2009年07月05日 (日)
稲葉さんの新刊を勧められたので読んでみた。この本のコンセプトは「社会学の側から世界を見る」のではなく、「世界の側から社会学を見る」という点にある。しかし、もう少し詳しく見るならば、ほぼ「(社会)科学」における社会学の位置づけを方法から試みているといえばよいだろうか。それも方法の参照基準はいわゆる最近の正統派経済学である。
この本は理論を何種類にも使い分けているので、最初は何を言いたいのかよく分からなかったが、約まるところ、グランド・セオリーは無理ということだろうか。調査や歴史研究をやるときの(橋頭堡としての)理論仮説と世の中をまるごと説明してやろうというグランド・セオリーは最初から性格を異にしている。
稲葉さんは社会学における歴史研究が「他人のふんどしで相撲を取る」と揶揄されても一定の役割を果たしてきたというのだが、この点については大いに不満がある。ウェブ夫妻や有賀喜左衛門といった原史料から積み上げて研究する本物、原史料を読み、細かい考証的な論文を書いた経験を有しながら、後に大きな話を展開したホブズボーム、また、歴史研究の専門的訓練を受けた上で他人の研究を参照しながら見取り図を描こうとしたT.H.マーシャル、以上のようなプロフェッショナルは一切、揶揄を受けるいわれはない。ちなみに、この分類で言えば、ウェーバーはホブズボームに近い。ウェーバーの研究の一部にいい加減な考証があるというのは昔から知られている話で、それはそれで訂正すべきだし、プロじゃない人には分かるまいというような動機でわざと操作が行われていたのなら、非難されても仕方ないが、私にはそのいずれかを検証する能力もないし、情熱もない。正直、思い入れもないので、どちらでもよい。
そういう歴史研究の質の違いは私には決定的に思える。正直、モダニティや近代化の議論は私にはみんな挫折した夢に見える。というツッコミを入れるのはおそらく無作法で、これは一種のお話だと割り切ればいいと思う。この本は読み物であって、稲葉さんご自身、昨日の記事でそう書かれている(個人的には内輪ネタの三段オチがツボだったけど)。ただ、私が考えたことは少し違う。普通の学生はこれを終わってから本格的に社会学を勉強しようとは思わないだろうし、実際、この本が最後の本になる可能性が高いだろう。そう考えたとき、くぐりもしない厳(いかめ)しい学問的な門を見せるよりも「講談・社会学」を聴いた方が学生にとっては、大学時代に学問の香りを嗅いだよい思い出になる。ひょっとしたら、その人は学校を卒業して、ある日、日常生活から離れた本の世界に入りたくなるかもしれない。そのとき、講義を思い出してくれれば、大事な「ファン」になるかもしれない。
こんなことを書くと、私が稲葉さんのことをバカにしていると勘違いする人がいるかもしれない。具体的な名前は書かないが、私は稲葉さんを揶揄する人たちと同じ立場はとらない。調査研究や本当の意味での歴史研究に取り組むには資質が必要だ。極端に言えば、バカになる必要がある。とにかく史料、とにかく現場、というような融通のなさだ。いくら理論的なことをやったり、隣接領域のことを知ってても、最後に帰ってくることの出来るホーム・グラウンドがない人は弱い。調査研究においておそらく、もっともバカに徹しているのは川喜多喬先生だろう(ちなみに、歴史研究はそうでない人を探す方が難しいくらいである)。川喜多先生は多才で、もともと哲学をやっていたし、講義の話も幅が広く、面白おかしい。学部時代、私はいつも月曜日の午後を楽しみにしたものだった。しかし、今となってみると、そういう多才だからこそ、他人から見れば、極端なほどの調査屋である必要があったし、バカを演じなければならなかったのだと私は見ている。稲葉さんにはそういうところはおおよそなかったと思う。だから労働問題研究から離れていったのもよく分かる。
かつて中野重治は森鷗外をこう評した
私は学者はこうあるべきだなどという理想は持たないので、いろんな人がいればいいと思うが、稲葉さんのスタイルは今の大学における一つのモデルであるように思えてならない。そして、その胡散臭さのうちにある真実がきっと人々をひきつけて止まないのだろう。
この本は理論を何種類にも使い分けているので、最初は何を言いたいのかよく分からなかったが、約まるところ、グランド・セオリーは無理ということだろうか。調査や歴史研究をやるときの(橋頭堡としての)理論仮説と世の中をまるごと説明してやろうというグランド・セオリーは最初から性格を異にしている。
稲葉さんは社会学における歴史研究が「他人のふんどしで相撲を取る」と揶揄されても一定の役割を果たしてきたというのだが、この点については大いに不満がある。ウェブ夫妻や有賀喜左衛門といった原史料から積み上げて研究する本物、原史料を読み、細かい考証的な論文を書いた経験を有しながら、後に大きな話を展開したホブズボーム、また、歴史研究の専門的訓練を受けた上で他人の研究を参照しながら見取り図を描こうとしたT.H.マーシャル、以上のようなプロフェッショナルは一切、揶揄を受けるいわれはない。ちなみに、この分類で言えば、ウェーバーはホブズボームに近い。ウェーバーの研究の一部にいい加減な考証があるというのは昔から知られている話で、それはそれで訂正すべきだし、プロじゃない人には分かるまいというような動機でわざと操作が行われていたのなら、非難されても仕方ないが、私にはそのいずれかを検証する能力もないし、情熱もない。正直、思い入れもないので、どちらでもよい。
そういう歴史研究の質の違いは私には決定的に思える。正直、モダニティや近代化の議論は私にはみんな挫折した夢に見える。というツッコミを入れるのはおそらく無作法で、これは一種のお話だと割り切ればいいと思う。この本は読み物であって、稲葉さんご自身、昨日の記事でそう書かれている(個人的には内輪ネタの三段オチがツボだったけど)。ただ、私が考えたことは少し違う。普通の学生はこれを終わってから本格的に社会学を勉強しようとは思わないだろうし、実際、この本が最後の本になる可能性が高いだろう。そう考えたとき、くぐりもしない厳(いかめ)しい学問的な門を見せるよりも「講談・社会学」を聴いた方が学生にとっては、大学時代に学問の香りを嗅いだよい思い出になる。ひょっとしたら、その人は学校を卒業して、ある日、日常生活から離れた本の世界に入りたくなるかもしれない。そのとき、講義を思い出してくれれば、大事な「ファン」になるかもしれない。
こんなことを書くと、私が稲葉さんのことをバカにしていると勘違いする人がいるかもしれない。具体的な名前は書かないが、私は稲葉さんを揶揄する人たちと同じ立場はとらない。調査研究や本当の意味での歴史研究に取り組むには資質が必要だ。極端に言えば、バカになる必要がある。とにかく史料、とにかく現場、というような融通のなさだ。いくら理論的なことをやったり、隣接領域のことを知ってても、最後に帰ってくることの出来るホーム・グラウンドがない人は弱い。調査研究においておそらく、もっともバカに徹しているのは川喜多喬先生だろう(ちなみに、歴史研究はそうでない人を探す方が難しいくらいである)。川喜多先生は多才で、もともと哲学をやっていたし、講義の話も幅が広く、面白おかしい。学部時代、私はいつも月曜日の午後を楽しみにしたものだった。しかし、今となってみると、そういう多才だからこそ、他人から見れば、極端なほどの調査屋である必要があったし、バカを演じなければならなかったのだと私は見ている。稲葉さんにはそういうところはおおよそなかったと思う。だから労働問題研究から離れていったのもよく分かる。
かつて中野重治は森鷗外をこう評した
たしかに彼には学者および詩人の魂があった。けれども、他のすべてがなくてただ一つそれあるために人を学者・研究者に追いやってしまったところの、他のすべてがなくてただ一つそれあるために、あらゆる抵抗の甲斐なく人が泣く泣く詩人となるほかなかったところのもの、かかるものとしての学者の魂、詩人の魂はついに鷗外の魂ではなかったのであるさすがに中野重治は(そんなにまでして非難するほどのこともないという意味で)言い過ぎてると思うが、稲葉さんの本を読んでいたら、この一節を思い出した。私には『経済学という教養』も『社会学入門』も根は一つで、稲葉さんは素人たらざるを得なかった人だと思う。普通はそこで終わるのだが、稲葉さんはそれぞれの学問への尊敬をもったまま、素人であることに徹した。いわば、プロの素人になったのだ。ここにおいて、稲葉さんはいわゆるエッセイストや評論家とは違う。
私は学者はこうあるべきだなどという理想は持たないので、いろんな人がいればいいと思うが、稲葉さんのスタイルは今の大学における一つのモデルであるように思えてならない。そして、その胡散臭さのうちにある真実がきっと人々をひきつけて止まないのだろう。
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