2010年06月28日 (月)
てか、書いていいかどうかわからないのだが。
田中萬年先生が木下さんの養成工制度の話を取り上げられている。実は養成工制度は研究史的にいえば、兵藤先生の『日本における労資関係の展開』で直接管理が達成された実証的な唯一の証拠として重視されてきた。だが、一般には、そんなエントリレベルの話だけで、全キャリアにかかわる話を語っちゃっていいの?という突っ込みは誰もが入れたいところであろう。実際、兵藤先生も入口で、後はOJTという位置づけだそうだ(木下さんの話では)。それに対して木下さんはもっと養成工そのものを正面から取り上げるべきだとおっしゃるのだ。しかし、養成工が重要であることは、労働問題を覗いたことがあるものにとってはいわば常識でしょう?と申し上げたのだが、木下さんはだからこそ、もっとそれだけで研究すべきだという立場のようだ。そう言われるとそんな気もする。
が、一応、誤解のないように言っておくと、一般的には日露戦後にすでに養成工制度は大工場では出来ていたのであって、労務者講習会はあくまで後追いである。この点は常識である。もちろん、木下さんご自身もこの点はご存知であって、何も労務者講習会が嚆矢と考えているわけではない。にもかかわらず、この時期の労務者講習会が重要であったという説は一考に値する。特に、地方改良+感化救済事業の流れとの関係は重要だ。この点は田中先生が指摘されたとおり、社会教育である。大正期は不思議な時代で、いわゆるデューイらの新教育運動もこの時期に起こる。この後の時期になると教育の中で思想善導が言われるようになるのだが、1920年の時点ではそんなに深刻ではない。要するに思想善導とは左傾化防止だが、まだそんなに左翼が影響力を持っていなかった。木下さんはもう大河内さんの走り書きに惚れこんでいるのだが、そんなに熟慮を重ねた理論でも何でもないただの思いつきなので、そんなに大仰に付き合う必要はないと私は思う(私と同じ意見の人も別にいるが)。
ちなみに、アメリカにもこうした感化教育の伝統はあるが、その対象は基本的に移民という話だ。だから、アメリカナイゼーションであって、ある企業とかそういう話とは違う(と一般的に言われる)。でも、本質的には同じだろう。日本でも紡績のように全国から人を集めてきたところはそういう観点からの施策が行われていた。アメリカの話に関心のある人は、もちろん、会社荘園制をどうぞ。
どうでもいいが、私は現代日本の教育は大正6年の臨教審から始まると思っている。戦後の教育改革は学制以来の大改革といわれ、第二の教育改革といわれたが、その前の臨教審から重要だろう。ときの文部大臣は岡田良平。この時代は本当によく分からない面白い時代である。
田中萬年先生が木下さんの養成工制度の話を取り上げられている。実は養成工制度は研究史的にいえば、兵藤先生の『日本における労資関係の展開』で直接管理が達成された実証的な唯一の証拠として重視されてきた。だが、一般には、そんなエントリレベルの話だけで、全キャリアにかかわる話を語っちゃっていいの?という突っ込みは誰もが入れたいところであろう。実際、兵藤先生も入口で、後はOJTという位置づけだそうだ(木下さんの話では)。それに対して木下さんはもっと養成工そのものを正面から取り上げるべきだとおっしゃるのだ。しかし、養成工が重要であることは、労働問題を覗いたことがあるものにとってはいわば常識でしょう?と申し上げたのだが、木下さんはだからこそ、もっとそれだけで研究すべきだという立場のようだ。そう言われるとそんな気もする。
が、一応、誤解のないように言っておくと、一般的には日露戦後にすでに養成工制度は大工場では出来ていたのであって、労務者講習会はあくまで後追いである。この点は常識である。もちろん、木下さんご自身もこの点はご存知であって、何も労務者講習会が嚆矢と考えているわけではない。にもかかわらず、この時期の労務者講習会が重要であったという説は一考に値する。特に、地方改良+感化救済事業の流れとの関係は重要だ。この点は田中先生が指摘されたとおり、社会教育である。大正期は不思議な時代で、いわゆるデューイらの新教育運動もこの時期に起こる。この後の時期になると教育の中で思想善導が言われるようになるのだが、1920年の時点ではそんなに深刻ではない。要するに思想善導とは左傾化防止だが、まだそんなに左翼が影響力を持っていなかった。木下さんはもう大河内さんの走り書きに惚れこんでいるのだが、そんなに熟慮を重ねた理論でも何でもないただの思いつきなので、そんなに大仰に付き合う必要はないと私は思う(私と同じ意見の人も別にいるが)。
ちなみに、アメリカにもこうした感化教育の伝統はあるが、その対象は基本的に移民という話だ。だから、アメリカナイゼーションであって、ある企業とかそういう話とは違う(と一般的に言われる)。でも、本質的には同じだろう。日本でも紡績のように全国から人を集めてきたところはそういう観点からの施策が行われていた。アメリカの話に関心のある人は、もちろん、会社荘園制をどうぞ。
どうでもいいが、私は現代日本の教育は大正6年の臨教審から始まると思っている。戦後の教育改革は学制以来の大改革といわれ、第二の教育改革といわれたが、その前の臨教審から重要だろう。ときの文部大臣は岡田良平。この時代は本当によく分からない面白い時代である。
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2010年06月22日 (火)
レジュメを研究所においてきて、怪しい記憶で書くしかないんですが、次に研究所に取りに行く日ではもう絶対に忘れてるので、とりあえず書いておきます。というか、これ、完全に私の備忘録です。本当は全部、実名にして、非公開にしようかとも思ったんですが、それも面倒で、感じが悪いので、こんなところになりました。
初日は20分くらい遅れましたが、谷本報告の途中から間に合いました。谷本先生の報告も榎さんの報告も基本的には主婦を作るって言われるけど、女の人は昔から働いてるよねっていうのがメッセージで、そこからフロアとのやりとりで、家事時間、余暇時間、労働時間の絡みなんかで議論してました。森先生、小野塚先生あたりの論点。このほかに大沢先生や二村先生が発言され、さすがにジェンダー部会と労働史部会の共催だけあって、有意義であったと思いました。ただ、個人的にはみんな知っている人なので、きわめて既視感が強いのは否めなかったです。榎さんの労働市場の話は随分、丸めてあって、修士のころの私だったら三瓶孝子、千本暁子といった当該分野でよい研究をやりながら婦人研究と関わった瞬間に水準を落として語りだした姿とダブって見えたと思いますが、異分野の人に理解してもらうということはそういうことかもしれないと思えたのはきっと私も成長したのでしょう(笑)。ただ、全国的市場という概念は極めて誤解を招きやすい概念ではないかという気がしないでもないですが。議論した方がよかったのかな。
お昼は熊沢さんと岡田さんとご一緒しました。久しぶりにお話できてよかったです。この一日の展開を書くと面白いけど、怒られそうな気がするので、我慢します。飲み会である人から、周りの人のこと書いたら危ないよね、という話をしていましたし。
午後からは共通論題。井深ホールは立派でした。あんな広いホールの真中から質問できたのはよい思い出です。ただ、現代女性キャリア研究所というのを言い忘れました。失敗。
そして、今年は石原ゼミ等で一緒だった桝田君が学会奨励賞を取りました!おめでとう!とても、嬉しいです。
夜の懇親会では谷川さんから声をかけていただいて少しお話しました。ありがとうございます。数日前に私が彼女の論文を取り上げたのが縁だったようです。全然、面識もなかったんですが、修士は小樽商大の金さん(というのは金さんご本人から伺いました)、その後上原さんについていたそうで、ああなるほど手堅い実証をするわけだと深く納得した次第でした。もう少し時間ができたら、改めて丁寧に読んでみようかなと思っています。そのときはまた、読んでください。そうして、諸先輩方と二次会へ。私の場合、これが楽しみで学会に行ってるんですね。今年は秋に合同合宿に呼んでもらえることになりました。それもまた楽しみです。
二日目。上原さんと地下鉄でばったり、お会いして、久しぶりにお話ししました。上原さんはまだ鹿児島にいらしたころ、内地留学で東大にいらっしゃっていて、その最後の時期に私も研究会等でご一緒させていただきました。そういえば、あの頃は産業労働部会ももう少し活発で、そんなに予行演習するのかというくらい練り上げてやっていました。白井先生が幹事だった最後の頃で、二回くらい青山の近くで飲んだ気もします。最近は私も部会の予備研究会にはどれもすっかりご無沙汰しております。
午前中は五石さんと岩田先生グループの貧困研究の話を聞きに行ってきました。初日、私が質問したのは地域主体でやるときに生存権保証はどうするんだということだったんですが、そのとき、栃本先生から国家がなくなるわけではない、国家が最低水準は保証するという回答をいただきました。じゃ、その水準はどう決めるんだという話が重要なんですが、そこはまさにこの二つの発表のような地道な研究の独壇場、これこそが大げさにいえば社会政策学会の底力なんだと思っています。それにしてもいつもは怖い先生方もみんな岩田ファンなんだと納得しました(笑)。この数か月身近で接する機会が多かったわけですが、岩田先生はお弁当を食べてる時も会議も学会報告も、どなたに対しても同じで自然でした。
午後は上原さんが座長の職業訓練の部会。面白かったです。素直に事例が勉強になりました。ちょっとレジュメを見ないと内容を書けないですね。ただ、上原さんがかなり上手に質問と時間をコントロールして、全体として統一(する一歩手前)まで行ったと思います。あと1時間くらい議論したら、もっと面白かったでしょう。ただ、大会の時間制約と人数の多さからすると、考えられる最高の状態だったんじゃないでしょうか。あと一回くらい別の視点から企画して煮詰めたら、その次はよい形で共通論題に出来るような気もしました。ここに書いたら全然密かではないけれども、ちょっと理論科研の方の動きと絡められないか、考えてみたいです。
裏番組の木下さんは聞きに行けなかったのですが、そのあと1時間ほど話しました。お昼も食べてないとおっしゃってたのにずいぶん、付き合わせてしまって申し訳なかったです。ただ、最近、考えてることをお互いに話し合ったりしました。もちろん、中心に見てる歴史的事実群は違うので、多少の違いはあるんですが、大きい流れについてはわりと一致することが多いんです。
木下さんが帰った後、名古屋の方とお互い待ち時間だったので雑談しました(初対面だったので、名前を出していいか分からないので、あげません)。その雑談の中で学会に女性が多くなりましたねと言われました。日ごろ、私は守衛さん以外の男性と話さないことの方が多いので、あんまり感じませんでしたが、学会の雰囲気は変わってきたかもしれません。知り合いも多くなり、学会で見かける顔もだいぶ、覚えました。そして、誰も私を知らないだろうというのもそろそろ通じなくなってるかもしれません。それは嫌だな。というか、私が認識している人以上に私を認識している人が多いような気がして、下っ端のくせにそれは失礼だなと感じるところがなきにしもあらずです。
初日は20分くらい遅れましたが、谷本報告の途中から間に合いました。谷本先生の報告も榎さんの報告も基本的には主婦を作るって言われるけど、女の人は昔から働いてるよねっていうのがメッセージで、そこからフロアとのやりとりで、家事時間、余暇時間、労働時間の絡みなんかで議論してました。森先生、小野塚先生あたりの論点。このほかに大沢先生や二村先生が発言され、さすがにジェンダー部会と労働史部会の共催だけあって、有意義であったと思いました。ただ、個人的にはみんな知っている人なので、きわめて既視感が強いのは否めなかったです。榎さんの労働市場の話は随分、丸めてあって、修士のころの私だったら三瓶孝子、千本暁子といった当該分野でよい研究をやりながら婦人研究と関わった瞬間に水準を落として語りだした姿とダブって見えたと思いますが、異分野の人に理解してもらうということはそういうことかもしれないと思えたのはきっと私も成長したのでしょう(笑)。ただ、全国的市場という概念は極めて誤解を招きやすい概念ではないかという気がしないでもないですが。議論した方がよかったのかな。
お昼は熊沢さんと岡田さんとご一緒しました。久しぶりにお話できてよかったです。この一日の展開を書くと面白いけど、怒られそうな気がするので、我慢します。飲み会である人から、周りの人のこと書いたら危ないよね、という話をしていましたし。
午後からは共通論題。井深ホールは立派でした。あんな広いホールの真中から質問できたのはよい思い出です。ただ、現代女性キャリア研究所というのを言い忘れました。失敗。
そして、今年は石原ゼミ等で一緒だった桝田君が学会奨励賞を取りました!おめでとう!とても、嬉しいです。
夜の懇親会では谷川さんから声をかけていただいて少しお話しました。ありがとうございます。数日前に私が彼女の論文を取り上げたのが縁だったようです。全然、面識もなかったんですが、修士は小樽商大の金さん(というのは金さんご本人から伺いました)、その後上原さんについていたそうで、ああなるほど手堅い実証をするわけだと深く納得した次第でした。もう少し時間ができたら、改めて丁寧に読んでみようかなと思っています。そのときはまた、読んでください。そうして、諸先輩方と二次会へ。私の場合、これが楽しみで学会に行ってるんですね。今年は秋に合同合宿に呼んでもらえることになりました。それもまた楽しみです。
二日目。上原さんと地下鉄でばったり、お会いして、久しぶりにお話ししました。上原さんはまだ鹿児島にいらしたころ、内地留学で東大にいらっしゃっていて、その最後の時期に私も研究会等でご一緒させていただきました。そういえば、あの頃は産業労働部会ももう少し活発で、そんなに予行演習するのかというくらい練り上げてやっていました。白井先生が幹事だった最後の頃で、二回くらい青山の近くで飲んだ気もします。最近は私も部会の予備研究会にはどれもすっかりご無沙汰しております。
午前中は五石さんと岩田先生グループの貧困研究の話を聞きに行ってきました。初日、私が質問したのは地域主体でやるときに生存権保証はどうするんだということだったんですが、そのとき、栃本先生から国家がなくなるわけではない、国家が最低水準は保証するという回答をいただきました。じゃ、その水準はどう決めるんだという話が重要なんですが、そこはまさにこの二つの発表のような地道な研究の独壇場、これこそが大げさにいえば社会政策学会の底力なんだと思っています。それにしてもいつもは怖い先生方もみんな岩田ファンなんだと納得しました(笑)。この数か月身近で接する機会が多かったわけですが、岩田先生はお弁当を食べてる時も会議も学会報告も、どなたに対しても同じで自然でした。
午後は上原さんが座長の職業訓練の部会。面白かったです。素直に事例が勉強になりました。ちょっとレジュメを見ないと内容を書けないですね。ただ、上原さんがかなり上手に質問と時間をコントロールして、全体として統一(する一歩手前)まで行ったと思います。あと1時間くらい議論したら、もっと面白かったでしょう。ただ、大会の時間制約と人数の多さからすると、考えられる最高の状態だったんじゃないでしょうか。あと一回くらい別の視点から企画して煮詰めたら、その次はよい形で共通論題に出来るような気もしました。ここに書いたら全然密かではないけれども、ちょっと理論科研の方の動きと絡められないか、考えてみたいです。
裏番組の木下さんは聞きに行けなかったのですが、そのあと1時間ほど話しました。お昼も食べてないとおっしゃってたのにずいぶん、付き合わせてしまって申し訳なかったです。ただ、最近、考えてることをお互いに話し合ったりしました。もちろん、中心に見てる歴史的事実群は違うので、多少の違いはあるんですが、大きい流れについてはわりと一致することが多いんです。
木下さんが帰った後、名古屋の方とお互い待ち時間だったので雑談しました(初対面だったので、名前を出していいか分からないので、あげません)。その雑談の中で学会に女性が多くなりましたねと言われました。日ごろ、私は守衛さん以外の男性と話さないことの方が多いので、あんまり感じませんでしたが、学会の雰囲気は変わってきたかもしれません。知り合いも多くなり、学会で見かける顔もだいぶ、覚えました。そして、誰も私を知らないだろうというのもそろそろ通じなくなってるかもしれません。それは嫌だな。というか、私が認識している人以上に私を認識している人が多いような気がして、下っ端のくせにそれは失礼だなと感じるところがなきにしもあらずです。
2010年06月18日 (金)
明日は待ちに待った社会政策学会。
といいつつ、法政の市谷図書館によって、清水義弘関係の本を更新してこなきゃならない。そして、そのままだと重いので、研究所に立ち寄って本を置いてそのまま早稲田へ。ということは、どう考えても、会場に着くのは10時を回るわけで、結論だけ言うと、榎さん、谷本先生、ごめんなさい。それにしても何もオランダ戦の日に学会をぶつける必要ないよな。二次会ではサッカーの見られる会場へ移動することを希望したいと考えております。
一度もお会いしたことない方でも、気軽に声掛けてくださいね。懇親会も出るつもりです。ただ、以前に書いたブログの内容は本人は忘れている可能性もあるので・・・、そこはひとつよろしくお願いします。
といいつつ、法政の市谷図書館によって、清水義弘関係の本を更新してこなきゃならない。そして、そのままだと重いので、研究所に立ち寄って本を置いてそのまま早稲田へ。ということは、どう考えても、会場に着くのは10時を回るわけで、結論だけ言うと、榎さん、谷本先生、ごめんなさい。それにしても何もオランダ戦の日に学会をぶつける必要ないよな。二次会ではサッカーの見られる会場へ移動することを希望したいと考えております。
一度もお会いしたことない方でも、気軽に声掛けてくださいね。懇親会も出るつもりです。ただ、以前に書いたブログの内容は本人は忘れている可能性もあるので・・・、そこはひとつよろしくお願いします。
2010年06月18日 (金)
雑誌『社会政策』の最新号が数日前に送られてきた。その最後の論文がタイトルの谷川論文だが、これがとても刺激的であった。人によっては看護現場の労務管理の実態をベタに描いているだけだと言うだろうし、実際、そういう面があるのも事実だが、これだけ丁寧に調べてあると、とても面白い。そのことを前提に少し、問題提起というか、論点を出してみたい。
まず、看護職というのはそれ自体が資格である。そういう外部資格が決定的に重要である点で普通の企業の労働と異なっている。具体的にどう違うかといえば、看護師(看護婦)は女性の職業としては圧倒的に復帰しやすいだろうと思われる。つまり、外部資格と内部資格(職能資格)の関係である。
もちろん、外部資格がある、古い言葉でいえば、横断的労働市場が成立している専門職(ないしクラフト)であっても、内部昇進が重要であるという指摘は猪木先生他にもありそうだ。しかし、ここは一応、外形的には違うので、その異同を次は突っ込んで論じてもらえると嬉しい。具体的には、看護職資格そのものはエントリレベルの話で、それぞれ独立に作られた職能資格がさらに上の相場を形成するのか否か、言い換えれば、互いに参照されることで、事実上の(名称は何でもいいが、仮につければ)中級看護職、上級看護職のようなものが、現場レベルから生まれるのかどうか、もしその可能性があるとすれば、最初の看護職資格の存在がその形成過程にどう影響するのか等である。ただ、これは実際、起こっていなければ、完全にスペキュレーションの世界で、実証論文にはなじまない。
もっと言うと、もともと日本の看護職は現場レベルでの訓練から、試験を受けて正看護婦になるという歴史があった、たぶん。戦前だけどね。厳密には助産婦との関係もあるわけだけど。今は学校制度がカッチリしているから、そういうルートはなくなっていると思うけど、それが制度的によいことかどうかわからない。学校制度がダメというのではなく、それで供給が追い付かないじゃんという意味においてである。まぁ、このあたりは私も勉強不足で極めて怪しい話だが、現代女性キャリア研究所にいると、看護職はとても気になる職業なのでありました。
まず、看護職というのはそれ自体が資格である。そういう外部資格が決定的に重要である点で普通の企業の労働と異なっている。具体的にどう違うかといえば、看護師(看護婦)は女性の職業としては圧倒的に復帰しやすいだろうと思われる。つまり、外部資格と内部資格(職能資格)の関係である。
もちろん、外部資格がある、古い言葉でいえば、横断的労働市場が成立している専門職(ないしクラフト)であっても、内部昇進が重要であるという指摘は猪木先生他にもありそうだ。しかし、ここは一応、外形的には違うので、その異同を次は突っ込んで論じてもらえると嬉しい。具体的には、看護職資格そのものはエントリレベルの話で、それぞれ独立に作られた職能資格がさらに上の相場を形成するのか否か、言い換えれば、互いに参照されることで、事実上の(名称は何でもいいが、仮につければ)中級看護職、上級看護職のようなものが、現場レベルから生まれるのかどうか、もしその可能性があるとすれば、最初の看護職資格の存在がその形成過程にどう影響するのか等である。ただ、これは実際、起こっていなければ、完全にスペキュレーションの世界で、実証論文にはなじまない。
もっと言うと、もともと日本の看護職は現場レベルでの訓練から、試験を受けて正看護婦になるという歴史があった、たぶん。戦前だけどね。厳密には助産婦との関係もあるわけだけど。今は学校制度がカッチリしているから、そういうルートはなくなっていると思うけど、それが制度的によいことかどうかわからない。学校制度がダメというのではなく、それで供給が追い付かないじゃんという意味においてである。まぁ、このあたりは私も勉強不足で極めて怪しい話だが、現代女性キャリア研究所にいると、看護職はとても気になる職業なのでありました。
2010年06月08日 (火)
歴史班の次回課題は清水義弘を読むということらしい。それで少しずつ読み始めている。とりあえずの論点としては、二宮さんがあげている、政策科学としての教育社会学の位置づけ、とりわけ実践的性格をどう理解するか、という点にあるだろう。だが、清水の書いたものに即して言うと、この問題の立て方はいささかミスリーディングになりかねないという印象を持っている。
根本的に理解する必要があるのは、清水義弘は教育社会学者としてスタートしたわけではなく、社会学から教育社会学に入ってきたということである。その含意は「教育」関連学問の外からの目を少なくともキャリアのスタートではかなり持っていたことにある。清水が克服したかったことは教育の神秘化である。ここに二つの立場があってややこしくなる。第一に教育の場合、実践=現場で教えるという考え方があって、それはそれで重要なんだけれども、経験がすべてだという話になると、学問の入る余地がない。そこで客観的にアプローチする方法があり得るんだというのが清水の立場である。教育の神秘化は現代でもいたるところで行われていると思うが、さりとてそれが主流ということはなく、清水のような立場の方が一般的と言えるだろう。第二に、にもかかわらず、清水は傍観者的な立場からではなく、実践を重視する。具体的には政策への介入である。
二宮さんはここに非常に反撥していらっしゃるわけだが、私としては清水の立場はきわめて良心的だと思っている。そのことを説明するには清水の教育計画論をしっかりと押さえる必要がある。が、私の見るところ、そのために必要な文献はUP選書や編著の『教育計画』ではなく『二十年後の教育と経済』とりわけⅠではないかと思う。ちなみに、UP選書は1960年代中ごろの創刊であって『現代日本の教育』はもともと公刊されていたものを後からラインナップの一つに加えたものであった。そして、この本にはこれが『二十年後の教育と経済』の続きであることがはっきり書かれている。というわけで、二宮さんの文献の選び方も私には謎である。ちなみに、私は大河内・清水編『教育改革の課題』をあげ、これがマスト文献になっているのだが、これは清水論文のみを読むためではなく、清水以外の中で清水を考えたかったから、丸々一冊をあげたのである。清水を読むということであれば、当然、考え方も変わってくる。政策科学論争及び教育計画を考えるのであれば、当然、1950年代後半から1960年代前半がまずは重要と考えるべきではないだろうか。ただし、これは意見の相違であって、まことの問題はサイレント・マジョリティである。
私は経済計画との関連から清水は教育計画ということを言っているのかと思い、実際、そう読み取れるところもあるのだが、もっとも根本のところはそうではないらしい。清水の大きい現実的な問題関心は時代認識と表裏一体である。すなわち、戦後の教育改革でいっきに学校教育の規模が拡大し、そのために質の低下を余儀なくされた。しかし、それは教育の機会均等という教育基本法の理念からすれば、問題はあるにしても、高く評価されるべき現象である。ただし、問題点は何かというと、まず量の拡大(数)に重点が置かれたため、質の問題が後回しになってしまったことである。質の問題には今後どういう風にすべきかというビジョンが必要だが、それが欠けていた。産業に従属せずに教育が独立の立場を保つためには、むしろ積極的に教育のビジョンを打ち出すべきである。まことにもっともだという他ない。
では、具体的な考えのポイントはどこかといえば、教育の機会均等である。ただし、清水のいう教育の機会均等は教育基本法の正しい理解であり、すなわち、学校教育だけに限定されたものではない。むしろ、清水は職業教育や企業における教育の意義を重視している。生涯学習という言葉は1960年前後にはまだキーワードとしては使われていないが、アイディアとしては相当に重視されている。しかし、それは今述べた立場からすれば、当然の論理的帰結であろう。これから高等教育の議論も読む必要があるが、この視点はおそらくバックボーンになっている。
だが、そうした反面、1960年代の教育社会学には創業期の不幸な状況があった。たとえば、社会学で自立してやっていけないような落ちこぼれがやってきて、教育社会学と何の関係もない研究をやるという話だ。このあたりの私の認識は「『教育社会学研究』に見る教育社会学史」に尽きる。そうした中で、あえて挑発的にいえば不幸にもかつて清水が批判した学校教育のみを中心に据えることで、教育社会学は他領域から参照されるほどの水準に洗練されてきたといえるのかもしれない。少なくとも、労働分野で参照されてきた天野郁夫、竹内洋、広田照幸らの研究成果に期待されたことはまさに学校をどう理解するかという問題関心への答えであったと思う。ちなみに、竹内以前にも労働分野に踏み入れた研究者もいる。たとえば、麻生誠のホワイトカラー研究がそうである。ただし、ホワイトカラー研究は労働の分野でも90年代に入ってから本格的に始まったので、麻生の研究は圧倒的少数のものにしか言及されなかった。しかし、だからこその理論科研と言えるのかもしれない。
清水の書いたものの中で面白かったのは教員研修がもともと占領軍によってもたらされたという話である。もしそうであるならば、1950年代に通産省、労働省を中心に監督者(再)訓練が喧伝された話と同じ文脈で捉えることができる(少なくとも清水自身はそのことを分かって書いている)。私は46答申の関係でもともと高等教育から出た教員研修がいまや中等教育・初等教育に拡がっていると思っっていたのだが、別の文脈で考え直す必要があるかもしれない。
あ、もう一つ、書いておきたいのは、清水義弘の学校教育中心主義批判は批判のための論理ではない、と私は感じたことである。当時の言葉でいう勤労青年に対して正当な社会的評価、そして、適切な教育(学習)機会を与えるという問題関心がはっきり彼の言説を支えている。
というわけで、続く。たぶん。
根本的に理解する必要があるのは、清水義弘は教育社会学者としてスタートしたわけではなく、社会学から教育社会学に入ってきたということである。その含意は「教育」関連学問の外からの目を少なくともキャリアのスタートではかなり持っていたことにある。清水が克服したかったことは教育の神秘化である。ここに二つの立場があってややこしくなる。第一に教育の場合、実践=現場で教えるという考え方があって、それはそれで重要なんだけれども、経験がすべてだという話になると、学問の入る余地がない。そこで客観的にアプローチする方法があり得るんだというのが清水の立場である。教育の神秘化は現代でもいたるところで行われていると思うが、さりとてそれが主流ということはなく、清水のような立場の方が一般的と言えるだろう。第二に、にもかかわらず、清水は傍観者的な立場からではなく、実践を重視する。具体的には政策への介入である。
二宮さんはここに非常に反撥していらっしゃるわけだが、私としては清水の立場はきわめて良心的だと思っている。そのことを説明するには清水の教育計画論をしっかりと押さえる必要がある。が、私の見るところ、そのために必要な文献はUP選書や編著の『教育計画』ではなく『二十年後の教育と経済』とりわけⅠではないかと思う。ちなみに、UP選書は1960年代中ごろの創刊であって『現代日本の教育』はもともと公刊されていたものを後からラインナップの一つに加えたものであった。そして、この本にはこれが『二十年後の教育と経済』の続きであることがはっきり書かれている。というわけで、二宮さんの文献の選び方も私には謎である。ちなみに、私は大河内・清水編『教育改革の課題』をあげ、これがマスト文献になっているのだが、これは清水論文のみを読むためではなく、清水以外の中で清水を考えたかったから、丸々一冊をあげたのである。清水を読むということであれば、当然、考え方も変わってくる。政策科学論争及び教育計画を考えるのであれば、当然、1950年代後半から1960年代前半がまずは重要と考えるべきではないだろうか。ただし、これは意見の相違であって、まことの問題はサイレント・マジョリティである。
私は経済計画との関連から清水は教育計画ということを言っているのかと思い、実際、そう読み取れるところもあるのだが、もっとも根本のところはそうではないらしい。清水の大きい現実的な問題関心は時代認識と表裏一体である。すなわち、戦後の教育改革でいっきに学校教育の規模が拡大し、そのために質の低下を余儀なくされた。しかし、それは教育の機会均等という教育基本法の理念からすれば、問題はあるにしても、高く評価されるべき現象である。ただし、問題点は何かというと、まず量の拡大(数)に重点が置かれたため、質の問題が後回しになってしまったことである。質の問題には今後どういう風にすべきかというビジョンが必要だが、それが欠けていた。産業に従属せずに教育が独立の立場を保つためには、むしろ積極的に教育のビジョンを打ち出すべきである。まことにもっともだという他ない。
では、具体的な考えのポイントはどこかといえば、教育の機会均等である。ただし、清水のいう教育の機会均等は教育基本法の正しい理解であり、すなわち、学校教育だけに限定されたものではない。むしろ、清水は職業教育や企業における教育の意義を重視している。生涯学習という言葉は1960年前後にはまだキーワードとしては使われていないが、アイディアとしては相当に重視されている。しかし、それは今述べた立場からすれば、当然の論理的帰結であろう。これから高等教育の議論も読む必要があるが、この視点はおそらくバックボーンになっている。
だが、そうした反面、1960年代の教育社会学には創業期の不幸な状況があった。たとえば、社会学で自立してやっていけないような落ちこぼれがやってきて、教育社会学と何の関係もない研究をやるという話だ。このあたりの私の認識は「『教育社会学研究』に見る教育社会学史」に尽きる。そうした中で、あえて挑発的にいえば不幸にもかつて清水が批判した学校教育のみを中心に据えることで、教育社会学は他領域から参照されるほどの水準に洗練されてきたといえるのかもしれない。少なくとも、労働分野で参照されてきた天野郁夫、竹内洋、広田照幸らの研究成果に期待されたことはまさに学校をどう理解するかという問題関心への答えであったと思う。ちなみに、竹内以前にも労働分野に踏み入れた研究者もいる。たとえば、麻生誠のホワイトカラー研究がそうである。ただし、ホワイトカラー研究は労働の分野でも90年代に入ってから本格的に始まったので、麻生の研究は圧倒的少数のものにしか言及されなかった。しかし、だからこその理論科研と言えるのかもしれない。
清水の書いたものの中で面白かったのは教員研修がもともと占領軍によってもたらされたという話である。もしそうであるならば、1950年代に通産省、労働省を中心に監督者(再)訓練が喧伝された話と同じ文脈で捉えることができる(少なくとも清水自身はそのことを分かって書いている)。私は46答申の関係でもともと高等教育から出た教員研修がいまや中等教育・初等教育に拡がっていると思っっていたのだが、別の文脈で考え直す必要があるかもしれない。
あ、もう一つ、書いておきたいのは、清水義弘の学校教育中心主義批判は批判のための論理ではない、と私は感じたことである。当時の言葉でいう勤労青年に対して正当な社会的評価、そして、適切な教育(学習)機会を与えるという問題関心がはっきり彼の言説を支えている。
というわけで、続く。たぶん。
2010年06月06日 (日)
前エントリで世論一般を捉えるというようなことを書いて、それは難しいんじゃないかという話があったので、そのことについて書きたいと思います。私が書いたこの場合の世論一般はあくまで政策を動かす世論であって、世間の人が本当にどう感じていたのかということはあまり重要だと思っていません。念のために言っておきますが、歴史研究として扱うに際してはという意味ですよ。
日本語と教育は10年に一回くらいはブームがきます。みんな関心があるから、いつも危機にさらされている(笑)。それは冗談だとしても、教育関係は労働やら他の分野に比べて、もともと発言する人が多い。とにかく、教育改革のなんとか会議に出席するとみんな本にする。そして、その本をきっかけにして、雑誌(オピニオン誌)で特集が組まれたり、昔だったらムックになったり、今だったら中公ラクレになったり(笑)します。とりわけ、対談なんかだとそんなに複雑なことはいえませんので、どうしても話を単純化せざるを得ない。そういうものは捉えられるんじゃないかと思います。具体的な数値だったら、出版点数なんかでね。
学術論文にどれだけ反映させることが出来るか分からないけれども、いわゆる通俗本にチラッと書いてある、その当時の人の実感は定量化は出来なくても、大事にした方がいいと思います。前に藤澤さんの『ごまかし勉強』を取り上げましたが、あの本には半分くらいそういう意味もあるんです。特に、参考書の論証とかね。もちろん、限界はあるし、ご本人だってそれを意識しているけれども、というより、ゆえにあれは一つのよいお手本だと思っています。今は浅はかにも歴史研究では一次史料を使うことが一つの研究水準を作っているところがありますが、真っ当な研究者はそれ以外にも大切なことがあることをよくよく承知しています。そうすると、浅はかな人たちはいきなり一次史料を読んで、論文をいきなり書くという暴挙に出ます。一次史料が圧倒的なリアリティを持っていることは私も経験上よく知っていますが、二次史料も大量に読むと、それなりのリアリティを感じることが出来るんです。そして、その質は必ずしも一次史料とは同じではないかもしれない。一次史料は日本の場合、分野にもよりますが、探すのが大変。ただ、いったん、見つかったら可能な限り二次史料を網羅するというのは手間なので、いきなり一次史料だけとなりがちなんですよね。自戒をこめて言うと、その場合、判断基準は論文の核になる史料があれば、まいいかということになっちゃう。恐ろしいことです。
それにしても、歴史の論証なんて完璧には出来ないかもしれないけど、いろいろ手はあると思いますよ。というか、社会科学系の論証は完全なんてことはあり得ないんです。ぶっちゃけて言えば程度問題なんですね。そこを割り切れないような頭の固い思想系というより、思想好きな人たちは泥臭い研究を全否定し、ナイーブな歴史研究者や現状の調査研究者はそれでコンプレックスを感じたりするわけです。それを解決する方法はただ一つ。TAKE IT EASY!
でも、本当に歴史研究に方法論があるとすれば、資料を介した考証の仕方に、どういう問題点があるか、あるいはどう改善すればより史実復元及びその理論的&考証方法の解釈にリアリティを持たせることが出来るのか、という議論ではないかと思います。ちなみに、歴史ではなく調査だと、対象の相手が匿名性を要求してきた場合、具体性を薄めつつ、リアリティを失くさない、そういう別の工夫が必要になってくるようです。
日本語と教育は10年に一回くらいはブームがきます。みんな関心があるから、いつも危機にさらされている(笑)。それは冗談だとしても、教育関係は労働やら他の分野に比べて、もともと発言する人が多い。とにかく、教育改革のなんとか会議に出席するとみんな本にする。そして、その本をきっかけにして、雑誌(オピニオン誌)で特集が組まれたり、昔だったらムックになったり、今だったら中公ラクレになったり(笑)します。とりわけ、対談なんかだとそんなに複雑なことはいえませんので、どうしても話を単純化せざるを得ない。そういうものは捉えられるんじゃないかと思います。具体的な数値だったら、出版点数なんかでね。
学術論文にどれだけ反映させることが出来るか分からないけれども、いわゆる通俗本にチラッと書いてある、その当時の人の実感は定量化は出来なくても、大事にした方がいいと思います。前に藤澤さんの『ごまかし勉強』を取り上げましたが、あの本には半分くらいそういう意味もあるんです。特に、参考書の論証とかね。もちろん、限界はあるし、ご本人だってそれを意識しているけれども、というより、ゆえにあれは一つのよいお手本だと思っています。今は浅はかにも歴史研究では一次史料を使うことが一つの研究水準を作っているところがありますが、真っ当な研究者はそれ以外にも大切なことがあることをよくよく承知しています。そうすると、浅はかな人たちはいきなり一次史料を読んで、論文をいきなり書くという暴挙に出ます。一次史料が圧倒的なリアリティを持っていることは私も経験上よく知っていますが、二次史料も大量に読むと、それなりのリアリティを感じることが出来るんです。そして、その質は必ずしも一次史料とは同じではないかもしれない。一次史料は日本の場合、分野にもよりますが、探すのが大変。ただ、いったん、見つかったら可能な限り二次史料を網羅するというのは手間なので、いきなり一次史料だけとなりがちなんですよね。自戒をこめて言うと、その場合、判断基準は論文の核になる史料があれば、まいいかということになっちゃう。恐ろしいことです。
それにしても、歴史の論証なんて完璧には出来ないかもしれないけど、いろいろ手はあると思いますよ。というか、社会科学系の論証は完全なんてことはあり得ないんです。ぶっちゃけて言えば程度問題なんですね。そこを割り切れないような
でも、本当に歴史研究に方法論があるとすれば、資料を介した考証の仕方に、どういう問題点があるか、あるいはどう改善すればより史実復元及びその理論的&考証方法の解釈にリアリティを持たせることが出来るのか、という議論ではないかと思います。ちなみに、歴史ではなく調査だと、対象の相手が匿名性を要求してきた場合、具体性を薄めつつ、リアリティを失くさない、そういう別の工夫が必要になってくるようです。
2010年06月03日 (木)
と書いても、何を記録していいか分からず。飲み会は面白かったが、研究会はあんまり面白くなかったような気がする。気がするというのは、4割くらいしか聞いていなかったからだ。というわけで、これは完全に私の備忘録&感想記であって、研究会の記録にはならない。午前中の現代社会班の議論はわざわざ教育プロパーのところで聞きたい話でもなかったので適当にスルーして、午後のために温存していた。
午後から広田・武石論文を読んで討論なのだが、議論が余りにもつまらなかったので、途中寝てしまった。というわけで、森さんと違い一日の半分くらいは寝ていたので、体力的には大丈夫。ただ、自分で発言するところだけは発言したので、一応の任は果たした(というのは勝手な理屈だが)。なお、広田論文というのはこれのこと。
広田先生の分析視角は労働の人間からすると、常識に属する話だ。実際の政策決定過程に寄与したプレイヤーとその背後にある彼らが持つイデオロギーについてうまく絵を描こうという話である。この論文については森さんのまとめが面白いインプリケーションを持っていて、こういう研究が出ることで運動や実践が政策として実現していかないのは決してその理念が間違っていたからではなく、別のロジックが働いていると理解でき、自分達は間違っていたと卑下せずに自信を持てる、ということらしい。自分を卑下せず自信を持つのは結構なことだが、ヤレヤレという気分がないでもない。
私はこの論文を読んだとき、政策を実現させるために誰のところをノックすればいいのか、分かりやすくするための見取り図なのかと思ったので、そう聞いてみたところ、そういうことではないらしい。後半になって、真面目に研究者モードで確認したのは、イデオロギーというのにもいくらかの層があって、現実は非常に下らないレベルで動いていく、たとえば、学力低下論争はどうなるのか、という疑問を出した。広田先生は学力低下論争自体は政策にインパクトを与えていない所以を具体的に説明してくださったが、私の方からも一応、そこから方法として、学力低下論争もいろんなレベルで受け取られ、現実は往々にして単純な二項対立くらいで理解されるのが大勢で、その大勢が世論を動かし、あるいは、その世論を利用して別の政策を通す道具として使うということが考えられる、ということを申し上げた。世間一般で華々しく議論されていることと、舞台裏で進んでいる事態の関係を捉えるのは、門外漢ないし一般の読者をターゲットにするときには必要だろう。ただ、広田先生は全体的に具体的なレベルで議論して欲しいという希望を持っていたそうである。が、それは無理だろう。知っている事実量が豊富でなければ、そういう議論は展開できない。それは最初から私には無理だった。
午後の後半からは例のコンクリート本。私の批判点は前エントリに尽きてる。それにしても稲葉さんはよほど腹に据えかねたらしい。私はそうではなく通産官僚の劣化が激しいと感じた。スズカンは情報通信産業政策に携わってきたのだが、護送船団方式からの脱却などと平気で言う。かつての電子計算機産業をテイクオフしたときの立役者、平松守彦と比べて何と言うビジョンのなさだろう。とは思うが、経済政策、産業政策はとりあえず、関係ないのでいいや。私はわりと広田先生が言うようにスズカンあなどり難しと思った。だから、前エントリを読んでいただければ分かると思うが、内在的に読み込んで、批判したつもりである。
すみません、ここまで月曜日に書きかけていたんですが、もう、何があったか忘れちゃったので、このままあげておきます。漸次、どなたかフォローしてください。飲み会に若者に発言せよ、と説教したことだけは覚えてますが・・・。読んでたら、ぜひ、次からは発言するように(笑)。
午後から広田・武石論文を読んで討論なのだが、議論が余りにもつまらなかったので、途中寝てしまった。というわけで、森さんと違い一日の半分くらいは寝ていたので、体力的には大丈夫。ただ、自分で発言するところだけは発言したので、一応の任は果たした(というのは勝手な理屈だが)。なお、広田論文というのはこれのこと。
広田先生の分析視角は労働の人間からすると、常識に属する話だ。実際の政策決定過程に寄与したプレイヤーとその背後にある彼らが持つイデオロギーについてうまく絵を描こうという話である。この論文については森さんのまとめが面白いインプリケーションを持っていて、こういう研究が出ることで運動や実践が政策として実現していかないのは決してその理念が間違っていたからではなく、別のロジックが働いていると理解でき、自分達は間違っていたと卑下せずに自信を持てる、ということらしい。自分を卑下せず自信を持つのは結構なことだが、ヤレヤレという気分がないでもない。
私はこの論文を読んだとき、政策を実現させるために誰のところをノックすればいいのか、分かりやすくするための見取り図なのかと思ったので、そう聞いてみたところ、そういうことではないらしい。後半になって、真面目に研究者モードで確認したのは、イデオロギーというのにもいくらかの層があって、現実は非常に下らないレベルで動いていく、たとえば、学力低下論争はどうなるのか、という疑問を出した。広田先生は学力低下論争自体は政策にインパクトを与えていない所以を具体的に説明してくださったが、私の方からも一応、そこから方法として、学力低下論争もいろんなレベルで受け取られ、現実は往々にして単純な二項対立くらいで理解されるのが大勢で、その大勢が世論を動かし、あるいは、その世論を利用して別の政策を通す道具として使うということが考えられる、ということを申し上げた。世間一般で華々しく議論されていることと、舞台裏で進んでいる事態の関係を捉えるのは、門外漢ないし一般の読者をターゲットにするときには必要だろう。ただ、広田先生は全体的に具体的なレベルで議論して欲しいという希望を持っていたそうである。が、それは無理だろう。知っている事実量が豊富でなければ、そういう議論は展開できない。それは最初から私には無理だった。
午後の後半からは例のコンクリート本。私の批判点は前エントリに尽きてる。それにしても稲葉さんはよほど腹に据えかねたらしい。私はそうではなく通産官僚の劣化が激しいと感じた。スズカンは情報通信産業政策に携わってきたのだが、護送船団方式からの脱却などと平気で言う。かつての電子計算機産業をテイクオフしたときの立役者、平松守彦と比べて何と言うビジョンのなさだろう。とは思うが、経済政策、産業政策はとりあえず、関係ないのでいいや。私はわりと広田先生が言うようにスズカンあなどり難しと思った。だから、前エントリを読んでいただければ分かると思うが、内在的に読み込んで、批判したつもりである。
すみません、ここまで月曜日に書きかけていたんですが、もう、何があったか忘れちゃったので、このままあげておきます。漸次、どなたかフォローしてください。飲み会に若者に発言せよ、と説教したことだけは覚えてますが・・・。読んでたら、ぜひ、次からは発言するように(笑)。
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