FC2ブログ
では、第二段。

そうそう、女工哀史については前に「細井和喜蔵「女工哀史」をめぐるエトセトラ」を書いたので、そちらを読んで頂ければと思います。

大正時代には労働者に対してひどい扱いをしている企業があったこともたしかです。ただ、その一方で家族主義的なものを標榜して、先進的な企業ありました。もちろん、家族主義ってのは行き過ぎると近江絹糸みたいになっちゃうんですが、世界中で福利厚生を充実させてきたところは「家族」を標榜してきたのも動かしがたい事実です。近江絹糸とその他の先進的企業の違いの一つは、オープンさがあげられるのかな。結構、よいところで相場が出来る。逆にいうと、企業の労務管理って結構、そのときどきの流行に乗っているだけというものもあるので、昔の方がよかったのに、ということもママあります。

で、今は英雄視されている石原修さんの「女工と結核」という本があります。当時から紡績に行くと結核になる人が多い、身持ちが崩れる、健康を損ねて子どもを産むのに支障が出る、とか、まことしやかに言われていました。身持ちが崩れるは事実です。労務管理者も困っていたけど、諦めているところがあった。これと関係しますが、子どもを産む人も多かった。で、あれ?紡績で働くと子どもを産むのが難しくなるというけど、どういうことなんだ?と1920年頃に調査した桂さんは書いています。

結核になる人が多いというのは、半分は事実でしょう。ただし、それが紡績工場に行くからなのか、都会(ないし工場地帯)に行くからなのかはよく分かりません。というのも、空気の綺麗な田舎の人は当然、一般的には免疫も弱いでしょうからね。紡績は田舎の人が都会に出てくる最初のルートという意味合いもあったので、微妙なところです。

深夜業反対の理由は、第一は要するに、外国と戦って勝てないだろう、という経済的なものですが、もう一つ興味深いのは、生活管理上の問題です。東京紡績が尼崎紡績に合併されるときに日清紡に移った宮島さんは、深夜業やったときと休ませたとき、実は深夜業をやった方が体調を崩さなくて済むんだ、という実験結果を出しています。だから、急激に生活リズムを変えることは、かえって労働者の健康によくなかった。少なくとも、深夜業廃止をソフトランディングさせる方法を各社、模索していたわけです。(ちなみにに尼崎紡績と摂津紡績と合併して、現在のユニチカ、大日本紡績ができます。戦後に日紡に名称変更、その貝塚工場は東洋の魔女で有名ですね)

深夜業廃止はみんな、頑迷な人たちが開明された出来事として、薔薇色に語られることが多いのですが、短期的には労働者に非常に損であったと思います。まず、紡績では科学的管理法の研究が進んで、人を減らすという条件が整いつつあった。そして、大不況です。軒なみ職がなくなっちゃった。今のこの時代に、それをよかったね、というのはあまりにもおめでたいでしょう。

私は石原さんのあの発表の仕方は拙劣だったし、少なくとも官庁内ではもっと根回しすべきだったと思います。それがジャーナリズムで持てはやされて、そのまま、現在の人も信じられている。このあたりこそ、政策はすべからくプロパガンダ的性格を帯びざるを得ないと私がいう所以です。石原さんはその後、英雄視されますからいいですけど、実際、残務整理をした官庁の人たちがいるわけです。彼らのことを語らなくていいのか、と思いますね。

思い出したので、付け加えておくと、組合法についてもちゃんと考えて欲しいことがあります。戦前、たしかに組合法が通らなかったのですが、それは主に財界が反対したからです。彼らはあんまり監督的な組合法に反対でした。戦時中、日本の敗戦を見越した厚生省官僚、具体的に名前を言えば冨樫さんですが、そういう廃棄された法案のいくつかをもとに組合法を書き上げます。それが占領軍に入れられて、組合法は成立します。が、ご存知の通り、今の組合法はさらに抜本的に書き換えられますよね。その間の変化をどう解釈するか、きちんと整理して考えなきゃいけない。まぁ、私は時間がないので、検証しませんが、そういう疑問を持っているということだけは書いておきましょう。

ちなみに、戦前財界で組合法反対の中心は藤原銀次郎です。藤原は王子製紙の経営者で家族主義で有名でしたが、同社が戦後、解体されて出てくるのが十条製紙。戦後の労務管理史を勉強して、十条製紙を知らないのはもぐりです。それから、藤原は財界では宮島さんのボス。いうまでもなく、宮島さんの後継者が櫻田武さんですね。というわけで、繋がってます。
スポンサーサイト



では、濱口先生からお声が掛かったので、語ってみましょう(笑)。

細かい歴史的な話をする前に、社会保障という観点からあの本を捉えるというのは、現代的なトピックとしてはもっとも大事な視点だと思います。私も最初に読んだとき、第3章を読み終わった時点でそう思ってました。なんでそう思ったかというのは、端的に言うと、勘なんですが、ただ、根拠がまったくないわけではない。でも、説明すると長いから、スルー。でも、本当は社会保障の話を誰か専門家の方に膨らませて欲しいなぁと思っています。

さて、ではそろそろ、雑談の方に。いろんな話があるから、全部拾えるかどうか分かりませんが。

まず、世間で誤解があるのは財界のイメージです。昔の財界にはいわゆる「人物」が何人かいました。が、その話はひとまず措いておいて、財界人というのはおしなべて、今も昔も現実感覚があるんです。そこへ行くと、官僚には三つのタイプがある。現実感覚のある人、机の上だけで物事が分かると思っている人、本当に机の上で分かっちゃう人(人からの報告を聞いたりして)。なんで、こんなことを言うかというと、明治の官僚はまず、調査をすべきだとは考えなかった。当時の所管官庁は農商務省ですが、そのなかで調査を重視すべしというのは「興業意見」を書いた前田正名一派です。でも、明治20年代後半の工場法をいざ作ろうという段になったら、もう省内での争いに負けて外野にいた。で、「実業之日本」なんかで啓蒙活動をやっていたのです。だから、農商務省は調査やる気なんかなかった。

その当時、まだ財界クラブはなかったし、業界団体も、今なお名前を変えない硬派(?)な大日本蚕糸会、それから大日本紡績聯盟くらいでした。前者は啓蒙プラス研究をやる団体ですね。紡聯はもともと商人の集まりですから、利益(調整)団体だったので、立派にそういうことを議論できる土台があった。紡聯の連中は「いきなり法律作るんじゃなくて、まずは調査をやってくれ」と要求し、自分たちも実際に調査してるんですね。それが「紡績職工事情調査概要報告書」です。職工事情のように情緒的な部分が少ないのでよい調査だと思ってます。職工事情は調査方法も牧歌的だしね。なお、両方、近代デジタルライブラリーで読めますよ。

農商務省もじゃあ、調査をやろうということにはなったんだけど、人がいない。そこで呼ばれてきたのが窪田静太郎です。窪田は後藤新平に薫陶を受けた衛生局のエース、社会事業史・社会福祉史をやっている人なら誰でも知っています。もし、聞いてみて知らないようだったら、よっぽど勘が悪いので、他のことを聞くのもやめた方がいいでしょう。それくらいの人物です。彼が親友の桑田熊蔵なんかを引き込むんですね。工場法を作ったのは岡実と言われていますが、実際に基盤を作ったのは窪田たちだった。後に、窪田はそういう回想を座談会か対談で喋ってます(窪田静太郎集のどこかにあるはずです)。よほど自負があったのでしょう。工場法の土台がどう出来ていったか詳しく知りたい方は下田平先生の「明治労働政策思想の形成」をぜひ読んでください。

財界というより、工場法が遅れたのは日露戦争ですね。これはどちらかというと、ロシアのせいです。戦争のせいで国勢調査も中止になった。ただし、後藤が民政官だった台湾だけやった。このときの調査は今でも台湾の民俗史では貴重な財産です。李登輝さんはそこをよく分かっているんでしょうね。やっぱり教養があります。でも後藤新平の話は今日は割愛。

明治40年代に入ると、繊維業界は調整に入ります。このとき、反対したのは中小です。大企業はむしろ、やって欲しいと思っていた。これは単純に労働市場における立場の違いです。要するに、大工場をいくつも持っている会社はあまりあこぎなことをやっていると持たない。だから、安定的に労働者を供給してくれる地域とは出来れば仲良くしたい。大企業は性質の悪い工場のせいで募集地で迷惑を蒙ったというだけでなく、もっと端的に自分のところから労働者を奪われたりしましたからね。とはいえ、有名な企業の職員であることで偉くなったと錯覚して、悪いことをするやつもいる。それは今も昔も変わりません。

ただ、紡績業の皆さん、制定法でいろんな慣習を変えることにはきわめて警戒した。制定法が慣習を壊すときは、よい慣習か悪い慣習か区別しないですから、ある意味では真っ当な意見だったと思います。

ああ、そうそう。この時代は渋沢じゃないけど、みんないろんな業界と繋がっているから、主要な人たちは本拠地を別に持っていたとしても、何らかの形で繊維業界と繋がってたんです。たとえば、森村市左衛門は商社(森村商事)、陶器(ノリタケ)ですが、富士紡の主要株主でキーパーソンでした。

書きすぎたので、そのうち、続きます。