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ここのところ、某所に投稿する論文を書きあげるために、社会福祉の古典的な研究をまとめて読んでいた。その結果、社会事業・社会福祉研究の領域では、理論的には1960年代くらいまでに主要な論点は先取りされていることが分かった(もう少し時期を長く取るとしても、遅くとも地域社会論や経営論が出てくる1970年代前半までだろう)。それどころか、現在は理論的なレベルは下がっているのではないかとさえ思っている。今、竹内愛二・孝橋正一・岡村重夫に匹敵するくらい論理を駆使できる理論家がいるだろうか?

この半世紀の間にすっかり科学観は変わってしまったようだ。今から考えると、20世紀の最初の半世紀はちょうど端境期にあたっていたのかもしれない。最近は忘れ去られてしまったけれども、かつての科学に求められたのは知識の体系性であった。現在は、科学たりうる重要な要件は方法である。おそらく、通俗的にはポパーの反証可能性という議論によってこのことは理論的に裏付けられたと考えられているかもしれない。ポパーの反証可能性論には哲学的な反論があり、それが有効だと感じたので後でじっくり読もうと思っていたのだが、どの本のどこに書いてあったか忘れてしまった。手持ちの本なので、どこかに転がってるはずだが・・・。

20世紀の初頭、フレックスナーがアメリカのソーシャル・ワーカーの仕事の有用性を認めながら、本当に専門職たりえるのかと問題提起した。これに対し間をおかず、メアリー・リッチモンドが社会的診断を書き、この本が事実上、フレックスナーの問いかけに対する答えであり、社会事業を専門職として確立させたと考えられている。彼女の仕事が評価されたのは、まさに仕事を体系化したことによる。

科学に体系性が求められたのは、社会政策論も社会福祉論も同じであった。しかし、これは別に近代科学革命と関係ない。むしろ、それ以前の神学時代からの古しき床しきscienceの伝統を引き継いでいるのである。実はそのことと科学が時代を超えた普遍性があると考えられていたことは関係があるのではないかと思っている。

社会福祉研究は従来の社会事業研究の遺産を引き継いだため、多くの実践的方法を持っている。しかし、今、竹内の『専門社会事業論』を読んで、その技術を使うソーシャル・ワーカーがいるだろうか。竹内自身がいうように、リッチモンドが仕事を体系化した後、アメリカではフロイドの精神分析が一世を風靡した。ここで一つのパラダイム転換が起きている。その後、カウンセリングではロジャーズが出て、また、パラダイム転換をした。もちろん、それにともなって方法も大いに変わる。

というように、科学にはパラダイム転換、もうちょっと通俗的に言えば、流行り廃りがある。なぜ、そういうかというと、多くの科学に携わる人も別に流行の商品の価値など考えもしないからである。流行っているから、マルクスやレーニンを読んだし、エスピン=アンデルセンを読んだのである。ちなみに、これは流行り廃りと関係ないが、ときどき、昔の学説史を研究したものでも、単に切り貼りしただけではないかと思うものがある。

話を元に戻そう。科学が方法に焦点を絞ったことによって何が大きく変わったのか?それは端的に言うと、科学の成果が不断に更新されるということである。多少の誤りを修正されるというだけではなく、パラダイム転換を経験しながら、あるいはそれを受容する余地をが確保したことによって、科学の枠組みはかえって一層強固なものになった。しかし、その半面、専門分業化が進み、体系性を保つことはどんどん難しくなり、それはやがて放棄されつつある。ただ、このように二つの流れの源泉を考えるとき、それは仕方ないことなのかもしれない。ちなみに、そういう科学の根底に疑問を投げかけたのがフッサールであり、現象学ということになるだろうが、ここではその話は差当り必要ないだろう。

この不断の革新が容認されている、ということは、専門職と素人の関係を根本的に変える可能性を秘めている。それは巷間誤解されているように、素人と専門職の関係が対等になるということではない。むしろ、専門職(精確に言うと専門職集団)が素人の問題提起を利用しながら、既存の知識、経験、方法を再検討し、あるいは新しいものを作り出すチャンスにし得るということだ。こうしたメカニズムを考えたとき、プロフェッショナリズムとアマチュアリズムを両方大事にしてきたイギリス社会には、深い叡智を感じざるを得ない。

ちなみに、社会福祉研究はこうした転換を乗り越えるだけの遺産を沢山持っていると思うが、当該分野の人たちはあまり、意識して使うつもりはないのかと感じる。もし、私の印象が当っているのならば、もったいない話だ。

こういう大きい話は論文にも書けないし、さりとて前提にも出来ない。仕方がないので、背景にこっそり隠しておくことにしよう。
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「マルクス四兄弟」と呼ばれる喜劇俳優達によって作られた「インチキ商売」という映画がある。キネマ・ファンなら誰でも知っている筈だがこの四兄弟は、旧大陸を食いつめた旅藝人のあぶれもので、何かしらよき商売もがなと、新大陸のアメリカを目ざして密航を企てたインチキ野郎どもなのである。まったく、かかる種類の「兄弟」は、今日のブルジョア社会では、いたるところで発見される。意識的にやるか、無意識的にやるか、組織的にやるか、偶然的にやるか、尻尾を出すか出さないかの違いはあるにしても、今の社会はこういう手輩で充満していることは事実である。そうならざるをえないような基礎の上に、今日の社会は成り立っているのである。

ところが、驚くべきことは、こういう病的な社会に代る新しい社会を建設しようとする「プロレタリア陣営」の中にも、この種のインチキ師が、公然と或は秘かに、夥しくもぐりこんでいることである。アナーキスト、社会民主々義者、社会ファシスト等と呼ばれている一連の非プロレタリア的「プロレタリア主義者」がそれである。中でも一番たちが悪いのは、常にマルクス、レーニンの言葉で自分を偽装しつつ、その実、もっとも非マルクス的な、非レーニン的な、非プロレタリア的な役割を演じている(中略)

映画の「マルクス四兄弟」は、徹頭徹尾八百長をもって成功の手段としたが、この点にかけては、我々の「ニセ・マルクス兄弟」もまったく同じである。例えば、始終互に褒め合ったり、時にはなれあい喧嘩までもして見せるといった具合で、どうしてなかなか「ニセ・マルクス四兄弟」だって、本物の「マルクス四兄弟」なんかにまけてはいない。

この前、専門学校で教えている子のなかに文学青年がいて、『蟹工船』やらプロレタリア文学やら派遣問題やらを混同しているし、社会主義まで理想化している始末なので、一から教え直す羽目になった。冒頭、引用した文章はご存知の方も多いかもしれないが、稀代のジャーナリスト・大宅壮一が戦前に書いた「ニセ・マルクス四兄弟」の冒頭部分である。詳しくは全集第3巻に収録されたこの雑誌記事を読んでいただくしかないが、とにかく痛快だ。ただし、あんまり読みすぎると、性格が悪くなるおそれがある。

大宅は社会主義ギルドの創始者として堺利彦をあげている。
日本のプロレタリア解放運動史上に残した堺利彦の大きな足跡を、筆者は抹殺し去ろうとするものではない。しかしそれと共に、彼によって日本のプロレタリア解放運動が、もっともたちの悪い方向に歪められたことも事実である。従って彼は、「社会主義の父」であると同時に、ニセ・マルクス主義の父でもあるわけだ。「社会主義」が、がっちりした大衆的基礎の上に立たないで、一握りの文筆業者のギルド組織化する前例は、彼を中心にして始まったといえるであろう。かつての彼は、文壇における菊池寛の如く、社会主義の大御所として、一度彼のゲキリンにふれれば、日本で「社会主義者」としてやって行けないという珍妙不可思議な現象をもたらしたのである

堺は言うまでもなく売文社を結成し、文章を売るということを商売として明確に打ち出した人である。実際はありとあらゆる文章を手がけ、手紙の代筆どころか、卒論の代筆まで請け負ったといわれている。さすがに、これは当時も問題になったらしい。いずれにせよ、糊口をしのぐという程度ではなく、社会主義やプロレタリア文学は一大ビジネスに成長させた偉大な先覚者である。改造社の山本実彦は「社会改造」というキャッチフレーズを売り出して、大正9年に大ヒットさせた。今で言えば、流行語大賞は間違いないはずだ。実際、「蟹工船」は去年、流行語大賞を取っているのだから、ゆえなき推測というわけでもないだろう。

とはいえ、こうした状況にみながみな、浮かれていたわけではない。当代一、稼いだであろう京都帝国大学、河上肇は書けば書くほど、自分が豊かになり、労働者のためになっていないことを深く憂いていた。彼が飲み屋の労働者に騙されて、払いをさせられ、しばらく、騙されたことにさえ気づかなかった話は有名だろう。彼は労働者のために働く意欲を有していた。しかし、働いたこともなかったし、だからこそ働き方も分からなかった。その姿はどこか可笑しくて、そして、どこか悲しい。他方、プロレタリア文学者は売れるまでは皆、貧乏であった。しかし、彼らは私小説家のように、自分の生活を壊す衝動に駆られる前に、売れることを望み、実際、売れたら素直に喜んだ。私はこの二つの話に一片の真実を感じている。

世の中は青年が思うほど潔癖ではないけれども、ギルドの血を引く口舌の徒が叫ぶほど捨てたものでもないと私は思う。どの局面に目を向けるかは本人の好みでしかない。