2017年01月19日 (木)
稲葉さんから新刊の『政治の理論』中公叢書が送られてきて、早速、二日かけて読んでみた。いろいろな感想が駆け巡っていったけれども、我々の学問的なアイデンティティでいうと、社会政策は政策である以上、最後は稲葉さんが示したような広義の「政治」学に戻っていかなければならない、ということだ。それはある時期には国家学と呼ばれてもいた。この問題意識はどれくらい共有されているかどうか分からないけれども、非常にプラクティカルなレベルでは岩田正美先生の『社会福祉のトポス』を例外として、私が直接、知っている人では稲葉さんとしか共有していない、と思う。イギリス流のソーシャル・ポリシーは、もともと日本と違って社会学と社会福祉(ないし社会事業)学が分離せずにソシオロジーだったところに、パブリック・ポリシーを潜り抜けて生まれたという経緯があるので、それは政治学を潜り抜けてきたともいえる。私に言わせれば、前段のソシオロジーの部分は、日本では社会福祉学でほぼ事足りる。だが、肝心の政治学との接合が必ずしもうまくいかなかった。その理由を書くのはここの趣旨ではないので省略したい。
やはり世代差というのを強く感じた。もちろん、稲葉さんと私では一回り以上、もっと離れているのだが、別に我々の方が若いから稲葉は古いなどというバカなことをいうつもりはない。むしろ、まったく逆で、我々後進のものには書けないなと思ったのである。というのも、稲葉さんは東西冷戦体制の中でアカデミックなトレーニングを受けて、その途中でその体制自体が崩壊し、それに伴って崩壊していった学者も横で見ている。それはその時代に居合わせなければ経験しえないものである。
身もふたもない言い方をするが、日本の社会政策という研究領域は、領域社会学が生まれる以前から存在しており、その時代からの伝統である社会調査および歴史研究によって今なお命脈を保っている。大河内以降、というよりは、より広く日本資本主義論争以降のマルクス経済学が没落しても大して変わらないのはそういう理由による。私はこのポスト・マルクス主義の共通言語の必要性をずっと言ってきて、それはどの領域でも一定の賛成を得られるのだが、実行に移すとなると難しい。それに何より、やはりマルクス主義諸学と決別するにせよ、あるいは現代的にリニューアルするにせよ、ギリギリ稲葉さん世代までのマルクス諸学を潜り抜けてきた人たちがやるしかないのではないか、という気がした。実際、稲葉さんの仕事はそういう性格が強くある。
今回の『政治の理論』は、岩田正美先生の『社会福祉のトポス』と案外、平仄が合っていて、稲葉さんが言う「有産者市民」というのは岩田先生のいう「一般化」の対象と重なっている。ここでいう一般化とは一般的な労働・生活様式を安定的に維持することを目的として、獲得される社会福祉というか政策のトポスを得るためのロジックである(ありていにいえば、多くの人が対象となって、予算が要求される政策である)。だが、一般化の議論だけでは、特定化のロジックを取り込むことはできない。この隘路をどうクリアするのかは難しい。有産、無産という言い方にこだわるならば、無産から抜け出すことが出来ない人をどのように組み込むのかということでもある(実際には特殊化の対象はもう少し様々なフェーズに分かれる)。ただ、無産者という言葉をスタートに、雇用社会を解き明かしていくのは稲葉さんのオリジナルな論じ方だろう。だから、6章、7章は稲葉さんの資本主義論である。
アーレントとフーコーを足掛かりにして、経済学・社会学の最新の知見を踏まえと、謳い文句にはあるが、本書にはほとんど社会学は出てこない。社会構築主義の話が一行出てくるくらいで、ほとんど影響はないし、『社会学入門』の最後で重視したマートンの中範囲の理論はさらっと登場させる余地はあったと思うし、登場させていれば、二つの本の連絡が出来ていてよい感じだったと思うけれど、登場していない。それには理由があって、この本は冒頭で規範的政治理論と実証的政治理論を区分して、前者に立つと明言して、そもそも「政治」とは何かを考察することになっているのだが、その試みは実際は政治経済学の復権であろうと思う。そこにはあまり社会学の入り込む余地はない。
ちなみに、日本でも戦後、政治学と経済学を結び付けようという動きがあって、たとえば猪木正道先生(河合栄治郎の弟子)は成蹊大学の政治経済学部を作るのに尽力した(が、60年代の改組で政治経済学部はなくなっている)。猪木、関嘉彦といった社会主義右派の河合学統は、政治学に流れて行ってしまい、しかも、河合事件の影響もあって、大河内ら社会政策組と交わることはなかった。これも日本の社会政策が政治学、行政学系の政策科学とあまり交差しなかった原因の一つであろう。思いついたので、忘れないうちに書いておく。
話を元に戻す。この本全体を貫いている前提は、フーコーの統治論を媒介に、政治の意味を拡張させるという姿勢である(アーレントの「政治」が狭いというのはここで召喚される)。端的に「コーポレート・ガバナンス」と表現しているが、これはいわゆる企業統治のことではなく、コーポレートは広く法人を意味しており、法人をどう統治するのかというほどの意味である。こうした意味で「政治」を使っていたのは濱口さんかなと思う。広田(照幸)理論科研のときの講演はそういう含みがあった。ただ、文脈によっては狭い意味での政治活動(ロビーイングによる政策の実現)などで使う。稲葉さんと私の日教組まわりの話のエントリは後者の意味である。個人的なことを言えば、労使関係研究にわりと丁寧に付き合ってきた稲葉さんがあえて「コーポレート・ガバナンス」というところもポイントだとは思う。
大きく言えば、本書の中にも書いているが、政治学が経済学を下位に置こうととしながら、逆に経済学の下位に置かれてしまったという状況を前提として、「政治」と「経済」を考え直すというのがこの本の大きいテーマであろうと思う。だから、いわゆるギフト・エコノミー的なものはほとんど出てこないし、非営利的なコーポレーションも出てこない。ここが「協同」とか「連帯」という言葉が出てこない原因でもある。それは第9章で宗教のアンビバレントな扱い方にも見えてくる。この辺りはそもそも「宗教」がキリスト教的な古い概念で考えられてるなあという感じもするし、十分に論じられているとは思えない。だが、稲葉さんの懐疑の精神についてはこの章を読むだけでも十分に伝わる。宗教というよりは、社会主義などの運動の「べき」論が不毛な結果を生んできた歴史から来る、それ自体は全うな警戒心ではあるのだが。
この本を読んで、じゃあ見通しが良くなるかと言えば、うーん、分からん。少なくとも政治学の動向を知らない人が読んでも、地図にはなり得ないと思う。具体的に言うと、たとえば、政治学のなかでは新しい社会運動という、もうそれ自体古くなってしまった研究領域や、住民参加のまちづくりなどの領域があり、さらにはそこに専門職がどのようにかかわるかなど、それは学際的な要素を含みながら、今なお重要なテーマであろう。これは稲葉さんが最後でいう地方政治、コーポレート・ガバナンス、労使関係と陸続きなのだが、そういうことは書いてないので、いきなりは分からない。だから、高校の公民科レベルの知識がないというのはちょっとした脅し文句で、基本的には一回入門してなんとなく政治学が分かった人が、もう一回政治を考えてみようというくらいじゃないとしんどい。ただ、この政策作成プロセスへの参加という論点になると、実は社会学が貢献する余地がかなり出てくるのだが、本書はその手前で終わっている(し、そのこと自体は悪いことでもない)。
中公新書には、飯尾潤『日本の統治構造』、清水唯一朗『近代日本の官僚』、門松秀樹『明治維新と幕臣』、岡田一郎『革新自治体』などの基本書がそろっているので、それだけで現実的な日本政治を考える際には既に見通しが良い。思想では宇野重規『保守主義とは何か』が出たので、これと稲葉さんの本を新書で出そうとしてたのだから、さすがである。ただ、今回の稲葉さんの本はこれらに比べると、オリジナルな思考というか、自分で考えなおすというのが強く出ており、やはり分量だけでなく、その内実からも叢書にせざるを得なかっただろう。
冒頭で「右も左もわからぬ若い学生さんよりは、大学を出てからしばらく経って、仕事と家庭で難渋し、テレビで見るだけでなく実際にわが身に降りかかる政治の不条理に少しばかり慨嘆して、学問というもののありがたみが少しばかり身に染みてきた、向学心のある社会人の皆さんの方が、本書を楽しんでいただけるだろう」と書いてある。こういう記述を読むと、普通の人は「えっ?」と戸惑われるかもしれない。稲葉さんの本はかつては「ヘタレ・インテリ」による「ヘタレ・インテリ」のためという趣向で書かれていた。普通の人には何を言っているか分からないと思うが、ある種の斜めに構えた自虐的な毒っ気があって、その名残がたまに出る。とはいえ、稲葉さん自身は『不平等との闘い』以降、というか、東日本大震災以降、かなり真っ直ぐに語るようになられたと思う。ただその補正具合はここら辺が限度、つまり正面を向き切らないというところが懐疑の精神とも繋がっているのだ。
「政治」について、あるいは「運動」や「労働」について考える皆さんには、間違いなく刺激になるところが多いと思うので、ぜひ頑張って読んでみてほしいと思う。大切なのは、多くのことを知るのではなく、自分なりの経験や知識をもとに考えてみることだ。稲葉さんの本の大事な美点は「楽しんでいただける」という娯楽性を忘れていない点で、難しいので全部を理解するのはできないかもしれないけれども、頑張った先に楽しめる境地は確実にあるし、それは頂上まで登らなければ味わえないわけでもない。
やはり世代差というのを強く感じた。もちろん、稲葉さんと私では一回り以上、もっと離れているのだが、別に我々の方が若いから稲葉は古いなどというバカなことをいうつもりはない。むしろ、まったく逆で、我々後進のものには書けないなと思ったのである。というのも、稲葉さんは東西冷戦体制の中でアカデミックなトレーニングを受けて、その途中でその体制自体が崩壊し、それに伴って崩壊していった学者も横で見ている。それはその時代に居合わせなければ経験しえないものである。
身もふたもない言い方をするが、日本の社会政策という研究領域は、領域社会学が生まれる以前から存在しており、その時代からの伝統である社会調査および歴史研究によって今なお命脈を保っている。大河内以降、というよりは、より広く日本資本主義論争以降のマルクス経済学が没落しても大して変わらないのはそういう理由による。私はこのポスト・マルクス主義の共通言語の必要性をずっと言ってきて、それはどの領域でも一定の賛成を得られるのだが、実行に移すとなると難しい。それに何より、やはりマルクス主義諸学と決別するにせよ、あるいは現代的にリニューアルするにせよ、ギリギリ稲葉さん世代までのマルクス諸学を潜り抜けてきた人たちがやるしかないのではないか、という気がした。実際、稲葉さんの仕事はそういう性格が強くある。
今回の『政治の理論』は、岩田正美先生の『社会福祉のトポス』と案外、平仄が合っていて、稲葉さんが言う「有産者市民」というのは岩田先生のいう「一般化」の対象と重なっている。ここでいう一般化とは一般的な労働・生活様式を安定的に維持することを目的として、獲得される社会福祉というか政策のトポスを得るためのロジックである(ありていにいえば、多くの人が対象となって、予算が要求される政策である)。だが、一般化の議論だけでは、特定化のロジックを取り込むことはできない。この隘路をどうクリアするのかは難しい。有産、無産という言い方にこだわるならば、無産から抜け出すことが出来ない人をどのように組み込むのかということでもある(実際には特殊化の対象はもう少し様々なフェーズに分かれる)。ただ、無産者という言葉をスタートに、雇用社会を解き明かしていくのは稲葉さんのオリジナルな論じ方だろう。だから、6章、7章は稲葉さんの資本主義論である。
アーレントとフーコーを足掛かりにして、経済学・社会学の最新の知見を踏まえと、謳い文句にはあるが、本書にはほとんど社会学は出てこない。社会構築主義の話が一行出てくるくらいで、ほとんど影響はないし、『社会学入門』の最後で重視したマートンの中範囲の理論はさらっと登場させる余地はあったと思うし、登場させていれば、二つの本の連絡が出来ていてよい感じだったと思うけれど、登場していない。それには理由があって、この本は冒頭で規範的政治理論と実証的政治理論を区分して、前者に立つと明言して、そもそも「政治」とは何かを考察することになっているのだが、その試みは実際は政治経済学の復権であろうと思う。そこにはあまり社会学の入り込む余地はない。
ちなみに、日本でも戦後、政治学と経済学を結び付けようという動きがあって、たとえば猪木正道先生(河合栄治郎の弟子)は成蹊大学の政治経済学部を作るのに尽力した(が、60年代の改組で政治経済学部はなくなっている)。猪木、関嘉彦といった社会主義右派の河合学統は、政治学に流れて行ってしまい、しかも、河合事件の影響もあって、大河内ら社会政策組と交わることはなかった。これも日本の社会政策が政治学、行政学系の政策科学とあまり交差しなかった原因の一つであろう。思いついたので、忘れないうちに書いておく。
話を元に戻す。この本全体を貫いている前提は、フーコーの統治論を媒介に、政治の意味を拡張させるという姿勢である(アーレントの「政治」が狭いというのはここで召喚される)。端的に「コーポレート・ガバナンス」と表現しているが、これはいわゆる企業統治のことではなく、コーポレートは広く法人を意味しており、法人をどう統治するのかというほどの意味である。こうした意味で「政治」を使っていたのは濱口さんかなと思う。広田(照幸)理論科研のときの講演はそういう含みがあった。ただ、文脈によっては狭い意味での政治活動(ロビーイングによる政策の実現)などで使う。稲葉さんと私の日教組まわりの話のエントリは後者の意味である。個人的なことを言えば、労使関係研究にわりと丁寧に付き合ってきた稲葉さんがあえて「コーポレート・ガバナンス」というところもポイントだとは思う。
大きく言えば、本書の中にも書いているが、政治学が経済学を下位に置こうととしながら、逆に経済学の下位に置かれてしまったという状況を前提として、「政治」と「経済」を考え直すというのがこの本の大きいテーマであろうと思う。だから、いわゆるギフト・エコノミー的なものはほとんど出てこないし、非営利的なコーポレーションも出てこない。ここが「協同」とか「連帯」という言葉が出てこない原因でもある。それは第9章で宗教のアンビバレントな扱い方にも見えてくる。この辺りはそもそも「宗教」がキリスト教的な古い概念で考えられてるなあという感じもするし、十分に論じられているとは思えない。だが、稲葉さんの懐疑の精神についてはこの章を読むだけでも十分に伝わる。宗教というよりは、社会主義などの運動の「べき」論が不毛な結果を生んできた歴史から来る、それ自体は全うな警戒心ではあるのだが。
この本を読んで、じゃあ見通しが良くなるかと言えば、うーん、分からん。少なくとも政治学の動向を知らない人が読んでも、地図にはなり得ないと思う。具体的に言うと、たとえば、政治学のなかでは新しい社会運動という、もうそれ自体古くなってしまった研究領域や、住民参加のまちづくりなどの領域があり、さらにはそこに専門職がどのようにかかわるかなど、それは学際的な要素を含みながら、今なお重要なテーマであろう。これは稲葉さんが最後でいう地方政治、コーポレート・ガバナンス、労使関係と陸続きなのだが、そういうことは書いてないので、いきなりは分からない。だから、高校の公民科レベルの知識がないというのはちょっとした脅し文句で、基本的には一回入門してなんとなく政治学が分かった人が、もう一回政治を考えてみようというくらいじゃないとしんどい。ただ、この政策作成プロセスへの参加という論点になると、実は社会学が貢献する余地がかなり出てくるのだが、本書はその手前で終わっている(し、そのこと自体は悪いことでもない)。
中公新書には、飯尾潤『日本の統治構造』、清水唯一朗『近代日本の官僚』、門松秀樹『明治維新と幕臣』、岡田一郎『革新自治体』などの基本書がそろっているので、それだけで現実的な日本政治を考える際には既に見通しが良い。思想では宇野重規『保守主義とは何か』が出たので、これと稲葉さんの本を新書で出そうとしてたのだから、さすがである。ただ、今回の稲葉さんの本はこれらに比べると、オリジナルな思考というか、自分で考えなおすというのが強く出ており、やはり分量だけでなく、その内実からも叢書にせざるを得なかっただろう。
冒頭で「右も左もわからぬ若い学生さんよりは、大学を出てからしばらく経って、仕事と家庭で難渋し、テレビで見るだけでなく実際にわが身に降りかかる政治の不条理に少しばかり慨嘆して、学問というもののありがたみが少しばかり身に染みてきた、向学心のある社会人の皆さんの方が、本書を楽しんでいただけるだろう」と書いてある。こういう記述を読むと、普通の人は「えっ?」と戸惑われるかもしれない。稲葉さんの本はかつては「ヘタレ・インテリ」による「ヘタレ・インテリ」のためという趣向で書かれていた。普通の人には何を言っているか分からないと思うが、ある種の斜めに構えた自虐的な毒っ気があって、その名残がたまに出る。とはいえ、稲葉さん自身は『不平等との闘い』以降、というか、東日本大震災以降、かなり真っ直ぐに語るようになられたと思う。ただその補正具合はここら辺が限度、つまり正面を向き切らないというところが懐疑の精神とも繋がっているのだ。
「政治」について、あるいは「運動」や「労働」について考える皆さんには、間違いなく刺激になるところが多いと思うので、ぜひ頑張って読んでみてほしいと思う。大切なのは、多くのことを知るのではなく、自分なりの経験や知識をもとに考えてみることだ。稲葉さんの本の大事な美点は「楽しんでいただける」という娯楽性を忘れていない点で、難しいので全部を理解するのはできないかもしれないけれども、頑張った先に楽しめる境地は確実にあるし、それは頂上まで登らなければ味わえないわけでもない。
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2016年02月25日 (木)
岩田正美先生が今年に入ってすごく画期的な本を書かれました。『社会福祉のトポス』有斐閣です。この本はここ数年、私が悩んでいた社会政策の位置づけについてのブレーク・スルーを与えてくれるものだと思って、ここ1週間くらい結構、読んでいました。少しずつメモしておきたいなと思います。
一つ、野口友紀子さんが『社会事業成立史の研究』で提起された社会事業というのは、その範囲が時代によって変遷していくんで、その融通さこそが社会事業の特徴なんだ、というテーゼがあるんですが、岩田先生の白書分析はある意味、このテーゼを政策という限定したスコープから、より一歩踏み込んで、そのメカニズムを明らかにしたと言えるのではないか、と考えています。それは具体的に言うと、「一般化」と「特殊化」という二つのキーワードですね。そうそう、確認しますが、このブログは私のノートなので、詳しい説明とかしません。それぞれの詳しい説明は本を読んで確認してください。
ただ、この「一般化」と「特殊化」の概念整理は新しい二つの領域を切り開いた、という気もしています。一つは、イギリス的に言うと、ソーシャル・ワークないしソーシャル・アドミニストレーションからソーシャル・ポリシー段階に到達した議論で、ソーシャル・ポリシーの形成メカニズムを明らかにしたということです。でも、それは社会福祉全体の中ではやや限定された局面である。もう一つは、実はこの概念は、社会福祉だけではなく、他の分野にも適用可能な、より抽象化すると政策形成のメカニズムを明らかにしたと言えるのではないか。もし、そうであるならば、実は意図せざる結果として最初に設定した社会福祉という枠を飛び越えているのではないか、ということです。このところ、考えてきた不登校児童をどう考えるかはこのロジックは見事に当てはまります。
領域の拡張は、政策以外の分野でも起こりうるのであって、たとえば、私が昔岩田先生から教わったのが日置真世さんで、彼女は障害児問題からより広い問題に事業を広げていった方です。NPO活動や何かでも、ある事業をやっていたら、他の事業に横展開していくということは現象としてはよく見られることで、しばしばそういう成功者には首尾一貫性があります。その首尾一貫したところに社会福祉の明らかにすべき何かがあるのかもしれない、という気もします。ただ、これ、福祉から離れて、企業経営の世界でいえば、多角化という話なんですよね。もちろん、利益優先でやっているわけでないから、いろいろと前提は違います。そこではむしろ「ニード」の方が重要な概念かもしれない。政策におけるメカニズムは、たしかに岩田先生が明らかにした通りなんだけど、もう一方で、社会事業とか、社会福祉とかってより広い方になっていくとこういう事業内在的なメカニズムを別に解明する必要があるのではないか、というのが残された問題としてあるような気がします。
今日の大原社研の公開講演でもお話しされていたんですが、生活の多様性というところにも行きつきます。大原の講演は何号かあとのうちの雑誌に掲載されるそうですので、そちらもみなさん、お楽しみに。「生活」概念はすごく難しいんですよね。そういう場合は、アプローチの仕方を変えるのがいいかもしれない。日置さんが仲間たちと作った『事例でみる生活困窮者』という本があります。これは「生活困難」のいわゆるケース・スタディで、生活困難が複合的なのがよく見えてきます。15の分野「ニート・ひきこもり」「精神疾患」「知的障がい」「発達障がい」「虐待」「多重・過剰債務」「ホームレス」「矯正施設出所者等」「外国人」「性暴力被害」「セクシュアル・マイノリティ」「依存症」「労働」「被災避難者」「介護」から架空の事例が38紹介されているとのこと。というか、私、読んだんですが、今、見当たらないので。日置さんの紹介から引っ張ってきました。この前、たまたま慶応のビジネス・スクールでお話しする機会があったので、そのときも少し話題になったのですが、ケース・スタディってハーバードだともともと判例研究の一つで、知のあり方として大いに注目すべきだと思うんですよね。と、脱線しました。
あと、岩田先生が「事業集合とその変遷」を見るという分析視角を採ること自体が、いわゆる発展段階論を拒否しているわけですが、それは直接、私には関係ないので、省略。この本、1-3章と4-6章の関係がよくわからなくて、岩田先生にも直接、聞いてみたのですが、まだ納得いっていないので、もうしばらく考えたいと思っています。
一つ、野口友紀子さんが『社会事業成立史の研究』で提起された社会事業というのは、その範囲が時代によって変遷していくんで、その融通さこそが社会事業の特徴なんだ、というテーゼがあるんですが、岩田先生の白書分析はある意味、このテーゼを政策という限定したスコープから、より一歩踏み込んで、そのメカニズムを明らかにしたと言えるのではないか、と考えています。それは具体的に言うと、「一般化」と「特殊化」という二つのキーワードですね。そうそう、確認しますが、このブログは私のノートなので、詳しい説明とかしません。それぞれの詳しい説明は本を読んで確認してください。
ただ、この「一般化」と「特殊化」の概念整理は新しい二つの領域を切り開いた、という気もしています。一つは、イギリス的に言うと、ソーシャル・ワークないしソーシャル・アドミニストレーションからソーシャル・ポリシー段階に到達した議論で、ソーシャル・ポリシーの形成メカニズムを明らかにしたということです。でも、それは社会福祉全体の中ではやや限定された局面である。もう一つは、実はこの概念は、社会福祉だけではなく、他の分野にも適用可能な、より抽象化すると政策形成のメカニズムを明らかにしたと言えるのではないか。もし、そうであるならば、実は意図せざる結果として最初に設定した社会福祉という枠を飛び越えているのではないか、ということです。このところ、考えてきた不登校児童をどう考えるかはこのロジックは見事に当てはまります。
領域の拡張は、政策以外の分野でも起こりうるのであって、たとえば、私が昔岩田先生から教わったのが日置真世さんで、彼女は障害児問題からより広い問題に事業を広げていった方です。NPO活動や何かでも、ある事業をやっていたら、他の事業に横展開していくということは現象としてはよく見られることで、しばしばそういう成功者には首尾一貫性があります。その首尾一貫したところに社会福祉の明らかにすべき何かがあるのかもしれない、という気もします。ただ、これ、福祉から離れて、企業経営の世界でいえば、多角化という話なんですよね。もちろん、利益優先でやっているわけでないから、いろいろと前提は違います。そこではむしろ「ニード」の方が重要な概念かもしれない。政策におけるメカニズムは、たしかに岩田先生が明らかにした通りなんだけど、もう一方で、社会事業とか、社会福祉とかってより広い方になっていくとこういう事業内在的なメカニズムを別に解明する必要があるのではないか、というのが残された問題としてあるような気がします。
今日の大原社研の公開講演でもお話しされていたんですが、生活の多様性というところにも行きつきます。大原の講演は何号かあとのうちの雑誌に掲載されるそうですので、そちらもみなさん、お楽しみに。「生活」概念はすごく難しいんですよね。そういう場合は、アプローチの仕方を変えるのがいいかもしれない。日置さんが仲間たちと作った『事例でみる生活困窮者』という本があります。これは「生活困難」のいわゆるケース・スタディで、生活困難が複合的なのがよく見えてきます。15の分野「ニート・ひきこもり」「精神疾患」「知的障がい」「発達障がい」「虐待」「多重・過剰債務」「ホームレス」「矯正施設出所者等」「外国人」「性暴力被害」「セクシュアル・マイノリティ」「依存症」「労働」「被災避難者」「介護」から架空の事例が38紹介されているとのこと。というか、私、読んだんですが、今、見当たらないので。日置さんの紹介から引っ張ってきました。この前、たまたま慶応のビジネス・スクールでお話しする機会があったので、そのときも少し話題になったのですが、ケース・スタディってハーバードだともともと判例研究の一つで、知のあり方として大いに注目すべきだと思うんですよね。と、脱線しました。
あと、岩田先生が「事業集合とその変遷」を見るという分析視角を採ること自体が、いわゆる発展段階論を拒否しているわけですが、それは直接、私には関係ないので、省略。この本、1-3章と4-6章の関係がよくわからなくて、岩田先生にも直接、聞いてみたのですが、まだ納得いっていないので、もうしばらく考えたいと思っています。
2015年02月09日 (月)
ベーシック・インカムを少し調べてみるかということで、多摩図書館に寄ってみたら、いくつか面白い本があった。社会政策学会(アクセプトされたらだが)と茶話会の報告に関係あるので、すこしまとめておこう。
最初に魅かれたのは山本理奈『マイホーム神話の生成と臨界』という本。パラパラっと読むと、住宅の歴史社会学の話が少し書いてあったので、ああそうだと思いだして、祐成保志『<住宅>の歴史社会学』をこれまた、パラパラっと読む。佐藤健二『社会調査史のリテラシー』を読んだときにも思ったが、構築主義以降の歴史社会学はトピック突破主義なので、文脈が分かりづらい。こういうテーマとこういうテーマがありますねといって話がいつのまに膨らんでいく。たぶん、これは体系化のアンチテーゼで出来たことと関係があるのではないかと想像した。だが、門外漢には敷居が高い。うーん、社会学は体系化→方法の洗練→個人の熟練に頼った再職人化の道を歩んでるんだろうか。まあ、でも、たぶん、他人が読んだら、私の本はもっと学統が分かりづらいだろうな。
ただ、今の問題関心で読んでいると、住宅が一つのキーワードになるなとは感じていて、たぶん、渡辺俊一・本間義人といったところをもうひとつフックにしながら、磯村英一・奥井復太郎の都市社会学に至ると、都市社会政策が見えてくるんだろうなという予感がした。矢崎武夫、藤田弘夫ではなく、その前の二人が重要だと思う。ちなみに、私はあまり鈴木栄太郎の都市社会学は買わない。鈴木の研究はやはり農村社会学原理に尽きると思う。というか、『都市社会学原理』と『日本農村社会学原理』を読み比べてみると分かるけれども、農村社会学原理から自由ではない、というのが私の印象だ。それは都市社会学から都市計画的なものを排除しようとした鈴木の問題意識とも重なるのである。
ここに領域社会学のもう一つに、家族社会学がある。じつは、農村社会学も都市社会学においても家族は重要である。ここの部分(具体的には家族社会学と都市社会学のある部分)をうまく接続させようとしているのが祐成の提唱している住宅社会学ということになるだろう。
そして、もう一つ面白いのは武川正吾『地域社会計画と住民生活』である。最近の勉強を踏まえて読むと、この本は大変に面白い。面白いのだが、同時にこのときに持っていた問題意識をうまく発展させてくれたら、日本の社会政策はまったく違う状況になっていただろうと思う。何がそんなに面白いのかということなのだが、それは公共政策、経済政策、社会政策の位置づけである。簡単に言えば、公共政策のなかに、具体的に経済的なものを扱う政策と具体的に社会的なものを扱う政策として、二つとも仲良く収まっている。ここで「具体的に」が強調されていたが、これが後の経済学的社会政策と社会学的経済政策のモチーフであることは明らかだろう。
この本の中には西尾勝の研究ももちろん引かれているし、シビルミニマムの話もある。ということは、この時点ではひょっとしたら、政治学ないし行政学の公共政策と対話しながら、日本型の公共政策と社会政策論を発展できたかもしれない。もし、その試みが成功していれば、玉井金五の『防貧の創造』で提出された問題とも相まって、1990年代に日本のオリジナリティのある社会政策論が誕生した可能性があったのではないか。この本、たぶん、売れたんだな。それにしてもアマゾンの価格は安すぎる。
武川のこの本は社会計画と地域社会学との交錯する領域を扱うことをうたっている。地域社会学というのは、たしかに農村社会学と都市社会学を包含するよい問題設定だと思う。何より、鈴木栄太郎がいう意味での自然村は高度成長期以降は消え行っているからである。このあたりの問題設定は松下圭一の問題提起とも重なるだけに、もうちょっと公共政策と対話しつつ、社会政策そのものが80年代から90年代に深められていったらという感慨がやはり残るのである。
ついでにいうと、社会計画、経済計画の思想的検討も必要で、そのときには厚生経済学や公共選択論と正面から向き合うことになるだろう。
まあ、私の作業はまだこの時代まで追いつかないので、とりあえず宿題というかメモ代わりに。
最初に魅かれたのは山本理奈『マイホーム神話の生成と臨界』という本。パラパラっと読むと、住宅の歴史社会学の話が少し書いてあったので、ああそうだと思いだして、祐成保志『<住宅>の歴史社会学』をこれまた、パラパラっと読む。佐藤健二『社会調査史のリテラシー』を読んだときにも思ったが、構築主義以降の歴史社会学はトピック突破主義なので、文脈が分かりづらい。こういうテーマとこういうテーマがありますねといって話がいつのまに膨らんでいく。たぶん、これは体系化のアンチテーゼで出来たことと関係があるのではないかと想像した。だが、門外漢には敷居が高い。うーん、社会学は体系化→方法の洗練→個人の熟練に頼った再職人化の道を歩んでるんだろうか。まあ、でも、たぶん、他人が読んだら、私の本はもっと学統が分かりづらいだろうな。
ただ、今の問題関心で読んでいると、住宅が一つのキーワードになるなとは感じていて、たぶん、渡辺俊一・本間義人といったところをもうひとつフックにしながら、磯村英一・奥井復太郎の都市社会学に至ると、都市社会政策が見えてくるんだろうなという予感がした。矢崎武夫、藤田弘夫ではなく、その前の二人が重要だと思う。ちなみに、私はあまり鈴木栄太郎の都市社会学は買わない。鈴木の研究はやはり農村社会学原理に尽きると思う。というか、『都市社会学原理』と『日本農村社会学原理』を読み比べてみると分かるけれども、農村社会学原理から自由ではない、というのが私の印象だ。それは都市社会学から都市計画的なものを排除しようとした鈴木の問題意識とも重なるのである。
ここに領域社会学のもう一つに、家族社会学がある。じつは、農村社会学も都市社会学においても家族は重要である。ここの部分(具体的には家族社会学と都市社会学のある部分)をうまく接続させようとしているのが祐成の提唱している住宅社会学ということになるだろう。
そして、もう一つ面白いのは武川正吾『地域社会計画と住民生活』である。最近の勉強を踏まえて読むと、この本は大変に面白い。面白いのだが、同時にこのときに持っていた問題意識をうまく発展させてくれたら、日本の社会政策はまったく違う状況になっていただろうと思う。何がそんなに面白いのかということなのだが、それは公共政策、経済政策、社会政策の位置づけである。簡単に言えば、公共政策のなかに、具体的に経済的なものを扱う政策と具体的に社会的なものを扱う政策として、二つとも仲良く収まっている。ここで「具体的に」が強調されていたが、これが後の経済学的社会政策と社会学的経済政策のモチーフであることは明らかだろう。
この本の中には西尾勝の研究ももちろん引かれているし、シビルミニマムの話もある。ということは、この時点ではひょっとしたら、政治学ないし行政学の公共政策と対話しながら、日本型の公共政策と社会政策論を発展できたかもしれない。もし、その試みが成功していれば、玉井金五の『防貧の創造』で提出された問題とも相まって、1990年代に日本のオリジナリティのある社会政策論が誕生した可能性があったのではないか。この本、たぶん、売れたんだな。それにしてもアマゾンの価格は安すぎる。
![]() | 地域社会計画と住民生活 (中央大学学術図書) (1992/04) 武川 正吾 商品詳細を見る |
武川のこの本は社会計画と地域社会学との交錯する領域を扱うことをうたっている。地域社会学というのは、たしかに農村社会学と都市社会学を包含するよい問題設定だと思う。何より、鈴木栄太郎がいう意味での自然村は高度成長期以降は消え行っているからである。このあたりの問題設定は松下圭一の問題提起とも重なるだけに、もうちょっと公共政策と対話しつつ、社会政策そのものが80年代から90年代に深められていったらという感慨がやはり残るのである。
ついでにいうと、社会計画、経済計画の思想的検討も必要で、そのときには厚生経済学や公共選択論と正面から向き合うことになるだろう。
まあ、私の作業はまだこの時代まで追いつかないので、とりあえず宿題というかメモ代わりに。
2014年06月07日 (土)
今後、数年かけて「社会政策」を考え直していきたいと思っているのだが、現在、やるべき課題というのは何だろうかとなかなか悩ましい。先日の学会で玉井先生と少しお話ししたとき、先生が日本には100年以上積み重ねてきた宝物があるとおっしゃられていて、それはそれで大切なことだと、その限りでは私も同感した。
一つの行くべき方向は、日本社会政策学説史を書くことであろう。学説史的研究という意味では、中西洋『日本における「社会政策」・「労働問題研究」』という、華麗にスルーされている大著があるが、あの本こそは玉井先生たちの言う「労働問題」に偏っていたとも言えるが、実際のところは東大に偏っているという印象を私は持っている。これを相対化させるような研究というのは必要だと思う。
ただ、じゃあ、学説史研究がどれくらい意味があるのか?ということになると、なかなか疑問はつきない。私はむしろ、自分なりの社会政策観というものをもって、その問題意識から関連する分野の諸研究を整理する方が、実際的ではないかと思う。しかし、これはどう考えても、2年はかかるテーマである。
もう一つの行くべき方向は、日本の近代史に即して「社会政策」を考えることだろう。ここではあまり学説にこだわる必要はないと思う。私のイメージでは『日本の賃金を歴史から考える』の「社会政策」版といったところだろうか。一回、こうしたものを書かないと、学説史研究もまとめきらないのではないかと思う。
じつはこの二つの方向は微妙に角度がずれていて、しかし、重なり合うところもあり、大変に難しい。私は「日本における「社会政策」の概念について」を書いたときには、そこら辺の方法論をしっかり詰めなかった。というか、詰めたら書けないなと思ったので、わざと区別しないで混在させた。査読で突っ込まれるかなと思ったが、そこはスルーだった。玉井先生たちというか、玉井先生はお話をした印象では、学説史研究、というより、大きく言うと、今まで多くの研究者が蓄積して来たものを敬意を持って継承すべきだという、それ自体はきわめて真っ当すぎる問題意識を持っていらっしゃるようだ。そういう意味では、最初の学説史研究に近いかもしれない。
一つの行くべき方向は、日本社会政策学説史を書くことであろう。学説史的研究という意味では、中西洋『日本における「社会政策」・「労働問題研究」』という、華麗にスルーされている大著があるが、あの本こそは玉井先生たちの言う「労働問題」に偏っていたとも言えるが、実際のところは東大に偏っているという印象を私は持っている。これを相対化させるような研究というのは必要だと思う。
ただ、じゃあ、学説史研究がどれくらい意味があるのか?ということになると、なかなか疑問はつきない。私はむしろ、自分なりの社会政策観というものをもって、その問題意識から関連する分野の諸研究を整理する方が、実際的ではないかと思う。しかし、これはどう考えても、2年はかかるテーマである。
もう一つの行くべき方向は、日本の近代史に即して「社会政策」を考えることだろう。ここではあまり学説にこだわる必要はないと思う。私のイメージでは『日本の賃金を歴史から考える』の「社会政策」版といったところだろうか。一回、こうしたものを書かないと、学説史研究もまとめきらないのではないかと思う。
じつはこの二つの方向は微妙に角度がずれていて、しかし、重なり合うところもあり、大変に難しい。私は「日本における「社会政策」の概念について」を書いたときには、そこら辺の方法論をしっかり詰めなかった。というか、詰めたら書けないなと思ったので、わざと区別しないで混在させた。査読で突っ込まれるかなと思ったが、そこはスルーだった。玉井先生たちというか、玉井先生はお話をした印象では、学説史研究、というより、大きく言うと、今まで多くの研究者が蓄積して来たものを敬意を持って継承すべきだという、それ自体はきわめて真っ当すぎる問題意識を持っていらっしゃるようだ。そういう意味では、最初の学説史研究に近いかもしれない。
2014年02月18日 (火)
つらつらと、稲葉さんの「「労使関係論」とは何だったのか」とは何だったのか読み返しているうちに、中西先生なんだなあという漠然とした感想を持ちました。私も基本的には国家論は大事だとは思うのですが、現在の趨勢を見ていると、手垢のついた福祉国家論を繰り返すだけのレベルでは、現代の問題に応えることは出来ないということだけは明らかなように思います。私は前にも書きましたが、一橋・成城スクールの国家論を高く買っているのですが、それを超えるものもなければ、それと対峙するものもない、という非常に寒い状況です。それにイギリスだって、T.H.マーシャルやハルシーを読めば、一つの国家論ですよ。でも、そういうものと四つに組んだ国家論というのは、あんまり知らないんですね。私は昔から国際比較に対する懐疑派なんですが、外形的にだけとりあえず、数値を比較しようという便宜主義が嫌いということに尽きます。でも、人文社会科学の基本的な方法として比較が重要であることは大前提だと思っています。
国家論もまた、一つ二つの国とのディープな比較研究が必要だと思います。ただ、この比較は明示的に出ていなくてもよい。具体的にどういう事かと言えば、自国での問題意識を持ちながら、他国(この場合、日本)を研究する外国人研究者の視点は自ずと国際比較の視座を備えているでしょう。逆に、外国研究をやっていた日本人が日本の研究を始めると、同じような現象が起きるのではないか、という期待もありますが、ほとんど期待はずれです。その理由は何かというと、多くの人が外国語よりも日本語の資料が読むことの容易さに堕落するのです。資料読みは日本語が出来れば出来るというようなものではありませんが、そのレベルの研究者が多いのも残念ながら事実です。もちろん、例外もあって、高橋克嘉先生のイギリス研究は、日本の問題を前提に置きながら、同時代の小池先生の研究を批判的に検討し、イギリスの問題を読み解くという素晴らしい例でした。
で、もう一つ稲葉さんの論稿を読みながら思ったのは、あんまり先行研究を一生懸命読み込み過ぎると、ダメだなということでした。というか、正確に言うと、ある時代に書かれた先行研究はその時代の問題意識を反映しているのです。だから、それは現代とは異なっているという意味です。だから、そうした研究は歴史資料という視点からも読み込みながら、相対化して、さらに現代の問題意識から照射するという作業が必要になります。これも10何年やってきて、ようやく最近、そういうことかと分かりました。
今、社会政策論を考えるにあたっては、明示的に出すかどうかは別として、日本の「社会」をどう捉えるか、「国家」をどう捉えるか、ということは避けて通れませんね。「社会」も「国家」から独立していませんから。私は稲葉さんとは違って、一般論としての国家論を進めることにはあまり興味がなく(抽象性の高い国家論自体には興味はありますが、自分でやる気はないという意味)、やはり、明治以来の日本国家を考えたいと思っています。そうなると、明治維新から世紀転換期くらいまでは準備期間で、明治30年代からかなと考えています。私は日本史の人たちが最新で言う日露戦争も総力戦に近い意味を持っていたというテーゼを重視していて、そこから高度成長までを一つの時期として捉え、その後の時代ということで現代までを考えたいと今のところは思っています。
労働問題研究は私はもうとりあえずの義理は果たした気持ちなので、あとは社会運動の歴史を労働運動をいったん切り離して考えてみるということが必要かなと思います。震災以降のNPOなどの動きも含めて。あとは国際運動的な側面も必要ですね。とくに社会運動の方は、開発国への援助、NGO関係などとの関連も押さえたいところです。その延長線上に宗教も考えざるを得ないでしょうね。まあ、吉田久一先生も最後は仏教に行ったし。ただ、ここは大谷さん、黒崎さんや稲葉圭信さんたちの一流の研究蓄積があるので(震災以降、精力的)、吉田先生よりは私たちの方が有利ですね。
でも、一本くらいは思想的なものも整理するために書かないとダメかな。
国家論もまた、一つ二つの国とのディープな比較研究が必要だと思います。ただ、この比較は明示的に出ていなくてもよい。具体的にどういう事かと言えば、自国での問題意識を持ちながら、他国(この場合、日本)を研究する外国人研究者の視点は自ずと国際比較の視座を備えているでしょう。逆に、外国研究をやっていた日本人が日本の研究を始めると、同じような現象が起きるのではないか、という期待もありますが、ほとんど期待はずれです。その理由は何かというと、多くの人が外国語よりも日本語の資料が読むことの容易さに堕落するのです。資料読みは日本語が出来れば出来るというようなものではありませんが、そのレベルの研究者が多いのも残念ながら事実です。もちろん、例外もあって、高橋克嘉先生のイギリス研究は、日本の問題を前提に置きながら、同時代の小池先生の研究を批判的に検討し、イギリスの問題を読み解くという素晴らしい例でした。
で、もう一つ稲葉さんの論稿を読みながら思ったのは、あんまり先行研究を一生懸命読み込み過ぎると、ダメだなということでした。というか、正確に言うと、ある時代に書かれた先行研究はその時代の問題意識を反映しているのです。だから、それは現代とは異なっているという意味です。だから、そうした研究は歴史資料という視点からも読み込みながら、相対化して、さらに現代の問題意識から照射するという作業が必要になります。これも10何年やってきて、ようやく最近、そういうことかと分かりました。
今、社会政策論を考えるにあたっては、明示的に出すかどうかは別として、日本の「社会」をどう捉えるか、「国家」をどう捉えるか、ということは避けて通れませんね。「社会」も「国家」から独立していませんから。私は稲葉さんとは違って、一般論としての国家論を進めることにはあまり興味がなく(抽象性の高い国家論自体には興味はありますが、自分でやる気はないという意味)、やはり、明治以来の日本国家を考えたいと思っています。そうなると、明治維新から世紀転換期くらいまでは準備期間で、明治30年代からかなと考えています。私は日本史の人たちが最新で言う日露戦争も総力戦に近い意味を持っていたというテーゼを重視していて、そこから高度成長までを一つの時期として捉え、その後の時代ということで現代までを考えたいと今のところは思っています。
労働問題研究は私はもうとりあえずの義理は果たした気持ちなので、あとは社会運動の歴史を労働運動をいったん切り離して考えてみるということが必要かなと思います。震災以降のNPOなどの動きも含めて。あとは国際運動的な側面も必要ですね。とくに社会運動の方は、開発国への援助、NGO関係などとの関連も押さえたいところです。その延長線上に宗教も考えざるを得ないでしょうね。まあ、吉田久一先生も最後は仏教に行ったし。ただ、ここは大谷さん、黒崎さんや稲葉圭信さんたちの一流の研究蓄積があるので(震災以降、精力的)、吉田先生よりは私たちの方が有利ですね。
でも、一本くらいは思想的なものも整理するために書かないとダメかな。