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昨日、書いたエントリで、「優れた現実感覚を持つ人の政策提言」という表現を書いた。では、私の考える優れた政策提言とは何かを書いておきたい。一言で言うと、実際の政策として実現する可能性の高いものが優れた政策提言である。このエントリは基本的に学術的な要素はほとんどなく、私の個人的な一見解に過ぎないので、あしからず。

世には政策論議が多いが、そのほとんどはこの規準に照らし合わせればゴミである。どうも政策提言を自分の使命のように考えて論文を書く人もいるが、自分の提言がどのようなプロセスを経て、政策として実現するのか、あるいは実際の政策立案者にダイレクトに影響を与える、というような青写真がなければ、画に描いた餅である。それでもその描き方が秀逸であれば、一つの作品としての価値があるが、それさえもないのであれば、存在価値自体に疑問を持たざるを得ない。学会などに行くと自分は何十年もこの政策を訴え続けてきたが実現していないと声高に主張する人がいるが、自分の政治的無能さを公言しているようなものである。まったく恥ずかしい話だ。

濱口さんの本がもっとも優れて現実感覚を発揮していると思えることは、政策がどのように作られるのか、あるいはどのように人々に影響を与えるのか、ということをよく意識している点である。判例に通じているのもそういう観点から理解すべきであって、法律に詳しいなどという話でまとめるべきではない。判例は法の解釈だからである。また、第4章の最後で労働組合に学労使の鼎立関係を確立して、そのなかに確固たる地位を築けと主張しているのも極めて真っ当な意見である。

私の理解している日本の政策プロセスとは簡単に言えば、以下のようなものである。官僚が下案を作る。それを審議会に諮問に掛ける。審議会には役所の然るべき地位の人、経営者の代表、学識者などが入って審議する。濱口さんはこの審議会のところに、労働者代表をもっと送り込めといっているのである。具体的な論点については審議会の中にさらに特別委員会が設置され、その中での有識者が選ばれることがある。以上の人選は基本的に官僚が行う。したがって、原則的には官庁の意向がある程度、審議会が設置された時点で反映されている。ただし、細かい点ではある程度の修正を反映させる(むしろ、ある程度の修正を行うことは大事である)。以上のような作業をとりまとめて立法準備に入る。もちろん、この過程で政治家から修正が入る可能性もある。政治家が口を出すのは、自分たちの背景の支持者の意向を受けての場合もあるが、それぞれの属する委員会で勉強した成果である可能性もあるだろう。そして、法案が国会に持ち出され、法律が成立する。その後、これをどう運営するかは日常的には通達等による判断(意思表示)を通じて所管の行政組織がフォローする。不法行為が絡んでくる場合、裁判所が判断を示す。この間、官僚は非常に重要な役割を担っているのだが、基本的には黒衣に徹することになっている。一応、話を進めるために、上のような簡単な構図を示しておいたが、実際にはもっとゴチャゴチャしているだろう(議員立法などは異なるプロセス)。

今は自民・民主を問わず、官僚を叩くことで投票者の歓心を得ることに忙しい。まったく浅ましいことである。官僚の力を剥奪したら、その代わりに国会議員の行う仕事が増える。にもかかわらず、国会議員を減らすとなると、一体、誰が日本の政治を運営するのか。

今の官僚批判は明らかに度を越していると私は思う。この前、厚生労働省に行ったら、廊下の電気が半分、消えていた。経費節減のためだろう。私は厚生労働省に問題がないというつもりはないが、国家の重要な仕事を担っている人々にこうした仕打ちを加えるのは甚だ疑問である。そこまで萎縮しなければならないというのは間違っている。

制度改革はなんとか今ある官僚の人的な力をより有効に活用できるように向うべきだ。そのためにはある程度のオープン化が必要だと私は考えている。要するに、黒衣に舞台にあがってもらうのだ。ただし、完全なオープン化をしてしまうと、難しい案件の調整に支障を来たす場合があるので、そのあたりは程度問題である。舞台に出てきてもらうというのは、具体的にはたとえば、審議会の中で学識経験者や経営者代表、労働者代表と対等な立場で意見を戦わすというような役割を担うということである。その場合、必ずしも省をあげての一つの立場に固定せずに、対立するいろんな派が出てきた方がよい。ただし、理想は対立する立場の何がメリットで何がデメリットなのかというメニューを正直に提示することである。

オープン化することのメリットは、国民が政策策定のプロセスを知ることが出来るというだけでなく、実際の官僚の仕事が周知されることによって、その内容が本当に尊いものであるならば、官僚が国民からの尊敬を集めることが出来る点にある。そして、官僚が学んだことが直接的に国民にも還元される。それがもっとも健全な姿だろう。

問題は官僚が表舞台にあがったときに、それに対抗できる役割をそれぞれが演じられるかどうかという点である。それは言い換えれば、それぞれの代表を送り出す組織がそういう役割を演じられる人間をどのように育成するかという問題でもある。実は、このあたりが一番の核ではないか。改革は単なる破壊であってはならない。官僚を舞台から退場させるというシナリオを描くにしても、代わりはどうやって供給するのかをはっきりさせる必要がある。これは実は濱口さんの労働組合がもっと審議会等に参加すべきという意見とも関連する。要するに、そもそも数々の審議会等に代表を送り込もうとしない組合のビヘイビアは一体どういう理由で生まれるのかを突き止め、解決する必要があるのだ。

冒頭に書いたように、実現できない政策論議は意味がない。ただ、とにかく文句を言って溜飲を下げるというような効用だけは期待できるだろう。私のここでの話も実現までの青写真を持っているわけでもないし、そういうことに関われるとも、関わろうとも思っていないので、ただの床屋政談だと思って欲しい。
ここ数週間、濱口さんのブログで、御自身が一生懸命、探して紹介している(本当の意味でインタラクティブ!)『新しい労働社会』の書評を楽しみに読んでいると、彼のメンバーシップの議論に蒙を啓かれたという人が結構、いるらしいことが分かった。どうも誤解しているのか、あるいは、よく分かっていないのか、方法論上の基本的な話をちょっと書いておこうと思う。

濱口さんが現実感覚のある方であることは特に議論せずに認めてしまってよいと考えている。ただ、その現実感覚がどういうものかはもうちょっと、踏み込んでみた方がよい。普通の人は、現実感覚というと、現場感覚とほぼ同じように考えてしまい、労働の現場についてよく知っているという程度で理解してしまう。これが誤りのもとだ。

現実というのは、当たり前だが、いろいろなフェーズを持っている。単純な労働の現場、それを論じる場と色々だ。濱口さんがすごいのはそのそれぞれにある程度、通じているというところだ。「それを論じる場」とこれまた一括りにしてしまったが、大きく分ければ、ジャーナリズムと学界(両方とも偽者と本物)の二つがある。普通の人はそのどこかの世界に引っかかってればよいのだが、濱口さんは義理堅いのか、どの分野にも目配りをしている。ただし、濱口さんご本人が使っているリアルな感覚は、こういうものは全部背景にしまっても構わなくて、最終的に然るべき事実認識に基づいた現実的な政策提言をすることに尽きる。

ただ、この本を読む前提として、社会科学の基本的なルールを知っておくのは便宜的であろう。私の独断と偏見では、社会科学の理論は、純度の高いものであっても、前回までのシリーズで書いた賃金のような実践的な性格を色濃くもったものであっても、同じように現実を直接、説明するわけではない。現実の断面を理解するための手立てなのだ。他の人はどうか知らないが、私の場合、歴史的事実を調べるために資料を読み込むための頭の使い方と、それがいったいどういう性格であるのか、ないしどういう意味を持っているのかを分析するときの頭の使い方は根本的に違う(もうちょっと精確に言うと、資料を読むのには頭だけを使っているわけではない。ここを参照)。昔の段階論がこういう事実を説明していないとか、そういう野暮な批判は言わない方がいい。そういう大まかな理論はいわば地図であって、大体、分かればよいのだ。

ここ数回書いたエントリがすんなり分かった人には言わずもがなの説明だが(すなわち、前提として書いてしまった)、『新しい労働社会』の序章の背景にあるのは、ご本人のペーストが乗せられているものの、基本的には日本的経営論などで論じられてきた、クラシカルな議論だ。何を言いたいかというと、この部分は現場感覚などなくても書ける、ということだ。むしろ、必要なのは学説の相場についてのバランス感覚、という意味での現実感覚といえるだろう。

こういう分かりやすい構図で描く利点はいくつか考えられる。第一に、読者に分かってもらうことである。これも二つに割っておこう。まず、初心者に分かったと思ってもらうである。第二に、もう少し邪推すれば、単純化は論点を明確にする。第三に、事実を詳しく説明する労を省く。

この本全編にたしかに、濱口さん一流の現場感覚は埋め込まれていると思うが、正直に言うと、相当に背景に隠されていて、私の感覚ではそれを読み取るのは相当に難しいだろうと思う。たとえば、昔からこのクラシカルな議論は大企業モデルで、中小企業には当て嵌まらないではないか、という批判があった。濱口さんもそのことは承知しているから、きちんとエクスキューズを書いている。そして、中小企業が重要でないとは思っていない。ただし、大企業における過労死の問題、非正規問題など、論点を絞って政策を提言する分には、たとえ中小企業の問題を捨象したとしても、それはそれで有効なフレームワークなのだ。したがって、「日本は~」と書いてあるからと言って、日本全体のことを説明しているなどと早合点してはいけない。極めてピンポイントを狙い済ました叙述なのである。

私の言っていることが間違っているかどうか検証したければ、濱口さんが私を紹介してくれたエントリに貼られた彼の古い文章と第4章の叙述を比べてみればよい。どちらが具体的な事実を詳しく述べているかよく分かるだろう。このような多様な抽象次元の議論を自由に駆使して、説得できることこそが、私の言う現実感覚なのである。

政策は設計する段階では、いろいろと複雑な事情をそれこそ十重二十重に考える必要があるが、訴える段になったら、単純でなければならない。その意味で本来、政策提言はその内容を問うまでもなく、少なからずプロパガンダ的性格を持たざるを得ないのである。まず、政策提言を読むときには、こうした性格を知る必要があるだろう。

ただ、ここで書いた注意事項は優れた現実感覚を持つ人の政策提言を読むときに限る。この点を次回、もう一つ、詳しく書いてみよう。
ちなみに、ここまで詳しく書いてしまったので、付け加えておくと、いわゆる属人給は、おそらく氏原正治郎以来、賃格という言葉で表現されることがあった。賃格は身分よりもさらに細かい概念で、一つの身分の中に複数の賃金レート(賃率)があるようなときの、その一つ一つの賃金をいう。これは現代風の言葉で言えば、範囲給である。

こうした賃金制度の言葉を勉強したい人は、小池先生の『日本産業社会における「神話」』日本経済新聞社、第3章を何度も読み返すといい。アメリカのホワイトカラー賃金に関する実証研究も丁寧に紹介されているし、数多くの事例を使いながら、説明している内容は実は繰り返しになっているので、一つの事例からだけでは理解しにくい人でも、いくつかを比較しながら読むと多少、理解しやすいかもしれない。ただ、賃金の問題は意外と最初の頃は難しくて、参入障壁の高い分野だと思う。

ちなみに、ブルーカラーについては、戦前の大矢三郎の『請取賃金制度論』と大西清治・瀧本忠男『賃金制度』が名著だ。間違っても古林喜楽や増地庸治郎の賃金論を読んで失望しないように。なお、増地先生の代表作はあくまで『株式會社:株式會社の本質に關する經營經濟的研究』なので、『賃銀論』で判断しないで欲しい。賃金形態論はどちらかというと、経済学より経営学の方が得意だから、経営学との関連から勉強しようと考えること自体は間違っていない。この場合、管理会計との関係を知っておいた方がよい。ただし、この場合、意味があるのはほぼブルーカラーの賃金との関係においてである。

賃金についてはまず、理論的なレベルで理解できることが大事だと私は考えている。
昨日まで資料集めに奔走していたので、更新できませんでした。続きを書きます。

所属型という理解がある程度の正しさを持っているというのは、賃金という観点から見ると、いわゆる属人給の考え方に親和的であるという点からいっている。属人給をどう考えるかというと、基本的には職務ではなく、人に対して支払う賃金ということになるだろう。

人に対して支払うことを少し遡ってみてみれば、被用者という立場に対して支払うというものである。これは別に法人との雇用関係である必要性はまったくない。別に、個人商店の店主と雇用関係を結んでも話は同じである。それどころか、元来、年功賃金論のようなものは、戦時期には中小企業を含めたどの産業でも広く見られる慣行として話題になった。いわく、高齢者の生活保証をある程度、考慮するという慣行である。これが年功賃金=生活給の発想の根底にある。

何れにせよ、人に対して賃金を支払うというのは、別に大企業においてのみ見られるわけではないのである。それはあえて刺激的な言葉でいえば、身分に対して支払われるのである。基本的には、被用者と雇用者という身分関係に対してである。この考え方は実は、西洋にも存在するのであって、日本だけの特殊事情ではない。

私が博論の中でも論じたことだが、基本的に雇用関係は一対一の関係なのである。しかし、雇用関係の内容は決して当事者同士の間だけで決められるわけではない。これが契約説ではなく、関係説の立場の肝である(関係説の立場については以前書いたここを参照。ただし、関係説と契約説を対比して書いてないので分かりにくいかもしれない)。

他方、今までの日本的経営をはじめとする雇用慣行論は、特に1960年代以降では、ほぼ社会関係から大企業のなかでの処遇を扱うようになっていった。この現象を実証研究の実証水準の高まりから理解してもよいし、小池先生のように段階論的に考えてもよい。要するに、いわゆる旧来の制度学派の人たちは、誰一人、個人間の契約だけで雇用関係の内実が決まるとは考えてこなかったのである。ただ、その分、集団内での個人の関係が見えにくくなったこともたしかだ。

身分制度は企業内にも現存している。ただし、二つのフェーズをわけて考えた方が良い。まず、濱口さんが考えているような、メンバーシップ、すなわち正社員という身分、などの区分け。これは昔から職工・臨時職員・職員・臨時工などという形で存在した。ここまでで理解を止めるならば、メンバーシップ型や所属型というのも間違っていないわけだ。でも、この身分と賃金は直接には結びつくとは限らない。賃金を見るにはもっと微細に制度を観察しなくてはならない。そこで、第二の身分制度が必要になる。すなわち、資格、あるいは軍隊風に言えば階級である。ちなみに、階級とか身分という言葉を使っただけで拒否反応を起こすような人には私の文章を理解してもらおうと思っていない。私は公の場で言葉狩りを行う一切の人々を学者として認めない。

賃金と資格の関係でまず思い浮かべるのは職能資格制度だと思うが、それを論じた途端、日本的な賃金だと早合点する人がいるから、あえてこれにそった説明はしない。何よりもまず、理解しなくてはならない最大のポイントは、仕事の分布である職制と人間の序列関係である資格は異なる二つの系統である、ということだ。ここで仕事の分布と書いて、わざと序列という言葉を使わなかったのは、組織の中の仕事が一つの系列に収斂しえない、という当たり前のことを表現したに過ぎない。仕事の序列以外で構成員を比較する基準が必要になる。それが資格なのだ。もちろん、職制と資格を連動することはよく見られる。たとえば、旧軍の師団長は中将(戦時には少将もいるが)とか、昔の日本鉄道(今のJR東日本に近い)だったら駅長助役は書記補、駅長に昇進する場合は書記、などである。要するに、職制で上のポジションに行くために、資格の昇進が連動している。職能資格制度はこの職制と資格を連動させる一つの仕組みにすぎないのである。

企業内での身分制度は、企業が多数を雇用していることを前提に成立している。仕事の分布であれ、人間の序列であれ、一人だけだったら成立しないからだ。多分、小池先生が段階論(理念型)で書かれているように、大企業が重要、という点を強調すれば、メンバーシップ型という理解もある意味では正しい。しかし、それを外国=職務型と対比して書くのはいかがなものか、と思う。

ちなみに、外国=職務型契約という理解については、プラクティカルに以下の点を確認すればよい。内部昇進をして仕事が変わるごとに雇用契約を更新するのか?

ついでに言うと、私の見るところ、日本と外国を対比させて、理念型で論じた最初の論者は和田豊治ではないかと思っているが、そのことは別の機会に改めて書くことにしよう。
前エントリの続き。

所属型賃金対契約型賃金、あるいはメンバーシップ型対職務型

前回はブルーカラーをみたわけだが、今回はホワイトカラーをみてみよう。ホワイトカラーの場合、熟練工のように、職人の系譜を引き継いだわけではないので、tradeはそもそも存在していなかった。しかし、組織内での職務は標準作業表とは別の形で予め定められていた。すなわち、職掌である。その意味では、tradeと同じようにある職種が組織内に確立していたといってよい。

職掌は基本的に権限と責任を明文化したものである。ほとんどのケースでは細かい仕事のやり方までは示していないと推測されるが、それでもどの領域の職務を行うかは明確といえるだろう。もちろん、現実には境界上の仕事に従事する者もいるが、そのうちの幾分かは兼務という形で、形式的にも対応(ないし表現)可能なのである。重要な点は、細かい作業分析の結果、職務(ないし職掌)が構築されるわけではない、ということである。ここに前回、tradeについて書いたように、作業の詳細までが分かっていなくてもよい、という含意がある。ただし、この場合「詳細」というのは当然、時間・動作研究を念頭に置いているので、秒単位という意味である。つまり、職務を確定するには、権限の委譲という形で上からおろしていく方向とtaskの積み上げという下からあげていく方向の二つのベクトルが存在するのである。前者によって決められる人々をスタッフと呼び、後者によって決められる人をラインと呼べば、常識的な話として落着くだろう。ちなみに、ついでに述べておくと、八幡製鐵が1950年代からライン・スタッフ制度を導入しようとしたとき、彼らは主観的にはアメリカ方式を批判的に摂取したのだが、実はそれを摂取できる、言い換えれば、標準動作確定の無理を吸収できる、そういう土壌として、職掌の考え方が既に存在していたことに注意しておいてよいだろう。

ここまでの議論で明らかなことは、私は日本の歴史的事実を紹介しているが、別に日本固有のロジックによって説明していないという点であろう。たとえば、定額給(時間給)と出来高給などはすべて外国でも説明可能なのである。

意外と長くなりそうなので、次回に続く。
・・・すみません。
何年か前に晴山俊雄さんの『日本賃金管理史』を経営史学(41-2)に書評したことがある。この書評は客観的に読むと、批判に費やしている紙数が多いが、私としてはこの本を門外漢が読むときのポイントもすべて説明した。その意味では書評というより解説という趣になってしまった。

その晴山さんの賃金論の核は欧米=契約型賃金、日本=所属型賃金と捉えていることである。晴山さんは元立教の三戸公先生のお弟子さんで、すなわち、日本的経営論の系譜に位置する。一般的には誰の弟子であったかがその人の研究内容を決定付けるわけではないが、晴山さんの場合、かなり忠実に日本的経営論を継承しようとしているので、この説明が必要なのである。

日本的経営論、日本的賃金論にある程度、親しんだ人ならば、欧米=契約、日本=所属という対立構造は受け入れやすいものなのかもしれない。実は、濱口さんの『新しい労働社会』の序章で雇用契約を欧米=職務、日本=メンバーシップと捉えているのもこのアナロジーとみてよい。言ってみれば、これは戦後数十年にわたって議論されてきたことを素直に継承したら、このような議論になるというような典型例なのである。そして、こうした見方は、半分くらい当っているので性質が悪い。

この手の問題を理解するためには、予備知識として職務(job)の捉え方が二種類あることを知る必要がある。一つは、ほぼtrade(職種)と同じ意味であり、実はこちらの仕事内容は概念的には必ずしも厳密に知られる必要はなく、おおよそこの領域のことをやっている、ということでよい。言い換えれば、仕事内容に言語化、形式知化できない部分があっても構わない。もう一つは、科学的管理法の時間・動作分析によるtaskの積み上げによって構成されるjobである。労働の領域では、この狭義の定義をjobと考える人もいる。

使用者がtradeを使うときには、仕事のやり方を指示する事が出来ないという意味で、雇用関係よりも請負関係にならざるを得ない。形式的に雇用関係でも、事実上、仕事のやり方を親方職人に丸投げする方式を内部請負方式と呼ばれる。呼称はともかく、この方式は会社のどの層でも採用しうる。それは請負や外部委託がどの層でも存在することと等しい。たとえば、経営再建のためのトップマネジメントの招聘という形で実現するかもしれないし、工場の現場での請負という形になるかもしれない。

後者のjobの意義を理解するために、ブルーカラーを考えておこう。熟練職人というのはtradeに近かった(イギリスの場合、完全にtradeだった)。アメリカ機械技師協会(と訳すかどうか分からないが、ASMEのこと)のテイラーは工場内での熟練工支配を解体しようとした。弟子のギルブレイス夫妻も含めて動作・時間研究による標準動作の確立というテーゼは、熟練工支配から資本家(企業家)及びその委託を受けたコンサルないし職員による支配を狙ったものであった。

科学的管理法を各国がどのように受容したかは興味深いテーマだが、日本では先進的な企業は1920年代までには取り入れていた。ここで私が先進的企業といっているのは紡績大企業である。ここでいう科学的管理法には1910年代から20年代に発展した標準原価計算も含めている。ただし、紡績は例外的な存在であったと推測される。とはいえ、動作研究自体は他の産業でも1930年代までに相当に調査・研究されており、主要な論点はほぼ出揃っていたと考えられる。

職務給導入や能力主義、最近では成果主義などがほぼ同じテーマが十数年ごとに繰り返し、論じられてきた。その起源はおそらく、1920年代にあるだろう。晴山さんによれば、職務給を導入する過程で、後にいわゆる年功賃金と理解される形態の賃金が発見されたという。私はこの意見に賛成しないが、傾聴に値する仮説だと思う。ただし、この頃に議論に参加した人たちは実務のプロであったので、定額給と出来高給(請負給)の性質上の長短をよく分かっていた。

出来高給は基本的に仕事の成果に対して支払われる賃金形態である。ただし、一般に数でカウントすることが多いため、質について評価しにくいといわれる。これに対し、定額給は生産数量自体のインセンティブがないため、粗製乱造に走る危険は少ない。また、部下の監督や教育などのいわゆる間接業務には出来高給は向かない。そのため、定額給で支給せざるを得ない。監督層に定額給を支払うとすると、熟練工の賃金より著しく低ければ、その成り手がいない。だから、ある程度の水準を支払う必要があるし、定期昇給も当然、必要になる。しかし、勢いどうしても査定が甘くなりがちで、必要以上の人員を昇進させることになりがちである。これが1920年代以前でも認識されていた、賃金形態そのものの性格が齎す問題であった。出来高給と定額給の割合をどのように決めるかには正確な解答はなく、程度問題であったといってよいだろう。

1930年代以降、特に大陸で戦争が始まった直後は、海軍の波多野貞夫は定額給の必要を訴えた。ただし、波多野の議論は確信犯的に分裂的であり、要するに、出来高給から定額給への移行を実行できるために、いろいろな方面から自説を補強している。とはいえ、その中でも一つの核がある。厳密な生産管理(生産計画)を前提とすることである。そこには二つのフェーズがある。第一に、理論的に考えれば、作る量が最初から決まっていれば、やる気を出した熟練工で多く作りすぎても困るわけだ。第二に、マネジメントが確立していれば、労働者にやってもらう仕事は予め決まっている(標準作業の確立)。だが、完璧なる生産統制は難しく、反対派はその実現可能性を特に問題にした。

さらに、標準作業の実現に向けて、根源的な疑問が投げかけられた。すなわち、ある仕事は個別の作業にすべて解体しうるのか否かである。逆に言えば、個別のtaskの集合がjobなのかということである。今、一つのjobがtask1~task5とtaskA~taskEの10のtaskで構成されているとしよう。数字のtaskとアルファベットのtaskの間に優劣はない。このときtask1だけをこなせる労働者とtask1とtaskAをこなせる労働者を比べると、論理的にはtask1の能力は同じだと考えられる。しかし、実際にはtaskAという別の仕事を経験することによって、task1の仕事について深く理解できるかもしれない。分かりやすい例をあげると、前工程の作業や後工程の作業を経験することで、自分の工程の仕事にどのような意味があるのか理解できるようになる、というようなことだ。実際のところはどれだけ理論的に詰めて考えられたのかはよく分からないが、少なくとも企業の実務家たちは、結果的にある仕事を個別作業に解体しえない部分が残ることを認めた。それはときには解析能力の低さの結果として認識されたこともあった。何れにせよ、熟練工の能力に頼ったのである。日本の賃金が複雑なのは、このような様々な分析の結果を引き継いでいる側面があるのだ。

もう半分、頑張ると、所属型という理解がどうして生まれたのか、その理解が半分くらいは正しいという意味は何か、というようなことを論じられるのだが、もう飽きちゃったので、このあたりでやめておこう。

ここまでお付き合いくださった方、ありがとうございました。リクエストがあれば、続きを書きます。