2011年03月30日 (水)
CFWJapan用に書き下ろした原稿です。元々はこちらで発表しました。こちらにも全く同じ文章を残しておきます。元の原稿は先週の木曜日(2011年3月24日)にあげて、少しだけ書き直しました。以下、本文です。
東日本大震災で多くの方が犠牲になり、未だその全容を把握できないほどの状況になっている。今は被災者も彼らに思いを寄せる者も現実を受け容れつつ、事態のあまりに大きな流れの中でもがき、それでも必死に自分のできることを探している。私の意見は、完全な復興は必ずしもすべて早急に達成されるべきとは限らないという前提に立っており、その点では少数派かもしれない。ここではそういう中でCFWを位置づけたいと思う。
日本全体の一体感
与党・民主党は挙国一致体制を掲げ、自民党にも協力を呼び掛けた。多くの海外メディアは地震発生直後、ハリケーン・カトリーナや中国四川大地震、ハイチ大地震のときと比べ、暴動も起きない日本人に瞠目し、敬意を表した。もちろん、日本人の誰もが平静でいられるわけではないし、非常時に乗じた犯罪も起こっているので、注意も必要である。しかし、多くは動揺を胸にしまいながら落ち着いている。相対的に不安を抑えきれなかった人々は首都圏をはじめ「買い占め(過度の買い溜め)」に走ったが、それさえも長時間、列に並んで、商品が途切れれば諦めるという秩序を保っていた。ツイッター上では、地震発生直後から1週間ほどの間、メディアで流れた情報から身近で見聞きした体験談まで様々な美談が続々とRTされ、この危機をともに乗り越えようという一体感が醸成されたが、それも一息ついたようである。このような一体感が生まれた背景にはおそらく、被害の大きかった東北から北関東、上信越はもちろん、首都圏全体が被災したこに加え、西日本に阪神大震災の経験者が多かったことも寄与したと思われる。
こうした一体感が高揚する中で、原発の作業員や自衛隊、東京消防庁ハイパーレスキュー隊の決死の覚悟の活動を賛美する声に恐怖する声も聞こえて来た。そうした声は個人が抱える価値観の差異さえも飲み込んで一体化しようという流れへの抵抗かもしれない。中にはこうした恐怖を、国民の一体感が国家を中心として突入した第二次世界大戦を結果的にバックアップすることになった歴史的経験と重ね合わせる向きさえもある。戦争と結びつけないまでも、復興を遂げた時代と重ね合わせる意見もまた聞こえてくる。こうした実感は、経営社会学者の間宏が高度成長を支えたものとして戦争という共同体験を重視した視点とも一致するし、戦時と戦後を結びつけて捉えることは90年代以降、蓄積されつつある経済史研究を踏まえても、荒唐無稽とは言えないだろう。もちろん、歴史と現代は異なる点もあるし、反省すべき点は修正すればよい。しかし、それ以上に今はただ声となって現れるどんな恐怖も無視せず、寄り添っていくことが大切である。
復興は早期に達成されるべきなのか
このような大きな一体感は一つのサクセス・ストーリーと結びつきやすい。日本が第二次世界大戦で敗戦したとき、国民は焦土からの早期の復興を目指した。事実、一国全体のマクロ経済に注目すれば、日本は間違いなく奇跡的な復興から高度成長を遂げた。今回の東日本大震災が起こったとき、戦後最大の災害ということで阪神淡路大震災とともにこのときの経験と比較する人が少なからず現れた。私はかつて間宏の『経済大国を作った思想』を紹介したとき、戦争のような共通体験を今後得られない上で、全体の歴史体験をどう語るかということを問題としたが、今度の震災は少なくとも心理的には共通体験と捉えた人たちがいたといえる。間の研究によると、戦後復興を立ち上げ、高度成長を担った企業人たちには少なからず戦争で散った若き友人たちへの贖罪意識を心の糧としていた。それはかつての日本を取り戻すことであった。しかし、残酷なようだが、亡くなった者たちは帰って来ない。私たちの社会を作ってくれた先達の、生き残ったという切ない贖罪意識は、果たして思いを遂げたのであろうか。
私がもっとも気になっているのは、復興を声高に唱える声が被害の大きかった東北地方というより、その他の地域でまず起こったことである。大矢根淳は、被災地外から被災地にやってきた者たちが被災者に無邪気に頑張れと声を掛けることが、現場で軋轢が起こすと述べ、その理由を二つ説明している。第一、既に頑張っているのに無責任に聞こえる。第二、ここから立ち去れという言葉に聞こえる。後者として被災者の生活再建と被災地復興の間のズレの問題が触れられている(大矢根淳「被災地におけるコミュニティの復興とは」『復興コミュニティ論入門』弘文堂,2007年)。ただし、今回の声は大矢根が描く世界とは異なる。なぜなら、この声は同じように地震で被災した首都圏からも起こったからである。そこには災害に対する恐怖や不安を忘れるために、あえて無意識のうちに震災の痛ましい記憶を消して、日所の生活に戻りたい思いがあるように感じられたからである。私があえて学者として客観的にではなく、このような印象論を書く理由は、首都圏で被災した自分自身が周りと接する中で感じ、そして、こうした思いともまた共に歩まざるを得ないと思っているからである。そうして、メディアから流される東北地方の被災状況に圧倒されて、相対的に自分たちの物理的な被害が少なかったことから、ときに被災者意識を欠落させている。その不安な気持ちを埋め合わせるために復興を唱えるのであれば、大矢根があげた事例よりも切実である分、かえって深刻な軋轢を生んでしまうのではないかと考えてしまう。
このようなあまりにも早期の復興を求める声に私は警戒している。ただし、早期の定義は、被災した人間がショックを受けた心の傷が癒えるよりもあまりにも早い、という主観的な意味である。復興という言葉には原状復旧よりもさらに発展させるというニュアンスが含まれるが、完全復旧は無理なのである。これだけ多くの方が亡くなっている中で、その人たちを元に戻すことは出来ない。どんなに時間がかかったとしても、亡くなった者たちの死と生き、そうした経験を抱えた被災者とともに歩んで行くほかに道はないのだ。同時に我々も自分が受けた心の傷に向き合うことから逃げるわけにはいかないだろう。物質的な復興はこうした心の問題と寄り添いながら、進めていくべきだと私は考えている。そのようにするためには、それ相応の時間が掛かることを覚悟せざるを得ない。こういうことを前提に物質的な復興を考えていきたい。急いでやらなければならないことと、時間をかけて考えてからやることを分けて考える必要がある。
最初の物質的復興としてのCFW構想
CFW Japan永松私案は政府を組みこんで、様々なCFW活動のハブ的な機能をする期間を各市町村レベルで作ろうとするものである。実際、政府は今、被災地雇用を政策として取り組もうとしている。私は永松私案とは別に政府以外のボランタリーな組織の力を集めるネットワークを作る必要があると考えており、今、その構想を練っているところなので、近いうちに追って発表したい。
実際にはこうした仕組みが将来的に出来る前に現場では民間の援助団体の活動の中からCFWが出てくるだろうと思われる。これが復興の第一段階である。その際には、アチェやハイチなどで実際に行われたCFWの支援経験を持つ団体もあるし、そうした先行事例のレポートが参考にされることもあるだろう。
私自身はいろいろと新しい工夫をするよりも、形式的な仕組みとしては先例を踏襲するのがよいと考える。それは原則、不熟練(low-skill)ワークだけを対象にし、低賃金を支払う仕組みである。ここでいう不熟練労働はその場で教わって、作業に入れるような単純労働をイメージしている。ただし、日本では当初のCFWのターゲットである貧困対策支援の一環を兼ねる必要はないので、意味づけを転換させて、この段階のCFWは賃金ではなく、被災地を自らの手で復興させる被災者への見舞金という意義づけが適切であると考えられる。実務的には賃金水準を一本にするのが適当である。
CFWにおけるWorkはあくまで被災地の人々のボランティア活動を基盤とする。こうした賃金を見舞金とするような手続きは一見、些細なことのように思われるかもしれないが、従来のCFWの弊害として既存のコミュニティ文化を壊す可能性があることが指摘されていることを鑑みて、軽視できないものである。ボランティア活動の延長で捉えるということは、労働の対価としての賃金という市場経済の原理ではなく、贈与経済の原理での運営を意味する。このような二つの異なる経済原理が混交する例としては、しばしば無償労働の存在が(少なくとも都市部における)福祉領域での賃金を低くするような現象を生むという話があるが、あえてここではそうした事象を逆用する。こうした賃金を低水準に固定するという判断が許容されるのは、事業期間が短期に限定されているためである。それはこの段階のCFWプロジェクトはあくまで復興のための一時的なものであり、それ以外の経済活動を阻害しないように、すなわち、そうした経済活動における雇用労働の代替になり得ないようにする必要があるためである。
この段階で賃金水準を一本に絞るのはこの他に管理費用を削減するためである。実際には不熟練労働には査定を付けないが、半年以上の継続事業においては、仕事の能率に差が出来る可能性が高い。もしそうであれば、日本の企業の常識的な感覚で言えば、その差を適切に評価して賃金に反映させるであろう。だが、急造の仕事プロジェクトでこのような査定を行うことは労務管理の技術上、難しい。もちろん、一緒に仕事をする中で自然発生的な評価を生まれるので、評価を分けること自体は可能だが、それを賃金に反映させるのは短期では困難である(短期で賃金査定を行うのは困難)。
地域復興に貢献するという贈与的なボランティア精神が存在する以上、賃金に余計な差を設けることは仕事仲間の連帯を損なう危険性もある。また、賃金が能力を反映するということになると、自分より高い技能を持った被災地外の地域からボランティアが場合によっては無償で働いていることがかえって賃金を受け取りづらくし、極端なケースでは余分なスティグマを与えることになりかねない。したがって、複雑で精緻な管理を望まずに管理費用を削減するために、あまり賃金制度を複雑せずに低水準の一本がよいと考えられるのである。
復興から地域振興へのテイク・オフ(1):復興から地域振興を支える組織体制
第二段階の地域復興は、地域再生と来るべき地域振興を見据えたものとなるだろう。この段階では地域ごとにそれぞれ独自の未来図を描かなければならない。たとえば、産業集積を軸にした地域産業論ではシリコンヴァレイやフィンランドのオウルをモデルにしたような地域開発が注目されているが、三陸の町がことごとくハイテク都市になる必要などどこにもない。多くの沿岸地域が望むのはおそらく在りし日の漁業の再興ではないだろうか。もちろん、被災地外からの支援によって、たとえば震災以前になかった新たな情報インフラが整備されるとしても、それを拒むことは何もないだろう。
CJW Japan永松私案では政府が入ることになっているが、CFWセンターは民間企業委託となっている。私はこの点に反対である。これは被災した各県レベルの自治体とハローワークが主体となって担うべき業務であると考える。もちろん、場所によっては地震や津波の影響で人数的に機能しないケースが想定される。この穴を埋めるために、全国各自治体から、職安行政および商工農林水産行政、福祉行政を担当する部署のエースおよび今後のエース候補であるような若手を送り込み、文字通り国中の叡智を東北に集中して復興を支援する(福祉を入れる理由は後述)。なお、全国自治体の選抜組には、現在、既に支援を行っている自治体に加え、被災者を受け入れる大阪や佐賀(他にも多数あるが、用意があると報道されたのが早かった二つ)のような自治体をぜひ入っていただきたい。今後、被災者がそのまま定住する可能性もあるが、被災地に戻りたいといったときにスムーズにサポートするためである。具体的には東京都が夕張市に対して行った人事交流を、全国的な規模で襷(たすき)掛けに行うとイメージしてもらえればいい。とはいえ、地方財政は逼迫しているので、その分の人的保障ないし派遣公務員の給与を支援金の中から賄う枠組みを作るように法律を整備する。地方公務員の給料一律切り下げなど論外である。なお、NPOや民間企業からの労働力供与の申し出があった場合、あえてこれを排除するものではない。中央省庁は文字通り中央にあって、全体の調整を行う。
こうした復興事業で全国各地から優秀な人材を集めることで、その経験が彼らに対して高い教育効果を与えることが期待される。すなわち、復興が終わった後、精鋭たちはその経験を故郷に持ち帰り、地域行政を豊饒化することが期待される。もちろん、このときに作ったネットワーク自体もそのまま打ち棄てるのではなく、これを基盤に置いてその後も人事交流を行えるように、中央政府がバックアップすることが期待される。このように東日本の震災から始まった復興を、日本全体を活性化させる最初の一歩とするのである。
復興から地域振興へのテイク・オフ(2):雇用行政と地域経済開発行政の連携
この時期のCFWは最初期の自生的な活動ではなく、場合によっては復興活動からそのまま地域振興施策に移行していくものも含まれる。否、むしろ、地域振興政策となるようにならなければならない。ただし、重要なことなので繰り返し述すが、どのような産業を再興させ、街の経済をどのようなものにするかは各地域の意思に任せられるべきである。地域経済の在り方は地場産業や他地域との協業関係にも依存するので、簡単に一元化して描くことは出来ないし、描けていないものを中央から一律に統制することは不可能である。このビジョンを描くのに時間を掛けるというのも一つの選択としてあり得る。地域100年の計である。
CFW活動がNPOレベルでやっている段階では各プロジェクトが完結し、それが全体にわたった時点で終わりが見えてくるが、政府が入ることになると、これは雇用行政になることを避けられない。雇用行政は経済振興とセットでなければならない。この意味で参考になるのは戦後の経験である。すなわち、失業対策と表裏一体で始まった公共事業による雇用創出とその後の土建国家化の経験を踏まえる必要がある。土木事業によって雇用創出が達成されたこと自体は高く評価されなければならない。民主党が政権を取った際、一斉に箱モノ行政が批判され、とりわけダム事業の見直しが脚光を浴びたが、そうした見直し反対の立場の論拠にはこの雇用創出機能があった。実際、高度成長期でさえ、土木事業が一息つくことによって、建設現場の労働者は失業し、貧困から抜け出すことが難しかったことが人々の目から隠されてしまった。大事なことなので、繰り返す。雇用創出は重要である。広く議論されるべきなのは何を作るかである。復興において何を復旧させ、どのように新しい息吹を加えるかである。
また、戦後の失業対策には1950年代にエネルギー転換を図った時代から、炭鉱離職労働者を対象とした長い歴史がある。たとえば、1986年に閉山となった高島炭鉱の事例でも、職業安定所は労働者の再訓練(職業訓練)や再就職には多大なる貢献を行ったが、離職労働者の中において自律的に新しい地域振興を行うという考えは少数派であったという(『地域における雇用創出に関する研究(職研調査研究報告書91)』,1989年,10頁)。しばしば失業対策はそれ自体では他産業ないし他地域への移転を軸にせざるを得ず、それ以上の産業振興政策と結びついていない。この点に課題であった。だからこそ、商工農林水産行政を中心とした地域経済振興と職安行政を結びつける必要があるのである。私は今、宮城県の職員の方が「職業訓練を地域振興と結びつけて考えなければならないと議論しているところです」と去年の夏の研究会で静かに語ってくれたことを思い出している。きっとそういう思いはまた、今度の復興、そして地域振興に繋がって行くはずである。
ここまで経済を中心に見てきたが、復興は何も経済だけに限定されるものではない。そこで暮らす人々の総体としてのコミュニティも重要だが、そうしたコミュニティは過去の伝統の上に成立していることを認識する必要がある。復興に当たっては元のコミュニティを復旧することは難しいが、帝国主義時代の明治期に行われた廃仏毀釈や国家神道的な神社政策などによって地方の伝統をことごとく毀した地方行政の愚かな歴史は絶対に繰り返してはならない。今回、伝統を守るのは柳田國男のような民俗学者ではなく、伝統を知る被災地のそれぞれの方以外に他ならない。ここでは高齢者とともに郷土史家の役割が重要になるだろう。
復興から地域振興へのテイク・オフ(3):CFWの第2局面および地域福祉
経済や伝統的コミュニティの問題以外、否、それらを含めて包括的に考えるべき問題として地域福祉の問題がある。福祉の具体的な領域は高齢者、障害者、家庭、教育(子ども)、医療など多岐にわたり、今後の復興および地域開発の中で何れも重要な問題として組みこまれるべきものだが、ここでは被災者の心理的ケアの問題に絞って書きたい。
被災者の心理的ケアといっても当然、被災者は十人十色であり、自ら心の傷を抱えているというよりも、この震災を契機として一層、地域発展のために力を尽くし、地域の仲間を鼓舞するような勇士も現れるだろう。実際、被災した小学校で復興への思いを語る小学生の姿にはメディアを通じて接する私たちもまた励まされている。しかし、そのような気力にあふれる人ばかりではないので、心理的なケアは中長期に絶対に必要である。
心理的ケアといった場合、通常、担い手として考えられるのは臨床医などの医療関係者、広義のソーシャル・ワーカーなどの福祉関係者、教師などの学校関係者等であり、震災以前からこれらの問題に携わっていた専門職や経験豊富なボランティアなどが該当されるだろう。ここに二つの問題がある。たとえば、もともと医療崩壊と言われる状況にもかかわらず、今、専心医療活動に従事されている関係者の方は働き詰めになり、休息不足の状態になっている。同じような状態は行政でも起こっているし、福祉関係でも起こっているだろう。すなわち、第一の問題は関係者の労働問題である。彼らは貴重な地域の人的財産であり、そうした方々を毀してしまわない配慮と仕組みが必要である。第二に、そのことと密接に関わっているのは、担い手の圧倒的人手不足である。もともとの過疎の問題もあるかもしれないが、それに加えて津波、地震による被害でその状況が悪化していると考えられる。おそらく、実際に早期から被災地住民によるボランタリーな活動(手伝いなど)が始まっていると考えられるが、こうした活動を支える仕組みをさらに後ろから支援する必要がある。
ボランタリーな活動の中をする中で、たとえば孤独な人の話をじっくりとよく聞くといった本人はそれが特別なこととも思っていない高度な技能を発揮する人もいるだろう。臨床心理学の世界でロジャーズ以降の主流になった来談者中心療法では、自分の技能を奢るよりもただ相手に寄り添って話を聞く姿勢がよいであろうし、訓練も受けずにそういうことが自然にできる人は存在するだろうし、かえって技能の性格上、自分の力に気付かない可能性もある。これは子どもからお年寄りまで年齢は関係なく各世代に存在するだろう。そうした方の支援としてCFWを通じて、生活を保証する支援金(賃金)を払う仕組みを作る必要があるだろう。
通常の経済学的な市場原理で言えば、技能の習熟度に応じて賃金に差をつける必要があるが、高度なカウンセリング技能は通常、埋め込まれている状態であり、ときには評価(査定)どころか、発見することさえ難しいと考えられる。通常の価格メカニズムではニーズ(需要)と価格調整が連動するが、この場合、価格調整が働かない。ただし、多くの方から話を聞いてほしいという希望が殺到するなどの現象によって、技能そのものに先だってニーズは発見できる可能性がある。そうした実践的な活動は、たとえその人が専門資格を持っていなくとも、専門職に準ずる、あるいは同じ仕事をしているといえる。そのような場合、既存の専門職集団、あるいはカウンセリング技能を持つ支援団体などが協力して、バックアップする体制づくりが必要であろう。もちろん、天性の才能を持った人でなくとも、訓練で技能を身につけることは誰にでも可能であり、圧倒的な人手不足の中では一人でも参加者が多い方がよい。そのためには、ファシリテーター役の支援者などの力が必要になる。そうして育成された人に対してもCFWを通じた支援が重要になるだろう。
既に専門職として活動されている医療従事者や福祉従事者も含めて、こうした方たちの中にはどうしても自らの生活を犠牲にし、他人に献身する人が数多く出てくる。このような方たちは本人がCFWなどの報酬を拒否することも予想されるので、その場合、金銭的な報酬以外で彼らの家庭生活を支援する形があってもいい。具体的には、移動できない関係者の家族を職場に連れて行って本人に会わせることや、家族の食事の用意などを周囲の人が行うなどである。とりわけ、そうした誇り高い父母の姿を見るのは、子どもにとってもよい経験になるだろう。
地域福祉の領域では社会福祉協議会や行政、NPO、そしてその中で住民組織化の動きが注目されてきているが、震災の復興過程であらわれる様々なボランタリーな活動を取り込むことなどによって、地域福祉全体の再生を視野に入れ、地域経済振興とともに復興後の地域振興の二本柱にする必要があると思われる。また、人々の話を聞くこのような仕組みは、冒頭に述べた心理的問題の解決や、住民の意向を組み上げた復興を実施するために、絶対に必要かつ重要なものである。そうした仕組みの中で、復興の望ましいスピードや姿も考えられるであろう。
CFWの第二局面の難しさ:論じたこと、論じなかったこと
私は第二局面での経済的な復興およびその次の振興の段階については具体的なCFW活動に言及しなかった。それは地域別の個々の仕事内容が現段階で分からないからである。ただ、一般論で言うと、振興策に繋がるようなCFW活動をするならば、仕事は複雑化することが予想され、相対的に高度な技能が蓄積されるようになるだろう。そうした技能を査定し、賃金に結びつける仕組みは一般化できない。こうした難しさは、企業の労務管理において、従業員のやる気を損なわずに、活力を与えるような、公平な処遇を実践するのが難しいのと同じ性質の問題であり、復興だから特別なのではない。この管理費用を考えるとき、ここまで踏み込まずに、第一局面だけで終わらせることも一つの選択肢である。
第二に、福祉領域のような領域ではさらに難しい問題がある。ボランタリーな活動には価格(賃金)が必ずしも付与していないため、シグナリング効果がなく、したがって高度な技能の実践が埋もれている可能性がある。認識できないものにCFWで報酬を払うことは出来ない。さらに、ボランタリー労働と雇用労働が混淆とする中では、単に技能の高低のみを指標に価格付けが出来ないといった独自の難しさがある。
CFWを単なる自律的な支援活動にとどまらせるのではなく、政府等を通じた組織的活動に展開させる場合、復興から地域振興へのテイク・オフを考えなければならない。だが、もしそこまで出来ないという判断をするならば、余計な混乱を招かないように、早々に簡単な取り組みだけで引き上げるべきであると私は考えている。
東日本大震災で多くの方が犠牲になり、未だその全容を把握できないほどの状況になっている。今は被災者も彼らに思いを寄せる者も現実を受け容れつつ、事態のあまりに大きな流れの中でもがき、それでも必死に自分のできることを探している。私の意見は、完全な復興は必ずしもすべて早急に達成されるべきとは限らないという前提に立っており、その点では少数派かもしれない。ここではそういう中でCFWを位置づけたいと思う。
日本全体の一体感
与党・民主党は挙国一致体制を掲げ、自民党にも協力を呼び掛けた。多くの海外メディアは地震発生直後、ハリケーン・カトリーナや中国四川大地震、ハイチ大地震のときと比べ、暴動も起きない日本人に瞠目し、敬意を表した。もちろん、日本人の誰もが平静でいられるわけではないし、非常時に乗じた犯罪も起こっているので、注意も必要である。しかし、多くは動揺を胸にしまいながら落ち着いている。相対的に不安を抑えきれなかった人々は首都圏をはじめ「買い占め(過度の買い溜め)」に走ったが、それさえも長時間、列に並んで、商品が途切れれば諦めるという秩序を保っていた。ツイッター上では、地震発生直後から1週間ほどの間、メディアで流れた情報から身近で見聞きした体験談まで様々な美談が続々とRTされ、この危機をともに乗り越えようという一体感が醸成されたが、それも一息ついたようである。このような一体感が生まれた背景にはおそらく、被害の大きかった東北から北関東、上信越はもちろん、首都圏全体が被災したこに加え、西日本に阪神大震災の経験者が多かったことも寄与したと思われる。
こうした一体感が高揚する中で、原発の作業員や自衛隊、東京消防庁ハイパーレスキュー隊の決死の覚悟の活動を賛美する声に恐怖する声も聞こえて来た。そうした声は個人が抱える価値観の差異さえも飲み込んで一体化しようという流れへの抵抗かもしれない。中にはこうした恐怖を、国民の一体感が国家を中心として突入した第二次世界大戦を結果的にバックアップすることになった歴史的経験と重ね合わせる向きさえもある。戦争と結びつけないまでも、復興を遂げた時代と重ね合わせる意見もまた聞こえてくる。こうした実感は、経営社会学者の間宏が高度成長を支えたものとして戦争という共同体験を重視した視点とも一致するし、戦時と戦後を結びつけて捉えることは90年代以降、蓄積されつつある経済史研究を踏まえても、荒唐無稽とは言えないだろう。もちろん、歴史と現代は異なる点もあるし、反省すべき点は修正すればよい。しかし、それ以上に今はただ声となって現れるどんな恐怖も無視せず、寄り添っていくことが大切である。
復興は早期に達成されるべきなのか
このような大きな一体感は一つのサクセス・ストーリーと結びつきやすい。日本が第二次世界大戦で敗戦したとき、国民は焦土からの早期の復興を目指した。事実、一国全体のマクロ経済に注目すれば、日本は間違いなく奇跡的な復興から高度成長を遂げた。今回の東日本大震災が起こったとき、戦後最大の災害ということで阪神淡路大震災とともにこのときの経験と比較する人が少なからず現れた。私はかつて間宏の『経済大国を作った思想』を紹介したとき、戦争のような共通体験を今後得られない上で、全体の歴史体験をどう語るかということを問題としたが、今度の震災は少なくとも心理的には共通体験と捉えた人たちがいたといえる。間の研究によると、戦後復興を立ち上げ、高度成長を担った企業人たちには少なからず戦争で散った若き友人たちへの贖罪意識を心の糧としていた。それはかつての日本を取り戻すことであった。しかし、残酷なようだが、亡くなった者たちは帰って来ない。私たちの社会を作ってくれた先達の、生き残ったという切ない贖罪意識は、果たして思いを遂げたのであろうか。
私がもっとも気になっているのは、復興を声高に唱える声が被害の大きかった東北地方というより、その他の地域でまず起こったことである。大矢根淳は、被災地外から被災地にやってきた者たちが被災者に無邪気に頑張れと声を掛けることが、現場で軋轢が起こすと述べ、その理由を二つ説明している。第一、既に頑張っているのに無責任に聞こえる。第二、ここから立ち去れという言葉に聞こえる。後者として被災者の生活再建と被災地復興の間のズレの問題が触れられている(大矢根淳「被災地におけるコミュニティの復興とは」『復興コミュニティ論入門』弘文堂,2007年)。ただし、今回の声は大矢根が描く世界とは異なる。なぜなら、この声は同じように地震で被災した首都圏からも起こったからである。そこには災害に対する恐怖や不安を忘れるために、あえて無意識のうちに震災の痛ましい記憶を消して、日所の生活に戻りたい思いがあるように感じられたからである。私があえて学者として客観的にではなく、このような印象論を書く理由は、首都圏で被災した自分自身が周りと接する中で感じ、そして、こうした思いともまた共に歩まざるを得ないと思っているからである。そうして、メディアから流される東北地方の被災状況に圧倒されて、相対的に自分たちの物理的な被害が少なかったことから、ときに被災者意識を欠落させている。その不安な気持ちを埋め合わせるために復興を唱えるのであれば、大矢根があげた事例よりも切実である分、かえって深刻な軋轢を生んでしまうのではないかと考えてしまう。
このようなあまりにも早期の復興を求める声に私は警戒している。ただし、早期の定義は、被災した人間がショックを受けた心の傷が癒えるよりもあまりにも早い、という主観的な意味である。復興という言葉には原状復旧よりもさらに発展させるというニュアンスが含まれるが、完全復旧は無理なのである。これだけ多くの方が亡くなっている中で、その人たちを元に戻すことは出来ない。どんなに時間がかかったとしても、亡くなった者たちの死と生き、そうした経験を抱えた被災者とともに歩んで行くほかに道はないのだ。同時に我々も自分が受けた心の傷に向き合うことから逃げるわけにはいかないだろう。物質的な復興はこうした心の問題と寄り添いながら、進めていくべきだと私は考えている。そのようにするためには、それ相応の時間が掛かることを覚悟せざるを得ない。こういうことを前提に物質的な復興を考えていきたい。急いでやらなければならないことと、時間をかけて考えてからやることを分けて考える必要がある。
最初の物質的復興としてのCFW構想
CFW Japan永松私案は政府を組みこんで、様々なCFW活動のハブ的な機能をする期間を各市町村レベルで作ろうとするものである。実際、政府は今、被災地雇用を政策として取り組もうとしている。私は永松私案とは別に政府以外のボランタリーな組織の力を集めるネットワークを作る必要があると考えており、今、その構想を練っているところなので、近いうちに追って発表したい。
実際にはこうした仕組みが将来的に出来る前に現場では民間の援助団体の活動の中からCFWが出てくるだろうと思われる。これが復興の第一段階である。その際には、アチェやハイチなどで実際に行われたCFWの支援経験を持つ団体もあるし、そうした先行事例のレポートが参考にされることもあるだろう。
私自身はいろいろと新しい工夫をするよりも、形式的な仕組みとしては先例を踏襲するのがよいと考える。それは原則、不熟練(low-skill)ワークだけを対象にし、低賃金を支払う仕組みである。ここでいう不熟練労働はその場で教わって、作業に入れるような単純労働をイメージしている。ただし、日本では当初のCFWのターゲットである貧困対策支援の一環を兼ねる必要はないので、意味づけを転換させて、この段階のCFWは賃金ではなく、被災地を自らの手で復興させる被災者への見舞金という意義づけが適切であると考えられる。実務的には賃金水準を一本にするのが適当である。
CFWにおけるWorkはあくまで被災地の人々のボランティア活動を基盤とする。こうした賃金を見舞金とするような手続きは一見、些細なことのように思われるかもしれないが、従来のCFWの弊害として既存のコミュニティ文化を壊す可能性があることが指摘されていることを鑑みて、軽視できないものである。ボランティア活動の延長で捉えるということは、労働の対価としての賃金という市場経済の原理ではなく、贈与経済の原理での運営を意味する。このような二つの異なる経済原理が混交する例としては、しばしば無償労働の存在が(少なくとも都市部における)福祉領域での賃金を低くするような現象を生むという話があるが、あえてここではそうした事象を逆用する。こうした賃金を低水準に固定するという判断が許容されるのは、事業期間が短期に限定されているためである。それはこの段階のCFWプロジェクトはあくまで復興のための一時的なものであり、それ以外の経済活動を阻害しないように、すなわち、そうした経済活動における雇用労働の代替になり得ないようにする必要があるためである。
この段階で賃金水準を一本に絞るのはこの他に管理費用を削減するためである。実際には不熟練労働には査定を付けないが、半年以上の継続事業においては、仕事の能率に差が出来る可能性が高い。もしそうであれば、日本の企業の常識的な感覚で言えば、その差を適切に評価して賃金に反映させるであろう。だが、急造の仕事プロジェクトでこのような査定を行うことは労務管理の技術上、難しい。もちろん、一緒に仕事をする中で自然発生的な評価を生まれるので、評価を分けること自体は可能だが、それを賃金に反映させるのは短期では困難である(短期で賃金査定を行うのは困難)。
地域復興に貢献するという贈与的なボランティア精神が存在する以上、賃金に余計な差を設けることは仕事仲間の連帯を損なう危険性もある。また、賃金が能力を反映するということになると、自分より高い技能を持った被災地外の地域からボランティアが場合によっては無償で働いていることがかえって賃金を受け取りづらくし、極端なケースでは余分なスティグマを与えることになりかねない。したがって、複雑で精緻な管理を望まずに管理費用を削減するために、あまり賃金制度を複雑せずに低水準の一本がよいと考えられるのである。
復興から地域振興へのテイク・オフ(1):復興から地域振興を支える組織体制
第二段階の地域復興は、地域再生と来るべき地域振興を見据えたものとなるだろう。この段階では地域ごとにそれぞれ独自の未来図を描かなければならない。たとえば、産業集積を軸にした地域産業論ではシリコンヴァレイやフィンランドのオウルをモデルにしたような地域開発が注目されているが、三陸の町がことごとくハイテク都市になる必要などどこにもない。多くの沿岸地域が望むのはおそらく在りし日の漁業の再興ではないだろうか。もちろん、被災地外からの支援によって、たとえば震災以前になかった新たな情報インフラが整備されるとしても、それを拒むことは何もないだろう。
CJW Japan永松私案では政府が入ることになっているが、CFWセンターは民間企業委託となっている。私はこの点に反対である。これは被災した各県レベルの自治体とハローワークが主体となって担うべき業務であると考える。もちろん、場所によっては地震や津波の影響で人数的に機能しないケースが想定される。この穴を埋めるために、全国各自治体から、職安行政および商工農林水産行政、福祉行政を担当する部署のエースおよび今後のエース候補であるような若手を送り込み、文字通り国中の叡智を東北に集中して復興を支援する(福祉を入れる理由は後述)。なお、全国自治体の選抜組には、現在、既に支援を行っている自治体に加え、被災者を受け入れる大阪や佐賀(他にも多数あるが、用意があると報道されたのが早かった二つ)のような自治体をぜひ入っていただきたい。今後、被災者がそのまま定住する可能性もあるが、被災地に戻りたいといったときにスムーズにサポートするためである。具体的には東京都が夕張市に対して行った人事交流を、全国的な規模で襷(たすき)掛けに行うとイメージしてもらえればいい。とはいえ、地方財政は逼迫しているので、その分の人的保障ないし派遣公務員の給与を支援金の中から賄う枠組みを作るように法律を整備する。地方公務員の給料一律切り下げなど論外である。なお、NPOや民間企業からの労働力供与の申し出があった場合、あえてこれを排除するものではない。中央省庁は文字通り中央にあって、全体の調整を行う。
こうした復興事業で全国各地から優秀な人材を集めることで、その経験が彼らに対して高い教育効果を与えることが期待される。すなわち、復興が終わった後、精鋭たちはその経験を故郷に持ち帰り、地域行政を豊饒化することが期待される。もちろん、このときに作ったネットワーク自体もそのまま打ち棄てるのではなく、これを基盤に置いてその後も人事交流を行えるように、中央政府がバックアップすることが期待される。このように東日本の震災から始まった復興を、日本全体を活性化させる最初の一歩とするのである。
復興から地域振興へのテイク・オフ(2):雇用行政と地域経済開発行政の連携
この時期のCFWは最初期の自生的な活動ではなく、場合によっては復興活動からそのまま地域振興施策に移行していくものも含まれる。否、むしろ、地域振興政策となるようにならなければならない。ただし、重要なことなので繰り返し述すが、どのような産業を再興させ、街の経済をどのようなものにするかは各地域の意思に任せられるべきである。地域経済の在り方は地場産業や他地域との協業関係にも依存するので、簡単に一元化して描くことは出来ないし、描けていないものを中央から一律に統制することは不可能である。このビジョンを描くのに時間を掛けるというのも一つの選択としてあり得る。地域100年の計である。
CFW活動がNPOレベルでやっている段階では各プロジェクトが完結し、それが全体にわたった時点で終わりが見えてくるが、政府が入ることになると、これは雇用行政になることを避けられない。雇用行政は経済振興とセットでなければならない。この意味で参考になるのは戦後の経験である。すなわち、失業対策と表裏一体で始まった公共事業による雇用創出とその後の土建国家化の経験を踏まえる必要がある。土木事業によって雇用創出が達成されたこと自体は高く評価されなければならない。民主党が政権を取った際、一斉に箱モノ行政が批判され、とりわけダム事業の見直しが脚光を浴びたが、そうした見直し反対の立場の論拠にはこの雇用創出機能があった。実際、高度成長期でさえ、土木事業が一息つくことによって、建設現場の労働者は失業し、貧困から抜け出すことが難しかったことが人々の目から隠されてしまった。大事なことなので、繰り返す。雇用創出は重要である。広く議論されるべきなのは何を作るかである。復興において何を復旧させ、どのように新しい息吹を加えるかである。
また、戦後の失業対策には1950年代にエネルギー転換を図った時代から、炭鉱離職労働者を対象とした長い歴史がある。たとえば、1986年に閉山となった高島炭鉱の事例でも、職業安定所は労働者の再訓練(職業訓練)や再就職には多大なる貢献を行ったが、離職労働者の中において自律的に新しい地域振興を行うという考えは少数派であったという(『地域における雇用創出に関する研究(職研調査研究報告書91)』,1989年,10頁)。しばしば失業対策はそれ自体では他産業ないし他地域への移転を軸にせざるを得ず、それ以上の産業振興政策と結びついていない。この点に課題であった。だからこそ、商工農林水産行政を中心とした地域経済振興と職安行政を結びつける必要があるのである。私は今、宮城県の職員の方が「職業訓練を地域振興と結びつけて考えなければならないと議論しているところです」と去年の夏の研究会で静かに語ってくれたことを思い出している。きっとそういう思いはまた、今度の復興、そして地域振興に繋がって行くはずである。
ここまで経済を中心に見てきたが、復興は何も経済だけに限定されるものではない。そこで暮らす人々の総体としてのコミュニティも重要だが、そうしたコミュニティは過去の伝統の上に成立していることを認識する必要がある。復興に当たっては元のコミュニティを復旧することは難しいが、帝国主義時代の明治期に行われた廃仏毀釈や国家神道的な神社政策などによって地方の伝統をことごとく毀した地方行政の愚かな歴史は絶対に繰り返してはならない。今回、伝統を守るのは柳田國男のような民俗学者ではなく、伝統を知る被災地のそれぞれの方以外に他ならない。ここでは高齢者とともに郷土史家の役割が重要になるだろう。
復興から地域振興へのテイク・オフ(3):CFWの第2局面および地域福祉
経済や伝統的コミュニティの問題以外、否、それらを含めて包括的に考えるべき問題として地域福祉の問題がある。福祉の具体的な領域は高齢者、障害者、家庭、教育(子ども)、医療など多岐にわたり、今後の復興および地域開発の中で何れも重要な問題として組みこまれるべきものだが、ここでは被災者の心理的ケアの問題に絞って書きたい。
被災者の心理的ケアといっても当然、被災者は十人十色であり、自ら心の傷を抱えているというよりも、この震災を契機として一層、地域発展のために力を尽くし、地域の仲間を鼓舞するような勇士も現れるだろう。実際、被災した小学校で復興への思いを語る小学生の姿にはメディアを通じて接する私たちもまた励まされている。しかし、そのような気力にあふれる人ばかりではないので、心理的なケアは中長期に絶対に必要である。
心理的ケアといった場合、通常、担い手として考えられるのは臨床医などの医療関係者、広義のソーシャル・ワーカーなどの福祉関係者、教師などの学校関係者等であり、震災以前からこれらの問題に携わっていた専門職や経験豊富なボランティアなどが該当されるだろう。ここに二つの問題がある。たとえば、もともと医療崩壊と言われる状況にもかかわらず、今、専心医療活動に従事されている関係者の方は働き詰めになり、休息不足の状態になっている。同じような状態は行政でも起こっているし、福祉関係でも起こっているだろう。すなわち、第一の問題は関係者の労働問題である。彼らは貴重な地域の人的財産であり、そうした方々を毀してしまわない配慮と仕組みが必要である。第二に、そのことと密接に関わっているのは、担い手の圧倒的人手不足である。もともとの過疎の問題もあるかもしれないが、それに加えて津波、地震による被害でその状況が悪化していると考えられる。おそらく、実際に早期から被災地住民によるボランタリーな活動(手伝いなど)が始まっていると考えられるが、こうした活動を支える仕組みをさらに後ろから支援する必要がある。
ボランタリーな活動の中をする中で、たとえば孤独な人の話をじっくりとよく聞くといった本人はそれが特別なこととも思っていない高度な技能を発揮する人もいるだろう。臨床心理学の世界でロジャーズ以降の主流になった来談者中心療法では、自分の技能を奢るよりもただ相手に寄り添って話を聞く姿勢がよいであろうし、訓練も受けずにそういうことが自然にできる人は存在するだろうし、かえって技能の性格上、自分の力に気付かない可能性もある。これは子どもからお年寄りまで年齢は関係なく各世代に存在するだろう。そうした方の支援としてCFWを通じて、生活を保証する支援金(賃金)を払う仕組みを作る必要があるだろう。
通常の経済学的な市場原理で言えば、技能の習熟度に応じて賃金に差をつける必要があるが、高度なカウンセリング技能は通常、埋め込まれている状態であり、ときには評価(査定)どころか、発見することさえ難しいと考えられる。通常の価格メカニズムではニーズ(需要)と価格調整が連動するが、この場合、価格調整が働かない。ただし、多くの方から話を聞いてほしいという希望が殺到するなどの現象によって、技能そのものに先だってニーズは発見できる可能性がある。そうした実践的な活動は、たとえその人が専門資格を持っていなくとも、専門職に準ずる、あるいは同じ仕事をしているといえる。そのような場合、既存の専門職集団、あるいはカウンセリング技能を持つ支援団体などが協力して、バックアップする体制づくりが必要であろう。もちろん、天性の才能を持った人でなくとも、訓練で技能を身につけることは誰にでも可能であり、圧倒的な人手不足の中では一人でも参加者が多い方がよい。そのためには、ファシリテーター役の支援者などの力が必要になる。そうして育成された人に対してもCFWを通じた支援が重要になるだろう。
既に専門職として活動されている医療従事者や福祉従事者も含めて、こうした方たちの中にはどうしても自らの生活を犠牲にし、他人に献身する人が数多く出てくる。このような方たちは本人がCFWなどの報酬を拒否することも予想されるので、その場合、金銭的な報酬以外で彼らの家庭生活を支援する形があってもいい。具体的には、移動できない関係者の家族を職場に連れて行って本人に会わせることや、家族の食事の用意などを周囲の人が行うなどである。とりわけ、そうした誇り高い父母の姿を見るのは、子どもにとってもよい経験になるだろう。
地域福祉の領域では社会福祉協議会や行政、NPO、そしてその中で住民組織化の動きが注目されてきているが、震災の復興過程であらわれる様々なボランタリーな活動を取り込むことなどによって、地域福祉全体の再生を視野に入れ、地域経済振興とともに復興後の地域振興の二本柱にする必要があると思われる。また、人々の話を聞くこのような仕組みは、冒頭に述べた心理的問題の解決や、住民の意向を組み上げた復興を実施するために、絶対に必要かつ重要なものである。そうした仕組みの中で、復興の望ましいスピードや姿も考えられるであろう。
CFWの第二局面の難しさ:論じたこと、論じなかったこと
私は第二局面での経済的な復興およびその次の振興の段階については具体的なCFW活動に言及しなかった。それは地域別の個々の仕事内容が現段階で分からないからである。ただ、一般論で言うと、振興策に繋がるようなCFW活動をするならば、仕事は複雑化することが予想され、相対的に高度な技能が蓄積されるようになるだろう。そうした技能を査定し、賃金に結びつける仕組みは一般化できない。こうした難しさは、企業の労務管理において、従業員のやる気を損なわずに、活力を与えるような、公平な処遇を実践するのが難しいのと同じ性質の問題であり、復興だから特別なのではない。この管理費用を考えるとき、ここまで踏み込まずに、第一局面だけで終わらせることも一つの選択肢である。
第二に、福祉領域のような領域ではさらに難しい問題がある。ボランタリーな活動には価格(賃金)が必ずしも付与していないため、シグナリング効果がなく、したがって高度な技能の実践が埋もれている可能性がある。認識できないものにCFWで報酬を払うことは出来ない。さらに、ボランタリー労働と雇用労働が混淆とする中では、単に技能の高低のみを指標に価格付けが出来ないといった独自の難しさがある。
CFWを単なる自律的な支援活動にとどまらせるのではなく、政府等を通じた組織的活動に展開させる場合、復興から地域振興へのテイク・オフを考えなければならない。だが、もしそこまで出来ないという判断をするならば、余計な混乱を招かないように、早々に簡単な取り組みだけで引き上げるべきであると私は考えている。
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2011年03月29日 (火)
昨年「非教育の論理懇談会」でお会いした宮城県の高橋さんから土曜日にメールがあり、無事で復興に取り組んでおり、CFWの構想に興味を持っているので、書いたものを送ってほしいというご連絡をいただいた。『非教育の論理』は職業大学校の元先生である田中萬年先生が中心になって作られた本で、職業訓練として考えるべき論点がいろいろつまっている。実は昨年の夏、その出版を記念して懇談会が開かれ、その席で、宮城県で実地で高橋さんがそのような仕事をなさっているということで、自主的にご自分の仕事を深めてヒントを得という目的をもって勉強のために上京されたとのことであった。穏やかな静かな熱気とともに、一期一会の学ぶ機会をとても大切になさっている姿がとても印象的であった。まだ、具体的に何を出来るかというわけではないが、もちろん、私でお役に立てることがあれば、惜しみなく協力するつもりである。
実は、この時の懇談会の記録を3回に分けてブログに書いた。はっきり言って、私が会場に入る前までのバカバカしい話などカットしたいが、全体的には「職業訓練」を考える重要な論点がちりばめられているので、ここに改めて紹介したい。高橋さんのお名前を出すのはご迷惑かと思ったが、このときの記録に出しているので、あえてそのままにさせていただいた。
「非教育の論理」懇談会 前半
「非教育の論理」懇談会 後半その1
「非教育の論理」懇談会 後半その2
復興において職業訓練は決定的に重要になる。職業訓練は失業から次の雇用に向けての準備だからだ。震災によって産業自体がガタガタになってしまっている以上、多くの人は失業者にならざるを得ない。その間、産業の再建をお手伝いする一つの手段としてCFWがあるわけだが、残念ながら再建の途につけず、職を替えざるを得ない方もいらっしゃるだろう。そういう場合、いきなり職を見つけるか、次の職への転換するために、職業訓練が重要になる。もちろん、雇用自体を作る試みも必要である。
行政側から見ると、他に景気の良い受入産業があればよいが、そうでなければ、その産業の育成から考えなければならない。これは復興だけじゃなくて、地域経済開発で必要になることである。去年の夏、高橋さんは企業誘致と職業訓練を結び付けて考えなければならないと議論していると語ってくれた。そういう試みがどのように展開するかとても楽しみだった。復興はその先の地域開発とともにある。
ただ、直近、職業訓練の重要性が高いのは被災者を受け入れた地域である。被災地では産業の再建から手をつけなければならないからだ。この支援も重要である。
実は、この時の懇談会の記録を3回に分けてブログに書いた。はっきり言って、私が会場に入る前までのバカバカしい話などカットしたいが、全体的には「職業訓練」を考える重要な論点がちりばめられているので、ここに改めて紹介したい。高橋さんのお名前を出すのはご迷惑かと思ったが、このときの記録に出しているので、あえてそのままにさせていただいた。
「非教育の論理」懇談会 前半
「非教育の論理」懇談会 後半その1
「非教育の論理」懇談会 後半その2
復興において職業訓練は決定的に重要になる。職業訓練は失業から次の雇用に向けての準備だからだ。震災によって産業自体がガタガタになってしまっている以上、多くの人は失業者にならざるを得ない。その間、産業の再建をお手伝いする一つの手段としてCFWがあるわけだが、残念ながら再建の途につけず、職を替えざるを得ない方もいらっしゃるだろう。そういう場合、いきなり職を見つけるか、次の職への転換するために、職業訓練が重要になる。もちろん、雇用自体を作る試みも必要である。
行政側から見ると、他に景気の良い受入産業があればよいが、そうでなければ、その産業の育成から考えなければならない。これは復興だけじゃなくて、地域経済開発で必要になることである。去年の夏、高橋さんは企業誘致と職業訓練を結び付けて考えなければならないと議論していると語ってくれた。そういう試みがどのように展開するかとても楽しみだった。復興はその先の地域開発とともにある。
ただ、直近、職業訓練の重要性が高いのは被災者を受け入れた地域である。被災地では産業の再建から手をつけなければならないからだ。この支援も重要である。
2011年03月27日 (日)
私の知る限りでは、大分早い段階で島薗進先生がツイッターで集団疎開を訴えていらした。これは主に原発を受けての首都圏からの移住であったと思う。さらに、津波を中心とした被害の大きかった被災地の状況が明らかになってくるにつれ、おそらくはソフトバンクの孫正義社長が中心になって、それこそ政府(仙石元官房長官)に訴えたりして、集団疎開を訴える声が大きくなりつつある。この間、私は稲葉さんに提供してもらった炭鉱労働離職者の調査と『復興コミュニティ論入門』という本によって、いくつかの論点を考え始めた。これは要するに移民問題に似た性格を持っていることが了解された。
用意されるオプションは、
A:一次超短期避難(2,3カ月くらい:冬を越すまで)
B:一時短期避難(6か月くらい)
C:一次中期避難(1年くらい)
D:移住
もちろん、途中で変更可能にせざるを得ないだろう。
多くの人を移動させるという説得を行うには、短期であることと同時に帰郷のシナリオを具体的に示すことである。帰郷のシナリオは復興のシナリオに他ならない。ただ、このときに考えておかなければならないのは大量の集団移住が成功した場合に誰が復興を行うのかという問題が新たに浮上する。
動くことには覚悟とエネルギーがいる。物質的には支援者が何とかしてくれるかもしれないが、心理的な問題は合理的感情よりも愛郷精神の方が勝るかもしれない。心配されるのは、ただでさえ高齢化が進む地域で、高齢者だけが故郷に残るというシナリオであり、その場合、移住を推進した者は覚悟を決めて復興に取りかからねばならないだろう。もちろん、その際、自分の理想を実現するのではなく、本当に故郷を愛する人たちの声に耳を傾けなければならない。と、同時に、移動しないという選択を採る者がいる以上、移動する者の心に故郷を捨てたという意識が芽生えるのは避けがたい。そうした人たちが快く帰って来れるように、移動した人と移動しない人との間に生じるであろう心の距離を埋めるべき手段を講じる必要があるだろう。
私が提案したいのは受入先の自治体、NPO、企業、宗教団体などすべての機関が出来るだけ協力し、疎開元の地域の復興の手助けをすることである。それが具体的にどういう形になるか分からないが、何らかの復興の手伝いが疎開先でも行われていれば、人々はそこに携わることで故郷への思いを少しは癒すことが出来るかもしれない。時間が経ったら、再移住する前に準備として故郷と往来するような試みを行ってもよいだろう。そうして、お互いの都市がより緊密な関係を作るということが必要になると思われる。中には互いの智慧を寄せ合って、被災地と受入先のそれぞれの地で、経済だけではない新しい包括的な地域開発の在り方を実現することが出来るかもしれない。もちろん、この間に別の地域が入って協力するということだってあり得るだろう。このような試みが本当に復興を助けていると感じれば、残った方々にも故郷を捨てたことへの複雑な思いは幾分か緩和されると思う。
とはいえ、実際には短期の約束で移住しても、疎開者にとって最初の心理的抵抗ほどには疎開先を離れるインセンティブは高くないことが予想される。まして、おそらく日本中どこへ行っても最初は歓待してくれるであろう。若い世代の中には、この震災の影響から故郷の再興を誓い、実際にその思いを遂げる者も出てくるであろうが、他の選択肢がその子たちの目の前に広がり、そちらの道でも新たに自分を必要とされれば、別の道を歩む者も出てくるだろう。それはむろん、責むるべきことではない。
本格的な移住が始まる前に、とりわけ被災地外の人たちがきちんと心に留めなければならないことがある。それは震災前のコミュニティを完全に復旧させることは不可能であるということである。被災地の大切な誰かを大量に欠いたまま、以前のコミュニティを復活させることが出来るであろうか。新しい建物には思い出まで折り込むことは不可能である。支援者はそのことを忘れてはならない。ただ、そうした辛い現実を被災者にいたずらに押し付ける必要はまったくなく、どこまでも被災者の悲しさや苦しさに寄り添わなければならない。被災者の中には今起こりつつある二次的災害も含めて受け容れるまでには時間が掛かる方たちもいるだろう。だからこそ、いたずらに復興を唱えるのではなく、時間が掛かってもいいから、被災地の方々が死者とともに歩み、そうして、新しいコミュニティを作る手伝いしか道はないのだ。復興はその被災地の方たちのためにある。支援者はそうしたことに配慮しつつ、物理的な厳しさとのバランスに心を傾けなければならないと思う。
このプロセスで力を果たす可能性があるのは宗教団体かもしれない。私は優れた宗教者にはグリーフ・ケアの奉仕を期待しているが、はっきり言って、組織としての宗教団体全体に対して、生死に関わる心のケアの問題を必ずしも期待していない。私が彼らに期待するのは祈りを除けば、もっと物理的、かつ此岸的なことである。全国、場合によっては世界全体の支部組織と繋がるネットワークである。もともと近代日本に社会福祉を根付かせるときにも、救世軍や本願寺などは大きな役割を果たしている。この震災でも炊き出しも含めた物質的支援などでは各宗教団体が大きな活躍を見せている。今度はその力を結集して新しいネットワークづくりが求められている。
なお、東京からの疎開は今のところ、こうしたコミュニティの問題はあまり考えなくてよいと思われる。
追記
島薗先生からツイッターでコメントをいただきましたので、まとめておきました。
「集団移住と宗教の関係について」
用意されるオプションは、
A:一次超短期避難(2,3カ月くらい:冬を越すまで)
B:一時短期避難(6か月くらい)
C:一次中期避難(1年くらい)
D:移住
もちろん、途中で変更可能にせざるを得ないだろう。
多くの人を移動させるという説得を行うには、短期であることと同時に帰郷のシナリオを具体的に示すことである。帰郷のシナリオは復興のシナリオに他ならない。ただ、このときに考えておかなければならないのは大量の集団移住が成功した場合に誰が復興を行うのかという問題が新たに浮上する。
動くことには覚悟とエネルギーがいる。物質的には支援者が何とかしてくれるかもしれないが、心理的な問題は合理的感情よりも愛郷精神の方が勝るかもしれない。心配されるのは、ただでさえ高齢化が進む地域で、高齢者だけが故郷に残るというシナリオであり、その場合、移住を推進した者は覚悟を決めて復興に取りかからねばならないだろう。もちろん、その際、自分の理想を実現するのではなく、本当に故郷を愛する人たちの声に耳を傾けなければならない。と、同時に、移動しないという選択を採る者がいる以上、移動する者の心に故郷を捨てたという意識が芽生えるのは避けがたい。そうした人たちが快く帰って来れるように、移動した人と移動しない人との間に生じるであろう心の距離を埋めるべき手段を講じる必要があるだろう。
私が提案したいのは受入先の自治体、NPO、企業、宗教団体などすべての機関が出来るだけ協力し、疎開元の地域の復興の手助けをすることである。それが具体的にどういう形になるか分からないが、何らかの復興の手伝いが疎開先でも行われていれば、人々はそこに携わることで故郷への思いを少しは癒すことが出来るかもしれない。時間が経ったら、再移住する前に準備として故郷と往来するような試みを行ってもよいだろう。そうして、お互いの都市がより緊密な関係を作るということが必要になると思われる。中には互いの智慧を寄せ合って、被災地と受入先のそれぞれの地で、経済だけではない新しい包括的な地域開発の在り方を実現することが出来るかもしれない。もちろん、この間に別の地域が入って協力するということだってあり得るだろう。このような試みが本当に復興を助けていると感じれば、残った方々にも故郷を捨てたことへの複雑な思いは幾分か緩和されると思う。
とはいえ、実際には短期の約束で移住しても、疎開者にとって最初の心理的抵抗ほどには疎開先を離れるインセンティブは高くないことが予想される。まして、おそらく日本中どこへ行っても最初は歓待してくれるであろう。若い世代の中には、この震災の影響から故郷の再興を誓い、実際にその思いを遂げる者も出てくるであろうが、他の選択肢がその子たちの目の前に広がり、そちらの道でも新たに自分を必要とされれば、別の道を歩む者も出てくるだろう。それはむろん、責むるべきことではない。
本格的な移住が始まる前に、とりわけ被災地外の人たちがきちんと心に留めなければならないことがある。それは震災前のコミュニティを完全に復旧させることは不可能であるということである。被災地の大切な誰かを大量に欠いたまま、以前のコミュニティを復活させることが出来るであろうか。新しい建物には思い出まで折り込むことは不可能である。支援者はそのことを忘れてはならない。ただ、そうした辛い現実を被災者にいたずらに押し付ける必要はまったくなく、どこまでも被災者の悲しさや苦しさに寄り添わなければならない。被災者の中には今起こりつつある二次的災害も含めて受け容れるまでには時間が掛かる方たちもいるだろう。だからこそ、いたずらに復興を唱えるのではなく、時間が掛かってもいいから、被災地の方々が死者とともに歩み、そうして、新しいコミュニティを作る手伝いしか道はないのだ。復興はその被災地の方たちのためにある。支援者はそうしたことに配慮しつつ、物理的な厳しさとのバランスに心を傾けなければならないと思う。
このプロセスで力を果たす可能性があるのは宗教団体かもしれない。私は優れた宗教者にはグリーフ・ケアの奉仕を期待しているが、はっきり言って、組織としての宗教団体全体に対して、生死に関わる心のケアの問題を必ずしも期待していない。私が彼らに期待するのは祈りを除けば、もっと物理的、かつ此岸的なことである。全国、場合によっては世界全体の支部組織と繋がるネットワークである。もともと近代日本に社会福祉を根付かせるときにも、救世軍や本願寺などは大きな役割を果たしている。この震災でも炊き出しも含めた物質的支援などでは各宗教団体が大きな活躍を見せている。今度はその力を結集して新しいネットワークづくりが求められている。
なお、東京からの疎開は今のところ、こうしたコミュニティの問題はあまり考えなくてよいと思われる。
追記
島薗先生からツイッターでコメントをいただきましたので、まとめておきました。
「集団移住と宗教の関係について」
2011年03月24日 (木)
東日本大震災が起こって、早速、CFWというプロジェクトが起こっている。私も及ばずながら、これに参加した。労働問題・社会政策研究者として絶対に言っておかなければならないことがあると感じたからである。我ながら、前エントリからの素早い転身である。
このプロジェクトは災害(減災)政策を専門とする関西大学の永松伸吾さんの提言に賛同したものが行動しているものである。私も既に何人かの方に声を掛けて参加してもらったが、復興は多くの方の暮らしに関わる一大プロジェクトであり、だからこそ、そこで暮らす人々の心や生活を破壊するものであってはならないと思っているので、想像し得るすべての智慧を結集させたいと願っている。ぜひ、皆さんもご協力いただきたい。
CFWというのはCash-for-Workの略で、簡単にいえば、復興を地元の人の手で行うプロセスで、手伝ってくれた地元の人に賃金を払う、というものである。元々は貧困の多い開発途上国で起きた災害のときに、食糧支援だけではなく、貧困対策も兼ねて行われた。既に、ハイチの大地震やインドネシア・アチェの大津波などの災害だけでなく、貧困プログラムとしても全世界で手がけられている。社会政策関連の方々ならば、食糧支援から雇用援助へという話を聞けば直ちに「ああ、NPO活動版のWelfare-to-Workね」と反応されるであろう。発想の転換の仕方はまったく同型である。お気付きだと思うが、日本でそのまま適応できるわけがない。ということで、今、メンバーでいろいろ議論をし始めているところである。
このプロジェクトでブックレットを作るために、私も原稿を寄せたが、それを公開してよいのかどうか、分からないので、私の考えた基本的な論点だけ紹介しておく。これは私個人の意見であって、プロジェクト全体の総意ではない点はご注意いただきたい。
第1段階 簡単な仕事についてのみCFWで対応(主体はNPOなどボランティア団体)
第2段階 CFWは複雑化
地方自治体を中心とした行政、国は全体のバックアップ
・雇用政策(職安行政)および商工農林水産行政の連携による経済発展
・福祉行政
→ここから必要な事業をボランティア団体ないし民間企業に出し、CFWを実施する。
このとき、現地公務員の人数が足りないので、各地から当該行政担当の公務員(エースクラス)を派遣する。派遣元は当然、人手不足になるので、この分の給料を支援金で補填できる仕組みなどを整備する。ここで得た経験をもとに各地で地域振興してもらう。その後も人事交流をする。私は東北から日本全体を活性化させるくらいの心意気で考えている。
戦後、何度も労働省および地方自治体の職安行政は人の移動に関しては上手にやってきた。だが、それは何れも敗戦であり、斜陽産業から人を移すというのが主だった。特にイメージされるのは石炭、すなわち、炭鉱労働者である。そこから、地域発展というところになかなか結び付かなかった。これを組み合わせなければならない。
第1段階の仕事はおもに単純労働。賃金水準は1本。あくまでボランティア主体であり、賃金は最低賃金以下に設定する。CFWは経済復興を阻害しないようにするため、雇用の奪い合いにならないことを配慮する必要があるからである。これは既に世界中で実践されてきたものである。私はボランティアの一環という位置づけを強調するために、賃金というより見舞金を出す、という形にすべきだと主張している。こういう労働行政の禁じ手をやるのは、どんなに長くても短期(数か月)という条件があるから。ポイントは、絶対に短期、ということ。
第2段階は当然、期間も長くなるので、単純労働だけでは終わらない。査定も織り込んだ労務管理を考えなければならない。これは各団体、というか、各現場に任せざるを得ないだろう。ただ、話が厄介なのは、労務管理の技術もさることながら、ボランティアが入っているので、技能の高低だけで賃金を決める、というような明確なことを決めにくいのである。このあたりが難しいところ。これは継続して、考えてみましょう。
多分、産業としては水産業と福祉産業を興隆させる仕組みを作らないとならないと思う。圧倒的に高齢者の多い地域だろうから。そうなると重要なのは地域福祉である。そのことも書いたが、私のブログには社会政策(福祉)系の方で読んでくださっている方もいらっしゃるそうなので、ぜひにこの試みに参加して、一緒に議論して、新しい仕組み作りをお手伝いしましょう。
一番、大事なことはどんなことも手伝いであって、本来、被災地の方々と私どもの関係は人間同士、対等であるのが望ましいが、ややこしい上下関係が作られる可能性もある。だから、予め上下関係を明確にしておこう。よそ者はすべからく被災地住民の方々の下について奉仕する精神でやるべきである。もちろん、一切の説伏(学者が一般の人を議論で言い負かすこと)は厳禁である。
とりあえず、これからプロジェクトのインフラも整備されて、いろいろ議論できるかもしれないが、私は私でここでも復興において考えなければならない問題をどんどん発信するつもりなので、ぜひ、コメントを利用したり、ツイッターでつぶやくなりして、議論していただきたい。
このプロジェクトは災害(減災)政策を専門とする関西大学の永松伸吾さんの提言に賛同したものが行動しているものである。私も既に何人かの方に声を掛けて参加してもらったが、復興は多くの方の暮らしに関わる一大プロジェクトであり、だからこそ、そこで暮らす人々の心や生活を破壊するものであってはならないと思っているので、想像し得るすべての智慧を結集させたいと願っている。ぜひ、皆さんもご協力いただきたい。
CFWというのはCash-for-Workの略で、簡単にいえば、復興を地元の人の手で行うプロセスで、手伝ってくれた地元の人に賃金を払う、というものである。元々は貧困の多い開発途上国で起きた災害のときに、食糧支援だけではなく、貧困対策も兼ねて行われた。既に、ハイチの大地震やインドネシア・アチェの大津波などの災害だけでなく、貧困プログラムとしても全世界で手がけられている。社会政策関連の方々ならば、食糧支援から雇用援助へという話を聞けば直ちに「ああ、NPO活動版のWelfare-to-Workね」と反応されるであろう。発想の転換の仕方はまったく同型である。お気付きだと思うが、日本でそのまま適応できるわけがない。ということで、今、メンバーでいろいろ議論をし始めているところである。
このプロジェクトでブックレットを作るために、私も原稿を寄せたが、それを公開してよいのかどうか、分からないので、私の考えた基本的な論点だけ紹介しておく。これは私個人の意見であって、プロジェクト全体の総意ではない点はご注意いただきたい。
第1段階 簡単な仕事についてのみCFWで対応(主体はNPOなどボランティア団体)
第2段階 CFWは複雑化
地方自治体を中心とした行政、国は全体のバックアップ
・雇用政策(職安行政)および商工農林水産行政の連携による経済発展
・福祉行政
→ここから必要な事業をボランティア団体ないし民間企業に出し、CFWを実施する。
このとき、現地公務員の人数が足りないので、各地から当該行政担当の公務員(エースクラス)を派遣する。派遣元は当然、人手不足になるので、この分の給料を支援金で補填できる仕組みなどを整備する。ここで得た経験をもとに各地で地域振興してもらう。その後も人事交流をする。私は東北から日本全体を活性化させるくらいの心意気で考えている。
戦後、何度も労働省および地方自治体の職安行政は人の移動に関しては上手にやってきた。だが、それは何れも敗戦であり、斜陽産業から人を移すというのが主だった。特にイメージされるのは石炭、すなわち、炭鉱労働者である。そこから、地域発展というところになかなか結び付かなかった。これを組み合わせなければならない。
第1段階の仕事はおもに単純労働。賃金水準は1本。あくまでボランティア主体であり、賃金は最低賃金以下に設定する。CFWは経済復興を阻害しないようにするため、雇用の奪い合いにならないことを配慮する必要があるからである。これは既に世界中で実践されてきたものである。私はボランティアの一環という位置づけを強調するために、賃金というより見舞金を出す、という形にすべきだと主張している。こういう労働行政の禁じ手をやるのは、どんなに長くても短期(数か月)という条件があるから。ポイントは、絶対に短期、ということ。
第2段階は当然、期間も長くなるので、単純労働だけでは終わらない。査定も織り込んだ労務管理を考えなければならない。これは各団体、というか、各現場に任せざるを得ないだろう。ただ、話が厄介なのは、労務管理の技術もさることながら、ボランティアが入っているので、技能の高低だけで賃金を決める、というような明確なことを決めにくいのである。このあたりが難しいところ。これは継続して、考えてみましょう。
多分、産業としては水産業と福祉産業を興隆させる仕組みを作らないとならないと思う。圧倒的に高齢者の多い地域だろうから。そうなると重要なのは地域福祉である。そのことも書いたが、私のブログには社会政策(福祉)系の方で読んでくださっている方もいらっしゃるそうなので、ぜひにこの試みに参加して、一緒に議論して、新しい仕組み作りをお手伝いしましょう。
一番、大事なことはどんなことも手伝いであって、本来、被災地の方々と私どもの関係は人間同士、対等であるのが望ましいが、ややこしい上下関係が作られる可能性もある。だから、予め上下関係を明確にしておこう。よそ者はすべからく被災地住民の方々の下について奉仕する精神でやるべきである。もちろん、一切の説伏(学者が一般の人を議論で言い負かすこと)は厳禁である。
とりあえず、これからプロジェクトのインフラも整備されて、いろいろ議論できるかもしれないが、私は私でここでも復興において考えなければならない問題をどんどん発信するつもりなので、ぜひ、コメントを利用したり、ツイッターでつぶやくなりして、議論していただきたい。
2011年03月17日 (木)
東日本大震災が起こり、早速、阪神淡路大震災の教訓を活かす人たちが大勢、現れた。とても心強いことである。私はもう少し歴史的な視点に立って、この問題を考えたいと思う。
まず、参照基準として考えたいのは関東大震災である。関東大震災のときにはやはり貧富の格差が拡がり、現在と似ている状態が出来た。ただし、前提条件が若干異なる。1923年というのはやはり不況の後であったが、それは第一次大戦による好景気の反動であった。この大戦好景気によっていわゆる成金が生まれるなど、社会的な不公平感が高まった。それを反映して労働運動や農民運動も含めた社会運動が一気に盛り上がった。もっとも不幸であったのは、労働運動がしばしば労働者対資本家の対立と捉えられた点であり、これは実は労使協調といわれる総同盟も1920年前後は同じであった。それが対立を繰り返す中で徐々にやはり協調が大事であると舵を戻したのである。なぜ、この対立が不幸であったのかといえば、相手を倒せばよいという思想を生んだからである。実は、関東大震災後の復興プランは後藤新平を中心に練り上げられ、安田善次郎をスポンサーにして実現するはずであった。ところが、安田は金持ちの代表として暗殺され、計画は潰えたのである。だが、現代の日本ではもうかつてのような青年客気にはやった暗殺は終焉している。喜ぶべきことである。
2011年の日本は長期不況を経験した後である。経済はリーマンショック前に少し良くなりかけていたが、社会全体が経済の良さを体感する前に再び悪くなってしまったから、ずっと不況のような気分である。だから、格差といったとき、一般のイメージにあったのは1億総中流からこぼれ落ちた人が出てきたということだった。もちろん、そういう人もいたが、実際には「隠された貧困」がスポットライトを浴びたという面もあったと思う。2000年代には、私はまったく支持しないが、中高年が既得権益を得ているから若者が割を食っているという説が実しやかに語られた。この説はその当否を別にしてプラスの効果ももたらした。まず、若者バッシングを和らげ、そして堀江さんのような経済的成功者への呪詛を拡散させたことである。ちなみに、私は堀江さんの支持者でも何でもないし、彼の原理的市場主義にも反対だが、地震が起きてからの彼の寄付を募る行動は頼もしいし、素直に尊敬している。自分自身でレッテルを貼っていても人は簡単に割り切れるものではないと思う。
この地震が起こった後、ツイッターを中心とした連帯はすごい。市井の人の声が市井の人に届くだけじゃなく、猪瀬東京都副知事など具体的に動く力のある人の元にも届いて、現実を動かしている。東北を中心とした被災地を救おうという点でいろいろな結束を見せているのは力強い。それだけじゃなく、学者は学者で自分を持てる知恵を何とか提供したいとして、何かしらのつぶやきをする。そうやって、皆が結集しようとしていることが私にはすごいことのように思える。
一方でこの一体感に恐怖を感じている人もいる。自衛隊や東電の現場の人を賛美する声や日本人の美徳を顕彰する向きである。大いなる美質の存在を確認できたこと、それに救われたこと、私も決して生涯忘れはしまいが、そこで思考停止したら、危ういこともまた、否定できない。普通の人の美質は瞬間的であり、それが持続するものもあるが、変わってしまうものもある。忘れてはならないだろう。私がこの首都圏で起きている買い占め騒動は群集心理の表れであり、今こそこれを分析する社会学クラスタの出番ではないかとつぶやいたところ、澤田先生からこれが自粛と一体ではないかという意見が述べられた。澤田さんは全体主義への危惧をその前に述べており、直観的に先にあげた、この一体感への恐怖と同じことを感じておられたのだと思う。
買占め行動そのものはガソリンについては急遽、何とかすべき問題だが、幸い河野太郎氏のブログによれば、まもなく何とかなるとのことなので、終焉するだろう。食料についても原発の問題があるので、難しいが、緩やかに収束していくと思われる。被災地の方への支援のマイナスになったことは無念だが、関東地方も被害が相対的に小さかったとはいえ被災したのだから、これで社会的不安がある程度、吸収されるならば、社会的コストは安く済んでいるのかもしれないとさえ考えている。
澤田さんへの答えとして、この一体感は戦時期のそれというよりも、復興期や高度成長期のそれであるという風にコメントした。もちろん、戦時体制に突入するのではないかという恐怖を緩和させるためにいったものの、しかし、これとて決して楽観してよいという意味ではない。高度成長を支えた経済計画、政治的条件、技術的条件など客観的なことはこれから分析できるだろうし、既に蓄積もある。ただ、私が注目したいのは一つの時代精神である。高度成長期を支えてきた時代精神については間宏先生の『経済大国を作り上げた思想』がもっとも分かりやすい。間先生は詳細に分類されているが、大雑把に言うと、高度成長までを射程に入れた戦後の復興を支えた思いには戦争で亡くなった若者への贖罪意識が少なからずあった。そういう意味では必ずしも経済成長を支えた世代にとって、その成功が救いにはならなかったのではないかと私は考えている。ここで危惧されるのは今回の震災を通じて育まれる思いが、ありふれた日常を改めて感謝する縁(よすが)になるのはよいが、心理クラスタの方たちがすぐに指摘されたように、生き残った罪悪感、あるいは何もできない無力感に閉塞してしまうのは避けられないし、緩和策が必要であろう。これは直近だけではなく、中長期の問題である。自分自身の存在を許し、受け入れることから、新しい何かをともに作り上げることが大切だと思う。
何より嬉しいのはSNSを通じた一体感は、決して多様性を排除するものではないということだ。自粛、不謹慎を訴える人もいれば、それに反論する人もいる。そして、有名無名を問わずよい意見は広められ、悪い意見・誤った情報は修正される(されないものもある)。さらにかつてであれば孤独を覚悟しなければならなかったリーダーとなるべき有名人も、今は弱気を吐露すれば、声に出して支えてくれる無数の市井の人たちがいる。
2000年代は社会、経済、教育、政治、宗教その他、いろいろなシステムを見つめ直さなければならない時期に入っており、社会科学の学者たちはそれを意識して議論を積み重ねてきたように思う。ことは東日本の復興だけでは終わらないはずである。私たち学者が何か貢献できることは、過去の先達の叡智を受け継ぎつつ、今こうして動いている人々の息吹きに刺激を受けながら、暫定的な結論を出して、それを社会の中にある大いなる智慧によって練り上げていく土台を用意することではないかと考えている。そのために私にできることはボランティアに走ることではない。ただただ研鑽を重ねるしかないと思いを新たにしている。
まず、参照基準として考えたいのは関東大震災である。関東大震災のときにはやはり貧富の格差が拡がり、現在と似ている状態が出来た。ただし、前提条件が若干異なる。1923年というのはやはり不況の後であったが、それは第一次大戦による好景気の反動であった。この大戦好景気によっていわゆる成金が生まれるなど、社会的な不公平感が高まった。それを反映して労働運動や農民運動も含めた社会運動が一気に盛り上がった。もっとも不幸であったのは、労働運動がしばしば労働者対資本家の対立と捉えられた点であり、これは実は労使協調といわれる総同盟も1920年前後は同じであった。それが対立を繰り返す中で徐々にやはり協調が大事であると舵を戻したのである。なぜ、この対立が不幸であったのかといえば、相手を倒せばよいという思想を生んだからである。実は、関東大震災後の復興プランは後藤新平を中心に練り上げられ、安田善次郎をスポンサーにして実現するはずであった。ところが、安田は金持ちの代表として暗殺され、計画は潰えたのである。だが、現代の日本ではもうかつてのような青年客気にはやった暗殺は終焉している。喜ぶべきことである。
2011年の日本は長期不況を経験した後である。経済はリーマンショック前に少し良くなりかけていたが、社会全体が経済の良さを体感する前に再び悪くなってしまったから、ずっと不況のような気分である。だから、格差といったとき、一般のイメージにあったのは1億総中流からこぼれ落ちた人が出てきたということだった。もちろん、そういう人もいたが、実際には「隠された貧困」がスポットライトを浴びたという面もあったと思う。2000年代には、私はまったく支持しないが、中高年が既得権益を得ているから若者が割を食っているという説が実しやかに語られた。この説はその当否を別にしてプラスの効果ももたらした。まず、若者バッシングを和らげ、そして堀江さんのような経済的成功者への呪詛を拡散させたことである。ちなみに、私は堀江さんの支持者でも何でもないし、彼の原理的市場主義にも反対だが、地震が起きてからの彼の寄付を募る行動は頼もしいし、素直に尊敬している。自分自身でレッテルを貼っていても人は簡単に割り切れるものではないと思う。
この地震が起こった後、ツイッターを中心とした連帯はすごい。市井の人の声が市井の人に届くだけじゃなく、猪瀬東京都副知事など具体的に動く力のある人の元にも届いて、現実を動かしている。東北を中心とした被災地を救おうという点でいろいろな結束を見せているのは力強い。それだけじゃなく、学者は学者で自分を持てる知恵を何とか提供したいとして、何かしらのつぶやきをする。そうやって、皆が結集しようとしていることが私にはすごいことのように思える。
一方でこの一体感に恐怖を感じている人もいる。自衛隊や東電の現場の人を賛美する声や日本人の美徳を顕彰する向きである。大いなる美質の存在を確認できたこと、それに救われたこと、私も決して生涯忘れはしまいが、そこで思考停止したら、危ういこともまた、否定できない。普通の人の美質は瞬間的であり、それが持続するものもあるが、変わってしまうものもある。忘れてはならないだろう。私がこの首都圏で起きている買い占め騒動は群集心理の表れであり、今こそこれを分析する社会学クラスタの出番ではないかとつぶやいたところ、澤田先生からこれが自粛と一体ではないかという意見が述べられた。澤田さんは全体主義への危惧をその前に述べており、直観的に先にあげた、この一体感への恐怖と同じことを感じておられたのだと思う。
買占め行動そのものはガソリンについては急遽、何とかすべき問題だが、幸い河野太郎氏のブログによれば、まもなく何とかなるとのことなので、終焉するだろう。食料についても原発の問題があるので、難しいが、緩やかに収束していくと思われる。被災地の方への支援のマイナスになったことは無念だが、関東地方も被害が相対的に小さかったとはいえ被災したのだから、これで社会的不安がある程度、吸収されるならば、社会的コストは安く済んでいるのかもしれないとさえ考えている。
澤田さんへの答えとして、この一体感は戦時期のそれというよりも、復興期や高度成長期のそれであるという風にコメントした。もちろん、戦時体制に突入するのではないかという恐怖を緩和させるためにいったものの、しかし、これとて決して楽観してよいという意味ではない。高度成長を支えた経済計画、政治的条件、技術的条件など客観的なことはこれから分析できるだろうし、既に蓄積もある。ただ、私が注目したいのは一つの時代精神である。高度成長期を支えてきた時代精神については間宏先生の『経済大国を作り上げた思想』がもっとも分かりやすい。間先生は詳細に分類されているが、大雑把に言うと、高度成長までを射程に入れた戦後の復興を支えた思いには戦争で亡くなった若者への贖罪意識が少なからずあった。そういう意味では必ずしも経済成長を支えた世代にとって、その成功が救いにはならなかったのではないかと私は考えている。ここで危惧されるのは今回の震災を通じて育まれる思いが、ありふれた日常を改めて感謝する縁(よすが)になるのはよいが、心理クラスタの方たちがすぐに指摘されたように、生き残った罪悪感、あるいは何もできない無力感に閉塞してしまうのは避けられないし、緩和策が必要であろう。これは直近だけではなく、中長期の問題である。自分自身の存在を許し、受け入れることから、新しい何かをともに作り上げることが大切だと思う。
何より嬉しいのはSNSを通じた一体感は、決して多様性を排除するものではないということだ。自粛、不謹慎を訴える人もいれば、それに反論する人もいる。そして、有名無名を問わずよい意見は広められ、悪い意見・誤った情報は修正される(されないものもある)。さらにかつてであれば孤独を覚悟しなければならなかったリーダーとなるべき有名人も、今は弱気を吐露すれば、声に出して支えてくれる無数の市井の人たちがいる。
2000年代は社会、経済、教育、政治、宗教その他、いろいろなシステムを見つめ直さなければならない時期に入っており、社会科学の学者たちはそれを意識して議論を積み重ねてきたように思う。ことは東日本の復興だけでは終わらないはずである。私たち学者が何か貢献できることは、過去の先達の叡智を受け継ぎつつ、今こうして動いている人々の息吹きに刺激を受けながら、暫定的な結論を出して、それを社会の中にある大いなる智慧によって練り上げていく土台を用意することではないかと考えている。そのために私にできることはボランティアに走ることではない。ただただ研鑽を重ねるしかないと思いを新たにしている。
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