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あ、なるほど、そういうわけなのね。濱口さんの「ジョブ型正社員のメモ」を読んで、その真意がよく分かりました。

濱口さんの議論は別に学問じゃないから、現実を正しく理解するために、否、正確に言えば、正しく理解しあう(と思いたい)ための精密さということは必ずしも求めていない。第一に、政策対象があって、この場合、大量に生活に困った非正規をどうしようということが解決すべき問題なのである。第二に、そのためには、現在うまくいっている、職人的な技能をもっているデザイナーだとか、メチャクチャスキルの高いソフトウェア技術者だとか、そういう人々は実際にはジョブ型に近いわけだが、断然、捨象して構わないわけである。また、正社員の転職、中途採用は基本的には前職の仕事内容を見るわけだから、メンバーシップ型論で掬えるべくもない。が、それもまた、貧困救済的社会政策の射程に入れる必要もない。

私はこのメモを改めて読み返して、次のような記述を正直に書き込んだ濱口さんを心から尊敬する。

> 職務に応じた処遇を前提とするジョブ型正社員の場合、夫婦共稼ぎで生計費を賄うことを原則としつつ、一定の時期に特に必要となる子どもの教育費や住宅費負担を公的にまかなう仕組みを補完的に整備しておく必要がある。

要するに多くの収入を期待しない。夫婦ともに家計補助的水準覚悟で行くということである。かつて雇用関係には生活保証の規範があったが、それは事実上、私的関係の中では無理だから、その代わり、国が世帯単位で面倒を見る仕組みを作る。そして、家事分担をする、とまでは言ってないけど、「日常の職業生活と家庭生活がバランスした生き方を可能にしていく」というワークライフバランスってのは、そういうことかな。

どうでもいいが、2000年代になって男性による介護も増えてきたわけで、そういう状況を考えると、おそらく今後、男性にとって全く家事をやったことがないというのはなかなかシャレにならないリスクになるだろう。リスクが高いという意味ではなく、低くても実現したときのダメージが大きいという意味で。

> ジョブ型正社員については雇用が終了することを前提に、公的失業給付を中心とする本来の仕組みによることとなる。ただし、雇用調整助成金の場合、単に休業するのではなく社内で教育訓練を受けることが多く、これが職業能力の維持向上に役立っていることに鑑み、公的失業給付と公的職業訓練とのリンクをより密接にしていく必要があろう

そのためにも能開大を潰すなどとんでもない。
書き忘れてるようなので、補足しておきました。
どうも「研究計画」を書こうと思って、あまりまとまらないので、理論科研まわりで考えていることを少し吐き出しておこうと思う。

まず、前エントリで捩れは最近のことではないかと書いたので、もう少し補足しておく。私がここで書いたのは、あくまで左派理論の継承の失敗である。が、おそらく問うべきなのは、それを導いた現実(というのも怪しい言葉だが)の変動の方だろう。中教審について言えば、やはり1970年代は一つの転換点である。矢野眞和は四六答申を「高度成長期に作成された最後の優れた答申である」と書いている(教育社会の設計、63頁)。一つはオイルショックによって高度成長がストップするという経済的な変動も重要だが、やはり森戸という大物の退場が考えられている以上に大きいのではないか。経営史の中では、優秀な経営者が何かを成し遂げた場合、その立場がそれを可能にしたのか、あるいはその人物の個性がそれを可能にしたのか、という議論がなされる。後者である場合、往々にして一般性の高い議論にはならないので、前者が好まれやすい。同じような傾向があるのかないのか分からないが、私は森戸の人物をこの場合、重視する必要があるように考えている。しかも、森戸は世代交代の最後であったのではないだろうか。

四六答申の中で、私が注目しているのは、コースの多様化とコースの転換を容易にし、さまざまなコースからの進学の機会を確保すること、という主張である。説明を聞こう。

高等学校では、生徒の能力・適性・希望などの幅広い多様性に応じて効果的に教育を行うためいろいろな問題をかかえているが、とくに多数の者が履修する普通科では、学習の進行と志望の明確化に応じて多様なコースを選択履修させる方法を検討すべきである。この場合、個人の可能性や志望を固定的なものと考えず、適当な時期にコースを転換する道も開いておかなければならない。また、それらのコースや職業科から進学できる道を確保するため、高等教育のがわでも、それらのコースや学科と接続してより高度の教育を授ける機会を用意するとともに、入学者の選抜方法もそれにふさわしいものに改める必要がある。

なぜ、これが重要かといえば、まず普通教育と職業教育の差別がない。この点で特に注目して欲しいのはここで語られる「個性」が「個性そのものを伸ばす教育」ではない点である。あえて「個性」に焦点を当ててデフォルメすれば、あるコースを実際に受けてみたら、各人の「個性」に応じて、合う合わないが出てくるんだから、合わないと分かったときに、フレキシブルに移動できるようにしようということである。まことに親切な制度である。ちなみに、コース別人事を論じる際、こういう制度設計はおそらくかなり可能性で提案される。近年では公務員改革のところで論じられたことがあったはず(あまり自信なし)。

第二の教育改革の時点で「教育の機会均等」を定めるとき、戦前の学校体系が複線型で、一方の学校に進学すると、それより上級の学校に上がれず、袋小路のような種類の学校があったため、これを是正することが課題となっていた(杉原誠四郎「教育基本法」119)。つまり、こうしたコース間の融通性は教育基本法の考え方の延長線上にある。

どうでもいいが、杉原さんの名前が出たついでだから書いておくと、私は左右の思想的立場という価値判断によって学者の研究のよしあしを評価しない(もちろん、そういう傾向がある研究という判定はする)。杉原先生は悪名高い「つくる会」の副会長だが、外野から見てると、どちらの陣営にも本物と偽者が混在している(ように私には見える)。もとより、私と学問的議論をしようとする人の中に「つくる会」の副会長だからと言って、内容を精査せずに杉原さんの業績を否定する人はいないと思うが、念のために書いておく。ちなみに、杉原さんの研究はあまりに深く広いので、今、勉強中であるが、とりあえずの勘で書いておくと、彼は欧米であればいわゆるカトリック系保守になっただろうと思われるほど、宗教と法の思想も視野に収めている。

話を戻そう。このブログ上でも相当に、私は職業訓練への不当な差別を排除すべきだとも述べてきたし、佐々木先生の議論を引きながら、職業教育は単純な技能習得(あるいは職業的レリバンス)以上に、そのプログラムの特性から人格教育にも正しく寄与していると述べた。この点については田中萬年先生にもここで取り上げていただいた(ありがとうございます、田中先生)。ちなみに、杉原さんの「教育基本法」に資料提供した人物こそありし日の佐々木輝雄その人である。

何れにせよ、職業訓練(ないし教育)への差別は残り、相互交流はうまく行ってない。が、実際には世間の差別よりも、主管省庁が文部省と労働省(現在は文科省と厚労省)に分かれていることこそが、埋められない大きな溝なのではないかという気がしないでもない。

おそらく、四六答申以降、コースの多様化と個性のセットが切り離されて、個性が一人歩きしていく。そこから先、どうしてそうなったのか、というのは森さんが今、取り組まれている課題になるだろう。

そうこうしているうちに「研究計画」もとりあえず書いた。
今年から大原の嘱託研究員になったので、雑誌が送られてきました。知らないうちに、第二労働史部会に木下さんが加わり、めでたく第一労働史部会になったのでしょうか。ちなみに、私はメンバーではありません。目次はこちらを参照ください。多分、数ヶ月のうちにはPDFで読めるようになるでしょう。

小野塚論文はとてもよいんですが、ちょっと驚きました。森(建資)先生の批判(『歴史と経済』46(4))を全面的に受け入れて書いたようにしか私には読めないんですが、一言も書いてありません。「雇用と団結」もまったく引かれていません。謎です。

関口論文は面白い事実発見がいっぱい書いてありますが、あんまり分析がなされておりません。こういう場合、本人にお会いしたときに、いろいろ聞くしかないですね。ちなみに、木下さんの影響から「工場徒弟制」になさったそうですが、個人的にはよせばいいのにと思います。当初の判断どおり、中世ギルド以来のクラフト・ユニオンなどのもとでの徒弟制との違いに重点を置いて使われた「養成工制度」の方がいいです。そのためには、木下論文の検討が必要ですね。

木下さんの論文は、何というか、左派の論文です。先行研究でこういうことに関心を持ってきた人たちがそうであったから仕方ないともいえますが、面白い事実を掴みながら、結論は妙に古臭い。私も博論で教化問題については論じましたが、それは労務管理全般に言えるのであって、養成工という一部を取り上げるのであれば、徹底的に技能形成を論じるのが先だと思います。まぁ、いいや。今度、市原さんから頂いて、ここで取り上げていない論文をご紹介します(ごめんなさい、市原さん)。

清水論文は、私はフランスは全然、勉強していないので、分かりません。ただ、勉強になりました。というか、松田さんの論文も読まなきゃ。

全体的に面白かったけれども、やや食い足りない感は否めないですね。でも、技能形成に興味のある方にはぜひお勧めします。
このエントリは森班長のリプライに対する再リプライです。

1971年中教審答申をどう捉えるかということは、おそらく、一つの岐路でしょう。当初から左派はこれを批判的に見ていたわけですが、森班長のエントリを読むと、私は捩れているのは割と最近のことのような気がします。少なくとも総評系の「民主教育をすすめるための国民連合」は正しく臨教審と四六答申の関係を指摘していたわけです。ということは、1980年代までは正確な理解がなされてきた。90年代前半まで(左派)教育学がそのことを熱心に論じていたということは、わずか10年ちょっとの間で忘れ去られたということでしょうか。しかし、こういうことを踏まえないで議論するというのは、意図してやっているならば、伝統的左派運動への裏切りであり、意図せずにやっているならば、深刻な学力低下と言わざるを得ません。ここにもソ連崩壊以後のマルクス経済学の必要以上の凋落の影響があるんでしょうか。ここ数年、景気が悪かったせいか左派親派的な人も増えている気もするのですが、たとえば乾さんも使っていた賃金論にも黄金ロジックがあるのに、それを使いこなせない。こういうことはいたるところで見られるんじゃないでしょうか。困ったものです。

プリミティブな左派の議論の枠組みは簡単に言えば、戦前天皇制国家と戦後民主主義国家という二元論で、前者は悪、後者は善、自分達はいいもん、ということです。こういう二元論レベルの議論が現実の説明に役に立たないのは今さら言うまでもないんですが、それ自体が現実を作っていることは見逃せません。念のために書いておくと、左派(ないし親派)の優秀な学者は天皇制国家とは何であったかということを理解するために、実証的な研究をするので、天皇制という言葉で何事か説明されたと考えているわけではありません。ちなみに、天皇制という言葉自体がそもそも共産党が造った罵倒語で、それについては谷沢永一先生の考証もありますが、近年では京大の伊藤之雄先生が元の君主制に置き換えて、西洋との比較を視野に入れた堅実な歴史研究を展開されていらっしゃいます。谷沢さんは皇室伝統という言葉を対案として出されましたが、今後の比較史研究の進展を想定すると、学問的には君主制がいいと思います。

気付かれた方もいらっしゃると思いますが、戦前天皇制国家を保守と読み替えると、保守対民主主義になり、それは自民党対左派になるわけです。自民党末期の教育改革時に語られた改革派=自民党=新自由主義、守旧派=自分達=戦後教育改革(民主主義)の実践者という構図は、はっきり言って、自民党・社会党の共犯的55年体制を引きずっているという意味において、自民党同様に耐用年数が切れています。

言うまでもなく、教育基本法をはじめ、戦後の教育行政を作ったのはマルクス主義の左派ではありません。その中心人物の一人は森戸辰男、四六答申のときの中教審会長です。乾さんの本には奇妙なことにまったく森戸先生が出てこない。森戸先生ご自身は、自分は戦前、戦後変わってないけれども、戦前は左といわれ、戦後は右といわれた、というような感想をどこかで残されていたと思います。戦後生まれの左派は別に特別な思いはないでしょうけれども、戦後の転向派(この場合、左派からのではなく、左派への転向です)は、戦前、自分は政府の方針に従っていたにもかかわらず、森戸事件の当事者を批判するのは精神的に苦しいことであったでしょう。もっとも、森戸事件ではあの三宅雪嶺も弁護人になっています。ま、それはどうでもいいですが。

話を戻すと、森戸本人にとっては四六答申は戦後の教育改革の総決算でした。第二の教育改革は占領下であったし、必ずしも十分な時間をかけて行ったとはいえない。そういう部分があったんではないか、と思うのです。そうすると、四六答申は臨調を先取りしたところもあったし、一見、2000年代の教育改革に繋がっていくように見えるけれども、もう一つ別の文脈では、戦後教育改革の真の意味で正統な嫡子であったといえる。その点でもう一つ付け加えておくと、60年代に経済学者の言うことが教育行政に影響力を与え始めたというのは誤りです。なぜなら、森戸こそは経済学者であったからです。ただ、現在の専門化している研究者とは違って、戦前の学者の中には簡単に○○学者とレッテル貼りをしない方がよい人たちがいます。たとえば、高田保馬を社会学者と片付けてよいのか?という問題はあります。森戸さんも同じ。大河内さんもそうですね。というか、戦後の左派だって優秀な学者はマルクスを基盤に持っていたがゆえに、学際的な対話が可能であり、その意味ではホームグラウンドはあっても、おそらく異分野でも一線なんでしょう。乾さんの本が皮肉なことにそのことを証明しているわけです。

大体、どんな論点があるかは分かってきましたが、内容についてはそのうち。てか、論文どころか、一冊の本になりかねない大きさのテーマになってきたような気が・・・。ちなみに、連休中はまとまった時間が取れるので、集中して、別の課題をやります。
さてさて、いろいろと課題を抱えているんですが、こちらも熱いうちに書いておかないと忘れるんで、書いておきましょう。

稲葉さん、ご紹介の乾彰夫『日本の教育と企業社会』大月書店、読みました。出版社から分かるようにゴリゴリの左派ですが、それはまぁ、置いておきましょう。結論から言うと、読んで損したとは思わなかったけれども、読んだからといって取り立てて得をしたわけでもなかったです。私にとって面白かったのは序章、要するに、業界地図がちょっと分かったなあ、ということです。

本文は別に私は読む必要ないでしょう。ただ、乾さんの議論はかなり左派の労働問題研究者の議論を正確に捉えて、ご自分なりに深められています。職務給と職能給の対立、実はその裏に年功賃金(左派の言葉でね)があるんだ、という議論は、門外漢には分かりづらいと思いますが、正確に捉えています。本田さんとは全く違います。その限りにおいて、人に勧めてもいい本だと思います。が、そもそも、左右を問わず、今の私は賃金制度論を人事・労務からだけの視点で語ることに違和感を持っているので、技術革新の中で生産システムがどう変わったか、その背景にはどういう経営手法があったのか、そういう観点がそっくり抜け落ちてる議論はダメだと考えています。ここに出てくる田中慎一郎さんにしても当時としては相当な理論レベルの労務屋さんですが、労務屋さんが考える職務分析の意味と現場が求める職務分析の意味が果たして同じであったかどうか、そのあたりは掘り下げる必要があるでしょうね。まぁ、これは乾さんだけじゃなくて、彼の拠って立つ労働問題研究全般に対しての感想です。が、この段落の話は、はっきり言って瑣末な議論です。乾さんの議論は労働の議論としては相当のレベルにありますが、なんでここでこんなことが論じられているのか、あまり意味があるとは思えない。

この本は中間理論的な本です。一見、私が上で書いたような箇所を読むと、細かい実証的な本のように見えますが、実際には最初のところで作った大枠にそって、個別論点を詳しく書いているだけです。そして、この本は不思議なことに教育の議論が弱い。そこも謎で、じゃあ、なんであんなに労働の部分詳しいの?という感じです。そして、詳しいんだけど、ホワイトカラーの話とブルーカラーの話が実はゴチャゴチャになっている。それは一元的能力主義と多元的能力主義を対立的に捉える図式の論拠がそもそも怪しいんじゃない?と疑わせる十分な根拠になり得ると思います。思いますが、それもさしあたり、私にはどうでもいい。読むべき先行研究をクリア、ということで。そこが大事。経済審議会の答申の検討は不十分だと思います。考えを深めた本というより、よく勉強した本という印象でした。

ちなみに、乾先生は1993年に「法政二中・高生生活調査アンケートの結果にふれて」という論文(?)を書かれているのですが、私、その時期、中学に在学してましたよ!だが、アンケートを書いた記憶はない。そのとき、アンケートを受けていたら、いい落ちになったのに。残念。