学生自治が衰退したとしても、自分達の不勉強を糊塗するために試験を中止させるがごとき不逞の輩がいなくなるのは結構なことである。実際、その政治的立場を問わず、学生運動における政治活動はそれ自体がフーコー的な意味で真に権力的であった。この場合、私が使うフーコー的意味での権力とはすなわち暴力である。看板に大学当局やときの政権、あるいはアメリカ帝国などを名指しして権力打倒を掲げていても、所詮、自分達の言説が一部にでも受け入れられるのは、社会が大学に対して自治原則を容認しているという事実を担保にしたからに過ぎない。それでも自分達が本気で使命感に燃えて運動をしている限りは、たとえ権力的であろうと、まだ救いようがあると思うが、人間の営みというのはおそらく必然的に救いがたい偽者を巻き込んでいく。すなわち、覚悟もなく周囲の、あるいは時代の雰囲気に流されて政治活動に挺身した結果、自らが勉強しなかった代償を自分で負わず、他人に負わせるがごとき不逞の輩である。

それはともかく、自治活動の一部は近年、たしかに大学当局によって秘かに潰されたが、そんなことをせずとも遅かれ早かれ、同じ結果になっただろう。大勢は自治の衰退であって、当局と学生の間の争いという単純な図式では語れないのだ。つまり、大学当局が一部自治会を潰したのは現状後追いに過ぎず、学生自治が決定的に弱まってしまったことの結果なのである。

私が所属した東大大学院経済学研究科の院生自治会はおそらく、現在でも機能している数少ない自治会活動であろう。だが、活動自体は相当に縮小しており、消滅はしないだろうが、衰退の一途を辿っている。昔のイメージしか持っていらっしゃらない方がいると、誤解されるかもしれないので、一応言っておくと、今は政治的対立は絶無である。みな関心さえもない。私は半期(今は半期制なので)委員長を経験し、その前後も含め色々な問題があったので相当に友人たちと議論したが、結局、衰退の最大の原因は院生の間に自治という感覚がまったくないことである。私が自治の重要性を痛感していたのは、偶々労使関係の勉強をしたからであり、これは大学院生としてはかなり特殊な経験に入るであろう。ちなみに、学部の自治会は今はもう存在しない。担当教官ないし事務局(当局)は私の個人的経験では概して親切で協力的であったし、どちらかといえば、自治会がなくなって非常に困っているという話さえあった。自治会が機能していれば、とりあえず、自治会の執行部に話を通すだけで済むが、それが出来なければ、個別に対応をするとか、定期的に説明会をするとか、しなくてはならないからだ。なお、大学院レベルで自治会が機能しているのは東大内ではもはや経済だけだと聞いている。敵対的な自治との対応はそれ自体がコストであったかもしれないが、完全に自治組織を潰えることが、新たに大学側の事務コストの増加を意味するのは理の当然である。

しかし、話はここで留まらない。集団的自治の崩壊どころか、今や自己規律の原則さえ崩壊しかねない状態である。学校によっては、出席の少ない学生に教師や事務方が電話を掛けて面倒をみるというところまで来ている。集団的自治以前である。もっとも、大学が学生の面倒を見ること自体は必ずしも悪いことではない。私の教えていた専門学校でも、相当に先生方が面倒を見ていたが、学生の間でも友人を救おうと努力はするものの、それがうまく行かず、こういう点を気をつけてアドバイスしてくれという話をする者もいた。学生、教師、事務方はそれぞれ立場が違うので、個別のケースではその違いを利用して、協力的に機能するのが最善であることは言を俟たない。

このような問題は実は一部では学力低下問題と同じように高校までの教育から先送りされてきている。例の「大学と職業との接続検討部会」でオリンパスの唐木さんが繰り返し述べられていた、大学は多様なことを引き受けすぎている、という指摘は正鵠を射ているが、実は学生を学校から外に出す最終機関であるために引き受けなければならない責任を、いわゆる全入時代において大学が引き受けざるを得なくなっているのである。

河合栄治郎はたしかに大学自治の危機の時代に理想主義を掲げ、敢然とその敵に立ち向かった。その勇気はこれからも人々を鼓舞し続けるかもしれない。だが、前回も述べたように、それは現代の自治の危機とはまったく性質が違うのである。

本とは関係ない方向に進んでいるけれども、いつかは戻ってくるはず。続く。
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『河合栄治郎』を読みながら、いろいろと感慨深かった。読んでいるうちに思い出したことだが、私もまた、当時ゼミの先生から『学生に与う』を読むべき本としてあげられ、一気呵成のうちに読んだものだった。思えば、社会思想社が倒産したのが2002年、私が文庫版を買ったのがおそらく大学3年生だった2000年であるから、本当の意味で最後の世代であろう。その当時、私は誰と語ることもなく、学問への憧れを内に秘めたままであった。すっかり忘れていた。

松井さんはあとがきにこう書いている。
大学に進学し、偶然『学生に与う』を読むことで、河合の人物と思想の虜になった。今日にいたるまで、河合研究を続けている所以である。

この松井さんの姿勢は、ここまで執念深く考証を積み上げることを可能にした原動力であり、そして、それゆえにこそ分析の甘さなどの弱点にもなっている。だが、そういうことを超えて、ここまで河合栄治郎に惚れ込んで、その思想を継承せんとするその気魄が一貫していたと聞くと、非常に羨ましいというのが率直な感想である。私はもちろん、松井さんが書かれた『戦闘的自由主義者河合栄治郎』も読んでいる。

私自身は松井さんとは全く逆に、河合栄治郎をどうやって相対化するのか、ということに重点を置いてきた。それは私が社会政策を専攻したからであり、この領域において河合栄治郎はいまだ、正当にも不当にも位置づけられていない。だが、社会政策については追々、語るとしよう。

松井さんの最初の本が出た頃から、徐々に河合栄治郎を再評価する動きが出て来た。というより、現在の大学に危機感を持つ人たち、そして、かつての教養主義の薫陶を受けてきた人たちが教養主義を考え直そうとしたのが大きい要因であろうと思う。松井さんの前著はその流れを作ったきっかけであったのかもしれない。そして、おそらく、この問題で無視できないのが竹内洋三部作(と呼ぶかどうかは知らないが)『大学という病』『教養主義の没落』『丸山真男の時代』の三冊ではないだろうか。私は実は竹内さんの本が苦手で『日本のメリトクラシー』『立身出世主義』『パブリックスクール』『立志・苦学・出世』『学歴貴族の栄光と挫折』までしか読んでいない(ような気がする。ひょっとしたら『教養主義の没落』は読んだかもしれない)。何れも真剣に対峙しなければならない本だとは思うが、正直に言うと、私はある種のエリート主義が苦手なので、敬遠気味である。ついでに言うと、私が大学院に入ったときは『メリトクラシー』が秘かに人気を集めていた。

しかし、この本を読んでこれからの時代に必要な教養主義が再構築できるかどうか、もっといえば、河合栄治郎を突き詰めることで教養主義の道筋が現れるかどうか、と問われたら、残念ながら、私は否と答えなくてはならない。はっきり言って、大学は河合栄治郎が受けた苦難の時代とはまったく別の形で、自治の危機に陥っている。すなわち、学生自治の危機である。それも当局による弾圧とか、そんな派手なものではなく、徐々にしかし確実に進行している。(続く)
年末に濱口さんのブログで紹介されていたとき、意外の感に打たれました。私にとってはまさかあの本田さんがこんな本を書くとはという感じだったからです。私の感想はさておき、ネット上の感想を見てみましょう。正直、厳しいなという印象です。

ここ三ヶ月くらいで面白かった本
一筆書きながら決定的に重要な感想です。「分析は適確」としながら「データがあまりになく牽強付会の感じを与えてしまう」としています。私の印象はまったく逆で、良質な資料を選びながら書いているというものです。ただ、明らかにこれは研究者の良心、あるいは当然の誠実さともいうべき、資料の限界の提示がかえって、普通の方には悪く取られることもあるのだなと感じました。

山下ゆの新書ランキング
本田さんの本はかなり多方面に渡っているため、各方面の詳細が分からないのは否めません。私の場合、勝手に補って読みますけれども、それはまったくのレアケース。たしかに、全部、繋がっているんですが、この方のいうように詰め込みすぎなのかもしれません。ただ、後で述べますように、私は論点は割りと明確だと思います。

読書メモ立ち読み三昧
斜め読みといわれますが、かなり適確に本田さんの議論が普遍性を持つ部分を掬い上げていらっしゃいます。労使関係論はすべての働く現場に応用可能な側面を持っています。

『主婦パート 最大の非正規雇用』
本田さんの議論を丁寧に紹介され、そして、共感されています。

主婦パート 最大の非正規雇用
私はこの方の最後の意見が問題のすべてを言い表していると思います。
でもさー、こういうのって、男性が自分の身に降りかからないと自分たちのこととして認識しないんだよね。非正規雇用のことにしたって、そうだけど。こういうことって、昔から女性の問題として片付けられていたことだからね。

この5つの書評も実は山下さん以外女性が書かれたものです。発売された直後であるにもかかわらず、よい感想が揃っているという印象を受けました。ですが、最初はやはり女性から注目されるのですね。今後は少しずつ、労働問題に関心があって新書を読む読者層に広まるという感じでしょうか。

本田さんはチェーンストア研究から非正規雇用のことを扱われてきた、いわばこの分野では日本の第一人者です。修士時代に法政大学で小池和男先生のもとで修行なさいました(業よりも行の方がピッタリ来ます)。JIL時代はとにかくすごい量の調査数をこなされていたことで広く知られています。また、ヨーロッパの学説も踏まえながらチェーンストアを経営学的に捉える視点もお持ちで(私はまだ『チェーンストアの人材開発』しか読んでませんが)、おそらく経営学と人材開発論を結びつけた発想は一つの強みです。本書は書くべき人が書いた本なのです。

この本のメッセージは大きく分けて二つでしょう。ひとつは、主婦パートを新しい形の正社員として(企業内)内部労働市場のなかできちんと位置づけること、もうひとつはその改革を後押しできるように社会保障制度を改革すること、です。特に第一の課題をクリアする上で、労働組合が果たすべき役割が期待されています。

本田さんは早くからゼンセン同盟(現ゼンセンUI同盟)の非正規組織化に注目されていました。ゼンセンは市ヶ谷に事務所があるんですが、その近くの天狗で一緒に飲んだときに「実はここは全部、ゼンセンにオルグされていて、幹部の人が飲みに来ると、アルバイトまで全員挨拶するんですよ」と伺ったのを思い出します。まだ高木連合会長誕生前夜であったと記憶しています。

この提言の背景にある現状認識についてはやや極端な例を使っています。これは諸刃の剣ですね。具体的な話がないと何が危機なのかイメージが湧かず、分からないけれども、逆に、これって特殊な話でしょ?と思われかねない。主婦パート層が忙しくなり過ぎていることが精神的にも彼女たちを追い詰め、取り返しのない状態を引き起こしかねない、という基本メッセージだけを受け取っておきましょう。

ただ、この本はちょっと一冊では分かりにくい部分があります。残念ながら参考文献には載っていないのですが、久本憲夫『正社員ルネッサンス』中公新書および中村圭介『壁を壊す』第一書林の二冊を読むともう少しテーマを深めて考えることが出来ると思います。中村先生のご本はここでも何度か紹介しました(書評濱口先生の産業民主主義論との関連で)。『正社員ルネッサンス』は随分前に買ってあって積読でした。話題にはなっていたので、多様な正社員という提言自体は知っていました。最後に能力開発に持ってくるのを読むと、久本先生も本田さんも本当に小池先生の正統な継承者という感じがします。ただし、『正社員ルネッサンス』は細かい図表の解読がきついのと、一つ一つの言葉が考え込まれて使われているので、それを追うのもきついかもしれません。とはいえ、本田さんの本と非常に問題意識が共通しており、読むべき一冊です。

本田さんは実は私の大学の先輩です。最近ではお会いすることもなくなりましたが、何年か前は小池先生の研究会でご一緒させていただいていました。天狗のエピソードもそのときの話です。学会で発表されたとき、無理解な質問が飛んできてもいつも笑顔で答えられ、よく見られる子ども染みた論争とは無縁な方です。話を聞いていても一つ一つ、自分の課題をこなしていくという姿勢が印象的でした。まさかこのような警世の書を出されるとは思ってもみませんでした。この本の行間からはしばしば不動明王の如き憤怒を感じます。
先日、有賀喜左衛門と一緒に買ったのが北澤新次郎先生の自伝『歴史の歯車』である。北澤先生は今ではすっかり、忘れられているが、かつて労働外交で洋行した鈴木文治の代役で友愛会の会長代理を務めたり、かの建設者同盟の後見役を務めたりした。早稲田大学商学部の創立メンバーでもある。

その北澤先生はジョン・ホップキンス大学で学位を取られたが、その口頭試問の描写がとても興味深いものであった。学位論文が通ると、その後に口頭試問になる。しかし、口頭試問をパスするには、平素親しく聴講している先生方の経済学一般の問題の他に、法律、政治の関連科目の教授や、一般常識を試す目的で文学部の教授の質問に応えなくてはならない。北澤先生は文学部の一教授から「ブラウニングの詩を読んで一貫する思想は何か」と問われ、「それはヒューマニズムの思想です」と答えたところ、ニヤニヤ笑いながら「それでよろしい」と言われたと書かれている。このエピソードから実際にどれほど高い知識水準が要求されたかは心許ない気もするけれども、描かれているのは明らかにリベラル・アーツを重んじる伝統の姿そのものだろう。

ハロッドが経済学における文学の必要を述べたのは有名な話だが(違う?)、北澤先生の本には労働経済(ないし日本では社会政策)に関わる我々にとっても興味深いエピソードがある。北澤先生がマスターを修められたノース・カロライナ大学の経済学部長レーパーは、経済学の専門学科を少なくし、英詩、英散文等を余計に取り英語の実力をつけようとした北澤先生に、こうアドバイスしたそうである。

経済学はこれからゆっくりやることにして、ノース・カロライナ大学にいるときぐらいは英文学の勉強に多くの時間をとるとよい。そうすれば語学も上手になるし、文章もうまくなる。現にアメリカでもイリー教授などは、経済学者ではあるが非常によい文章を書いている。これは英文学の素養があるからだ

北澤先生はこの教訓が後に役立ったので、早稲田でも簿記、経営学や経済学の前に文学をすこしやらせたほうがよいと提言されたことがあったらしい。ちなみに、イリーは今では知る人も少なくなったが、コモンズの労働分野における先生の一人で、ウィスコンシン・スクールの源流の一人でもある。英語だが、紹介サイトにリンクしておく。古い人だから、E-textも大分、読めるはずだ。

今は大学の性格も変わってしまったし、学問も細分化しており、教養を修めるのも大変だ。アメリカだって同じようには行かないだろう。いわんや日本をやである(そもそも大学設立の経緯が違う)。たとえば、今、丸山真男を読んで日本思想を語ることが出来るなどと言い出したら、それこそ勉強不足も甚だしいと言われるだろう。当然のことながら、各分野での実証研究は方法的にも、事実発掘においても格段に進んでいる。今は佐藤弘夫編『概説日本思想史』ミネルヴァ書房などの素晴らしい概説書も出ている。しかし、この本を知らなかったからといって別に何と言うこともない。これだけの点数が出版されている時代に全方位的にアンテナを張って、良書をあまねくキャッチするなんて夢のまた夢でしかない。なお、私見によれば、丸山はむしろ、戦後のある時代を読み解く研究対象として相変わらず重要な位置を占めている。

今は昔の夢物語。
先日、有賀喜左衛門著作集が安かったので、5冊ほど手に入れた。読むともなく、パラパラとめくっていたのだが、決定的に重要だと思ったのは、同族団、たとえば商家の同族団などと会社組織の連続性を論じている箇所である。これは著作集Ⅷに所収の「都市社会学の課題」のなかの「都市における家連合」である。

つらつらと思い出したことや調べたことをメモしておこう。このあたりの商家研究では、何と言っても千本暁子先生のご研究が素晴らしい。千本先生は、当時の労資関係研究に対して、主として間先生の社会学的視点を援用しながら、明治初期の商家の雇用研究や紡績における雇用関係の研究をなさった。このあたりを批判的にも継承しているのが最近では粕谷誠先生の三井の研究であろう。だが、粕谷先生も一編、扱わざるを得ないので扱ったという感じで、もともと労働史をメインにされていたわけではない。また、私はあまり最近の三井物産研究をフォローしていないけれども、必ずしもこのような視角は継承されていないような気がする。それは問題関心がむしろ、最近の経営史的視点(ベタな実証主義)にあるからである。高橋さんはちょっと違うが、ここでいう問題関心じゃないのはよく知っているので省略。日本の労働史研究は今、非常に危機にある。簡単に言えば、人手不足である。研究者同士の密な交流はしばしば素晴らしいアイディアを産むが、そもそもいないので、そんなことは望むべくもない。

今、家制度のようなものは流行らない。それはイエがもっていた拘束性が弛んだという大きな時代的な流れも大いに関係あるだろうが、一つは1990年代くらいまでにある程度の水準に達したという側面もあるだろう。ちょっと、ブレイクスルーが難しい状況に入っている。

有賀喜左衛門を調べていたら、有賀・喜多論争というものの存在を知った。本当は現物にあたるべきだが、平野敏政「生活組織と全体的相互給付関係」によれば、有賀の立場は「家は特定の社会的、文化的条件の下にある社会関係の一形態である」のであるから、「社会関係の形態のみを抽象して、それを通文化的に比較するという研究はほとんど意味がない」わけである。これに対し、喜多は一般理論と結び付て理解すること、すなわち「通文化的比較」を重視したらしい。そして、これはもともとの有賀の批判対象である戸田貞三の「家族構成」と近いらしい。戸田貞三といえば、理論よりも実証を重んじた、社会学者として有名であるから、抽象的理論を遊ぶようなことはしないだろう。ということで、おそらく、この論争は決定的に重要な方法論上の二つの立場を鮮明にしたといえるだろう。

私自身は一般理論をそんなに重視しない。一般理論は現実を説明しようとしたときに、多くの場合は、その魅力を失ってしまう。なんでその現実が説明対象なのか?ということを説得的に示すのが難しいのだ。理論の勉強を中心にした人が泥臭い現場の出来事(史実)をリアルに描くのは困難である。なぜ、そうなのかは私にも分からない。

日本の「家」論の一つの到達点は三戸公である。言うまでもなく、批判派経営学の泰斗で、ウェバー研究やフォレットの紹介者でもある。1990年代には『家の論理』を発表した。これは掘り起こされた事実を尊重しながら、自身の理論研究を結び付ようとした名著である。しかし、ここからの発展可能性ということでいうと、展望は難しいだろう。私の知る限りでは、石巻専修大学の晴山先生はそれを受け継ごうとされたが、決定的な新機軸は出されていない。

日本的経営論の代表的論者といえば、他にも津田眞澂先生、間宏先生、松島静雄先生がいらした。津田先生のお仕事はどれもパイオニア的な意義はあるが、今となってはどれも浅いし、これを引き継ぐ人を私は知らない。間先生のお弟子さんはたくさんいらっしゃると思うが、私の知っているのは河西先生である。河西先生は、しかし、家制度を深めていくという方向には進まれていない。松島先生の家制度研究はそのあと、誰か引き継いだのだろうか?

雑談が過ぎた。有賀喜左衛門については以下の三浦直子論文が参考になると思う。後者は三田社会学の有賀喜左衛門特集で、川合隆男先生がオルガナイザーらしい。ということは、社会調査の学説史研究としては第一人者であり、他もいろいろ期待できると思う。関心のある方はCiNiiで検索されたい。

有賀喜左衛門の初期郷土研究:「名子の賦役:小作料の原義」へと至る展開過程(1)
有賀社会学の批判的継承に向けて

ちなみに、このエントリのカテゴリである学際的領域というのはこの場合、経営史、労働史、家族社会学、都市社会学あたりだろうか。

敬称がついていたり、いなかったりするのには、直接会ったことがあったり、心理的な距離であったり、いろんなことに起因するが、特に深い意味はない。
ちょっとここ数日雑用で忙しかったのでアウト・オブ・デートですが、稲葉さんと濱口さんのやりとりには、私も少し絡んでいるような気もするので、ちょっとコメントします。

関連エントリは、
稲葉さんの2010年1月19日のエントリ
それを紹介する2010年1月20日の濱口さんのコメント

稲葉さんが適切に解説しているのは、テキストとして本田由紀さんとその論敵?小玉さんの関係を読み取った場合です。私は当初、小玉さんという具体名は覚えていませんでしたし、正直に言うと、分科会その2を書いたときは本田さんの本をちゃんと読み返しもしませんでした。読んでいて気づく人がいるかどうか分かりませんが、私はいろんな意味でフーコーが嫌いです。一番嫌いな理由は、必ずしもフーコー本人が悪いわけではないですが、フーコーを分かっていないという自覚を持っているにもかかわらず、フーコーは大事だという人たちにうんざりしてるからです。だから、フーコー云々を持ち出したのは、きっとこんなことをいう人たちはフーコーが好きに違いない、という独断と偏見だったわけです。でも、結構、当ってたのかもしれませんね。

フーコー繋がりで本田さんの議論を考えると、たしかに、稲葉さんの指摘どおりかもしれません。が、実際には大した影響力もないと思っています。そのことを説明するためには審議会の構造を一応、観察しておく必要があります。

審議会には極端な主張が必要とされます。なぜなら、審議会は「審議した」というアリバイが重要なので、出来るだけ極端な主張が争われると理想的なのです。しかし、審議会をまとめる段になったら、いつまでも対立しているのでは困る。実際、文字コードを決める議論では、かつて漢字一文字の字体をめぐって1時間以上、議論しているという有名なエピソードがあります。それじゃ、まとまるものもまとまらない。かつて海軍の波多野貞夫は戦時期の中央賃金委員会で生活賃金(実際は定額給)の中心的人物でした。しかし、まとめる段になったら、適当なところでスッと引いてしまう。それは見事なもんです。完全に自分の立ち位置を知っている千両役者なのです。

哀しいかな、本田さんは本気で職業教育化が必要だと考えている節がある。でも、濱口さんは本田さんほどにはラディカルに職業教育化すべきだとは考えていないし(一々、考証しませんが)、本気にするわけもないでしょう。多分、自民・民主の無理解によって職業訓練が潰されそうになっている危機をどう打開するか、そのあたりがはるかに重要な喫緊の政策課題ではないでしょうか。それには大いに職業訓練、職業教育の重要性を宣伝してくれる人が必要です。やっぱり、人を説得するときにはなんだか分からないけれども「あなたがそこまで言うならば」という局面がやってきます。そう思ってもらうには、中途半端ではダメで、腰を据えて本気で言うことが重要です。こうした条件を考慮すると、身も蓋もないようですが、本田さんはキーパーソンなのです。田中先生は学術的レベルにおいて遥かに本田さんより上だと私は思いますが、内容よりも肩書きがものいう場面もありますし、田中先生は関係者ですからね。内容をとわず抵抗勢力で片付けられかねない。それに比べると、どういう経緯かは分かりませんが、トンチンカンにも(!?)まったく利害関係のない立場から、職業的レリバンスが大事!などと主張してくれる人は願ったり叶ったりな存在です。おまけに、従来の主張であった「職業的レリバンス」を簡単に「職業的意義」に切り替えるといった、こだわりのない軽やかさも持ち合わせているのだから、ありがたい限りです。現在、重要なことは職業教育、職業訓練に関連する事柄に世間の関心を集めることです。それをどうするかは次の課題です。

私は政策に携わっているわけではなくフリーの立場なので、こんなブログの片隅で何を言おうと別に影響力など何もないので、構わないのですが、実は気持ちとしては(私が考える)濱口さんの戦術にの非常に共感します。ここは私が稲葉さんと違う点ですね。じゃ、あんな感想、書くなよという話ですが、止むに止まれなかった。といっても、歴史家として許せなかったとか、そんな立派なことではありません。ここもある意味では真摯に自分の立場から批判されている稲葉さんとは違う点です。

高校の頃、担任の先生がイギリスに観光旅行をしたという話を得意げにしてくだったとき、ようやく「いろいろと厳しくて、信じられなかったんだが、ごみを捨てたら罰金が取られるところがある」という下りが来たところで、出席番号で私のすぐ後ろのヤツが、ガードポジションを完成させた後で、「バッキンガム宮殿!」と大声で叫びました。当然のことながら、じっと先生がオチを言うのを温かく見守っていたクラス中から彼は反省を求められました。曰く「ごめん。ずっと長かったから、我慢できなかった」。今回の私の止むに止まれないという気持ちはこの程度のものです。

実際、分科会で本田さんの主張のコアな部分は通ってません。本田さんにやや近いのが児美川先生。その児美川先生は座標軸で言えば、リベラル・アーツよりですね。最終的には、学士力にプラスα(この場合、このαは決定的に大事ですが)で専門教育の重要性が確認されています。これは北村先生のご主張であり、従来の大学のあり方の継承です。こちらがもうひとつの軸でしょう。ちょうど、真ん中にいらしたのが久本先生。矢野先生は北村先生のご主張を人的資本論の観点から援護されているとも見れるでしょう(JIL論文を読むと)。

以上のような文脈から考えると、稲葉さんが誠実に本田さんを位置づけたことは、政策という観点から見れば、はっきり言えば、実にバカバカしいということも出来ます(いつもながら律儀だなあと私は思いましたが)。だからこそ、濱口さんはわざわざ「これはいかなる意味でもペジョラティブなインプリケーションはありません」という断りを書いたのです。濱口さんの哲学に対する思い入れを知っている人にとっては不要な断りとも言えます。

私自身はフーコーをそんなに大事だとも思っていません。私も前に、あまりにもいろんなところでみんなが言うので仕方なく読んでみました(そのときは集中的に4,5冊は読みました)。いざ読み始めると、最初はそのストーリー・テーリングの卓抜さに感心したんですが、そのうち飽きました。何というか、私から見ると、フーコーが捉えた本質は勝間和代十夜が描いた本質と究極的に同じようなものなんですね。勝間和代十夜を読んで、勝間さんならありそうだと思ったとしても、本物があの通りであると思う人は誰もいません。フーコーの描く歴史も私には同じように思えるのです。ただし、両者ともにまったくの紛い物であれば、誰も惹かれません。きっと大事な何かを捉えているのでしょう。そこが面白いところです。フーコーのストーリー・テーリングを学ぼうとする歴史研究者はいるかもしれませんが、フーコーから資料の使い方を学ぼうとする人はいないんじゃないでしょうか。

ですが、濱口さんは私とはまったく違います。濱口さんはフーコーの重要性をカッコ付きで認めて、哲学的に考察することへの思いを述べているのです。内容ではなく、そういうことが出来ることに対して、「ああいいなあ」というつぶやきなのです。濱口さんの以前の哲学についての職業的レリバンス議論などを読み返せば分かると思いますが、濱口さんにとっては哲学はある意味で、普通、大学の学問に期待する学術的性格の象徴であるように私には見えます。哲学と政策の対比は哲学をアカデミズムと読み替えると分かりやすくなるでしょう。

簡単に本音ベースでいうと、アカデミズムではプロセスの方が大事、政策は結果の方が大事です。こういう視点に立って私はかつて、政策提言はプロパガンダ的性格を持たざるを得ないといったことがあります。濱口さんからそのときに、政策科学というものが成立するというコメントをいただきました。実は、二人の間に認識ギャップはまったくなく、プロパガンダという言葉に対する好みの問題で、濱口さんは単にそれが嫌だというだけのことでした。その拘りのなかになんとなく学問へのある種の信頼や尊敬、憧れといったものを感じることは出来るし、また、濱口さんの書かれるものの中にアカデミックな拘りを見つけることも難しくないでしょう。ただし、もしその拘りが政策遂行の障害になる局面が来たならば、躊躇なく、それを捨てるだろうと思います。そういうことが「政策の人」なんでしょう。現実のアンビバレントな要求、あるいは学問と政策の間の奇妙なバランス。そして、ときにそれに伴ってやってくる苦悩。そういうものを割りと正直に表現してしまうところが実は濱口さんの魅力かもしれません。
第二回で共有されている問題意識は、大学の講義に「職業的レリバンス」を持たせるかどうかという点です。

児美川先生は明確に資料の中で「専門教育そのものを”キャリアoriented”にしていくべき」と書かれています。こういう方針はある意味では当然で、児美川先生がキャリアを冠する学部に所属されていることが大きいのではないかと思います。専門とキャリアが一致しているのですから。ただし、そういう外形標準的な問題とは別に、大学の旧来の講義とキャリア・センターの並立的な状況において、キャリア・センターだけにキャリア教育を任せていいのか、という問題意識が出発点にあったことは確認しておく必要があるかもしれません。

その一方で議事録の質疑応答では次のように述べられています。

私の報告の前半でいけば、もっと職業的レリバンスを強めるべきだという話になるはずだが、後半ではむしろ現状認識としてリベラルエデュケーション的なものが必要になっている、としているので、明らかにその間に矛盾があるといえば矛盾があり、自分でもそこは自覚している。すっきりと私自身の中でそこのつながりをつけて考えられている、というよりは、あまりにも弱い部分については確かに改善していくべきだと思うが、同時にそれだけでやっても上手くいかないだろうという実感がある。

この正直な、アンビバレントな感覚は重要かもしれません。キャリア・デザイン学部においては矛盾なく統合できる気もしますが。

なお、この児美川報告を読んで本田さんの『教育の職業的レリバンス』におけるキャリア教育批判のネタ元はこれなんだなと思いました。川喜多先生のキャリア教育批判の話のところなんか。児美川先生は「個人的にちょっと気になるのは,「キャリア教育」のはねのけ方にかかわるスタンスの取り方か」と一言感想を洩らされていますが、私もそうだろうなと感じました。というわけで、児美川報告レジュメと議事録での該当部分と読み比べるのもいいと思います。

久本先生の報告は、制度派の労働経済学者の面目躍如だと思います。制度派的な常識と一般の常識の間のバランス感覚が絶妙ではないかと感じました。論理的には私自身「訓練について」の中で共通する主要論点は出してあります。一つのポイントは、久本先生がドイツを比較対象として念頭に置きながら、就社と就職を分けて論じられている点ですが、理論的に言えば、内部労働市場の二つの型(ジョブ型(クラフト)、メンバーシップ型(会社))との関係に対応します。職業に就くのではなく、会社の一員になる以上、そのときに求められる能力を学校で与えるのは難しい。したがって、論理的必然として学校教育における企業の関与、学校と企業のデュアルシステム、具体的にはインターンシップが重要である。そういう論理運びになります。

しかし、私の聞いたところによると、経産省のインターンシップ予算が削られてしまったみたいです。ジョブマッチングの機能を果たさなかったということなのかな。何れにせよ残念だし、気になるところです。インターンシップを学校と企業の架け橋に使うのであれば、単純にジョブマッチングではなく、技能形成の一つという観点から捉える必要があることを確認したいところです。ただ、インターンシップは久本報告にも書いてありますが、ただ働きの危険もあるので、運用上、難しい問題もあります。もっとも、そういうブラック会社であれば、就職しない方がいいわけですが。

久本報告の中で「完成した高度職業人を育成することが大学教育なのか?どこまでの教育を大学はするべきであり、ど(こ)からは企業に任せるべきかを議論すべきではないか」と問題提起されています。ここは児美川先生と違う立場ではないかと思います。多分、久本先生は実用に耐える職業的レリバンスを学校で与えるのはそもそも無理という考え方が強い気がします(この点は、おわりに参照)。裏から言えば、だからこそ、インターンシップなんだとも理解できるかな。

さて、とりあえず、今回の備忘録シリーズは幕間です。3,4回の議論を読まないと、先に進まないからです。キリがないから全部アップされたら、続きを論じることにしましょう。

「人間力対職業的レリバンス」という対立構造で物事を捉えるのに、反対する理由は数多くあるのですが、その一つは職業訓練をまた、不当に低めるものであると考えるからです。この場合、職業訓練のなかに、各種の専門学校を加えてもいいかもしれません。

実際のところ、私は自分が偶々関係した専門学校を見ただけですが、少なくともそれまでにこんなに人間教育をしっかりしている学校を見たことがありませんでした。彼らが就職していくのは、彼らの能力ももちろん、大前提にありますが、大きいのは先生方のバックアップです。生徒と頻繁に連絡を取り、面接を繰り返し、よく一人ひとりのことを把握し、いわゆる躾というべき教育も徹底しています。彼らが取得している資格がどれくらい就職に直接、役立っているか分かりませんが、少なくとも私はその資格の力だけが専門学校を支えているとは思いません。偶々、一緒に非常勤をやっている先生から聞いた話だと、他の専門学校も結構、そういう面倒見はいいんだということでした。なぜこういうことを書くかというと、学校という形態を取らない時代から、実は職業訓練の一つの流れとして人格教育があったし、今も現にあるんだということをぜひ知って欲しいと思ったからです。そのためには佐々木輝雄に返らなければならない、と私はそう思います。

実は去年の夏ごろ、私は佐々木輝雄先生の本を紹介しました。時間が出来たら読もうと思って積読していたのですが、今回、いろいろな問題を考えるに当って、全集3冊を読みました。私の影響かどうか知りませんが、古書価は高くなりましたね(笑)。

それにしてもこんな天才的な学者の研究を知らなかったとはまったく自分の不明を恥じ入るばかりでした。ただ、すごいなあと思う一方で、これは理解されないだろうなと思わざるを得ませんでした。私は専門ですから、第三巻で描かれている行政官庁の流れをほぼ理解しています。細かい名前はあやしいですが、大まかな流れは分かります。細かい名前は論文を書くときだけ確認すればいい(笑)。しかし、こうした流れを知っていることを普通の人に期待するのは難しいし、おそらく学者であっても分野が違ったら厳しい。そういう歴史を知るような本もないのです。佐々木先生の業績を一言でまとめるのは難しいし、詳細な検討はもう少し考えを深めてからにしたいところですが、二つの重要な視点を紹介しましょう。

佐々木先生によれば、職業訓練には三種類の考え方があるそうです。解説の木村力雄先生の文章を引用しましょう。
職業訓練には、1「商工・産業経済のために役立つ最先端の技術・技能を教えること」だとする商工派、2「最先端のことを教えるよりは、飯を食わせることが大切で、失業したら手に職を付けてやることだ」とする民生労働派、3職業訓練とは、まさに教育そのものなんだ、とする教育派、の三つの派があり、現在労働省の管轄下にある職業訓練は、1商工・通産行政、2社会・厚生行政、3文部行政の狭間にあって、そのいずれにも徹しきれないところにおかれている。そしてそれ故に「非常に難しい立場」におかれているのだ。

この視点は汎用性があります。たとえば、資格試験にとても関心が集まるようになってから久しいですが、この資格をどうみるのか。一つは、一流大学であってもダブルスクールで取得を目指す公認会計士や昔の司法試験のようなもの。これは言ってみれば、その分野の最高峰ですから、1に準ずると見えなくもない。また、様々なところで注目を集めている資格はそんなに難易度の高いものではなく、まさに手に職の2を目指しているものもあります。これだけでもレベルをわけて考えることが出来るようになります。

ですが、私がもっとも重視したいのは職業訓練=教育論です。ただし、注意したいのは佐々木先生の議論を見ていくと、日本のルーツは小河滋次郎になるということです。ああ、貧民研究会ね。と反応したら、マニアです(笑)。20世紀初頭の地方改良運動は内務省の一大イベントで、その中心は井上友一でした。井上は窪田静太郎や松井茂が作った貧民研究会の主要メンバーです。文部省はそれに乗っかる形だった。そういう意味じゃ、細かいことを言い出すと、2と3は密接に結びついている。窪田、井上、小河らは社会局を作った救済事業調査会の主力です。この意味でも分類は難しい。強いて戦前の分類でいうと、1は農商務・商工、2・3は内務省、ともいえるでしょうか。でも、仮にここは3教育論=小河の議論にしときましょう。

佐々木先生は小河滋次郎の精神をよく継ぎ、おそらくは佐々木先生の精神をよく継いでいるのが田中萬年先生です。おそらくというのは、私は田中先生の本をほとんど読んでおらず、わずかにWEB上で先生があげているものを読んだだけなので、自信をもっていえないのです。

佐々木先生の全集第三巻に「職業訓練の高等教育化・成人教育化」という一編があります。この論文は印象的な一言から始まります。
職業訓練の現実は、重く且つ暗い。この現実を克服するために、職業訓練は過去においても、また現在においても、さまざまな努力を重ねてきた。例えば、職業訓練は過去において、その存在証明を得るために、学校教育との比較において、その教育対象、教育内容、教育方法の独自性を強調してきた。また現在では、昭和五〇年四月からの職業訓練短期大学校、技能開発センター、職業訓練大学校再訓練部の発足に象徴されるとおり、その高等教育化への主体的な努力を高く評価しながらも、しかしこれらの努力によってのみ、職業訓練の重く且つ暗い問題が解決し得るとは考えないのである。と言うのは、職業訓練が当面している課題は、日本の教育のはらむ矛盾の解決なしには、解決不可能と考えているからである。

そして、結論部分では次のように述べています。
(職業訓練の)独自性の主張は、常に学校教育との違いを強調するだけで、それを超えた課題に対する認識を欠除していたのである。その認識とは、対象とする人間が学校教育であれ、職業訓練であれ、ともにより高い教育を受けたいと願っている点において、共通しているということである。かかる認識に立てば、単に学校教育との違いを強調するだけでは、職業訓練は永遠にその存在証明を入手できなくなる。むしろ、職業訓練の独自性は、学校教育との異質性に対しては等価の評価を、また同質性に対しては同一性の評価を要求し、それを実現することによってのみ、はじめてその存在の重みを持ち得るのである。このために職業訓練が「教育の機会均等」理念と無縁な存在であるかのような幻想を、まず最初に克服しなければならない。

田中先生がなぜ、教育の語義から考察し、さらに教育基本法の意味、義務教育の考察をされているか、この引用から明らかではないかと思います。田中先生の非教育=職業能力開発論は佐々木先生が提出したこの問題に対する答案であると考えてよいのではないでしょうか。少なくとも田中先生は全集の編集者の一人であり、佐々木先生の資料面での協力者でもあり、そして、何よりたしかな考証力(歴史家の職業能力!)を引き継いだ研究者でもあります。

その田中先生の議論は、言葉の表面上は「教育」という言葉からの解放を求めているのですが、歴史的文脈から離れて我々の日常的な言葉遣いから考えれば、むしろ、教育(三種類のうちの3)を突き抜けて考えていった結果のように私には思えます。そして、そこから1,2が捉え返されている。それはまさに学校教育との差異を言うだけに留まらない、職業訓練の存在証明なのです。

私の見立てによれば、もし田中先生の研究がある種の小河以来の修養教育を継承したものであっても、それはフーコー的な議論と親和的な人間力派とは似て非なるものなのです。小河の議論は私が佐々木先生の議論を読んだ範囲で推定すると、監獄改良運動とその精神を一にしています。したがって、フーコーと対立的になるのは当然です。この点の思想研究を進めているのが小野修三先生のご研究です。10年前のものですが、ネットで読めるのを紹介しておきます。

日本の職業訓練論は普通教育との緊張関係のうちに、職業訓練関係者の血の上についにこの高みにまで登りつめたのであって、たかが人的資本論程度の議論で掬えるようなものではないし、したがって「人間力対職業的レリバンス」などという舞台では不十分なのです。役者が違うのです。今度はこういう議論を踏まえて、大学の存在証明をしていく必要があるように思います(もちろん、私がそんな大それたことをやろうとしているわけではありません。念のため)。
議事録がまだ第二回までしか公開されていないので、細かいことは分からないのですが、大体、今のところ、大きな見取り図というか、そういうものは私の中では大枠は分かりました。もちろん、資料を読んでいないので、当ってるかどうか分かりませんし、普通はこんなことやらないのですが、とりあえず、メモなのでご寛容ください。

濱口先生が前に書いてくださった論点は「人間力VS職業的レリバンス」という枠組みで、予告によるとこれが第4回で矢野先生との間に激論(?)を呼ぶそうです。実はこのような枠組みで議論すること自体がそもそも人的資本論に捉われているのではないか、と私は思っており、あまり有効ではないのではないかと感じています。もちろん、たとえば、第二回の資料で久本先生が「なにが就社活用のために大学が学生に習得させるべきものなのか。もちろん、大学教育はそれだけではないが」と述べられているように、参加されている先生方は、そのことを前提としつつもそれを棚上げして、この分科会の趣旨に沿うように、議論されているのです。ただ、この枠組みは非常に複雑な背景が重なっているので、もはや収拾がつかない状態です。

ポレミーク(=論争喚起的)な本田先生の本は、外部の私からの観察によれば、実は教育学界の対立を非常に端的に表しているように思います。ただし、この場合の「人間力派」というのは、ルソーを淵源とする教育哲学をバックグラウンドにもっているんじゃないかと睨んでいます。教育哲学なんだけど、おそらくは教育を敵視するところがある。そういうものはさらに進むと教育=強制という考え方に展開するし、そういう考え方にシンパシーを持つ人はきっとフーコーもお好きでしょう。元々、学校も工場(会社)も嫌い。その本丸にあろうことか、正反対のご本尊の職業を打ち出して挑もうというのですから、本田先生の試みは大変なことなんです。

ただ、この分科会で終始議論されている「人間力」は全然、違います。今度は「職業的レリバンス」を媒介にして、その反対概念として出てきている。この場合、労働に関連するプロであれば、おそらく念頭に置いているのは、汎用スキルと特殊スキルの対立を、「人間力」と「職業的レリバンス(ないし職業能力)」です。ただ、職業能力に該当するはずの特殊スキルなんですが、具体的に何がイメージされているのかといえば、よく分からない。抽象論としては分かりますが。でも、実はこの二つのスキルの対立は古いところでいうと、戦時中に熟練工育成を単能工にするか、複能工(現在の言葉でいうと多能工)にするか、ということで大議論があったんですが、それと似ている。私がJIRRAで発表した論文はそのことを踏まえて書いたけれども、今、読み返すと分かりにくい。この論争は職業訓練史の文脈では決定的に重要なんですが、その話はまた後ほど。

しかし、実際、こういうなんだか分からない議論が一定の説得力を持っているのは次のメカニズムが機能しているからではないかというのが私の見立てです。企業は職業能力を前提とせずに採用していたんだから、学生は職業能力を従来持っていなかった。じゃ、何にもなかったかといえば、何かはあった。それが何か分からないから、とりあえず、職業能力(ないし職業レリバンス)の対立概念として人間力と呼ぼう。この程度の深みでよいならば、十分、これでも話は成立するのです。この点、職業レリバンス(職業的意義)が何より大切!という本田先生の主張は立場としてはこれほど明確なものはない。濱口先生の立場は微妙に分かりにくいんですが、約まるところ、本音は資料1-2の最後の箇所ではないかと思います。

> 企業や学生が教育課程を尊重せざるを得ないような職業的レリバンスのあるものにしていくといっても、現実には極めて困難である以上、どうしても大学教育を妨害するような採用活動を抑止したいのであれば、かつての新規中卒者の採用活動と同様に、新規大卒者の採用と就職を厳重な国家統制のもとに置くしかありませんが、それは新規大卒者をかつての新規中卒者並みに扱うことを意味します。かなりの程度それは実態に即しているように思われますが、「学術の中心」という建前との矛盾は極大化せざるを得ません。

それにしても、濱口さんは国家統制が好きだなあ(笑)。ここをつっ込んでいくと、前の私たちのやりとりをご覧になってくださった方には、ネタになるかもしれませんが、事態はより深刻なので、次のエントリは決定的に重要な問題を扱いたいと思います。多分、いろいろ言っても変わらないと思うけど、とりあえず、大学は危機意識を持たないと困る、といったところでしょうか。

追記1
濱口先生に修正をいただきました。

追記2 稲葉さんのはてブコメント
稲葉さんは本田さんに厳しいなあ。本田さんのハイパー・メリトクラシー論を読み直して、再検証するつもりはないんですが、稲葉さんのご指摘通りですと、このエントリは明らかに買い被り過ぎですね。そして、正直に言うと、私は稲葉さんの指摘が完全に正しいような気がしています。でも、このエントリはこのエントリで残しておきます。
労働経済論ともろに関係あるので、大学と職業との接続検討分科会の審議経過をちょっと検討しようと思い立った。だが、今回のエントリは分からないことが多すぎて、自信がない。

とりあえず、二回分、資料と議事録を読んでみた。ただし、この議論の前提として中央教育審議会の答申がある。審議経過を記述したのが「学士課程教育の再構築について」(PDFファイル)である。文科省のHP内でもリンク切れしているところがあるので、直接、貼っておくが、PDFファイルだから気をつけて飛んで欲しい。

産業界と教育界との認識ギャップというのはここまで違うのか、というのが率直な感想である。考えれば考えるほど恐ろしいのだが、まず、教育界の中に入り込んでいる成果主義的傾向が気になった。コンピテンシー論は、私はアメリカ初のグローバル展開するような人事コンサルが90年代に作り出した商売用のキャッチコピーで、それが一部の学者の間に流行したものだと思っていたのだが、そんなにも普及しているのだろうか。しかも、企業は失敗したというのが営業成績という形ではっきりと出るので、痛みを伴うものの、そこから修正を図ることが容易だが(いわゆるlan→o→heck→ctionサイクル)、いったい、この審議会の議論はどこで自浄作用を担保しているのだろうか。一般論として、各論をやっているうちに、重要な論点が出てきて、総論を修正する必要が出てくることもあると思う。

中教審答申について細部を検討しようとは思わないが、疑問点をメモしておきたい。大学教育の国際比較を軸にいろいろな改革を提言している部分がかなりあるのだが、実際の大学教育が抱えている問題は中等ないし高等教育までの課題が持ち越されているものもあり、もちろん、議論もこの点が意識されてなされている。そこで疑問なのだが、国際比較をするときに、大学だけでなく、それ以前の教育を含めたトータルな教育制度との比較を行う必要があるのではないか、ということだ。

さて資料の方を見ていこう。経済同友会の提言「18歳までに社会人としての基礎を学ぶ―大切な将来世代の育成に向けて中等教育、大学への期待と企業がなすべきこと―」ではタイトルが表しているように、答申で「学士力」に求められているものは大学に入学する以前で身につけるものであるとされていると読める。正確に言えば、同友会提言の中でもこういう「18歳までに社会人として身につけるべき基礎力」を大学でさらに磨くことが期待されている。

それにしても、同友会提言は面白い。特に、後半の「パネル討議」は秀逸である。印象的なのは、このパネル討議に出席している大学関係者がすべてキャリアセンター(昔の就職部)の人たちで、こういう人たちは「大学と職業との接続検討分科会」の中には入っていないことだ。キャリアセンターの人たちは面白い視点から問題提起をしている。たとえば、エントリーシートをめぐって大学生たちがどう考えているのか、企業側がどう考えているのか、そのあたりのミス・マッチが明らかになって大変、参考になった。就活中の学生は必読。そもそも、このパネルに大学の先生がまったく呼ばれていないこと自体、企業の方たちが「大学と企業の接続」について本当は誰の話を一番、聞きたいかを表しているようにも思える。

第1回と第2回も同様の発言をされているのだが、議事録(PDF)の中で私がもっとも興味を引かれたのはオリンパスの唐木さんの発言である(彼女が第2回ではオリンパスと名乗っているし、その立場が重要なので、実名を推測であげておく)。ただし、こういう発言をどういう文脈で捉えるのかは微妙なところだ。つまり、卒業生へのニーズがある企業人という立場からの意見なのか、あるいは、就活という窓を通して大学の外から大学生を観察している第三者の意見として考えるのか、である。実際のところ、この二つが分かちがたく結びついているのは百も承知なのだが、後者の視点がないと、貴重な意見をうまく活かせないのではないかと思っている。

さて、その発言の趣旨だが、大学は親切に過ぎて、学生にあれやこれやの道を示しすぎている。だから、学生は選択に疲れ、十分にコミュニケーション能力があるにもかかわらず、それ以上のコミュニケーション能力を磨こうとしたりする羽目に陥る。実はこれは本田さんの考え方と真っ向から対立している。本田さんの方は大学で学ぶことは可視化できるし、するべきだという考えがちらついているように思う。

そこでちょっと読みきれないのが日本ユニシス社長・籾井さん(推測)の発言だ。成績表を高く評価している話は本田さんに対する皮肉だろうか、それとも真剣なんだろうか。勉強を一生懸命することで、人間形成が出来るという内容の限りでは、学校の勉強を重視しているので真剣といってよさそうだが、一方で、ユニシスはIT企業だが、内定式ではITを学ぶよりも沢山の本を読み、沢山の人に会って、勉強するように発破をかけたという。常識的に考えても、まんべんなくどの科目も好成績を獲得することに4年間をかけることが奨励されるとも思えない。これは職業教育論へのアンチテーゼだろうか。

濱口さんも職業レリバンスの点については本田さんにやや近いと思うが、一方で哲学については職業レリバンスの及ぶところではないとずっと仰ってるし、そもそも誰かが反論してくれて、議論が深まりそうなところへ発言している嫌いがなきにしもあらずなので、真意はいつも謎だ。なお、濱口さんの発言で、違和感を感じたので引いておくと、

日本の雇用システムは基本的にjob ではなくて、会社の一員になるということである。会社の一員というのは、会社がこれをやれと言ったことを必死の努力をしてやる、ということが最大の課題である。大学で何を勉強したか、ということよりも、何を言われてもそれをやりぬくだけの素材であることが必要である。それは何で分かるかというと、広い意味で人間力、地頭の良さというのは、ある部分は大学で4 年生の時に何を勉強したかではなくて、4 年前に入試でどれだけ点を取ったか、ということである。

とあり、こういう側面があることは否定すべくもないが、同じ大学の中でもいくつも内定をとる者とまったく決まらない者の差がなんであるか、ということを説明できないのではないだろうか。

実は、そもそも人間力が受験で決まるという発想がいかにも東大的に私には感じられる。別に悪い意味でも揶揄しているわけでもないが、これは私個人の感覚的問題なのだ。法政から東大大学院に進学したとき、最初にもっとも違和感を覚えた感覚がこれであり、東大の学部からあがっていた人たちは持っていて、外部入学者の友人たちもほとんど持っていなかったと思われるものである(東大出身で実は学部に入ったときに同じ違和感をもったと話してくれた人が一人だけいたが)。個人的には、学校間の差は試験そのものだけではなく、OBその他のコネも含めて複合的だろうと思う。→濱口先生から誤解である点を丁寧にご説明いただきました。

この点では京大工学部の北村先生の発言(推測)に好感を持つ。つまり、学部を一緒くたにするのも、大学全体を一緒くたにするのも大雑把に過ぎるというわけだ。こういう発言はとても危うく、エリート主義のように受け取られかねないが、実際、エリートとノン・エリートという差は存在するのであり、そのことを否定するより、お互いの立ち位置をしっかり確認する方がどちらにとってもハッピーだと思う。当然のことながら、京大や東大はペーパー・エリートだけではなく、真のエリートも抱えているのだから、そういう国家の宝をどう大事にするかは大問題である。

唐木さんや籾井さん、その他、産業界の人の意見の中には、迷うくらいなら、大学なんだからそこで教わることを一生懸命、勉強しろ、というメッセージが通底している気がする。そこには、やや大げさに言えば、従来の大学に対する信頼感と職業学校化しようとする将来の大学への不安を感じる。実は、同友会提言の中でも卒業認定の厳格化ということが言われており、中教審答申の中にも盛り込まれているのだが、それが同じ文脈かどうかは微妙である。同友会のパネル討議の発言を見ていると、これは単に内定が早まったため、卒業までの間を無為に過ごさせないための方策であるように感じられた。答申の方は大学教育の質を保証するものに見える。この意味では、先ほどの成績表発言の真意が重要なのだ(私には分からないけど)。

ちなみに、唐木さんは別の点でも面白いことを話している。面接のとき、研究の自分と人事と他の専門の三人でやって、評価基準がまったく違うにもかかわらず、不思議と評価が一致する。これは自分にも説明がつかないし、むしろ、これからの中で解き明かしたいという。こういう感覚はきっと重要だと思うが、論理的に説明できないので、きっと消えていってしまうだろう。だが、いろいろと示唆に富む発言である。

追記1

はてブコメント面白い。そんな読み方もあるんだ。でも、ちょっと勘違いだと思います。唐木さんの話は、評価基準が曖昧なのではなく、別様の評価基準があるにもかかわらず、それが結果において一緒である、ということです。評価してないわけじゃない。ということは、少なくとも入試の結果だけではないんです(含まれる可能性は大いにあります、もちろん)。