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学制百年史といえば、基本文献ですね。古書価もそれなりにしていました。1万円を超えることもあったんじゃないですか。驚いたことに、今、これが文科省のホームページで公開されているのです。

本編
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198101/index.html
資料編
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198102/index.html
百二十年史
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz199201/index.html
JAPAN'S MODERN EDUCATIONAL SYSTEM
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198103/index.html

こりゃ、えらく便利ですな。
学制七十年史、八十年史、九十年史もよろしくお願いします。

・・・なんか、百三十年史は出ておらず、この事業は止まってしまったのでしょうか?もしそうだったら、事業仕分けは次の段階で、無駄を省くだけではなく、無理解によって潰されてしまった事業の復活も検討して欲しいものです。国じゃないけど、都労研とか。
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ここのところ、鉄鋼関係の方にインタビューをしていて、前々から感じていたことを改めて実感している。それは日本では、ブルーカラーやホワイトカラーに対して公平な価値判断が存在している、ということである。端的に言えば、仕事が出来るかどうかである。

世間的な建前としてまず、学歴による差が存在している。そして、その建前が現実の制度に大きな影響を及ぼしていることも事実であり、実際の処遇で差をつけられることもあるだろう。だが、組織内の身分(status、どうしても抵抗がある人は地位と理解してくれればいい)、賃金の格差といった条件とは別に、単純に仕事が出来るかどうか、という判断基準が存在するのである。

これは歴史的に見ても、もともとブルーカラーに強かった。昔の熟練工は小難しいことなんて関係ない。要するに、腕が立つかどうか、である。理屈は要らない。日本の場合、技術者が現場に張り付くことは一般に見られる現象だが、そこで彼らはいきなり、トップと認められるわけではない。新人はまず、ベテラン熟練工から非公式に審査を受ける。この査定はもちろん、給料に反映しない。何と言っても、査定する側は身分や職制の点ではしばしば下なのである。

技術者の方たちの話に出てくるブルーカラーの人たちは優秀の一言に尽きる。評価は「できる人だった」というものである。そして、お話には「高卒だけれども」と必ず言い添えられる。だが、これは高卒であることによってあらぬ誤解を受けぬように配慮されているのであって、差別的にいうわけではない。逆に、尊敬していることがよく分かる。尊敬がやや強ければ、一目置く、という表現との中間くらいと捉えるとよいかもしれない。

高度成長期以降の技術革新を日本のブルーカラーはかなり積極的に受けてきたといわれる。もちろん、局地的に自分の培ってきた技能が失われる職種の者は辛い思いをしてきたし、職場で居場所を失うということもあった。しかし、彼らは新しい方法では仕事が出来ないと認識している限りにおいては徹底的に抵抗する。そして、技術者たちも彼らに認めてもらえるように努力をする。

ここで書いたのはインフォーマルな評価基準である。こういうものがあることはみんななんとなく知っているけれども、なかなか論文には書けない。体系的に説明するのが難しいからである。

オチなくて困った。小賢しくまとめず寸止めにしよう。
皆さん、心の中でその先を描いてみてください。
和田先生にしか書けない、今後、製造業の歴史を研究しようと志す者にとって必読の書である。

物語形式に書いてあるので、予備知識がなくても読めるし、面白いと思うが、高村薫さんの書評を読まれるとさらに大まかな流れを掴みやすいと思う。生産管理についてまったく明るくない方はとりあえず、『ザ・ゴール』を読むというのもいいだろう。

私自身、先生から聞いたお話もあるのだが、それを紹介するより、私がどう読んだかを書きたいと思う。大きく言えば、トヨタにおいて生産システムがどのように作られていったのか、ということなのだが、現場群が一つの工場というシステムとしてまとめあげられていくプロセスが描かれているといってもよい。精確にいうと、下請部品会社からトヨタ工場内の各工程を含めて、生産システムとして結びついていったプロセス、というべきだろうか。

その前提としてフォードが作った大量生産システムがある。実は、和田先生の枠組みにとってフォードシステム=移動式組立ラインという寓話は格好のターゲットなのである。そのような寓話が受け入れた背景は、高村書評がいうように、生産工程全体を捉えていないからであろうか。たしかに、この点は重要な一つの論点である。しかし、それだけではない。フォード・システムをトータルに理解する上では、さらにもう一歩踏み込まなければいけないのだ。そして、そこが和田先生のユニークな点でもある。だが、具体的には読んでのお楽しみということにしよう。

今やトヨタは自動車の世界を制しつつある。だが、私の印象では同時代的なトヨタのシステムはたとえば1930年代の紡績業に比べて、1950,60年代の鉄鋼業に比べて、遅れているという印象だった。その違いは何だろうか。

最初に産業の発展段階の問題がある。が、それは紡績と比べた場合である。紡績は戦前に生産システムを完成させていた先進的産業であり、世界的にも既にトップだった。戦後は占領政策の標的にされ、しばしば貿易摩擦の対象という形で政局の人身御供になってしまった。国内では1950年代から衰退産業として捉えられており、それは国内の産業における地位という点では否定すべくもないけれども、同一産業として国際的に見たとき、競争力が急速に低下したわけではない。私は決して生産システムで負けたわけではなかったと考えている。日本の綿糸紡績が衰退した原因は、まずは化繊の興隆という技術革新、第二に人件費の高騰に伴う海外移転である。

他方、戦争が終わった時点での日米の鉄鋼業、それから自動車業との格差はそんなに大差なかったはずだ。もし、私が考えるように差があったとすれば、その原因は端的に言えば、政策的な重点的資金援助、業界全体の組織的対応の違いによるものだろう。この点では紡績は民間主体、鉄鋼は政府(官営八幡)が中心、という違いはあるけれども、ともに明治以来の伝統があり、自動車とは異なる点である。

それから、生産管理(工程管理)の重要性の違いが背景にある。自動車が組立加工産業であるのに対し、鉄鋼業が素材産業(プロセス産業)である。要するに、自動車は沢山の部品を集めて一台の完成車にし、鉄鋼業はいったん溶かした鉄から鋼にしていく工程で、下流に行くにつれ、製品数を増やしていくという違いである。この点では紡績も鉄鋼と同じである(ただ、厳密にいうと、紡績も鉄鋼も上流工程でいくつもの原料のブレンドをしており、さらにそこにまた、ブレンドの妙があるのだが)。自動車ではそもそも部品そのものの問題として互換性部品の問題があり、さらに部品をどう調達する点において生産管理が一貫して決定的にクリティカルな問題であった。だが、鉄鋼業は1950年代半ばに製品数が増加することで、急速に生産管理の問題がクローズアップされてくるようになった。

と、まぁ、いろいろ他にも比較して考えたいことは沢山あるのだが、とにかく、この本は比較の中心軸として、そういうことを可能にしてくれる信頼に足る一つの産業の生産システム史なのである。ちなみに、和田先生の議論をさらに深く理解するためには、

大量生産
・ハウンシェル『アメリカン・システムから大量生産へ』名古屋大出版会、1998年
経営学(ないし経営管理手法)
・土屋守章「アメリカにおける「管理の科学」生成の基盤」『経営史学』1-2、1966年
・辻厚生『管理会計発達史論改訂増補版』有斐閣、1988年

を繰り返し、読む必要がある。最初は土屋論文から入るといい。『管理会計発達史論』もあわせて読めば、科学的管理法=テーラーなどというレベルでは門前払い、ということがよく分かるはずだ。文章自体は達意の文章だから、読みやすいと思う。和田先生はパイオニアとして大変なことが沢山あったと思うが、我々後進の者はここから始めることが出来る。後発者の恩恵とはこのことだろう。

なお、ここ15年くらいでようやく、労働の分野でも賃金が予算との関係から議論されるようになってきたが、はっきり言って、まだまだ共有されているものは少ない。インダストリアル・エンジニアリング(IE)は労務管理とも密接に関係しているが、予算との関係、特に全体像から把握しないと理解できないだろう。こういう問題に興味がある方はぜひ、この四つの文献を熟読玩味して欲しい。ついでに、社会政策学会等で私を見かけたら、ぜひ声を掛けてください。議論しましょう。

ちなみに、ハウンシェル本と和田先生の本の表紙はディエゴ・リヴェラの壁画で対になっている。デトロイト美術館の南壁と北壁である。これはwikiのディエゴ・リヴェラの項目で全体像を見ることが出来る。両方、選択したのは和田先生ご自身で、ディエゴの絵には深い意味があるらしいのだが、残念ながら私には説明能力がない。

ものづくりの寓話 -フォードからトヨタへ-ものづくりの寓話 -フォードからトヨタへ-
(2009/08/10)
和田 一夫

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ザ・ゴール ― 企業の究極の目的とは何かザ・ゴール ― 企業の究極の目的とは何か
(2001/05/18)
エリヤフ ゴールドラット

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アメリカン・システムから大量生産へ 1800‐1932アメリカン・システムから大量生産へ 1800‐1932
(1998/11)
デーヴィッド・A. ハウンシェル

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今、大内経雄先生の『職場の管理と組織』という本を読んでいる。大内先生ご自身にとっての歴史認識は今から見ると怪しいところが多いが、大内先生が語っている現実については歴史的価値が高いと思われる。

大内先生の仕事は戦時中からの職場訓練、職場監督をどのようにするかということであった。そのエッセンスはフォアマン制度ということになるだろう。で、大内先生といえば、今でも『フォアマン制度の研究』の著者として有名なのだが、こちらの本もとてもいいと思う。1950年代にアメリカの経営手法やイギリスのTWIを輸入しようとした経緯や当時の人たちがどのような問題意識を持っていたのかを知るには最適だし、政府がどのような試みをやっていたのかもよく分かる。

また、この本には民間の事例として八幡製鉄、日本鋼管、石川島播磨、日本パルプ工業、日軽アルミの現場改革が当事者たちの手による説明が付録にあり、本文中では大内先生がそれに対して批判を加えている。批判を加えているといっても、攻撃ではなく、問題点を浮き彫りにして、よりよくするための論点を提示しているという感じだ。

この当時の人たちには日本ペシミズム論が浸透していて、少し前の流行り言葉であったら、自虐史観とでもいうのだろうか、そういう歴史観の人が多い。ただし、こうした歴史観を持つ人にも二通りあり、簡単に言うと、非常に苦しい歴史を踏まえて段々よくなってきたんだから、これからもっとよくしていきたいと考えるため、不必要に辛口になっているタイプである。大内先生は若干、その傾向があって、褒めるのが1段落くらいだったら、限界を語るのに数ページという割合かな。もう一方?それは日本資本主義が没落していくと思っていた人たち(笑)。

今、改めて読むべき古典だとつくづく感じた。それにしても、神田の古本まつりでこれを300円で手に入れたのはラッキーだった。きっと誰も見向きもしないんだろうな。論点についてはそのうち、整理したら書くかもしれません。
本来、これから書くような利用の仕方が想定されているわけじゃないのは知っているんですが、これはいいかもと思っています。厚労相がやっているジョブ・カード

昨日、授業でジョブカードの記入例を使って学生にキャリアのことを説明しました。ジョブカードって、普通の履歴書+αの形なんですね。そのプラスアルファは今まで仕事で身につけてきたこと、それから、今まで学習によって学んできたこと、キャリア・コンサルティングで発見した自分の能力と適性です。これって自己分析の練習にもなりますし、正にこれから就職活動を始める3年生にはまったく最適だと思います。もちろん、キャリア概念を理解させる導入としても効果が高いと考えています。

思わぬ発見でした。
先日のtwitter、読みましたよ。例の出し方が悪かったかな。具体的に話すのと理論的な考えをどのように結び付ていくのか、なかなか難しいと今更ながら痛感。ちょっと補足しときます。

私も別に職人論をやっているつもりはなくて、基本的に凡庸な人々の技能の話を論じているつもりですよ。でも大工さんや美容師さんの例は混乱を招く元でした。一応、基本的な枠組みについて確認しておくと、私の議論の前提には、小池先生の労働力別の段階論の話があります。簡単にいうと、第一次大戦くらいが転換期で、技能形成の主な場所がクラフトの時代から(大)企業の時代へと変わっていく、そういう認識です。大工の例は、でもね、企業の時代だって、クラフト的なものもあるよね、という当たり前の確認です。これからは出来るだけ、前提を設けないで書くようにします。

私が想定しているクラフト型世界は、資格社会といわれるドイツですよ。でも、基本的に資格でも、職種でもいいんだけど、その内容がカチッと固めちゃってしまっては、技術革新にキャッチアップしていくにはあまり適さない。だからこそ、世界的にjob enlargementという動きがある。これは職種の幅を広げよ、という意味なんですね。そういう意味じゃ、日本企業の方式は全然、間違っていない。そのことを認めた上で議論を積んできましょう。

で、おそらく、労働系ブログのに興味がある方は、当然、hamachanのここ数日の議論も参照されているので、それとの比較で書いた方が分かりやすいでしょう。
能開大が「ムダ」であるという思考形式の立脚点
企業の責任と公共の責任

最初に立場的な表明をしておきたいことがあります。私は労働行政に携わっている方々が自らの職務に自信を持たずに従事しているというような、不幸な状況があるかどうか知りません。しかし、もし仮にそういうことがあるならば、喫緊の課題として、それが偉大な仕事であることをちゃんと認識してもらわなければならないと思います。この問題は優先順位第一でして、それに比べれば、理論的な話などは重要性が落ちるので、いつだって取り下げ立っていい。ただ、主観的には、これから展開する私の議論はその先のことを論じようとしています。

私の考え方の前提にあるのは、職業訓練であろうと、法科大学院のようなところであろうと、学校はせいぜいエントリジョブまでしか出来ないということです。そういう意味では、労働市場とうまく連結した方が、というより、セットになって初めて機能的であるわけです。再訓練の意味もそうですよね。再訓練して技能を高めただけじゃダメで、それを使う場がなければ話にならない。実際、職業訓練と失対は表裏一体の関係にあるわけです。

もちろん、社会人大学院のような形で、ジョブ(ないしメンバーシップ)を確保したまま、学校を使うこともやり方によっては意味があります。また、技術系でも理論的な思考が出来ないと壁があるということで、その壁を乗り越えるため、これを後から身につけるという方法もあります。これにはかつての八幡の作業長教育のような内部制もありますが、戦前の富士紡に見られた優秀なブルー上がりの職員を上級学校に入れなおさせる外部利用制においては学校は意味があります。そのほか、いつもの職場と違う人との交流がプラス効果を生む可能性があります。しかし、これらは捨象しておいてよいでしょう。

何れにせよ、私が言いたいのは、企業であれ、クラフトであれ、その後、技能が上昇していくというメカニズムです。問題はポート・オブ・エントリ。バルカナイザーションした(分断化された)労働市場は、しかし、まったく孤立しているわけではないのです。中途採用の道だってあるのです。

私がメンバーシップ論に反対なのは、その硬直的な理念型的理解のせいです。特に、日本こそは内部昇進型、ないし(狭い意味での)内部労働市場がピッタリあって、だから、転職が難しいなどという間違った認識を広めかねない。そういう愚かな日本特殊論に堕してしまうのではないかと危惧しているのです。おそらく労働の世界では常識的なことだと思うのですが、先任権の確立したアメリカのブルーカラーなどは内部労働市場の入口は最下層しか存在せず、よほど日本よりも頑健な制度です。昇進は一日でも早く入社した者から希望順、解雇は一日でも遅く入社した者から順番です。ロッキー3でロッキーが精肉部門の仕事を解雇されるシーンがありますが、彼が解雇された理由がまさに一日入社が遅かったな、というものでした。ちょっと古いですが、こういう問題に興味のある方はジャコビーとキャペリの論争を読まれるといいでしょう。日本と同じように市場主義→流動的な労働市場の成立、という文脈がアメリカでも考えられたわけですが、彼の国ではこのように冷静な論争が行われていたのです。内部型が消滅する証拠なんてないじゃんというのがジャコビーさんの立場ですね。

http://ci.nii.ac.jp/naid/110000970418
http://ci.nii.ac.jp/naid/110004692271
http://ci.nii.ac.jp/naid/40006337208

日本では伊藤健市先生がこの論争を訳されていて、それがネットで読めるというなんとも幸せな環境が整っています。キャペリ『雇用の未来』もあわせて読むと、もっと理解が深まると思います。内部市場ありき。そこに接岸するにはどうすればよいか、です。

続きはまた、今度。
ブログをはじめてから、他人のブログも読むようになったのだが、私には非常に謎な議論がある。それは職業訓練に関する議論である。大きく分けて、学校か、企業かという論点で、もちろん、その背後には費用をどこが負担するのかとか、論点が織り込まれているのだが、大雑把にはこう理解してよいだろう。この手の議論を丁寧に考えるためには、問題は社会のどの層をどういう風にしたいのかということを明確に考えた方がよいと思うのだが、今日はそんなことよりももっと根本的なことを考えたい。

多分、問題の核は二つある。一つは、いわゆるschool to workの接合、ジョブ・マッチングの問題。それから、こっちが本題だな、何を身につけるのかという問題である。hamachanブログで散々、議論されている職業レリバンスの問題もこれに関係するが、とりあえず、白熱している議論はスルー。

なんでこのエントリを書いたかというと、メンバーシップ型とジョブ型という理念型で、この問題まで考えようという話が出てきているからだ。hamachan影響力恐るべし。まぁ、このレベルでこの議論を根本的に間違っている。レベルが高いとか低いとかではなく、違う次元の話だ。

技能を身に付けるには、OJTとOffJTの二つがある。いうまでもなく、仕事につきながらの訓練と仕事につかない訓練である。後者は基本的に座学、したがって学校もほぼこれに当てはまる。OJTも実は二つあって、研修期間中に先輩に習いながら覚えるというややフォーマルな形と、実際に仕事をしながらいろいろなことに気づいていく、そういうものである。

どんなに頑張っても学校ではOJTは無理である。学校制度を採用した上でのあり得べき選択は、学生身分を保持したまま、職場で修行させてもらう。いわゆるインターンである。これは一定期間が必要である。ホワイトについては最近、インターンが出てきたが、それでも短期間で実用に役立たないという意見もある。といっても、類似の制度は明治からずっと工業高校などで存在していたともいえる。歴史をやっている人間ならば、鉱山研究の良質な資料が実習報告書であることは常識だ。

たとえば、美容学校は専門学校(職業訓練学校)である。これは資格と結びついているから、みんな通らなければならない。私が以前、行った美容院の親父さんは、腕が良いし、実際講演などにも出かけている人だったが、美容学校は技術習得に必要かと聞いたところ、まったく必要ないと明確に答えた。そのときもさもありなんという気もしたが、その具体的なイメージはいつも通っている床屋のマスターの話しの中にあった。彼は実際に免許を取って床屋で働きながら、技術を磨く目的で美容学校を卒業している。彼は、学校の先生は試験に受かる用の技術は持っているが、それは店で実用される種類の技術とは別であり、ありていにいえば役立たないと話してくれた。だから、自分はよく実技をやらさせられたといいながら、現場でやっている自分のような人間を教師は扱いづらかったと思う、とのことだった。この場合、必要なのは企業に雇用されることではない。個人事業主のところでもよいから、髪を切るという現場に立つことである。そして、問題はその多くの現場が企業の仕事の中に埋め込まれているということなのだ。

念のために言っておくと、私は大学の専門学校化(ないし職業学校化)には反対だが、職業訓練(およびその学校)の必要を否定するつもりはまったくない。学校と現場(多くの場合企業)で学べることとそうでないことを、もっと意識して分けて、考えるべきだというに過ぎない。

次に進むべき点は、制度の費用対効果をはっきりさせて、どこが費用を負担するかだ。訓練が直接的に企業の生産性の向上に結び付いて考えられる限り、それはご勝手にやってくださいということで済むのだろうが、社会的な文脈から、企業に教育機能をお任せします、というのであれば、企業だからという理由で助成金を出さない理由はない。ただし、それは雇用維持してください、というのとは理論的には別次元の話であることに注意されたい。

何れにせよ、この話はメンバーシップ型とか、ジョブ型とかで割り切れる問題ではない。ジョブ型というのはおそらくクラフト型を想定しているのだろうが、それが成立するには職業訓練学校の存在よりも、技能形成の場である仕事の機会をコントロールできる業界団体が必要である。近代のように企業内にOJTの機会が埋め込まれているときにクラフト型といったって時代錯誤である。いうまでもなくドイツは前近代からそういうシステムを引き継いでいるのだ。もちろん、日本だって業界団体はあるし、力もある。たとえば、鉄鋼連盟。しかし、参加するためには鉄鋼会社の身分が必要である。日本でそうじゃないタイプの典型例は大工さんだろうか。大工さんは世界最大のクラフトユニオンを持っている。

ここまで読んで、内部労働市場=企業=メンバーシップ型などと考えていたら、おそらくその人はドリンジャー、ピオリを理解していないのだろう。理論的に考えれば、ジョブ型もまた、クラフトタイプの内部労働市場なのである。そのことを踏まえてリアルな労働市場を描く必要がある。ありていに言えば、職業訓練学校を有効に機能させるためには、企業も市場参加者に含めたクラフトタイプの内部労働市場をちゃんと構築して、その中に自らの立場をフィットさせなければならないのだ。

そして、ここから本当は第一の論点、school to workに入っていく必要がある。本格的に労働市場を考えていくということだ。そのためには、経済学の世界でここ30年くらいで発展した情報の経済学の視点も有効だろう。

が、そろそろ、行き詰った鉄鋼の論文に戻るので、息抜きの話題は店じまいにします。
例によって徘徊していたら、こんな対談を見つけました。菊池光造先生と玉井金五先生が社会政策の範囲や歴史、2003年現在の大阪の雇用政策などを語り合っています。こういうのっていいですね。

歴史の部分の内容的には賛成しかねるところも多々あります。たとえば、宇野利右衛門の位置づけとか、繊維企業の労務管理とかです。よく紡績会社は大阪が主体ということを言われますが、もう明治末期以降は鐘紡とか、東洋紡(が出来るのは大正ですが)とか、全国企業ですからね。地方という視点で考えるのがどれくらい意味があるのか。それと、宇野利右衛門についてはこの前、間先生関連で書きましたけど、実は彼が活躍したのは基本的には工場法が施行される前の一時期なんですね。特に工場法施行時にいろんなところで説明会を開く、その準備には貢献したと思います。それから、紡績会社で言えば、倉紡、大原さんは影響を受けていますが、それ以外はどれくらい影響があったのかよく分かっていません。特に、彼自身は破産するわけですからね。そのあたりをどう考えるかが必要になります。

もう一つはロバート・オーウェンの影響の話。日本の紡績業の場合はもうかなりの部分、労働市場で説明できます。要するに、人が足りなくなったから労働条件をあげなきゃならなかった。それだけのことです。理念先行でやっていたのは、オーナー企業に近かった倉紡くらいだと思います。クラボウは大原さんの関係で大原社研も労研も作ったし、実際の企業への影響という意味では、戦時中から1950年代前半くらいまで労研はすごい力を持っていました。でも、クラボウ自体の労務管理が影響を与えたかどうかは疑問です。大正期には大きい紡績会社は独自の労務管理をそれぞれ作っていますからね。それに、倉敷はそもそも地理的に大阪や東京のように競合工場が濫立していないのも大きいです。

玉井先生の「労働と生活」を社会政策の両輪として考えていこうという方向は基本的に正しいと思っています。細かいこというと、社会政策の学術的定義でいえば、そりゃドイツ型と呼ぶべきだった時代も長いと思いますけど、実際に行われていた政策等を見ていくと、日本だって結構、両方やってきたよという気もしています。戦後だって社会福祉の人たちがしっかりやってきたんだもの。方向としては積極的にそういう方向に教えを請いながら、労働重視してきた従来の遺産も継承するということでしょうか。もっとも、もちろん個人レベルではずっとそういう風にやられてきた方はいました。

でも、こういう方たちが学界展望の対談をしてくださるのは、とてもいいことだと思います。喋り言葉だから簡単な言葉遣いなので、かえって本質が分かるし、そこからいろいろ考える手掛かりになります。特に、菊池先生のベヴァリッジの話を受けて玉井先生が問題にした、実際の学界での広まり方という論点、面白いだけでなく重要です。みんなが読む文献はありますけれども、それをどういう風に受容されかというような話は必ずしも書かれるわけではないですし、実際には研究会や学会、飲み会等で聞いてみるしかないというところがあります。そんなことは論文などにも書けません。逆に言えば、だからこそ回顧録みたいなのは面白いんですよね。何れにせよ、いろいろな場面で考えておくべき視点だと思います。

ぜひ、興味のある方はどうぞ。
本当は貰ったその日に全部読んだんだけど、色々書きあぐねているうちに時間が経っちゃいました。簡潔に感想だけ、まとめとこうと思います。

多分、この手の本の常として全体は玉石混淆といわれるだろうな。その要因は、内容の充実度ということもあるけれども、学際的な本ですので、読者の好みも相当に分かれるだろうと思います。個人的には心理学系の紹介も楽しみました。

1 『イギリスの工場、日本の工場』
おぉ、と思ったのは久本先生の解説の中で、出来高払補足賃金が時間給で、基本賃率が(生産量に応じて支払われるという意味で)出来高給という箇所を引用しているところでした。ドーア先生の観察が細部にいきわたっていることを示す最高の例証です。ただし、これが異分野の人に分かってもらえるかどうかは謎。かなりマニアックな気もします。

ちょっと誤解を生むなと思ったのは、内部昇進と新規学卒主義の話について、小池先生を引いているところです。小池先生の一連の研究はほぼブルーカラーで、1990年代以降、ホワイトカラー、特に近年ではトヨタ技術者の研究を発表されてきました。そこではたしかに、一貫して内部昇進の重要性を指摘されてきました。とはいえ、手許に『ホワイトカラーの人材形成』がないので確認できないのですが、小池先生は他の著作や講演などでは一般にむしろ、学卒よりも、1年くらい働いた非正規からの登用(昔は臨時工、今は派遣)を重視されているように思います。その理由は一緒に働く人にとってはその方が仕事ぶり(能力も含めて)、人柄などが分かるということです。ただし、これはベテラン職長の意見、それに全く同意するという形でお話されるので、あくまでブルーカラーの話です。ホワイトについては、アメリカのインターン制を紹介されますが、日本ではお客さん程度で本格的な制度化していないということでしょう。その意味では新規主義といっても当らずとも遠からずでしょうか。私の個人的な印象では、新規学卒主義というのは制度の慣性という感じがします。

歴史的に新規学卒を見ると、日本は世界でもっとも早く大量の学卒を作り出した国です。一般に新規学卒一括採用が始まったのは第一次大戦期頃だといわれていますが、それまではかなり縁故を背景にした紹介が主でした。ところが、数が増えてくると、紹介も組織化してくる。そういう風に理解できるんじゃないかなと思います。ちなみに、戦前の学卒は相対的に少ないんですが、それでもかなり多いと思います。特に工学部卒を輩出したのは大きい。これは供給側のロジックね。

需要側からすると、いわゆる学卒ではないけれども、学校を入職窓口として利用したのは紡績会社でしょうね。彼らは戦後、長期にわたって新規中卒女子をターゲットにしていたわけですが、その嚆矢は大正期くらいからの小卒女子のターゲット化です。要するに、一括大量人員の確保です。これが需要側のロジック。特に成長期はこれが効くわけね。

ただ、終身雇用の説明に収斂するそういう特徴ももちろん、重要だと思うのですが、現在はむしろ、雇用のポートフォリオという形で、様々な雇用形態に注目が集まっています。実は、そういうのは明治時代からあるんですね。基本的には労働市場が買い手市場になると社会問題化する傾向がある。

もちろん、久本先生も従業員ピラミッドの年齢構成を紹介しており、労働市場の需給の影響があることは重々承知されています。それに、この本自体、石油危機直前に出されているので、高度成長期がポイントだということは注意すれば分かります。が、歴史的に読む習慣がない人は、パッと読むと分かりにくいかもと思いました。やっぱり、異分野の人に分かってもらうのは骨ですね。

2 『東京に働く人々』
私の独断と偏見では、この本の中でもっとも重要なものは八幡成美先生の『東京に働く人々』の解説です。本自体の解説というより、石原都政に潰された都労研調査の重要性についての歴史的証言としてぜひ読まれるべきでしょう。

3 『日本企業の人材形成』
小池先生の説を取り上げるのに、なぜこの本なのかはやや疑問が残ります。荻野氏が担当されるならば、『もの造りの技能』について書いて欲しかったなぁ。順当なところで『職場の労働組合と参加』。もっともこの本の趣旨から離れて言えば、論文ではKoike, Kazuo, "Skill Formation Systems in the U.S. and Japan: A Comarative Study," in Aoki, Masahiko ed., The Economic Analysis of the Japanese Firm, ELSEVIER SCIENCE PUBLISHERS B.V., Amsterdam, 1984に当られるのがよいでしょう。知的熟練の概念はまだ生まれていませんが、小池キャリア論のエッセンスはここにあります。また、フリーマンによるコメントも同じく重要です。小池先生の説を勉強したい方はご覧下さい。

4 『改訂版人間性の心理学』
言わずと知れたマズローの代表作。執筆者は望月由起さん。すみません、存じ上げません。トラパを取り上げるかどうかはとっても微妙な問題をたくさん含んでいますが、改訂版が出る晩年までのマズローの活動や変化を踏まえるならば、核とせざるを得ないんですね。解説では簡単に触れられているだけですが、見出しにされたのはそういうもろもろの意味があるのでしょう。その意気やよしです。

その他
グラノベッターの『転職』を取り上げるんだったら、野沢慎司編の『リーディングスネットワーク論』が良かったと思います。グラノベッターの論文も入っているし、キャリアを企業内にとどまらず、まさにライフサイクルという視点で捉えるならなおのこと。第二段は家族社会学の研究がもっと取り入れられることを期待したいです。歴史関係ではハレーブンの『家族時間と産業時間』が一押しです。

それから、賛成するか反対するかは別にして、マースデンの『雇用システムの理論』は労働問題を考える人には必読ですよ。