土曜、日曜と続けて、社会政策学会に出席してきた。報告の内容そのものよりも、諸先輩方と話をして、改めて研究をしようという気になった。二日とも飲みに行けたのは楽しかった。7月の締切りまでに論文を書くと宣言してしまったので、なんとか頑張ってみよう。

 共通論題は全体の3割くらいは聴く価値があったと思う。橋元さんの非正規従業員の組織化の話は面白かったが、全体のバランスを考えたら、もっと一般組合やら外部との関係をきちっと説明してくれたら、なおよかったと思う。それにしても賃金についての成果主義やら年功賃金などの議論を2009年現在、まだやっているのを聴くとうんざりする。全体的に質問の質は低かったように感じた。

 二日目、後輩の橋本さんの外国人労働者の報告を聞く。質問も出来ればよかったけれども、足を引っ張るだけなのでやめた。司会の上原さんの職安データの性質を踏まえた質問を聞いて、以前、彼自身がマニアックな職安データをとにかく積み上げて迷走した、しかし、馬力ある報告をしていたのを思い出した。5年くらい前かな、懐かしいな。細かいことを理解している自信がないので、内容については書かないけれども、質問者とのやりとりで、いろいろと時間内に説明できなかったことが補足されて、よかったと思う。観客は皆、紳士的だった。

 面白かったのは、猪飼(周平)さんがコーディネートした「健康戦略の転換と包括ケア」。途中から参加したので、最後の二つの報告しか聞けなかったのは残念だ。井上(信宏)さんの研究報告を初めて聞いた。いや、あれはきっと報告ではなく、演説に分類すべきだろう(笑)。
 冗談は措いておいて、井上さんの結論の一つに「高齢者介護が取り組んだ高齢者の生活という価値(QOLクォリティー・オブ・ライフ)を目標とするサービス充足のシステムは、社会政策にどのような新しい側面をもたらしたのか」とあったのだが、どうも「システム」というのがしっくりこない。終わった後、お会いしたので「なんで、ソーシャル・アドミニストレーションじゃなくて、システムじゃなきゃダメなんですか」と聞いてみたら、管理ではなく自由を確保したかったとのことだった。つまり、井上さんのお話をバラフレーズすると、各地域が個別の事情に応じて高齢者介護のあり方を決める裁量の余地、福祉?(QOL?)を自分自身(個人)が決める自由の余地を大事にしたいということかな。私は、一回一回で終わってしまうと、ある程度、繰り返しの経験を規格化できる部分をまた位置からやり直すから、その部分が必要だという意味で、アドミニストレーションがいいんじゃないかな、と思ったのだが、井上さんはその必要を認めた上で、自由度と管理の両方をあわせたものをシステムと呼びたい、という趣旨だったようだ。しかし、後から考えると、アドミニストレーションはコントロール(統制)じゃないから、自由度はあるんだけどな、と思ってみたが、この方面から詰めていっても瑣末な言葉の問題にしかならないから、まぁ、いいだろう。ただ、今から考えてみて、これが福祉社会ではなく、社会「政策」の課題であるならば、システムじゃなくて、やっぱりアドミニストレーションじゃないのかなと思えてきた。政策には、それが見えるかどうかは別にして、やっぱり管理ないし方向付けが伴うような気がする。この記事が井上さんの目に留まったら、議論することにしよう(笑)。

 もう一つの報告は、高知市で展開されている「いきいき百歳体操」と「認知症事業」の当事者(保健師さん)のお話だった。これは圧巻、面白い。「いきいき百歳体操」自体は簡単な筋力体操なのだが、10Mを9秒以上かかって歩いていた97歳のおばあちゃんが、体操をした後は3.4秒くらいで小走りしている映像を見せられると、その効果は説得的だ。こうやって少しずつ説得されていったのだろうという感じだった。参考資料はこのリンク先のPDFファイルを参照ください。
 とにかく住民主体で拡がったということで、たしかに、その意義は決定的に大きい。もちろん、実際、その通りなのだろうが、それにしても仕掛け人が最初にどうやったのかを具体的にどうやったのかもっと知りたい。ただ、これは後で話した方から聞いた意見。昨日はふーんと、思って聞いていたが、書いてみると、たしかに知りたくなってきた。我ながら、頭の回転が遅い。

 午後一の報告は土曜の懇親会のときに明日は来てくれと言われたし、そろそろ付き合いも長くなってきたので出てみたものの、あまりにひどかったので、何を聞いたか書かないことにしよう。多分、同じ場におられた方はほぼ同じ感想を共有しておられると信ずる。

 その後は少し休憩して、学会史小委員会の話を聞いた。両方の報告に質問をしたが、要領を得なかった。質問と直接、関係していないが、司会の菅沼さんとのやりとりを含めた感想としては、冨江(直子)さんは方法的に混乱していると思う。ご自身は社会構築主義の手法で行きたいらしいが、どれだけ現象学を勉強しているか謎だ。言説分析を方法的に詰めるには現象学まで行かなければダメだろう。その勉強をしてもなお難しくて、かつ危うい分野だと思う。ちなみに、引用されていたジンメルは機能主義ないし構造主義のもととなった形式社会学だし、当時の人たちが共有していたらしい社会有機体説の議論は総合社会(科)学の枠組みだ。この三つの方法の間には少なくとも19世紀末と1960年代に二回、学問的方法におけるパラダイム・シフトが起こっている。言説分析は方法論の研究をやらないと、その学問的な性格から迷走しやすいのである。

 玉井先生には、社会学系社会政策と経済学系社会政策を分ける基準は何か、ということと、私は社会学と経済学はそう簡単に分けられないと思うけれども、分ける意味がそもそもあるのか、と聞いてみた。こんなに端的に聞かなかったので、かえってはぐらかされてしまった。これは私が悪かった。玉井先生は私の質問をストライクと仰り、分類は難しかったゆえんを説明された後、一応、経済学系とは労資関係、社会学系とはそれ以外、という分け方という結論を話された。もちろん、清水先生のいう作法を拳拳服膺していた私は、マルサスの人口論やマルクスの人口論は経済学じゃないんですか、とは聞かなかった。しかし、聞いても何も変わらなかったような気がする。おそらく、清水先生の文章は素晴らしいレトリックだというのが正しい理解なんだろう。危ない、騙されるところだった。

 佐口先生の質問も面白かったが、どうも噛み合わなかったようだ。佐口先生の質問は、我々東大の近くにいた人間から見ると、1950年代にはアメリカ流(あれ?イギリスじゃなくて、アメリカっていったような)労使関係が入り、大河内理論の影響は完全になくなっていたのに、大河内さんが中心にいたという理解に違和感を覚える、大河内さんの議論に添って議論したらどうなるのか?というものだった。玉井先生はその発言を重要だと仰ったが、実は佐口先生の真意を寸託した勇み足だ(佐口先生もみなまで言わなかったと思う)。本当は日本の社会政策の歴史研究をライフワークとしたのは池田信先生だけであり、池田先生は大河内社会政策論の枠を守り、それが社会政策史のスタンダードだと思われてきた、と応えてしまえばそれで終わりだったのに。もっとも、私がその前の社会学と経済学に分離できるのかと質問したときに、大河内社会政策論を経済政策と理解するのは、生産力説という限りで言えば、いいかもしれないけれども、ウェバーの理念型やマルクスの資本制社会の考え方を社会学から切り離して、経済学だと言っていいのですか、というような趣旨のことをゴチャゴチャいっていた。武川先生の論文の時期区分も意味不明だが、それを引用する人がいるとはまったくの想像を超えた出来事だった。ぜひ、武川先生と相談してもらって、次はしっかりとした答えを聞きたい。しかし、相談するってどういうことなんだろう?

 なお、玉井先生と杉田さんのご報告は紀要論文を圧縮して、追加したものとのことだったので、リンクを貼っておく。もちろん、フルペーパーよりこっちがよい。ちなみに、私には指導教官が学説史、学生が実証を担当するという分業が成立すること自体が驚きだった。杉田さんの屈託のない笑顔はその点にほとんど迷いがないかのごとく明るいので、多分、私が東大経済という狭い中にいたために、偏った常識を持っているのだろう。世の中は広い。やっぱり、学会は文字だけでは分からないことを勉強できる場だ。

 それから、プロフィールは照れくさいので書きませんけど、私は1978年11月12日生まれです。聞いてくださって構わないですよ(笑)。
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 (1)では、岩田先生がなさっている研究、および貧困調査に関わる問題がきわめて重要であることを確認した。しかし、『現代の貧困』に提示されている「社会的排除」とその克服である「社会的包摂」という輸入概念でその解決の方向を示されると、それは必ずしも説得的ではないように思う。問題を投げかけたまま思案投げ首の態を決め込むよりも、意見を提示するのは全く誠実な姿勢であることを前提として受け入れた上で、私はあえてこう言いたいのである。ただし、何も住宅手当その他の具体的な提案に反対しているわけではない。問題はそうした個別具体的な「貧困政策」の正当性に関するグランド・セオリーがよく見えないのだ。そして、そのグラウンド・セオリーこそ、社会政策論であるべきだったのではないか。

 かつての社会福祉政策、イギリス流のソーシャル・ポリシーは私の見るところ、徐々に「社会政策」という言葉をドイツ派の伝統的「社会政策」から大した理論的な葛藤も経験せずに、奪いつつある。おそらく、それは学問それ自体よりも組織力、およびドイツ派「社会政策」の衰退によって、なし崩し的に達成されつつあるのである。端的に言えば、段々、社会政策は「Sozialpolitik」だと頑張る人が減ったのである。まぁ、派閥争いをしても生産的ではないので、そんな争いが起こらないのは結構なことだ。ちなみに、ご存じない方もいらっしゃるかもしれないが、大正時代の「社会政策」の英訳は元々、ソーシャル・リフォームであって、ソーシャル・ポリシーではない。どちらか言うと、「社会政策」に最初からそういう意図が込められていたというよりは、ソーシャル・リフォームの訳語が揺れながら、同じ言葉のなかに収斂していったという方が正しいだろう。

 それはともかく、昔から繰り返されてきた議論のうち、ひどく厄介なものは、社会政策の「社会」が一体何を指すのか、ということである。たとえば、「ソーシャル・インクルージョン=社会的包摂」といったときの元となる「社会」とは何を意味しているのだろうか。文脈から考えると、この場合の社会とは「日本社会」のことであろう。差当り地理的な条件から日本国の固有領土で成立している社会総体といってもよい(海外の日本人コミュニティは除いてよいだろう)。そこに住む人がお互いを認め合える社会、反対しにくいポリティカル・コレクト。しかし、左派以外の人には現実的な政策理念として響かないだろう。強いて反対すべくもないという感じだろうか。

 日常生活を送る上で社会的排除を受けていようとも、貧困問題は現に社会と繋がっており、切り離すことは出来ない。たとえば、スティグマの問題はその証拠であろう。貧困に陥ったことによって何らかのインフェリオリティ・コンプレックスを感じるならば、それは排除した社会の価値観に基づいているといえるだろう。もし、そうした劣等感が本人にとってあるいは社会全体にとって問題であるとするならば、論理構成上、排除する側の社会の価値観自体にも問題があることになる。だが、それを「現代日本社会の病理」などといっても、何も説明したことにはならないだろう。その善し悪しは問わずとも、価値観を共有しているという点において、全体社会は成立するのである。共通認識としておけるのはここまでだ。

 そうした価値観を丸ごと変容させて、排除していた人たちも排除されていた人たちもみんなハッピーな社会にすると考えるのならば、それはまさに古きソーシャル・リフォーム(社会改良)の考え方である。もし、そんなことを実現可能な青写真があるならば、これ以上のものはないだろう。では、その理想の価値観とはそもそもどういうもので、それを実現するにはどうすればよいのか。けだしこの問題を考えることは社会政策の本流であろう。

 とはいうものの、社会改良ないし社会政策における戦略上、ないし戦術上の橋頭堡としての貧困問題の意義は疑い得ないと思うが、貧困問題を解決しなければならないもっとも説得的な理由とは何かと考えてみると、実はよく分からない。また、引き続き、考えてみることにしよう。
 19世紀に社会政策が産声をあげたとき、もっとも重要な社会問題は貧困であった。シュタインを引き継いだ金井延はヨーロッパから帰国した後、東京の貧民街を見学に行く。彼はイギリスのトインビーホールをはじめとした先進的な社会事業について見学してきたのである。明治20年代の日本ではまだ、貧困問題が資本主義が齎す構造的な問題であることが明らかではなかった。しかし、金井はやがて遠からず、社会的にも認識されるだろうという見通しを持っていた。その見通しは正しかった。爾来、高度成長期にいたるまで貧困は日本の重要な社会問題の一つであり続けた。しかし、経済成長が始まり、社会全体が豊かになると、貧困の存在は多くの人の意識から徐々に忘れ去られていった。

 ところが、こうした高度成長の下にかえって問題が見えにくくなってしまったという意識から、一貫して隠された貧困の探索をした研究者たちがいた。その代表的人物が江口英一先生である。岩田正美先生は江口先生の弟子の一人で、現在、日本の貧困研究の第一人者である。岩田先生が出された『現代の貧困』ちくま新書、2007年は快心の一冊である。重要なトピックがほぼ網羅されている。私は「社会政策」を教えている学生たちに「話していることを全部理解する必要はない、最低限、この本だけ読めばいい」と言ってあるくらいだ。

 貧困問題を考える際、基本的な点は貧困が個人の問題ではなく、社会的な構造によってそこから抜け出せない人がいるという認識を持つことである。個人に還元できない社会的な構造とは何かが問題になる。個人と社会の関係はデュルケームなどが発した古くて新しい、社会学の根本とも言うべき問いである。岩田先生の場合、貧困者の属性(たとえば、母子家庭)を論じている。平たく言ってしまえば、個人の責任で片付けられない社会的要因が利いているんだから、社会全体で考えましょう、ということだ。

 次のステップは貧困問題が存在している場所の把握である。この本では全体を通して、貧困をどうやって把握すればいいのか繰り返し論じられている。あるときはご自身の調査から貧困の多様性を指摘し、そのせいで全体的な把握が難しいことを説き、しかし、別のときにはそういう限界を承知で統計を使いながら、全体像を描こうと試みたりしている。もちろん、専門家なのにそんなことさえ分からないのかと非難するのは簡単である。しかし、分かって欲しいのは岩田先生は本当のプロだからこそ、分からない点をはっきり打ち出しているということだ。逆に言うと、分かってない事柄をさも分かっているかのように錯覚することが問題の解決を難しくする。だからこそ、丁寧に貧困を説明しているのだ。

 岩田先生の方法は統計学が発達する以前の統計に非常に近い。現在でも、統計には但し書きがついているが、かつての統計はそれどころではなく、むしろ、数字は全体の一部分に過ぎなかった。統計学の発展は19世紀から20世紀初頭にかけての科学信仰と結びついている。元々、ケトレーにおいては数学を使い、統計で明らかにすべき法則は神の法則と分かちがたく結びついていた。科学は自らが信仰となり、神への信仰を奪い、捨て去って後、技術だけが残った。かつての統計はイメージとしては現在の白書や各種報告書のようなものであろう。調査部分、もっと端的に言えば、記述部分が多いのである。

 この本を読んでいくと気がつくのは岩田先生の手法が実にたくさんあることである。ひょっとしたら、こうした分野に明るくない人にはそのテクニカルな煩雑さだけで飽きてしまうかもしれない。教科書的と何度も書かれた貧困ラインは原語ではpoverty line、かつては貧困線と訳されていた。19世紀以来の分析手法である。そして、その貧困線のアイディア自体は保存されつつも、ヨーロッパでは様々な改良の試みが行われ、いくつもの基準が作られている。正にごった煮である。しかし、そういった体系に収まりきらない多様性こそがこの分野の面白さであり、それを描いた岩田先生の真骨頂でもあると私は思う。岩田先生の立場はラウントリーの科学性を批判的に紹介している点によく表れている。
 私は以前「年功賃金論における能率と生活の思想的系譜─戦時期統制における賃金の議論を手がかりとして(PDFはこちら)」という論文をJIL雑誌に書きました。元々はJIRRAで報告したのですが、論点を詰めすぎたため、司会だった石田光男先生に論点がまだ整理されていないと言われてしまいました。そのときは、反論しましたけど、あんまり親切に書いていないのは事実です。

 この論文には二つのポイントがあります。

 第一は、前提となる議論なんですが、戦前の賃金は定額給と出来高給の二種類があって、どちらが主流であるというような言い方は出来ない、ということです。この点をもう少し、敷衍すれば、戦前には日本的賃金などという概念は存在しなかったのです。

 第二は、私が論文で言いたかったことなんですが、戦時中にかけて議論されてきた昇給附定額給(日本的賃金)論には二つの系譜があり、その何れもが科学というメタ思想を共有しており、それは「標準」を重視するという点に見出せます。

 第一の論点についてはまた改めて論じることにして、今日は第二の論点について書きましょう。私が重視した二つの系譜とは、高野岩三郎以来の家計調査研究と1930年代頃から隆盛を誇った能率協会といったコンサルを中心にした科学的管理法を前提とした賃金研究です。前者の研究は生活賃金思想に連なり、後者の研究は能率賃金思想に連なります。能率賃金の話もまた、別にしましょう。

 論文に書き忘れたんですが、実は高野岩三郎の家計調査に全面的に協力したのは友愛会です。だからこそ、高野は第一回のILOの労働者代表に推薦されたとき、恩返しのつもりで受けようとしたという側面があります。高野のお兄さんは日本最初の組合といわれる労働組合期成会を作った高野房太郎です。高野房太郎についてはついに二村先生が本格的な研究を完成されました。WEB版の方が研究者にとっては有難いのです。

 話を元に戻しますが、友愛会は高野博士の研究を受けて、生活賃金の要求を主張します。これがおそらく、イデオローグ的な意味で近代日本の生活賃金思想の源流です。この大事な点について書き落としました。痛恨の極みです。もちろん、これ以前から賃上げストはありましたし、生活保証を求める要求は見られるのですが、どれも個々の事例にとどまり、大きな流れにはならなかったようです。

 統計はモデル家族を作ろうとします。つまり、ある種の「標準」です。日本の場合、最低生活の考え方が貧困線というところだけでとどまらず、生活レベルを考慮して段階ごとに貧困線を作った人がいました。安藤政吉といいます。彼は元々、東京市で統計をやりつつ独学で研究を続け、後に労働科学研究所に移り、戦時中に能率連合会に移籍します。戦時中には思想的にかなりの中心人物です。安藤の書いた『最低賃金の基礎的研究』はある時期まで生活研究の古典的存在でした(今もそうかな)。安藤については実は中川清先生が『日本都市の生活変動』の第12章に「標準生活の模索と新中間層―安藤政吉論」というとても面白い論文を書かれています。この本は大分前に読んでいたにもかかわらず、論文を書いたときにはすっかり忘れていて、引いていません。こんな素晴らしい論文を忘れているとはまったく情けない限りです。

 安藤の本を生活指導であると昔、小池先生から御伺いしたことがありますが、中川先生のご研究も基本的には「あるべき生活」という描き方で同じ線を強調されています。もっとも、安藤の本を読めば、誰でもそう思うでしょう。もうちょっと学術的な言い方をすれば、規範的性格を見出すことは難しくないだろう、ってな感じでしょうか。

 私がこんな問題を書いたのは、何も酔狂に戦前の話をしたかっただけではなく、戦後日本がかなり戦時期の議論を引き継いでいることを指摘したかったのです。戦後の日本は福祉国家化していくわけですが、そのときの重要なメルクマールは、社会政策の対象者層をどう広げたのか、という点だと考えています。当然、そのことも視野に収めていました。ご存知のように、一本の貧困線はその引き方が難しいことは当然ですが、やっぱり貧乏ということを考えています。ところが、安藤のような発想をすると、対象は貧困者層から全国民に拡大させることが出来るのです。この点で安藤の議論は思想的な先駆性が認められるのです。

 また、論文の中にはいわゆる右肩上がりの賃金を戦時賃金統制のなかで厚生省が作り出したことを指摘しました。1950年代から1960年代にかけての年功賃金論の議論の基礎データとなったのは、一時点の賃金分布です。厚生省の役人はこれをライフサイクルに読み替え、戦後の年功賃金論の先駆を作り出したのです。個人の賃金カーブをみるためには、その人の賃金キャリアを見るべきです。しかし、もし終身雇用のような状況が仮定されれば、一時点の賃金分布を個人の賃金キャリアに代替する読み方は説得力を持つのです。

 厚生省の役人はこの賃金カーブの読み方を「社会政策的賃金」と読んでいました。すなわち、明らかな政策的意図が込められたのです。個票データの分布はデータ収集によって動きませんが、それをどう解釈するかという局面、端的に言うと、どうやって方程式の線を引くかはある程度、恣意的に出来るわけです。ただし、このときの対象はあくまで製造業従事者、しかも現業者(ブルーカラー)だけです。

 ちなみに、戦時賃金統制のときに、本格的にパンチカードが使われました。ひょっとしたら、人事労務管理史的には意外とこのときの経験が大きいかもしれませんね。日本ではIBMのパンチカードを大企業が利用し始めるのは1950年代前半ですが、そのとき、こういう事務上の戦時経験がどう活きたか、興味深いテーマです。
 私がコントを勉強している途中、日本社会学会の例会があった。勿論、例会は何度もあったが、覚えているのが一回だけある。会場は、何時ものように、東大の「三四郎の池」の上にある山上会議所(山上御殿)で、その日の報告者は、遠藤隆吉先生であった。先生は、明治七年の生れで、戸田先生の大先輩に当っている。先生が加藤光治先生と知っておられたので、関東大震災の直後、加藤先生は、私に社会学をお勧めになったのである。しかし、その日の遠藤先生の研究報告は、どちらかと言うと、雑談に近いもので、先生御自身、まだ五十五歳ぐらいであったのに、現役というお気持ちを全く失っておられたようであった。雑談に近い「研究報告」が終って、本当の雑談が始まってから、先生は、何をお考えになったのか、誰に言うともなく、「最近は評判が悪いけれども、昔の綜合社会学という奴、あれはあれで便利だったな」と呟いた。その途端に、居合せた会員は、ドッと笑った。その笑いには、世捨人のようなポーズの先生への憐れみが含まれていた。先生も、仕方なさそうに、みんなの笑いに加わって、やがて、研究会は散会になった。
 念のために言えば、綜合社会学というのは、コントに始まる十九世紀風の社会学のことで、経済、政治、宗教、文化など一切の社会現象の包括的研究を目指し、同時に、壮大な歴史哲学的ヴィジョンを持っている。しかし、経済、政治、宗教、文化などの専門的研究が進歩し、それぞれ独立の科学になるにしたがって、そういう包括的研究の成立が困難になって来る。そこから、前に触れたジンメルのように、社会現象に「一本の新しい線」を引くことによって、つまり、或る新しい見地から抽象を加えることによって、社会学固有の対象を作り出そうという試みが始まった。その代表的なものが、形式社会学と称せられるものである。それが初めて生れたのは、前世紀末のドイツであったが、それが勢よく復活したのは、ヴァイマル時代のドイツであった。あの研究会の以前から、ドイツの形式社会学が日本に輸入されていて、それが多くの社会学者たちの常識になっていた。最近流行の表現を用いれば、それがT・S・クーンの謂わゆる「パラダイム」に似たものになっていた。職業社会学者の間では、綜合社会学は嘲笑されねばならぬものであり、形式社会学だけが方法論的根拠を持つものであった。しかし、研究会の出席者の顔触れを見れば、失礼ながら、綜合社会学の代表的学説をキチンと勉強した上で、その命数が尽きたことを知っている人はいなかったし、また、形式社会学の方法論を十分に研究した上で、それを支持している人もいなかった。ただ、一方を嘲笑し、他方を支持するという作法を守っていたのである。それを守ることが、職業的社会学者であるための条件なのであった。もし誰かが、「どうして、綜合社会学は便利だとおっしゃるのですか」と本気で質問したら、そして、遠藤先生が本気でお答えになったら、私たちは、誰も責任を取らないで済む作法の世界から一歩踏み出すことが出来たのであろう。本当は、綜合社会学の最初の体系を作ったコントを勉強している私こそ、真先に質問する義務があったのであろう。しかし、その私も、黙って、小さく笑っていた。
 昭和四十六年、私は日本社会学会を退会した。高等学校入学と同時に入会したのであるから、四十六年間、会員であったことになる。入会した頃は、会員が非常に少い、小さな学会であった。日本中を見渡しても、社会学の講義は極めて少かった。退会する頃の会員数は、約千二百名。どの大学にも、社会学の講義がある。敗戦を境として、社会学は大きな発展を遂げたのである。社会学と限らず、或る学問が発展するという場合、通常、研究者の数が増加すること、彼らが研究や授業によって生計が立てられること、学会が設立され、機関誌の部数が殖えること、著書や論文の生産が増加すること、読者や学生という消費者が増加すること・・・・・・が含まれている。それによって、現実の社会とは別に、その学問の生産と消費とが行われる独立の封鎖的な領域が出来上り、その領域の内部にだけ通用する常識―作法、公理―が生れる。千二百名の会員のうち、千名が社会学を講じているとし、会員一名が学生百名を相手にしているとすると、学生は十万名になる。彼らの間だけで、生産と消費とが立派に成り立つであろう。学問が別世界のものになる。これに反して、その学問がまだあまり発展しない間は、同じ研究会にしても、少数の研究者のほかに、多くの実務家(官僚、企業家、運動家・・・・・・)が加わって、発言の権利を持っていたし、また、機関誌が発刊される前は、論文は一般雑誌に発表されて、広く外部の人々の眼に触れ、その人々によってテストされるのが普通であった。要するに、方言のような常識―作法、公理―の成立が困難であった。学問によって一概に言うことは出来ないけれども、一つの学問が、前に見たような意味で発展を遂げると、とかく、現実の社会から隔離された封鎖的な世界が生れるようになり、ゴツゴツした社会の現実によってテストされることもなく、また、社会の福祉を約束することもなくなる。それを避けるのには、それぞれの作法を持つ封鎖的諸領域の間の接触―流行のinterdisciplinary―ということより、現実の問題の解決を職業とする実務家との真面目な接触の方が大切であるように思われる。

清水幾太郎『わが人生の断片 上』文藝春秋、1975年、275-278頁

 清水幾太郎先生はかつての社会学の大家である。清水先生には二つの自伝がある。若いときに書いた『私の読書と人生』と晩年に書かれた『わが人生の断片』だ。私は清水幾太郎が好きで、いくつかの本を集めてきた。とにかく、本物の江戸っ子で文章が美しい。その美しさゆえに、いつも文章に余白があった。その余白はエッセイの中では無類の魅力を放っているけれども、研究書のときには、ある種の厳密性を犠牲にしているという意味で危険な部分もあった。それは引用文中に出てくるように、清水先生がコントを勉強され、綜合社会学に思い入れを持たれていたこととも密接に関係しているように思われる(清水先生の最後の本は岩波新書のコントを書いたものだが、残念なことに私は未読である)。というような事情で、何度も読んで、とても大切なことが書かれているように思うのだが、何をどうまとめていいのか、よく分からない。それで全部引用した(ちなみに、この続きにも「作法」に関する効果的なエピソードがある)。
 裏話的なことに注目するならば、清水幾太郎は進歩的文化人から華麗に転向し、保守派の論客となった。ただし、清水は転向を宣言し、その上で『倫理学ノート』を書いた。しかし、一部には、たとえば福田恒存は、彼のその態度を許さなかったといわれる(どこかで読んだ記憶があるのは、清水と和解するのは読者を裏切ることになるということだったらしい。彼らは元々は友人同士であった)。同時代的に見ると、言っていることの首尾一貫性は大事かもしれないけれども、40年以上経つと、そんなことはつまらない問題に見える。この引用文の後のエピソードは、史学会で羽仁五郎が蓑田胸喜の質問に答えるものだが、正にこの二人の立場はまったく正反対であった。イデオロギーが異なるが故に、真摯な態度で質問した蓑田に対する羽仁の要領の得ない答え、周囲の反応をビビッドに描いている。そういう二人を舞台に上げたからこそというべきか、清水先生はその根底にある、立場を超えて学者の世界のあり方を批判的に観察している。イデオロギーより大事なことを語っているのである。
 今の社会学を研究している人は、清水幾太郎の本なんかはもう、読まないのかな。
 1950年代の最大の謎はなぜ大河内先生によって社会政策が初めて社会科学として確立した、というような見解が成立したのか、ということである。いわゆる、大河内理論とは「社会政策とは総資本による総労働の保全政策である」というものだ。ここからある意味、社会政策=労働政策、という中西先生の定義に繋がっていくのだろう。

 今まで誰もあまり注目してこなかったが、大河内理論は新しい社会政策というより、もっとも古典的な社会政策の焼き直しという側面が強かったのではないかと私は考えている。日本において学問としての「社会政策」は金井延によるシュタイン説の輸入から始まる。シュタインは言うまでもなく、マルクスの先駆者の一人で、1840年代にフランスにおける各種の社会運動を観察し、やがてドイツに起り得べきものとして「社会問題」を指摘した人である。簡単に言えば、労働と資本の対立としての階級問題である。金井は社会政策として①階級問題への対応としての経済政策、②社会改良主義の二つを掲げたのである。シュタイン自身は日本では憲法視察に行った伊藤博文を温かく受け入れたことで知られる。その後、日本からの訪問者が次々訪ねる「シュタイン詣」に向かうほどだった。そんななかでシュタインを訪ねた金井は、彼から日本人は皆、憲法の関連で私を訪ねてくるが、私の専門は経済学であり、そのことを聞きに来たお前は珍しいという趣旨のことを言われる。提唱者のシュタインの定義からして、社会政策は初めから経済政策の応用分野だったのである。

 問題は経済政策と社会改良がどのような有機的な関連を持っているのか、ということであるが、おそらく、あまり関係ないのだろう。大河内先生は、ある意味では経済政策としての社会政策というもっともプリミティブな見解を補強し直したのである。すなわち、大河内先生は革新者であるよりも、もっとも正統な金井延の継承者であったといえる。大河内先生といえば『独逸社会政策思想史』で知られており、あるいは「社会政策の形而上学:エドゥアルト・ハイマンの社会政策論を評す」が重視されている。しかし、忘れられた、あるいは、あの平賀粛学事件をめぐって封印された、一つの重大な事実がある。すなわち、河合栄治郎の金井延研究の資料を準備したのは大河内先生であったということである。つまり、大河内先生は社会政策輸入初期の金井先生のご研究をその当時、もっとも丁寧に分析した研究者ということになる。結果的にそのことが知らず識らずのうちに大河内先生に影響を与えたのではないかと思う。

 大正期の社会政策学会で問題になったのは、②の社会改良主義を学会全体の方針として堅持すべきかどうか、ということである。要するに、河上肇を代表として、いわゆるマルクスに共感する人たちが増えてきて、社会改良派は守旧派ということになってしまった。河合先生は社会政策学会にはご熱心ではなかったけれども、こういう流れの中で、②の問題、すなわち、社会政策の思想面の追及を行おうとした方である。大河内先生からみると、河合先生や福田徳三先生の生存権といった②の思想研究は魅力的ではあるけれども、客観的な社会科学足りえないのではないか、という問題意識をもたれたのだと思う(『社会政策四十年』61-62頁)。しかし、二人の学問的な方向が別ベクトルを向いていたとしても、そもそも河合・大河内はともに正統な金井社会政策論の継承者であったといえよう。

 言うまでもなく、河合先生については例の平賀粛学以来、どのような形で評価するにせよ、事件をめぐる各人の人間性ということが大きなしこりになってしまった。河合先生の継承者は、私の知る限り、民社党のブレインだった関嘉彦先生や防衛大学校長を務めた猪木正道先生がいらっしゃるが、遺志を引き継いだ彼らも運動・思想として社民主義を決して日本に根付かせることができたとは言い難い。21世紀になって河合栄治郎の再評価がボツボツと出てきているが、皆、政治の学問分野(政治史、思想史、政治学等)に流れてしまい、社会政策の領域では断絶したままである。

 1940年代までの社会政策研究は様々な水脈があり、河合先生は亡くなっていたものの、1950年代にはまだご存命の有力な先生方がいらしたにもかかわらず、なぜ、大河内先生ばかりに議論が収斂していったのだろう。これは一つの謎である。その一つの答えは、マルクス、特に講座派の包括性であったと考えられる。したがって、マルクスをめぐる解釈論争に力を注いだ人が多くいた。それと他の一つは、立場の違いを超えて、もう理論よりも現実を知りたい、ということで現状調査や歴史研究へと重点がシフトしたことである。
 もう、半世紀以上も前の話だが、戦後、社会政策研究は労働問題研究へと転換していったといわれている。その直接のきっかけとなったのは、いわゆる社会政策本質論争であった。社会政策本質論争の意義を学説史上にどのように位置づけるかという問題はあるけれども、1940年代後半から50年代にかけてのこの論争が大きな流れを作ったことに異論がある人はいないだろう。

 論争の主役は大河内一男先生、というより、いわゆる大河内理論だが、大河内先生自身は戦前から既に社会政策についての論争を行っていた。現時点から振り返ってみると、大河内社会政策論が批判すべき対象としてではあっても、あれほどまでに輝きを放ったのは、戦争が終わった後で社会科学としてマルクスの後光が差した、ある一時代の特殊現象であったようにしか見えない。もし、この論争を振り返りたいのならば、今でも中西洋『日本における「社会政策」「労働問題」研究』東大出版会、を紐解かれるのがよいだろう。実は中西先生の本では、高田保馬先生との論争などは全く検討されていない。高田-大河内論争こそは真に重要な論争だと私は考えているが、言及されることはあっても、中西先生が他の論争を扱ったような形で丁寧に解析したものはない。ただ、神代和欣先生が退官なさった前後の頃の文章を読んだときに、近経の先駆者としての高田先生に注目してなぜこの論争が展開しなかったのかという問題提起をされていて重要だなと思ったのだが、肝心の論文をどこかにしまってしまったため、細かいことが分からなくなってしまった。ちなみに、この世代で本質論争にまったくタッチしていないのは小池先生と神代先生の二人である。

 稲葉さんは中西先生があまり取り上げられていないことを折に触れて述べており、たしかに、そういう傾向もあるのかもしれないとも思う。しかし、必ずしも直接的に言及されることはなくとも、稲葉さんも含めてある世代以後の東大経済出身者に対する中西先生のインパクトは計り知れないものがあると思う(多分、私の五つ以上上の人たちくらいまで)。たとえば、調査研究の原点を氏原先生に置く学説史理解の方法があるが、私はこれは中西先生の創作だと思っている。「制度派労働研究の現代的価値」の中で佐口先生が生活分野に重きを置く貧困調査に注目している背景には、1950年代に社研調査が労働の現場研究と貧困研究に分かれていったという事実認識がある。言うまでもなく、その後、貧困研究の流れを発展させたのは江口英一先生とその門下生である。佐口先生もさらっと一行書いているけれども、小池先生やそのすぐ下の山本先生の世代まではいわゆる労働問題研究者たちの間で「生活」が意識されていた。あまり知られていないような気もするが、小池先生は実際に貧困調査をなさっている。

 いわゆる戦後直後の社研調査の系譜を貧困調査という点から辿っていけば、ブースやロウントリィーを持ち出すまでもなく、日本にだって古い伝統がある。学問的には主に二つの系譜である。一つは工場法の予備調査であったいわゆる「職工事情」である。これには窪田静太郎の盟友、桑田熊蔵が参加している。もう一つは、高野岩三郎に端を発する家計調査である。高野はILO労働代表事件で東大を辞めた後、大原社研に移り、そこで調査研究の伝統を作る。若き日の宇野弘蔵も調査に携わっていたのは有名な話だ。他にもいわゆる社会調査の伝統がある。実は江口一門は後に自分たちの先駆者に敬意を示し、『日本社会調査の水脈』という本を書いている(ただ、私はあまりこの本が全体としてよいとは思わない。玉石混淆である)。戦後編については岩田正美先生が編集をなさった『戦後日本の家計調査』があって連綿と続いている。なお、戦前に関してさらに本格的に知りたい人には、小島勝治の著作及び多田吉三『日本家計研究史』がある。ちなみに、日本の研究にも大いなる影響を与えたウェブ夫妻だって文句なしの社会調査の先駆者である。以上のような流れを見ると、取り立てて氏原先生を調査研究の元祖とする必要はないように思う。

 稲葉さんは氏原山脈の研究者は英国の影響が大きく、米国の影響は受けていないというのだが、私はにわかに信じがたい見解だと思っている。たしかに、氏原先生や小池先生は1950年代当時、ダンロップの影響を必ずしも受けていないが、氏原先生に近い仁田道夫先生、法政の萩原進先生、同志社の石田光男先生、佐口先生といった1970年代以降の研究者たちはアメリカ制度学派(ウィスコンシン・スクール)を潜り抜けている。事実、仁田先生は労使関係の淵源をウェブ夫妻とコモンズにおいているし(『変化のなかの雇用システム』185頁)、萩原先生はコーフマンの本の書評において自分自身をウィスコンシン学派の一員と規定されている。また、佐口先生の『産業民主主義の前提』にしろ、石田先生の『仕事の社会科学』にしろ、正面からダンロップをどう批判的に受容するかという問題意識で貫かれている。ただし、社会政策との関連でいえば、政策と労使関係研究(ないし制度派労働研究)のブリッジをどう考えるか、という点についてはなかなか共通了解がない。そもそも、労使関係研究自体がかなり職人的な領域であって、各自が一家言があるどころではなく、それぞれが自分なりのやり方で自分のスタイルを築いていくため、目に見える形で共通了解を示すことが難しい。にもかかわらず、各自が高度なスタイルを持っている場合が多いがゆえに、さらに、他分野とのブリッジが困難になっている。この分野は何でも自由に出来るので、一見、参入障壁が低そうに見えるのだが、実はかなり(見えない)参入障壁が高いことが愚鈍な私にもようやく分かってきた。
 佐口先生の「制度派労働研究の現代的価値」『社会政策』創刊号、2008年を改めて読み返して、いろいろと感慨深かった。昨年こそ博士論文を書くので出席できなかったが、通算で4,5年は佐口先生のゼミに出席していたし、折に触れて話を聞く機会もあったので、感想はいろいろある。勝手なことを言えば、この論文は編み込み式で行間にかなり深みがある箇所が結構あって、東大関係者以外には分かりにくいのではないかと思う。完全に余談だが、稲葉振一郎さんが濱口先生のエントリに反応され、その後、労使関係論を書くにあたってこの論文に当られたことは、自然と理解できる気がする。と書いたものの、本音を言うと、最初はすごく意外だった。東大経済の大学院の内輪話で言えば、私は直接、お会いしたこともないけれども、稲葉さんのやや遠い後輩に当るわけだが、稲葉さんはいわゆる労働プロパー(ないし、社会政策・労働問題研究)から離れていった人だと理解していたからだ。

 さて、本題の佐口論文だが、注目したいのは制度派労働研究に欠落していた理論領域に「雇用制度」を提案しようと試みていることである。実は佐口先生の雇用制度の理論的な意味を理解するのは難しい。まず、原理的に考えれば、雇用関係は雇主と被用者の一対一の関係であり、ここから経営者と労働者の関係に行くのには距離がある。現代の雇用は経営者に雇われるのではなく、企業に雇われるのである。実務上は人事担当者ということになるだろう。実は、この間の微妙な距離に、佐口先生が気づいていないわけがない。ちゃんと「経営者」と「経営」を分けて使っている。したがって、「制度」派という用語には、個人の問題を扱っているわけではないという強い含意が込められているのである。だからこそ「雇用関係」という言葉を使わなかったのではないかと考えられる。

 私の知る限り、90年代後半以降の東大経済では森建資先生の『雇用関係の生成』が絶大なる存在感を持っている。少なくとも東大大学院(経済)出身者にとって森先生は卓絶した存在だった。しかし、森「雇用関係」論は必ずしも影響を与えたとはいえない。『雇用関係の生成』を引いたものはいくつかあるけれども、それを掘り下げたなと私が感じたものは現在のところ、一つもない。このような状況に陥っている原因の一端は、森先生のバックグラウンドにあるコモンローの議論が普通の人には馴染みがないため、なかなか理解できないという点にある。正直に言うと、私も2年くらいよく分からなかったし、今でもlawの意味は原理的な部分でよく分からない。

 佐口論文に戻って言うと、この論文における雇用制度論の核は経営の中での指揮命令系統を遵守させるために、生活を安定させなければならないというロジックである。しかし、指揮命令にしても生活保障にしても森雇用関係論で既に触れられている論点である。つまり、何れも雇主と被用者の一対一の雇用関係でも成立する話なのである。したがって、組織に雇われることとは直接に結びつかない。いや、むしろ、組織における雇用と一対一の雇用をどうブリッジするかは実はまだ誰も解いていない問題なのである。

 ここが核心的な論点であり、やや弱いところであるようにも思える。本来、生活規範との関連で対比されるべき概念は、一対一の雇用と組織における雇用ではなく、雇用と請負である。雇用と請負の違いは森先生だけではなく、マースデン先生も書いているし、一般的に理解されていることだろう(多分、少なくとも研究者の間では)。もちろん、この事情を佐口先生も十分に承知しており、だからこそ、請負制度の下でのブルーカラーという命題が出てくるのである(このあたりは完全にマニアックな感じである)。なお、いうまでもなく、労働問題研究では氏原テーゼと呼ばれる(日本経済史では兵藤テーゼと思い込まれている)「間接管理から直接管理へ」という命題がこの議論の背景にある。ただし、このテーゼと同じ現象自体は日本以外(たとえば、ドイツ)でも発見されてる。私は紡績業を研究してきたので、日本では歴史的にブルーカラーが請負的なものから雇用へと移行してきたという考えには賛成しない。なお、私の見解とは別に、研究史上でも日本において間接管理から直接管理への移行が本当に起ったのかどうかについては論争があり、いまだに決着がついていないのである。

 組織における雇用と一対一の雇用の関係を詰めていくことが出来れば、制度派労働研究の本流である労使関係論だけでなく、経営学などとの対話(あるいは接続)も可能になるだろう。その意味では議論の当否はともかく、雇用制度論の意図はよく分かる。そのためには今後とも「雇用」を掘り下げて考える必要があるだろう。
 細井が描くように、いわゆる「女工哀史」的な歴史が紡績業になかったわけではない。おそらく、そのイメージを決定的にしたのは戦後の近江絹糸争議であろう。後世の人は紡績会社というのは皆、ああいう風に労務管理をしていたのだろうと思ってしまうかもしれないが、近江絹糸の争議が起こった1950年代当時、紡績業界全体は、というより、業界を動かす力を持っていた会社のお偉方は「ああいう管理は困ったことだ」と思っていた。実際の処遇はどうだったのだろう?

 細井は面白いキャリアの持ち主で、数々の紡績工場を転々としている(なお、彼は若くして亡くなったので、実際に務めたのは大正時代である)。やはり、職工として優秀であったらしく、結婚奨励を受けていたという。細井が言うには、有力な仲間6人が同じように次々結婚させられ、その結果若くして世帯もちになったため、貧乏になってしまった。当時の自分は、小説にかぶれて、クリスチャン・ホームを夢見ていたから、応じなかったところ、割の悪い方へと回されたとのことである。

 細井たちに結婚を勧めた人物は「某部長の工務係へ昇進する足場」とするべく、彼らに結婚を推奨していたようだ。言うまでもなく、結婚は優秀な職工の引き留め策だが、ここで注目していただきたいのは「工務係への昇進」である。細井は何気なく書いているが、これはホワイトカラーへの昇進と考えていいだろう。おそらく、「部長」という呼称は「織布部」なり「紡績部」の職工のトップを意味すると推測されるのである。実は、私が研究した富士紡もそうだが、紡績業では割と職工から職員への登用があった。ここが面白い。細井もひとところで職工を続けていれば、現場トップに登りつめる可能性もあったかもしれないのである。

 ちなみに、細井の奥さんも実は紡績職工で、『女工哀史』のなかにも名前が出てくるが、「としを」さんという。戦後に『わたしの「女工哀史」』という回想録を出されている。また、中村政則先生の『労働者と農民』(小学館ライブラリー)にも登場する。彼女のことは何れ紹介するかもしないが、面白いのは自分はどこでも紡績職工として食っていけるという意識を持っていたことである。実際、彼女は『女工哀史』を書いていた頃の細井を食べさせていたのだ。逆に言うと、それだけ熟練工は需要があったと見てよい。

 今の方はご存じないかもしれないが、昔、山田盛太郎というエライ先生がいらっしゃって『日本資本主義分析』(岩波文庫)という本を書き、その中で紡績女工の賃金を「印度以下的賃金」と表現し、それが人口に膾炙していた。かの有名な大河内(一男)先生の「出稼ぎ型」論もこの議論を踏まえている。山田先生の表現自体、おそらく、政治的意図が含まれていたと思うが、長い間、多くの人に実際のこととして信じられてきた。最近の研究では必ずしも簡単にそんなこと言えないというのが研究者の間の共通了解になってきている。繊維産業の賃金についてはハンター先生の『日本の工業化と女性労働』の第6章をまず出発点にしようじゃないか、と私は考えている。あまり高井としをさんのようなエピソード的なことを書いても仕方ありませんが、紡績女工の中には、それなりの賃金を貰っていた人がいた、ということは指摘できる。

 図式的に言うと、一部の優良大企業が先進的な労務管理を実践し、その余裕がないところは、そういう水準に満たない管理をしていたと考えてよいだろう。とはいうものの、実際には、優良な大企業であっても、現在から見るときわめてひどい措置を、意地悪な管理者が局所的に行っていたということはあった。たとえば、衆人の目前で裸にして体罰を加えたり(裸にすること自体、体罰だが)、手紙の検閲をしたり、といったことなどだ。ただし、社会的な規範自体が現在とは違うので、他の個別の事例は相対的に見る必要もある。でも、意地悪な上司がいるという点についていえば、当時の紡績業に限らずおそらくは現代の会社でも見られる現象ともいる。逆に、多少規模の小さい企業の労務管理であっても、家族主義的な管理を行っていたところもあるだろう。ハンター先生の研究の重要な含意は、優良大企業のイメージだけでは、紡績業の全体を捉えられない、特に中小企業は多様である、ということであった。その構造は基本的に戦後まで変わらなかったのである。
私が紡績業の労務管理史を研究してきたとお話しすると、多くの人が『女工哀史』ですねという形で話題を広げて下さろうとする。その答えはイエスであり、ノーである。残念ながら、誤解があることがかなり多いのだ。その誤解を確認しないことには始まらない。

まず、細井和喜蔵の『女工哀史』(岩波文庫)を読む際、記述が伝聞なのか、直接なのか、という点に気をつけなければならない。結論から言うと、細井自身が経験したこと、ないし、自分の経験をもとに書いた部分はかなり限定付きで書いてあり、面白い論点が沢山、含まれているのである。逆に、自分自身が職工として働く以前の歴史的な記述については、表現上の誇張が多すぎる嫌いがある。

こうしたことを踏まえて『女工哀史』を読んでみると、必ずしも女工の悲哀ばかりを書き連ねているわけではないことに気づく。たとえば、工場監督官(今で言う労働基準監督官)を批判するくだりでは、現場を知っているのは労働者だと啖呵を切って、だからこそ、工場法規の厳守は組合の監視によって徹底しなければならないと書いている(260ページ)。実際の管理技術という観点から考えても、社外の監督者や会社組織全体よりも現場で監督させるのは一理ある。細井の言うことはある意味では現代でも通用する。エンジニアや工場外のお偉いさんは必ずしも現場を知悉しているわけではないし、時間的制約も含めて、なかなか全部を知るのは無理だろう。別に組合でなくてもいいが、現場の労働者の組織が監督するのは理にかなっている。

私が細井の熟練工としてのプライドを感じるのは標準動作研究についての記述である。結論自体はこんなに標準化された作業をすると「工匠の創造」が失われるという疎外論的なものだが、圧巻なのは実際の標準作業の説明である。こんなに専門的な内容を図も含めて3頁程度によくシンプルにまとめている。ここを読めば、標準動作研究が主に個別作業の無駄を排すことと、作業間の無駄な動きと時間を省くことの二つに重点があったことがよく分かる。細井自身は「筆者は織布の経験工」であって、「紡績の方は「綛場」と「ミュール精紡」と「試験方」をやった位であまり全般にわたって精通していない」という断りをしている(37頁)。標準動作で取り上げているのは当然、織布部の一例である。

ちなみに、私がお話を伺っていてもっとも多い誤解は『あゝ野麦峠』との混同であった。『女工哀史』は『あゝ野麦峠』ではない。両者が違うという意味は、まず何より、紡績と製糸はもの造りの工程が全く異なるということに尽きる。また、日本経済史では圧倒的に製糸業研究が盛んであったため、製糸業の文脈で紡績業を捉えようとする方がまだいらっしゃった。もっとも、最近はジャネット・ハンターさんの『日本の工業化と女性労働―戦前期の繊維産業』の翻訳が出たので、今後はこれを読んだ方はそういう誤解はなさらないだろう。

なお、『あゝ野麦峠』を知っている方は、映画が大女優・大竹しのぶの代表作ということもあって、沢山いらっしゃるのだが、『女工哀史』はこれとは別の本である。ただ、『あゝ野麦峠』のサブタイトルは「ある製糸工女哀史」となっている。細井は熟練工であり、プロレタリア作家であったが、山本茂美はルポライターである。

ただ、二つが違うといっても、「女工哀史」という言葉は細井の本を離れて、やや一般名詞化しているのも事実である。では、実際にはどうだったのだろうか?