年末にツイッターでつぶやいたけど、河合隼雄は難しい人物ですねぇ。文化庁長官まで務めて、功なり名を遂げた文化人であることは間違いないんですが、そうなったにはそれなりの理由があるので、簡単にすごいとか、つまらないとか、片付けられないです。

河合隼雄の貢献は、ユング心理学の日本への導入と一般的には思われています。それ自体は動かしがたい。ただ、林道義さんのように、多くの日本人が河合隼雄からユング心理学に入ることが不幸とまでは言いませんが、たしかに河合流の偏りがあることは間違いないと思います。ただね、林さんのユング分析の方法というのは、私から見ると、社会科学的、それもヴェーバーなんですよ。彼は60年代末に割と先駆的にヴェーバーを研究し、その後、ユングの研究へ移っていくんですが、『ユング思想の真髄』を読めば、明らかなように方法的には全く一貫している。それは今の計量化された社会科学とは毛色が違う。

毛色が違うのはいいけど、たとえば、鏡リュウジさんが訳した『魂のコード』の著者ヒルマンが、なんであんなに一瞬トンデモと思えるような書き方をするかといえば、計量中心の心理学に異議を唱える姿勢で貫かれてるからですよ。そう、心理学も基本的に計量が進んだ、というより、社会科学よりもよほど早い時期から統計による研究が重視されていたんですね。だから、この一つのメインストリートとの立ち位置は気にしなきゃいけない。河合さんを読んでも、林さんを読んでも、このあたりの事情はよく理解できないでしょうね。

でも、河合さんはそういう対立よりも、自分自身の問題意識として、日本人である自分と西洋人である彼らとの違いということを中心に据えた。それが彼がもっとも根源的に問いかけた大きな問いだった。その彼なりの答えが、日本は母性原理の社会で、西洋は父性原理の社会という理解であったわけです。実は、この把握の仕方は遠藤周作さんの文学的テーマと重なります。晩年の彼らは非常に仲良かったし、同時に同志的結びつきがあったと僕は思います。河合さんの『影の現象学』講談社学術文庫の遠藤周作の解説、それから遠藤さんの『スキャンダル』新潮文庫の河合さんの解説は両者を理解するために、ともに重要な文章です。ほぼ同時期じゃないかな。書誌学的考察を踏まえて、文学研究してほしいところです。

そういう彼らの思いをちゃんと受け止めた上で続きを書きたいんですが、その前に、なぜ今回はそんな面倒な手順を踏む必要があるのか、と思われる方もいらっしゃるかなと思います。これは抽象的に言えば、実践と研究の関係の一つの在り方、特に、臨床を重視した河合さんを考えるとき、彼の土俵に乗るためにはどうしても必要なんです。全部、繋がってるんですよ。

まぁ、続きはそのうち。
スポンサーサイト
あけましておめでとうございます。

年賀状で最近、ブログが更新されないね、と一言いただきましたので、久しぶりに更新します。更新が滞っている一番の原因はツイッターですよ。ブログはとりあえず、勉強したことを忘れないように書きとめておいたり、反応をいただいたら、それにお応えもしますけれども、どっちにしてもTwitterの方が今は便利なんですよ。というわけで、ツイッターやってる方がいらしたらぜひ@ryojikanekoのフォローもよろしくお願いしますね。横にtwilogもリンクしてあります。

去年一年は学んだことは多いんですが、今までとは違う感じだったなぁ。多分、僕はどうしても本を読んだり、自分で何か考えてることをまとめたりする過程で学ぶことが多かったんですが、去年はいろいろ人間関係で学ぶことが多かった一年でした。端的に言うと、職場をはじめとして女性と接する機会が圧倒的に増えて、言葉では表現できないんですが、新鮮なことが多かったです。

他人の文章を評価する時に「これはいい。底が入っている」という表現があります。おそらく上っ面だけじゃない、というほどの意味だと思います。僕はここ数年、ジェンダーに興味関心を持っていたんですが、実は「底が入っている」という感じで満足させてもらえるような研究には出会えなかったんですね。どちらかというと、軽く書いたエッセーのような本に、かえって本質的なものがあるようにも思っていました。研究の方は輸入学問に過ぎないという感じがどこかしていました。とても抽象的な言い方ですが、このあたりの領域において、自分の「底」を作ろうと模索しているところでしょうか。そのうちにお話しできるときも来るかもしれません。

続いて、近況をご報告しますと、12月に刊行された『社会政策』に論文「日本における社会政策の概念について」が掲載されました。この論文には二つの狙いがあったんですね。一つ目は、ここ最近、ソーシャル・ポリシーを社会政策だとみんな理解しているけれども、日本語の社会政策の英訳はソーシャル・リフォームで、それをソーシャル・ポリシーに変える学問的な意味づけは誰もやってないんだ、と書いたんです。本文に1行ほど「あるにはあったな」的位置づけで武川さんに言及していますが、このなし崩し的現象を演出したのは彼だと思っています。今や玉井さんまでこれに便乗している。彼らは大河内さんが起点となった労働問題を中心とした社会政策(本当はそうじゃないけど)、彼らの言葉で言うところの「経済学的社会政策」を批判する立場にあって、そうじゃない系譜、「社会学的社会政策」が重要だと主張しているのです。で、戦後についていえば、この分野を担ってきたのは「社会福祉(元々は社会事業)」の人たちですが、私はそれを承知で、福祉の人たちの蓄積を考えたら、ソーシャル・ポリシーは「社会福祉政策」と訳した方がいいじゃないか、と書いたんです。まぁ、でも、玉井さんの業績をまるっと無視した(正確には、あんまり重視していないので忘れてた)のはよくなかったですね。最近の「経済学」について理解不十分の「経済学的/社会学的社会政策」論はどうでもいいですが、彼の「防貧の創造」論も僕は買ってないんです。簡単に言うと、あれは大河内さんの「労働力保全」は否定したけど、その枠組みはそっくり踏襲して、それを「防貧」に置き換えただけだ、というのが僕の理解なんです。やるなら、もうちょっとトータルにやらなきゃならない。紙幅の都合があったけど、きっちり学説史整理すべきなんでしょうね。弟子の杉田さんはもうちょっと面白いところまで言ってるけど、肝心な枠組みを自分の頭で考えないから、これがもし真面目に調べたところを序章で真剣に考えてたら、他の人はとても追いつけないレベルの研究が出来たのに残念。惜しいことです。

もうひとつ、こちらの方が大事な論点ですが、もう一方の雄、社会福祉に対して私がどう見るか、ということを書きました。簡単に言うと、社会福祉では、政策の根拠が「権利」に収斂するけれども、それでは全部話が「個人」になってしまうから、トータルな「社会」という視点、つまりは「社会秩序」という観点が大事じゃないか、ということを問題提起したんです。というか、実は「社会事業」って全部、「個人」が起点なんですよ。これは岡田藤太郎先生が指摘されてます。僕の問題提起は部分と全体の古典的な議論なんで、どの分野でもありますね。有機体論の話とか、心理学だとゲシュタルト心理学が出てきたのはそういう問題意識ですよね。僕は、大河内さんの「資本制社会」論は「社会」の捉え方としては大雑把に過ぎるけれども、「社会」を分割せずに捉えている点は見直す必要があるんじゃないか、と思ったんです。あ、もちろん、これは大河内さんの創見じゃなくて、シュタインの有機体論を継受した金井延や後藤新平以来の、むしろ伝統的見解の発展形として捉えています。ここらあたりは理論的には菅沼さんの『被占領期社会福祉分析』と関連してくるはずです。

これは好みが分かれるところですけれども、論文の中には他にもいろんな面白いアイディアを隠しておきましたので、もしよかったらコメントやツイッターで呟いていただけると幸いです。ここでも検索件数が多い「岡村重夫」の社会福祉論を段階論で捉えるとか、多分、気付いている人はたくさんいたと思いますけど、意外と指摘されてないんじゃないかなと思います。あと、T.H.マーシャルの理解もちょっと相場とは違うかもしれません。そんな感じなどなどです。

あと、昨年、他にやったことといえば、ブログ上やツイッターで議論したりもした教育系の方との関わり、これもちょっと前がマイ・ブームでしたが、取り組みました。ちょっと長くなったので、これもまた別に少し書きます。

今年はこんな感じでとりとめもなくたまに更新しますので、またどうぞよろしくお願いします。