お返事が遅くなってすみません。ある学会報告の要旨を作成するのに英語が必要で、四苦八苦していました。

今から思うと、私の書き方が悪くていくつか、混線があるので、少し整理したいと思います。

第一に、私が批判した「新しい賃金」は連合評価委員会の最終報告です。具体的には、次のように書いてあります。

これまでの「会社あっての従業員」という分配論を乗り越え、働く者にとっての「公正な」分配論を積極的に主張し、同一価値労働同一賃金を要求してゆく根拠を確立することになる。「働きに見合った処遇」を得るためには、年功型賃金から職務型・職種型賃金への移行を働くものの視点に立って実現させることが重要である。
それと同時に、生活の視点に立って、生活を保障する全国的なミニマム基準について、社会保障制度等との関連も含め検討し、組合独自に考案することが必要である。こうしたルールの設定は未組織労働者にとっては特に必要であるが、このような底辺をしっかりと支える制度は、組織労働者にとっても重要な意味を持つものである。働く者の視点に立った、新しい賃金のあり方を確立させることは、重要な問題である。


これが新しい賃金と銘打ちながら、むしろクラシカルな議論になっていて、あたかも新しい賃金であるかのように言うのは嘘である、というのがまず、私の批判です。ただ、これはちょっと、アンビバレントなところがあって、おそらくこれを書いた人たちも、問題提起的な意味で「新しい賃金」という言い方をしたのでしょう。それは濱口先生の『新しい労働社会』がクラシカルな議論のリニューアルという側面がありながら、ラベルとしては「新しい」と銘打ったことと軌を一にしているでしょう。この点ではこの本についての議論をしたときに既に確認してあるので、特にお互いに誤解の余地はありません。

その一方で、「新しい」を真に受けている人が多すぎるのではないか、そして、それはこういう切り取り方、打ち出し方にも問題があるのではないか、というのが私がわざわざ批判した点です。そういう意味では濱口先生の議論をたとえばジョブ型雇用といってもそんなに単純な話じゃないんだよというような留保までは丁寧に読まないで、ジョブ型雇用という概念がやや一人歩きしている気がしますが、そのような誤解は単に勉強不足のパッと出てきた評論家であればそんなのは無視すればよいではないかということでいいのかどうか。

第二点は、たぶん、ここが論点ですが、職能資格給制度の批判の意味です。濱口先生が批判される保守主流の職能資格給批判は、その内容の当否を別にしても、1990年代後半から2000年代前半までは意味があったと考えています。ただ、現在では職能資格給が職務と限定なしの能力の伸長を促進する制度としてではなく、まったく逆に、職務が変わらないならば賃金は上げないという賃下げの道具として利用されるようになってきた、という問題があります。

ここで明らかになったことは、従来、語られてきた濱口先生が批判されている解釈が職能資格給そのものを正確に説明するものではなかったということです。職能資格給は、濱口先生が従来、批判されてきたような解釈のように運用することも出来るし、まったく逆に、能力とは関係なく仕事の配置という意味で、賃下げに利用することも出来ることが確認されたということです。私が変な形で小池先生の議論を擁護したので話がややこしくなりましたが、それは切り離しておきましょう。ここでのポイントは、現在、職能資格給として考えるべきポイントは後者の方で、前者の方については放っておいていい(鉄鋼はじめこうした制度を維持しているところももちろんあります)というのが私の考えです。ただ、ここで前者の性格を批判すると、後者の性格が見えにくくなる。そうすると、結果的に、職能資格給の従来の運用を改め、職務給化=賃下げあるいは賃金ストップをバックアップすることになっている。

濱口先生の議論のフォロワーはここくらいまでしかついてこないで、メンバーシップ型社会からジョブ型社会への転換というところで留まってしまう。いや、ご本人の意図がそこにないことは分かってますよ。昔、議論したように『新しい労働社会』のなかでも重要な点は書かれていて、それをめぐって議論したわけですから。

簡単に言えば、労使関係論抜きの職務型・職種型賃金やジョブ型社会への移行すべき論というのはダメであるということです。ここは評価が難しいところですが、たしかに濱口先生がメンバーシップ型とジョブ型という言い方で、昔ながらの議論をリニューアルしたことで、労働関連の議論は活発になったと思います。ただ、それがあまり深まる方向に行かなかったのではないか、やはり分かりやすいキャッチフレーズは功罪相半ばするのではないか、という気持ちが私の方にはあるんですね。それを活発にするのは労働法の濱口先生ではなく、我々だろうという批判ももちろん、甘んじて受けます。

というか、そもそも論でいうと、濱口先生とはここ数年、何度も議論して、問題提起をしてきました。それを読んでいますという人にはよくお会いするんですが、正直、いやいやあんたは発信しろよ、と思う人もいるわけです。私が一番、最初にあの論争を始めたときも、あの頃、濱口先生は池田信夫氏の分析をいっぱいやっていたのですが、そんなことよりももっと大事なことがあるだろうと思って仕掛けたのです。それに当時博士論文を書き終わったくらいの私がそういうことを始めたら、私でさえ出来るのだから、ハードルが下がって、もっと同じようなことがたくさん起きると思っていたのですが、これは完全に当てが外れました。今回の『労働情報』だって、そういう論争の活発化を狙ったんでしょうけれども、なかなか難しいですね。

第三に、ここから、私が歴史をやっているからこそ、濱口先生に歴史の話をさせてしまったのですが、正味のところ、今、歴史なんかはどうでもいいです。それよりも現在が熱い。多くの皆さんに読んで欲しいのは情報労連のReportに濱口先生が書かれた最新の論稿をはじめとした特集記事です。産業別最賃が重要であるということは既に指摘されていましたが、今回の論稿は働き方改革に絡めて、それをさらに踏み込んで書いています。というか、私、これを読んで、結構、驚いたのですが、情報労連の戦略にかかわるようなことを具体的に指摘されています。おそらく、濱口先生の読みもこのタイミングが一つの勝負どころだということでしょう。

その話の前に、上の話の整理をもう少ししておきましょう。結局、ジョブ型社会論は労使関係論と不可分にあるということです。もちろん、『新しい労働社会』の第4章で私たちが論争したように、というより、私かどうかはともかく、濱口先生は最初から労使関係についての論争になり得る種をあの章に仕込んでいました。それが上からの組織化の話です。しかし、それがあまりにもジョブ型社会ということで、労使関係とは切り離される形で人口に膾炙してしまった。私が本の中でジョブ型をトレード型と言い換えたのにはそういう含意がありました。ただ、一方で、トレードは中核的労働者なので、大企業正社員から零れ落ちる層を捉えるという濱口先生の問題意識からすると、ジョブ型しか表現しようがないかもしれません。

そうはいっても、実は私も現在の労使関係でもっとも重要な論点については濱口先生とまったく同じ考えで、直近でもっとも労使関係の再活性化を行う可能性があるホット・トピックは産別最賃の利用だと思っています。これを労組が戦略としてどう考えていくのか。正直に言うと、今の情報労連には結構、期待しています。機関誌Reportは2016年10月の産別最賃に続いて、2017年6月に再び最賃特集の中で産別最賃を取り上げて特集しています。10月には私もインタビューを受けて、濱口先生と一緒に並びましたが、組織的に産別最賃を戦略的に取り上げようという感じではありませんでした。しかし、今回の特集は、情報労連全体かどうかはともかく、少なくとも機関誌編集部は勝負をかけて来たなと感じています。先ほどのリンクを貼った濱口先生の記事の横のバナーに特集記事が読めるようにリンクされていますので、そちらも全部、読んでください。どれも重要な記事です。

特集の解説を書こうとすると、また時間がかかってしまうので、ここではこの特集の持つ可能性だけ触れておきます。正直な話、ここ数か月は日本の組合の情宣はなぜこんなにダメなのかという話を多くの人に問いかけ、意見交換してきたりしたんですが、今回の情報労連Reportはひょっとしたら、面白いことになるかもしれません。この特集には単に組合員や一般読者だけではなく、執行部、その他産別、連合への問題提起の意図もかなり入っている。しかも、それがWEBの媒体で読める、というのは大きいです。情宣が問題提起して、それを運動に反映させるということが起こり得るのか。今後の情報労連をはじめとした産別の動きにも注目です。こういう問題に関心があるマニアックな方は、つしまさんのツイートもフォローしてください(まあ、でもあんまり注目されると、彼が動きにくくなるかもしれないので、本当に関心のある方だけでお願いします)。
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今回、私が『労働情報』、というよりは龍井さんに頼まれて、対談を引き受けて、それをネタに大槻奈巳さんと禿あや美さんが対談を行い、それに遠藤公嗣先生と濱口さんがコメントを付す、という運びになりました。濱口先生の記事については一部、先生自身がブログで引用されています。

数年来、濱口先生との論争を何回かここで繰り広げてきたわけですが、はっきりと批判しなかったことがあります。それは小池和男先生の議論の濱口さんの利用の仕方と職能資格給制度の批判、それからジョブ型雇用の推奨が単なるプロパガンダに過ぎない、という事情についてです(小池先生の研究については先生が文化功労者になられたタイミングでこのエントリで紹介しました)。まあ、現実に影響がなければ、私は誰がどんな議論をしていてもまったく気にならないのですが、2000年代以降、とりわけここ数年は職能資格給の「職務」と給与をわりと厳密に結びつけた運用によって賃下げを行うことが広まっており、そういう意味では、職能資格給があたかも職務と切り離された制度であるかのような認識に基づいて行われる議論は現時点では有害であるということです。

私が対談の中で批判したのは、連合の『連合評価委員会最終報告』です。リンクも貼りましたので、ぜひ10ページの賃金論を読んで下さい。対談の冒頭で新しい賃金論と言っているけど、ずいぶん、クラシックなものを持ってきたなあと言っていますが、一番の問題は、職務給や職能資格給の厳格な運用で、仕事が変わらなければ賃金を上げないというロジックで、企業が賃金を抑えてきたのに、水準問題を抜きに、その意図はどうであれ、企業側と同じように職務給を提唱するのは利敵行為ではないか、ということです。この「利敵行為」は対談原稿が上がってきた段階ではまったく違う表現に変えられていましたが、編集の段階で私が元に戻しました(なお、これは校正ではありません)。

私個人は『連合評価委員会最終報告』をまったく評価しておらず、これが労働運動のビジョンを描いたなどという評価を聞くと深くため息をつかざるを得ないのですが、公平を期して言えば、この文書は二つの大きな歴史的意義を持っています。一つは2000年代前半はまだ労働運動のなかでは非正規の労働条件を改善することは正社員の労働条件を切り下げることだという認識が広くあったのですが、現在は連合の非正規労働センターの創設、派遣村等を経て、そういう認識は、少なくとも大声で主張できないように、トレンドが大きく転換しました。今や安倍政権でさえも同一労働同一賃金を政策の根幹においています。もう一つは、外部からの評価を受けたという点です。今日はこのレポートの批判がメインではないので、先に急ぎましょう。

上に書いた私の挑発的な問題提起に対して、まっすぐ答えてくれたのは濱口先生だけです。濱口先生は水準の問題と制度の問題を、分配の正義と交換の正義という言い方で、この両者のバランスを取ることを提言されています。今の問題は、私は交換の正義だと思っていて、連合評価委員会最終報告や禿さんや遠藤さんや遠藤さんの小池批判を援用し続けてきた濱口さんの議論が、企業側に利する水準の切り下げにしか役立っていない、ということです。

そもそも論で言うと、職能資格給はその制度の根本は職務分析によって職能を定めていくので、まったく空疎な能力ではないのです。ですが、その制度の伝道師であった楠田丘先生が嘆いていたように、日本では職務分析が行われず、1990年代くらいまでは職能資格給が運用されてきたのです。職能資格給にはもともと顕在的な能力を評価するはずだった職務分析を前提にする限り、『虚妄の成果主義』で高橋先生が述べたような、潜在的な能力の評価などという機能が入っていたわけではないのです。少なくとも、賃金論においては。それがなぜ、そのような運用が出来たのかといえば、ハイパーインフレから高度経済成長、要するに、バブル崩壊(ちなみに元日経連の成瀬さんは1985年のプラザ合意が転換点とおっしゃっています)まではそれなりに賃上げ=賃金総額の積み増しが行われていたからです。

私は今、年功賃金の能力給説も、生活給説も、かなり後付けの説明だと思っています。もちろん、組織がピラミッド構造である以上、勤続年数の積み上げとそのピラミッドを上っていくことはオーバーラップしますし、それは能力も上がっていくので、そういう意味ではもともと右肩あがりの賃金にはそういう性格がありました。ただ、それが従業員の大部分をカバーしたことは大雑把に言えば、戦後の経済のなかでそうなったと言えるでしょう。これは遠藤さんというか、多くの人がそう思っている日本型雇用システムが1960年代に作られたという話とも整合します。

まあ、もともと小池先生のブルーカラーのホワイトカラー化というのは、1970年代後半の賃金カーブを比較して導出した推論に過ぎないのです。ただ、その推論がとても魅力的で、二村先生をはじめとして多くの人をインスパイアして、小池先生自身もその直観にもとづく研究を重ねられてきたのです。なお、90年代に議論になった仕事表の実在については、そのうち出る『経営史学』の『「非正規労働」を考える』の書評に書いておいたので、興味がある方はそちらを読んで下さい。

濱口先生は周知の通り、ジョブ型雇用の重要性を訴えてきたのですが、私はそんなものは当初から無理だと言っています。これは前にも議論になりましたが、今の時点で新たにジョブ型のようなものを企業を超えて作るとするならば、大がかりな職務分析が必要です。これに対して、濱口先生は以前、ヨーロッパではそこまで厳密な職務分析をやらずともジョブ型が成立しているということを仰ったのですが、それは私から言わせれば、トレードの近代的再編をやったからで(二村先生の言葉を借りれば、クラフト・ユニオンの伝統の刷新)、それがないところでは何かしらの努力が必要でしょう。それは私が思いつく限りでは職務分析しかないわけです。

しかし、現在の状況で、それを実現するのは無理です。無理ではないというならば、財務省を説得して予算を獲得してくるか、財界や労働組合にその資金を提供させるかが最低限必要ですし、予算が確保できたら、それだけの大規模な職務分析を行う人が必要になりますが、どう考えてもそんな人数は日本にはいません。スクール・ソーシャル・ワーカーを全国に配置しようとしたって、全部は無理だよと言うのと同じです。ちなみに、アメリカが今のような世界を作ることに成功したのは、第一次世界大戦時の陸軍の170万人適性評価をやって、総力戦体制あるいはその後のニューディール的な世界で、公的部門がお金を出してそういう調査をやるということが可能だったからです。このようなドラスティックな革命が実現できたのは完全にこのようなタイミングの賜物で、もう今からこのような予算を通すことは日本だけでなく、どの国にも出来ないでしょう。

濱口先生の政策提言は、実現する見通しがあって行うものと、とりあえず極端なことを言ってみんなに考えさせるための問題提起の二つのパターンがあって、この一連の議論は私は後者だと思っていたし、その限りでは何の問題もないのですが、繰り返していうと、近年の職務給・職能資格給の厳格化による賃下げが進展するなかでは、労働条件の低下にしか寄与していないと思うので、ここであえて批判しておきました。ただ、ジョブ型雇用の提唱との関連で言えば、単に考えさせるための提言(新しい労働社会のときの議論がそうです)というよりは、その論理構成から考えて、労働組合への叱咤激励というか、愛情表現なのかなという印象も持っています。それこそ内務省社会局以来の忘れられた伝統です。

じゃあ、どうすればよいのかということですが、それは今回の原稿で濱口先生も書いている通り、福祉国家として生活できる賃金水準を確立することに他なりません。この抽象レベルでは答えは明らかですが、現実的には非常に難しい。たとえば、濱口先生は産業別とおっしゃいますが、複数のアルバイトを掛け持ちしているような働き方の場合、そのすべてが同一産業とは限らないので、産業別という視点では結構、こぼれ落ちてしまうでしょう。もう数年来、考えていますが、ここのところで道筋をつけるには、私にはまだ時間が必要です。誰が生活を保証するのかは、藤原千沙さんも連合総研のDIOで問題提起されていて、濱口先生も丁寧にこの記事を紹介したエントリを書かれています。
川崎臨港バス労組が36年ぶりのストライキを打ったということで、先週、話題になった。神奈川新聞の記事がある。実は、このストライキは数十年経った後、歴史的なストライキとして記憶される可能性があるのではないかと思っている。それは何よりこのストライキが自分たちの労働条件を問題にしただけでなく、その後ろにある乗客の安全確保を訴えたという点において、公共の正義に適っているからである。私は普段、よほどのことがない限り、具体的な事実をもって正義であるなどと判定することはない。しかし、あえてこのストライキが今後の正しい方向を示していると断言したい。

今年(2016年)の1月、軽井沢スキーバスの転落事故が起きた。若い大学生15人が死亡したこと、そのうち、娘を失った一人のお父さんの毅然とした態度がひどく印象的な事件だった。この事件の背景には、会社側の杜撰な労働安全を含む労務管理があり、事件後、国土交通省の立ち入り検査や行政処分を受けていたことも明らかになった。ここで我々が学んだことは、会社側の労務管理が、単に労働者の命を奪うだけでなく、消費者(乗客)の命をも奪うということであった。

ストライキが悪のように語られたのは、1975年のスト権ストが一つの転換点で、国労が自分たちの権利を主張するためだけにストライキを打ったこと、この事件を契機に、中曽根康弘が国労・総評潰しを企図して80年代には臨調と並行して、国労の悪宣伝を広めたためである。総評内では、ストライキをやらない少数派鉄鋼と、それ以外という路線対立という側面もあった。だが、一番は当時の官公労は非常に強く、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで、スト権ストの直前まで公共部門の労働基本権の回復はそう遠くなかったと思う。ただ、その反面、75年時点で国労に驕りがあったのも事実で、スト権ストは民間労組の協力を仰がないで単独で行われた。これに総評内の私鉄総連、全電通が怒ったのも当たり前であり、身内を固められないストライキが世間の評価を勝ち取れるわけもなかった。しかし、私は政治とは冷酷なものだと思っているし、自民党と革新陣営は敵だと認識していたわけだから、別に当時の自民党のプロパガンダが法を犯していたとしても、私はそれを悪だというつもりはない。

ストライキが風物詩のように行われた時代が去り、ストライキが異常な事態のように考えられるときがやって来た。念のために確認しておくが、ストライキは今でも労使交渉における最後の切り札である。基本的人権として保障されているからではない。いわんや労働者が弱者であるから基本的人権として保護されているわけではない。世界の労働者が労働運動の成果として歴史的に勝ち取ってきたのである(ちなみに、まだ認められていない国やILOの権利によって守られている国も少なくない)。ストライキ権が付与されているとはどういうことか。ストライキによる損害賠償が認められないということである。連合成立に際して、参加を決めた動労への損害賠償は取り下げられ、最後まで岩井一門のリードによって特攻した国労はその損害賠償支払いによって国労会館を失った。きわめて政治的問題である。

ストライキ権については、過去のエントリで書いた。その際、当時連合総研(今はJCM?本拠はJAM)の市川さんからコメントをいただき、それに対してリプライを書いた。ILOで労働者代表として戦ってきた市川さんとのやりとりはすごく重要なので、あえてもう一度、ここに紹介しておきたい。

ストライキの重要性が忘れられた現代の日本において、それを喚起させたのは2004年のプロ野球のストライキである。日本のプロ野球史上、唯一のストライキであり、結果的に、選手側が主張した12球団維持が通った。このときは近鉄とオリックスの合併によって12球団制度が維持されなくなることが争点で、ストライキの期間をどうするのか、無期限にするのかどうかという議論も出たそうだが、結果的には2日だけだった。言うまでもなく、ファンのことを配慮したからである。テレビ越しにも当時の古田敦也選手会長が相当タフな交渉に臨んでいるんだなというのはその表情から察せられた。ファンも選手たちを支援した。

プロ野球のような人気スポーツでないため、今回の川崎臨港バスのストライキは世間の同情どころか、関心さえも集めていない。正直、利用者にもあらかじめの理解を得ることは出来ていないだろう。記事のインタビューを読めば、迷いながらの苦渋の決断の末に行われたストライキであることは伝わってくるし、そのような真心にもとづく行動は、私のような現場に立つわけではない外部の賢しらな意見などから自由な方がよい。だが、ストライキというのは、労使間だけでその勝敗が決まるわけではない。団体交渉はたしかに労使だけで決まるが、ストライキになって、労使以外に影響を及ぼすようになると、その勝敗には世間の流れが大きく影響してくる。だから、世論形成はかつてはストライキの常套手段であった。

今はやり方によってはチャンスである。なぜなら、川崎臨港バス労組が提起した、厳しい労働条件によって消費者(乗客)の安全が脅かされるという問題は、まさに政府が進めている「働き方改革」の直球真ん中である。このストライキは世の中のよい流れに乗っていると言える。だから、話の持って行き方によっては、電通と並んで働き方改革の目玉になり得る。連合は5年ぶりに自民党と政策協議を行っていて、ある意味ではこういう事例をうまく取り込むことによって、イニシアティブを示すことが出来るはずだ。ここが勝負所だという戦略眼に期待したい。

・・・けれども、このニュースペーパー動画を見ると、頭がクラクラしてきて、連合が世論形成をするなど夢にも思えない。これ、炎上してもおかしくないと思うのだが、浸透してなさ過ぎて、誰も気がつかず、炎上さえしないのではないか。組織のどのレベルでOKを出したのか確認したいし、これからは連合関係者に会うたびに一人一人この動画を見たことがあるのか確認し、その上でどう思うか聞いてまわりたいくらいだが、情報宣伝において、連合はエキタスやシールズにさえ遙か後塵を拝していると言わざるを得ない。

先日、長時間労働の労働相談を連合は行った。それ自体は素晴らしい。その翌日、ツイッターで「#もしも定時で帰られたら」を告知した。それを情報労連の対馬洋平さんの個人アカウントが、エキタスの「#最低賃金1500円になったら」と一緒に広めることを提案、エキタスアカウントもすぐにこれに反応してちょっとした広がりを見せた。この秋からハッシュタグを使って問題提起するようになったのは素晴らしい。しかし、順序が逆であろう。どう考えても、こういう事前の周知をした上で、キャンペーンを打った方が労働相談に多くの人に参加してもらう上でも、さらには連合の活動を周知する上でも良かっただろう。この段落で私はそんなに無茶なことを言っただろうか。2016年現在ではほぼ常識的に考えられることを書いているだけだと思うのだが。
情報労連の機関誌『REPORT』の特集「産業別労組の次なる可能性」にインタビュー記事「産業別最低賃金の可能性」が掲載されました。思いのほか、よい特集になっていたので、ご紹介します。既に濱口先生が紹介されています。

単に書きました、と言わずに、インタビュー記事ですと断ったのは、お題は産別最賃の話をしてくれ、ということだったのですが、わりとあちこち飛びながら一時間くらい話した内容をインタビューされた方が整理されて、それに手を加えて書いたからです。事実上、構成はその彼が考えてくれたのです。

個人的に興味深いなと思ったのは、まったく打合せしてなかったのですが、驚くほど濱口先生の原稿とすごく平仄が合っていましたね。最低賃金の細かい説明は濱口先生の原稿を読んでから、私の原稿を読んでいただけると理解しやすいかなと思います。最賃の中で産業別最賃に焦点を当てるのは珍しいですね。ちなみに、濱口先生がおっしゃる「リアルな政治感覚」と私が最後に書いた「戦略的な提案」はほぼ同じ趣旨です。

篠田先生の原稿が産別と地域を問題にしています。実は私の原稿には最初は入れてくれてあったのですが、他の個所の説明を増やすために削ってしまった話があって、それが産別と地域に関連する変化球的な話でした。今の産別は昔のような単純な単産ではなく、意識的にゼンセンのように多角化しているところもありますが、その産別に所属する人の縁で組織化したりしてそのままそこに所属するというようなケースで違った産業の組合が入る場合もあります。もう思い切って、人の融通などを含めて大手産別同士で連携した方が良いのではないかということを喋っていたのです。中野組織対策局長の原稿の中で、具体的な「組織診断表」の話が出ていますが、各産別でやっているこういう工夫を座談会とかで話したりする企画も読んでみたいなと思います。それも中央じゃなくて、どこか特定地域における各産別支部がどう工夫しているのか、現場と中央の関係ももちろん出てくるとは思いますが、地域色が出てくる感じのやつがいいですね。

なお、産別間連携の論点を深めていくと、そもそも産業をどう括るのかというような、あるいは地域をどこで線引きするのかというような話につながってきて、それは読む人が読めば一発で分かりますが、最低賃金の枠組みそのものの問い直しも含まれるのです。ただ、それにはより大きな、地方自治をどうするのか(道州制を含めて広域自治体)という問題も視野に入れた戦略が必要で、そこまでは今回の特集では求められていないので、現実的に何が出来るかという観点からの話になっています。

しかし、こんなに大枠の話ばかり考えてもダメですね。もっとも、根幹の考察をしているのが津富宏先生の原稿です。ここでは市民運動という立ち位置での就労支援と労働運動との距離が印象深く語られています。

私もこれについての解決策というのは考えたことがあって、それは組合の人がこうした市民活動にボランティアとして参加するということです。実は東日本大震災の後、ボランティア活動が活発になって、結局、これは被災地以外でも同じことが出来ると早い段階で気が付いたので、地域でのボランティア活動に展開できないかということで、ちょうど静岡が予定地でしたが、何人かに相談したことがあります。その頃は私も一年のほとんど東北に行っていたので、実現することも出来なかったのですが、アイディアとしては悪くなかったと思います。

ここでの私のアイディアは津富さんとはまったく逆で、肝は労働組合を労働の専門集団として遇さないということにつきます。まずは一からボランティアとしてスタートする。そうやって活動していくなかで、自分たちの立場や専門性を利用してどういう風な活動ができるのかということを考えていくきっかけにする。実は、労働組合というのは、労働にかかわる本職の仕事以外でも、意外と社会運動をしています。ですから、その候補先として、こういうことを考えるのも別におかしなことではないはずです。そして、私はこうした活動は社会運動としての労働運動の原点を見つめ直す、もっといえば、ともすれば日常の業務が単なるこなすべき仕事になりがちな現在の労働運動再生への希望になり得るだろうと期待しています。

なんで課題の共通化ではなく、まず経験してもらうということを書いたかというと、なかなか専門性の高い相手のスキルや持っている人脈などはよく分からない。そうであれば、本人たちに考えてもらう他ないわけです。もちろん、論理的には逆のパターンもあるわけですが、あまり現実的ではない。これは経済的、人的な余裕の差でもあります。

運動論としては、呉さんの韓国労働運動の原稿は重要で、なかなか示唆に富みます。ただし、これはあくまで労働運動論であり、現役の組合の人が読んで、刺激を受けるという類のもので、韓国に倣って同じようなことが出来るかといえば、それはあまり現実的ではないでしょう。弾圧のなかを戦い抜いてきた強さというのは、逆説的ですが、弾圧なしでは身に付き得ません。そのために、弾圧が重要なのかというのは非常に根本的な問題で、私は実はこの問題についてかつてある左の組合の方に質問を投げかけたことがあります。

曰く、組合運動のなかに労働問題だけでなく、それを超えるものが必要であるという主張は分かった。しかし、今回、平和運動がこれだけ盛り上がったのは明らかに安倍政権になったからで、そういう運動は敵を常に必要とするのではないか。もし、その敵がいない場合、そうした平和運動を組合運動の軸としてよいのか、と。そのときはあまり納得のいく答えは返って来ませんでした。ぜひ、皆さんにも考えていただきたいテーマです。
皆さん、周知の通り、9月21日に近鉄駅ホームで乗客対応をしていた車掌が線路上に逃走、その後、高架下に飛び降りた事件が起こりました。この事件に関連して、SNS上では車掌を守ろうという動きが出てきており、ついさっき、私も回ってきたChange.orgの電気技師KENTAROさんが呼びかけたまずは処分を白紙撤回して事実調査をという請願書に署名したばかりである。この署名が実務上、意味があるのかどうかは定かではない。少なくとも、近鉄は処分を「検討する」と言っているだけで、「実行する」と言っているわけではない。ということは、もともと事実調査をした上で処分したであろうことは容易に想像できる。

電気技師KENTAROさんは本名かどうか分からないが、場合によっては本名が明らかになるだろう。そういうリスクを犯して、彼は仲間である鉄道労働者一人のために行動を起こしている。その行動が有効かどうかではない。私は彼の勇気に心から賛同するのである。しかし、私は運動家ではないので、ここでこれを読んでいる皆さんに、ぜひ一緒に賛同しようと呼びかけるつもりはない。ここでは別の角度からこの問題を考察したい。それは労働組合とは何かという問題である。

近鉄には企業内労組があって、それは上部団体として私鉄総連に加盟している。私鉄総連は連合に加盟している。私は少なくとも即日、これらの組合は企業側に勤務条件その他の事情の徹底調査の要求およびもし当該職員の勤務状態に、労働安全衛生上の問題があった場合には徹底的に彼を守るという意思表示を大々的にマスコミを通じて発表するべきであったと思う。それがこのスピード時代でのあるべき組織対応というものである。

なぜか。普通の企業はここ十数年でネットにおけるクレームなどに対応するために組織編成をせざるを得なかった。それをしなければあっという間に炎上して大打撃を受けてしまうからである。だが、おそらく近鉄労組、私鉄総連、連合がそのような危険にさらされることはないだろう。なぜなら、最初から期待されていないからである。それこそが最大の危機である。

今回のネット上の動きでは、この車掌の働き方に対しての同情が根底にあって、だからこそこれだけのムーブメントになっていると考えられる。こうしたムーブメントが大きくなって近鉄本社に直接、声が届くようになれば、近鉄は当然、そうした声を踏まえて、事後処理を考えることになる。逆に言えば、その声なくしては近鉄もそのような対応を出来ないのである。労働者に同情し、会社に働きかけて彼を守ろうとする多くの者の気持ち、これを連帯と呼ばずしてなんと呼ぼう。はっきり言えば、このもっとも臨界的な危機的状況を、組合抜きで、しかも連合がいつも作ろうと号令をかけているところの連帯の力で乗り切ってしまうかもしれないのである。その輪の中に組合が入れていない、ということは、根幹の存立基盤を揺るがす大問題である。

今回の一連の事件が処分という形にせよ、あるいは別の方にせよ、収束してしまえば、その後、労働組合は何も痛むところはないだろう。このような突発的な事件以外にも、労働組合が日常的にこなさなければならない仕事はたくさんある。だから、私は労働組合不要論を打つわけではない。しかし、こうした突発的な事件にどう対応するかはその組織の地力が出るといってよい。

このような自殺未遂を起こすまでに至った当該車掌は、このままでは処分がなかったとしても、気持ちの上でも、そう簡単に業務に戻れるとは思えない。そこにサポートは必要だろう。必要なサポートは現にあるし、そこに組織が参加する余地は大きく残されている。だが、現時点では労働組合は、名もなき市井の人たちの連帯に大きく水をあけられている。最初の一手はこの時点で打っていないということは失敗したのである。判断のスピードが求められるのは企業だけではない。あらゆる組織が同じ世界に生きている。

とはいえ、SNSによる突発的な連帯は持続するのは困難である。ここから組織としてどう巻き返すことが出来るか、そこに労働組合としての真価が問われる。ここに具体的な名前をあげた組合以外にも、こうした事件を通じて、このような危機感を持たなければ、遅かれ早かれ、組合という組織は組織率を落とし続け、衰退していく運命にあると言わざるを得ないのである。