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次は森先生の雇用関係論について書きたいと思っていたのだが、森先生の議論はいきなり読んでも決して分かりやすいものではない。必ずしも叙述が難しいというのではなく、森先生の考え方がかなり独創的な枠組みによって書かれていること、また、イギリス法の考え方に馴染みが薄いこと、この二つが原因だろう。まずは周辺の部分から少しずつお話しておこう。

普通、西洋の法は英米法と大陸法という分類がされている。単純化して言うと、19世紀前半のヨーロッパ大陸はローマ法の継受を行い,ローマ法典の中にすべての法が書き込まれているという考え方であった。これに対して、イングランドではローマ法を継受せず、ゲルマン法の伝統を引き継いだために、法がすべて成文化されているとは考えられていなかった。実際、イギリスには今も成文憲法がない。こうした二つの特徴を対照的に表現する言葉がある。すなわち、「法による支配」と「法の支配」である。前者が大陸法、後者が英米法の考え方である。

この性格の違いから法律家の仕事の前提も大きく異なることになった。もちろん、法律家である以上、どちらにとっても先例は重要だ。しかし、大陸の法律家たちがローマ法の中にそれを探すのに対し、イギリスの法律家たちは判例や法律書の中にまず、既に発見された法がないか探し、見つからない場合は新たに事例の中に法を探したのである。といっても、これはかなりカリチュアライズ化された解釈で、実際には大陸の法律家たちも判例を重視しないで、ローマ法だけを重視したというわけではないだろう。

森先生のお仕事は、したがって、法律書や判例を中心にして、雇用関係の法(law=法則)がどのようにイギリスで発見されてきたかを明らかにしたものといえる。私の解釈では、雇用関係の生成は雇用関係の法の発見史である。そういう発見のプロセスを見ることによって、どのように「雇用関係の法」が形作られていったのかを追ったのである。

その際、注意しておきたいのは、慣習及び慣行はまだ法ではないということだ。精確に言えば、慣習の中に法が隠されている可能性はある。しかし、慣習そのものを全部、法というわけにはいかない。あえて分かりやすく言えば、慣習から抽出したエッセンスは(慣習)法と呼べるだろう。もうちょっと難しく言えば、慣習は法源たりうるが、法そのものではない、というところだろうか。もちろん、法の判定の仕方は議論の余地があり、だからこそ、解釈をめぐって、法律書などで議論が展開されるわけである。しかし、そうした議論は、こうした法の発見という伝統を共有した上で、行われていたのである。

『雇用関係の生成』を引きながら、雇用関係と雇用慣行を区別していない人は、「要するに、分かっていないのだ」と自動的に判定することにしている。

と書いて、私こそ間違っていたら、かなりショックだが(笑)。
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