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福祉国家と総力戦が密接に関係していることは、よく知られているところです。戦時体制とは何かというのは、1990年代くらいに1940年体制論とかそのあたりで注目されたことがあったのですが、一般にはその後、どんどん関心が薄れていった分野ではないかと思います。

欧米の国家社会学では、わりと近代国家の形成そのものと戦争の関係を議論してきていてそれはすごく示唆深いのですが、日本の場合、短期間にいろんなことをバッと進めたがゆえに、いろいろな文脈があるなあと考えています。戦争そのものでは戊辰戦争とか士族の反乱も重要なわけですが、その後、日露戦争をきっかけに国民意識の醸成が目指されていきます。有名な戊申証書です。たぶん、山室先生の『日露戦争の世紀』なんかが代表ですが、この点で第一次世界大戦前の日露戦争が日本にとっては総力戦のインパクトがあったということを強調されます。おそらく、実証的に間が飛ぶので禁欲的に書かれてはいますが、古典中の古典になった宮地正人先生の『日露戦後政治史の研究』も問題意識としては戦時期まで見通されていると思います。私も国民国家の形成という意味では、日露戦争重視する立場です。

でも、実際の総力戦は第一次世界大戦のヨーロッパで行われるわけで、いろんな政策とかはここで実践され、議論されます。日本もこの時期に総力戦の準備を始めるわけですが、そのことと、1930年代以降の戦時期は区別されなければなりません。私は個人的には、満州事変から第二次大戦までをつなぐ15年戦争史観というのには立たないのですが、仮に15年戦争といって1930年代を重視するにせよ、1910年代と1930年代の間、いわゆる戦間期!の1920年代をどう理解するのかということが重要になってくると思います。

この総力戦体制、実は陸軍はあまり具体的なプランがなく予算請求するものだから、大河内正敏先生に貴族院で叱られるわけです。大河内先生は大正6年の時点で農商務省の視察団で総力戦を観察してきますから、当時の権威です。大河内先生の批判は、軍備をそろえるにせよ、それを可能にする経済体制をちゃんと作らないと話にならない、ということですが、もうね、ぐうの音もでない。このあたりは私、一応、論文の中で詳しく書いたんですけど、まだ自分でもまとまってないんですよね。

大河内先生のアイディアは徐々に官僚のなかに受け入れられていくんだけれども、それは戦争を起点としてというより、経済体制の立て直しという面で、むしろ、直接的には大戦不況とか、昭和金融恐慌とか、昭和恐慌とかの不況で農村が疲弊していく、そういうプロセスが重要だったのではないかと思うのです。それ自体が戦争の原因になっているというのは、226事件をみても否定しがたいと思うのですが、戦時総力戦体制みたいに捉えるのがよいかどうかはよく分からない。農村の近代化の一つの解としての農村工業化は総力戦体制と独立しても提起されていたようにも思うんですよね。歴史にifはないので、難しいですが。

ここらあたりを研究史との関係で書ければいいんですが、既にして社会政策から遠く離れているというか、私は分かっていますけど、そういう世界から遠い人にどこまで説明を加えて行けばよいのかは難しいところです。私、研究史とかも、正道の研究史をレビューしないで、その横で重要なことを指摘してきた人たちの一群を注で紹介したりするのが好きだったりするからなあ。そんなことをしているので、もっと親切に書けというもっともな指摘を友人からもらうわけですが。。。まあ、マニアックな研究史トリビアみたいな注は控えるようにします。もう終盤ですけど。
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今、書いている本がいよいよ医療にも関わって来るので、復習がてら引越以来あけていなかった段ボールを開けてみたところ、二箱しかないのに、なんでこんなに多岐にわたる本を集めてるの?という思いに駆られる。大変じゃん。

社会政策における医療が重要なことは誰も否定しないと思うんだけれども、医療は医療で独立した領域なので、社会政策としての考察というのは意外とされてこなかったのではないかと思っている。これは猪飼さんが『病院の世紀の理論』で書いていることなんだけど、猪飼さんの先行研究整理ってきれいにまとめ過ぎていて、文献等をちゃんと丁寧にあげないので、よく分からないことが多い。読んでないのではなくて、あげられていないことが多い。人のことは言えないけど。

一応、大雑把にどんなことを考えとけばよいのか、ちょっと整理しておこう。誰でも、考えそうなところは、

1 社会保険としての医療
2 医療供給の問題
3 医療の福祉化、ないし高齢化社会における介護とのかかわり
4 公衆衛生

あたりだろうか。このうち、3は1970年代以降のことだし、専門家がたくさんいるので、触れなくてもいいかなと思う(というか、正直、1970年代以降のことは別にもう一冊書かないといけないことが多い気がしている。書かない気もするが)。

1も専門の研究がいっぱいあるので、それに乗っかって、整理すればいいんじゃないかなと思う。というより、医療として、という括りではなく、社会保険全体の歴史的考察が重要だと思っているのだが、それは明らかに私の仕事ではなく、中尾友紀さんにあと15年くらいかけて仕上げて欲しい仕事である。本にもそう書いちゃおうかな。もっとも、私が書く本より、ここを読む人の方が多そうだけど。あ、でも、おそらく本人は嫌がるだろうけれども、わざわざ書いているのは、その力がある人だと信じているからです、念のため。

医療供給の問題は、いわゆる「医療の社会化」問題と関連して、蓄積されてきた。これがいわゆる社会改良思想とともにあったことはたぶん、誰も否定しないと思うんだけど、その戦後の担い手だった革新が弱くなってくると、こういうところも弱くなってくるよね。とりあえず、青木郁夫先生の大著がその一つの集大成だと思う。思うけれども、もちろん、それだけじゃない。これ、担い手論にもなってきて、そうなってくると、社会をどう理解するかという問題と表裏一体をなしていくことになる。ここの話は重要だけど、そこは論点が行きつ戻りつになるから、うまく触れられないんだよね。

この供給問題に触れるときに、避けて通れないのは、皇室の存在。まず、赤十字と済生会は見逃せない。これ、昔の講座派よろしく天皇制絶対主義的に理解する人もいるけれども、その起点になった戊申証書もね、大半は反対で、これは平田東助が押し切ったものだからね。そういう文脈も横目に入れながら、この問題は考える必要がある。済生会は医療でもあるし、貧困でもある。そして、その先には岡山の先駆的な方面委員の話がある。皇室と医療、社会福祉は重要。それから、日本の寄付文化とか、ノン・プロフィット・セクターのあり方を考える際の役割にも重要。革新側からだとここが見えなくなる。それと赤十字については、ILOに先駆けて、国際的活動だったということは無視しえない。有名な昭憲皇太后基金についてもここで出てくる。

公衆衛生の成立みたいなことに関しては実はよい本が二冊あるので、それで何とか整理できる。一冊は衛生の専門職の誕生みたいな話。

ここで出てない話で重要なのは人口政策とのかかわり。これをどう描くのかというのは、優生社会みたいな話があって、その派生としての家族計画みたいなところまでつながっていく。まあ、人口政策についてはあまりよい概説書がない。ここは仕方がないから、私が一次資料にあたって考えて来たことを少し出していくしかないだろう。

なお、文献名をエントリであげてないのは、別に隠す意図があるわけじゃなくて、単に面倒くさいだけです。これはあくまで私のメモなので、私的には細かい出典よりも、どの部屋のどこに置いてあるかと、文献リストに加えたっけ?とかいう方がはるかに重要なんです。初心回帰。



POSSE37号をいただきました。いつもありがとうございます。バタバタしていて、ご紹介が遅れてすみません。

今回は「これまでの10年、これからの10年」ということで、振り返り企画になっていて、とても面白いと思います。私は濱口先生のおっしゃることが参考になりました。どういうことかというと、単に「叫び」だけでは継続はしていかなくて、そこを理論化していったのが今まで長続きしてきた理由だろうという観察です。たしかに、「叫び」自体はどこにでもあり得て、運動的にはそれをどのように大きな「声」にしていくのかというプロセスがあり、その後にそれを洞察するということが必要になるのだろうと思います。POSSEが偉かったのは、最初から情報発信という機能と、この理論的に深めるということ、特に自分たち自身も勉強していくというプロセスを見せて来たこと、そしてそのための場として雑誌を重視してきたことです。私は仕事柄古い労働関連の雑誌を読むことも多くありますが、これだけ長期間にわたって刊行し続けて来たのは、稀なことであろうと思います。ほとんどはすぐに消えていくんです。そういう意味ではPOSSEと堀之内出版は歴史に名前を残したと言ってよいと思います。

既存の労働組合の機関誌も実は結構、よいものを残していますが、わりと組合の中でだけ読まれることが多いので、パブリックに訴え、影響を与えて来たのはすごいことだと思います。例外は情報労連のPEPORTでしょうか。個人的にもやや近いので、言うのもどうかなと思いますが、やはり対馬さんが個人でツイッターをやっているのも大事なことだと思います。連合総研のDIOも公開されていますが、あれはPDFであげているだけで、運動としてやっているという感じはあまり受けませんね。

今野さんたちにしても、運動だけでなく、研究もやっているわけですが、しかし、1990年代からの反貧困運動(その頃からそういう名前ではなかったとは思いますが)、それから2000年代以降のPOSSEの活動、それらの連携など、そうした動きに対して、まだ学術的な研究は追い付いていないように思います。もちろん、今野さんや渡辺さんが研究を積み重ねるということもあるでしょう。スタートの時には、木下さんだとか、遥かな先輩の研究者が支援したのはよく分かりますが、この間、彼らとは異なって運動とは距離を置きながら、しかし並走するようなアカデミックな研究者が出てこなかったのは残念ですね。まあ、実際は難しいか、運動の熱があるから、若いときにそれと距離を置いてつかず離れずにただ観るだけというのは。

POSSEの活動はもちろん、彼らのオリジナルなものですけれども、問題領域としては労働から貧困に至ったことで、高度成長期以前の古典的ないわゆる労働問題に出会ったとも言えます(労働のなかでも徐々に労使関係を重視しています)。ただ、よく知られているように、1960年代、つまり高度成長期に労働問題研究は貧困研究と労働研究に分離してしまいました。労働研究はほぼ潰えましたが、貧困研究は2000年代にリバイバルしました。でも、岩田先生の『貧困の戦後史』のなかで触れていますが、貧困研究者の間でも世代間の問題意識の継承が難しいことがあるようです(まあ、これはどこでもあると思いますが)。

私はいろいろと事情もあり、彼らとは少しずれた位置から、運動なり政策なりを考えることになりそうですが、編集長が渡辺さんに代わって、今後、どういう色を出していくのか、楽しみにしています。若者の声を発信するのは、POSSEの重要な柱だったわけで、その点から考えても世代交代は重要なステップでしょう。しかし、あらゆる組織にとって世代交代は難しい問題で、彼らが活動している分野のアカデミックはあまり成功したとは言えないわけです。という風に考えると、いかにも難しいことのように思いますが、実はあんまり心配していません。たぶん、彼らはまた新しい地平を切り拓いていってくれるでしょう。
社会政策と医療の歴史について考えるために、いくつかの準備作業を行っている。今まで敬遠してきたけれども、とりあえずは後期フーコーの社会医学の議論、それから統治性論あたりが重要だなとあたりをつけて、講義集成と思考集成をのぞいてみた。今のところ、76年以降が重要だなということまでは分かった。

身体を媒介に政治というか、生政治を考えていくのはいいんだけれども、二つの点で留保が必要。一つは、東洋においては統治と身体が結びつく必要は必ずしもなかったということ。修身斉家治国平天下のような思想は必ずしも身体を必要としない。逆に言えば、受肉に見えるように、キリスト教的伝統のなかではもっと古くから「身体」は重要な概念である。それと近世の社会医学的世界とはどう繋がって、断絶するのか、この辺は意識しながら、勉強したい。したいけれども、あまり、私のテーマとは関係ないかもしれない。その理由というのが、ダイレクトに二つ目の留保の論点なんだけど、少なくとも後藤新平はわりと素朴に、社会=身体(有機体論)、病気=社会問題(特に貧困)を受け入れていて、その上に社会政策が作られたという気がしている。キリスト教的伝統をどこまで引き受けているのか、ということは留保せざるを得ないんだけれども、少なくとも社会ないし国家を身体と捉えるメタファーはわりと受け入れられていたように思う。もし、そうであれば、ここはそんなに深掘りする必要はない。

フーコーが二回目の日本訪問の際の感想として、それ自体はありふれたものだが、日本には西洋的な(モダンな)物質文明がある一方、そうではない古い思想が同居しているのが不思議だということを言っている。これは面白い話で、レーヴィットの二階建て思想の話と通底している。私は今までこのことをあまり重視してこなかったが、日本ではある意味で、思想と実践を切り離す、というか、私の感覚では思想をとりあえず括弧に入れておく、というようなことがある気がする。それが古くからよく言われる「日本人は思想してきたのか」みたいな話になる。

社会政策的な観点の医学史としては、なんといっても野村拓の研究をあげなければならない。『国民の医療史』と『20世紀の医療史』は決定的な仕事である。読み物という性格が強いので、細部をどういう風に考えているのかがよく分からないのが難点ではあるが、「労働力」から医療の発展を見ていく基本的なアイディアはそれを補って余りあるほど素晴らしい。フーコーの「社会医学の誕生」とも平仄が合う。そうなってくると、戦争と資本主義、それから医療の展開をどう追うのかが次のポイントになってきそうだ。

私の問題意識としては、社会政策は日本における国民国家の創成と深く関わっていると思うので、そういう意味ではフーコーの議論も示唆的ではあるのだが、ことここからは佐藤成基さんの『国家の社会学』と距離が近いかもしれないと思う。ただ、佐藤さんが言うように70年代以降欧米で発展したような国家の社会学は日本に根付いているとは言えないし、その上、政治思想史が日本においては先行していた側面があると思う。端的に言えば、丸山学派である。これを思想史太郎という揶揄で語るよりも、ある種の実践知への接近という観点、もう少し端的に言えば、運動的側面から見た方がいいかもしれない。それがある意味では、日本における「思想」と「実践」という関わりにおいて、ある役割を果たしていたのだと思う。それが何かは解き明かしているものがあれば、ぜひ読みたいところである。思想、概念から国家への道筋は、もちろん、厳密に言えば違うんだけれども、どこかで構築主義的なアプローチと通底している性格があって、それゆえに(時期的に)先行していた側面も持っていたのではないか。ただ、私としては構築主義と距離を置いた佐藤さんのアプローチが興味深い。だけど、ヨーロッパと日本は違うんだよなあ、本当に。丸山、松下、堀尾をどう考えるかは私にとって一つのテーマだが、まあ、今回の本ではそこは多少、匂わせることはあっても、措いておこう。というか、遠くに行きすぎた。市野川さんの論文を読んだら、少しは戻ってこれるかな。

酒井泰斗さんのバックアップで研究会を開いていただけることになりました。ここから数回の話に関心のある人はぜひ一緒にお付き合いいただければ幸いです。詳しいことは、ここです。どうぞよろしくお願いします。
濱口先生が先のエントリに反応して1975年が労働法政策上でも大きな転換になったということを指摘してくださったのですが、私は労働法政策の転換と、労働組合における「政策」の位置付けは別の次元だと考えています。私が書いた「政策」は具体的な政策ということではなく、50年前後の路線対立を止揚するために平和運動(および独立)が使われたように、75年以降は「政策」が重要になったということです。ただ、それが実現できているかどうかは微妙ですが。

労働法政策の方は、たまたま今、手元にJILの証言資料シリーズ労働行政史関係があって、そこで高梨先生が序文を寄せているのですが、高梨先生は『労働行政史』から引用しています。孫引きはよくないんですが、論文でないので、勘弁してください。要は、戦前、労働政策というのは経済の荷物のように考えられていたけれども、「戦後は労働政策の推進が経済の円滑な発展をはかる前提条件となってきた」ということです。1975年の転換とは、高度成長の終焉から低成長時代への転換に応じたもので、潜在失業まで雇用にもっていって完全雇用を実現した時代から、なんとか雇用を維持しようという時代へ転換したといえましょう。雇調金というのはまさにその象徴です。大方の冷笑のなかで高度成長を主張した下村治自身が70年代はゼロ成長論に転じますし、これは高橋亀吉も同じです。経済政策との関係と言えるでしょう。

労使の協力という意味では、宮田と桜田が協力して推進した1975年の日本型所得政策が一つの象徴でしょう。ただし、これは労働運動のなかでは必ずしも評判がよくなかったし、1975年以降の労働戦線統一の流れの中で、このときの春闘が起点になったとは言えないのではないかと思います。労働戦線統一はこの頃世代交代して、宝樹、太田、滝田、宮田といった人たちは去っていき、最後まで残るのは宇佐美同盟会長で、そのあと、ぐいぐい推進していったのは、山田精吾とか、藁科満治とかになっていきます。労働戦線においては同じ陣営とはいえ、ゼンセンと鉄鋼では全然違いますからね。それこそ、濱口先生が以前に提案されてた森田実さんのオーラル・ヒストリーとかやっておくと、いろんなものが見えてくるかもしれません。今後の課題ですね。