて、コメントの応答がされているのですが、それを見ると、田中先生が革新的教育研究者への批判という思いがあったことを書かれています。濱口先生も私を引き合いに出されながら書かれていますが、私も用語の詮索はあまり意味がないと思っていますし、大きく言えば、田中先生の教育概念によって職業が軽視されてきたという史観は間違っていると考えています。などと言い切っても仕方ないので、私がどう考えているかざっとメモしておきます。

まず、学校における職業教育と、職業訓練を分けて考えたいと思います。学校における職業教育が戦前、重視されていなかったかというと、そんなことはなくて、むしろ6・3制の前身といわれる1930年代の青年学校の義務教育化は事実上、普通教育に対して職業教育を重視した結果ともいえます。その背景には勤労青少年の存在があり、まさに彼らをエンパワーメントするにはどうすればよいのかというのが一つの問題意識としてあったわけです。

1990年代に(私の大学院の出身研究室近辺で)流行した教育社会学的な発想で考えてみると、職業訓練にはあまりメリトクラシー的な階層上層という発想はなじまないんですね。この問題を考えるときに非常に重要なのは美輪明宏さんのヨイトマケの唄だと思います。ヨイトマケの唄は、土方作業で母ちゃんが稼いで、息子が大学を出て技術者になり、親孝行したいときには母ちゃんは亡くなっていたという話です。あの物語は、決して土方で働くことを馬鹿にしていないし、普通に聴けば、労働讃歌的な側面もある。ただ、同時に母ちゃんは息子を現場労働者ではなく、技術者にさせたかったわけです。そう、それは教育社会学的に考えるところの階層上昇です。ところが、明治期に実業補習学校などを通じて職業教育を重視させた内務省の流れは階層上昇よりも、地方特に農村でちゃんと地元を担う若者を作ることに重きをおいたわけで、それはその後も変わりませんでした。これが失われていくのは戦後ですが、それは勤労教育の消滅、社会教育の衰退(ないし生涯教育への転換)とともに2000年近く続いた農村社会の終焉でもあったのです。職業ごとの価値という倫理は、おそらく石門心学が担って来たんですが、それは徐々に失われていったんでしょう。ただ、これは教育という字義よりも、欧米からの輸入物が多すぎたということの方が大きいと思います。

私は教育勅語かどうかはとりあえずどうでもよいので(というか、教育勅語だけやっても仕方なく、漢文をもう少し本格的に復活させるならまだ賛成ですが)、学校体系として戦前と戦後を比較して考えてみたいと思います。戦前の複線型体系というのは、結果的に職業の社会的な差(評価)を補強してしまったところがあります。内務省地方局は農村を重視したけれども、実業補習学校に行けば、旧制高校に行くことは出来ません。農民になる彼らにはその上の教育が必要なかったということでもあるけれども、戦前の大学出身者と実業補習学校卒では今では考えられないくらい差があったと思います。そういうものをみんなひっくり返したのが単線型です。戦後は単線型のなかにコース別を作って、かつ、そのコースを往来できるようにしようという発想がありましたが、結局、必ずしも職業や技術コースは選ばれなかった。それがなぜなのかは検証する必要があるけれども、制度的には作ったし、それを主導したのは森戸辰男で、四六答申までその影響は残っている。

もう一つ、田中先生が失業との関連で述べられているいわゆる職業訓練(古い言葉で職業補導)ですが、これについては1910年代に登場してきます。もちろん、徒弟制度だけにとどまらず、それ以前から職業能力を身につけるための訓練はあったわけですが、第一次世界大戦を契機に失業と結びついて制度的に発展したことは、少なくとも欧米先進国と日本は同じだったわけです。ただ、失業と結びついたがゆえに、失業に対するスティグマとも結びついてきたことは大きかったと思います。というか、失業についてのスティグマが解消されなければ、それに近い職業訓練へのスティグマも消えないでしょう。2000年代だって、玄田先生がニートを輸入したときにはそのスティグマを解消しようとしたわけですが、結果的にはニートという用語もミイラ取りがミイラになって、新しいスティグマを伴って拡大されて利用されるようになっただけで、結局、言葉だけではいかんともし難いところがありますね。まあ、それをいいと言っているわけではなく、不条理だとは思っていますが、人々の意識を変えるのはそんなに容易なことではありません。

何が言いたいかというと、職業訓練への偏見のようなものは、その前段階の職業差別や失業などと分かちがたく結びついていて、そういうものをトータルで考えずに、職業訓練、およびその隣接の教育だけを比較してあれこれ論じてもあまり意味がないということです。

あと厄介なのはですね、教育と労働はしばしば対立するんですが、「教育を受ける権利」というのは普通は国家権力によって学校に強制的に就学させることで児童労働からの解放をするという側面があるわけです。開発途上国では今でもこの問題がありますし、日本でも就学率が上がって女の子が小学校を卒業できるようになるには工場法の施行が大きいわけです。そして、彼女たちの労働は人間開発なんかとあんまり関係ありません。ただ働くだけです。いや、もちろん、山本周五郎の祈りのような労働観はただ働くだけではありませんけどね、そういう修行僧的なのは子どもには向きませんよ。

いずれにせよ、強制的に学校に放り込むというのはある時点では結構、重要なことであり、かつそれはまさに「教育を受ける権利=児童労働から解放される権利」と理解した方がよいと思います。しかし、今の日本はそういうところから次のステージに入っていって、みんなが強制的に学校に通うというのは良いことなの?という疑問が呈されて、いろいろ考え始めているというところです。ここら辺は多様な教育機会と教育機会確保法のせめぎあいの話と関連してくるところでありまして、ここ2年くらいでなかなか熱い議論が戦わされて来たわけで、どういうめぐりあわせかここで議論していませんが、私も考えてきたわけです。

というような歴史的経緯ももう少し整理し直す必要があるとして、その上で、これからの教育とか、職業訓練とか、そのあたりの話を考えていきたいなと私も思っています。いますが、スタートは今年の秋を過ぎたあたりくらいかな。よし、面白そうだから、一緒に考えてみたいという、奇特な方はぜひご連絡ください。一度、お話ししましょう。
法政の大先輩である本田一成さんから新著『チェーンストアの労使関係』をお送りいただきました。ありがとうございます。ここ数年読んだ本のなかでもっともすごい本なんじゃないかなと思うくらいです。大著なんですが、これも本田さんからすれば、詳細に書いた紀要論文のダイジェストという性格なんですね。とにかく、冲永賞をはじめ、今年の労働関係の賞は総ナメだと思います。労使関係に関心ある人は読むべきです。

まず、この本は労使関係史という形を取っていますが、経営史、産業史という色合いも強く持っています。私も十年くらい前までの産業史しかフォローしていませんが、日本経済史系の産業史には、実は労使関係研究ではあまり重視されない隅谷三喜男の『日本石炭産業史』以来、労使関係を重視するという視点がある時期までありました。一人が打ち出してもフォロワーが学説史をきちんとする人たちじゃないと定着しないのですが、少なくとも経済史では武田晴人先生や橋本寿朗先生がその役割を果たしたわけです。でも、本田さんは別にそうした文脈でこれを書いているわけではない。産業史も徐々に、労使関係色が弱まっていっていますし、歴史研究といっても、その時代の世相を反映する側面があるので、こんなに労働運動が退潮すれば、現在の若手に労使関係を重視する視点を期待するのがそもそも無理なのです。でも、その空白のところを埋める研究が強い意志をもって、というよりは危機感とともに出てきた、とも言えるでしょう。

もう一つ、本田さんは労使関係研究のなかでは異色で、労働組合側からだけ見ずに、会社側から見ます。単純なところで言えば、本田さんの既に出された研究は経営研究です。本田さんが法政の経営出身ということとも関係するんでしょうけれども、経営という視点が実は一貫している。本書で本田さんが採用したのは高宮誠さんの研究ですが、結局、高宮さんが早くに亡くなってしまったこともあって、経営学のなかにちゃんとした労使関係研究が日本では根付かなかった。これは惜しむべきことです。その視点を本田さんは継承しています。実は、日本ではなぜか組織論的に労働組合を分析するというのがあまり流行らなかった。ウェブ夫妻の古典を読むと、組合の組織研究ですし、実際にある世代までというか、労使関係研究を志す人は一度はウェブ夫妻の本を読んでいるわけですから、考えてみれば不思議なことです。ただ、念のために言っておきますが、先人が組織という問題を考えなかったわけではなく、あくまで研究という形式になったときに、組織が前面に出てくるものが少なかったということです。他の分野もそうかもしれませんが、労使関係研究って口伝も結構、多いよなという気もしますね。

私は紡績業を研究していたからよく分かるんですが、ゼンセンは繊維の組合で、その最初の組織は日本紡績協会や紡績大企業の存在なしでは成立し得なかった。ですが、誕生時こそそうであれ、組織を見比べてみれば、あの当時の紡績企業のいずれよりも多角化に成功したのはゼンセンです。会社とか組合とかを外して、単に組織として注目すると、ゼンセンほど興味深い対象はたしかにないわけです。そこに切り込んでいった、というのが一つ。ただし、もう一方で、この本はあくまでチェーンストアという小売業界から接近している。だから、小売り組織化の歴史のなかでゼンセンは重要なんだけれども、その前の時代についてももちろん、分析されています。その上でゼンセンが分析されています。

言い換えれば、この本は多角化したゼンセンという組織の原理を一方で分析していて、他方でチェーンストアという産業の労働運動を分析しています。そういう意味では、労働組合側からだけれども、多角化と産業の関係を論じた面白い視点として読むことも出来ます。だから、従来の産業史が日本経済史をベースにしていたとすれば、これは経営史的なアプローチで産業史を描こうとしたともいえるんだけれども、その対象が会社側からというより、労働組合と労使関係からというところが二重に面白いですね。これは日本ではゼンセン以外では成立し得なかったと思います。

この本全体は、結構詳細なケースなんですが、他方で本田さんはすごく理論的にも考える人で、ゼンセンの組織原理をZシステムとか、Z点とかいう概念で提示しています。まあ、ZはゼンセンのZなんでしょう。ただ、この点は推薦文を書いた逢見連合事務局長もコメントを控えていますが、私もどれくらい言えるのかはよく分かりません。私の理解したところだと、Z点とは量が質に転化した時点で、その量とは流通部門の拡大です。大産別主義と強固な内部統制を軸にしながら、それがどこかで転換したと見ている。

具体的な論点は、それこそすごく面白いですし、労働組合の活動について知るためにも本当に重要なことが網羅されていると言っていいと思います(労働時間、賃金、一時金、レクリエーション、大企業労組と産別、ナショナルセンターの関係など)。ただ、その詳細をここで書いてもあまり意味がないので、紹介しません。こういうのは何人かと勉強会をやりながら、議論するのがいいかなと思っていて、現在企画を構想中です。まあ、しかし、私が戦後労働史に取り組めるとしても、数年後だなあ。