連合総研のDIO最新号、私もいただきまして、拝読しました。いつもありがとうございます。さて、2016年1月号(311号)をめぐっては、濱口先生が「労働組合は成長を拒否できるのか?」という刺激的なエントリを書いて、私もfacebookとtwitterで拡散しました。もちろん、この企画は早川さんだろうなと思って、ともだちの早川さんのいるfacebookにも紹介しているんだから、人が悪いといわれれば、あえて否定はしません。そこに早川さんがコメントを書かれ、それを濱口先生のところにもコメントとしてかかれ、コメント欄がもり上がったという経緯です。私はこの件についてはリプライしていません。

濱口先生についてはもちろん、みなさん、ご存じでご紹介の必要もありませんが、早川さんのことはご存じない方もいらっしゃると思います。早川さんは今は連合総研に席を置いていらっしゃいますが、本拠はJAMという産別です。JAMをご存じない方もいらっしゃると思いますが、製造業系の産業別組合で、連合の構成団体の中でも5番目の大きさです。その多くは中小企業です。ぜひ、紹介ページをご覧下さい。なんで、JAMの話を書いたかと言えば、早川さんのところはもっともしっかりした労働運動を実践している組合だということをまず、大前提として確認しておく必要があったからです。

というのは、濱口先生の主張をつづめて言うと、どういう社会であるべきかなんてことを頭でっかちに議論している場合なのか。もっと、ストレートに議論しなければならない労働問題があるだろうということです。濱口先生としては数少ない、他の組織の原則論によって批判をするというタイプの言い方をされています。

本当に今の日本の労働者、とりわけ労働組合に組織されることもなく使用者の私的権力にさらされて、低い労働条件を何とかしたいと思っている労働者に呼びかける言葉が、「希望としての定常型社会」なんですか。


ここでの濱口先生の立場と早川さんの立場は、ソーシャル・ユニオニズムか、ビジネス・ユニオニズムかという点では明確にソーシャル・ユニオニズムで、まったく異なるところがありません。お二人とまったく違う立場はコメント欄に書かれている組合は組合員の利益のための組織とする方で、これは通常、ビジネス・ユニオニズムと呼ばれます。濱口先生のこの一文は核心を突いた言葉で、私は重要な問題提起だと受け取りました。私が濱口先生の言葉にインスパイアされて感じたのは、組織化の数字目標だけを掲げてもなんの意味もなく、なぜ組織化しなければならないのか、労働運動の原則に基づいて議論する必要があるだろう、ということです。ここで、先ほど、大前提として確認しておいたことが重要なポイントになってきます。そう、そんなことは言われるまでもなく、JAMはやっているんですね。

ここからは私自身の考えです。早川さんが安倍政権に対する対抗軸を作ることを第一の課題として設定していることについてです。といって、私は別に安倍政権を支持しているわけでも、自民党を支持しているわけでもありません。ただ、2014年の春から春闘が復活した功績はアベノミクスに帰せられるであって、その一点については否定することは出来ないと考えています。そうであるならば、まず見据えるべきなのは、早川さんが敵としている安倍内閣の政策によって、春闘が再活性化した、という事実でしょう。私はこの点について2014年の春闘の時から繰り返し、書いてきました。

これは組織化されていない労働者以前の話です。組織化されている労働組合でさえ、賃金交渉どころか、賃金要求も分からないところがあるという現状を、是としてよいのか。そういう立場もあるでしょう(もちろん、早川さんはそうではないでしょう)。もし、そうでないならば、まず問うべきなのは、なぜかつては主軸であった賃金交渉への熱意も技術も労働組合は失いかけていたのか、そこには労働運動に内在する要因があったのではないか、という自己批判ではないかと思います。もちろん、そこから、労働運動に今、一番重要なことはそこではない、という結論になることもあるでしょう。しかし、一番大事なことは、そういう根本を問い直すという行為そのものではないでしょうか。

いや、そうではない。まず、政治的な対抗軸を作るのが先だ、というのも一つの立場でしょう。それは私の言うところのポリティカル・ユニオニズムであり、私とは相容れるものではありません。
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『社会政策:福祉と労働の経済学』有斐閣をいただきました。ありがとうございます。この間、バタバタしていて、いただいてから時間がずいぶん経ってしまいました。すみません。近年の社会政策のテキストとしてはもっともよいと言ってもよいかもしれません。

本書の特色は二つあります。一つ目は、社会政策独自のディシプリンという問題はオミットして、マルチ・ディシプリンを所与とした上で初歩的なミクロ経済学の立場から社会政策を分析していること。二つ目は、対象範囲を労働政策と社会保障政策プラス住宅政策と定めて、各論に理論的な分析だけでなく、制度的なディテールも書き込んでいること。これだけの分量で、歴史から最新の動向までよくここまで書き込んだなと思って、かなり驚いています。

こういう本を読むときに困るのは、私自身はもうある程度、初歩のミクロ経済学も分かっているので、経済学に親しみがない読者がこの本でどれくらいこうした手法に馴染めるのか、その見通しが立たないということです。たぶん、安藤至大さんの『ミクロ経済学の第一歩』なんかを読むとよいだろうと思います。経済学というと、それだけで蛇蝎のごとく嫌う人がいますが、それはたぶんに誤解に基づくこともあり、一通り、経済学の考え方を身につけておくのはよいと思います。積極的な効用は、センなどの厚生経済学の基本的な考え方が身につくことです。センの議論が社会政策分野でも広く受け入れられていることはご存じの通り。消極的な効用は、新自由主義=経済学=社会政策(ないし社会保障)の敵といったような、不毛な図式から自由になれることでしょう。

大河内一男・高田保馬論争のときに、問題になったディシプリン問題があります。社会政策学が独立するためには、独自のディシプリンが必要で、もしそれがないならば、経済学による社会政策分析、社会学による社会政策分析などの既存のディシプリンの応用問題になるだけだということです。結局、前者の道の探求はなされなかったので、今は後者のみが残っています。ところが、マルクス経済学凋落以降、経済学をベースにして社会政策全体に取り組もうという試みはほとんどなされてこなかったんですね。それはまず、労働経済学で労働政策部分は代替されたからです。そういう意味では、この本は労働経済論プラス経済学による社会保障解釈、という風に言ってよいでしょう。社会保障や社会福祉の経済学的分析という切り込み方自体も珍しいかもしれませんね。

社会政策そのもののディシプリンを放棄するならば、何が社会政策なのかという選択問題が発生します。この本は労働政策、社会保障、住宅にしたわけですが、これは2015年の世間相場的にはまずまずではないかと思います。一つは、社会学的社会政策を訴えていた方たちが、労働政策の重要性も指摘した上で、社会福祉ないし社会保障を重視していった結果、労働政策と社会保障を総合的に捉えることを社会政策とするというのは今ではあまり違和感がないのではないかと思うのです。もう一つは、その動きの震源であるヨーロッパでは、住宅政策をソーシャル・ポリシーの一つに位置づけるのがわりとよくあるということです。教育が入ってればなおよかったと思いますが、紙幅の都合と、メンバー構成の問題でしょうから、現実的には十分です。

でも、なお社会政策をなぜ労働政策と社会保障政策を包含したものと捉えられるのか、という問いには答えなくてはならないでしょう。これを突き詰めていくと、現実的に重視すべき政策を並べるだけではなく、社会政策そのものをどう捉えるのかが問われざるを得ない。もちろん、答えは一つではなく、ある立場からのものになるでしょうが、それでも統一的なモノが欲しいところです。そうでなければ、それこそソーシャル・ポリシーの輸入だけで事足りてしまうからです。ただ、これはそれぞれに問われる問題であって、この本の著者たちだけに背負わせるべきものでないことも、言うまでもないでしょう。

それにしても、よい本でした。お勧めです。
日高昭夫さんの「ローカル・ガバナンスにおけるコミュニティの意義」という短い論文が数年前の自治労の機関誌に掲載されました。自治労の機関誌ですから、まあ電子化される気遣いもないのですが、これはすごく重要な論文で埋もれさせておくのはもったいないと思います。

日高さんの議論で面白いのは、自助、共助、公助という普通、我々が知っている区分はあまりよくないと言っています。少し引用しますが、


いわゆる「補完性の原理」とそれが連動することで、「自助」→「共助」→「公助」という垂直的な階層関係の上層に「公助(正確には上記の公助①の機能)」を配置する結果、現実の政治行政機能としては、財政危機などを背景として,たとえば生活保護制度の見直し論の一部にみられるような「自助責任」を過大評価し、行政縮小(公助②の機能も含めた役割回避)を促進する論理に与しやすいのである。


この公助①、公助②というのは日高さんの定義ですが、それを理解するために、図を確認しましょう。貼り方がよくわからないのでサムネイルになってしまいましたが、クリックして大きくしてみて下さい。

五助論

この図は本当に優れてると思うのですが、日高さんの定義では、個人や家族の「自助」を基盤に、民間企業や事業所などの「民助」、NPOなどの「協助」、自治会などの「共助」を分けて捉えています。そして、それをオーバーラップする存在として行政の「公助」があり、さらにはこのすべてを含む形で「新しい公共」が構想されています。この図の難点は「協助」と「共助」の読みが同じ「きょうじょ」であることくらいでしょうか。「共助」を「相互扶助」とすれば分かりやすかった気もしますが、二文字にしたいですし、相互を削ったら意味が変わっちゃいますしね。

私も現実的にこの五区分はすごく大事だと思っています。サッチャーの保守改革の一つの焦点は「民営化」なんですが、日本ではこれはすぐに企業がやるみたいな話になってしまいます。ところが、イギリスでは思想的にはオークショットなども入っていると思いますが、「公助」から「協助」の復活という意味も込められていたんですね。これはこの図を見ると、よく分かります。

また、もう少し精密に見ると、「民助」と「協助」の交叉するところに、社会的企業や企業のCSRなども位置づけられるでしょう。よく言われるように、日本ではこの「協助」の伝統が弱い。これは慈善事業の伝統がないからで、近代以前における教団という意味での宗教の歴史が欧米と異なることがあります。だから、前線のNPOを支援するような、たとえば日本で言えば、松原さんたちのシーズのような活動はなかなか一般には認知されないんですよね。彼らの地道な活動があればこそ、我々は震災のときに支援金という寄付のやり方が実現できたわけでですが、そういうことはあまり普通の人は知らない。

同時に、震災、この方、NPO活動が注目を集めて、地道に小さくよい活動をしているところもあるのですが、この活動が「新しい公共」を代表してしまった。しかし、実際には町内会や自治会のような「共助」が重要な役割を果たしました。こうしたもののうち、仮設の自治会はそれでも支援が入ったところもありますが(実際には自治会長さんが個人負担したところも少なくないでしょう)、圧倒的に多くは支援を受けられなかった。それは「新しい公共」の中の議論にちゃんと位置づけられていなかったからですね。もっと言えば、「協助」の中には従来の生協や労働組合もあります。今回の大震災では、生協も、それから労働組合も多いに活躍しました。しかし、多くの人にはその活動はよく知られていません。なお、労働組合のなかには今なお、支援活動を継続しているところがあります。

いずれにせよ、現実的に日高五助論はこれからこうした問題を考えて行く上での基盤になり得るでしょう。
『日本の雇用と中高年』それから『若者と雇用』の二冊の本は人口ピラミッド問題をどう考えるかということが決定的に重要だと思います。経済学においてはじつは人口論は重要な役割を果たして来ました。それは主としてマクロな領域ですが、こと雇用社会ということであれば、国全体の人口問題とは別に、ミクロの企業レベルの人口ピラミッドの問題も考える必要があります。ざっくりした勘でいいますが、新卒一括採用が軸の日本企業ではたぶん、企業の場合、景気や業績と連動しているはずです。

この前、組合の方からうかがって、ああそうかと思ったのは、90年代に成果主義を入れたのは若手社員から中高年社員との処遇格差を是正してほしいという要求に押される形で、実現したというお話を聞いたときでした。その企業の場合、成果主義といっても、まさに年功賃金から年功性を差し引いたという意味合いが強かったようですが、企業内ではこうした世代間の問題は重要であると思います。当たり前ですが、大手の労使関係がしっかりしているところは、人事と組合で相談して改革している場合も多いんですね。

その一方で、濱口先生がおっしゃる世代論は不毛だというのももっともなんです。若者が悪い、中高年が悪い、というのはたいてい、周りに思い当たる人がいるから(?)、妙に説得力がある。でも、マクロに広げて考えられるの?と立ち止まって考えてみたら、なかなか難しいところもありますね。人口論をちゃんと底に入れると、きっとこの問題の奥行きが出てくるんだろうなと思います。

ところで、この人口問題は私にとって鬼門で、本当によく分からない。なぜ分からないかといえば、ちゃんと勉強してないからだとは思うんですが、どこから手を付けていいか全然、見えないんですよね。一応、最近では杉田菜穂さんのご研究がありますが、彼女の問題意識からすれば、当然とはいえ社会学に偏りすぎてしまっている。あとは速水先生たち慶応ファミリーの偉大なる歴史人口学もあります。でも、あそこから政策へは私は飛べないんです。あと、何と言っても、河野稠果『人口学への招待』中公新書というとびきりの入門書があり、国立社会保障・人口問題研究所は紀要を古いやつからみんな、公開している。これだけの条件があってもピントが合わないというのは、よっぽど私は向かないんだろう。正直、家族の問題は実感もないし、よく分からないので、ここはとりあえず誰かにお任せします。

研究所に資料を収集しに行ったら、濱口先生から『日本の雇用と中高年』をお送りいただきました。ありがとうございます。早速、帰ってこの本を読んでみましたが、私が理解していたレベルの濱口先生の立論よりも、はるかに根が深いレベルの議論になっています。よい悪いということは別にして。というか、これを書いている途中でアマゾンからも届きました。

しかし、最近の濱口先生の本は、というか、前からそうでしたけど、読み切りにくいですねえ。現実の政策過程、とりわけ過去、現在、未来を通貫する方向性、学術的な成果などを取り込む濱口先生の立ち位置というのはすごいなあと素直に思います。

メンバーシップ型という理念型とジョブ型という理念型とで描いていて、これはある意味、切れ味がよかったのですが、その分だけ複雑な問題が見えにくくなっているかなとも感じています。というのは、濱口先生自身は分かっていらっしゃるので、ちゃんと本の中に書いていらっしゃるのですが、ジョブ型にも様々なフェーズがあります。

たとえば、今回の本のテーマから言えば、日本的雇用システムを相対化しなければならない、ということが大きなテーマになっています。小池理論を全否定するのは行き過ぎですが、中高年の首切りについて説明できない、というのは半分くらいはその通りですね。で、メンバーシップで抱えきれないんだから、ジョブ型をうまく入れて複線型にしようというのがメインの主張だと思います。思いますというのは、それ以外のこともたくさん書いてあるからです。

それ以外のこともたくさん書いてありますのうちの一つは、女性パートの基幹化とジョブ型正社員の話です。ただ、これをリードして来たのは本田一成さんで、本田さんの議論はどちらかというと小池理論ですよ。仕事内容も量的にも基幹化しているのに、処遇だけをあげないのはあり得ないということです。実際、本田さんの説かどうかは別にして、フルメンバーシップ型の正社員とは別の正社員制度を作っているところはあります。しかし、これは素直にいって、経済合理性にかなっているから、そうなるのだと思います。

ジョブ型社会論の話を読んでいて、素朴に思うんですが、肝は職務分析なんですよ。それを誰がやるんですか、ということです。職務分析はもともと人事管理の手法として登場した訳ですが、戦後はヨーロッパ、そしてその影響を受けた日本の組合側の方でもやりました。今では男女間賃金格差を解消する一つの方法論として注目されていますが、基本原理は同じです。これは同一労働同一賃金というのが原則としてあって、同一労働とは何かを確定させるときに、職務分析を行うんです。その結果、著しい差があるときはその格差を是正するように求める、という運びになります。

日本で職能資格給が普及したと言われていますが、それも程度差で、実際には本来の職能資格給制度ではなく、従来の年功賃金のような運用が行われたということがあります。その意味では年功賃金と職能資格給制度を同一視するのはあながち間違っていないとも言えます。で、この職能資格給がなぜ形骸化したのかといえば、職務分析が必ずしもうまく行かなかったということがあります。これは職務給を導入しようとしたときにも同じことが起こりましたが、大企業でよほど緻密な人をそろえていない限り、職務分析をやり切らないんですよ、複雑すぎて。じつは、90年代の成果主義導入でも同じようなことが起きていて、その一つは目標管理をやり切らない。目標管理では、上司が部下と話をして目標を定めて、それがどれくらい到達しているのか、していないのか、していないならば、問題はどこにあるのかなどということを面談しなければならないんですが、人事部と組合がそれをやろうと決めても、現場の管理者層のなかにはどうしても忙しくて後回しにされてしまう。そういう問題があります。だから、ジョブ型社会に移行するにあたって重要な職務分析にかかる観測コストを誰が負担するのかということが問題になります。

職務分析は、仕事のやり方を整理整頓するという効用があります。ですから、エントリーレベルの仕事を身につけるためには効果があります。その他、たとえば戦時期のように需要が急に増えて仕事のやり方がメチャクチャに増えてしまったときには、リスタートするために整理整頓するという効果があります。ですが、生産管理(プロジェクト管理でもいいですが)が行き届いているような職場では職務分析が既に今、行われていないならば、新たに行うインセンティブはありません。そして、皮肉なことにそういう職場こそ、職務分析を実行する力を持っているわけです。

組合側はといえば、そのメリットは同一労働同一賃金で格差を是正するということ。それから、昔ながらの業界である賃金水準を維持するというメリットはあります。ただ、職にまで落とし込んで行くと比較も技術的に難しいかもしれませんし、そこまで精度の高い比較は測定以上に困難です。出来る能力がないとは思いませんが、やはりコストは莫大になります。それを超えて行くには「連帯」意識しかありませんが、これほど高い実務能力が必要とされる根気を要する仕事は情熱だけではなんともなりません。

そうすると、次善策として、タスク分析たる職務分析はそこまで厳密にやるのは諦めて、大まかにタスクを括って「職」を作ってしまうという方法が考えられます。しかし、これが通用するのは西洋のように、ある程度「職業」という感覚に対する信頼がないと難しいのです。日本社会は残念ながら、これを作るのに失敗してしまいました。これは濱口先生が話すような企業社会という狭い枠ではなくて、もっと社会全体に関わる根幹の話になりますが、歴史から語っていると、長くなるので割愛しましょう。

ただ、日本社会が「職業」を重視する社会を作るのに失敗した例をあげることは簡単に出来ます。教育職、保育士、医者(特に勤務医)、介護福祉士、臨床心理士、図書館司書、ソーシャルワーカーなどです。近年では弁護士や会計士も加えてもよいかもしれません。彼らはいずれも高い技能を必要とされる職業でありながら、必ずしもよい労働条件を勝ち取っていません(職業全体がそうであるものと、一部がそうなっている場合と両方ですが)。いずれの仕事も今も将来も社会にとって大事な仕事です。今回の本には出て来ませんが、濱口先生のブログの方にはこういう問題も出て来ます。この根幹の部分から考えないといけないんです。同時に製造業をベースに構築された日本的雇用システム論という枠組みで議論するから、メンバーシップ型とジョブ型という話になるんじゃないかなというのもちょっと感じています。

先ほども書きましたが、私は採算で考えたら、職務分析は合わない局面がたくさんあると考えています。それでも欧米社会がそれを成し遂げて来たのは、たぶん、彼らが啓蒙主義の時代をくぐり抜けて来たからだと思います。そういう条件のない日本でどうやってそれを実現しましょう。

とりあえず、ジョブ型社会について書くと予告したので書いてみました。他にも思いついた論点を少し広げて書いてみます。

それにしても、小池先生の理論って政策と全然、関係ないと思っていたんですが、なんでそんなに影響力があったんだろう。先生自身は政策策定に携わられたりしたけれども、理論的には労使関係論、労働経済論を社会政策から決定的に切り離したという風に思っていたので、そこがえらく不思議な感じでした。