私の意図したとおりに、濱口さんの第4章の議論と比較してマシナリさんが取り上げて下さって、嬉しい限りなのですが、明らかにまた説明不足だったなと感じたので、付け加えておきます。

といっても、結論は簡単です。リーダーの皆さん、思想団体にならないように、産業民主主義を勉強してください。これだけです。産業民主主義の何たるかを知れば、労働組合が必要であることは分かるはずなんですが、実際にはマシナリさんが紹介されているような労働組合に無理やり加入された経験があると、労働組合が意味のある組織だとは思えないのは人情でしょう。でも、全員にいきなり勉強してもらうのは難しい。だからこそ、まずはリーダーから産業民主主義をちゃんと身につけて欲しいと言う結論になるのです。どんな産業民主主義を身につけてほしいかというと、中村圭介『壁を壊す』に描かれています。

壁を壊す (連合新書―労働組合必携シリーズ)壁を壊す (連合新書―労働組合必携シリーズ)
(2009/05)
中村 圭介

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マシナリさんの書かれている私への批判はリーダーによる統制でリーダーがダメだったらどうするのというものですが、これって労働組合だけではなく、どの組織にも当て嵌まる汎用性の高い話なんですね。企業風に言えば、コーポレートガバナンスをどうするかということでもあるのです。それになぞらえていえば、ユニオンガバナンスをどうするのかといってよいのかな。

リーダーシップ論ではフォーマルなリーダーがリーダーシップを発揮しない場合を想定した議論がありますが、どんな組織でもフォーマルかインフォーマルかは問わず、なんらかのリーダーないしまとめ役は必要です。ただし、インフォーマルなリーダーを制度設計というフォーマルな方法で育成できるとも思えませんので、さしあたり、フォーマルなリーダーに的を絞ってあるのです。ここは私の現実感覚ですね。

私はどちらかというと、強制的な選挙による代表の選出という考えには反対です。なぜかというと、民主主義における選挙は、有権者が意思表示という形で参加したというお墨付きを与えるという意味合いを強く持っているからです。今、単純に正規労働者と非正規労働者で構成されている職場があるとします。ただし、正規労働者はユニオンショップで組織化されています。正規労働者と非正規労働者を一緒にして選挙をやれば、組合における選挙経験を有する正規労働者と各人がバラバラな非正規労働者のどちらの意見が通るか明らかでしょう。選挙の肝は多数派工作にあり、です。もし、ちゃんとこの制度を運用したいならば、事前に何らかの形で非正規の組織化(意見の取りまとめ)が必要です。それをやらないで、選挙なんてやれば、非正規も参加しているという事実だけが強調されるからです。そのような状態はマシナリさんの望むところではないだろうと思います。
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昨日、書いたエントリで、「優れた現実感覚を持つ人の政策提言」という表現を書いた。では、私の考える優れた政策提言とは何かを書いておきたい。一言で言うと、実際の政策として実現する可能性の高いものが優れた政策提言である。このエントリは基本的に学術的な要素はほとんどなく、私の個人的な一見解に過ぎないので、あしからず。

世には政策論議が多いが、そのほとんどはこの規準に照らし合わせればゴミである。どうも政策提言を自分の使命のように考えて論文を書く人もいるが、自分の提言がどのようなプロセスを経て、政策として実現するのか、あるいは実際の政策立案者にダイレクトに影響を与える、というような青写真がなければ、画に描いた餅である。それでもその描き方が秀逸であれば、一つの作品としての価値があるが、それさえもないのであれば、存在価値自体に疑問を持たざるを得ない。学会などに行くと自分は何十年もこの政策を訴え続けてきたが実現していないと声高に主張する人がいるが、自分の政治的無能さを公言しているようなものである。まったく恥ずかしい話だ。

濱口さんの本がもっとも優れて現実感覚を発揮していると思えることは、政策がどのように作られるのか、あるいはどのように人々に影響を与えるのか、ということをよく意識している点である。判例に通じているのもそういう観点から理解すべきであって、法律に詳しいなどという話でまとめるべきではない。判例は法の解釈だからである。また、第4章の最後で労働組合に学労使の鼎立関係を確立して、そのなかに確固たる地位を築けと主張しているのも極めて真っ当な意見である。

私の理解している日本の政策プロセスとは簡単に言えば、以下のようなものである。官僚が下案を作る。それを審議会に諮問に掛ける。審議会には役所の然るべき地位の人、経営者の代表、学識者などが入って審議する。濱口さんはこの審議会のところに、労働者代表をもっと送り込めといっているのである。具体的な論点については審議会の中にさらに特別委員会が設置され、その中での有識者が選ばれることがある。以上の人選は基本的に官僚が行う。したがって、原則的には官庁の意向がある程度、審議会が設置された時点で反映されている。ただし、細かい点ではある程度の修正を反映させる(むしろ、ある程度の修正を行うことは大事である)。以上のような作業をとりまとめて立法準備に入る。もちろん、この過程で政治家から修正が入る可能性もある。政治家が口を出すのは、自分たちの背景の支持者の意向を受けての場合もあるが、それぞれの属する委員会で勉強した成果である可能性もあるだろう。そして、法案が国会に持ち出され、法律が成立する。その後、これをどう運営するかは日常的には通達等による判断(意思表示)を通じて所管の行政組織がフォローする。不法行為が絡んでくる場合、裁判所が判断を示す。この間、官僚は非常に重要な役割を担っているのだが、基本的には黒衣に徹することになっている。一応、話を進めるために、上のような簡単な構図を示しておいたが、実際にはもっとゴチャゴチャしているだろう(議員立法などは異なるプロセス)。

今は自民・民主を問わず、官僚を叩くことで投票者の歓心を得ることに忙しい。まったく浅ましいことである。官僚の力を剥奪したら、その代わりに国会議員の行う仕事が増える。にもかかわらず、国会議員を減らすとなると、一体、誰が日本の政治を運営するのか。

今の官僚批判は明らかに度を越していると私は思う。この前、厚生労働省に行ったら、廊下の電気が半分、消えていた。経費節減のためだろう。私は厚生労働省に問題がないというつもりはないが、国家の重要な仕事を担っている人々にこうした仕打ちを加えるのは甚だ疑問である。そこまで萎縮しなければならないというのは間違っている。

制度改革はなんとか今ある官僚の人的な力をより有効に活用できるように向うべきだ。そのためにはある程度のオープン化が必要だと私は考えている。要するに、黒衣に舞台にあがってもらうのだ。ただし、完全なオープン化をしてしまうと、難しい案件の調整に支障を来たす場合があるので、そのあたりは程度問題である。舞台に出てきてもらうというのは、具体的にはたとえば、審議会の中で学識経験者や経営者代表、労働者代表と対等な立場で意見を戦わすというような役割を担うということである。その場合、必ずしも省をあげての一つの立場に固定せずに、対立するいろんな派が出てきた方がよい。ただし、理想は対立する立場の何がメリットで何がデメリットなのかというメニューを正直に提示することである。

オープン化することのメリットは、国民が政策策定のプロセスを知ることが出来るというだけでなく、実際の官僚の仕事が周知されることによって、その内容が本当に尊いものであるならば、官僚が国民からの尊敬を集めることが出来る点にある。そして、官僚が学んだことが直接的に国民にも還元される。それがもっとも健全な姿だろう。

問題は官僚が表舞台にあがったときに、それに対抗できる役割をそれぞれが演じられるかどうかという点である。それは言い換えれば、それぞれの代表を送り出す組織がそういう役割を演じられる人間をどのように育成するかという問題でもある。実は、このあたりが一番の核ではないか。改革は単なる破壊であってはならない。官僚を舞台から退場させるというシナリオを描くにしても、代わりはどうやって供給するのかをはっきりさせる必要がある。これは実は濱口さんの労働組合がもっと審議会等に参加すべきという意見とも関連する。要するに、そもそも数々の審議会等に代表を送り込もうとしない組合のビヘイビアは一体どういう理由で生まれるのかを突き止め、解決する必要があるのだ。

冒頭に書いたように、実現できない政策論議は意味がない。ただ、とにかく文句を言って溜飲を下げるというような効用だけは期待できるだろう。私のここでの話も実現までの青写真を持っているわけでもないし、そういうことに関われるとも、関わろうとも思っていないので、ただの床屋政談だと思って欲しい。