田中萬年先生から『「教育」という過ち』をお送りいただきました。ありがとうございます。

濱口先生が既にこの本を紹介されて、コメントの応答がされているのですが、それを見ると、田中先生が革新的教育研究者への批判という思いがあったことを書かれています。濱口先生も私を引き合いに出されながら書かれていますが、私も用語の詮索はあまり意味がないと思っていますし、大きく言えば、田中先生の教育概念によって職業が軽視されてきたという史観は間違っていると考えています。などと言い切っても仕方ないので、私がどう考えているかざっとメモしておきます。

まず、学校における職業教育と、職業訓練を分けて考えたいと思います。学校における職業教育が戦前、重視されていなかったかというと、そんなことはなくて、むしろ6・3制の前身といわれる1930年代の青年学校の義務教育化は事実上、普通教育に対して職業教育を重視した結果ともいえます。その背景には勤労青少年の存在があり、まさに彼らをエンパワーメントするにはどうすればよいのかというのが一つの問題意識としてあったわけです。

1990年代に(私の大学院の出身研究室近辺で)流行した教育社会学的な発想で考えてみると、職業訓練にはあまりメリトクラシー的な階層上層という発想はなじまないんですね。この問題を考えるときに非常に重要なのは美輪明宏さんのヨイトマケの唄だと思います。ヨイトマケの唄は、土方作業で母ちゃんが稼いで、息子が大学を出て技術者になり、親孝行したいときには母ちゃんは亡くなっていたという話です。あの物語は、決して土方で働くことを馬鹿にしていないし、普通に聴けば、労働讃歌的な側面もある。ただ、同時に母ちゃんは息子を現場労働者ではなく、技術者にさせたかったわけです。そう、それは教育社会学的に考えるところの階層上昇です。ところが、明治期に実業補習学校などを通じて職業教育を重視させた内務省の流れは階層上昇よりも、地方特に農村でちゃんと地元を担う若者を作ることに重きをおいたわけで、それはその後も変わりませんでした。これが失われていくのは戦後ですが、それは勤労教育の消滅、社会教育の衰退(ないし生涯教育への転換)とともに2000年近く続いた農村社会の終焉でもあったのです。職業ごとの価値という倫理は、おそらく石門心学が担って来たんですが、それは徐々に失われていったんでしょう。ただ、これは教育という字義よりも、欧米からの輸入物が多すぎたということの方が大きいと思います。

私は教育勅語かどうかはとりあえずどうでもよいので(というか、教育勅語だけやっても仕方なく、漢文をもう少し本格的に復活させるならまだ賛成ですが)、学校体系として戦前と戦後を比較して考えてみたいと思います。戦前の複線型体系というのは、結果的に職業の社会的な差(評価)を補強してしまったところがあります。内務省地方局は農村を重視したけれども、実業補習学校に行けば、旧制高校に行くことは出来ません。農民になる彼らにはその上の教育が必要なかったということでもあるけれども、戦前の大学出身者と実業補習学校卒では今では考えられないくらい差があったと思います。そういうものをみんなひっくり返したのが単線型です。戦後は単線型のなかにコース別を作って、かつ、そのコースを往来できるようにしようという発想がありましたが、結局、必ずしも職業や技術コースは選ばれなかった。それがなぜなのかは検証する必要があるけれども、制度的には作ったし、それを主導したのは森戸辰男で、四六答申までその影響は残っている。

もう一つ、田中先生が失業との関連で述べられているいわゆる職業訓練(古い言葉で職業補導)ですが、これについては1910年代に登場してきます。もちろん、徒弟制度だけにとどまらず、それ以前から職業能力を身につけるための訓練はあったわけですが、第一次世界大戦を契機に失業と結びついて制度的に発展したことは、少なくとも欧米先進国と日本は同じだったわけです。ただ、失業と結びついたがゆえに、失業に対するスティグマとも結びついてきたことは大きかったと思います。というか、失業についてのスティグマが解消されなければ、それに近い職業訓練へのスティグマも消えないでしょう。2000年代だって、玄田先生がニートを輸入したときにはそのスティグマを解消しようとしたわけですが、結果的にはニートという用語もミイラ取りがミイラになって、新しいスティグマを伴って拡大されて利用されるようになっただけで、結局、言葉だけではいかんともし難いところがありますね。まあ、それをいいと言っているわけではなく、不条理だとは思っていますが、人々の意識を変えるのはそんなに容易なことではありません。

何が言いたいかというと、職業訓練への偏見のようなものは、その前段階の職業差別や失業などと分かちがたく結びついていて、そういうものをトータルで考えずに、職業訓練、およびその隣接の教育だけを比較してあれこれ論じてもあまり意味がないということです。

あと厄介なのはですね、教育と労働はしばしば対立するんですが、「教育を受ける権利」というのは普通は国家権力によって学校に強制的に就学させることで児童労働からの解放をするという側面があるわけです。開発途上国では今でもこの問題がありますし、日本でも就学率が上がって女の子が小学校を卒業できるようになるには工場法の施行が大きいわけです。そして、彼女たちの労働は人間開発なんかとあんまり関係ありません。ただ働くだけです。いや、もちろん、山本周五郎の祈りのような労働観はただ働くだけではありませんけどね、そういう修行僧的なのは子どもには向きませんよ。

いずれにせよ、強制的に学校に放り込むというのはある時点では結構、重要なことであり、かつそれはまさに「教育を受ける権利=児童労働から解放される権利」と理解した方がよいと思います。しかし、今の日本はそういうところから次のステージに入っていって、みんなが強制的に学校に通うというのは良いことなの?という疑問が呈されて、いろいろ考え始めているというところです。ここら辺は多様な教育機会と教育機会確保法のせめぎあいの話と関連してくるところでありまして、ここ2年くらいでなかなか熱い議論が戦わされて来たわけで、どういうめぐりあわせかここで議論していませんが、私も考えてきたわけです。

というような歴史的経緯ももう少し整理し直す必要があるとして、その上で、これからの教育とか、職業訓練とか、そのあたりの話を考えていきたいなと私も思っています。いますが、スタートは今年の秋を過ぎたあたりくらいかな。よし、面白そうだから、一緒に考えてみたいという、奇特な方はぜひご連絡ください。一度、お話ししましょう。
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法政の大先輩である本田一成さんから新著『チェーンストアの労使関係』をお送りいただきました。ありがとうございます。ここ数年読んだ本のなかでもっともすごい本なんじゃないかなと思うくらいです。大著なんですが、これも本田さんからすれば、詳細に書いた紀要論文のダイジェストという性格なんですね。とにかく、冲永賞をはじめ、今年の労働関係の賞は総ナメだと思います。労使関係に関心ある人は読むべきです。

まず、この本は労使関係史という形を取っていますが、経営史、産業史という色合いも強く持っています。私も十年くらい前までの産業史しかフォローしていませんが、日本経済史系の産業史には、実は労使関係研究ではあまり重視されない隅谷三喜男の『日本石炭産業史』以来、労使関係を重視するという視点がある時期までありました。一人が打ち出してもフォロワーが学説史をきちんとする人たちじゃないと定着しないのですが、少なくとも経済史では武田晴人先生や橋本寿朗先生がその役割を果たしたわけです。でも、本田さんは別にそうした文脈でこれを書いているわけではない。産業史も徐々に、労使関係色が弱まっていっていますし、歴史研究といっても、その時代の世相を反映する側面があるので、こんなに労働運動が退潮すれば、現在の若手に労使関係を重視する視点を期待するのがそもそも無理なのです。でも、その空白のところを埋める研究が強い意志をもって、というよりは危機感とともに出てきた、とも言えるでしょう。

もう一つ、本田さんは労使関係研究のなかでは異色で、労働組合側からだけ見ずに、会社側から見ます。単純なところで言えば、本田さんの既に出された研究は経営研究です。本田さんが法政の経営出身ということとも関係するんでしょうけれども、経営という視点が実は一貫している。本書で本田さんが採用したのは高宮誠さんの研究ですが、結局、高宮さんが早くに亡くなってしまったこともあって、経営学のなかにちゃんとした労使関係研究が日本では根付かなかった。これは惜しむべきことです。その視点を本田さんは継承しています。実は、日本ではなぜか組織論的に労働組合を分析するというのがあまり流行らなかった。ウェブ夫妻の古典を読むと、組合の組織研究ですし、実際にある世代までというか、労使関係研究を志す人は一度はウェブ夫妻の本を読んでいるわけですから、考えてみれば不思議なことです。ただ、念のために言っておきますが、先人が組織という問題を考えなかったわけではなく、あくまで研究という形式になったときに、組織が前面に出てくるものが少なかったということです。他の分野もそうかもしれませんが、労使関係研究って口伝も結構、多いよなという気もしますね。

私は紡績業を研究していたからよく分かるんですが、ゼンセンは繊維の組合で、その最初の組織は日本紡績協会や紡績大企業の存在なしでは成立し得なかった。ですが、誕生時こそそうであれ、組織を見比べてみれば、あの当時の紡績企業のいずれよりも多角化に成功したのはゼンセンです。会社とか組合とかを外して、単に組織として注目すると、ゼンセンほど興味深い対象はたしかにないわけです。そこに切り込んでいった、というのが一つ。ただし、もう一方で、この本はあくまでチェーンストアという小売業界から接近している。だから、小売り組織化の歴史のなかでゼンセンは重要なんだけれども、その前の時代についてももちろん、分析されています。その上でゼンセンが分析されています。

言い換えれば、この本は多角化したゼンセンという組織の原理を一方で分析していて、他方でチェーンストアという産業の労働運動を分析しています。そういう意味では、労働組合側からだけれども、多角化と産業の関係を論じた面白い視点として読むことも出来ます。だから、従来の産業史が日本経済史をベースにしていたとすれば、これは経営史的なアプローチで産業史を描こうとしたともいえるんだけれども、その対象が会社側からというより、労働組合と労使関係からというところが二重に面白いですね。これは日本ではゼンセン以外では成立し得なかったと思います。

この本全体は、結構詳細なケースなんですが、他方で本田さんはすごく理論的にも考える人で、ゼンセンの組織原理をZシステムとか、Z点とかいう概念で提示しています。まあ、ZはゼンセンのZなんでしょう。ただ、この点は推薦文を書いた逢見連合事務局長もコメントを控えていますが、私もどれくらい言えるのかはよく分かりません。私の理解したところだと、Z点とは量が質に転化した時点で、その量とは流通部門の拡大です。大産別主義と強固な内部統制を軸にしながら、それがどこかで転換したと見ている。

具体的な論点は、それこそすごく面白いですし、労働組合の活動について知るためにも本当に重要なことが網羅されていると言っていいと思います(労働時間、賃金、一時金、レクリエーション、大企業労組と産別、ナショナルセンターの関係など)。ただ、その詳細をここで書いてもあまり意味がないので、紹介しません。こういうのは何人かと勉強会をやりながら、議論するのがいいかなと思っていて、現在企画を構想中です。まあ、しかし、私が戦後労働史に取り組めるとしても、数年後だなあ。
1975年、カテゴリ労働史で転換点と書いたら、みなさんは何を想像されるでしょうか。日本型所得政策でしょうか。それとも、スト権ストでしょうか。私はこの年に形成された学者が中心になって形成された労働問題研究会をここであげたいと思います。とはいっても、仮説なので、みなさん、いろいろ突っ込んでください。

労働問題研究会はそれこそ大河内先生、氏原先生とか、大立者がいっぱい参加されているのですが、この政策研究の流れが翌年の政策推進労組会議を生み、あるいは蓼科(電機)・山岸(電通)の労働社会問題研究センターにつながって、最後は連合までいきます。学者サイドからは、支持政党ではなく、政策ベースで考えるべきだという提案があり、実際に多くの人が先生方からそうアドバイスされたという証言も残っています。

労戦統一についてはキーパーソンがいっぱい出てきすぎて、わけわからんことになりますが、22単組会議解散の反省を経て、政党(あるいはその背後のイデオロギー)ではなく、政策ベースで考えようということになるわけです。70年代末の総評社会党、同盟民社党の対立はこれで乗り切ろうとしたわけですが、結果的には、社公路線が社共路線を潰し、それが連合と全労連を生むわけですから、まあ、統一というか、全体でいうと、再編だったわけです。とはいえ、連合内だけでいえば、統一であり、そこに政策が重要な役割を担うことになります。

それ以前も、産別会議だって、総同盟だって、総評だって、全労会議だって、同盟だって、みんな政策は持っていました。もちろん、他の新産別や中立にしても、あるいは各単産(産別)にしても。1970年代以降、「政策」が背負わされた課題は、イデオロギー対立を超えていくことであり、そこでは学者が関与したからということもありますが、そのためにある種の客観性が志向された。ほぼ同時代的に、政治学から政策学がテイクオフしようとする黎明期でもあり、その意味で「政策」の新しい画期となった時代でした。

しかし、たとえば、国民春闘について、76年に太田薫がこういう趣旨の批判をしています。つまり、こんなに多様な要求、君らも半分もわからんだろう、俺なんかもっと覚えられん。そんなものが運動の中心になり得るのか、というのです。太田薫という人は、大衆との関係を常に考えた、というか、その距離感覚は天才であったというべきでしょう(ただし、政治に関しては???ということがいっぱいあります)。太田の持論的な春闘論というのは、金子美雄と並んで、今でも読む価値があると思います。

やはり労働組合の政策は、政策科学だとか、そういう客観性を求めるのではなく(いや、松下圭一政策科学もよしあしは別として、ある種志向性を持っていたとは思いますが)、やはり、常に多くの労働者をいかに仲間として加わってもらうか、そのためにも彼ら/彼女たち一人ひとりがそれを聞いたら、ぜひ仲間になりたい、そう思わせるようなものを目指すべきなのではないかと思います。理想論というより、原則論として。

実は数年前、連合の25周年かなんかの企画で(たぶん、『連合』だったと思います)、藁科さんが1975年の労働問題研究会の役割を強調していらっしゃいました。それはそれで、研究者としては興味深い証言ですが、私は1975年よりも前の原点に立ち戻る必要があるのではないかと思うのです。
1959年の合化労連の大会で、ときの総評議長で合化労連委員長であった太田薫、事務局長の岩井章はいわゆる下呂談話を発表した。労働戦線では全労会議・総同盟との対決姿勢を打ち出した一方、共産党との共闘を視野に入れていた。労働組合では、1940年代末頃、共産党本部による内部干渉に反発し、民同が出来、その内部抗争がずっと長く続いていた。そのため、古くからの労働運動家の人たちは、今でも共産党に対してのアレルギー反応を持っている。

太田薫は66年に総評議長を辞めるが、その後も活動を続ける。太田は70年代前半に労戦統一運動に入っていった時から、自らを労働組合主義と規定し始めるが、政治的には共産党だけでなく、公明党・民社党も含めた自民党に対抗しうる革新政権の樹立を目指していた。60年代は自民・社会・民社・共産で、そこに公明が入ってくる。それが70年代後半は、ロッキードの影響もあり、自民から新自由クラブが独立、社会の方もお家騒動で江田三郎が出て、社会市民連合になり、その当時は「多党時代」と呼ばれる状況が生まれ始めていた(今の乱立からすると少ないけど)。こうした状況下で、太田が共産党に親和的なこと自体は私には少なくとも違和感はないのだが、民社党との共闘になると話は違う。というのも、そもそも59年に西尾末広を社会党から追い出したのは太田たち、社会主義協会であったのだから。

70年代後半には、松前重義が中心になって社公民中道路線が模索されていて、総評の富塚事務局長、槙枝議長もその考え方に傾いていた。それがややうまくいかなかったのは1979年都知事選で太田が立候補したときで、この選挙では太田は社会党の公認も直前まで得られず、敗北した。このとき、積極的に選挙協力したのは共産党で、最終的には社共で戦うことになった。だが、その後、社会党が総選挙で公明党と協力したことで、共産党との対立は決定的になる。これ以降、労働組合運動のなかで統一労組懇の動きが活発になってくる。統一戦線促進労働組合懇談会は、労働戦線統一ではなく、政治的な統一戦線を目標として掲げた運動であり、これは年来の共産党の考え方であった。

翌1980年、総評、同盟、中立の3つのナショナルセンターの民間産別から構成される統一推進会が生まれる。結果的には、統一推進会は統一労組懇排除の方針を打ち出すことになるが、この中心にいた藁科電機書記長は後に、統一労組懇をどうするかは内部で激しい議論が行われた結果であり、最初から決まっていたわけではないと証言している(オーラル・ヒストリー)。ただし、6人のうち2人が選別主義を否定したとのことだが、その2人が誰かは明らかにされていない。太田が都知事選に出ずに、合化労連委員長のままであれば、まったく違う方向になっただろう。

労戦統一は、1989年に現在の連合が出来たときに達成されたということになっているが、これは勝者の論理であり、共産党系の全労連と、それから連合・全労連のいずれにも行けない総評系の組合の受け入れになった全労協も出来た。しかも、新聞労連や全港湾のように、そもそもナショナルセンターに入らないという道を選んだ産別もある(そして、この両者は連合からの誘いを断っている)。共産党系の統一労組懇排除の方向は、少なくとも、自治労、日教組にとっては組合分裂の契機になった(分裂組は全労連加盟の自治労連、全教になっている)。

総同盟内での左右対立が激しくなったのが1923年くらい(共産党結党はその前年)なので、右派社会党→民社党、総同盟ないし全労会議→同盟の系譜の人たちは今でも連合にいるわけだが、もし民進党が共産党と選挙協力をしてそれを支援するということになれば、90年以上続いてきた先人たちの歴史を書き換えるかもしれない岐路に立っているといえる。

これ、「連合」成立の経緯を考えたら、大変な決断です。私が恐れている最悪のシナリオは、いずれの結論にせよ、大した論争にもならず、なんとなく決まっていってしまうことです。喧々諤々、メッチャ、揉めなきゃいかんとこですよ。
部屋の本を整理したら、孫田良平先生のところからもらってきた岡田完二郎『労働問題の背後にあるもの』が出てきた。この本の冒頭のエッセイで岡田さんが公職追放前に中労委の使用者側委員をやっていたころの話があって、面白い。ところどころ抜粋。

開会の辞のあと、「中立委員は誰が選んだんだ、僕は同意してないぞ!!」と、割れ鐘のような大声で怒鳴るものがある。見れば、荒畑さんの左で「徳田委員」と書いてある。ああ!これが有名な徳田球一氏かと私はビックリした。

芦田厚生大臣と徳球のやりとりがあったあと、大臣が職権で任命しようとすると、末弘厳太郎が

「大臣一寸お待ち下さい。今日のこの歴史的なお芽出度い日に、始めつから例外規定を適用するのはどうかと思います。私の解釈では、労働者側委員の同意というのは、その一人一人の同意でなくても、労働者側委員が寄つて相談して決めたらよいと思う。ねえ、徳田君そうしたらどうかね」と折衷案を出した。徳田委員はサツパリしたもの
「ああ、それもよかろう、じや、ここで相談しようじやないか、西尾君一緒になつて反対しようじやないか」という。そちらを覗いてみると徳田委員の左に西尾末広氏、松岡駒吉氏が座つている。その左の松田長左衛門氏は病気欠席である。西尾さんはポカポカと煙草を吹かしながら、知らん顔で天井を見つめている。徳田委員はせき込んで、
「西尾君、君は愚図愚図しているからいかん、君と僕とここで手を握れば何でもできる、人民政府だつて明日からでも出来るんだ」
という西尾さんはおもむろに口を開いて
「徳田君、君は英雄だからねえ、君の党のことは何んでも君一人で出来るが、僕等の党は下から決議決議で積み上げて来るものだから、そうおいそれと簡単には決められんよ」
と言つて全く取り合おうとしない。すると徳田委員は急に気がついたように
「考えて見りや、僕は党を代表しているので、労働組合から選ばれてるんではない。これはおかしい。労働者側委員は、一体誰が決めたんだ」
と問題の焦点が急に移つていつた。そこで末弘さんが「そんなら労働組合から、代表を選んだらいいじやないか」と突込む。徳田委員は
「それが情無いことには、選挙母体になるような労働組合の連合ができていないんだ」
と兜を脱ぐ。末弘さんが「其連合体はいつ出来るんだ」と聞くと、徳田委員が
「五月頃出来る見込だ」
と応えたので、末弘さんがすかさず「それでは五月末まで、君等もその儘やつて、中立委員もそのとき改選することにしようじやないか」と切り出した。
「うむ、それもいいな」
と徳田委員は案外あつさりと言い、ここに始めて会議が軌道に乗り、(後略)

なんてエピソードが出てきます。言うまでもなく産別会議結成前夜の話で(1946年3月のことでしょう)、ああ2・1ストの大転換までは労働組合とか関係なく、徳球が政府委員をやっていたのだなとか、なかなか感慨深いですね。この後、専従労組役員に賃金を支払ってはいけないと徳田委員、荒畑(寒村)委員と岡田委員の三人だけが主張したという不思議な組み合わせの話も面白いです。

この本自体、後半の講演を読むと、昔の使用者は博識だなあという感想と、いやいや岡田完二郎だからか、という感慨とが交差していきます。岡田はこの本が出版されたとき、宇部興産副社長ですが、宇部興産は太田薫総評議長の出身企業で、要するに、岡田と太田は対峙したんだなということもわかります(岡田が公職追放されて宇部興産に入るのは1947年です)。なお、岡田は公職追放を受けて古河鉱業社長と中労委を辞め、宇部興産を務めた後、古河系の富士通の社長になって池田敏雄を支え、日本のコンピュータ産業を飛躍させていきました。