論文を書き終えたら、前のテーマについての関心が一時的にですが、急速に萎んでしまいました(笑)。本当は一橋スクールの社会政策論なんかを勉強したことを整理しておきたかったんだけど、それはまたの機会にしましょう。

さて、そんなこんなで、ボーっとしている間に、濱口先生の新著『新しい労働社会』が出版されましたね。一昨日からゆっくり途切れ途切れ読んでみました。知らないことも書いてあって、勉強にもなったりました。ただ、大石玄さんの書評では「読みやすいし、分かりやすい」と評価されていたんですが、私は全体の感想として、難しいなと感じました。しかし、今日は論点を絞って、第4章で提案されていることについての反対意見を書きたいと思います。

私はそもそも労働組合の形態としてユニオン・ショップに反対です。理想主義と言われようが、原理主義といわれようが、労働組合の理想は労働者の自主的活動にあると考えているからです。ただし、その組織形態が産業別だろうが、職種別だろうが、企業別だろうが、何れでも構いません。それは経済体制(ないし産業構造)によって適切な形態は異なると考えるからです。

とはいえ、もう少し実践的な観点から議論しないと話し合う余地が生まれないのでプラクティカルな面を述べます。労せず組合員を確保できるのは、組織化活動という貴重な教育機会を放棄することを意味します。組織化活動を教育機会というと、違和感があるかもしれません。実際、組織化活動のやり方もそれぞれ違うでしょう。しかし、ここでは、誰かになぜ労働組合が必要か喋ることが労働組合のアイデンティティを確認することに繋がるということを指摘しておきたいと思います。組合員自身が労働組合の必要を自ら認識する意義があるのです。

周知のように、日本の労働組合には根本的に組合活動の停滞、組織率の低下という問題が存在しています(日本だけに限りませんが)。その中で後継者をどのように育てていくかという問題があります。もちろん、それにはしかるべき教科書の必要性などいろいろなことが指摘できるでしょう。また、組織化の経験だけで十分などというつもりもありません。しかし、貴重な機会の一つであることは間違いありません。私はUIゼンセン同盟の強さの一つは、組織化を重視する方針にあると思っています。

誤解しないでいただきたいのは、非正規労働者を組織化すべきという結論自体は私も同じです。ただし、私は断然、中村圭介流の古風な産業民主主義を支持します。すなわち、非正規労働者を組織することが全員の利益になるのだ、という認識を普及すべきだと考えます。

私が問題提起したいのは、いったい、新しい労働者組織を作って、誰が運用していくのか?ということです。言い換えれば、リーダーをどうやって育てるのか?ということです。現実的には、濱口案が実現すれば、既存の組合のリーダーの力が必要になるはずですが、何れにせよ労働者代表組織観を変えてもらわなければならない。それはどうやってやるのか?ということです。

それから、戦時期についての位置づけは、私と濱口先生では少し違います。実は、戦争が始まるまでは、言われるほど工職の壁は決定的なものではなかったと思っています。たしかに、職員層と工員層という形で括って比較すると、格差がありました。しかし、そこに注目すると、問題の本質を見誤ります。戦時統制で問題になったのは工員層内格差です。処遇面だって下層職員より熟練工の方がよかったと思いますよ。逆に、工員層と職員層の境界領域は相当にグレーな部分があった。だからこそ、統制が始まった初期に工員と職員の統制をあまりバラバラにやるなという苦情が何度も出ているのです。

日本では戦前から熟練工には熟練工の発言権がある程度あったと思います。実は資料的に残らないのでなかなか明らかに出来ないのですが、戦前には重役に機密費が与えられ、そのなかから熟練工への特別報酬を支給することが広くありました。会計上は労務費扱いじゃないでしょうね。そして、しばしば重役から職工に至るまで派閥が出来ることがありました。そういうのは争議が起こったときに、社内派閥の対立を利用する戦術として表に出てきます。そういう事情ですから、実際に本当のトップ熟練工がどれだけ豊かであったかはよくわからないのです。

ついでに言っておきますが、時間給(時給の意味)から月給への移行というのは誤りです。そもそも、戦前の時間給(時間に応じて払われる賃金)の主流は日給であって、時給ではありません。しかし、何より重要なのは請負給です。戦前の賃金制度についてはいろいろ議論があるのですが、もっとも象徴的に理解できるというより、当時の工員月給制の象徴的存在であった万年筆のパイロット社を紹介しましょう。パイロット社は1920年代に既に工員の月給制度を敷いていたので、月給制を普及させたい当局(厚生省の一部)には都合がよかったのでしょう。そのパイロット社における月給制の導入は請負給・日給制から月給制への移行でした。そのときに問題になったのは工員層の格差の縮小、すなわち、熟練工の取り分が減るということでした。歴史的な知識としては、日給と請負給の関係を理解する必要がありますが、それでもあえて象徴的に言いたいのならば、請負給から月給制へ、という方が正確でしょう。出来高給でない職工及び下層職員に限定すれば、日給から月給へといっても大丈夫です。

ただし、重要なことは、厚生省が月給の導入を主導しようしたときに、その政策意図に「社会政策的賃金」という明確な生活保証的な意義があった点です。なぜ、これが重要かといえば、戦後の社会保障ないし福祉国家化との関係を考えるときに、ここに注目することで一つの源流となっているからです。まぁ、それはおいておきましょう。

何れにせよ、私は工職格差を埋めた、産業報国会と企業別組合という位置づけはしません。戦争によって生活危機がかなりの上位の職員層まで及んだこと、それから、高等教育におけるマルクス主義の後光、そういったもので工職混合組合は実現したと推測しています。

以上の理由から、私はラディカルな労働者代表制の確立には反対です。教育は百年の計ですから、今すぐに苦しむ人たちを救うことは出来ないかもしれませんが、中長期的にはそちらの方がよいでしょう。また、短期的にも組合の管理職教育が失敗すれば、意外と効率性もよくない危険があるのです。

というわけで、186ページの挑発にわざと乗ってみました。

久しぶりに書いたので、前はですます調で書いていなかったことを忘れていました。また、そのうちに戻すと思います。
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どうもここのところ、社会政策や社会福祉の研究をダーッと読んでいて、一つの結論に辿り着いた。あまりにも当たり前のことと思われるかもしれないが、岡村重夫は偉大である、ということだ。あまりにも偉大すぎて、敬称をつけるのも白々しい。

社会政策や社会福祉の分野では、独自のディシプリンを発見しようと研究者たちはそれこそ、何十年にもわたって、問題提起を繰り返し、見つからないことに苛立ってきた。そういう試みも実は、1990年秋の北海道大学大会で終わりを告げたように思う。もちろん、個々の研究者は研究を継続させていると思うが、残念ながら、それが一つの潮流になりそうな傾向は感じられない。記録を見ると、1997年の100周年大会はさすがにタイトルは社会政策全体にかかるものだが、一人ひとりの報告は専門的である。2003年の一橋大学での大会が新しい社会政策の構想になっている。一橋の大会には私も参加したはずだが、何が論じられたか記憶にない。そもそも、1990年の時点であっても、社会政策は何かというようなことを議論するのはやや時代遅れなものであったらしい。本質論争の記憶を持った人たちがいなくなれば、そういう議論が消えていくのも仕方ないのかもしれない。

社会福祉研究で、ディシプリンに拘る必要がもっとも要求されたのは1960年代までで、やはりそれは社会政策本質論争の余熱が、社会福祉本質論争を呼び、学問存立の危機の時代であったからである。大変、意地の悪い言い方をして恐縮だが、社会福祉学はその後、専門資格がますます社会の中で定着するなかで、それらを目指す人およびその資格を取得した人を対象としたマーケットを獲得したので、学問内容はともかく、存続の基盤は非常に安定した。社会政策はこのまま消えていく危険もなきにしもあらずだが、社会福祉は専門資格試験というドル箱がなくならない限り、未来永劫、安泰である。しかし、危機の時代こそ、熱っぽい議論は生まれるのかもしれない。そして、その頃の社会福祉研究の代表者の一人に岡村重夫をあげることに異論を唱える人はいないだろう。

1956年の『社会福祉学総論』は固有論を打ち出した古典であろう。数年後に各論が出て、その後、改訂された。しかし、1980年代に入り、『社会福祉原論』が出版されるに際して、絶版になった。私は実は最初の版がもっともよいのではないかと思っている。

その基本的なアイディアは三つの社会事業の類型を作ることから始まる。その類型が社会事業の発展段階に応じて徐々に出てきたと考え、そのすべてに通底するものを社会福祉の本質と捉えようとしたのである。社会事業の発展段階という考え方のうちには、社会進化論の影響や資本主義の発展段階への照応なども意識的に取り込もうという意欲も垣間見えるが、何れにせよ方法的には当時としては斬新だったと思う。ただ、社会福祉の拡大の論理(類型Ⅲ)に至ると分かりにくい。限定された対象者から全国民への拡大がいったいどの合理性ゆえに展開するのか、私にはあまり説得的ではなかった。そこは社会福祉の論理が貫徹せず、思想が飛躍を与えたのだと思う。

しかし、私が言いたいのはそういう具体的な内容ではない。当時の社会福祉研究は社会事業から分派したというか、その流れを引き継いでいた。岡村『社会福祉学総論』のすごいところは、そういう戦前のアメリカの社会事業論を丁寧に取り込み、その成果を十二分に摂取した上で、自分がなおかつ新しいものを作ろうとしたことである。要するに、その心意気がすごい(もちろん、学識も)。そのために、時間軸を使ったのは方法の妙であった。

現在は岡村重夫は岡村理論の提唱者という形で流布しているが、それだけじゃもったいない。ちなみに、私は『社会福祉原論』に出てくる「法律による社会福祉」という括りは大雑把に過ぎるので、賛成しない。
『戦間期日本の社会集団とネットワーク』の問題関心は、デモクラシーが上手に機能するには中間組織の存在が必要なのではないか、ということであった。菅沼隆さんの『被占領期社会福祉分析』の最後のところに、この点で非常に示唆に富む見解が書いてあるので、引用しておきたい。
被占領期に確立した福祉官僚制は、無差別平等原則を基軸にしていたという意味で国民の同意を得ており安定した体制となった。だが、これは<小さな世界>で生活している個人が何らかの福祉の改善のためには<大きな世界>に向けて異議を申し立てざるを得ない体制でもある。手の届きにくい<大きな世界>に生活困窮者が異議申し立てをすることは困難であり、そのような事例は少ない。だが、ときおり発せられる異議申し立ては<大きな世界>と対峙することになり、憲法訴訟に代表されるような裁判闘争という形をとり、勝つか負けるかという対決軸を作り出さざるをえなくなった。その裁判結果が福祉行政のありようを左右するという意味では福祉官僚制の下での福祉政策は不安定な体制であった。社会福祉の基礎構造改革、介護保険など二一世紀を迎えて社会福祉は大きな変革期にあるかのごとくである。しかし、被占領期に形成された枠組みは依然として存続しているといえるのではなかろうか。
もうちょっと補足すると、菅沼さんはその前で「客観的・科学的な無差別平等原則」という表現をさらっと書かれている。「科学」こそがまさに重要なポイントだ。科学がもっている規格化への志向はときに融通のなさという形で現われる。

しかし、それにしても無差別平等原則が国民の同意を得ていたという話にもっていっていいのかどうかは疑問である。やっぱり、そこには憲法の話を一つ媒介にする必要があるんじゃないか。実際、朝日訴訟なんかは生存権が争点だった。

なにはともあれ、菅沼さん自身のご意見はこんな最後の走り書きから理解するのは難しいので、本人に直接聞かなきゃ分からないけれども、この箇所だけでも示唆に富む内容がたくさん含まれていると思う。
いやぁ、松田さんの論文を改めて読むと、すごい人だなということがひしひしと伝わってくる。この論文からは国家と社会の関係を考えるときに、非常に大きな示唆を得ることが出来ると思う。

普通は国家と社会の関係を一足とびに考えるんだけれども、ここでは中間組織、すなわち「団体」がその間の媒介項になっている。社会っていったとき、実はとらえどころがない。実際の社会は境界が曖昧だからだ。ところが、形式的な社会、つまり、クラブのようなものであれば、境界がはっきりしている。それが団体である。たとえば、友愛会はfriendly societyの訳である。つまり、社交クラブもまた社会の一種である。

社会を有機体と捉える見方には、簡単に反対を唱えやすい。そんなもの実体がないじゃないかと切り返せるからだ。しかし、たとえば、企業のような組織だと、生物に類似して説明しやすい。実際に伊丹さんはそんな説明をしていたような気がする。これについては面白い話があって、去年、岩井克人先生の授業を聞いていたときに、彼は有機体説は採りたくないと言っていた。それは論理的であるというよりも、ひとつの思想信条(というほど大げさでもないが)の告白という感じであった。

松田論文は、団体が無視し得ない存在であるという舞台装置の上で、法学者たちがさまざまな学説を展開する一幕の劇のようなものだ。まず、団体はなによりまるで一個の人格を有すがごとく行為能力を与えられなければならない。そのためには、ローマ法のKorporation(社団)という擬制人ではダメで、どうしてもゲルマン法のGenossenshaft(団体)である必要がある。そこから国家は団体かという問題から、行政体に話が降りてくる。そして、かの有名な美濃部達吉の天皇機関説が出てくる。天皇機関説ももちろん、国家有機体論を前提にしていて、国家を一つの団体(有機体)と捉え、天皇はその機関のひとつと考えられているのである。

有機体説は実は二つの大きな極をもっている。一つは、ある団体を一つの単位、ときには法人格という形で、人に見立てることがある。この意味で統一体である。しかし、もう一方で、有機体は各機関の自律性が重要になってくる。松田先生はこの二つ目の点を重視されて、国家生命体と国家有機体を分けて考えられている。国家有機体説の方では個々の自律性が重んじられる余地がある。民主制とも親和的である。

この論文のもう一つの面白さは、末弘厳太郎まで行くところだろう。末弘の持っていた法社会学的な観点、すなわち、社会のうちに法源があるという考え方をビビットに抑えている。言い換えれば、実際の「団体」に一つの人格を認めるかどうかの判断の正当性を、社会観察のうちに求めているという言い方をしてもよいだろう。ちなみに、ここらあたりは、稲葉さんとコメントのやりとりをしていたところと関係している。

ただ、望蜀の念と分かっていながら言うと、後藤新平は扱って欲しかった。松田先生は末弘先生の論理から植民地支配についての「朝鮮・中国社会のNorm」の問題に及ばざるを得なかったという論理運びをしているし、論理構成上はそれでよいのだが、台湾の民政官、後に満鉄調査部を作った後藤新平に注目してほしかった。後藤は国鉄一家を唱えた人でもあり、これは日本的経営の非常に重要な一齣なのである。ただ、松田先生は次のように書かれている。
「社会主義」についての紹介は日露戦争以前から存在し、「社会問題」や「社会政策」についての知識はそれなりに広まってはいたが、「社会」を個人の意思や利害の加算的集合とどのように概念的に区別できるのかについて、つきつめた考察はなかなか進まなかった
この文章から察すると、後藤の存在に気づいていないということはないだろうが、理論的な重要性を与えるほどではないと考えられているのかもしれない。まぁ、そもそも法学者じゃないし。しかし、後藤新平は近現代の日本を理解する上での最後のミッシング・リンクである。思想史、理論史的な関心からアプローチしない場合、すなわち、我々はこちらから、折り合いをつけなきゃならない。それをどうするか。大変、難儀な課題である。

それにしても、引用文を読んでもらえば分かると思うが、全編こんな感じで、決定的に重要な引用と極度に縮約された地の文で構成されている。げに恐ろしき論文である。
昨日、小池和男先生の読売・吉野作造賞の受賞パーティに参加してきた。そこで選考委員の猪木武徳先生と少しだけお話して、「小作争議から無産農民学校設立運動へ:木崎村争議をめぐる社会集団の動きについて」についてなぜ宗教の話が出てくるのか御伺いしてみた。ただ、お話しようと思ったところ、他の方が来られたので、私の方からお話できなかったのは残念だ。

猪木先生の基本的なアイディアは、トクヴィルの『アメリカの民主制』にあるということ、及び木崎村小作争議でプレイヤーが宗教についての問題を取り上げていることもよく分かった。ただ、お話した印象だと近代日本における宗教をどのように捉えるかという歴史的なパースペクティブよりも、民主制を支えるものとして「不死」という考え方が重要であるという理論的洞察と資料から読み取れる意見に導かれているという感じだった。

私の博士論文の最後は、今後の問題として宗教について書いている。森先生には最後は箍が外れて、宗教の問題まで書いていると仰られたが、私が労務管理や社会政策の中で重視した「教化」を突き詰めていった次には宗教の問題が出て来ざるを得ないと思っている。ただ、その問題意識を共有している人が残念ながら現在のところ、いないのだ。

近代日本の宗教政策を考えるときに、村上重良の国家神道と民衆宗教という括り方がある。今では村上の議論は部分的には否定されているけれども、国家神道という括りが便利なことは否定できない。私の見るところ、近代日本宗教政策史には二つのターニングポイントがある。一つは幕末の神仏分離令と明治半ばごろから始まる神道政策である。宗教史においていえば、決定的なのは神仏分離令であることは疑う余地がないと思うが、私が特に注目しているのは後者である。その中心はいうまでもなく内務省である。この場合、神道は宗教ではないという詭弁が弄されることになる。しかし、この詭弁は非常に重要で、宗教組織は内務省の意に合う形での道徳規範作りにその役割を限定されていくのである。

内務省内の宗教行政の所管は言うまでもなく神社局である。後に神社局は重要なポストになるけれども、私の印象では、国家神道なるものは大正期には決して民間に浸透していなかった。実際、私が見た工場の史料では神社局から、国民に普及させたいけど、なかなか難しいので、工場で取りまとめてやってくれないかという依頼があった。いかに神社局が苦労していたかを示す事例であろう。ただし、道徳規範作り、ということになると、むしろ地方局の地方改良運動や感化救済事業の核であった教化運動との関係が気になるところである。

世俗的な勢力争いでいえば、明治期には幕末から復興した神道が勢いを持ち、仏教は一時的には相当にピンチだった。そこに外来の、あるいはときに欧米のバックアップを受けたキリスト教が加わった。キリスト教は初期友愛会の活動、あるいは慈善事業(後の社会事業)において大きな役割を果たすことになる。仏教もまた、こうした一連の流れを受けて、本格的に慈善事業に進出したり(明治以前も行っていたが)、何とか復興を果たそうとする。このような中で三つの宗教が三大勢力を誇っていたが、お互いの連絡は必ずしも行われていなかった。明治40年代に床次竹二郎が内務次官だったときに、この三者代表を一同に集め、ひらたく言えば、茶話会を開催した。カトリックが第二バチカン会議で他宗教との対話を打ち出したのが1960年代のことなので、ある意味ではこの平和的な話し合いは歴史的にも画期的な意味を持っているといえるかもしれない。ちなみに、床次は地方改良運動が始まった頃、地方局長であった。

このように書くと、内務省の宗教政策が平和的に進んだように思えるもかしれないが、事実はまったく逆で、まず全国津々浦々の神社を破壊し、無理矢理、統合・合祀させた。また、自分たちの意に合わない宗教に対しては徹底的に弾圧で臨んだ。大本への二回の襲撃は有名である。たしかに、出口王仁三郎はエキセントリックな出で立ちをしていたし、霊界物語は荒唐無稽なお話と言われてもおかしくない(ただし、事実かどうか拘らず、物語として読むと、それはそれで面白い)。しかし、彼らは地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教のように反社会的な活動をしていたわけではない。嘘か本当か真偽の程は定かでないが、第一回目の弾圧のときの内務大臣は床次竹二郎で、王仁三郎はこれによって床次は総理大臣になれなくなったと言い、恐れた床次が秘密裏に謝罪に来たところ、これを受けなかったという話もある。

大本とは対照的に、天理教は教祖・中山みき時代は弾圧を受けたが、代替わりして方向転換した後は弾圧を受けていない。私は別に天理教についてよい感情も悪い感情も持っていないし、人間の組織の常として立派な人も困った人も両方いるだろうくらいにしか考えていないが、新興宗教に対して先入観を持っている方には、天理教が戦後のインフレ時に生活に困った上流階級の文化財を言い値で購入し、現在の国文学研究の根幹を支えているという文化的貢献の事実にも言及しておきたい。

ちなみに、シェルダン・ガーロンさんは地方改良運動から協調会への流れに注目した画期的な本、The State and Labor in Modern Japanを書いた研究者だが、彼はMolding Japanese Mindという本の中で大本を扱っている。大本は近代日本の宗教では決定的に重要なのだが、彼の分析は雑学が足りないためか、ポイントを捉えていないような印象だった。

大正中期以降は各種の修養団体が非常に発達する。そのなかには宗教的なバックグラウンドを持つ団体も存在した。そこで問題になるのは、道徳的規範の構築に、宗教的な発想、たとえば猪木先生は「不死」と仰ったが、そういうものを基盤にする必要があるのかどうか、ということである。私はこれについては疑問を持っている。といっても、宗教性を基盤にして道徳的規範を構築すること自体に疑問を持っているのではなく、別の道が存在する可能性を考えているというだけのことである。私の見た富士紡の事例では、クリスチャンであった工場長はたしかに教化の一環としてキリスト教の教えも利用していたが、別にそれ以外のソースも実によく利用しているし、その一つ一つの背後に宗教性があるかと問われれば、ある場合もあるし、ない場合もあるとしかいいようがない。

ちなみに、猪木先生ご自身はたしかカトリックだと思うが、昨日のお話の中では、宗教性の問題を論じる際、宗派に拘らないという点を断られていたし、その点は余計な邪推をしないように、念のため注意していただきたい。

以上の記述から明らかなように、私は内務省の宗教政策を肯定的に捉えていない。しかし、宗教に一定の枠を嵌めることで(信教の自由の侵害!)、たとえば宗教間の余計な摩擦を軽減させたというような、何らかの効果があった気もするのだ。まぁ、何れにせよ、よく分からない領域である。
吉田久一先生は言うまでもなく、日本社会事業史の大家であり、かつ、学説史をホームグラウンドに持つ理論家でもあった。それもそのはず、日本の社会福祉研究というものが確立していなかった頃から、ずっと第一線の研究者であり続けた。しかし、博識ゆえに分かりにくい部分もあった。というのも、論理的に難しいというのではなく、広範な二次資料に目を配られていて、この雑誌のこの論文にこの用語が使われたとか、この用語を冠した講義が開設されたとか、そういうことを時期区分の指標にされたりするので、要するに、知識不足のこちらとしては判断のしようがないのである。

その吉田先生が日本の社会事業は外国のものを無秩序に翻訳するに忙しく、理論的に十分、成熟せずに、時折思想の力を借りざるを得なかった、という画期的な見解を提示されたらしい。この提言を受けて、実は西洋でも事情は似たようなもので、しばしば理論的な精緻化の及ばないところを思想が埋めてきたと指摘した上で、その概説を岡田英己子先生が書いた(はず、というのも肝心のお二人の共著『社会福祉思想史入門』がプリントと本に埋もれて見当たらないので。吉田先生の本も読んだはずだが、記憶には残っていない)。

実際、理論の摂取と言っても人文社会科学の領域では、しばしば思想から離れられない。そして、その思想はその思想家の生きた時代からしばしば自由ではないのだ。というようなことをわざわざ書いたのは、松田宏一郎先生がすごい問題設定の論文を書いていたから。すなわち、
本章では、大正期から昭和初期にかけての法思想をてがかりにして、本書の研究テーマである「社会集団」が法の枠組みのなかで機能する概念としてどのように構成されていったのかを考えたい。具体的には「団体」を権利主体として扱う理論の展開を中心に検討する。しかし、本章の関心はそのほう理論的構造そのものの分析ではなく、あくまで当時の時代思潮を背景として、その法学理論がいかなる政治・社会思想と結びついていたかにある。

引用文中、本書とは『戦間期日本の社会集団とネットワーク』である。本自体は面白い論文もあり、そのうちまた、取り上げたいが、全体的に見れば、玉石混淆といったところだろう。

また、マニアックもマニアックなテーマである。論文タイトルは「戦間期の法思想の「団体」の理論構成」である。しかし、じっくり味わって書きたいので、また、続きは後日。

すみません。水曜日くらいですかね。
ここのところ、某所に投稿する論文を書きあげるために、社会福祉の古典的な研究をまとめて読んでいた。その結果、社会事業・社会福祉研究の領域では、理論的には1960年代くらいまでに主要な論点は先取りされていることが分かった(もう少し時期を長く取るとしても、遅くとも地域社会論や経営論が出てくる1970年代前半までだろう)。それどころか、現在は理論的なレベルは下がっているのではないかとさえ思っている。今、竹内愛二・孝橋正一・岡村重夫に匹敵するくらい論理を駆使できる理論家がいるだろうか?

この半世紀の間にすっかり科学観は変わってしまったようだ。今から考えると、20世紀の最初の半世紀はちょうど端境期にあたっていたのかもしれない。最近は忘れ去られてしまったけれども、かつての科学に求められたのは知識の体系性であった。現在は、科学たりうる重要な要件は方法である。おそらく、通俗的にはポパーの反証可能性という議論によってこのことは理論的に裏付けられたと考えられているかもしれない。ポパーの反証可能性論には哲学的な反論があり、それが有効だと感じたので後でじっくり読もうと思っていたのだが、どの本のどこに書いてあったか忘れてしまった。手持ちの本なので、どこかに転がってるはずだが・・・。

20世紀の初頭、フレックスナーがアメリカのソーシャル・ワーカーの仕事の有用性を認めながら、本当に専門職たりえるのかと問題提起した。これに対し間をおかず、メアリー・リッチモンドが社会的診断を書き、この本が事実上、フレックスナーの問いかけに対する答えであり、社会事業を専門職として確立させたと考えられている。彼女の仕事が評価されたのは、まさに仕事を体系化したことによる。

科学に体系性が求められたのは、社会政策論も社会福祉論も同じであった。しかし、これは別に近代科学革命と関係ない。むしろ、それ以前の神学時代からの古しき床しきscienceの伝統を引き継いでいるのである。実はそのことと科学が時代を超えた普遍性があると考えられていたことは関係があるのではないかと思っている。

社会福祉研究は従来の社会事業研究の遺産を引き継いだため、多くの実践的方法を持っている。しかし、今、竹内の『専門社会事業論』を読んで、その技術を使うソーシャル・ワーカーがいるだろうか。竹内自身がいうように、リッチモンドが仕事を体系化した後、アメリカではフロイドの精神分析が一世を風靡した。ここで一つのパラダイム転換が起きている。その後、カウンセリングではロジャーズが出て、また、パラダイム転換をした。もちろん、それにともなって方法も大いに変わる。

というように、科学にはパラダイム転換、もうちょっと通俗的に言えば、流行り廃りがある。なぜ、そういうかというと、多くの科学に携わる人も別に流行の商品の価値など考えもしないからである。流行っているから、マルクスやレーニンを読んだし、エスピン=アンデルセンを読んだのである。ちなみに、これは流行り廃りと関係ないが、ときどき、昔の学説史を研究したものでも、単に切り貼りしただけではないかと思うものがある。

話を元に戻そう。科学が方法に焦点を絞ったことによって何が大きく変わったのか?それは端的に言うと、科学の成果が不断に更新されるということである。多少の誤りを修正されるというだけではなく、パラダイム転換を経験しながら、あるいはそれを受容する余地をが確保したことによって、科学の枠組みはかえって一層強固なものになった。しかし、その半面、専門分業化が進み、体系性を保つことはどんどん難しくなり、それはやがて放棄されつつある。ただ、このように二つの流れの源泉を考えるとき、それは仕方ないことなのかもしれない。ちなみに、そういう科学の根底に疑問を投げかけたのがフッサールであり、現象学ということになるだろうが、ここではその話は差当り必要ないだろう。

この不断の革新が容認されている、ということは、専門職と素人の関係を根本的に変える可能性を秘めている。それは巷間誤解されているように、素人と専門職の関係が対等になるということではない。むしろ、専門職(精確に言うと専門職集団)が素人の問題提起を利用しながら、既存の知識、経験、方法を再検討し、あるいは新しいものを作り出すチャンスにし得るということだ。こうしたメカニズムを考えたとき、プロフェッショナリズムとアマチュアリズムを両方大事にしてきたイギリス社会には、深い叡智を感じざるを得ない。

ちなみに、社会福祉研究はこうした転換を乗り越えるだけの遺産を沢山持っていると思うが、当該分野の人たちはあまり、意識して使うつもりはないのかと感じる。もし、私の印象が当っているのならば、もったいない話だ。

こういう大きい話は論文にも書けないし、さりとて前提にも出来ない。仕方がないので、背景にこっそり隠しておくことにしよう。
「マルクス四兄弟」と呼ばれる喜劇俳優達によって作られた「インチキ商売」という映画がある。キネマ・ファンなら誰でも知っている筈だがこの四兄弟は、旧大陸を食いつめた旅藝人のあぶれもので、何かしらよき商売もがなと、新大陸のアメリカを目ざして密航を企てたインチキ野郎どもなのである。まったく、かかる種類の「兄弟」は、今日のブルジョア社会では、いたるところで発見される。意識的にやるか、無意識的にやるか、組織的にやるか、偶然的にやるか、尻尾を出すか出さないかの違いはあるにしても、今の社会はこういう手輩で充満していることは事実である。そうならざるをえないような基礎の上に、今日の社会は成り立っているのである。

ところが、驚くべきことは、こういう病的な社会に代る新しい社会を建設しようとする「プロレタリア陣営」の中にも、この種のインチキ師が、公然と或は秘かに、夥しくもぐりこんでいることである。アナーキスト、社会民主々義者、社会ファシスト等と呼ばれている一連の非プロレタリア的「プロレタリア主義者」がそれである。中でも一番たちが悪いのは、常にマルクス、レーニンの言葉で自分を偽装しつつ、その実、もっとも非マルクス的な、非レーニン的な、非プロレタリア的な役割を演じている(中略)

映画の「マルクス四兄弟」は、徹頭徹尾八百長をもって成功の手段としたが、この点にかけては、我々の「ニセ・マルクス兄弟」もまったく同じである。例えば、始終互に褒め合ったり、時にはなれあい喧嘩までもして見せるといった具合で、どうしてなかなか「ニセ・マルクス四兄弟」だって、本物の「マルクス四兄弟」なんかにまけてはいない。

この前、専門学校で教えている子のなかに文学青年がいて、『蟹工船』やらプロレタリア文学やら派遣問題やらを混同しているし、社会主義まで理想化している始末なので、一から教え直す羽目になった。冒頭、引用した文章はご存知の方も多いかもしれないが、稀代のジャーナリスト・大宅壮一が戦前に書いた「ニセ・マルクス四兄弟」の冒頭部分である。詳しくは全集第3巻に収録されたこの雑誌記事を読んでいただくしかないが、とにかく痛快だ。ただし、あんまり読みすぎると、性格が悪くなるおそれがある。

大宅は社会主義ギルドの創始者として堺利彦をあげている。
日本のプロレタリア解放運動史上に残した堺利彦の大きな足跡を、筆者は抹殺し去ろうとするものではない。しかしそれと共に、彼によって日本のプロレタリア解放運動が、もっともたちの悪い方向に歪められたことも事実である。従って彼は、「社会主義の父」であると同時に、ニセ・マルクス主義の父でもあるわけだ。「社会主義」が、がっちりした大衆的基礎の上に立たないで、一握りの文筆業者のギルド組織化する前例は、彼を中心にして始まったといえるであろう。かつての彼は、文壇における菊池寛の如く、社会主義の大御所として、一度彼のゲキリンにふれれば、日本で「社会主義者」としてやって行けないという珍妙不可思議な現象をもたらしたのである

堺は言うまでもなく売文社を結成し、文章を売るということを商売として明確に打ち出した人である。実際はありとあらゆる文章を手がけ、手紙の代筆どころか、卒論の代筆まで請け負ったといわれている。さすがに、これは当時も問題になったらしい。いずれにせよ、糊口をしのぐという程度ではなく、社会主義やプロレタリア文学は一大ビジネスに成長させた偉大な先覚者である。改造社の山本実彦は「社会改造」というキャッチフレーズを売り出して、大正9年に大ヒットさせた。今で言えば、流行語大賞は間違いないはずだ。実際、「蟹工船」は去年、流行語大賞を取っているのだから、ゆえなき推測というわけでもないだろう。

とはいえ、こうした状況にみながみな、浮かれていたわけではない。当代一、稼いだであろう京都帝国大学、河上肇は書けば書くほど、自分が豊かになり、労働者のためになっていないことを深く憂いていた。彼が飲み屋の労働者に騙されて、払いをさせられ、しばらく、騙されたことにさえ気づかなかった話は有名だろう。彼は労働者のために働く意欲を有していた。しかし、働いたこともなかったし、だからこそ働き方も分からなかった。その姿はどこか可笑しくて、そして、どこか悲しい。他方、プロレタリア文学者は売れるまでは皆、貧乏であった。しかし、彼らは私小説家のように、自分の生活を壊す衝動に駆られる前に、売れることを望み、実際、売れたら素直に喜んだ。私はこの二つの話に一片の真実を感じている。

世の中は青年が思うほど潔癖ではないけれども、ギルドの血を引く口舌の徒が叫ぶほど捨てたものでもないと私は思う。どの局面に目を向けるかは本人の好みでしかない。
先日、稲葉さんの本のエントリを書いたけれども、ちょっと書き方がレトリカルに過ぎたというか、そのせいでいらぬ誤解を生んでいる気がするので、説明を付け足そう。

土台、学者の魂、なんて言い方が時代掛かっているし、そもそもそんなもの持ち合わせている人などほとんどいないので、客観的に見ると、そんな基準を持ち出すのもどうかという感じだ。ただ、ここで言っている学者の魂を持った人というのは、学会誌に論文を掲載するという程度の低いものではない。そんなことはおおよそ誰でも出来る。どこの組織に属してもデスクワークに従事すれば、書類の書き方を覚えるだろう。それと異なるところはほとんどない。その作業に疑問を持たない人ならば、無条件に出来る。その程度の基準だ。

私は前のエントリで書いたとおり、あの本の読者を想定して、読み物として楽しめばいい、と書いたわけだが、あの本自体はそれ以外の効用もある。実は、『社会学入門』は専門研究者としてこの先、人生を歩みたいと考える若者が読んでも有意義な内容を含んでいる。たとえば、稲葉さんが経済学として合意が出来ているとしたものはたしかに大いに世の大勢になっているものだが、どの世界に少数派はいるもので、稲葉さん自身それですべてを語れないこともよく分かっている。にもかかわらず、それを正統派として描くというのは親切である。それは二つの意味がある。

一つは、この本では何度もマルクスが出てくるが、ただの一度も経済学者として登場しない。まったく何にも予備知識を持たない人が読めば、マルクスは社会学者だと思うかもしれない。そういう意味では某社会政策学者たちに読ませたいくらいだ(笑)。流行に機敏な彼らが大好きなのはイギリス。彼の地の社会学の泰斗・ギデンズ大先生もマルクスを社会学者として取り扱っているから、この処置は大変時流にあっている。実際にヨーロッパの社会史の背景にはマルクスがあったわけだし。もう一つは、ハイエクが嘆いたように今や不必要なくらい社会科学者は経済学者に気を遣っている。そのメインストリームをしっかり抑えた上で、社会学を描くというのは心憎い演出だ。

何れにせよ、こうやって経済学を簡単に捉え、それを参照基準にすることで、社会学が持っている特徴をよく理解しやすくなっている。とりわけ、複雑な理論ではなく、単純な理論が持っている説明力の魅力も分かりやすい。モデルという考え方は、社会科学全般でウェーバーの理念型論が広く受け入れられていたわけだから、それでごり押しすることだって説明できたはずだが、そんなことをしたら、無駄に難しくなるのはやる前から分かっている。そういう軽重のバランス感覚は素晴らしい。

最初の二つの章では社会科学の中の社会学という枠組みを提示した上で、社会科学のメタスキルを語っている。もう一つ、歴史研究に対する位置づけもその限りでは大変適切なものである。この基礎中の基礎をこれだけ簡単にポイントを外さずに、学界の大きな流れにも敏感に、説明するというのは誰にでも出来ることではない。以上が「学問を尊敬しつつ」の一語の含意である。わざわざ褒めるのも僭越だ思ったので、書かなかった。言うまでもなく、これだけ分かりやすいのは、これだけ書いた本人がよく分かっていることを意味する。

ただ、いわゆるプロの学者はこの先に実際に作業をする。大量の統計調査を集めてきて計算したり、大量の資料を片っ端から収集し、解読したり、インタビュー記録をノートに起こし、時には貰った資料も使いつつそれを再構成したり、そういう面倒な作業を徹底してやる。たしかに、こうした作業を徹底してやると、全体像を見失いがちだ。資料を読んでいるときの頭の使い方と全体の構成や理論的含意を考えるときの頭の使い方はまるで異なる。

昨今は軽佻浮薄にパワポの報告も増えたが、私が大学院に入った頃の日本経済史の報告は、作成した表と読んだ資料の原文をレジュメに羅列し、出席者が話を再構成するというような具合だった。出席者は誰もどれだけ一生懸命、資料と格闘したか以外、評価するつもりはないようだった。たとえば、こういう人たちと輪読のゼミをやると、いったい、本を読んでいるのか、表を読んでいるのか、分からなくなる。私の見た限り、同世代でこういう能力が高かったのは圧倒的に九大の宮地さんだった。ただし、本人に直接、言ったら、「何を言うんですか。僕は理論派ですよ」と驚いていた(笑)。

よく言われることだが、欧米の歴史研究者は日本人より概観することを好む。よく言えば、パースペクティブが広く、悪く言えば、史料の読み方が杜撰だ。向こうの論文はタイトルが100年単位で出てくることも稀ではないが、その間の資料を全部丁寧に読めるわけがない。ただし、資料を読むことにも訓練がいるが、こういうパースペクティブを持つためにも訓練がいる。そういう訓練が日本の歴史研究者は弱いというのはよく指摘される。私自身もハンター先生とゴードン先生と直接、そんな話をしたことがある。ジャコビィー先生も同じことを言っていたと間接的に聞いた。まったくその通りだと思う。

また、プロの歴史研究者の研究を読むと、せっかくよい資料をよく読みこんでいるのに、なぜ、この下らない学説(往々にしてその人がお世話になった先生)をそのまま鵜呑みにするのかということが今でも起こる。その昔、日本経済史研究がまだ封建時代であった1970年代前半ごろまでは、かつての武士の戦いの如く慇懃に、我こそは○○派であると名乗りをあげてから、論文を始めるのがルールであった。

そういう愛すべき欠点があるにしても、なおかつ、歴史研究者は信頼に足ると私は思っている。なぜなら、やはり歴史研究者の真髄は資料をどれだけ読んだかで決まると古風に私も考えているからである。そもそも、資料は頭だけを使って読むものではない。言い方を変えると、字面だけを追っているわけではない。私はその筋の訓練をちゃんと受けたわけではないが、近世史とかになると、史料の保存具合、それから使われている文字の色、紙の質、そういう視覚的な情報もすべて重要になる。だから、原史料を読むのと、復刻された史料を読むのは違うことは経験的にみんな、知っている。

調査研究者が現場という原点に戻るというのは、私は別に文書資料だけでは分からない、実際に聞いてみないといけない、というような通俗的な意味ではないと思っている。実際に、そういうことを言う人であっても、調査のどういう点がよいかを語っているときは、インタビューの話だけを取り上げるわけではない。それは私には経験もないし、まったく身についていないものだけど、多分に感覚的なものだろうと思う。

そういう作業は実際は楽しいことばかりではない。私が稲葉さんをプロフェッショナルにはなれなかったと書いた意味は、そういう何かしらの地道な実証的作業(統計、歴史、調査)に本拠地を持っていないということである。にもかかわらず、稲葉さんはその大切さを十二分に知っている。この話を読んで、時間を経ずして、ポランニーの暗黙知のことを言っているだけだと総括した人は、私の書いた真意を理解するのは時間が掛かると思って間違いない。

なお、私が書いたプロフェッショナルというレベルは、こうした体験による智慧と理論に対する洞察力を兼ね備えた人である。
稲葉さんの新刊を勧められたので読んでみた。この本のコンセプトは「社会学の側から世界を見る」のではなく、「世界の側から社会学を見る」という点にある。しかし、もう少し詳しく見るならば、ほぼ「(社会)科学」における社会学の位置づけを方法から試みているといえばよいだろうか。それも方法の参照基準はいわゆる最近の正統派経済学である。

この本は理論を何種類にも使い分けているので、最初は何を言いたいのかよく分からなかったが、約まるところ、グランド・セオリーは無理ということだろうか。調査や歴史研究をやるときの(橋頭堡としての)理論仮説と世の中をまるごと説明してやろうというグランド・セオリーは最初から性格を異にしている。

稲葉さんは社会学における歴史研究が「他人のふんどしで相撲を取る」と揶揄されても一定の役割を果たしてきたというのだが、この点については大いに不満がある。ウェブ夫妻や有賀喜左衛門といった原史料から積み上げて研究する本物、原史料を読み、細かい考証的な論文を書いた経験を有しながら、後に大きな話を展開したホブズボーム、また、歴史研究の専門的訓練を受けた上で他人の研究を参照しながら見取り図を描こうとしたT.H.マーシャル、以上のようなプロフェッショナルは一切、揶揄を受けるいわれはない。ちなみに、この分類で言えば、ウェーバーはホブズボームに近い。ウェーバーの研究の一部にいい加減な考証があるというのは昔から知られている話で、それはそれで訂正すべきだし、プロじゃない人には分かるまいというような動機でわざと操作が行われていたのなら、非難されても仕方ないが、私にはそのいずれかを検証する能力もないし、情熱もない。正直、思い入れもないので、どちらでもよい。

そういう歴史研究の質の違いは私には決定的に思える。正直、モダニティや近代化の議論は私にはみんな挫折した夢に見える。というツッコミを入れるのはおそらく無作法で、これは一種のお話だと割り切ればいいと思う。この本は読み物であって、稲葉さんご自身、昨日の記事でそう書かれている(個人的には内輪ネタの三段オチがツボだったけど)。ただ、私が考えたことは少し違う。普通の学生はこれを終わってから本格的に社会学を勉強しようとは思わないだろうし、実際、この本が最後の本になる可能性が高いだろう。そう考えたとき、くぐりもしない厳(いかめ)しい学問的な門を見せるよりも「講談・社会学」を聴いた方が学生にとっては、大学時代に学問の香りを嗅いだよい思い出になる。ひょっとしたら、その人は学校を卒業して、ある日、日常生活から離れた本の世界に入りたくなるかもしれない。そのとき、講義を思い出してくれれば、大事な「ファン」になるかもしれない。

こんなことを書くと、私が稲葉さんのことをバカにしていると勘違いする人がいるかもしれない。具体的な名前は書かないが、私は稲葉さんを揶揄する人たちと同じ立場はとらない。調査研究や本当の意味での歴史研究に取り組むには資質が必要だ。極端に言えば、バカになる必要がある。とにかく史料、とにかく現場、というような融通のなさだ。いくら理論的なことをやったり、隣接領域のことを知ってても、最後に帰ってくることの出来るホーム・グラウンドがない人は弱い。調査研究においておそらく、もっともバカに徹しているのは川喜多喬先生だろう(ちなみに、歴史研究はそうでない人を探す方が難しいくらいである)。川喜多先生は多才で、もともと哲学をやっていたし、講義の話も幅が広く、面白おかしい。学部時代、私はいつも月曜日の午後を楽しみにしたものだった。しかし、今となってみると、そういう多才だからこそ、他人から見れば、極端なほどの調査屋である必要があったし、バカを演じなければならなかったのだと私は見ている。稲葉さんにはそういうところはおおよそなかったと思う。だから労働問題研究から離れていったのもよく分かる。

かつて中野重治は森鷗外をこう評した
たしかに彼には学者および詩人の魂があった。けれども、他のすべてがなくてただ一つそれあるために人を学者・研究者に追いやってしまったところの、他のすべてがなくてただ一つそれあるために、あらゆる抵抗の甲斐なく人が泣く泣く詩人となるほかなかったところのもの、かかるものとしての学者の魂、詩人の魂はついに鷗外の魂ではなかったのである
さすがに中野重治は(そんなにまでして非難するほどのこともないという意味で)言い過ぎてると思うが、稲葉さんの本を読んでいたら、この一節を思い出した。私には『経済学という教養』も『社会学入門』も根は一つで、稲葉さんは素人たらざるを得なかった人だと思う。普通はそこで終わるのだが、稲葉さんはそれぞれの学問への尊敬をもったまま、素人であることに徹した。いわば、プロの素人になったのだ。ここにおいて、稲葉さんはいわゆるエッセイストや評論家とは違う。

私は学者はこうあるべきだなどという理想は持たないので、いろんな人がいればいいと思うが、稲葉さんのスタイルは今の大学における一つのモデルであるように思えてならない。そして、その胡散臭さのうちにある真実がきっと人々をひきつけて止まないのだろう。