2010年03月19日 (金)
新しくカテゴリーを作りました。ちゃんとしたエントリにするのは面倒だけど、とりあえず、読んだという備忘録がわりに書いておきます。基本的には読まれることを前提に書くつもりです。
ちょっと古い本だけど、よい本だと思いました。私の中の最初の苅谷体験(?)は学部のときに読んだ『知的複眼思考法』でした。正直、なんでこんなつまらないことが書いてあるんだと訝しがった記憶があります。広い視野で物事を見る重要性が説かれていたような気がするんですが、どうも具体例を読むと、視野が広いという感じがしなかったのが理由です。二度目の苅谷体験は例の『学校・職安と労働市場』。これは研究としてはよい研究ですが、書いてある内容は面白くなかったです。
三度目の体験は、私は実はサントリー文化財団でフェローをしていたことがあるのですが、そのときに研究会の書記の仕事をやって、生で苅谷先生が議論している姿を見ました。一癖も二癖もある知識人たちの間で、苅谷先生の立ち位置は絶妙でした。他の方は自分が喋りたいことを喋るんですが、苅谷先生は他の方の意見を丁寧に学びながら、少しずつ次の方向に進むように誘導されていました。その裁き方は見事でした。かつて絶大な人気を誇っていたというのもすごくよく分かりました。
この本を読みながら、そういう私の原体験(?)をもう一度味わいました。いや、そんな大げさな言い方しなくてもいいんですが、苅谷先生のもっとも素晴らしい中庸を行くバランス感覚がいかんなく発揮されます。ただ、私の個人的な好みで言うと、優等生過ぎて面白くない。破綻しそうなところがあまりにもないのです。いっぺん、本当かなと考え込ませられたり、自分の今までの常識が覆されるのではないか、というような衝撃を受けることはまずありません。ですが、安心して学生に勧められる本だと思います。特に、教育社会学じゃなくて、その隣接分野である社会政策・社会福祉の初学者はこの本から学ぶべき視点がかなりたくさんあります。軽く読めて栄養価満点であり、強くお勧めします。
この本が対談であることも面白いですね。相手の増田さんという方は私は存じ上げませんが、とても勉強家だなあと感じました。結果的には、格好のパートナーになったと思います。昔、知り合ったフィンランド人の院生がフィンランドは大学が少ないから外国に行くんだと語ってくれたのを思い出します。彼はこの本の対談の一つの舞台であるオクスフォード大の学生でした。本書のなかにも外国語の問題が日本とフィンランドを比較して書いてありますが、日本は閉じた一国で良くも悪くも教育が完結できているんですね。そうでない国では本当に外国語が大事になる。よく言われることですが、ヨーロッパの言葉は近いですしね。
教育関連の本としてももちろん面白かったです。苅谷先生はポストモダン社会みたいな、手垢にまみれた言葉を確信犯的に使われますね。なんだか分からないけど、とりあえず名前をつけておく、という感じでしょうか。ジャーナリスティックですが、そういうことをする効用って高いですよね。
個人的な勘としては、日本の近代教育の歴史については、師範学校を潰したことと、教育大が筑波大に改編するときにどうしてあれだけ反対した人たちがいたのか?そのあたりのことを総括する必要があると思います。特に、職業教育が大事だというならば、この問題は本来、避けて通れないんじゃないでしょうか。本の最後の方でフィンランドの教師育成が紹介されていたので、なおさら強くこの問題の重要性を痛感しました。
何れにせよ総合的に見て、この本は買いです。私は『知的複眼思考法』よりもこちらを推します。
ちょっと古い本だけど、よい本だと思いました。私の中の最初の苅谷体験(?)は学部のときに読んだ『知的複眼思考法』でした。正直、なんでこんなつまらないことが書いてあるんだと訝しがった記憶があります。広い視野で物事を見る重要性が説かれていたような気がするんですが、どうも具体例を読むと、視野が広いという感じがしなかったのが理由です。二度目の苅谷体験は例の『学校・職安と労働市場』。これは研究としてはよい研究ですが、書いてある内容は面白くなかったです。
三度目の体験は、私は実はサントリー文化財団でフェローをしていたことがあるのですが、そのときに研究会の書記の仕事をやって、生で苅谷先生が議論している姿を見ました。一癖も二癖もある知識人たちの間で、苅谷先生の立ち位置は絶妙でした。他の方は自分が喋りたいことを喋るんですが、苅谷先生は他の方の意見を丁寧に学びながら、少しずつ次の方向に進むように誘導されていました。その裁き方は見事でした。かつて絶大な人気を誇っていたというのもすごくよく分かりました。
この本を読みながら、そういう私の原体験(?)をもう一度味わいました。いや、そんな大げさな言い方しなくてもいいんですが、苅谷先生のもっとも素晴らしい中庸を行くバランス感覚がいかんなく発揮されます。ただ、私の個人的な好みで言うと、優等生過ぎて面白くない。破綻しそうなところがあまりにもないのです。いっぺん、本当かなと考え込ませられたり、自分の今までの常識が覆されるのではないか、というような衝撃を受けることはまずありません。ですが、安心して学生に勧められる本だと思います。特に、教育社会学じゃなくて、その隣接分野である社会政策・社会福祉の初学者はこの本から学ぶべき視点がかなりたくさんあります。軽く読めて栄養価満点であり、強くお勧めします。
この本が対談であることも面白いですね。相手の増田さんという方は私は存じ上げませんが、とても勉強家だなあと感じました。結果的には、格好のパートナーになったと思います。昔、知り合ったフィンランド人の院生がフィンランドは大学が少ないから外国に行くんだと語ってくれたのを思い出します。彼はこの本の対談の一つの舞台であるオクスフォード大の学生でした。本書のなかにも外国語の問題が日本とフィンランドを比較して書いてありますが、日本は閉じた一国で良くも悪くも教育が完結できているんですね。そうでない国では本当に外国語が大事になる。よく言われることですが、ヨーロッパの言葉は近いですしね。
教育関連の本としてももちろん面白かったです。苅谷先生はポストモダン社会みたいな、手垢にまみれた言葉を確信犯的に使われますね。なんだか分からないけど、とりあえず名前をつけておく、という感じでしょうか。ジャーナリスティックですが、そういうことをする効用って高いですよね。
個人的な勘としては、日本の近代教育の歴史については、師範学校を潰したことと、教育大が筑波大に改編するときにどうしてあれだけ反対した人たちがいたのか?そのあたりのことを総括する必要があると思います。特に、職業教育が大事だというならば、この問題は本来、避けて通れないんじゃないでしょうか。本の最後の方でフィンランドの教師育成が紹介されていたので、なおさら強くこの問題の重要性を痛感しました。
何れにせよ総合的に見て、この本は買いです。私は『知的複眼思考法』よりもこちらを推します。
![]() | 欲ばり過ぎるニッポンの教育 (講談社現代新書) (2006/11/17) 苅谷 剛彦増田 ユリヤ 商品詳細を見る |
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2010年03月12日 (金)
社会政策を考えるためには、前々からドイツ国家論から勉強しなおさないといけないと思っているのだが、今はその準備もないので、とりあえず、今日は備忘録メモ。
吉田耕太郎氏の論文二編をメモ。どちらも東京外語大の紀要。現職は阪大准教授。社会政策という言葉の創出者は言うまでもなくシュタインであり、日本に導入した金井延も彼に師事し、その概念を導入した。その限りにおいては社会政策は経済政策の一つであったが、社会改良思想も同時に輸入された。金井の議論にあっては二つの論理的な整合性は明らかではないけれども、とにかくこの二つが入ったことが重要。多分、その背景にあるシュタインの国家論、有機体論を理解する必要がある。そのためにはドイツ国家学、官房学がどのような意味を持っているか、改めて考察する必要がある。
吉田論文はその意味で非常に示唆的。ただし、私はまだ批判的に読みこなすことが出来ない。優れた論文ではないかと思うが、それは解読の結果ではなく、勘による判断という段階。このレベルから考えない福祉国家論は「上すべりにすべって」しまうだろう。
ちなみに、社会政策学会で全くの傍流だけれども、重要なのは一橋グループ。大道寺順一、山田高生、木村周市朗、高田一夫ら。どうでもいいが、成城大学のレポジトリはなぜ外部から読めないのか全くの謎。
「ドイツ民衆啓蒙思想の社会的意義」
官房学と社会改革の結びつき。啓蒙思想による媒介。道徳的善の追求、自然の完全性との結びつき、すなわち宗教的理解との親和性。*ドイツ神秘主義との関係は?
> この多様の一致のライプニッツ-ヴォルフ学派の形而上学に由来するものであった。だがこの理念は、啓蒙運動を単に形而上学的な意味で支えただけでなく、社会を理解するための一つの枠組みとしても機能していた。それがこの完全性理念の大きな特徴である(450-451)。
ガルヴェのスミス理解:共同財産(common stock)→交換の目的=人間能力→交換の場としての市場(ein gemeinshaftkucher Markt)。これは当時一般的に受け入れられた。*日本の心学思想との親和性はどうだろう?
> グートショミットがザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト三世に国家学を教授したことは既に触れたが、その基調をなした思想が「国に統合された個々の人、個々の家族の共通の善への追求」であり、少数の利益よりも大多数の利益を尊重することであった。なによりも国を君主の所有物とする思想が批判され、国家の富を君主の所有物ではなく人民の富とする新たな冨理解が君主に教授された(452)。
> ガルヴェの議論は政治に携わる者とそれ以外の一般民衆が明確に区別されたドイツ社会の問題、つまり一握りの指導者によって社会が良くも悪くもなるが、民衆だけではヨーロッパの列強と拮抗しえないドイツの現状を再認識から出発し、君主と民衆の双方をまとめあげ、同時に強大な君主権力の規制するために完全性理念の既判力を利用したものと言える。君主権力の制限を権力の分割ではなく道徳裁判官Sittenrichterによって実現しようとしたユスティの「プラトン共和国」もガルヴェと同様に完全性の規範力によって君主権力の制限を試みた策であったと言えるだろう。453
*自由=(君主)権力の制限というヨーロッパ的発想、ハイエクとの親和性。
> こうした一連の君主道徳はパターナリスティックな道徳論と通例説明されるが、こうした説明が不十分であることは明らかであろう。453
*明らかではあるが、以下の内容を理解してもらうのは困難かも?
> 十八世紀後半の一連の社会改革が完全性という理念によって支えられていたことが隠れてしまうからだ。君主の家父長的な性格は完全性の実現への配慮に由来していた。例えば宮廷の浪費のような完全性を妨げる行為は批判されたが、完全性の実現に配慮する限りで君主の存在は認められた。無知が完全性の妨げであるからこそ、知識の伝播は完全性の実現に寄与するものとして積極的に推進された。そして完全性の調和志向が極端な社会変革のブレーキになる。例えば経済活動も市民層の経済的な自立を支えるものではなく、まずもって完全性の実現の手段としての側面が強調されたのであり、そして何より多様を統一する秩序としての統治システムの構築が積極的に求められたのである。453-454
「善き秩序:ポリツァイ概念史研究の可能性と課題」
Thomas Simonの著作、Gute Policeyの書評論文。*日本の温情主義は明らかにドイツの家父長主義と違う。それを一緒くたに扱うのは実は大問題。当たり前だけど。ドイツ史研究でも日本人研究者は緻密なんだという平凡な感想が批判を読んで残った。
結論、ドイツ語を勉強しなきゃダメじゃん。
ちなみに、著者が参考にしたと書いた論文の著者である(分かりにくくてすまん)松本尚子さんのサイト。
参加型Online西洋法制史辞典
本格的に勉強するときにはお世話になろう。
吉田耕太郎氏の論文二編をメモ。どちらも東京外語大の紀要。現職は阪大准教授。社会政策という言葉の創出者は言うまでもなくシュタインであり、日本に導入した金井延も彼に師事し、その概念を導入した。その限りにおいては社会政策は経済政策の一つであったが、社会改良思想も同時に輸入された。金井の議論にあっては二つの論理的な整合性は明らかではないけれども、とにかくこの二つが入ったことが重要。多分、その背景にあるシュタインの国家論、有機体論を理解する必要がある。そのためにはドイツ国家学、官房学がどのような意味を持っているか、改めて考察する必要がある。
吉田論文はその意味で非常に示唆的。ただし、私はまだ批判的に読みこなすことが出来ない。優れた論文ではないかと思うが、それは解読の結果ではなく、勘による判断という段階。このレベルから考えない福祉国家論は「上すべりにすべって」しまうだろう。
ちなみに、社会政策学会で全くの傍流だけれども、重要なのは一橋グループ。大道寺順一、山田高生、木村周市朗、高田一夫ら。どうでもいいが、成城大学のレポジトリはなぜ外部から読めないのか全くの謎。
「ドイツ民衆啓蒙思想の社会的意義」
官房学と社会改革の結びつき。啓蒙思想による媒介。道徳的善の追求、自然の完全性との結びつき、すなわち宗教的理解との親和性。*ドイツ神秘主義との関係は?
> この多様の一致のライプニッツ-ヴォルフ学派の形而上学に由来するものであった。だがこの理念は、啓蒙運動を単に形而上学的な意味で支えただけでなく、社会を理解するための一つの枠組みとしても機能していた。それがこの完全性理念の大きな特徴である(450-451)。
ガルヴェのスミス理解:共同財産(common stock)→交換の目的=人間能力→交換の場としての市場(ein gemeinshaftkucher Markt)。これは当時一般的に受け入れられた。*日本の心学思想との親和性はどうだろう?
> グートショミットがザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト三世に国家学を教授したことは既に触れたが、その基調をなした思想が「国に統合された個々の人、個々の家族の共通の善への追求」であり、少数の利益よりも大多数の利益を尊重することであった。なによりも国を君主の所有物とする思想が批判され、国家の富を君主の所有物ではなく人民の富とする新たな冨理解が君主に教授された(452)。
> ガルヴェの議論は政治に携わる者とそれ以外の一般民衆が明確に区別されたドイツ社会の問題、つまり一握りの指導者によって社会が良くも悪くもなるが、民衆だけではヨーロッパの列強と拮抗しえないドイツの現状を再認識から出発し、君主と民衆の双方をまとめあげ、同時に強大な君主権力の規制するために完全性理念の既判力を利用したものと言える。君主権力の制限を権力の分割ではなく道徳裁判官Sittenrichterによって実現しようとしたユスティの「プラトン共和国」もガルヴェと同様に完全性の規範力によって君主権力の制限を試みた策であったと言えるだろう。453
*自由=(君主)権力の制限というヨーロッパ的発想、ハイエクとの親和性。
> こうした一連の君主道徳はパターナリスティックな道徳論と通例説明されるが、こうした説明が不十分であることは明らかであろう。453
*明らかではあるが、以下の内容を理解してもらうのは困難かも?
> 十八世紀後半の一連の社会改革が完全性という理念によって支えられていたことが隠れてしまうからだ。君主の家父長的な性格は完全性の実現への配慮に由来していた。例えば宮廷の浪費のような完全性を妨げる行為は批判されたが、完全性の実現に配慮する限りで君主の存在は認められた。無知が完全性の妨げであるからこそ、知識の伝播は完全性の実現に寄与するものとして積極的に推進された。そして完全性の調和志向が極端な社会変革のブレーキになる。例えば経済活動も市民層の経済的な自立を支えるものではなく、まずもって完全性の実現の手段としての側面が強調されたのであり、そして何より多様を統一する秩序としての統治システムの構築が積極的に求められたのである。453-454
「善き秩序:ポリツァイ概念史研究の可能性と課題」
Thomas Simonの著作、Gute Policeyの書評論文。*日本の温情主義は明らかにドイツの家父長主義と違う。それを一緒くたに扱うのは実は大問題。当たり前だけど。ドイツ史研究でも日本人研究者は緻密なんだという平凡な感想が批判を読んで残った。
結論、ドイツ語を勉強しなきゃダメじゃん。
ちなみに、著者が参考にしたと書いた論文の著者である(分かりにくくてすまん)松本尚子さんのサイト。
参加型Online西洋法制史辞典
本格的に勉強するときにはお世話になろう。
2010年03月10日 (水)
前回の続きです。
基本的にその後、『教育社会学研究』誌上では、1990年代前半にいろいろと教育社会学とは何かという感じの議論がされます。しかし、教育社会学が若い学問であったがゆえの熱っぽさというのはなくなっていっているように見えます。それは教育社会学の学問的性格というよりは、あくまで創業期の熱っぽさだと思います。なんとなく社会福祉学とも雰囲気が似ているので。私から見ると、社会政策の方がよほど深刻なアイデンティティの危機を迎えています。今の社会政策学会は社会政策を理論的に考えるということがそもそも想定されていないんですから。投稿規程を読めば、分かります。
1990年の特集号は「教育社会学の批判的検討」は、この時期までに様々な方法が洗練されてきたことを示しています。もちろん、実際はこれだけでないでしょうけれども、門外漢には非常に便利な、特集です。同じく1991年の総目次(PDF)も便利です。もちろん、CiNiiでほぼ全部読めるんですが、全体が一気に読めると楽。
何重もの意味で面白いのが天野郁夫「辺境性と境界人性」です。この論文は、正確には論文というより感想ですが、教育社会学の中では重要かもしれません。ほぼ同世代の菊地城司が「教育社会学の日本的展開」で言及していますし、竹内洋が「教育社会学における歴史研究」で検討しています。この二つの論文の受け止め方の温度差が面白いんですね。ちなみに、竹内先生は天野先生の次の世代です。
菊地論文では実は自分達を第三世代としていますが、天野先生は旧い世代と新しい世代という言い方をしていて、自分達が新しい世代であったときのことと、旧世代になった自分達という二つの局面で語っています。しかし、何れにせよ第一世代と第二世代の区別はない。それは前エントリで指摘したとおりです。
天野先生が指摘する「辺境性」と「境界人」に二重の意味を見出したのが竹内論文です。題して脱辺境戦略と居直り辺境戦略です。天野先生は後者です。脱辺境戦略などとほんの少しだけ呼び方だけ気を遣っていますが、要するに、外国の社会学、教育社会学などの輸入卸学者のことです。新しいパラダイムという掛け声だけで、その手法を学んで、日本の事例(歴史)で何か新しい解釈を出したのか?とギュウギュウと詰めていきます。竹内先生は論文で丁寧に考証されていますが、私の印象では「昔デュルケム、今ブルデュー」という感じです。これに対し、居直り辺境戦略は新しい分野を切り開いてきたと高く評価されます。実は、天野先生も明らかに二重の意味で使っているけれども、ご自身があるとき、フロントランナーになっちゃったから、後進の人を気遣えば、そうは書けない。自分自身のキャリアや研究の正当化になりかねないと断られている点、第一世代は学歴主義やらなにやらはやらなかったではないか、と書いているところにはすごい自負を感じます。
そして、究めつけ、天野先生の回顧録によれば、別に天野先生がオーソドキシーと言うか、中央への違和感を感じていたのは教育社会学の影響ではなく、東大を嫌って一橋に進学を決めた高校時代からそうだったことが明らかにされています。人は、それでも一橋でしょう?というと思いますが、私にはなんとなく東大外から入って研究者への道に行ったときの気分というのは想像できます。東大なんだけど、東大じゃないというアンビバレントな感じは、外部の人にはもちろん、純粋な内部昇進(進学か)の人にも分かりにくいかもしれません。でも、よくここまではっきり書いて下さいました。前回のエントリで紹介した1978年のやり取りで、教育社会学の独自性を疑ったことなどない、って第一・第二世代のいらっしゃる前で啖呵を切っていらっしゃるんですから、コンプレックスなど全然、感じられませんよね。
私の独断と偏見では、なんだか理解できないカタカナ学者の本を読むより、海後宗臣・寺崎昌男・潮木守一・天野郁夫・広田照幸といった東大教育学部の黄金ラインを読んだ方がよほど生産的じゃないかと思います。ただし、海後先生の本は旧字だったかな。もっとも、私は寺崎先生のものだけはまったく読んだことがありません。話を元に戻すと、竹内論文の注16は非常に重要です。部分的に引きましょう。
> 筆者から見れば寺崎の学校騒擾も佐藤(秀夫)の学習道具の研究などはフーコーもアリエスもエリアスも引用されていなくとも立派な社会史研究にみえる。
教育史のことを書きながら強烈に教育社会学の一部に皮肉を利かせていますねえ。ちなみに、いろんなところで聞くんで、この際だから書いておきますが、古い考証史学(くそ実証)が広い視野を持っていないというのは、かなりの部分が当てはまるものの、その反面、解釈学などという文芸評論とは違って、堅実な史料考証に基づいた上で大きな史観を展開させているものがあるのも事実です。ただし、そういう本は大部です。研究書を読むことさえ修行が要りますから、解釈学の革新性を言うのは、どうも読み通す学力ないし胆力がない人が言っているだけに過ぎないんじゃないかと疑っています。私は竹内先生があげてる本は読んでいませんが、当然、こういう評価が出てくるだろうと思います。
それにしても、この文脈から天野論文を読み返すと、厳しいことがいくつも書いてあります。たとえば、
> いうまでもなく、社会学も、その一部門として発達してきた教育社会学も、「近代」という時代、「産業社会」という社会を対象に成立し、発展してきた学問である。その限りで理論や方法に国境はない。デュルケームがいったように、社会学は基本的に比較社会学である。だがそのことは、とくに現実の「教育」を問題として、説明することをめざしてきた教育社会学の諸理論が、具体的な歴史と社会の刻印から自由であることを意味しない。それどころか、諸理論には、それをうみ出した社会と時代の刻印が、しっかりきざみこまれている。たとえばバーンステインの一連の言語社会学的な研究は、イギリスの社会構造と切り離して考えられることはできないし、ジェンクスの「不平等」をめぐる研究も、「ディスタンクシオン」に代表されるブルデューの諸理論も同様である。
これは汎用性がある観察です。試しに、書き換えてみましょうか。
> いうまでもなく、社会学も、その一部門として発達してきた教育社会学社会福祉学も、「近代」という時代、「産業社会」という社会を対象に成立し、発展してきた学問である。その限りで理論や方法に国境はない。デュルケームがいったように、社会学は基本的に比較社会学である。だがそのことは、とくに現実の「教育社会福祉」を問題として、説明することをめざしてきた教育社会学社会福祉学の諸理論が、具体的な歴史と社会の刻印から自由であることを意味しない。それどころか、諸理論には、それをうみ出した社会と時代の刻印が、しっかりきざみこまれている。たとえばバーンステインT.H.マーシャルの一連の言語社会学的なシチズンシップに関する研究は、イギリスの社会構造とその発展から切り離して考えられることはできないし、ジェンクスティトマスの「不平等社会政策」をめぐる研究も、「ディスタンクシオン社会福祉三つのモデル」に代表されるブルデューピンカーの諸理論も同様である。
どうですか。思い当たるところ、ありませんか。
ただ、前エントリでも書きましたけれども、教育社会学の一部にはしっかりした考証に根付いた教育史の伝統をよい意味で受け継いでいるところがあります。今の教育社会学にそれほどの力があるかどうか、しっかり伝統を受け継いでいるかどうかは、何れ歴史の語るところでしょうけれども、少なくとも80年代から90年代にかけて教育社会学の歴史部門の主な人たちが教育史に殴り込んで、本気で覇権を握ろうとしたら、教育史側から見て庇を貸して母屋を乗っ取る事態になったかもしれません。実際には、引用した竹内論文に見られるように、健全な良識を持った人たちはお互いから学ぼうという生産的な態度であったわけですが。
これに対して社会福祉ないし社会事業の分野では、吉田久一先生がゼロからスタートさせました。吉田先生の前には乙竹岩蔵も海後宗臣も石川謙もいなかった。また、海外と比較したときに、マーシャルやティトマス、ピンカーと比べたときでさえ、非常に不利な条件からスタートしたといわざるを得ない。これはとても辛いことですよ。池田敬正先生の本も同じようなことを感じます。
ところで、『日本のメリトクラシー』をこういう文脈を踏まえて振り返ってみると、あの前半の門外漢にはなんだか意味が分からない第一部の意味も見えてくるというものです。海外の理論を摂取するという教育社会学の伝統を踏まえた上で、自分なりの道具立てを揃え、それを使って歴史的事実を解析していくという、一つの答えだったんだ、と思いました。要するに、ここで掲げられた問題に対する一つの解答になっている。ちょうどメリトクラシーが出たのが1995年7月で、この論文は10月ですから。
ちなみに、大学研究者の履歴書はメチャクチャいい企画です。さすが広島大学!
なんか書くべきことをいっぱい落としている気がしますが、とりあえず、今回のシリーズはここまで。
基本的にその後、『教育社会学研究』誌上では、1990年代前半にいろいろと教育社会学とは何かという感じの議論がされます。しかし、教育社会学が若い学問であったがゆえの熱っぽさというのはなくなっていっているように見えます。それは教育社会学の学問的性格というよりは、あくまで創業期の熱っぽさだと思います。なんとなく社会福祉学とも雰囲気が似ているので。私から見ると、社会政策の方がよほど深刻なアイデンティティの危機を迎えています。今の社会政策学会は社会政策を理論的に考えるということがそもそも想定されていないんですから。投稿規程を読めば、分かります。
1990年の特集号は「教育社会学の批判的検討」は、この時期までに様々な方法が洗練されてきたことを示しています。もちろん、実際はこれだけでないでしょうけれども、門外漢には非常に便利な、特集です。同じく1991年の総目次(PDF)も便利です。もちろん、CiNiiでほぼ全部読めるんですが、全体が一気に読めると楽。
何重もの意味で面白いのが天野郁夫「辺境性と境界人性」です。この論文は、正確には論文というより感想ですが、教育社会学の中では重要かもしれません。ほぼ同世代の菊地城司が「教育社会学の日本的展開」で言及していますし、竹内洋が「教育社会学における歴史研究」で検討しています。この二つの論文の受け止め方の温度差が面白いんですね。ちなみに、竹内先生は天野先生の次の世代です。
菊地論文では実は自分達を第三世代としていますが、天野先生は旧い世代と新しい世代という言い方をしていて、自分達が新しい世代であったときのことと、旧世代になった自分達という二つの局面で語っています。しかし、何れにせよ第一世代と第二世代の区別はない。それは前エントリで指摘したとおりです。
天野先生が指摘する「辺境性」と「境界人」に二重の意味を見出したのが竹内論文です。題して脱辺境戦略と居直り辺境戦略です。天野先生は後者です。脱辺境戦略などとほんの少しだけ呼び方だけ気を遣っていますが、要するに、外国の社会学、教育社会学などの輸入卸学者のことです。新しいパラダイムという掛け声だけで、その手法を学んで、日本の事例(歴史)で何か新しい解釈を出したのか?とギュウギュウと詰めていきます。竹内先生は論文で丁寧に考証されていますが、私の印象では「昔デュルケム、今ブルデュー」という感じです。これに対し、居直り辺境戦略は新しい分野を切り開いてきたと高く評価されます。実は、天野先生も明らかに二重の意味で使っているけれども、ご自身があるとき、フロントランナーになっちゃったから、後進の人を気遣えば、そうは書けない。自分自身のキャリアや研究の正当化になりかねないと断られている点、第一世代は学歴主義やらなにやらはやらなかったではないか、と書いているところにはすごい自負を感じます。
そして、究めつけ、天野先生の回顧録によれば、別に天野先生がオーソドキシーと言うか、中央への違和感を感じていたのは教育社会学の影響ではなく、東大を嫌って一橋に進学を決めた高校時代からそうだったことが明らかにされています。人は、それでも一橋でしょう?というと思いますが、私にはなんとなく東大外から入って研究者への道に行ったときの気分というのは想像できます。東大なんだけど、東大じゃないというアンビバレントな感じは、外部の人にはもちろん、純粋な内部昇進(進学か)の人にも分かりにくいかもしれません。でも、よくここまではっきり書いて下さいました。前回のエントリで紹介した1978年のやり取りで、教育社会学の独自性を疑ったことなどない、って第一・第二世代のいらっしゃる前で啖呵を切っていらっしゃるんですから、コンプレックスなど全然、感じられませんよね。
私の独断と偏見では、なんだか理解できないカタカナ学者の本を読むより、海後宗臣・寺崎昌男・潮木守一・天野郁夫・広田照幸といった東大教育学部の黄金ラインを読んだ方がよほど生産的じゃないかと思います。ただし、海後先生の本は旧字だったかな。もっとも、私は寺崎先生のものだけはまったく読んだことがありません。話を元に戻すと、竹内論文の注16は非常に重要です。部分的に引きましょう。
> 筆者から見れば寺崎の学校騒擾も佐藤(秀夫)の学習道具の研究などはフーコーもアリエスもエリアスも引用されていなくとも立派な社会史研究にみえる。
教育史のことを書きながら強烈に教育社会学の一部に皮肉を利かせていますねえ。ちなみに、いろんなところで聞くんで、この際だから書いておきますが、古い考証史学(くそ実証)が広い視野を持っていないというのは、かなりの部分が当てはまるものの、その反面、解釈学などという文芸評論とは違って、堅実な史料考証に基づいた上で大きな史観を展開させているものがあるのも事実です。ただし、そういう本は大部です。研究書を読むことさえ修行が要りますから、解釈学の革新性を言うのは、どうも読み通す学力ないし胆力がない人が言っているだけに過ぎないんじゃないかと疑っています。私は竹内先生があげてる本は読んでいませんが、当然、こういう評価が出てくるだろうと思います。
それにしても、この文脈から天野論文を読み返すと、厳しいことがいくつも書いてあります。たとえば、
> いうまでもなく、社会学も、その一部門として発達してきた教育社会学も、「近代」という時代、「産業社会」という社会を対象に成立し、発展してきた学問である。その限りで理論や方法に国境はない。デュルケームがいったように、社会学は基本的に比較社会学である。だがそのことは、とくに現実の「教育」を問題として、説明することをめざしてきた教育社会学の諸理論が、具体的な歴史と社会の刻印から自由であることを意味しない。それどころか、諸理論には、それをうみ出した社会と時代の刻印が、しっかりきざみこまれている。たとえばバーンステインの一連の言語社会学的な研究は、イギリスの社会構造と切り離して考えられることはできないし、ジェンクスの「不平等」をめぐる研究も、「ディスタンクシオン」に代表されるブルデューの諸理論も同様である。
これは汎用性がある観察です。試しに、書き換えてみましょうか。
> いうまでもなく、社会学も、その一部門として発達してきた
どうですか。思い当たるところ、ありませんか。
ただ、前エントリでも書きましたけれども、教育社会学の一部にはしっかりした考証に根付いた教育史の伝統をよい意味で受け継いでいるところがあります。今の教育社会学にそれほどの力があるかどうか、しっかり伝統を受け継いでいるかどうかは、何れ歴史の語るところでしょうけれども、少なくとも80年代から90年代にかけて教育社会学の歴史部門の主な人たちが教育史に殴り込んで、本気で覇権を握ろうとしたら、教育史側から見て庇を貸して母屋を乗っ取る事態になったかもしれません。実際には、引用した竹内論文に見られるように、健全な良識を持った人たちはお互いから学ぼうという生産的な態度であったわけですが。
これに対して社会福祉ないし社会事業の分野では、吉田久一先生がゼロからスタートさせました。吉田先生の前には乙竹岩蔵も海後宗臣も石川謙もいなかった。また、海外と比較したときに、マーシャルやティトマス、ピンカーと比べたときでさえ、非常に不利な条件からスタートしたといわざるを得ない。これはとても辛いことですよ。池田敬正先生の本も同じようなことを感じます。
ところで、『日本のメリトクラシー』をこういう文脈を踏まえて振り返ってみると、あの前半の門外漢にはなんだか意味が分からない第一部の意味も見えてくるというものです。海外の理論を摂取するという教育社会学の伝統を踏まえた上で、自分なりの道具立てを揃え、それを使って歴史的事実を解析していくという、一つの答えだったんだ、と思いました。要するに、ここで掲げられた問題に対する一つの解答になっている。ちょうどメリトクラシーが出たのが1995年7月で、この論文は10月ですから。
ちなみに、大学研究者の履歴書はメチャクチャいい企画です。さすが広島大学!
なんか書くべきことをいっぱい落としている気がしますが、とりあえず、今回のシリーズはここまで。
2010年03月09日 (火)
何となく思い出します。私は実際の政策は知りませんから、細かい政策を評価することは出来ません。ただ、思い出すのです。
2010年03月08日 (月)
登場人物が多くて、煩雑になりましたので、敬称はすべて省略します。
戦後、1951年に雑誌『教育社会学研究』が刊行されます。巻頭論文は海後宗臣の「わが国教育社会学の課題」でした。そこでは教育領域の社会科学を確立させなきゃならない、そういう問題意識が充満しています。というか、実証的すべき領域はこの論文でほとんど明らかにされています。海後は職業社会学とのブリッジも言及しています。
海後は吉野作造の有名な明治文化研究会に参加され、そこから明治教育史研究を始められます。より広範な範囲をカバーした上で、教育史に取り組まれていったのです。実は、同じようなことは石川謙にもいえます。石川はもちろん『石門心学史の研究』の著者です。その石川の師匠は誰かといえば三上参次です。三上は有名な歴史学者。私は法制史的な研究を何篇か読みました。『石門心学史の研究』は扱っている時代が江戸時代ということもありますが、単純な学校の社会史ではありません。社会全体の広い教化が扱われているわけです。海後先生の研究もそういう広い視野を持っているはずです(何せ読んだのが10年近く前なので、自信がない)。結局、彼らの研究は事実上、教育社会学の史的研究とでも呼ぶべき性格を持っていたといえるのではないでしょうか。
教育社会学は戦前からその受け入れ土壌があったものの、基本的には戦後に本格的に導入されています。はっきりいえば、占領軍の支援が大きかった。清水義弘ははっきり「幸運なる出発」と記し、「獲得したものではなく、与えられたものであることを忘れてはなるまい。そして、与えられたものはいつまでも手に残るとは限らない」と書かれています(「教育社会学論」1958年10月)。
門外漢の私の見るところ、1970年代の後半までは基本的には日本の教育社会学の黎明期です。そこで議論されていたことは、ざっくり言ってしまえば、教育社会学が教育学や社会学から独立した社会科学足り得るためにはいかにあるべきかという問題です。もちろん、これはあくまでもざっくりなので、実際には歴史学や哲学など、その他の境界領域との関係も論じられますが、しかし、象徴的に捉えるならば、教育的社会学か教育の社会学かといった捉え方、教育学と社会学の関係が大事でした。
1954年の名古屋大会は重要でその主役は清水義弘、新堀通也、渡辺洋二の三者でした。それぞれが清水「教育社会学の構造」、新堀「教育学と教育社会学」、渡辺「曖昧な教育社会学;その曖昧性を除くために」となります。このうち、「曖昧性」は一つのキーワードになるわけです。
翻って、1977年の東京大会は教育社会学の固有性という問題関心の終焉を示す場でもありました。渡辺洋二「2つのシンポジウム「教育社会学の性格」を顧みて」の最後に「討論者の天野は世代による意識の「ずれ」を指摘し、この種の論議(引用者注;教育社会学のアイデンティティ)が他部門から教育社会学者に転じてきた第一世代に特有なもので、はじめから教育社会学を専攻し、「教育社会学の高度成長期」に育った第二世代にとっては、教育社会学が独自の学問であることを疑うこともなかったし、その性格が問題に成ることもなかったと主張した。顧みると、学会も30年の歳月を重ねているのである」と記しています。一応、厳密に言うならば、当事者であった佐々木徹郎は、第一世代は学会創設期に指導的役割を担った世代、第二世代はその下で育ちながら、教育社会学を育てた世代と分類しています(「何のための教育社会学論か」72-73頁)。考証チックに言うならば、この論文は先の引用の天野発言(これ自体が佐々木の問題提起に対するリアクションであった)に対して、自分達の世代的なアイデンティティを示したものと理解すべきでしょう。おそらく、最初の指導的な立場にあった方たち、たとえば、先ほどの海後先生などは教育社会学の存立基盤によって、自分の学者としてのアイデンティティ問題に悩むなどということは別になかったでしょう。その意味では、学会開始時にキャリアをスタートさせた研究者とは微妙に違うのかもしれません。しかし、教育社会学をテイクオフさせようとした、という問題意識を共有した点において、二つを一緒の世代にするのもよいかもしれません。
この時期までにあった議論に秘められた対立構造は、実践(主観容認)と価値中立的な科学(客観性の追及)の二つを軸にしており、実は、この二つは戦後の一時期、それこそほとんどの学問分野で問題にされていました。一番、大きいのは、マルクスをめぐる実践運動と研究の分立でしょう。日本の講座派は当初、共産党活動と密接に結びついており、だからこそ、今から見ればほとんど読む価値のない野呂栄太郎の『日本資本主義発達史』でさえ賞賛されていました(さすがに今はこんなことを言っても怒られないでしょう)。これに対し、講座派と労農派のいわゆる日本資本主義論争を見ながら、価値中立的なマルクス経済学を目指したのが宇野弘蔵でした。宇野は運動家たちにも社会主義にもシンパシーを感じていましたが、研究は価値中立を掲げ、それが一方で当時の若者をひきつけました。わが社会政策においても、河合栄治郎と大河内一男の対立は、平賀粛清をオミットしたら、哲学ないし思想と社会科学の何れを根本に据えるかという問題であったといえるでしょう。
教育社会学の中でも実践に役立つ科学か、価値中立的な科学か、というところで、前者が優勢であった情勢のなかで徐々に後者も認められてきたといえるでしょう。私自身は何度も言うように、実践に役立つ科学という温い考えは嫌いです。実は、その後の教育社会学の大きな枠組みは既にこの時期までに全部、出揃っていたといえるでしょう。私が読んだところでは、以下の論文が今でも(初学者にとって)読む価値があると思われます。
海後宗臣「わが国教育社会学の課題」『教育社会学』1、1951年5月。
清水義弘「教育社会学の構造」『教育社会学研究』6、1954年10月。
渡辺洋二「曖昧な教育社会学;その曖昧性を除くために」『教育社会学研究』6、1954年10月。
清水義弘「教育社会学論」『教育社会学研究』13、1958年10月。
池田秀男「教育制度の社会学としての教育社会学:教育社会学理論の体系化を目指して」『教育社会学研究』19、1964年7月
青井和夫「教育社会学方法論の根本問題」『教育社会学研究』34,1979年9月。
最初の清水論文には臨床社会学という立場が既に見られます。教育病理-臨床の関係は古くから教育の世界にはあったわけですから、当然といえば当然ですね。前回書いた志水はほぼこの路線に近い。清水論文と渡辺論文は、積極的か消極的かという方向の違いであって、内容はかなり一致していたと23年後のシンポジウムでは当事者の渡辺が振り返っています。
池田論文、青井論文は社会学を足場に教育社会学を展望しようとしたものです。青井論文にいたっては現象学どころか、ユング心理学や禅の悟りの話まで出てくる始末で、ここまでぶっ飛んだのはその後もないでしょう。逆に言うと、行き着くところまで行ったという感じがしないでもありません。ただ、それ以外のマトリックスの描き方などは今にも通じると思います。次のエントリで扱う予定の90年代以降の研究潮流もおそらく、このなかにほぼ落着く場所があるんじゃないでしょうか。
戦後、1951年に雑誌『教育社会学研究』が刊行されます。巻頭論文は海後宗臣の「わが国教育社会学の課題」でした。そこでは教育領域の社会科学を確立させなきゃならない、そういう問題意識が充満しています。というか、実証的すべき領域はこの論文でほとんど明らかにされています。海後は職業社会学とのブリッジも言及しています。
海後は吉野作造の有名な明治文化研究会に参加され、そこから明治教育史研究を始められます。より広範な範囲をカバーした上で、教育史に取り組まれていったのです。実は、同じようなことは石川謙にもいえます。石川はもちろん『石門心学史の研究』の著者です。その石川の師匠は誰かといえば三上参次です。三上は有名な歴史学者。私は法制史的な研究を何篇か読みました。『石門心学史の研究』は扱っている時代が江戸時代ということもありますが、単純な学校の社会史ではありません。社会全体の広い教化が扱われているわけです。海後先生の研究もそういう広い視野を持っているはずです(何せ読んだのが10年近く前なので、自信がない)。結局、彼らの研究は事実上、教育社会学の史的研究とでも呼ぶべき性格を持っていたといえるのではないでしょうか。
教育社会学は戦前からその受け入れ土壌があったものの、基本的には戦後に本格的に導入されています。はっきりいえば、占領軍の支援が大きかった。清水義弘ははっきり「幸運なる出発」と記し、「獲得したものではなく、与えられたものであることを忘れてはなるまい。そして、与えられたものはいつまでも手に残るとは限らない」と書かれています(「教育社会学論」1958年10月)。
門外漢の私の見るところ、1970年代の後半までは基本的には日本の教育社会学の黎明期です。そこで議論されていたことは、ざっくり言ってしまえば、教育社会学が教育学や社会学から独立した社会科学足り得るためにはいかにあるべきかという問題です。もちろん、これはあくまでもざっくりなので、実際には歴史学や哲学など、その他の境界領域との関係も論じられますが、しかし、象徴的に捉えるならば、教育的社会学か教育の社会学かといった捉え方、教育学と社会学の関係が大事でした。
1954年の名古屋大会は重要でその主役は清水義弘、新堀通也、渡辺洋二の三者でした。それぞれが清水「教育社会学の構造」、新堀「教育学と教育社会学」、渡辺「曖昧な教育社会学;その曖昧性を除くために」となります。このうち、「曖昧性」は一つのキーワードになるわけです。
翻って、1977年の東京大会は教育社会学の固有性という問題関心の終焉を示す場でもありました。渡辺洋二「2つのシンポジウム「教育社会学の性格」を顧みて」の最後に「討論者の天野は世代による意識の「ずれ」を指摘し、この種の論議(引用者注;教育社会学のアイデンティティ)が他部門から教育社会学者に転じてきた第一世代に特有なもので、はじめから教育社会学を専攻し、「教育社会学の高度成長期」に育った第二世代にとっては、教育社会学が独自の学問であることを疑うこともなかったし、その性格が問題に成ることもなかったと主張した。顧みると、学会も30年の歳月を重ねているのである」と記しています。一応、厳密に言うならば、当事者であった佐々木徹郎は、第一世代は学会創設期に指導的役割を担った世代、第二世代はその下で育ちながら、教育社会学を育てた世代と分類しています(「何のための教育社会学論か」72-73頁)。考証チックに言うならば、この論文は先の引用の天野発言(これ自体が佐々木の問題提起に対するリアクションであった)に対して、自分達の世代的なアイデンティティを示したものと理解すべきでしょう。おそらく、最初の指導的な立場にあった方たち、たとえば、先ほどの海後先生などは教育社会学の存立基盤によって、自分の学者としてのアイデンティティ問題に悩むなどということは別になかったでしょう。その意味では、学会開始時にキャリアをスタートさせた研究者とは微妙に違うのかもしれません。しかし、教育社会学をテイクオフさせようとした、という問題意識を共有した点において、二つを一緒の世代にするのもよいかもしれません。
この時期までにあった議論に秘められた対立構造は、実践(主観容認)と価値中立的な科学(客観性の追及)の二つを軸にしており、実は、この二つは戦後の一時期、それこそほとんどの学問分野で問題にされていました。一番、大きいのは、マルクスをめぐる実践運動と研究の分立でしょう。日本の講座派は当初、共産党活動と密接に結びついており、だからこそ、今から見ればほとんど読む価値のない野呂栄太郎の『日本資本主義発達史』でさえ賞賛されていました(さすがに今はこんなことを言っても怒られないでしょう)。これに対し、講座派と労農派のいわゆる日本資本主義論争を見ながら、価値中立的なマルクス経済学を目指したのが宇野弘蔵でした。宇野は運動家たちにも社会主義にもシンパシーを感じていましたが、研究は価値中立を掲げ、それが一方で当時の若者をひきつけました。わが社会政策においても、河合栄治郎と大河内一男の対立は、平賀粛清をオミットしたら、哲学ないし思想と社会科学の何れを根本に据えるかという問題であったといえるでしょう。
教育社会学の中でも実践に役立つ科学か、価値中立的な科学か、というところで、前者が優勢であった情勢のなかで徐々に後者も認められてきたといえるでしょう。私自身は何度も言うように、実践に役立つ科学という温い考えは嫌いです。実は、その後の教育社会学の大きな枠組みは既にこの時期までに全部、出揃っていたといえるでしょう。私が読んだところでは、以下の論文が今でも(初学者にとって)読む価値があると思われます。
海後宗臣「わが国教育社会学の課題」『教育社会学』1、1951年5月。
清水義弘「教育社会学の構造」『教育社会学研究』6、1954年10月。
渡辺洋二「曖昧な教育社会学;その曖昧性を除くために」『教育社会学研究』6、1954年10月。
清水義弘「教育社会学論」『教育社会学研究』13、1958年10月。
池田秀男「教育制度の社会学としての教育社会学:教育社会学理論の体系化を目指して」『教育社会学研究』19、1964年7月
青井和夫「教育社会学方法論の根本問題」『教育社会学研究』34,1979年9月。
最初の清水論文には臨床社会学という立場が既に見られます。教育病理-臨床の関係は古くから教育の世界にはあったわけですから、当然といえば当然ですね。前回書いた志水はほぼこの路線に近い。清水論文と渡辺論文は、積極的か消極的かという方向の違いであって、内容はかなり一致していたと23年後のシンポジウムでは当事者の渡辺が振り返っています。
池田論文、青井論文は社会学を足場に教育社会学を展望しようとしたものです。青井論文にいたっては現象学どころか、ユング心理学や禅の悟りの話まで出てくる始末で、ここまでぶっ飛んだのはその後もないでしょう。逆に言うと、行き着くところまで行ったという感じがしないでもありません。ただ、それ以外のマトリックスの描き方などは今にも通じると思います。次のエントリで扱う予定の90年代以降の研究潮流もおそらく、このなかにほぼ落着く場所があるんじゃないでしょうか。
2010年03月03日 (水)
次に志水宏吉先生シリーズ、論文編。
やっぱり学説史から。
「「新しい教育社会学」その後 : 解釈的アプローチの再評価」
なるほど。統計学的手法を使った研究へのアンチテーゼ的な部分があるんですね。
「配分機関としての中学校 : 進路指導の社会学的分析」
よい論文。いろんな論点に目配りされているし、数学的な手法に捉われず、とても原始的な方法で手堅く整理され、分析されている。
岩井八郎、片岡栄美との共著論文
「「階層と教育」研究の動向」
この最初の部分はホワイトカラー史研究としても使えます。藤田先生のものより網羅的、分業による協業の力ですね。
「学校の成層性と生徒の分化-学校文化論への一視角」
フーコーも引いているし、注で高く評価しているけれども、その影響が余り見られないのはなぜ?
篠山地方の近現代史
天野郁夫、吉田文と共著
「近代日本における学歴主義の制度化過程の研究 : 篠山鳳鳴義塾を事例として」
天野郁夫、吉田文、広田照幸と共著
「地域における学歴意識の変容 : 戦前期日本における生活世界の学校化」
天野郁夫、吉田文、越智康詞と共著
「戦後中等教育の構造変化と学歴主義 : 丹波篠山地域の2高校を事例として」
今回はとりあえず、眺めただけ。分担がはっきりしているのは素晴らしい配慮。天野先生のものを繋いで読むだけで、簡単な近世から現代(より数十年前)までの教育社会史が展望できる。ってか、これが『学歴主義の社会史』のネタ元か?いずれにしても改めてすごい。事例研究としても濃い。
再び学説史
「変化する現実,変化させる現実:英国「新しい教育社会学」のゆくえ」
この論文は非常に重要だと思いました。イギリス学会での会話、ないし向こうの研究者数人からの感想をポンと入れているんですが、これはユニークな方法です。座談会形式というのはよくありますが、学説史でこれにやや近い方法を取り入れているのは面白い。そして、そのことと、フーコー的な解釈学、エスノグラフィー的手法を試行錯誤しようとしている志水先生の問題意識とは多分、密接に関連している。論文中も2,3度出てきますが、藤田先生の「教育社会学研究の半世紀」と対照しながら読むと面白い。この方法は他でも使える(はず)。
「臨床学校社会学の可能性」
この論文まで来ると、なるほど『学力を育てる』でご自分の体験から書かれたことが、決して読者を惹きつけるためではなく、研究の問題意識の進展上、必然的であったことがよく分かります。臨床的手法は、社会政策学会、というより社会福祉系などではポピュラーなので割と親しみやすい感じですしね。さらに「学校」の考察に留まろうとする方針は教育社会学の強みを上手く活かしていく道だと思います。
その後の研究を踏まえて書かれたものが↓です。
「研究 VS 実践 : 学校の臨床社会学に向けて」
インタビューの難しさを丁寧に説明してくれています。学校の臨床社会学だけでなく、たとえば、我々がオーラル・ヒストリーを試みるときにも同様の問題が起こる。教育の方が対象との距離の取り方がおそらく近いから、問題の困難さも先鋭的に出てくるんでしょうね。
一番、最近の学説史。ユーデル・デボラとの共著。
「イギリスとオーストラリアにおける教育社会学と教育変動」
ああ、デジャヴ。あまりに社会政策学会の皆さん、特に社会福祉系の皆さんと同じ方向を向いている。もう何も語るまい。
その他、役立ちそうなもの
学力問題プロジェクトの総決算。
「ネットワークの特集号」
モノグラフの著書を読んだ方がいいと思うけど、こんなのもありました。
「裏側のニッポン─日系南米人の出稼ぎと学校教育─」
エスノグラフィー的手法(ないし臨床社会学的手法)は、調査対象者からだけでなく、一般にそれ以外の一部の研究者からも蛇蝎の如く嫌われる。もともと、社会学はジャーナリズムとの線引きが難しい性格を持っていて、今となっては誰も文句を言わないであろう古典的名作『オンリー・イエスタディ』もジャーナリストの本です。『ハマータウンの野郎ども』にもそういう側面があったわけで。
もっと言うと、訳者の熊沢先生さえ同じような批判を浴びて来られたわけですね。最近、熊沢先生が大原の雑誌から回顧録(PDF)を出されて、こういう社会学ととても近い問題意識を持ってこられたことが改めて分かりました。ちなみに、熊沢先生については、某先生のように労働著述家とまではいいませんが、私もどちらかと言うと批判派です。最高の業績は最初の賃金の論文だと思っているので。
志水先生に話を戻すと、やっぱり1970年代にはある種、統計的手法を使った研究が重要な新興勢力で、その限界と折からのポストモダンが結びついて、エスノグラフィーが注目されてくるようになる。これに近いことはやや人事労務では1990年代くらいから起こり始めてるんじゃないか、という気もします。たしかに、統計的手法の眼目は客観的測定で、その反対の極に触れようとしたエスノグラフィーは行きつくところ、臨床的な、主観を押し出さざるを得ない。でも、そちらに傾斜しすぎると、データもなくてという話や、研究者一人ずつの職人芸みたいな話になってくる。そうなったら、志水先生のエスノグラフィーは信用できるけど、たとえば私がやったら信用できない、というような判定になりかねない。それはそれで問題なわけで・・・。でも、これって非常に広く社会学が直面してきた問題ですね。
結論1 電子テキスト化は偉大。とりわけ根幹の学会誌(この場合「教育社会学研究」)が電子化されているのは、他の領域に対しても、非常に優位。ちなみに、わが経済学研究科は紀要の電子化はしていないような・・・。教育研究科の方が進んでる・・・。
結論2 そして、CiNiiは偉大。実際、図書館でこの論文を全部調べるのは労力だし。
展望1 天野郁夫先生、潮木守一先生でやったら面白そう。
展望2 でも、大変そう。1人1日仕事だな。ちなみに、このエントリは半日仕事なり。ゆえに、内容が薄いです・・・。
やっぱり学説史から。
「「新しい教育社会学」その後 : 解釈的アプローチの再評価」
なるほど。統計学的手法を使った研究へのアンチテーゼ的な部分があるんですね。
「配分機関としての中学校 : 進路指導の社会学的分析」
よい論文。いろんな論点に目配りされているし、数学的な手法に捉われず、とても原始的な方法で手堅く整理され、分析されている。
岩井八郎、片岡栄美との共著論文
「「階層と教育」研究の動向」
この最初の部分はホワイトカラー史研究としても使えます。藤田先生のものより網羅的、分業による協業の力ですね。
「学校の成層性と生徒の分化-学校文化論への一視角」
フーコーも引いているし、注で高く評価しているけれども、その影響が余り見られないのはなぜ?
篠山地方の近現代史
天野郁夫、吉田文と共著
「近代日本における学歴主義の制度化過程の研究 : 篠山鳳鳴義塾を事例として」
天野郁夫、吉田文、広田照幸と共著
「地域における学歴意識の変容 : 戦前期日本における生活世界の学校化」
天野郁夫、吉田文、越智康詞と共著
「戦後中等教育の構造変化と学歴主義 : 丹波篠山地域の2高校を事例として」
今回はとりあえず、眺めただけ。分担がはっきりしているのは素晴らしい配慮。天野先生のものを繋いで読むだけで、簡単な近世から現代(より数十年前)までの教育社会史が展望できる。ってか、これが『学歴主義の社会史』のネタ元か?いずれにしても改めてすごい。事例研究としても濃い。
再び学説史
「変化する現実,変化させる現実:英国「新しい教育社会学」のゆくえ」
この論文は非常に重要だと思いました。イギリス学会での会話、ないし向こうの研究者数人からの感想をポンと入れているんですが、これはユニークな方法です。座談会形式というのはよくありますが、学説史でこれにやや近い方法を取り入れているのは面白い。そして、そのことと、フーコー的な解釈学、エスノグラフィー的手法を試行錯誤しようとしている志水先生の問題意識とは多分、密接に関連している。論文中も2,3度出てきますが、藤田先生の「教育社会学研究の半世紀」と対照しながら読むと面白い。この方法は他でも使える(はず)。
「臨床学校社会学の可能性」
この論文まで来ると、なるほど『学力を育てる』でご自分の体験から書かれたことが、決して読者を惹きつけるためではなく、研究の問題意識の進展上、必然的であったことがよく分かります。臨床的手法は、社会政策学会、というより社会福祉系などではポピュラーなので割と親しみやすい感じですしね。さらに「学校」の考察に留まろうとする方針は教育社会学の強みを上手く活かしていく道だと思います。
その後の研究を踏まえて書かれたものが↓です。
「研究 VS 実践 : 学校の臨床社会学に向けて」
インタビューの難しさを丁寧に説明してくれています。学校の臨床社会学だけでなく、たとえば、我々がオーラル・ヒストリーを試みるときにも同様の問題が起こる。教育の方が対象との距離の取り方がおそらく近いから、問題の困難さも先鋭的に出てくるんでしょうね。
一番、最近の学説史。ユーデル・デボラとの共著。
「イギリスとオーストラリアにおける教育社会学と教育変動」
ああ、デジャヴ。あまりに社会政策学会の皆さん、特に社会福祉系の皆さんと同じ方向を向いている。もう何も語るまい。
その他、役立ちそうなもの
学力問題プロジェクトの総決算。
「ネットワークの特集号」
モノグラフの著書を読んだ方がいいと思うけど、こんなのもありました。
「裏側のニッポン─日系南米人の出稼ぎと学校教育─」
エスノグラフィー的手法(ないし臨床社会学的手法)は、調査対象者からだけでなく、一般にそれ以外の一部の研究者からも蛇蝎の如く嫌われる。もともと、社会学はジャーナリズムとの線引きが難しい性格を持っていて、今となっては誰も文句を言わないであろう古典的名作『オンリー・イエスタディ』もジャーナリストの本です。『ハマータウンの野郎ども』にもそういう側面があったわけで。
もっと言うと、訳者の熊沢先生さえ同じような批判を浴びて来られたわけですね。最近、熊沢先生が大原の雑誌から回顧録(PDF)を出されて、こういう社会学ととても近い問題意識を持ってこられたことが改めて分かりました。ちなみに、熊沢先生については、某先生のように労働著述家とまではいいませんが、私もどちらかと言うと批判派です。最高の業績は最初の賃金の論文だと思っているので。
志水先生に話を戻すと、やっぱり1970年代にはある種、統計的手法を使った研究が重要な新興勢力で、その限界と折からのポストモダンが結びついて、エスノグラフィーが注目されてくるようになる。これに近いことはやや人事労務では1990年代くらいから起こり始めてるんじゃないか、という気もします。たしかに、統計的手法の眼目は客観的測定で、その反対の極に触れようとしたエスノグラフィーは行きつくところ、臨床的な、主観を押し出さざるを得ない。でも、そちらに傾斜しすぎると、データもなくてという話や、研究者一人ずつの職人芸みたいな話になってくる。そうなったら、志水先生のエスノグラフィーは信用できるけど、たとえば私がやったら信用できない、というような判定になりかねない。それはそれで問題なわけで・・・。でも、これって非常に広く社会学が直面してきた問題ですね。
結論1 電子テキスト化は偉大。とりわけ根幹の学会誌(この場合「教育社会学研究」)が電子化されているのは、他の領域に対しても、非常に優位。ちなみに、わが経済学研究科は紀要の電子化はしていないような・・・。教育研究科の方が進んでる・・・。
結論2 そして、CiNiiは偉大。実際、図書館でこの論文を全部調べるのは労力だし。
展望1 天野郁夫先生、潮木守一先生でやったら面白そう。
展望2 でも、大変そう。1人1日仕事だな。ちなみに、このエントリは半日仕事なり。ゆえに、内容が薄いです・・・。
2010年03月02日 (火)
土日はいくつかの教育社会学?の本を読みました。とりあえず、忘れないようにメモ。このエントリ、完全に自分用なんで、悪しからず。
苅谷剛彦『学校・職業・選抜の社会学』
志水宏吉『学力を育てる』
藤田英典『子ども・学校・社会』
藤田英典『教育改革』
藤田英典編『誰のための教育改革か』
というか、積読を解消しただけです。よくありました。他に苅谷先生の階層本もこの前、掃除したときに、ここにあったのかと思ったんですが、あったと思った場所を記憶違いしていて、今は見つからず、したがって、読めませんでした。
苅谷先生の本は、事例の位置づけがよく分からなくて、どうも違和感がありました。私の馴染みのあるものは、まず、事例がどういう意味を持っているかの説明をします。まあ、現状調査は調査対象の匿名性が大事なので、あんまり詳しくは書けないという制約も分かりますが、どういうタイプでという説明は一応、あります。マクロの話とミクロの話がいったり来たりするのと、急にデータの分析から、横文字の社会学者の名前が出てきて戸惑いました。モノグラフだから納得せい、というところなんでしょうか。
いや、最初から藤田先生の『子ども・学校・社会』のように、文明論に近い次元で話してくれれば、それはそれで分かるんです。藤田先生の本は私には読みやすかったです。この本を途中まで読んだだけでは、よい意味でいったい何の専門家なのか、分からなくなってしまう(笑)。文化社会学的な考察とか、尾高先生の職業社会学への考察とか、おそらくその道のプロもびっくり。
その他に学説史整理の二本。
「教育社会学研究の半世紀」
「「階層と教育」研究の今日的課題」
若い頃のパス解析を使った論文
「学歴達成の規定要因 : パス解析の応用例」
「学歴の経済的社会的効用の国際比較」
『子ども・学校・社会』の最終章をさらに膨らませた
「教育・国家・コミュニティ : アーミッシュの文化と教育を手がかりに」
も読みました。
『教育改革』に繋がる「共生」の原点はひょっとしたら、アーミッシュの話があるのかもしれません。これはひとつの優れたモノグラフですね。アメリカのコミュニティ文化というのは、それこそ、トクヴィルも指摘したわけですけれども、これをどう考えるか重要な課題で、実はちょっと私も考えようと思っていたところです。そして、この「共生」の考え方は志水先生の『学力を育てる』の方にも繋がっていけますね。書き方の問題なのか、それとも姿勢の問題なのか、分かりませんが、ご自分の経験を軸に置かれているのは私はとても重要なポイントだと思います。
ところで、最近の藤田先生のもの
「誰がどのようにケアするのか? : 変動社会における少年犯罪・教育・社会福祉(視聴覚教育法)」
などを読んで、なんとなく森さんがブログで書かれている問題意識と繋がってきました。後は単著と本に書かれた論文なども数編、重要そうなのがありましたが、上にあげたもののなかに学説史整理も含まれていたので、大体の雰囲気はつかめたので、門外漢としてはよしとしましょう。
苅谷剛彦『学校・職業・選抜の社会学』
志水宏吉『学力を育てる』
藤田英典『子ども・学校・社会』
藤田英典『教育改革』
藤田英典編『誰のための教育改革か』
というか、積読を解消しただけです。よくありました。他に苅谷先生の階層本もこの前、掃除したときに、ここにあったのかと思ったんですが、あったと思った場所を記憶違いしていて、今は見つからず、したがって、読めませんでした。
苅谷先生の本は、事例の位置づけがよく分からなくて、どうも違和感がありました。私の馴染みのあるものは、まず、事例がどういう意味を持っているかの説明をします。まあ、現状調査は調査対象の匿名性が大事なので、あんまり詳しくは書けないという制約も分かりますが、どういうタイプでという説明は一応、あります。マクロの話とミクロの話がいったり来たりするのと、急にデータの分析から、横文字の社会学者の名前が出てきて戸惑いました。モノグラフだから納得せい、というところなんでしょうか。
いや、最初から藤田先生の『子ども・学校・社会』のように、文明論に近い次元で話してくれれば、それはそれで分かるんです。藤田先生の本は私には読みやすかったです。この本を途中まで読んだだけでは、よい意味でいったい何の専門家なのか、分からなくなってしまう(笑)。文化社会学的な考察とか、尾高先生の職業社会学への考察とか、おそらくその道のプロもびっくり。
その他に学説史整理の二本。
「教育社会学研究の半世紀」
「「階層と教育」研究の今日的課題」
若い頃のパス解析を使った論文
「学歴達成の規定要因 : パス解析の応用例」
「学歴の経済的社会的効用の国際比較」
『子ども・学校・社会』の最終章をさらに膨らませた
「教育・国家・コミュニティ : アーミッシュの文化と教育を手がかりに」
も読みました。
『教育改革』に繋がる「共生」の原点はひょっとしたら、アーミッシュの話があるのかもしれません。これはひとつの優れたモノグラフですね。アメリカのコミュニティ文化というのは、それこそ、トクヴィルも指摘したわけですけれども、これをどう考えるか重要な課題で、実はちょっと私も考えようと思っていたところです。そして、この「共生」の考え方は志水先生の『学力を育てる』の方にも繋がっていけますね。書き方の問題なのか、それとも姿勢の問題なのか、分かりませんが、ご自分の経験を軸に置かれているのは私はとても重要なポイントだと思います。
ところで、最近の藤田先生のもの
「誰がどのようにケアするのか? : 変動社会における少年犯罪・教育・社会福祉(視聴覚教育法)」
などを読んで、なんとなく森さんがブログで書かれている問題意識と繋がってきました。後は単著と本に書かれた論文なども数編、重要そうなのがありましたが、上にあげたもののなかに学説史整理も含まれていたので、大体の雰囲気はつかめたので、門外漢としてはよしとしましょう。
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