前回、体系という話を出したので、職業教育から話を一般教育に持っていくことが可能だと思います。

この問題について、私がとりあえず、読むべきだと思っているのは藤澤伸介『ごまかし勉強』上下、新曜社、2002年です。とりわけ、今、「ゆとり教育」の影響で指示待ち社員が増えて、困っていると思っていらっしゃる人事担当者(じゃなくても現場の方でもいいですが)は必読です。原因は「ゆとり」じゃないんですよ。

ごまかし勉強〈上〉学力低下を助長するシステムごまかし勉強〈上〉学力低下を助長するシステム
(2002/03)
藤澤 伸介

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ごまかし勉強〈下〉ほんものの学力を求めてごまかし勉強〈下〉ほんものの学力を求めて
(2002/03)
藤澤 伸介

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最初に言っておきますが、私は藤澤先生の議論に全部、賛成しているわけではありません。しかし、この本に書いてあることを読むのと読まないのでは、全然、現状認識が変わってくると思います。少し背景の話から入りましょうか。

一般には、1999年から数年にわたって展開された学力低下論争を記憶されている方も多いと思います。あの論争自体は、苅谷剛彦先生や京大の西村信雄先生、精神科医の和田秀樹先生などが一方の主役でした。ただし、苅谷さんはあくまで教育社会学の立場からデータを使って、いろいろと問題提起をされていました(『なぜ教育論争は不毛なのか』中公新書ラクレ、2002年、第一部。ってか、インタビュアーの中井さんのお仕事は今更ながら、グッジョブです)。私は苅谷先生が起こしたムーブメント(?)自体はとにかく問題提起したという点で何より重要だったと思います。しかし、そこから社会階層論に話が流れていったのは、苅谷先生ご自身の研究とその立場から考えて必然的であったものの、私個人は困った方向だと考えています。実は『学力低下論争』で掘り下げるべき方向をかき消してしまったのではないかとさえ思います。

1990年代後半の教育改革が行われている状況では、塾=過当競争→ゆとり教育という流れがあり、過当競争どころか勉強してないよ、というのが主要な反論でした。そして、それは教育現場の人の実感にもフィットしたので、一気に火がついた、ということでしょう。そして、文科省の「ゆとり」方針を180度、転換させてしまった。でも、それよりも大切なことは、その過程で苅谷先生が二項対立的な議論を避けようとされたことでしょう(後者の点は本田さんによって後退している感がなきにしもあらずです)。これによっていろんな論点が出て来たわけです。

実は、学力低下論争が起こったときに、その時点でデータさえもない状態でした。多分、私だけでしょうけれども、何となく工場法が作られた経緯を思い出します(笑)。調査して現状認識が変わり、政策が旋回する。ここでは、データを取ったら、学力は低下していたことが分かり、それでは、ということで渋々(?)教育行政の方針が変化した。しかし、ここで忘れてはいけないのは、学力低下がいつ始まったのか、ということをデータで示すのは難しいということです。苅谷先生はご自分の教育社会学者としてのアイデンティティを守るためにも、データによってマクロ的に見ることに徹した。しかし、ないものは仕方ないので、そこは経験談等で補う必要がある。そういう文脈、つまり、マクロの問題を考える意味でも『ごまかし勉強』を読む意義があるのです。ちなみに、これらの構想は藤澤先生ご自身の言葉によれば、1980年代後半から持っていたとのことです。したがって、学力低下論争とは別の文脈から出てきている。

『ごまかし勉強』の著者・藤澤伸介先生は認知心理学者という面と、実際に塾に携わって来られた面の二つを持っていらっしゃっています。特に、藤澤先生の塾でのご経験は重要です。この話は下巻の172-175頁で語られていますし、市川伸一先生の講演(リンク先はPDF)、それから、紘文塾のホームページでも紹介されています。

藤澤先生の議論は、実体験から段々と学力低下を感じていて、その原因を「ごまかし勉強」とそれを助長する「学習参考書」およびその背後にある一部の学習塾に求めています。「ごまかし勉強」に対応する反対語は「正統派の学習」です。「勉強」は労役(マイナースイメージ)が伴い、「学習」にはこれがないとされています(下巻、152頁)。そこには「正統派の学習」は楽しいものである、という信念が見えます。

藤澤先生によれば、「正統派の学習」においては「充実志向」「訓練志向」「実用志向」という三つの「内容関与的動機」よって提示学習要素を「学習」していきます。ここでいう「学習」は「深化」「定着」「発展」の三つのフェーズに分かれます。「深化」は意味や構造の把握、既有知識との関連付け、「定着」は記憶・訓練、「発展」は他領域との関連付け、日常生活への応用になります。これによって獲得学習要素は互いに連関し、さらに、その外のものとの連関も場合によっては視野に収めることになります。

「ごまかし勉強」の場合、まず提示学習要素が「定期試験」で点数を取るためなどの理由で、非常に限定されます。そして、その限られた「要素」だけ、暗記などの「定着」を行うわけです。その結果、獲得学習要素の内容は少ないだけでなく、「深化」「発展」がないため、お互いの関連付けが出来ていない。まさに体系だっていないし、有意味化できないから、面白くないというわけです。

私の個人的な経験では、定期試験でいい点数だけを取るためにしても、ここでいう「深化」が多少はないと効率的に暗記できません。という風に、たとえばこんな感じで個人レベルではいくらでも反論できると思いますが、ここは一応、理念型として捉えてもらって、先に進みましょう。

藤澤先生はこの傾向を助長させたものとして、学習塾をあげています。ここの議論で重要なことは塾も二つに分類していることです。一方では、難関大学を合格させるような受験勉強は「正統派の学習」をせざるを得ず、したがって、そういうのを支援するたとえば河合塾、駿台などはそういう勉強を教えているのですが、他方、前に濱口先生が憂慮されていた生徒たちに対して「ごまかし勉強」を教えるところが出てきます。藤澤先生はこの点を学習参考書の変遷を軸に受験産業の企業の論理から解き明かしているのですが、すごい説得的です。このあたりはぜひ上巻第3章と下巻の第10章を読んでください。

何れにせよ、体系的にものごとを捉えるという力が弱まっており、それが初等教育から起こっているのだとしたら、高等教育を一般教育から職業教育に変換させたり、職業的意義を与えればやる気が出るなどの処方箋は彌縫策としても間違っています。問題は一般教育と職業教育(ないし専門教育)の根底にあるべき、体系的に物事を捉える力をどうやって作っていくか、ですね。

技能形成との絡みで書けるのはここまでです。

つけたりのつけたり

一応、今までの議論の行きがかり上、反省しておくことがあります。稲葉さんも人間力派=進歩派教育学だと浅はかにも考えていたわけですが、どうやら一連の政府筋の本丸は認知心理学ですね。だって、人間力戦略研究会の座長は市川伸一先生ではないですか。本田さんもなぜ、ここを叩かなかったのか、理解に苦しみます。彼らの議論は別にただ抽象的なだけではなく、具体的なものもあるからです。謎だなあ。

> 人間力戦略研究会報告書(PDF)による人間力の定義は、
1 「基礎学力(主に学校教育を通じて修得される基礎的な知的能力)」「専門的な知識・ノウハウ」を持ち、自らそれを継続的に高めていく力。また、それらの上に応用力として構築される「論理的思考力」、「創造力」などの知的能力的要素
2 「コミュニケーションスキル」、「リーダーシップ」、「公共心」、「規範意識」や「他者を尊重し切磋琢磨しながらお互いを高め合う力」などの社会・対人関係力的要素
3 これらの要素を十分に発揮するための「意欲」、「忍耐力」や「自分らしい生き方や成功を追求する力」などの自己制御的要素
などがあげられ、これらを総合的にバランスよく高めることが、人間力を高めること

具体的にどこで発揮するかと言うと、「職業生活面」「市民生活面」「文化生活面」と書かれています。多分に心理学的な雰囲気が漂っていますねえ。自分らしさの追求=自己実現は理論的には提唱者のマズローその他あるわけですし、具体的にはそれこそ個別事例によるわけですから、まあ、いいでしょう。この他、「コミュニケーションスキル」「リーダーシップ」は労働の分野でも怪しいとしばしば思われていますが、心理学系の研究蓄積があります。アメリカのビジネス・スクールの人事は基本的に心理学系です(歴史的経緯もあります)。それ以外の項目については、藤澤先生の議論で大筋、説得的に論じられています(当然、各論はいろいろ意見もありますが)。何れにせよ、叩くならば、ここを抑えてから叩かなきゃ。もっとも稲葉さんはこの論点に気づかれていたから、このメモも一緒に書かれたんでしょうね。私は稲葉さんのメモを読んでも、どういう意味か理解できませんでしたが、さすがです。

市川伸一先生の議論はほとんどフォローしていませんが、今後の宿題にしておきます。

つけたりのつけたり2

苅谷先生の教育社会学の話については、森直人さんのまとめもぜひご覧下さい。近いところにいた方の問題意識として大変、面白いものです。苅谷先生の選抜の方の話は森さんもあげられている『学校・職業・選抜の社会学』の他に、苅谷剛彦・石田浩・菅山真次編『学校・職安と労働市場―戦後新規学卒市場の制度化過程』が必読で、さらに、このテーマを企業側から考察した『人事労務管理の歴史分析』に入ってる佐口先生の「新規高卒採用制度」もあわせて読まれることをお勧めします。復習するの面倒なので、私はまとめませんが、悪しからず。

つけたりのつけたり3

藤澤先生の議論についてはこれを読んでください。『ごまかし勉強』で使われている図で、私が説明した部分も乗っているので、絶対、こちらの方が分かりやすいはずです。

つけたりのつけたり4(2010年7月18日)
工場法が旋回したいきさつをご説明しましたので、森さんところから飛んでこられた方、御覧ください。
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このエントリは以下の続きです。

教育論と技能形成論は接続できるか?(1)
教育論と技能形成論は接続できるか?(2)

前回、職業教育論の無理を二つの点から指摘しました。一つは、技術革新。もう一つは、学校内で作るカリキュラムの現実妥当性。この困難に際して二つの道が考えられます。諦めるか、それとも現実を受け入れた上で、何らかの方法を考えるか。芦田宏直先生の以下の記述は明らかに後者ですね。

> 〈学校〉というものは社会と連続的に繋がっているところではなくて(そうなると使い捨て人材しかできない)、教育的な圧縮力を高めてそれ自体で自立的に独立した世界を学生に体験させる場所。全キャリア人生は時間的には体験できないため、工夫(人工的な工夫)が必要。それがカリキュラム。キャリアカリキュラムは会社の実務上の職階(キャリアパス)を人工的に体現したもの。それが専門学校カリキュラムでなければならない。
【第2版】「これからの専門学校を考える」(第五回補講)― 専門学校にとって〈カリキュラム〉とは何か?(大学の講座主義に対抗できるものは何か)

こういう考え方がある種の危険性を持っていることは前回、述べたとおりです。ただし、これはあくまで理屈で考えた場合です。実際には、芦田さんは別に自分の頭だけで考えているわけではなく、人工的にカリキュラムを構築するために、企業の方と連絡を密にして考えていらっしゃったわけです。だから、現実には「人工」という言葉に引っ張られる必要はない。率直に言って、これくらいの気概がないと出来ないだろうとさえ思います。

「人工」という言葉に拒否感を持つ人がいるかもしれませんが、芦田さんの議論はまったく正しいと思います。そして、その背景には以下のような認識があります。あんまり長文を引きたくないんですが、芦田さんのブログは引用箇所にピンポイントにリンクできないので、直接、引いちゃいます(元エントリ)。

> 7)「学校でしか学べない」こととは何か。それは通常、「基礎」教育とか、「体系的」な教育と言われるものである。

> この場合、「基礎」教育というのは、程度としての、たとえば「初級」「入門」教育なのではない。技術者として、あるいは職業人として一生を支える何かをつかませる教育である。

> なぜ、専門学校の実務教育は、基礎的で体系的な教育が出来ないのか。

> 専門学校の教員は、実務経験者が多い。大学の専門教育を受けていない教員も多い。また大学の専門教育を受けた者でもトータルな教育は受けていない。ゼミの試験はあるにしても4年間の教育成果を問う卒業試験がないからである。わずかに大学院に進む者が体系性の片鱗を問われる試験を受けて進学するが、大学卒も結局のところ、大学で学んだことを活かして実務能力を身に付けている者は(ほとんど)いない。

> 専門学校教員の中では実務経験を競う者が多いが、それは一体、何を競っているのであろうか。

> たとえば、整備の実務を遂行するのに、自動車とは何かを理解することは「実務的に」必要なのか。言い換えれば整備の「基礎」や「体系」などというものを整備の「実務」で学ぶことなどほとんど不可能だろう。また「建築の実務家」などは実際には存在せず、設計、構造、施工などと実務は専門分離しており、設計の実務家は実際のところ構造計算を構造屋さんに任せたりもする。そして専門学校の建築系教員は放っておくと街の設計事務所からあぶれた人ばかり(「口のうまい人」ばかり)が教員になり、その人たちが構造や施工を教えることになる。情報系の場合でも、プログラマーの実務家はいつまでたっても(何年実務経験を重ねても)プログラマー止まり。設計の仕事をできるかできないか(アーキテクトになれるかなれないか)は、経験の差ではない。プログラマーの世界も実務的な分業に満ちている。

ポイントは体系ですね。実は、この考え方は技能形成論の中では、OJTの後、OffJTをやるといい、という文脈で語られます。要するに、自分の経験を整理するためのOffJTです。実際には、OJTによる技能の習得も、仕事の難易度だけではなく、その職場での仕事全体を知っている上司が考えて、順番に仕事につけるわけです。この人は、芦田さんの言葉でいえば「全キャリア人生を体験した」人です。したがって、OJTの後のOffJTというのは、(ある程度)計画された技能習得のプログラムをOffJTによって理解すると言い換えたらよいでしょうか。

体系とは、何も社会全体ではなく、要素間の関係がどう秩序だっているかですから、狭い範囲でもまったく構わない。そういう意味では、一般教育、職業教育を問わず、学校教育の中で小体系(言葉の便宜上)を体感したという経験を与えることは可能でしょう。論理的にはいろいろと破綻していて十分に説明できていませんが、本田由紀さんの「柔らかい専門性」で訴えたかったことも、問題意識としてはこういうことだろうと思います。もうちょっと深いレベルで真っ当な議論を考えたい人は、芦田さんの実習主義の危険を論じたエントリをお読みください。

もうお分かりでしょうけれども、この小体系を習得するのに、別に全キャリア人生を人工的に圧縮する必要は必ずしもありません(理念的にそうなるのは分かりますが)。たとえば、数年のキャリアパスで習得する技能を体系的に整理してもいいかもしれません。個人的な山勘ですが、2,3年のエントリレベルの仕事を覚え、その経験を次に繋げる工夫を自分でする(もちろん、この実現には雇っている側の協力が前提なのは言うまでもないことですが)、というところまで持っていければ、職業教育の役割は十分じゃないでしょうか。はっきり言って、これだって出来たら僥倖でしょう。

学校で何が出来るかということでは、実務的には、習得目標と教育方法を体系だって組み立てる、すなわち、芦田さんのいうカリキュラムを作るということです。ちなみに、実習主義をカリキュラムに入れるのは無理だった、と語る芦田さんの意見に私は真実を見ました。私は企業の技能形成の体系も緩やかな体系だと思うので、当然といえば当然です。この場合、緩やかな体系という表現は、時間によって変化する点、経験によって厳密に文書化され(得)ない部分(暗黙知)を含んでいることを意図しています。

あと一回、つけたりを書いて、このシリーズはおしまいです。
大原の研究員懇親会(という名前かどうかは正確には忘れたんですが)に縁あって参加してきました。そこで何より嬉しかったのは久しぶりに二村先生と研究のお話が出来たことです。幸いなことに今日は偶々、ご自身の研究でいらしていた市原先生ともお話でき、なんともラッキーでした。

ゴードン先生の訳をされているお話を実は私、知りませんでした。随分長らく二村先生のサイトの更新情報をチェックしていなかったので、まったく迂闊でした。もちろん、二村先生のサイトは今でもよく拝見するのですが、あまりに読みすぎてどこに何が書いてあるか分かっているので、いつもピンポイントですぐに読みたいところに飛べてしまうので、チェックし忘れていたんです。

ゴードン先生のご研究では二冊目の本、Labor and imperial democracy in prewar Japanが一番、大事だと個人的には思っています。この分野は意外と誰にもやられていない。仕方ないから英語で読まざるを得ない、そういう文献です。葛飾の労働運動は重要なんですよ。本当はもうちょっと前の時期から丁寧にやるといいんですけどね。東京モスリンとか富士紡押上工場とか、あのあたりの繊維工場の話とかです。

The evolution of labor relations in Japanは、私はタイトルが兵藤先生の本と同じ、という印象が強く残っているんですが、読みやすいです。そういえば、私は学部の頃、小池先生にこの本を勧められ、最初に読破した英語の本がこれでした。懐かしい。しかし、日本の労働史をやっている研究者で読んでない人はいないという気もしますが。この本はゴードン先生のご希望だそうです。

二村先生が偉大な労働史家であることは今更、言うまでもありません。が、実は隠されたテーマとして、非常に多くの海外の学者の研究への協力があります。私はハンター先生からアドバイスされて、海外の日本研究を読むように言われたんですが、大体、大原と二村先生が出てくる。この貢献はとんでもないんですよ。しかし、あんまり日本にいる我々には全貌が掴みにくい。先生からはトーマス・C・スミス先生の研究へのお話を少し伺いました。ちなみに、スミス先生はthe right to benelovanceという論文があって、私は日本労働史研究上の最高傑作だと思います。誰にも問題意識が継承されていないけど・・・。何れにせよ、二村先生の影響はそういう広い文脈で考える必要があります。

今日、梅田先生と少し話をしていて、運動史の研究者がいなくなってしまったという話題になりました。労資関係史をやっている人はいるんだけどなぁ、ということでした。この話、研究史的な背景で言えば、中西洋先生の研究史整理がコペルニクス的転換を促した。つまり、労働運動史研究から争議史研究を媒介にして労資関係史研究を確立させようとした。少なくともそういう野心であの三菱の争議論文(隅谷編の本に入っているやつ。電話帳のような本ではないのでお間違いないよう)を書かれたわけです。そのときに高く評価されたのが二村先生の50年代の争議論文でした。ここのところは今、書きながら、さっき確認すればよかったなあと思っているところですが、足尾の本は実は中西評価が反映されているんじゃないか、という気がします。基本的な分析枠組みにおいて。ちなみに、私の押上争議論文は、この枠組みをひっくり返して、一企業の労資関係から運動史を見るという試みでした。マニアックな問題設定で申し訳ないですが。

でも、実は二村先生は運動史関連の論文も沢山書かれている。二村先生ご自身は第一巻が主要業績と述べられていますが、私は第二巻が重要だと考えています。いや、重要というより必読です。これを全部、頭に叩き込んだ上で、第一巻に帰っていく必要がある。私自身は前に書きましたが、二村先生の企業別組合論、つまりクラフトユニオンの伝統の不在によって説明するというロジックには反対です。濱口さんは前にお話したとき、自然と分かりやすかったと仰っていたし、実際、この説を受け入れている人も多数います。一つの重要な論点ですね。二村先生は概説だから主要業績にされていないと思うのですが、概説こそ歴史家としての実力を遺憾なく発揮するものはありません。

さて、これだけの前置きがないと本日の私が御伺いした重要な話が書けないのです。それは1919年の足尾争議の重要性についてです。私はこの争議こそ決定的に重要だと考えていました。つまり、この争議で友愛会は始めて幹部が争議戦術に口出しをしたのです。そういう意味で総同盟史の中でも決定的、と考えていたのですが、二村先生のお話を伺ったら、もっと論点は大きかったことが判明しました。つまり、このとき、組合が三種類あった。全国坑夫組合(新人会系)、友愛会、右派組合(主流)です。ちなみに、ご存じない方もいらっしゃると思うので、一応、付け加えておきますと、明治30年代くらいから足尾は温情主義経営の代表でした。ここでいう右派組合は私の言葉ですが、この温情主義の流れを汲むものですね。

二村先生は少し調べてみたと仰っていたのですが、少しとはなんと曖昧な言葉でしょう。これをご覧になると分かると思います。この中の「全国坑夫組合の組織と活動」をお読みください。いずれにしても、運動史的にはこのパズルを解くのは難しいです。また、資料の豊富さもかえってきついようです。でも、この時期の問題が集約されている、とは二村先生が仰られた通りです。上で書いてきたことを踏まえると、ここを突破できれば、方法的にも非常なブレイクスルーになることは間違いないでしょう。

今は三菱の1921年の争議が重視されていますが、それがひっくり返る可能性がありますね。三菱が重視される理由はいろいろありますが、今日は眠くなったので、このあたりにしておきましょう。
長めのエントリを書いたものの、誤って消してしまったため、しばらくやる気がなくなっていました。お待たせしました。第二段を書きます。ちなみに、タイトルですが、一般論では答えはイエスです。ただ、私の能力でそれができるかどうかわからないので、?を附しています。

私は前々から言っているように、学校でエントリレベルを超える技能教育が出来るという主張については非常に懐疑的です。おそらく、現在、理論的な意味で取り上げるに足るのは芦田さんの議論だと考えます。いや、他にもいらっしゃる可能性も高いのですが、あんまり本格的に調べるつもりはないので、悪しからず、ご了承ください。

前回、引用しておいて引き取らなかったので、そこから始めましょう。念のため。

> 現在の専門学校の出口像は、就職して短くて半年くらい、長くて2、3年の業務をこなす「即戦力」に過ぎない。時間が経てばすぐに消耗し摩滅する。何度も指摘しているように「資格」教育と「技能」教育の限界が露呈している。

理屈で考えた場合、最初の数年の仕事経験がその後のキャリアに繋がる形が望ましいのです。ただ、その後のキャリア全体を学校教育者が見通して設計する(カリキュラムを作る)というのは事実上、不可能です。ここでは二点を確認してきましょう。

第一に、前も触れましたが、技術革新の問題があります。戦前、日本の実業学校の重要な部分に繊維系の工業学校がありました。これは明治以来、産地とともに育まれていき、あるものは戦後に大学の工学部に組み込まれ、あるものはそのまま残っています。1950年代で既に往時の興隆がなくなったのは否定すべくもありません。この変革を起こした具体的な技術革新は化繊です。そういう大きい時代の変化の中で学校も変わって行かざるを得ません。たとえば、東京農工大は歴史的に蚕糸試験所から専門学校に転換、さらに戦後大学の繊維学部になって、それが今の工学部になっています。ちなみに、東京農工大は今でもトヨタの産業技術博物館と並ぶ繊維博物館を持っていますが、学部としては廃れてしまったわけです。学校法人としては継続しているけれども、内容は大きく変わっている。変わることは悪くないのですが、学校自身も変わらざるを得ない状況の中で、学生に教えているキャリアおよびその内容が変わらないとは限らない。

もちろん、看護職のようなものは継続しています。しかし、その内容が同じかどうか、医療の発展とともに変わっている部分もあるのではないか、という気もします。別の例ですが、アメリカにおいては戦前、専門職(少なくとも准専門職として認められていた)ソーシャルワーカーの今で言うカウンセリング技術は、今のものとは違っていました。要するに、戦後、ロジャースが出て一変した。19世紀以来、経験的なソーシャル・ダイアローグ(マニアの皆さん、これは有名な書名ですね)が中心で、その後、フロイドの精神分析が大きい影響力を持ちます。ロジャースはフロイトをひっくり返すわけです。ただし、古き社会事業のなかで経験的に蓄積されてきた技術はひょっとしたら、ロジャースと近かったかもしれません。

第二に、学校内だけで完結したカリキュラムは危険です。私は前々から内部労働市場の二つのタイプを考えるべきだと繰り返し説明しています。今、メンバーシップ型を否定して、ジョブ型で行きたい、そしてその中で長期キャリアを作りたいと考えているとしましょう。そのとき、まずクラフト型の労働市場を前提としなければなりません。市場の形態に合わせて学校との連携を考えないと話しにならない。明治以来の実業学校はその地域地域に学校に対する需要が先にあったわけで、そういう意味で学校が孤立していませんでした(それでも初期は卒業生に職を見つけるのに苦労していますが)。はっきり言って、内輪もめで、あっちがダメだからこっちがいいぞ程度の薄っぺらの議論じゃ、役に立たないだろうと思います。

学校内で完結するカリキュラムの危険の例として、行きつけの床屋の親父さんの話があります。彼は学校の先生の技術は試験を合格するためのもので、現場では役に立たないと言うのです。彼の経験談は床屋の現場で修行しながらさらに勉強をするために美容師の専門学校に夜学で学んだときのことで、彼から言わせれば、学校の先生の技術では現場で役に立たないとのことです。そして、この前は更に続けて、都内で厳密なカリキュラム作って教えている学校があるそうなんですが、そこの方がかえって余計な型を覚えてしまい性質が悪い。何もやらないでボーっと遊んでいたやつの方がかえっていい、ということでした。

この話は正に芦田さんが常に警告する「資格の学校」としての専門学校の限界なんですね。これを打破しなくてはならない。いずれにしても学校内で完結したカリキュラムを作るというのは、かなり困難であるといわざるを得ない。それは端的に現場から離れている学校での技能形成の困難を物語っています。実際、企業内であっても技能形成をどう効率的にやるかは常に工夫を重ねているわけで、それを学校が出来るんだと考える方が非現実的です。

こうした困難な状況にもかかわらず、芦田さんが作り出したWEBデザイナーのカリキュラムは成功を収めたとのことです。私が芦田さんの議論を信頼するのはこの点です。大学の教育にも職業的レリバンスが必要だと主張するのならば、ご自身の講義がいかにして学生にそういうものを与えているか、かつ、どうやって設計しているのか示すべきです。もちろん、その経験を一般化することは出来ないでしょうけれども、大学の教員には自分の講義を自分で設計することが許されているのですから、最低限、その範囲のことは語れるし、誰からも干渉されないという意味で言い訳は許されないわけです。まず隗より始めるべきですね。

なお、もちろん、芦田さんの作ったカリキュラムも技術革新によって今後陳腐化する可能性は否定できません。それは将来のことですから、誰にも分からない。ただ、否定できない可能性として存在はしています。しかし、実際には、別のフェーズから、そういう危機が来てもある程度、対応できるかもしれないという気がします。が、そこから先はまた、次回ということで。

1時間くらいで書いたので、荒いかもしれませんが、とりあえず公開します。
森直人さんからリプライ(?)を頂いたので、私も前々から書きたかったことと私の勉強してきた技能形成論をあわせて書いてみたいと思います。多分、濱口先生からの宿題にも繋がっていくはず(?)です。

森さんが以前、ご自分の講義に(職業的レリバンス)ありやなしや、と、問われたことがありました。実はこのエントリがとても印象に残って、ここから何かを考えてみたいとこれを読んで以来、思っていました。私も圧倒的な情報量を与えるという点ではとても共感しました。私の場合、あえてロジカルに濃縮せずに、生のままで触れてもらおうと意識しています。割と「僕はこの問題はここまで考えたけど、その先は詰められてない」とかよく語りましたから。もっとも学生からのアンケートで「伝えたいことがいっぱいあるのは分かるが、今後濃縮すべきだろう」と書かれてしまいましたが(笑)。そうだけど、そうではないんだよ。ま、いいか。

職業的レリバンスが初期入職時の技能という定義であれば、受けてもないけど、森さんの講義がアカデミック志向である限りにおいて、そんなものはないでしょう。でも、森さんがなさろうとしていることは、それよりももっと大事なこと、つまり、自分の職業についていろいろな角度から考えてみる、そういう経験を与えることだと思います。もちろん、そんなものがなくても、職業生活は成り立つでしょう。ただ、自分の仕事が一体どういう意味を持っているのかという問いかけが、自分の職業人生のスタートラインにあるとするならば、嫌なことがあったり、迷ったときに帰って来ることの出来る原点になるんじゃないでしょうか。そうなると、アカデミックな、専門性のあるものなんだけど、ほとんど教養ですね。

ただ、この場合、興味深いのは、森さんは職業的レリバンス以前に、ある職業に就こうというしっかりした問題意識を持った学生さんを相手にされているわけです。そういう意味では、学問とは全然関係ないけど、その子たちなりのある程度の問題意識を持っているといえます。だからこそ、打てば響くという側面があるんじゃないか、と思いました。

濱口さんが問題として出された「あまりできのよくない普通科高校生や選抜性の高くない文科系大学の学生」の卒業後をどうするかという話なんですが、私の実感としては偏差値が低い学校でも、一定の優秀な子はいます。優秀な子というのは、問題意識をもって自分なりに勉強するという意味です。そういう子たちは選抜性の低い学校であっても大丈夫です。大企業に就職できるかどうか分かりませんが、然るべき企業でやっていけますし、その前提としての内定も取れるように思います(景気が悪くとも)。濱口さんのいう学生だけでなく、専門学校もそうだと思うんですが、問題意識を持たずに、ただ高校の先生から言われて来た子や、いろいろとコンプレックスを抱えて、無気力になってしまう子も一定程度、いると思うんです。そういう子たちに森さんのいうストロングスタイルの講義をやっても、打てば響くように行くかといえば、絶望的だと思います。そういう意味で、私は職業教育の人格教育的側面を強調しているのです。実際、この側面を上手にアピールできれば、専門学校を含めた職業教育の進むべき道が開けると思うのです。ただ、現実には芦田宏直先生がご指摘されているような種々の問題があることは私も分かってます。その多くはとりあえず、心に留めて置く事にして、とりあえずシラバスを重視することについて、私の考えを書きたいと思います。

芦田さんのFD(ファカルティ・デベロップメント)の肝はカリキュラムの充実論です。芦田さんのサイトは素晴らしいんですが、惜しむらくは、どこから読めばいいか分からない。とりあえず、入口としては私は次の二つをお勧めします。

【第2版】「これからの専門学校を考える」(ここまでのまとめ)― 100の現状認識と諸課題(どこが専門学校と大学との分岐点か)
とりあえず、このエントリを読むと芦田エッセンスの全体像が分かると思います。

【第2版】「これからの専門学校を考える」(第五回補講)― 専門学校にとって〈カリキュラム〉とは何か?(大学の講座主義に対抗できるものは何か)
カリキュラム論はここを読むといいです。

もし景気が回復する前に、芦田さんの仰るカリキュラムを備えた学校にすべての専門学校が生まれ変わるならば、過去からの遺産(卒業生とそのネットワーク、暖簾など)を持たない大学は敗れる可能性が高いですね。ただ、実現可能性については私は分かりません。

芦田さんの問題意識は、

> カリキュラムはキャリア教育にとっては、キャリア人生全体を反映したものでなくてはならない。その分野の自立した職業人になるためには、どんな知識や技術を体得していなければならないのかを示すものでなくてはならない。

> 現在の専門学校の出口像は、就職して短くて半年くらい、長くて2、3年の業務をこなす「即戦力」に過ぎない。時間が経てばすぐに消耗し摩滅する。何度も指摘しているように「資格」教育と「技能」教育の限界が露呈している。

というところにあると思います。最初の部分を読めば、職業教育であっても、数年間の短期の消耗に耐え得ることだけでは問題にならず、キャリア人生全体を捉えていることは明らかです。しかし、現代のように技術革新が早い時代のなかで、昔の熟練工のようにずっと続けていくのは難しいですね。労働の世界では、もはや言い古された「技術革新による熟練の陳腐化」問題です。20年後の技術やトレードを予見するのは本当に難しい。この視点は最初からそういう難点を抱えていると言っていい。

ただ、芦田さんの議論をもう少し抽象レベルをあげて考えてみると、問題が別の角度から見えてきます。芦田さんの議論は要するに、総花的ではなく、体系的にやらなければならない、ということです。これは技能形成論のイロハとピタリと平仄が合います。労働の世界では、ダンロップが説明したいわゆるジョブラダーの議論です。易しい仕事から難しい仕事へ、です(労働を専門にしている人でこの議論を知らないのは、私の感覚では相当に恥ずかしいことです)。実は、結果的に小池先生のキャリアの組み方論はこれを深めたといえます。この議論のエッセンスは二つで、あえて芦田さん風に言えば、技能形成のカリキュラムを会社が作りやすい。それから、習得度も把握しやすいということです。この点は既に『職場の労働組合と参加』から論じられていますし、理論的には前にも紹介したKoike, Kazuo, "Skill Formation Systems in the U.S. and Japan: A Comarative Study," in Aoki, Masahiko ed., The Economic Analysis of the Japanese Firm, ELSEVIER SCIENCE PUBLISHERS B.V., Amsterdam, 1984が分かりやすいです。小池先生の議論はその後、知的熟練に進み、その説明を人的資本論に負う形で展開させたため、結果的にやや分かりにくくなってしまったといえます。

ちなみに、試験のとき、キャリアの組み方の意味についての問題で、わざわざ知的熟練を勉強して書いてくれた数人の皆さん、残念ながら不正解です。上に書いた二つのエッセンスが正解で、知的熟練は関係ありません。

芦田さんご自身の議論を読みたい方は以下のエントリがよいです。ただし、相当、内容が難しいと思います。言葉は平易なものの、哲学を勉強した人独特の論理の運び方の癖があるので、そういうのに慣れない方には馴染みにくいかもしれません。私のこのエントリも相当に癖がありますけどね。

退職しました(その2) ― 「実習の専門学校」をどう考えるのか、どう考えたのか?(単位制の大学と時間制の専門学校、どう違う?)

ここまで書いて力尽きました。続く、です。多分。
遅まきながら竹内先生の丸山論を読んだ。素晴らしい本だった。私は正直、戦後の教養主義の洗礼を受けた、竹内先生のあとがきの言葉でいう大衆エリート、それから学生運動の人たちとの距離感がよく分からない。ただ、この本を読んで、一つのヒントは何となくもらったなという気がしている。

『教養主義の没落』もそうだが、この本でも竹内先生の原体験がいたるところで、語られている。実はこの事実は非常に重要な意味を持っている。明治以来の教養主義は、姿かたちはいろいろと変化させてきても、実践という性格を色濃く継承してきた。それはあるときは西田幾多郎に見られるような座禅であったり、また、あるときはマルクスの影響を受けた各種の運動であったりした。つまり、客観的に教養主義を語るということは、教養主義者であることを放棄するに等しいのである。そういう意味では、竹内先生の姿勢は真に教養主義的である。

もう一つ、この本における竹内先生の真骨頂は、あとがきでさらっと書かれた「若い世代の読者のためにも、分かりやすい論述を心がけた」というところにある。なぜか?

実は223ページから3ページにわたって竹内先生は世代境界闘争を論じている。丸山が旧自由主義者と自らを断絶させたように、吉本隆明は花田清輝や丸山真男と自らの世代をくっきりと区切った。そういうことが明快に論じられているのだ。私から見ると、二度の大戦を通じて世界的な大変動の中で、どこか旧世代との連続性を否定する必然性があったように思える。しかし、竹内先生自身は違う。徹底的に丸山を分析し、その欠点ももちろん把握した上で、そうならざるを得なかった時代の必然性等を多面的に提示する。そして、その方法は丸山真男から初めて学んだ知識社会学の手法なのだ。批判的継承である。次の(次の?)世代の我々にとっては一つの見本である。

だが、個人的にはやっぱり合わない。親子ほどの世代差があるというのも大きな理由だが、やはり私は人格形成という面では完全に法政なので、エリート感覚がどうも合わない気がする。ちなみに、どうでもいいが、私は本当に竹内先生の娘さんと同学年である。

ここで論じたことと関係ないが、丸山真男を考える上での補助線として鈴木直『輸入学問の功罪』ちくま新書も参考になるかもしれない。どっちもAmazonの書評がよいので、リンクを貼っときます。

丸山眞男の時代―大学・知識人・ジャーナリズム (中公新書)丸山眞男の時代―大学・知識人・ジャーナリズム (中公新書)
(2005/11)
竹内 洋

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輸入学問の功罪―この翻訳わかりますか? (ちくま新書)輸入学問の功罪―この翻訳わかりますか? (ちくま新書)
(2007/01)
鈴木 直

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濱口先生から反論なのかどうなのかよく分からないコメントをいただきましたが、私自身の意図としては別に直接的に濱口先生を批判したつもりはありません。私は残念ながら原理主義者ではないので、正直、濱口先生といくつか議論を交わしたほうがよいなと思うこともしばしばあるのですが、濱口さんの議論はいろんなバランスの上に立っているので、切り口が難しかったのです(原理主義者であれば、レッテルを貼って攻撃すればよいので、簡単です)。そういう意味では、図らずも論争になったのは怪我の功名と考えましょう。言いたいことはたくさんありますが、前置きはこのくらいにしておきます。

私は職業訓練派を批判した覚えはありません。というか、職業訓練派なるものが何かもよく分かっていません。

> だからこそ、そういう暴力的限定が必要なのだというが、私の考えるところでは、職業教育訓練重視論の哲学的基軸であると、私は何の疑いもなく考えていたのですが、どうしてそれが、まったく180度反対の思想に描かれてしまうのか、そのあたりが大変興味があります。

濱口先生の覚悟は分かりますが、それはそれで勇み足で、むしろ私の方が「まあ待ってくれ」と言いたいところです。何しろ私は、職業訓練に対するいわれなき偏見を取り除くことが最重要課題だと思っているからです(この点はまったく意見が一致すると思っていますが)。私は、職業訓練について考えたこともないのに、自分が受けてきた教育の中でそういうものがなかったのが問題だと短絡的に考える人に対して「おいおい待てよ、考えてもみてくれ、職業教育だってバラ色じゃないぜ」と言っているだけに過ぎません。しかし、残念ながら、しばしば一般の人は経験と事実と論理を分けて考えることが出来ません。というか、別にこれこそ訓練すれば、誰でも修得できるものですが、そういう訓練を受ける機会は少ないのです。そういう風に考える習慣がないと、しばしば経験から一般化しようとしてしまいます。もちろん、この中に濱口先生は該当しません。両方にメリット、デメリットがあるのを承知の上で、いつもきちんと最後はエイと立場を決めていらっしゃるのもよく存じております。

> まあ、正直言って、初等教育段階でそういう暴力的自己限定を押しつけることには私自身忸怩たるものはありますが、少なくとも後期中等教育段階になってまで、同世代者の圧倒的多数を、普通科教育という名の下に、(あるいは、いささか挑発的に云えば、高等教育段階においてすら、たとえば経済学部教育という名の下に)何にでもなれるはずだという幼児的全能感を膨らませておいて、いざそこを出たら、「お前は何にも出来ない無能者だ」という世間の現実に直面させるという残酷さについては、いささか再検討の余地があるだろうとは思っています。

意外と本田さん的でびっくりです。

今現在問題になっている職に就けるかどうかについて教育制度云々は大して重要ではないと思います。原因は景気が悪いことに尽きるので、景気がよくなったら、ほとんどが解消してしまう。世界不況がなければ、問題はもっと緩和されていたかもしれません。とはいうものの、労働市場のミスマッチも存在し、実際、介護分野や中小企業など労働力不足のところもあるわけなので、企業、NPOを含めた需要側と学生(生徒)やそれをサポートする学校という供給側の相互努力によって、もうちょっとハッピーな関係を築けるかもしれない。それを築くための準備が高等教育機関に足りないというのならば、それはそうかもしれませんし、どこまでいっても足りないものだとも思います(完璧はあり得ない)。それに職業訓練および職業教育がこの問題の解決策になるとは思えません。実際、介護労働はほぼ無料で職業訓練を受けられるところもありながら、そこに人が流れていかない。そういう状況を変える努力は必要だと思いますが、教育制度及び訓練制度だけで何とかならないのも自明の理です。

また、大学での教育機能を講義やゼミだけと捉えるのもちょっといろいろ考え直すべきではあると思いますが、それは何れ別の機会に論じましょう。

> もしかしたら、「職業教育及び職業訓練の必要を主張する議論」という言葉で想定している中身が、金子さんとわたくしとでは全然違うのかも知れませんね。

その通りです。まったく違います。私が考えている職業教育はまったく暴力的ではありません。職業教育であれ、一般教育であれ、それを強制するから、暴力的なのです。

私が考える職業教育および職業訓練のメリットは一般教育と異なっている点にあります。そういう意味で濱口さんも紹介されていた田中先生のお話の通り、一般教育とは違う形で、一般教育で出来ると考えられている「人格教育」を行うことが出来る。というか、生徒によってはこちらの方が合う場合もある。生徒の立場から見ると、自分で合うものを選べれば最高だけれども、最初からばっちり選択できるとは限らないから、途中でルート変更することが出来る、ということが必要です。このルート変更はあくまで相互平等であって、どちらがより合うか合わないかなので、優劣の問題ではないはずです。しかし、現状では一般教育>職業教育、という偏見がその障害になっています。多分、どちらが優れているというのではなく、生徒によって適性が異なるだろうと考えています。一般教育と職業教育が並存する状況が望ましく、職業教育が実習その他の特色によって、一般教育とは異なる魅力があるんだと人々に認識されていれば、いうことはありません。そのためには、職業教育が行える「人格形成」の部分について、エピソードを紹介するだけではなく、きちんと理論武装して説明しなければならないと思います。

前にも書きましたが、職業訓練及び職業教育で身につくスキルというのはエントリ・レベルに過ぎません。企業特殊スキルや業界特殊スキル(これはクラフト世界では身につきますが、日本はそういう社会ではない)などは身につきませんから、持っている能力を発揮するのであっても、一定の時間は必要になるでしょうし、そもそもどの職業についても勉強(学習)はずっと必要です。そういう意味で専門スキルを売り物にしてエントリ・レベルの職業的レリバンスを強調することはほとんど大した意味がないですし、はっきり言って、職業教育の安売りをしているようにしか私には見えません。そうではなく、もっと深いレベルで職業教育の意義を考えることが出来るはずです。それを非神話化する必要があります。ただし、失対と非常に密接に関連している職業訓練についてはその限りではありません。ジョブとの接岸が大事ですから、エントリ・レベルのスキルは肝です。

そういう理論化が出来れば、以前、コメント欄で佐藤先生につっ込まれていたような、能開大は職業訓練指導員を作る学校なのにそれ以外のところに随分、行っているじゃないか、という議論に対しても、しっかり反論できるのです(コメント内容がうろ覚えで不正確かもしれません。すみません、検索できませんでした)。あのとき、能開大出身の方が自分はちゃんと社会の役に立ってきたという経験談をご自分のブログ(か、コメント欄か忘れましたが)で書かれていました。その思いは分かりますが、それだけでは不足で、そういう経験談を数多く集め、職業教育及び職業訓練を通じてどんな専門スキルと汎用スキルが身につくのかということを訴えていかなければなりません。ただ、これは言うほど簡単な道ではありません。一般教育においても汎用スキルが何か、決着していません。そういう意味での参照基準はないのですが、専門スキルを参照基準にする道はあるかもしれません。

ちなみに、現実にはどうしていけばいいのか、ということになると、また別の視点がいくつも入ってくる必要があります。そこは私のような現場経験のないもの論じても画餅に帰すだけですから、やめておきましょう。

追記 森直人さんコメントに関連して

「経験的」の意味が「実証的」、「実証的」の意味が「統計に耐え得る」という意味でのempiricalであるならば、その方法を発見するのは教育学関係者のお仕事なので「謹んでお任せ申し上げます」という感じです。ただ、基本的にはきちんとした事例を一つか二つか説明する方法が有用だと考えています。これは小池先生からの教えです(受け売りともいいますが)。もちろん、中間的な類型化をする必要はあるでしょう。
あまりにも危うい職業教育待望論、それから、それに便乗するという向きが多いので、自分の頭を冷やすためにも、ここらで少し論点を整理しておきたいと思います。基本的に私は職業教育及び職業訓練の重要性を疑ったことはありません。ですが、職業教育及び職業訓練の必要を主張する議論の多くに対してはかなり疑問に思っています。

命題1 職業教育によって生徒は自由な職業選択が可能になる
あるいは、職業教育がなかったから、どういう職に就けばいいか分からない。

「現行の教育制度の下では十分な情報が与えられていない」という批判は、いついかなるときも一定の説得性を持っています。ためしに「教育制度」を自分が不満を持っている他の単語に置き換えて、同じ不満を持っている人に聞いてみてください。おそらく、そうだそうだ、という答えが返ってくるのではないでしょうか。ですが、現行の○○が間違っているという認識は、直ちにその解決策を生み出すわけではありません。

職業教育を充実させれば、職業選択の幅が広がるという議論は詐欺に近いと思っています。現在のところ、職業教育ならびに職業訓練はある特定のスキルを習得することを前提としています。つまり、ある職業教育を受けるということはその時点でもう既に選択を行っているのです。すなわち、選択が前倒しされるだけなのです。この世の中に無数にある職業の大半に接するなどということは実務的に絶対不可能です。ということは、職業教育はその内容を必ずどこかで限定せざるを得ない。何れにせよ、情報が不十分な状態で選択をする必要があるのです。やってみなきゃ分からないのは、職業に就くだけでなく、職業教育ないし訓練を受ける場合も同じです。

この意見が人々を惹きつけるのは「選択の自由」という言葉に酔っているからです。職業選択は自分で決めてもよいし、他人からの縁で決まってもよい。というのが、中庸的な望ましい状態でしょう。言い古された議論ですが「選択しない自由」が著しく侵害されるのは、すなわち、選択を強制されるのはそれはそれなりに暴力的、すなわち、権力的だということは確認しておきましょう。

命題2 初等教育から職業教育を取り入れるべきである

職業に小さい頃から触れさせるという意味で「職業」についての教育がない、ということが言われます。これは職業教育を推進していない方からも主張されることがあります。小学校では社会科見学がありますから(今でもありますよね)、それを中学、高校と進学するにつれてパワーアップさせ、カリキュラムの中に組み込むのも一つの道です。ただ、この場合、「職業」という点に重きを置くのではなく、働く姿を見せることで人格教育を促しているといえるかもしれません。「パパの歌」の延長、というか、清水建設CM路線ですね。これはアイディアとしては割とみんな反対しないんじゃないかと思います。ただ、これは職業教育および職業訓練を残すべきかどうかという議論とは性質が違うということを承知しておく必要があります。

職業教育はそれを受けることを選択する時点で、ある種の予備的な職業選択になっていると言いました。これを初等教育から導入するという意味は、判断力がまだ十分でない時点から強制的にスキルを教え込むということになります。これは一つのあり得べき方法ですね。実際、伝統芸能なんかはそうやって継承しているわけですし、一つの考え方としては断然、成立すると思っています。ただし、この場合、義務教育という普遍的な能力を志向する教育との折り合いをつける必要があるので、これを廃棄して、様々な初等教育のあり方を容認するという段取りが必要になるでしょう。義務教育程度の学力が本当に備わっているのかどうか分からない学生がこうも増えてくると、現行の義務教育制度に何か問題があるのではないかと思わないでもないですが、初等教育についての知識が少ないので、私の個人的意見はベンディングです。

このシリーズ?は不定期で続くかも、です。

市原博さんから論文を2本、送っていただいた。1本は『産業革命と企業経営』ミネルヴァ書房、所収の「人的資源の形成と身分制度」、もう1本は「職務能力開発と身分制度」『歴史と経済』第203号、2009年4月である。私の独断と偏見によれば、市原さんは日本の労働史の中心である。したがって、この論文は今の日本の労働史研究の水準である、という説明だけで納得して欲しいところだが、いくらなんでもそれでは不親切だから少し解説しておこう。

この二つの論文のモチーフは、タイトルから分かるとおり「身分制度」である。身分制度の研究は、労働の分野では氏原正治郎がちょっと言及して、藤田若雄が大々的に研究した。藤田の研究を重視しているのは森建資先生を例外としてここ数年前までほぼいなかった。ただ、私も含めて東大を中心に森先生の影響を受けた少数の人間はもちろん、藤田若雄を勉強している。なお、間宏『日本労務管理史研究』における終身雇用の議論などは藤田の影響を受けているので、とりあえず間宏からしか労務管理史を勉強すればよいと考える不勉強な研究者、ないし間の議論は日本的経営論の中で広く受容されていたので、そういう経路を通じてこの議論に親しんでいるいわば専門外の人々も、間接的に藤田らの影響を受けているといえるだろう。

もう少し、研究史的な含蓄を言えば、氏原、藤田らは講座派に属する。講座派の歴史系の人々は、日本の後進性を明らかにするという課題を背負っていたため、彼らの研究はその特殊性を明らかにすべく日本社会の研究に向った。皮肉なことだが、単純な枠組みが与えられたために、事実発掘は進んだ。今では彼らの原点の問題意識をそのまま受け継ぐ必要はないだろうけれども、諸先達が蓄積した考証の山は、日本の社会史研究の誇るべき財産として残されている。

何度か前のエントリで、私は嫌いだと述べた竹内洋の研究だが、あの『日本のメリトクラシー』が衝撃的に受け止められていたというのはおそらく動かしがたい事実である。労働史を含む労働問題研究が本来だったらやるべき研究をやられてしまったということである。もう一つ、菅山真次、苅谷剛彦、石田浩の職安研究も労働との境界の本だった(教育社会学と社会階層論との境界でもあるが)。1990年代というのは教育社会学が労働の領域を超えてやってきた時代ともいえるだろう(とどめは広田先生の一連の研究である)。菅山さんや市原さんが興味関心を持っていたことが学歴身分という考え方で、これまた、教育社会学の泰斗、天野郁夫大先生の研究をみな、参考にしている。どうして教育社会学と労働史が近い関係にあったのか、ここまで並べておけば説明の必要もあるまい。

それから、1990年代にはホワイトカラー研究が少しずつ始まった。労働史の分野でも米川伸一先生あたりを走りとして、2000年以降は随分と増えてきた(もともと、上級層の研究は経営史研究のひとつの分野としてある)。市原さんも下層技術者と職工の関係などに関心をもって研究されてきた。そして、そのときの一つの鍵が学歴身分社会という、この20数年間、教育社会学が蓄積してきた成果なのである。

この基本線を軸に、人事関連の一次史料を読み込み、それを丁寧に紹介されている。したがって、学説史を踏まえている点、一次史料を使っている点、おまけにそのことで読みにくくなっていない点など、総合的に考えて、この論文は現在の日本の労働史の一つの水準であると言わざるを得ない。

客観的に研究動向の中でこの論文を位置づけるとすれば、ざっとこんなところになるだろうけれども、私個人の印象ではちょっと教育社会学や社会階層論に引っ張られているなあと感じた。ちょっと危うい。そんなに職工って上昇志向のある人ばかりだったの?というのが教育社会学などに対して、私の一貫して持っている疑問だが、これは何れブログという形ではなく、論じるべき課題だろうなあと今はまだ、ボンヤリ考えている。
私の大学院最後の年に東大に内地留学していた時里さんから論文をいただいた。筑紫女学園の紀要に書かれたもので、お話を伺っていた通り、企業内福祉のことを扱われている。時里さんは本来、メチャクチャ手堅いプロの考証史家であるけれども、今回の論文はおそらく、頭を整理するという意味で、一区切りとして書かれたものだなと感じた。ただ残念ながらまだ道半ばで、十分とはいえない。

といっても、これは対象そのものが難しい。企業福祉はとにかく難しい。私も学部生の頃から興味を持って、そんなものはなくてもいいといわれながら、結局、博士論文にも入れたが、十分、考えが詰められたかと問われれば、お恥ずかしい限りである。だから、とても同情する。時里さんが企業福祉の語義の変遷から検討せざるを得なかった必然性も私にはよく分かる。よく分かるけれども、おそらく、誰も理解してくれないだろうということもよく知っている(笑)。

今、社会政策は労働政策と社会福祉政策の両輪が必要だということが言われているが、企業内福祉こそこの二つを繋ぐミッシングリンクだと思う。そういえば最近、誰かがそのことを指摘されていたような気もするが、忘れてしまった。誰だったかな。

ところで、この論文は事実発掘的な部分は少ないが、それでも重要な発見がある。それは職員の娯楽施設からの影響で労働者用の施設も作られた、と指摘されている点である。実は私の論証は職員の複利施設の位置づけが弱い。あるのは知っていたし、重要だとも思うが、紡績は優先順位として職工が先であったので、ほとんど紹介しなかった。紡績は女工が寄宿舎で暮らしていたため、生活規律問題が割と早くから重要な課題になっていたから、このあたりは社会政策ともフィットしやすい。しかし、歴史的事実としては時里さんの指摘されている、職員の娯楽施設の存在とどう考えていくかは、非常に重要なテーマだろうと思う。これはこの次、議論する日までの宿題にしよう。