2009年08月29日 (土)
お待たせしました。続きです。
1920年代の中ごろになると、富士紡において工場間を連携させる争議が展開するようになった。たとえば、川崎工場の争議が不利になったときに、大阪工場で争議を起こしてダメージを与えるというような戦術が行われるようになる。これは争議戦術の革新である。1910年代までの富士紡の組合、とくに1920年の争議後、解散してしまった押上工場の組合は、富士紡の他工場との連携をとるというよりは、江東地区の中心的な地位であった。実際、本所支部に何人も幹部を送り出しているし、財政的にも豊かであった。何かの義捐金を募ると、友愛会内の何れよりも多額を拠出する。それも一桁違うのだ。だから、組合幹部が運動家としての能力が低かったわけではない。
押上工場の組合は実は近くの小名木川工場の組合と連携することはあったが、googleでたしかめて頂ければ分かるとおり、現在の半蔵門線の駅で見れば、二つの最寄り駅は押上と清澄白河、電車で10分ちょっとの距離だ。歩けない距離でもないご近所である。ただし、同一企業の組合が連携して争議をすることの効果を知るには十分であったろう。おそらく、こうしたことから、徐々に戦術が拡張されていったと考えるべきであろう。
そもそも、イギリスの職業別組合を考える場合、もっとも原始的な形態は地域別であった。この場合、地域別というか、産業集積という問題を考えないといけない。紡績(綿業)を中心に産業が発展していくという説が日本経済史にも西洋経済史にもあるのだが、長いこと、空間的距離の近接さは重要なマターだった。だから、ランカシャー、オルダムといった産地で組合がまず出来、それが徐々に全国的な連合をなしていく、というのが発展の順序になるわけだ。
日本の場合、大阪や東京などで紡績地帯というものは出来たが、それ以上に、全国いろいろなところで紡績工場が存在した。特に、総同盟内にあった繊維の産別組織が当初、押上工場壊滅以前は東京(江東地区)を中心、後に大阪を中心としていたことは記憶しておいて良いだろう。しかし、日本の特徴として重要なのは、各工場が企業の合併により、大企業に統合されるという事態が明治後半には見られたということだ。ただし、大正中期までにこうした方針を明確に採っていたのは鐘紡、東洋紡(大阪紡と三重紡の合併)、大日本紡(尼崎紡績、東京紡績、攝津紡績の合併)であり、富士紡は紡績大企業の中では当初、そういう戦略を採らず、自社工場を拡張する方針であった。
事実としてこういう前提があったからこそ、工場の連携が意味のあるものだった。戦前は組合運動をやったことによって職工を首にすることも出来たが、解雇にせずとも昇進させたり、転勤させるという方法は存在した。転勤については富士紡の事例を博士論文で実証した。あまり知られていないかもしれないが、転勤を利用して、オルグ活動をやるということも組合の戦術であった。ちなみに、二村先生も鐘紡や富士紡の組合は例外として、事実上の企業別組合と書いておられる(正確には企業別組合ではないが、意図されることは私もまったく同じである)。
事業所別組合が統合される、そのプロセスでは上部組合の役割が大きかった。すなわち、富士紡の組合は皆、もともと総同盟の支部であった(なぜなら、総同盟が分裂する前から各工場に組合があったので)。当時の総同盟の棟梁は松岡駒吉である。その松岡は1920年代から企業別組合という構想を持っていたという説があるらしい(私は原資料に当って確認していないし、何で読んだのかド忘れした。誰の説かご教示願えれば幸いである)。ただ、私はおそらく、松岡は繊維産業から多くのことを学んだと思っている。
松岡は研究も少なく、今後、掘り起こされるべき人物である。近年では、戦後の組合指導者のオーラルヒストリーの中で彼らに強い影響を与えたという証言が数多く残されている。何れにせよ、企業別組合は企業側のロジックからではなく、組合側のロジックから説明されるべきものである。そして、具体的には上部組合の存在をどのように考えるかが重要な論点であると私は考えている。
なお、私の説は、
・組合内の左右対立をどう考えるか?
・産業報国会がどのような影響を与えたのか?
・工職混合組合をどのように考えるのか?
といった問題に答えなければならない。・・・のは知っているのだが、今、忙しいし、当面、私の研究テーマと関係ないので、今回はこのあたりで終わりにしよう。
1920年代の中ごろになると、富士紡において工場間を連携させる争議が展開するようになった。たとえば、川崎工場の争議が不利になったときに、大阪工場で争議を起こしてダメージを与えるというような戦術が行われるようになる。これは争議戦術の革新である。1910年代までの富士紡の組合、とくに1920年の争議後、解散してしまった押上工場の組合は、富士紡の他工場との連携をとるというよりは、江東地区の中心的な地位であった。実際、本所支部に何人も幹部を送り出しているし、財政的にも豊かであった。何かの義捐金を募ると、友愛会内の何れよりも多額を拠出する。それも一桁違うのだ。だから、組合幹部が運動家としての能力が低かったわけではない。
押上工場の組合は実は近くの小名木川工場の組合と連携することはあったが、googleでたしかめて頂ければ分かるとおり、現在の半蔵門線の駅で見れば、二つの最寄り駅は押上と清澄白河、電車で10分ちょっとの距離だ。歩けない距離でもないご近所である。ただし、同一企業の組合が連携して争議をすることの効果を知るには十分であったろう。おそらく、こうしたことから、徐々に戦術が拡張されていったと考えるべきであろう。
そもそも、イギリスの職業別組合を考える場合、もっとも原始的な形態は地域別であった。この場合、地域別というか、産業集積という問題を考えないといけない。紡績(綿業)を中心に産業が発展していくという説が日本経済史にも西洋経済史にもあるのだが、長いこと、空間的距離の近接さは重要なマターだった。だから、ランカシャー、オルダムといった産地で組合がまず出来、それが徐々に全国的な連合をなしていく、というのが発展の順序になるわけだ。
日本の場合、大阪や東京などで紡績地帯というものは出来たが、それ以上に、全国いろいろなところで紡績工場が存在した。特に、総同盟内にあった繊維の産別組織が当初、押上工場壊滅以前は東京(江東地区)を中心、後に大阪を中心としていたことは記憶しておいて良いだろう。しかし、日本の特徴として重要なのは、各工場が企業の合併により、大企業に統合されるという事態が明治後半には見られたということだ。ただし、大正中期までにこうした方針を明確に採っていたのは鐘紡、東洋紡(大阪紡と三重紡の合併)、大日本紡(尼崎紡績、東京紡績、攝津紡績の合併)であり、富士紡は紡績大企業の中では当初、そういう戦略を採らず、自社工場を拡張する方針であった。
事実としてこういう前提があったからこそ、工場の連携が意味のあるものだった。戦前は組合運動をやったことによって職工を首にすることも出来たが、解雇にせずとも昇進させたり、転勤させるという方法は存在した。転勤については富士紡の事例を博士論文で実証した。あまり知られていないかもしれないが、転勤を利用して、オルグ活動をやるということも組合の戦術であった。ちなみに、二村先生も鐘紡や富士紡の組合は例外として、事実上の企業別組合と書いておられる(正確には企業別組合ではないが、意図されることは私もまったく同じである)。
事業所別組合が統合される、そのプロセスでは上部組合の役割が大きかった。すなわち、富士紡の組合は皆、もともと総同盟の支部であった(なぜなら、総同盟が分裂する前から各工場に組合があったので)。当時の総同盟の棟梁は松岡駒吉である。その松岡は1920年代から企業別組合という構想を持っていたという説があるらしい(私は原資料に当って確認していないし、何で読んだのかド忘れした。誰の説かご教示願えれば幸いである)。ただ、私はおそらく、松岡は繊維産業から多くのことを学んだと思っている。
松岡は研究も少なく、今後、掘り起こされるべき人物である。近年では、戦後の組合指導者のオーラルヒストリーの中で彼らに強い影響を与えたという証言が数多く残されている。何れにせよ、企業別組合は企業側のロジックからではなく、組合側のロジックから説明されるべきものである。そして、具体的には上部組合の存在をどのように考えるかが重要な論点であると私は考えている。
なお、私の説は、
・組合内の左右対立をどう考えるか?
・産業報国会がどのような影響を与えたのか?
・工職混合組合をどのように考えるのか?
といった問題に答えなければならない。・・・のは知っているのだが、今、忙しいし、当面、私の研究テーマと関係ないので、今回はこのあたりで終わりにしよう。
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2009年08月27日 (木)
企業別組合がどのように作り上げられたのかについては、管見の限り、説得的なよい論文がない。現在のところ、二村先生がかつて書かれた論文「企業別組合の歴史的背景」が相場となっているようだ。有名なクラフトユニオンの不在説である。しかし、なにかがない、ということはそれ自体、本来、何かを作り上げたというロジックとしては成立しない。もし、二村説が正しいとするならば、クラフトユニオンがなかったことによって(条件が制御されることによって)、展開した論理を明らかにする必要があるのだ(二村先生は「不当な差別への憤怒」として触れられている)。しかし、この説には、なぜ組織形態として企業別が採用されるのかが論じられていない点に目を瞑って最大限譲歩しても、事業所別組合と企業別組合の区別をしていないという問題がある。
周知の通り、戦前の組合は事業所別組合ないし地域別組合である。そうした個別の各組合がさらに、上位の一般組合に加入するか、何れにせよ、属しているという形であった。ここで注意しないといけないと、事業所別組合は企業別組合とは必ずしも同じではないことだ。具体的に言えば、八幡製鐵(昔は単に製鉄所といった)が事業所別組合であれば企業別組合といっていいかもしれないが、各地に工場を持っている東洋紡の四貫島工場に組合があったとしてもそれは企業別組合とはいえない。企業がブランチを持っているかどうかが重要なのである。
私の見る限り、日鉄機関方争議を例外として、1910年代までの組合活動は工場間ないし企業内の連携をとる戦略は稀だった。といっても、友愛会の幹部が支部の活動を抑えきれずに、争議活動を徐々に認めていくのが1917年であるから、そこから数年はまだ黎明期である。私はこの時期の争議がかなり、二村先生の強調される「不当な扱いへの憤怒」であったという見通しを正しいと思っている。実際、経営者側にもこの点を強調しているものがいた(鐘紡の藤正純など)。こうした考え方の背景に温情主義があったというのも事実であり、それがまた、国鉄一家みたいな話と繋がっていると考えるのも無理ではない。とはいえ、企業における一体感みたいな話と企業別組合にはまだ距離がある。
例によって長くなりそうなので、また、続きは次回。
周知の通り、戦前の組合は事業所別組合ないし地域別組合である。そうした個別の各組合がさらに、上位の一般組合に加入するか、何れにせよ、属しているという形であった。ここで注意しないといけないと、事業所別組合は企業別組合とは必ずしも同じではないことだ。具体的に言えば、八幡製鐵(昔は単に製鉄所といった)が事業所別組合であれば企業別組合といっていいかもしれないが、各地に工場を持っている東洋紡の四貫島工場に組合があったとしてもそれは企業別組合とはいえない。企業がブランチを持っているかどうかが重要なのである。
私の見る限り、日鉄機関方争議を例外として、1910年代までの組合活動は工場間ないし企業内の連携をとる戦略は稀だった。といっても、友愛会の幹部が支部の活動を抑えきれずに、争議活動を徐々に認めていくのが1917年であるから、そこから数年はまだ黎明期である。私はこの時期の争議がかなり、二村先生の強調される「不当な扱いへの憤怒」であったという見通しを正しいと思っている。実際、経営者側にもこの点を強調しているものがいた(鐘紡の藤正純など)。こうした考え方の背景に温情主義があったというのも事実であり、それがまた、国鉄一家みたいな話と繋がっていると考えるのも無理ではない。とはいえ、企業における一体感みたいな話と企業別組合にはまだ距離がある。
例によって長くなりそうなので、また、続きは次回。
2009年08月21日 (金)
職業訓練の歴史を本格的に勉強したことがなかったんですが、三好信浩先生以外にもやはり、すごい方がいらしたんですね。恥ずかしながら、昨日、初めて知りました。もう既に亡くなられた方なんですが、佐々木輝雄先生です。今日は紹介だけです。
職業教育論集は全部で三冊。まとまった著作を生前発表しなかった著者に代って編集されたものだそうですが、刊行会の構成を見ると、人徳というか、すごいですね。本当に偉大だったことが分かります。
まだ、読んでないので、どれも手に取ったときの印象ですが、第3巻は戦前からの職業訓練の歴史を扱っています。戦時統制は賃金と労務の二本柱と捉えることが大事で、これがそのまま、戦後の基準局行政と職安行政という労働省の二大潮流に繋がっていくわけですが、私は賃金統制についてはそれなりに資料を読んで勉強したので、とにかく労務行政を知りたいと思ってました。内容を見たとき、感激しました。もうちょっとして、時間が出来たら、三部作をぜひじっくりと読んでみたいです。
どうでもいいですが、Amazonの古書価が三冊とも異様に安い。お買い得だと思いますので、興味のある方はぜひ、早い者勝ちで。
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まだ、読んでないので、どれも手に取ったときの印象ですが、第3巻は戦前からの職業訓練の歴史を扱っています。戦時統制は賃金と労務の二本柱と捉えることが大事で、これがそのまま、戦後の基準局行政と職安行政という労働省の二大潮流に繋がっていくわけですが、私は賃金統制についてはそれなりに資料を読んで勉強したので、とにかく労務行政を知りたいと思ってました。内容を見たとき、感激しました。もうちょっとして、時間が出来たら、三部作をぜひじっくりと読んでみたいです。
どうでもいいですが、Amazonの古書価が三冊とも異様に安い。お買い得だと思いますので、興味のある方はぜひ、早い者勝ちで。
2009年08月19日 (水)
書きかけに足しますんで、また、おかしいかもしれません。
ミスリーティングなタイトルですが、読んでいくと、真意は分かっていただけると思っております。
稲葉さんの「「労使関係論」とは何だったのか」シリーズが更新されたのを機に、前の方を読み返してみた。書いてあることはほとんど理解できていると思うのだが、まだ、どういう方向に行くのか私には見えてこない。
細かいことが気になったので、思いつくままに書いておきたい。
氏原=小池ラインという見方は、どうも私が在籍中も東大出身者のなかで共有されていたように思うが、この捉え方は必ずしも正確ではない。学術的な内容だけで言うと、小池先生は後にいわゆる内部労働市場論を論じるし、その延長線上に企業別組合についても言及されているが、一番最初のお仕事は『日本の賃金交渉』で、簡単に言えば、(その当時の多くの人は)企業封鎖的市場といっているけれども、産別が結構相場を作ってるじゃないか、というのが重要な主張だった。現代からみると、春闘だとか、トヨタが相場を作るとかそういう仕組みは常識に属することだが、小池先生はおそらく常識として定着する前に学術的研究として送り出してしまったのである。それから、1960年代前半?に臨時工についての論文を発表されているが(部分的には『賃金』に収められている)、そのエッセンスは大企業の中に臨時工という層が競争して、その競争に敗れた人たちが中小工場に行くという話で、強調点は労働市場は大企業だけで孤立してるわけじゃないという方にあった。
ついでに言うと、昨日の濱口さんが紹介されていたエントリで小池先生の熟練論を論じているものがあったが、ちょっと誤解があるようなので触れておく。大企業を中心に論じることの意味は、現代ではそこがもっとも技能形成を行う場を提供するという段階論的な前提を受け入れないと理解できない。端的なイメージではクラフトから企業へという感じだ。別にクラフトや企業だけが重要だといっているわけではないのだが、そのときに代表的な対象をチョイスするというのがポイントなのだ。だから、小池理論=大企業論みたいな狭い構図で理解しない方が良い。ちなみに、稲葉さんの「労使関係論とは何だったのかシリーズ」はこんな簡単なことは説明してくれないが、これを踏まえて(15)を読まれると、幾分かは分かりやすいかもしれない。うーん、まだ、分かりにくいかもしれない(笑)。
小池先生の大企業という枠組みを超える方向を目指した研究はないかといわれれば、ちゃんと文献的なフォローをしていないけれども、浅沼萬里先生と河野英子さんの研究をあげたい。浅沼先生がサプライヤ論を論じたことは有名で経済学まわりの人は誰でも知っていると思う。河野さんはゲストエンジニアという、サプライヤからメーカーへと出向したエンジニアがどのように技能を形成し、また、戻ってきた後に経験した仕事との関係でそのゲストエンジニア経験を論じたりしている(もっといろいろな面白い論点があるが)。ここまでくれば、理論的には企業グループへと拡張するし、さらには産業集積論みたいな話ともブッリジして、技能形成を考えることが出来るだろう。また、もの造りのような職種ではなく、SEや営業などの顧客との直接コンタクトありきの職種では、技能の中に顧客との関係構築自体が含まれるわけだから、同僚や機械との協業(機械との協業という言い方が変なのは承知しているけど、詳しく書くのが面倒になった)だけで話が終わらない。そういう領域にも進んでいけるだろう。
話を組合まで戻そう。日本には奇妙な風習があって、日本の組合は企業別組合でヨーロッパはトレードユニオンみたいな理念型でよく論じられる。考えてみれば、日本だって鉄工組合の輝かしい栄光は今、措くとして、現在の組合の一つの潮流を作ったのは友愛会という一般組合だった。また、ウェブ夫妻の『トレード・ユニオニズムの歴史(邦題は労働組合運動の歴史)』には、一般組合の話もよく出てくる。そういう意味じゃ、産別や一般組合の問題を理論的に考えるというのも必要な作業だろう。産別についてはさしあたり、小池先生の『日本の賃金交渉』が一つの到達点であることは間違いない。なぜだかみんな、言わないので、あえて書いておく。
稲葉さんの話はミクロ(この場合、企業や労働者個人、正確には資本と労働かな)とマクロ(国)の二つの次元は出てくるけれども、その中間はまだ出てきていないような気がする。日本経済史でも10年くらい前から少しの間、中間団体の役割みたいなことが注目されたことがあった。労働の分野だと、猪木先生の編著は、トクヴィルの議論をうけて、この領域を扱っているといえるだろう。
本当は私自身が考えている、企業別組合がどうして歴史的に生まれてきたか、という点を書きたいと思ったのだが、長くなったので、また改めよう。ちなみに、技能形成からは説明しない。
このエントリは稲葉さんとはちょっと違った角度から書いてみたが、案外、大企業枠をどうやって外すのか、みたいな大枠の問題意識は共通してたのかな、などと今、思った。稲葉さんの議論は労農派にも講座派にも宇野派にも内在的に入っていって、それぞれが持っていた道具を使いながら、問題を打破していくという方向で、それは困難かつ、立派な道である。とはいえ、ちょっと付き合いが良すぎるんじゃないかという気がしたのも偽らざる感想だ。
何はともあれ、最後に河野さんの本を紹介。私は個人的には、『もの造りの技能』と並んで自動車産業における技能形成を勉強したい人は必ず読むべきだと思っている。興味ある方は是非。
ミスリーティングなタイトルですが、読んでいくと、真意は分かっていただけると思っております。
稲葉さんの「「労使関係論」とは何だったのか」シリーズが更新されたのを機に、前の方を読み返してみた。書いてあることはほとんど理解できていると思うのだが、まだ、どういう方向に行くのか私には見えてこない。
細かいことが気になったので、思いつくままに書いておきたい。
氏原=小池ラインという見方は、どうも私が在籍中も東大出身者のなかで共有されていたように思うが、この捉え方は必ずしも正確ではない。学術的な内容だけで言うと、小池先生は後にいわゆる内部労働市場論を論じるし、その延長線上に企業別組合についても言及されているが、一番最初のお仕事は『日本の賃金交渉』で、簡単に言えば、(その当時の多くの人は)企業封鎖的市場といっているけれども、産別が結構相場を作ってるじゃないか、というのが重要な主張だった。現代からみると、春闘だとか、トヨタが相場を作るとかそういう仕組みは常識に属することだが、小池先生はおそらく常識として定着する前に学術的研究として送り出してしまったのである。それから、1960年代前半?に臨時工についての論文を発表されているが(部分的には『賃金』に収められている)、そのエッセンスは大企業の中に臨時工という層が競争して、その競争に敗れた人たちが中小工場に行くという話で、強調点は労働市場は大企業だけで孤立してるわけじゃないという方にあった。
ついでに言うと、昨日の濱口さんが紹介されていたエントリで小池先生の熟練論を論じているものがあったが、ちょっと誤解があるようなので触れておく。大企業を中心に論じることの意味は、現代ではそこがもっとも技能形成を行う場を提供するという段階論的な前提を受け入れないと理解できない。端的なイメージではクラフトから企業へという感じだ。別にクラフトや企業だけが重要だといっているわけではないのだが、そのときに代表的な対象をチョイスするというのがポイントなのだ。だから、小池理論=大企業論みたいな狭い構図で理解しない方が良い。ちなみに、稲葉さんの「労使関係論とは何だったのかシリーズ」はこんな簡単なことは説明してくれないが、これを踏まえて(15)を読まれると、幾分かは分かりやすいかもしれない。うーん、まだ、分かりにくいかもしれない(笑)。
小池先生の大企業という枠組みを超える方向を目指した研究はないかといわれれば、ちゃんと文献的なフォローをしていないけれども、浅沼萬里先生と河野英子さんの研究をあげたい。浅沼先生がサプライヤ論を論じたことは有名で経済学まわりの人は誰でも知っていると思う。河野さんはゲストエンジニアという、サプライヤからメーカーへと出向したエンジニアがどのように技能を形成し、また、戻ってきた後に経験した仕事との関係でそのゲストエンジニア経験を論じたりしている(もっといろいろな面白い論点があるが)。ここまでくれば、理論的には企業グループへと拡張するし、さらには産業集積論みたいな話ともブッリジして、技能形成を考えることが出来るだろう。また、もの造りのような職種ではなく、SEや営業などの顧客との直接コンタクトありきの職種では、技能の中に顧客との関係構築自体が含まれるわけだから、同僚や機械との協業(機械との協業という言い方が変なのは承知しているけど、詳しく書くのが面倒になった)だけで話が終わらない。そういう領域にも進んでいけるだろう。
話を組合まで戻そう。日本には奇妙な風習があって、日本の組合は企業別組合でヨーロッパはトレードユニオンみたいな理念型でよく論じられる。考えてみれば、日本だって鉄工組合の輝かしい栄光は今、措くとして、現在の組合の一つの潮流を作ったのは友愛会という一般組合だった。また、ウェブ夫妻の『トレード・ユニオニズムの歴史(邦題は労働組合運動の歴史)』には、一般組合の話もよく出てくる。そういう意味じゃ、産別や一般組合の問題を理論的に考えるというのも必要な作業だろう。産別についてはさしあたり、小池先生の『日本の賃金交渉』が一つの到達点であることは間違いない。なぜだかみんな、言わないので、あえて書いておく。
稲葉さんの話はミクロ(この場合、企業や労働者個人、正確には資本と労働かな)とマクロ(国)の二つの次元は出てくるけれども、その中間はまだ出てきていないような気がする。日本経済史でも10年くらい前から少しの間、中間団体の役割みたいなことが注目されたことがあった。労働の分野だと、猪木先生の編著は、トクヴィルの議論をうけて、この領域を扱っているといえるだろう。
本当は私自身が考えている、企業別組合がどうして歴史的に生まれてきたか、という点を書きたいと思ったのだが、長くなったので、また改めよう。ちなみに、技能形成からは説明しない。
このエントリは稲葉さんとはちょっと違った角度から書いてみたが、案外、大企業枠をどうやって外すのか、みたいな大枠の問題意識は共通してたのかな、などと今、思った。稲葉さんの議論は労農派にも講座派にも宇野派にも内在的に入っていって、それぞれが持っていた道具を使いながら、問題を打破していくという方向で、それは困難かつ、立派な道である。とはいえ、ちょっと付き合いが良すぎるんじゃないかという気がしたのも偽らざる感想だ。
何はともあれ、最後に河野さんの本を紹介。私は個人的には、『もの造りの技能』と並んで自動車産業における技能形成を勉強したい人は必ず読むべきだと思っている。興味ある方は是非。
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2009年08月18日 (火)
あんなにもひどいエントリにかかわらず、稲葉さんからコメントいただき、さらに、濱口さんに取り上げていただき、大変恐縮してます。というわけで、反省文を提出したいと思います。
まず、社会政策の源流ともいうべき貧困問題、本家イギリスで花開いたのは正に数量的な意味で無視し得ない存在であるということが19世紀末に暴露されたからです。では、日本でも同じ問題意識で捉えられたかというと、やや違う気がします。内務省の役人たちは自分の仕事との関係から注目していったわけだし、金井延なんかはヨーロッパで起きている事実が日本にもやがて起こる、そして、その兆候は現にスラムやなんかで起こっているという問題意識で、自分で探してきたわけです。私の感覚では、やはりスタートでは少人数という意味での「マージナル」と呼んでもそんなにおかしくないかもしれない。ただ、本家のシュタインも、それを学んだ金井も、そういう社会問題が量的にも大きなものになっていくと考えていました。
ちょっと遠回りになるかもしれないけれども、私が長い間、兵藤先生の『日本における労資関係の展開』に抱いてきた違和感は、日露戦後くらいに重工業の熟練工は日雇いみたいな層からテイクオフしていくんだと主張されていることでした。この見解は中川清先生がしっかりと受け継いだ。中川先生は社会政策プロパーの生活史の大家ですから、今や通説といっていい。なんで、そんなことに疑問符を投げかけるかというと、大正期に広まった福利厚生制度は思想的には労働者を下層階級として前提においている、と私が理解しているからで、このことは博論のなかでも実は強調したいことでした。ただ、この時期にはもう雇用労働者の数は圧倒的に大きくなっていました。
社会政策がもっていた単純な資本制社会の枠組み。労働(者)と資本(家)で社会のきわめて基幹的な部分が構成されているという考え方はその後もずっと継承されていきました。今は資本なんて言い方を使うのは古風なマルクス経済学者や批判派経営学の方たちだけでしょうけれども、こういう二項対立的な考え方はずっと生きている。管理者と労働者で線を引く労働基準法もその一つです。戦時中までは職員と職工で線を引いていた。賃金統制の管掌は、職員は大蔵省、職工は厚生省ですからね。それが戦争末期には厚生省に一本化されていきます。この戦時から戦後初期にかけてのこのあたりの混乱時に「労使関係」という言葉も作られるわけです。そんなことを正面切って断らなくても、ブルー=労働者、ホワイト=資本という括っても通用してきました。それは何のことはない、工場内の工務(今は製造とか生産というのかな)系統の序列は分かりやすくて、ブルーのトップが管理者層に入っていて、ホワイトはその上って理解しても大体よかったから。
こういう歴史的文脈で考えると、いわゆる東大社研グループのなかで1950年代に貧困研究が労働問題研究から徐々に分離していったのは歴史的必然かな、という気もしてきました、書いてる途中で(我ながら、いい加減だな)。
多分、大正中期くらいから、要するに、工業化が進んでくると、労働者と資本家で社会が構成されているという感じ方は、実際にもかなりフィットしてきた。そういう意味ではマージナルじゃなくなっていくんですね。それと同時に貧困問題の捉え方も、景気循環や経済構造の変化によって生まれてくるんだという新しい考えが定着してくる。だから、正確にいうと、この時期の貧困問題には二つの系譜が流れているんです。
ここで社会事業研究の系譜が出てくる。正確にいうと、その前の慈善事業との繋がりが重要になってきます。社会事業関係が問題にする貧困は、経済学的な文脈の失業問題なんかを原因としてなくても構わない。むしろ、援助すべき貧困状態であることがポイントです。戦前の社会政策はそういう意味ではたしかにごった煮でした。だから、今、武川さんや玉井さんが社会学的社会政策を強調したい気持ちもよく分かる。ただし、気持ちが分かるということと、その主張している内容を受け入れるかどうかは全く別です(この文脈に限定すれば、「別」ではなく「逆」と書きたい(笑))。
社会事業から社会福祉の流れが、資本制社会を前提とした社会政策と同じように、非常に大きなターニングポイントを迎えたのは1970年代のことです。社会保険の充実、皆保険や皆年金をどう考えるかという問題があるので、1960年代じゃないの?という横槍が入りそうなのは予測できますが、保険は予防策的側面が強いから、援助という文脈で語るときはあんまり拘泥しなくていいと思います。そういう意味で1970年代が大事。高齢者福祉の問題が少子高齢化社会という文脈でクローズアップされるようになってきて、現在に至るわけです。
何れにせよどっちも今ではマージナルとは言ってられない。私のもともとの発想は、一番はじめに持っていた学問的性格は今でもなんか縛りになっているんじゃない?というものでした。その話と中西・東條本の話は関係ないんじゃないか。言われる前に言っておきますが、関係ありません。混同しました。すみません。
お二人の話は、1950年代から格段に実証水準が高まるなかで、研究はどんどんミクロ化していく。そのときにどうやって全体をパーッと展望することが出来るのか、あるいは、全体とどういう関係にあるのかを忘れちゃいけないというような問題意識の話ですね。下田平先生の話もこの文脈上に捉えても、それなりに説明できると思います。ただ、その対象をマージナルというか、マイノリティを追求していくという話になってくると、別の切り口が必要で、それは1970パラダイムで説明できるのか分かりませんし、もし出来るのならば、東條さんはそこにもうまく位置づけなきゃいけないなと思いますが、今後の宿題ということで。
まず、社会政策の源流ともいうべき貧困問題、本家イギリスで花開いたのは正に数量的な意味で無視し得ない存在であるということが19世紀末に暴露されたからです。では、日本でも同じ問題意識で捉えられたかというと、やや違う気がします。内務省の役人たちは自分の仕事との関係から注目していったわけだし、金井延なんかはヨーロッパで起きている事実が日本にもやがて起こる、そして、その兆候は現にスラムやなんかで起こっているという問題意識で、自分で探してきたわけです。私の感覚では、やはりスタートでは少人数という意味での「マージナル」と呼んでもそんなにおかしくないかもしれない。ただ、本家のシュタインも、それを学んだ金井も、そういう社会問題が量的にも大きなものになっていくと考えていました。
ちょっと遠回りになるかもしれないけれども、私が長い間、兵藤先生の『日本における労資関係の展開』に抱いてきた違和感は、日露戦後くらいに重工業の熟練工は日雇いみたいな層からテイクオフしていくんだと主張されていることでした。この見解は中川清先生がしっかりと受け継いだ。中川先生は社会政策プロパーの生活史の大家ですから、今や通説といっていい。なんで、そんなことに疑問符を投げかけるかというと、大正期に広まった福利厚生制度は思想的には労働者を下層階級として前提においている、と私が理解しているからで、このことは博論のなかでも実は強調したいことでした。ただ、この時期にはもう雇用労働者の数は圧倒的に大きくなっていました。
社会政策がもっていた単純な資本制社会の枠組み。労働(者)と資本(家)で社会のきわめて基幹的な部分が構成されているという考え方はその後もずっと継承されていきました。今は資本なんて言い方を使うのは古風なマルクス経済学者や批判派経営学の方たちだけでしょうけれども、こういう二項対立的な考え方はずっと生きている。管理者と労働者で線を引く労働基準法もその一つです。戦時中までは職員と職工で線を引いていた。賃金統制の管掌は、職員は大蔵省、職工は厚生省ですからね。それが戦争末期には厚生省に一本化されていきます。この戦時から戦後初期にかけてのこのあたりの混乱時に「労使関係」という言葉も作られるわけです。そんなことを正面切って断らなくても、ブルー=労働者、ホワイト=資本という括っても通用してきました。それは何のことはない、工場内の工務(今は製造とか生産というのかな)系統の序列は分かりやすくて、ブルーのトップが管理者層に入っていて、ホワイトはその上って理解しても大体よかったから。
こういう歴史的文脈で考えると、いわゆる東大社研グループのなかで1950年代に貧困研究が労働問題研究から徐々に分離していったのは歴史的必然かな、という気もしてきました、書いてる途中で(我ながら、いい加減だな)。
多分、大正中期くらいから、要するに、工業化が進んでくると、労働者と資本家で社会が構成されているという感じ方は、実際にもかなりフィットしてきた。そういう意味ではマージナルじゃなくなっていくんですね。それと同時に貧困問題の捉え方も、景気循環や経済構造の変化によって生まれてくるんだという新しい考えが定着してくる。だから、正確にいうと、この時期の貧困問題には二つの系譜が流れているんです。
ここで社会事業研究の系譜が出てくる。正確にいうと、その前の慈善事業との繋がりが重要になってきます。社会事業関係が問題にする貧困は、経済学的な文脈の失業問題なんかを原因としてなくても構わない。むしろ、援助すべき貧困状態であることがポイントです。戦前の社会政策はそういう意味ではたしかにごった煮でした。だから、今、武川さんや玉井さんが社会学的社会政策を強調したい気持ちもよく分かる。ただし、気持ちが分かるということと、その主張している内容を受け入れるかどうかは全く別です(この文脈に限定すれば、「別」ではなく「逆」と書きたい(笑))。
社会事業から社会福祉の流れが、資本制社会を前提とした社会政策と同じように、非常に大きなターニングポイントを迎えたのは1970年代のことです。社会保険の充実、皆保険や皆年金をどう考えるかという問題があるので、1960年代じゃないの?という横槍が入りそうなのは予測できますが、保険は予防策的側面が強いから、援助という文脈で語るときはあんまり拘泥しなくていいと思います。そういう意味で1970年代が大事。高齢者福祉の問題が少子高齢化社会という文脈でクローズアップされるようになってきて、現在に至るわけです。
何れにせよどっちも今ではマージナルとは言ってられない。私のもともとの発想は、一番はじめに持っていた学問的性格は今でもなんか縛りになっているんじゃない?というものでした。その話と中西・東條本の話は関係ないんじゃないか。言われる前に言っておきますが、関係ありません。混同しました。すみません。
お二人の話は、1950年代から格段に実証水準が高まるなかで、研究はどんどんミクロ化していく。そのときにどうやって全体をパーッと展望することが出来るのか、あるいは、全体とどういう関係にあるのかを忘れちゃいけないというような問題意識の話ですね。下田平先生の話もこの文脈上に捉えても、それなりに説明できると思います。ただ、その対象をマージナルというか、マイノリティを追求していくという話になってくると、別の切り口が必要で、それは1970パラダイムで説明できるのか分かりませんし、もし出来るのならば、東條さんはそこにもうまく位置づけなきゃいけないなと思いますが、今後の宿題ということで。
2009年08月18日 (火)
現代では、労働問題にせよ、社会福祉にせよ、いわゆる社会的弱者に対する問題関心からスタートしたことによる、思考の縛りがどこかしらにあるのではないのか、と考えることがある。
たとえば、労働問題はもともとブルーカラーを対象にしていた。19世紀末日本の職工はまだまだ社会的弱者であり、彼らには生活面においてもしばしば救済が必要であった。時は流れて、戦後、ブルーカラーとホワイトカラーの身分差が撤廃されたにもかかわらず、労働問題研究や労使関係研究の中で扱われるのは、相変わらずブルーカラーであることが多かった。こうした現象は技術革新の大部分を外生変数としてきたこと、および内生変数と捉えても、QCサークル活動がやたらと強調されてきたことと無関係ではない。それによって見逃されたことも多いのではないか?ホワイトカラーの研究が少しずつ始まったのはここ20年くらいのことに過ぎない。
社会福祉は社会事業の流れからして「援助」が基本にあった。そして、今もある。社会福祉の領域が大きく転換したのは、いわゆる高齢化社会が喧伝されるようになった1970年代ごろからだが、やはりそこでの第一の問題は、介護という援助、である。そこから、家族の問題、ジェンダーの問題へと領域を拡延していくのである。私は以前、社会政策の根本が貧困問題にあるという趣旨のタイトルをつけたことがあったが、あれは実はやや誇張されている嫌いがある。というのも、系譜論的に言うと、貧困研究は社会福祉(社会事業)の延長線上に位置づけられるが、本来、社会事業は何も貧困者だけを対象にしていたわけではない。ただ、貧困者のうちに社会問題を見つけやすいので、中心であったというだけに過ぎない。それは単純に貧困によって生活困難(要支援)の状態に陥るというだけの意味ではない。たとえば、精神病患者が貧困者層と富裕層の間でどのように分布しているか明らかではないが、富裕層だったら自宅に隠しておくことも出来るが、貧困層はそんな余裕はまったくない。そういう意味で貧困層はそこに踏み入って真剣に調べれば、不謹慎な言い方だが、様々な社会問題を発見できる宝庫であったともいえる。
中西先生の『日本近代化の基礎過程』や東條さんの製糸女工の話は、方法的には非常に魅力的で、社会のある細部をそれこそ微細に観察することによって、社会そのものを観察しようとしている。その意味では、貧困層を徹底的に分析することで、社会の深部に辿り着くという道筋も荒唐無稽とはいえないだろう。実際、なんらかのメンタルな問題を抱えて産業社会を脱落せざるを得なかった者がホームレス社会の中に存在したとき、その人の脱落せざるを得なかった原因を解析することは、産業社会の構造を分析することに繋がるかもしれない。もちろん、我々は、かつてフロイドの精神分析が「精神障害者ばかりを扱って人間精神を明らかにできるのか」という疑問を再三再四、投げかけられたように、こうした仮説に同じロジックをぶつけることだってできる。
冒頭のブルーカラーの話だって、こういう枠組みが多くのことを明らかにしてきた事実は否定できない。それと同時に限界があることも意識しなければならないだろう。結局、また、バランスだよね、という当たり前の結論に辿り着いてしまうわけだが・・・、正味のところ、結論自体は大した意味はなく、こうしたウダウダいうプロセスをたまに思い出すのはいくばくかの意味があるかもしれない。強みと限界は基本的な話なので知ってるようでいて、だからこそすっかり忘れてしまったりするからだ。
たとえば、労働問題はもともとブルーカラーを対象にしていた。19世紀末日本の職工はまだまだ社会的弱者であり、彼らには生活面においてもしばしば救済が必要であった。時は流れて、戦後、ブルーカラーとホワイトカラーの身分差が撤廃されたにもかかわらず、労働問題研究や労使関係研究の中で扱われるのは、相変わらずブルーカラーであることが多かった。こうした現象は技術革新の大部分を外生変数としてきたこと、および内生変数と捉えても、QCサークル活動がやたらと強調されてきたことと無関係ではない。それによって見逃されたことも多いのではないか?ホワイトカラーの研究が少しずつ始まったのはここ20年くらいのことに過ぎない。
社会福祉は社会事業の流れからして「援助」が基本にあった。そして、今もある。社会福祉の領域が大きく転換したのは、いわゆる高齢化社会が喧伝されるようになった1970年代ごろからだが、やはりそこでの第一の問題は、介護という援助、である。そこから、家族の問題、ジェンダーの問題へと領域を拡延していくのである。私は以前、社会政策の根本が貧困問題にあるという趣旨のタイトルをつけたことがあったが、あれは実はやや誇張されている嫌いがある。というのも、系譜論的に言うと、貧困研究は社会福祉(社会事業)の延長線上に位置づけられるが、本来、社会事業は何も貧困者だけを対象にしていたわけではない。ただ、貧困者のうちに社会問題を見つけやすいので、中心であったというだけに過ぎない。それは単純に貧困によって生活困難(要支援)の状態に陥るというだけの意味ではない。たとえば、精神病患者が貧困者層と富裕層の間でどのように分布しているか明らかではないが、富裕層だったら自宅に隠しておくことも出来るが、貧困層はそんな余裕はまったくない。そういう意味で貧困層はそこに踏み入って真剣に調べれば、不謹慎な言い方だが、様々な社会問題を発見できる宝庫であったともいえる。
中西先生の『日本近代化の基礎過程』や東條さんの製糸女工の話は、方法的には非常に魅力的で、社会のある細部をそれこそ微細に観察することによって、社会そのものを観察しようとしている。その意味では、貧困層を徹底的に分析することで、社会の深部に辿り着くという道筋も荒唐無稽とはいえないだろう。実際、なんらかのメンタルな問題を抱えて産業社会を脱落せざるを得なかった者がホームレス社会の中に存在したとき、その人の脱落せざるを得なかった原因を解析することは、産業社会の構造を分析することに繋がるかもしれない。もちろん、我々は、かつてフロイドの精神分析が「精神障害者ばかりを扱って人間精神を明らかにできるのか」という疑問を再三再四、投げかけられたように、こうした仮説に同じロジックをぶつけることだってできる。
冒頭のブルーカラーの話だって、こういう枠組みが多くのことを明らかにしてきた事実は否定できない。それと同時に限界があることも意識しなければならないだろう。結局、また、バランスだよね、という当たり前の結論に辿り着いてしまうわけだが・・・、正味のところ、結論自体は大した意味はなく、こうしたウダウダいうプロセスをたまに思い出すのはいくばくかの意味があるかもしれない。強みと限界は基本的な話なので知ってるようでいて、だからこそすっかり忘れてしまったりするからだ。
2009年08月14日 (金)
マシナリさんから非常に実務的に有意義なご批判をいただけたので、あらためて、お答えしようと思います。その前に一言だけ。このような応酬ができて大変、光栄に思っております。というのも、一連のやり取りは、基本的に私の机上の空論に現実的な観点から疑問が投げかけられ、それを修正していくというプロセスになっていると考えているからです。ですから、どちらかというと、私の方が勉強させていただいております。ありがとうございます。
「両極端が必要」という意味はまさにご指摘の通りで、実際の現実はその真ん中なのです。ただ、その議論の舞台の上では、非正規も組織化したほうが良い、という考え方が前提になっています。この舞台では、非正規を組織化すべきかどうかという点は論じられず、どう組織化するのがよいのか、という次元で論じられるようになるのです。それは濱口さんも、マシナリさんも、私も共有しているわけです。そういう意味で、濱口さんの議論と私の議論は両側から舞台を支える柱なのです。
私のパターンは簡単に言うと、次の三つです。
① 労働組合が機能しているところ
② 労働組合があるけど、かえって邪魔して機能していないところ
③ 労働組合がそもそもないところ
一般には左派のやり方が汚いとか、逆に、右派がそれを利用して「左派に組合を作られる前に、うちで作りませんか」と組織化戦術に使ったりとか、そういう話はエピソードとしてはよく聞きますが、全体に適用して一般化できるような証拠はありませんので、とりあえず、抽象レベルをあげて②に含むということにしておきます。私の議論では、②と③は強制代表制を作っても問題は大きくないだろうと一応、考えてあります。ただ、今日はそういうまどろっこしいことよりもまず、ずばり、本質的なことから書き始めることにしましょう。
マシナリさんのお話を乱暴にまとめると、今の組合じゃ大部分はダメだ。組合なんかあろうとなかろうと、職場のリーダーがしっかりしているところは、ちゃんとできる。まず、飛んで、飛びながら勉強しよう、といったところでしょうか。
私が心配しているのは、最後の部分です。マシナリさんは、箱物でもないと、勉強もできないじゃないか、というご意見だと思います。この部分で前の前のエントリの主張を繰り返します。勉強している間に、新しくできた制度を利用して「団結権の人権的把握による弊害」を齎してきた連中にうまいようにやられてしまう危険がありますよ。そうなったら、もう救済できません、ということです。本当に心配しているのは②の状態なのです。エクスキューズに使う、というより、もっと強く、悪用されたら困る、と思っているのです。民主主義というのはそういう脆弱性を抱えているのです。
①が失敗したら、廃案にすべきは言い過ぎかもしれませんが、一番労使関係の上手なところでさえ、うまく行かないのだったら、制度設計に問題あり、と考えるのが自然ではないでしょうか。そういう状況に陥ったときに、はたして他のところでもっとうまく行くという算段が立つのかどうか。ある程度の見通しがなければ、ゴーサインは出せない、という判断なのです。何ができて、何ができないかを考えること、それから、有限である出来ることに優先順位をつけること、この二つが肝要ではないかと考えます。
私の意見が弱者切捨てに読めるというお話でしたが、それは行論の限りでは正しいです。少なくともここまでのディスカッションにおいて、私はこの制度によって弱者を救えるとは思っていないし、さりとて、私自身それに対する代替案を提出していないからです。ただ、あくまで労使関係マターでなんとかなると楽観的に思えないだけで、弱者を切り捨ててといいと考えているわけではありません。何かしら別の政策が必要だとは思いますが、私は今現在、起こっている出来事について、事実収集もやってませんし、したがって、本質も見えていませんので、代替案を出せないのです。それだけのことです。
なお、産別とかナショナルセンターの話は、実はここまでの一連のやり取りのなかでは捨象されていた論点なんです。なぜ捨象されたかといえば、それは濱口先生の本の序章の枠組みを前提にしていたからです。マシナリさんが仰りたい思いというのは、労働組合が現場の労働者を救わず、組織の論理で動いているじゃないか、ということだと推察します。これは、実は古くて新しい組織規模の統治の問題でもあります。事実レベルでいえば、左派の中にもそういう問題意識を持っている人はいて、というより、戦後の総評ラインを作るのに寄与した細谷松太さんは、まさに共産党内からそういう反省の声をあげ、結果的に除名されました。
細かいことを言うと、いろいろ議論の余地があるんですが、教科書風に大まかにいってしまえば、日本では産業民主主義の考え方は社民右派と呼ばれてきた人たちが堅持しようとしてきたといってよいでしょう。同盟系も途中、揺れる時期もあるので、なんとも言い難いですが、大まかに言って、鈴木文治・松岡駒吉以来の伝統を持っています。ただ、産業民主主義を称揚しているとはいえ、私自身の思想信条は、左とか右とかではちょっと分類できません。
「両極端が必要」という意味はまさにご指摘の通りで、実際の現実はその真ん中なのです。ただ、その議論の舞台の上では、非正規も組織化したほうが良い、という考え方が前提になっています。この舞台では、非正規を組織化すべきかどうかという点は論じられず、どう組織化するのがよいのか、という次元で論じられるようになるのです。それは濱口さんも、マシナリさんも、私も共有しているわけです。そういう意味で、濱口さんの議論と私の議論は両側から舞台を支える柱なのです。
私のパターンは簡単に言うと、次の三つです。
① 労働組合が機能しているところ
② 労働組合があるけど、かえって邪魔して機能していないところ
③ 労働組合がそもそもないところ
一般には左派のやり方が汚いとか、逆に、右派がそれを利用して「左派に組合を作られる前に、うちで作りませんか」と組織化戦術に使ったりとか、そういう話はエピソードとしてはよく聞きますが、全体に適用して一般化できるような証拠はありませんので、とりあえず、抽象レベルをあげて②に含むということにしておきます。私の議論では、②と③は強制代表制を作っても問題は大きくないだろうと一応、考えてあります。ただ、今日はそういうまどろっこしいことよりもまず、ずばり、本質的なことから書き始めることにしましょう。
マシナリさんのお話を乱暴にまとめると、今の組合じゃ大部分はダメだ。組合なんかあろうとなかろうと、職場のリーダーがしっかりしているところは、ちゃんとできる。まず、飛んで、飛びながら勉強しよう、といったところでしょうか。
私が心配しているのは、最後の部分です。マシナリさんは、箱物でもないと、勉強もできないじゃないか、というご意見だと思います。この部分で前の前のエントリの主張を繰り返します。勉強している間に、新しくできた制度を利用して「団結権の人権的把握による弊害」を齎してきた連中にうまいようにやられてしまう危険がありますよ。そうなったら、もう救済できません、ということです。本当に心配しているのは②の状態なのです。エクスキューズに使う、というより、もっと強く、悪用されたら困る、と思っているのです。民主主義というのはそういう脆弱性を抱えているのです。
①が失敗したら、廃案にすべきは言い過ぎかもしれませんが、一番労使関係の上手なところでさえ、うまく行かないのだったら、制度設計に問題あり、と考えるのが自然ではないでしょうか。そういう状況に陥ったときに、はたして他のところでもっとうまく行くという算段が立つのかどうか。ある程度の見通しがなければ、ゴーサインは出せない、という判断なのです。何ができて、何ができないかを考えること、それから、有限である出来ることに優先順位をつけること、この二つが肝要ではないかと考えます。
私の意見が弱者切捨てに読めるというお話でしたが、それは行論の限りでは正しいです。少なくともここまでのディスカッションにおいて、私はこの制度によって弱者を救えるとは思っていないし、さりとて、私自身それに対する代替案を提出していないからです。ただ、あくまで労使関係マターでなんとかなると楽観的に思えないだけで、弱者を切り捨ててといいと考えているわけではありません。何かしら別の政策が必要だとは思いますが、私は今現在、起こっている出来事について、事実収集もやってませんし、したがって、本質も見えていませんので、代替案を出せないのです。それだけのことです。
なお、産別とかナショナルセンターの話は、実はここまでの一連のやり取りのなかでは捨象されていた論点なんです。なぜ捨象されたかといえば、それは濱口先生の本の序章の枠組みを前提にしていたからです。マシナリさんが仰りたい思いというのは、労働組合が現場の労働者を救わず、組織の論理で動いているじゃないか、ということだと推察します。これは、実は古くて新しい組織規模の統治の問題でもあります。事実レベルでいえば、左派の中にもそういう問題意識を持っている人はいて、というより、戦後の総評ラインを作るのに寄与した細谷松太さんは、まさに共産党内からそういう反省の声をあげ、結果的に除名されました。
細かいことを言うと、いろいろ議論の余地があるんですが、教科書風に大まかにいってしまえば、日本では産業民主主義の考え方は社民右派と呼ばれてきた人たちが堅持しようとしてきたといってよいでしょう。同盟系も途中、揺れる時期もあるので、なんとも言い難いですが、大まかに言って、鈴木文治・松岡駒吉以来の伝統を持っています。ただ、産業民主主義を称揚しているとはいえ、私自身の思想信条は、左とか右とかではちょっと分類できません。
2009年08月12日 (水)
京都で「情報通信産業史再考」というパネルの一枚として「新日鉄の生産管理システム」というタイトルで報告します。
このパネルは、1960年代に始まったオンライン化をどう捉えるかというテーマで先進的な事例4つを報告することになっています。従来の情報産業史はコンピュータ・メーカー側からの視点で描かれていたので、ユーザ側からの視点で描こうというのが基本的なコンセプトです。事例もその線に沿って選ばれています。
私の割当ては鉄鋼。報告タイトルの生産管理システムはまずかったかなとちょっと今になって反省。私がやりたいのは、クラシカルな言葉遣いでは、技術管理と生産管理をトータルであわせた総合生産管理システム(60年代から70年代に使われた言葉)。でも、ちょっと今は使わないから、生産システムにしようか?でも、藤本先生的イメージが強いからな。じゃ、総合をとるか。生産管理システム。いいじゃないか。と思ったわけですが、こうなると一周して元に戻って、狭義の生産管理と区別せねばなりませぬ。でも、その狭義の意味だったら、夏目大介さんや井上義佑さんという当事者が書いた、記録じゃなくて専門的な学術書があるので、それで十分なんですね。もう一歩踏み込まないと。
トータルな核のイメージはまとまったんだけど、パネル全体でどういう方向にするのかあと数回、議論を重ねるので、詳細はまた、追って。メモくらいはあげるかもしれません。ただ、社会政策っぽさは全くないし、労働っぽさもほとんどないと思いますので、その点はあしからず。
10月4日 9時半から
於 京都産業大学
パネルディスカッションⅡ 情報通信産業史再考:情報化の経営史
司会 武田晴人 コメント 石井晋
趣旨説明 池元有一
1 国鉄の座席予約システム 高橋清美
2 新日鉄の生産システム 金子良事
3 銀行における基幹業務のオンライン・システムの事例 古谷眞介
4 ヤマト運輸の情報化 宇田理
ぜひお運びくださいませ。
このパネルは、1960年代に始まったオンライン化をどう捉えるかというテーマで先進的な事例4つを報告することになっています。従来の情報産業史はコンピュータ・メーカー側からの視点で描かれていたので、ユーザ側からの視点で描こうというのが基本的なコンセプトです。事例もその線に沿って選ばれています。
私の割当ては鉄鋼。報告タイトルの生産管理システムはまずかったかなとちょっと今になって反省。私がやりたいのは、クラシカルな言葉遣いでは、技術管理と生産管理をトータルであわせた総合生産管理システム(60年代から70年代に使われた言葉)。でも、ちょっと今は使わないから、生産システムにしようか?でも、藤本先生的イメージが強いからな。じゃ、総合をとるか。生産管理システム。いいじゃないか。と思ったわけですが、こうなると一周して元に戻って、狭義の生産管理と区別せねばなりませぬ。でも、その狭義の意味だったら、夏目大介さんや井上義佑さんという当事者が書いた、記録じゃなくて専門的な学術書があるので、それで十分なんですね。もう一歩踏み込まないと。
トータルな核のイメージはまとまったんだけど、パネル全体でどういう方向にするのかあと数回、議論を重ねるので、詳細はまた、追って。メモくらいはあげるかもしれません。ただ、社会政策っぽさは全くないし、労働っぽさもほとんどないと思いますので、その点はあしからず。
10月4日 9時半から
於 京都産業大学
パネルディスカッションⅡ 情報通信産業史再考:情報化の経営史
司会 武田晴人 コメント 石井晋
趣旨説明 池元有一
1 国鉄の座席予約システム 高橋清美
2 新日鉄の生産システム 金子良事
3 銀行における基幹業務のオンライン・システムの事例 古谷眞介
4 ヤマト運輸の情報化 宇田理
ぜひお運びくださいませ。
2009年08月11日 (火)
床屋政談は続く。
マシナリさんから素晴らしいご指摘をいただいたので、少し論点を深めて書きたいと思う。発端は濱口先生の『新しい労働社会』の第4章について私が反論を書いたところから始まる。
『新しい労働社会』の提唱する新しい産業民主主義について
濱口先生によるご紹介
濱口先生のところにコメントを書いたように、私の意図は両方の極を作ることだった。マシナリさんが最初に書いてくださった記事は、まさにその点を正確に捉えてくださっている。第一段階において、私が考えたように二人でキャッチボールができたことをマシナリさんが評価してくださった形になったわけだ。そして、今やマシナリさんから頂いたコメントによって議論は第二段階に入る準備が整ったと考えている。
実は、大石さんとのやり取りで、私は中長期的なことを考えていると書いたにもかかわらず、マシナリさんへのエントリではむしろ短期的な戦術という面から論じてしまった。単純に自分が考えていたことを忘れていただけである。ただ、一つ言えることは、大石さんからもマシナリさんからも同じ問題を提起されたにもかかわらず、ちゃんとお答えしなかったということである。それは何回か前に書いたけれども、自分が主たるプレイヤーでもないのに、政策提言をするという研究者としての姿勢を私が徹底的に嫌い、というだけの理由による。でも、考えてみれば、別にブログは所詮書き流しなので、そう硬く考える必要もないし、何よりもきちんとお返事したいので、床屋政談としてお話の続きをしてみたくなってきた。
完全自主路線の私の立場から濱口さんの極に歩み寄るためには、まず、強制による自主性も自治に含めてよいのではないか、という疑問を投げかけることから始めよう。労働の分野では古くからQCサークルなどの自主管理運動に対して、あれは半ば強制されたものであり、本当に主体性を発揮したものではないという批判がなされてきた。また、地方改良運動という、戦前の内務省が農村に向けて展開したキャンペーンでも同じことが指摘されている(たしか、宮地正人先生)。論理操作だけでいえば、こうした議論はまったく正しい。ここから教育を重視する私の立場は必然的にある種の強制を伴うのではないかと詰めることが出来るのである。
簡単に結論を言うと、教育にはある種の強制が必要だと私も考えている。一般には、受験戦争の詰め込み主義が長いこと批判されてきたし、それに対して、極端な例では昔の素読の効用を持ち出したりして、反論もなされてきた。私は東大の大学院に8年いたので、中には受験エリートも見てきたし、彼女または彼らの中には他人の学説を勉強するだけで、その枠組みを問い直すことなく、安易に納得してしまう人がいることも分かっている。しかし、問題は詰め込む内容や詰め込むこと自体にあるのではなく、詰め込んだ内容を自分で自由に使いこなせないことにあると思う。最終的な理想は、いくつもの異なる考え方を認識し、それを自由に選択、あるいは改良する能力を持つことだろう。その能力を身につける過程において、程度問題ではあるが、必然的に強制を伴うと考えられる。
なぜ、一見、関係ない教育と強制の話をして、自分の議論を叩いたかというと、程度問題としての強制を認めることは、強制的な代表制を許容できる道を開くからである。逆に言うと、前段落の議論を踏まえれば、当然、強制的代表制もその運用次第で、自主性を発揮する制度たりうるのではないかということになるのである。
実際に一律に強制的な代表制を施行するには、いくつかの職場における労使関係の類型を想定しておいた方が良いだろう。たとえば、労働組合が既に存在している場合、労働組合がまったく存在しない場合。存在していて、ある程度、機能している場合、機能していない場合(ここでは仮に機能しているか否かはリーダーシップを発揮するリーダーがいるかどうかにしよう)。実際にはこれを見分けるのさえ、外部からでは難しいのだが。もちろん、もっと現実を知っている方が然るべき分類をするべきだろう。ここは仮の話だ。
労働組合が存在しない場合、そもそも代表と代表が話し合うという形式が意味あることを強制的に知ってもらうという点において、強制代表制には即効性があるだろう。ただし、そこから、本格的な自主活動を展開できるところは多分、一部だと推測される。でも、やらないよりはいいかもしれない。組合があっても機能していない場合、これ以上、悪くならないからやっても構わないだろう。
組合があって機能している場合、中村プランのように非正規にまで自主的に拡延していくことに対して、そうした阻害にならず、促進剤になる仕組みが作れるならば、その限りにおいて強制代表制も歓迎すべきだろう。ただ、促進剤になるという見通しはあまり現実的ではないかもしれない。むしろ、濱口さんが仰るように、不利益分配の仕組みに焦点を当てて制度を作ることを前提とするならば、もはや身分制度があることを全面的に認めて、身分ごとの代表を出す方法を採った方がよいのではないかと思う。まったくの山勘だが、一般に利益配分よりも不利益配分の方が、利害対立が激しくなるのではないか。もし、そうであるならば、その対立を認めてしまって、どこで妥協をするかに問題を絞った方がいい。労使交渉ではなく、事実上の管理者層・正規層・非正規層による身分間交渉である。
制度の順番としては、政労使の鼎立構造の確立が先であって、それが出来れば、私の最初の完全自治路線も非常に重要な意味を持つ。要するに、労働組合がうちはこうやって、これだけの人を供給できますけど、こんな強制的にやってどうするつもりですか?といえるからだ。もちろん、そういえるためには、そういう人を供給できる仕組みを組合が作らなければならない。ただ、これが本当に今の組合に出来るかといわれれば、私も実はあまり自信がない。
そうなると、私が提起したリーダーの育成(運用者の育成と言い換えた方が適切)の問題をどうするか、どこかで改めて考えなくてはならない。現実には、どこが負担するにせよ、教育を行う者をどこから調達するのかなどを含めた諸費用をどこからもってくるか、考える必要がある。おそらく、政策としては完全にそこまで手厚く制度設計するのは、人材面でも、費用面でも、厳しいだろう。そういう意味でも、自治路線は大事なのだ。
何れにせよ、とりあえず制度を作るという箱物行政では、実際に施行されてから困るので、パイロット調査を予めやっておく方がよいだろう。といっても、普通の企業にそれを引き受けてもらうのは難しいから、補助金をつけるなり、あるいは社会的評判をあげるようにするなり、なんらかのインセンティブをつける工夫は必要である。これも先ほどの類型別、さらには規模別等に分けて、何社(あるいは何職場)かで実験した方がベターだ。実験だけだったら各方面の合意も得られやすいだろうし、成功させれば全面的な法案成立も可能だろう。失敗したら?もちろん、そんな好条件下で成功できないようなものは法案自体をやめた方が良い。
マシナリさんから素晴らしいご指摘をいただいたので、少し論点を深めて書きたいと思う。発端は濱口先生の『新しい労働社会』の第4章について私が反論を書いたところから始まる。
『新しい労働社会』の提唱する新しい産業民主主義について
濱口先生によるご紹介
濱口先生のところにコメントを書いたように、私の意図は両方の極を作ることだった。マシナリさんが最初に書いてくださった記事は、まさにその点を正確に捉えてくださっている。第一段階において、私が考えたように二人でキャッチボールができたことをマシナリさんが評価してくださった形になったわけだ。そして、今やマシナリさんから頂いたコメントによって議論は第二段階に入る準備が整ったと考えている。
実は、大石さんとのやり取りで、私は中長期的なことを考えていると書いたにもかかわらず、マシナリさんへのエントリではむしろ短期的な戦術という面から論じてしまった。単純に自分が考えていたことを忘れていただけである。ただ、一つ言えることは、大石さんからもマシナリさんからも同じ問題を提起されたにもかかわらず、ちゃんとお答えしなかったということである。それは何回か前に書いたけれども、自分が主たるプレイヤーでもないのに、政策提言をするという研究者としての姿勢を私が徹底的に嫌い、というだけの理由による。でも、考えてみれば、別にブログは所詮書き流しなので、そう硬く考える必要もないし、何よりもきちんとお返事したいので、床屋政談としてお話の続きをしてみたくなってきた。
完全自主路線の私の立場から濱口さんの極に歩み寄るためには、まず、強制による自主性も自治に含めてよいのではないか、という疑問を投げかけることから始めよう。労働の分野では古くからQCサークルなどの自主管理運動に対して、あれは半ば強制されたものであり、本当に主体性を発揮したものではないという批判がなされてきた。また、地方改良運動という、戦前の内務省が農村に向けて展開したキャンペーンでも同じことが指摘されている(たしか、宮地正人先生)。論理操作だけでいえば、こうした議論はまったく正しい。ここから教育を重視する私の立場は必然的にある種の強制を伴うのではないかと詰めることが出来るのである。
簡単に結論を言うと、教育にはある種の強制が必要だと私も考えている。一般には、受験戦争の詰め込み主義が長いこと批判されてきたし、それに対して、極端な例では昔の素読の効用を持ち出したりして、反論もなされてきた。私は東大の大学院に8年いたので、中には受験エリートも見てきたし、彼女または彼らの中には他人の学説を勉強するだけで、その枠組みを問い直すことなく、安易に納得してしまう人がいることも分かっている。しかし、問題は詰め込む内容や詰め込むこと自体にあるのではなく、詰め込んだ内容を自分で自由に使いこなせないことにあると思う。最終的な理想は、いくつもの異なる考え方を認識し、それを自由に選択、あるいは改良する能力を持つことだろう。その能力を身につける過程において、程度問題ではあるが、必然的に強制を伴うと考えられる。
なぜ、一見、関係ない教育と強制の話をして、自分の議論を叩いたかというと、程度問題としての強制を認めることは、強制的な代表制を許容できる道を開くからである。逆に言うと、前段落の議論を踏まえれば、当然、強制的代表制もその運用次第で、自主性を発揮する制度たりうるのではないかということになるのである。
実際に一律に強制的な代表制を施行するには、いくつかの職場における労使関係の類型を想定しておいた方が良いだろう。たとえば、労働組合が既に存在している場合、労働組合がまったく存在しない場合。存在していて、ある程度、機能している場合、機能していない場合(ここでは仮に機能しているか否かはリーダーシップを発揮するリーダーがいるかどうかにしよう)。実際にはこれを見分けるのさえ、外部からでは難しいのだが。もちろん、もっと現実を知っている方が然るべき分類をするべきだろう。ここは仮の話だ。
労働組合が存在しない場合、そもそも代表と代表が話し合うという形式が意味あることを強制的に知ってもらうという点において、強制代表制には即効性があるだろう。ただし、そこから、本格的な自主活動を展開できるところは多分、一部だと推測される。でも、やらないよりはいいかもしれない。組合があっても機能していない場合、これ以上、悪くならないからやっても構わないだろう。
組合があって機能している場合、中村プランのように非正規にまで自主的に拡延していくことに対して、そうした阻害にならず、促進剤になる仕組みが作れるならば、その限りにおいて強制代表制も歓迎すべきだろう。ただ、促進剤になるという見通しはあまり現実的ではないかもしれない。むしろ、濱口さんが仰るように、不利益分配の仕組みに焦点を当てて制度を作ることを前提とするならば、もはや身分制度があることを全面的に認めて、身分ごとの代表を出す方法を採った方がよいのではないかと思う。まったくの山勘だが、一般に利益配分よりも不利益配分の方が、利害対立が激しくなるのではないか。もし、そうであるならば、その対立を認めてしまって、どこで妥協をするかに問題を絞った方がいい。労使交渉ではなく、事実上の管理者層・正規層・非正規層による身分間交渉である。
制度の順番としては、政労使の鼎立構造の確立が先であって、それが出来れば、私の最初の完全自治路線も非常に重要な意味を持つ。要するに、労働組合がうちはこうやって、これだけの人を供給できますけど、こんな強制的にやってどうするつもりですか?といえるからだ。もちろん、そういえるためには、そういう人を供給できる仕組みを組合が作らなければならない。ただ、これが本当に今の組合に出来るかといわれれば、私も実はあまり自信がない。
そうなると、私が提起したリーダーの育成(運用者の育成と言い換えた方が適切)の問題をどうするか、どこかで改めて考えなくてはならない。現実には、どこが負担するにせよ、教育を行う者をどこから調達するのかなどを含めた諸費用をどこからもってくるか、考える必要がある。おそらく、政策としては完全にそこまで手厚く制度設計するのは、人材面でも、費用面でも、厳しいだろう。そういう意味でも、自治路線は大事なのだ。
何れにせよ、とりあえず制度を作るという箱物行政では、実際に施行されてから困るので、パイロット調査を予めやっておく方がよいだろう。といっても、普通の企業にそれを引き受けてもらうのは難しいから、補助金をつけるなり、あるいは社会的評判をあげるようにするなり、なんらかのインセンティブをつける工夫は必要である。これも先ほどの類型別、さらには規模別等に分けて、何社(あるいは何職場)かで実験した方がベターだ。実験だけだったら各方面の合意も得られやすいだろうし、成功させれば全面的な法案成立も可能だろう。失敗したら?もちろん、そんな好条件下で成功できないようなものは法案自体をやめた方が良い。
2009年08月10日 (月)
私の意図したとおりに、濱口さんの第4章の議論と比較してマシナリさんが取り上げて下さって、嬉しい限りなのですが、明らかにまた説明不足だったなと感じたので、付け加えておきます。
といっても、結論は簡単です。リーダーの皆さん、思想団体にならないように、産業民主主義を勉強してください。これだけです。産業民主主義の何たるかを知れば、労働組合が必要であることは分かるはずなんですが、実際にはマシナリさんが紹介されているような労働組合に無理やり加入された経験があると、労働組合が意味のある組織だとは思えないのは人情でしょう。でも、全員にいきなり勉強してもらうのは難しい。だからこそ、まずはリーダーから産業民主主義をちゃんと身につけて欲しいと言う結論になるのです。どんな産業民主主義を身につけてほしいかというと、中村圭介『壁を壊す』に描かれています。
マシナリさんの書かれている私への批判はリーダーによる統制でリーダーがダメだったらどうするのというものですが、これって労働組合だけではなく、どの組織にも当て嵌まる汎用性の高い話なんですね。企業風に言えば、コーポレートガバナンスをどうするかということでもあるのです。それになぞらえていえば、ユニオンガバナンスをどうするのかといってよいのかな。
リーダーシップ論ではフォーマルなリーダーがリーダーシップを発揮しない場合を想定した議論がありますが、どんな組織でもフォーマルかインフォーマルかは問わず、なんらかのリーダーないしまとめ役は必要です。ただし、インフォーマルなリーダーを制度設計というフォーマルな方法で育成できるとも思えませんので、さしあたり、フォーマルなリーダーに的を絞ってあるのです。ここは私の現実感覚ですね。
私はどちらかというと、強制的な選挙による代表の選出という考えには反対です。なぜかというと、民主主義における選挙は、有権者が意思表示という形で参加したというお墨付きを与えるという意味合いを強く持っているからです。今、単純に正規労働者と非正規労働者で構成されている職場があるとします。ただし、正規労働者はユニオンショップで組織化されています。正規労働者と非正規労働者を一緒にして選挙をやれば、組合における選挙経験を有する正規労働者と各人がバラバラな非正規労働者のどちらの意見が通るか明らかでしょう。選挙の肝は多数派工作にあり、です。もし、ちゃんとこの制度を運用したいならば、事前に何らかの形で非正規の組織化(意見の取りまとめ)が必要です。それをやらないで、選挙なんてやれば、非正規も参加しているという事実だけが強調されるからです。そのような状態はマシナリさんの望むところではないだろうと思います。
といっても、結論は簡単です。リーダーの皆さん、思想団体にならないように、産業民主主義を勉強してください。これだけです。産業民主主義の何たるかを知れば、労働組合が必要であることは分かるはずなんですが、実際にはマシナリさんが紹介されているような労働組合に無理やり加入された経験があると、労働組合が意味のある組織だとは思えないのは人情でしょう。でも、全員にいきなり勉強してもらうのは難しい。だからこそ、まずはリーダーから産業民主主義をちゃんと身につけて欲しいと言う結論になるのです。どんな産業民主主義を身につけてほしいかというと、中村圭介『壁を壊す』に描かれています。
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マシナリさんの書かれている私への批判はリーダーによる統制でリーダーがダメだったらどうするのというものですが、これって労働組合だけではなく、どの組織にも当て嵌まる汎用性の高い話なんですね。企業風に言えば、コーポレートガバナンスをどうするかということでもあるのです。それになぞらえていえば、ユニオンガバナンスをどうするのかといってよいのかな。
リーダーシップ論ではフォーマルなリーダーがリーダーシップを発揮しない場合を想定した議論がありますが、どんな組織でもフォーマルかインフォーマルかは問わず、なんらかのリーダーないしまとめ役は必要です。ただし、インフォーマルなリーダーを制度設計というフォーマルな方法で育成できるとも思えませんので、さしあたり、フォーマルなリーダーに的を絞ってあるのです。ここは私の現実感覚ですね。
私はどちらかというと、強制的な選挙による代表の選出という考えには反対です。なぜかというと、民主主義における選挙は、有権者が意思表示という形で参加したというお墨付きを与えるという意味合いを強く持っているからです。今、単純に正規労働者と非正規労働者で構成されている職場があるとします。ただし、正規労働者はユニオンショップで組織化されています。正規労働者と非正規労働者を一緒にして選挙をやれば、組合における選挙経験を有する正規労働者と各人がバラバラな非正規労働者のどちらの意見が通るか明らかでしょう。選挙の肝は多数派工作にあり、です。もし、ちゃんとこの制度を運用したいならば、事前に何らかの形で非正規の組織化(意見の取りまとめ)が必要です。それをやらないで、選挙なんてやれば、非正規も参加しているという事実だけが強調されるからです。そのような状態はマシナリさんの望むところではないだろうと思います。