Kousyouさんとお約束したのでなぜ女工哀史的史観が一面なのかということをお話ししたいと思います。たしかに、残酷物語がなかったわけじゃありませんよ。実際、非常にキツイ話があったのも歴史的事実だと思います。でも、それはやはり、歴史の一面なんです。

まず、学術論文ではないので、イメージの話をしたいと思います。なぜ、こういう残酷物語、とりわけ左翼史観が優勢になったかと言えば、昔はこういう話が好まれたということと、何より左翼の人は筆が立った。細井もそうですけど、プロレタリア文学というのは、近代日本文学史を語る上でも外せません。中野重治や林房雄なんかもみんなそうですね。全体的に右の人が書くのは勇ましいというか難しい。もちろん、左翼もそういう層の方が沢山だったわけですが(何しろ芸術だって法則で理解できると思ってたんだから!)、幅広くアピールしたんですね。その理由も大変興味深いですが、今日は置いておきましょう。

何より女工哀史というのはネーミングがよかった。大正以来、何とかの哀史というのは定番のキャッチコピーになった。現代では『ああ野麦峠』、特に大竹しのぶさんの名演が決定的でした。でも、細井の『女工哀史』では資本家の専制のごとく描かれている一方、彼の歴史認識と経験談にはズレがあり、そして、これはおそらく彼の美質だと思うんですが、意外と正直に評価している。鐘紡はまだいいとかね。そういうのをトータルに読むと、また随分、印象が変わってくると思いますよ。ちなみに、細井には奥さんがいて中村政則先生が『労働者と農民』(小学館ライブラリー)の中でインタビューしてますし、彼女自身も本を書いています。高井としをさんという方の「わたしの女工哀史」です。面白いですよ。すみません、そろそろ本題です。

その前に大前提なんですが、実は女工の実態ってあんまりよく分かってないんですよ。まず、紡績と製糸では全然違う。紡績は大量に人を雇います。何千人雇用する大工場もありますし、全国展開する企業も結構あります。1910年代からは中国に海外進出が始まります。それ比べ製糸ではグンゼと片倉くらいです。しかも圧倒的に多いのは農村と結びついた産地の零細企業なんですね。そういうところの実態は実はあまりよく分かっていない。以下は基本的に紡績の話です。両方やろうとすると長いので。

女工募集については随分、世間では誤解が行きわたっているようです。農村に労働力が必要という話もあるのですが、農閑期は割と募集しやすかったんですね。その代わり途中で帰っちゃう場合も多々あった。前借金をどう理解するか、という点は私も分析しましたので、江戸以来の伝統とどう折り合いをつけて理解するかという形で論じる用意もあるのですが、それは今日は割愛しましょう。ただ、前借金は踏み倒してもほとんど回収しなかったと思います。単純に回収コストの方が掛かるから。それに工場の方でも一定割合の人が工場生活に馴染めず去って行くのは仕方なしと思ってたんですね。後、いわゆる強制貯金は大手紡績工場では明治30年代くらいで終わります。ただ、雇用契約期間終了時にもらえるお金は残ります。要するに、退職金ですね。その分は賃金から天引きじゃなくて会社負担に切り替わります。

再び女工募集ですが、性質の悪いやつは今も昔もいます。でも、紡績のように規模が大きくなると、募集も組織的にならざるを得ない。そうなると、地方の名士やら商家だとか、元警察官だとか、要するに、地元の信用がある人を重用するんですね。そして、そこから人を出してもらう。大正くらいから小学校が入り、戦後は中学校が加わります。そこが一番、組織的に出来ますから。1950年代に中卒が金の卵と言われましたが、その走りですよ。女工募集で何が問題になったかというと、そもそも知らないところにみんな行きたがらない。そこを啓蒙的な地元の名士の人が説得するんです。ちなみに、地元だけでなく、工場の方でも粗悪な募集人は排除しようとします。彼らはさらに他の工場に女工を横流ししようとしますからね。それから、社員でも募集担当の者が地方で遊んで連絡が取れなくなるとか、そういう事例があります。今でもそうですが、会社としてもそういう社員は困るわけです。当然、懲戒解雇です。結論的に言うと、女工は基本的に帰ることが前提だから、よい募集地からは継続的に女工を供出してもらうために、末長いお付き合いが必要だったんですよ(ただ、結構入れ替わりますが)。

社会的構造としては渡り職工と金貸しが問題でした。渡り職工は労働史の文脈では非常に好意的に捉えられています。もちろん、彼らが重工業の発展を支えたのは間違いない。でも、裏話的に言うと、あれは仁義を切って、一種の東宝映画の世界ですからね。ああいうのが好きな研究者の方も結構いらっしゃるわけです。ただ、その半面、腕が良くても、女に働かせてそれで食っていければいい、という職工もいたわけで、工場はそれでは困るわけです。その男工は働かないわけだし、女工の親にも会わせる顔がない。金貸しの方は上位層の女工を狙う。彼女たちはお金を持ってますからね。彼らはどうするかというと、彼女たちを物欲に溺れさせるんです。掛けで着物を売ったりして、女工も支払えないだけ買うと、昔だから自己破産ではなく、苦界に身を沈めるという運びになったわけです。だから、労務管理的には掛買いを禁止にするかどうかは大問題だった。それでも数年戦士の女工は、休日にも比較的自由に外出できるから、都市近郊の工場では止めようがないんですね。そういう問題がありました。

あと左翼は警察嫌いですし、私も別に好きじゃないですが、親切なお巡りさんや親切な署長さんも昔からいたわけで、そういう人たちは労働争議の調停役として社会的に重要な役割を担っていました。というか、警察というのは社会秩序と深い関わりがあるので、昔から貧困問題ともかかわっていました。いわゆる貧民研究会という日本の社会事業を大きく育てた研究会があります。内務省の有志が集まった勉強会です。その最初の主要なメンバーは警察業務の経験者です。人情派の警察ということでは山本周五郎『寝ぼけ署長』みたいなイメージもありますね。その一方、悪徳警官や不祥事を起こす人、権力を振りかざす人も古今東西いるわけで、現実の多くは両極の中間くらいという感じで考えてます。

工場主やその他の人の中にも相当な人格者がいました。儒教って基本的に人格修養ですからね。それを文字通り実践する人もいました。いわゆる温情主義と呼ばれる人たちです。この言葉自体が正反対に転化しやすいのも事実なんですが、篤い労務管理をする人たちもいたのです。このあたりは日本的な「公共」の在り方とも関連するんですが、私にもまだ見通しが立っていません。このあたりは研究課題です。

読みやすいように、というか、データを探すのをサボって、記憶だけで書いてしまいました。不完全で申し訳ないです。細かい話はまたツイッターか、あるいはブログ上で。
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文芸評論を読むならば作家の書いたものだけでいい、とどこかの対談で谷沢永一が語っていた。谷沢自身は北原武夫や平野謙などに高い評価を与えているが、たとえば彼の書いた三好達治の伊藤整の詩を評したもの、川端康成の文芸評論などの解説を読むと、言わんとしていることが分からなくもない。ただし、その解説自体が、谷沢自身が示した新機軸というか、本人の文学に対する谷沢の評価があり、それを前提に文芸評論がまた評価されている、というやや込み入った事情を押さえておく必要がある。

あるとき、「実証研究における方法は研究の中に埋め込まれるものである」ゼミで工藤章先生が語っていたことがあった。工藤先生は雑談ではそういうヒロイックな言い切り型の言葉を好まれていた。そして、先生は「だから僕は方法論は書かない」というようなことも仰っていた気がする。ただ、方法論について読まれるかどうかをどう語られていたかは忘れてしまったし、その他の言葉も私の記憶は曖昧かもしれない。でも、その方法が研究に埋め込まれるという言葉は、なぜか私の中では印象深く刻まれている。

この別々の二つの挿話を出したのは佐藤健二『社会調査史のリテラシー』新曜社、2011年を理解する鍵が、佐藤本人がその方法の実践者であるという事実に尽きると思うからである。それはこの折々に書かれた論文を集成することによって成り立ったこの本の誕生の経緯にも深く関係しているし、同時にこの本をどう読むべきかということに深く結び付いている。

私は社会学者ではないのでそんな心配をする気遣いはないのだが、仮に「社会調査(ないし歴史社会学)をやりたいからこの本を一生懸命、勉強しようと思います」という後輩がいたら、あえて止めるであろう。この本を昔風にいえば、鉢巻を頭に巻いて読むような読み方は実証研究者としての自殺だと考えるからである。なぜだろうか?

そこでもう一度、考えたいのは、この本がおそらくは20年以上も掛かって(最初に書かれたものは18年前だそうだが)結果として出来あがったということの意味である。簡単にいえば、自分が(あえていえば研究として)表現したいものがあり、そのための模索であり、そのための先行研究との対話の記録なのである。したがって、読者の方でも自分自身が同じような研究の問題意識、あるいは考証の悩みを抱えた時点で、初めてこの本に書かれていることと有意義な対話を出来るのではないかと思うのである。逆にいえば、そういう時期が来るまでは、理解できなくても、抛っておけばよいのである。その方が自然である。ただ、何度かサラッと読んでおいて、また戻ってくればいい。そういう意味で長い付き合いをするに足る友人のような本になり得るだろう。そういう自分勝手な読み方をすることに抵抗を覚える人もいるかもしれないが、この本も相当に自分勝手な切り取り方をしている。そこがいい。

調査そのものがコミュニケーションだとか、現象学の影響を受けた後のなんとかだとか、臨床社会学だとか(これは言ってないけど)、要するに、実践レベルで言えば、自分の主観性は排除できないので、そこは割り切って開き直って調査しますよ、その代り、自分が関わることでどんな風に影響を与え調査対象が変わってしまうかについてはよくよく注意します、ということである。方法というのは自分がどういう風に注意を払ったかを書き連ねたものと理解すればよいだろう。

この本が緩やかに有機的ではあるが、体系的なものではない、ということはその本質をよく表している、と私は思う。これはあえて比喩を使えば、成文憲法のないイギリスのコンスティチューションのようなものだ、と言ったら褒め過ぎだろうか。おそらく、今後、書かれるであろう『社会調査の社会史』では方法は埋め込まれてしまい、かえって明示的に個別の問題を考えることが出来なくなる。その意味では調査「方法」論としてこの本はとても貴重になると思われる。

以上のような読み取り方なので、基本的に私がこの本から何を学んだかをテキスト化するつもりはない。時間も掛かるし、あまり私にとっては意味がない。ただ、多くのことを学ばせてもらった。啓発的な、まさに想像力を引き出す本であった。

あえて事実レベルで言うと、農商務省の調査と内務省の調査の位置づけ、イギリス貧困調査(あるいはベルギーなども)の影響、センサス自体が国民国家の一大事業であり、第1回国勢調査が日露戦争で中止になり、そのときは台湾のみで行われた、というタイミングのズレが与えた影響、その日露以降に展開した地方行政(特に地方改良運動)と社会調査の関係、後藤新平、窪田静太郎、井上友一といった人物の位置づけ、それから、法社会学に展開するような末広厳太郎以来の系譜、たとえば中川善之助の民俗調査(『民法風土記』)、『月島調査』のパイロット調査である15職工調査の経験をどう理解しているか、調査主体の政府機関の特徴をどう理解しているかなど、よく分からない点もたくさんあり、読んでる途中で以上のようなことが欠けていること自体、対象に入り込むエスノ的弱点なんじゃないかとチラッと感じないでもなかったが、それは気のせいということにしておこう。