2011年08月31日 (水)
週末に歴史班の研究会があり、その第一部が菅山さんの本の検討で、不肖私も報告させていただきました。第二部報告の森さんがA4で8枚、それから第三部報告の院生の堤さんが10枚、という、その数字を聞いたときは、こいつらおかしいすごい熱心だなぁと思いましたが、私のレジュメは1枚、それに先日の書評です。全体的には書評の解説です。後から分かりましたが、御両人ともそれだけ苅谷先生への愛情が深いということでした。
菅山先生ご本人と議論しましたが、私にとっては取り立てて驚くようなことはありませんでした。ただ、コミュニケーションを取れたことは大事だし、何より菅山さんも制度学派なんだなとしみじみ感じ入りはしましたが、それは感傷のようなものです。誰だかにもっと激しいバトルのような展開になると思っていたけれども意外だったと言われましたが、最近の私はそういうエネルギーの無駄遣いはしないのです(堕落したという評価は甘んじて受けましょう)。実際、労働史研究の知り合いというのは、今、コミュニティの人数も少ないですし、結構、共通了解が出来ていて、それぞれが深めあっている、というようなところでしょうか。新しい世代だと、私と同じなのは榎さんですけれども、彼女との間にもかなり共通了解が多いんですよ。特に企業内福祉の在り方とかね。その共通了解と云うのは、多分、イデオロギー対立がなくて、事実の探求と方法の共有が出来ているということでしょうかね。
私の疑問は、この本全体は大企業の雇用モデルを扱っているのに、職安の対象は中小企業がメインでしょ?それはちょっとずれてませんか、ということでした。菅山さんはその点を認めながら、一回出来あがった全国的な制度の枠組みの中に、大企業もやがて包摂されていくという意味で、大きい制度が大事だという趣旨を説明をされました。これがやり切りているかどうかは、意地悪く詮索すれば、出来ていないというか、これは書かれていない、想像力の世界です。で、想像力と書くと、悪口を書いていると早とちりをする方もいらっしゃるかもしれませんが、ここではプラスに受け止めています。全部実証(考証)だけで書くことは出来ない。その後ろに何らかのストーリーがないと、全体の軸は描けません。でも、こればっかりは推測するしかないから、最終的には本人に確認するしかないですね。それを聞いて、アイディアとしては説得的だったということです。だから、分からないことを確認したので、話はそこでおしまい。後はお互いの知っていることの事実確認です。私が持っていた労働市場の歴史のイメージと菅山先生と苅谷先生のお持ちのイメージはそんなにズレてなかったですね。
合宿では苅谷節を久しぶりにお伺いしましたが、とても楽しかったです。ただ、苅谷先生からブログに書くなよと言われているので(笑)、というか、よくよく考えると、その予防線は森さんのせいではないか、と思わなくもないですが、具体的なことは控えましょう。ただ、苅谷先生のお話しを伺いながら、この人は本当の政治を知っている人だなと感じ入りました。本当の政治というのは、お題目ではなく、実効を伴うという意味です。というか、苅谷先生はサントリーのときにお会いしてもいますが、著作を通じて私が想像していた背景のストーリーと、ご自身の口から発せられるストーリーの間にそんなに大きなズレはなかったです。
本当はね、苅谷先生より森さんの方が問題なんですよ。苅谷さんの『教育と平等』は一般的な二項対立を枕に持ってきて、徐々にその間のグレーゾーンを書き込んで行くという手の込んだもので、実はこの手法は前から変わらない。ところが、エピゴーネンたちは苅谷さんを一方の軸、たとえばカリフォルニアの実験を相対化しようとしている点を捉えて、個性化教育反対かのように受け止めて行く。森さんはそのエピゴーネンを批判しているわけだけれども、それは逆に森さん自身が個性化教育賛成の陣営に過ぎないことを明らかにしているだけであり、議論の構図としてはその二項対立を利用して、むしろ強化している。それは根幹のところで、苅谷先生から学問的に後退しています。ただ、政治的に、運動的に実践を鼓舞し、援けるという意味では正しいと思いますよ。仮想敵を作って、それを批判するという手法は、読んだ人を分かった気にさせやすいからね。まぁ、もっとも森さん自身はこれはあくまで派生的に出てきて、本当はもっと先のことを考えていることもはっきり伺えたので、森さんの研究は今後大いに期待できます。その研究が出た時、彼がなぜ歴史班の班長なのか、その本当の意味を誰もが知ることになるでしょう。皆さん、ぜひ注目してくださいね。
あとは二日目に塩崎さんに相当、失礼なことを聞いてしまいました。教育社会学は天野先生言うところの「辺境性」を持っていたというけれども、実は教育学も戦前はそうで、内容を見たら、今でも心理学(発達心理学)、政治学ないし哲学(自由と平等)、社会福祉などからの借りものが多く、独自のディシプリンといえるものが確立しているとは思えない。教育学はいつから何の根拠があってディシプリンがあるかのように振舞うのですか、と。この点については塩崎さんからのリプライよりも苅谷先生が示唆された教員養成をする東大の教育学部を作ったことの話が面白かった。なるほど、資格試験化すると、既得権益化して、学問が荒廃するんだなと、かなり勝手に解釈して納得してしまいました。まぁ、当り前ですわ。学問は正解が見つからないことに耐え、それを探求することですが、試験は分かったことにした正解を用意することにほかなりません。だから、正解を本当の正解だとしか理解できない人は・・・。
眠くなってきたので、今日はここでお開きです。一部、話を面白くするために、多少、盛りましたが、そのあたりは気にしないでください。
菅山先生ご本人と議論しましたが、私にとっては取り立てて驚くようなことはありませんでした。ただ、コミュニケーションを取れたことは大事だし、何より菅山さんも制度学派なんだなとしみじみ感じ入りはしましたが、それは感傷のようなものです。誰だかにもっと激しいバトルのような展開になると思っていたけれども意外だったと言われましたが、最近の私はそういうエネルギーの無駄遣いはしないのです(堕落したという評価は甘んじて受けましょう)。実際、労働史研究の知り合いというのは、今、コミュニティの人数も少ないですし、結構、共通了解が出来ていて、それぞれが深めあっている、というようなところでしょうか。新しい世代だと、私と同じなのは榎さんですけれども、彼女との間にもかなり共通了解が多いんですよ。特に企業内福祉の在り方とかね。その共通了解と云うのは、多分、イデオロギー対立がなくて、事実の探求と方法の共有が出来ているということでしょうかね。
私の疑問は、この本全体は大企業の雇用モデルを扱っているのに、職安の対象は中小企業がメインでしょ?それはちょっとずれてませんか、ということでした。菅山さんはその点を認めながら、一回出来あがった全国的な制度の枠組みの中に、大企業もやがて包摂されていくという意味で、大きい制度が大事だという趣旨を説明をされました。これがやり切りているかどうかは、意地悪く詮索すれば、出来ていないというか、これは書かれていない、想像力の世界です。で、想像力と書くと、悪口を書いていると早とちりをする方もいらっしゃるかもしれませんが、ここではプラスに受け止めています。全部実証(考証)だけで書くことは出来ない。その後ろに何らかのストーリーがないと、全体の軸は描けません。でも、こればっかりは推測するしかないから、最終的には本人に確認するしかないですね。それを聞いて、アイディアとしては説得的だったということです。だから、分からないことを確認したので、話はそこでおしまい。後はお互いの知っていることの事実確認です。私が持っていた労働市場の歴史のイメージと菅山先生と苅谷先生のお持ちのイメージはそんなにズレてなかったですね。
合宿では苅谷節を久しぶりにお伺いしましたが、とても楽しかったです。ただ、苅谷先生からブログに書くなよと言われているので(笑)、というか、よくよく考えると、その予防線は森さんのせいではないか、と思わなくもないですが、具体的なことは控えましょう。ただ、苅谷先生のお話しを伺いながら、この人は本当の政治を知っている人だなと感じ入りました。本当の政治というのは、お題目ではなく、実効を伴うという意味です。というか、苅谷先生はサントリーのときにお会いしてもいますが、著作を通じて私が想像していた背景のストーリーと、ご自身の口から発せられるストーリーの間にそんなに大きなズレはなかったです。
本当はね、苅谷先生より森さんの方が問題なんですよ。苅谷さんの『教育と平等』は一般的な二項対立を枕に持ってきて、徐々にその間のグレーゾーンを書き込んで行くという手の込んだもので、実はこの手法は前から変わらない。ところが、エピゴーネンたちは苅谷さんを一方の軸、たとえばカリフォルニアの実験を相対化しようとしている点を捉えて、個性化教育反対かのように受け止めて行く。森さんはそのエピゴーネンを批判しているわけだけれども、それは逆に森さん自身が個性化教育賛成の陣営に過ぎないことを明らかにしているだけであり、議論の構図としてはその二項対立を利用して、むしろ強化している。それは根幹のところで、苅谷先生から学問的に後退しています。ただ、政治的に、運動的に実践を鼓舞し、援けるという意味では正しいと思いますよ。仮想敵を作って、それを批判するという手法は、読んだ人を分かった気にさせやすいからね。まぁ、もっとも森さん自身はこれはあくまで派生的に出てきて、本当はもっと先のことを考えていることもはっきり伺えたので、森さんの研究は今後大いに期待できます。その研究が出た時、彼がなぜ歴史班の班長なのか、その本当の意味を誰もが知ることになるでしょう。皆さん、ぜひ注目してくださいね。
あとは二日目に塩崎さんに相当、失礼なことを聞いてしまいました。教育社会学は天野先生言うところの「辺境性」を持っていたというけれども、実は教育学も戦前はそうで、内容を見たら、今でも心理学(発達心理学)、政治学ないし哲学(自由と平等)、社会福祉などからの借りものが多く、独自のディシプリンといえるものが確立しているとは思えない。教育学はいつから何の根拠があってディシプリンがあるかのように振舞うのですか、と。この点については塩崎さんからのリプライよりも苅谷先生が示唆された教員養成をする東大の教育学部を作ったことの話が面白かった。なるほど、資格試験化すると、既得権益化して、学問が荒廃するんだなと、かなり勝手に解釈して納得してしまいました。まぁ、当り前ですわ。学問は正解が見つからないことに耐え、それを探求することですが、試験は分かったことにした正解を用意することにほかなりません。だから、正解を本当の正解だとしか理解できない人は・・・。
眠くなってきたので、今日はここでお開きです。一部、話を面白くするために、多少、盛りましたが、そのあたりは気にしないでください。
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2011年08月26日 (金)
明日から広田理論科研の合宿で、かつ、そこで菅山先生の『「就社」社会の誕生』を取り上げ、かつ、私が第一報告者ということになっているのだが、どう話したもんか。とりあえず、大原に書いた書評はこれです(PDFです)。そこに書いたことだけを話すのでは、さすがに芸が足りないという気もするわけで。
濱口先生にも取り上げてもらいましたが、菅山先生の今回の本が戦後労働史の中で最高の一冊である、というのが私の意見なんですね。そのあたりのことからお話ししましょうか。
戦後の労働史のイメージを作った金字塔的な研究というのは多分、間宏と兵藤鞘Eに始まってます。ただ、これも厳密に言うと、いわゆる労問研の研究に負っている。たとえば、間宏さんの日本的経営論は意外なほど藤田若雄の講座派的な議論を踏襲しているし、兵藤先生もいわゆる氏原テーゼ(間接管理から直接管理へ)を中心に描いているといってもいい。実は「日本における労資関係の展開」は前提条件として書いている当時の日本経済史研究の紹介を抜いてしまうと、随分、薄くなってしまいます。ここだけの話ですが。
昔の人たちの関心は、今で言うところの内部労働市場、かつてであれば、企業内封鎖市場でした。この封建的な慣行がいったいなぜ存在するのか(デフォルメし過ぎですが)?存在自体は大前提だったんですね。そういう意味では、中西洋先生が言うように(社会政策・労働問題)の根幹になるような理論としての労働市場論はなかったけれども、労働市場への関心はもちろん、ありました。
そういう意味で意外なことに、その反対者は小池和男先生なんですね。ここら辺がある時期からの小池先生の議論しか知らない人には?でしょうか。小池先生の博士論文というか、本格的な最初のお仕事は『日本の賃金交渉』で、これは企業内封鎖市場と云っているけれども、日本は実質的な産別交渉をやっているじゃないか、ということを全繊同盟や私鉄労連、鉄鋼労連などで実証的に明らかにしたものです。断絶されて居ない相場があることを明らかにしたと言えます。
ただ、小池先生が多くの人に注目されるのは、1977年の『職場の労働組合と参加』における日米比較以降です。ここから小池先生が明らかにされていったメカニズムは、非常にデフォルメしていえば、日本の内部労働市場がいかに高い競争力を発揮しているか、ということです。あ、どうでもいいですが、実は有名な労問研の研究会を実働部隊として組織したのは社研助手時代の小池先生です(あの文献研究を出したグループです)。その初期の1950年代から先生は日本最先進国論を打っていたと伺っています。小池先生御自身の主張とそれが世間的に注目される時期には実はズレがあります。
ブルーカラーのホワイトカラー化というテーゼはブルーカラーの賃金カーブの各国比較から発見されたもので、日本の内部労働市場の充実度を示す指標とも言うべきものでした。もちろん、賃金論レベルでは、年功賃金が生活賃金なのか否かという議論が繰り返し行われてきたのですが、今日の話とは関係ないので割愛。菅山さんはこの議論を踏襲して、敷衍させようとしました。これは必然的にというか、キャリア分析に繋がってくんですね。それが一つは菅山さんの仕事であり、その後の市原先生の仕事になっていく。こういう形だと思います。ブルー、ホワイトの隣接領域から段々、ホワイトのキャリアに今は関心が移っていますね。それはそれで面白い領域になって来ます。でも、それはきっともう、社会政策・労働問題というより、経営史の新しい地平かもしれません。ちなみに、ホワイト研究は労働問題研究は遅れていました。先進的なのは、たとえば技術者研究とかはもともと経営史ですし、それから教育社会学では60年代から麻生先生のサラリーマン研究があります。天野先生の最初の論文?も技術者研究ですね。
で、労働市場という点では、実はそれほど研究が進んでいない。大きい流れは、藤林敬三先生の戦前期の繊維労働市場の研究があって、それを西川俊作先生が継がれています(これは『地域間労働移動と労働市場』となります)が、歴史研究としてはあんまり続いていない。そこで、ポンと90年代に『学校・職安と労働市場』という苅谷・菅沼・石田編の研究が出てくるわけです。で、その教育社会学的な背景も多少、勉強したけど、面倒なので割愛。それはもう一人の報告者に任せます。
近代の労働市場は需給がどうであれ組織化が進んで行くんですよ。景気が悪くて、労働供給が過剰な場合、失業対策として。景気が良くて、労働需要が過剰な場合、企業側がどんどん整備を求めて行きます。ま、人手が足りなくなると、そこに優先的に融通するのか、という話になる。戦争中はものすごい労働不足ですからね、どこに配置するのか、ということが重要になる。高度成長も大まかには同じです。で、戦争が始まる前は大まかに言えば失業対策として整備が進んで行ったわけです(注:ただし、高度成長期でも石炭のように産業の構造転換が起こると、失業対策的側面が強い事業も存在するわけですが)。何れにせよ、1920年前後というのは、そういう意味で一つの画期といっていいんじゃないでしょうか。
1910年代くらいまでの労働市場はやはり縁故中心です。これはもともと日本の雇用関係が本人よりも第三者と雇い主の関係が重要というところからスタートしていることから考えてもまぁ当然ですわな。で、近代がスタートしてもっとも組織的に労働者を募集したのは紡績です。途中までは女の子だけじゃなくてね。彼らは募集人を利用する。この募集人はもう人買いみたいな最低な人たちから、地元の名士とか、神様のごとき人格者まで、ピンキリです。でも、こういう地縁を軸に利用していたんですね。で、戦時中くらいになっても基本的に変わらない。多分、大正半ばから小学校が一つの機関として利用されるけれども、それは義務教育の普及(卒業)と関係あるのかもしれません。というのは、紡績は小学校中退者への教育も随分していたので、つまりはそういう人も雇っていました。1930年代に職安が入って、もちろん、書類は出さなきゃいけないし、そういう意味で職安の顔は立てるけど、実際は募集人が大事だったように私が見た富士紡の戦時期の資料からは推測しています(神奈川の公文書館で読めます)。6・3制以降は石田・村尾論文ね。このあたりの変化は時期も違うので見えてこない。
研究はどこからかスタートしなければならないので戦後からでもよかったのですが、今のところの見取り図だと、やっぱり戦後だけだと物足りない。その最初の頃のメカニズムは菅山さんの本でもよく分からないんですね。
書いていて気がついたけれども、私がもっている労働市場の変化の歴史像は多分、多くの人とは共有できていない・・・気がする。
まぁ、いいや、疲れたからこのへんでやめよう。あとはレジュメにする段階で考えるか。
残りはキーワード的に。
兵藤の内部化実証根拠=養成工制度の確立、企業内学校
労働者の採用方、労働ボスから人事部(職工部)へ? 実証なし
重工業ではどのように行われていたのか?
濱口先生にも取り上げてもらいましたが、菅山先生の今回の本が戦後労働史の中で最高の一冊である、というのが私の意見なんですね。そのあたりのことからお話ししましょうか。
戦後の労働史のイメージを作った金字塔的な研究というのは多分、間宏と兵藤鞘Eに始まってます。ただ、これも厳密に言うと、いわゆる労問研の研究に負っている。たとえば、間宏さんの日本的経営論は意外なほど藤田若雄の講座派的な議論を踏襲しているし、兵藤先生もいわゆる氏原テーゼ(間接管理から直接管理へ)を中心に描いているといってもいい。実は「日本における労資関係の展開」は前提条件として書いている当時の日本経済史研究の紹介を抜いてしまうと、随分、薄くなってしまいます。ここだけの話ですが。
昔の人たちの関心は、今で言うところの内部労働市場、かつてであれば、企業内封鎖市場でした。この封建的な慣行がいったいなぜ存在するのか(デフォルメし過ぎですが)?存在自体は大前提だったんですね。そういう意味では、中西洋先生が言うように(社会政策・労働問題)の根幹になるような理論としての労働市場論はなかったけれども、労働市場への関心はもちろん、ありました。
そういう意味で意外なことに、その反対者は小池和男先生なんですね。ここら辺がある時期からの小池先生の議論しか知らない人には?でしょうか。小池先生の博士論文というか、本格的な最初のお仕事は『日本の賃金交渉』で、これは企業内封鎖市場と云っているけれども、日本は実質的な産別交渉をやっているじゃないか、ということを全繊同盟や私鉄労連、鉄鋼労連などで実証的に明らかにしたものです。断絶されて居ない相場があることを明らかにしたと言えます。
ただ、小池先生が多くの人に注目されるのは、1977年の『職場の労働組合と参加』における日米比較以降です。ここから小池先生が明らかにされていったメカニズムは、非常にデフォルメしていえば、日本の内部労働市場がいかに高い競争力を発揮しているか、ということです。あ、どうでもいいですが、実は有名な労問研の研究会を実働部隊として組織したのは社研助手時代の小池先生です(あの文献研究を出したグループです)。その初期の1950年代から先生は日本最先進国論を打っていたと伺っています。小池先生御自身の主張とそれが世間的に注目される時期には実はズレがあります。
ブルーカラーのホワイトカラー化というテーゼはブルーカラーの賃金カーブの各国比較から発見されたもので、日本の内部労働市場の充実度を示す指標とも言うべきものでした。もちろん、賃金論レベルでは、年功賃金が生活賃金なのか否かという議論が繰り返し行われてきたのですが、今日の話とは関係ないので割愛。菅山さんはこの議論を踏襲して、敷衍させようとしました。これは必然的にというか、キャリア分析に繋がってくんですね。それが一つは菅山さんの仕事であり、その後の市原先生の仕事になっていく。こういう形だと思います。ブルー、ホワイトの隣接領域から段々、ホワイトのキャリアに今は関心が移っていますね。それはそれで面白い領域になって来ます。でも、それはきっともう、社会政策・労働問題というより、経営史の新しい地平かもしれません。ちなみに、ホワイト研究は労働問題研究は遅れていました。先進的なのは、たとえば技術者研究とかはもともと経営史ですし、それから教育社会学では60年代から麻生先生のサラリーマン研究があります。天野先生の最初の論文?も技術者研究ですね。
で、労働市場という点では、実はそれほど研究が進んでいない。大きい流れは、藤林敬三先生の戦前期の繊維労働市場の研究があって、それを西川俊作先生が継がれています(これは『地域間労働移動と労働市場』となります)が、歴史研究としてはあんまり続いていない。そこで、ポンと90年代に『学校・職安と労働市場』という苅谷・菅沼・石田編の研究が出てくるわけです。で、その教育社会学的な背景も多少、勉強したけど、面倒なので割愛。それはもう一人の報告者に任せます。
近代の労働市場は需給がどうであれ組織化が進んで行くんですよ。景気が悪くて、労働供給が過剰な場合、失業対策として。景気が良くて、労働需要が過剰な場合、企業側がどんどん整備を求めて行きます。ま、人手が足りなくなると、そこに優先的に融通するのか、という話になる。戦争中はものすごい労働不足ですからね、どこに配置するのか、ということが重要になる。高度成長も大まかには同じです。で、戦争が始まる前は大まかに言えば失業対策として整備が進んで行ったわけです(注:ただし、高度成長期でも石炭のように産業の構造転換が起こると、失業対策的側面が強い事業も存在するわけですが)。何れにせよ、1920年前後というのは、そういう意味で一つの画期といっていいんじゃないでしょうか。
1910年代くらいまでの労働市場はやはり縁故中心です。これはもともと日本の雇用関係が本人よりも第三者と雇い主の関係が重要というところからスタートしていることから考えてもまぁ当然ですわな。で、近代がスタートしてもっとも組織的に労働者を募集したのは紡績です。途中までは女の子だけじゃなくてね。彼らは募集人を利用する。この募集人はもう人買いみたいな最低な人たちから、地元の名士とか、神様のごとき人格者まで、ピンキリです。でも、こういう地縁を軸に利用していたんですね。で、戦時中くらいになっても基本的に変わらない。多分、大正半ばから小学校が一つの機関として利用されるけれども、それは義務教育の普及(卒業)と関係あるのかもしれません。というのは、紡績は小学校中退者への教育も随分していたので、つまりはそういう人も雇っていました。1930年代に職安が入って、もちろん、書類は出さなきゃいけないし、そういう意味で職安の顔は立てるけど、実際は募集人が大事だったように私が見た富士紡の戦時期の資料からは推測しています(神奈川の公文書館で読めます)。6・3制以降は石田・村尾論文ね。このあたりの変化は時期も違うので見えてこない。
研究はどこからかスタートしなければならないので戦後からでもよかったのですが、今のところの見取り図だと、やっぱり戦後だけだと物足りない。その最初の頃のメカニズムは菅山さんの本でもよく分からないんですね。
書いていて気がついたけれども、私がもっている労働市場の変化の歴史像は多分、多くの人とは共有できていない・・・気がする。
まぁ、いいや、疲れたからこのへんでやめよう。あとはレジュメにする段階で考えるか。
残りはキーワード的に。
兵藤の内部化実証根拠=養成工制度の確立、企業内学校
労働者の採用方、労働ボスから人事部(職工部)へ? 実証なし
重工業ではどのように行われていたのか?
2011年08月18日 (木)
野口先生からご著書を頂きました。ありがとうございます。
この本は私の個人的な意見ではものすごく重要な本だと思います。今は社会福祉研究と呼ばれている分野はかつては社会事業研究という看板であったわけですが、その「社会事業」という言葉を詰めて行って、問題に接近しようとしているところが面白いと思います。ざっくり言うと、社会福祉の歴史研究は方法論が甘いところがあったんだけど、野口先生はそこで新しい方法を見出そうとしている。それが成功しているのか、失敗しているのかは微妙なところですが、本来は非常にポレミークな研究だと思います。問題は投げかけられた方が、それに反応するだけの気概があるかどうかですね。
この本の意義を理解するには、予備知識が相当に必要なんですが、社会事業史っていうのは、総体的にその時代に使われていた表現を大事にしてきたと思います。これは吉田久一先生の作った伝統じゃないでしょうか。吉田先生は雑誌とか、大学の講義名に、昭和○○年に使われたから、ここからは社会福祉の時代だと考える、というような非常に徹底して史実を大事にする手法を使われました。ただ、これは名人芸なんですね。野口さんはこの伝統をもう少し方法論的に高めて、抽象度を上げて理論的なレベルでも検討に耐えうるような方法を提示されようとした。その意味では批判的に先行研究を摂取しようとされています。この姿勢は学ぶべきものがあると思います。
たしかに、吉田先生の研究って、方法論的には甘い、と私も思います。野口さんの初めのモチーフは、そもそも社会事業研究なのに大河内一男の外在的な社会事業論に引っ張られるなんておかしいじゃないか、ということだと思いますが、吉田先生は後世の我々から見れば、その引っ張られた代表的研究者の一人でしょう。ただ、1950年代の草創期には社会政策学からの独立、というのが非常に重要なトピックだったんですね。ここらあたりの話を知りたい方は『社会福祉学研究の50年』というマニアックな本がありますから、ぜひご覧ください。吉田先生はじめ、色々な方の歴史的証言も沢山あります。
実は、私自身も「社会政策」とは何かという問題を考えていくにあたって同様の問題にぶち当たったのですが、吉田先生がクリア出来なかった問題があります。それは歴史普遍的な意味での「社会事業」と20世紀以降出現してきた「社会事業」の区分をどうするか、という問題です。狭義に考えれば、19世紀の慈善事業は社会事業ではないとも言えます。では、その狭義の「社会事業」と「慈善事業」に通底する何かを表現するときどうすればいいのか?これは社会事業が看板であったときには、わりとルーズに社会事業と呼んできたし、社会福祉が看板になってからは社会福祉と呼んできたんですね。でも、それってある意味では、問題を解決することにはならないんですね。これは社会政策も同じで、シュタイン以前のものを本当に社会政策って呼んでいいの?ということは必ず問題になるはずなんです。
野口さんが出された答えは、なかなか面白い。方法的には過去の論者の「社会事業論」を分類整理していくんです。その整理の仕方も秀逸だと思いますが、これは方法的にもっと面白い問題を含んでいる。色々な定義をしていこうとすると、「社会事業って結局、具体的に何?」という素朴な疑問を突き付けられるときが来ます。野口さんはそこをわざと融通無碍に言って、その境界線が時代によって変化していく、それこそが社会事業の特徴なんだと切り返して行くわけです。実は、現在の社会福祉論の中でも固有論だとか、領域をどう理解するかというのは一つの大きい論点ですが、そこに一つの回答を提出したと見ることもできます。社会事業と社会教育はある意味では非常に近いところにあるし、その含まれる範囲が非常に広くて境界が曖昧という共通点を持っています。その意味では野口さんの提示された方法は汎用性が高いんですね。
ですが、実は野口さんの方法は「社会政策」にも適用できるのではないか、ということがあります。そして、それを適用してしまうと、野口さんの議論の非常に重要な部分が切り崩されてしまう。というのは、野口さんは「社会政策」については大河内社会政策論で氷漬けにしているんですね。だから、社会政策論も大河内さんの議論じゃなくて野口さんの方法でやったらどうなるだろう?という問題があります。研究のプラクティカルな作業から言えば、実は野口さんは「社会政策」についても論文だったら、すぐに一本くらいまとめられる蓄積を持っていると私は思います。それは「社会事業」と「社会政策」が隣接していて、そこを軸に議論している人が多いですから。実際、野口さんもそれを踏まえて書いているから、その事情がよく分かります。
私自身は野口さんとは方法的に全然、別に「社会政策」を定義しました。私がやろうとしたことはとてもリスキーなんですね。あんまり一緒にされたくないけど、あえて正直にいえば歴史社会学です。歴史系の学会誌であれば絶対通らないだろう水準でしか考証作業をしていません(心意気としてはT.H.マーシャルがやろうとしたことを部分的に試みました。私の方が彼よりも抽象的な理論志向が若干強いですが)。ただ、その一方で大きい問題を考えてはいます。いろんな歴史的な事例を大括りに考えて、その共通性を私なりに摘出しました。それが秩序政策が根本にあるんだ、ということです。だから、社会変動が起こると、秩序を取り戻す=均衡を取ろうというメカニズムが働き、そのときこそ社会政策が発展すると考えています。こういう大きい議論を考えるのは歴史研究では難しくなっています。それは方法的洗練とも関係しているというのはみんな、知っていることだろうと思います。
野口さんは「防貧」を社会事業の核に置きました。それは彼女が依拠する方法によって、当時の論者たちがそこを重視したからです。ただ、ここからが玉井さんよりも優れている点で、「防貧」の言葉の多様性というものを丁寧に考証しています。ここが彼女の強みです。でも、それって、ある意味、この時代を切り取るにはよいけれども、もう一段深層(というものが本当に存在するかは謎ですが)を掘り下げていくには限界があるのではないかということでもあります。「社会事業」発生前の「(歴史普遍的)社会事業(我ながら、怪しいネーミングだが)」をどう捉えるのかという問題に行きつくでしょう。
そうはいっても、玉井さんが「社会政策」を防貧で捉えている以上、その議論と野口さんの社会事業論がどう交錯しているのかというところはちょっと知りたいところでしたが、あんまり検討されていませんね。正直に言うと、私は玉井先生の議論はほとんど意義が分からないんです。
なんかもう少し書いた方がいいと思うのですが、推敲してたら多分、ブログエントリにならないので、前みたいに思い付きだけを並べてあげておきます。また、そのうち、思いついたら書くかもしれません。
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この本は私の個人的な意見ではものすごく重要な本だと思います。今は社会福祉研究と呼ばれている分野はかつては社会事業研究という看板であったわけですが、その「社会事業」という言葉を詰めて行って、問題に接近しようとしているところが面白いと思います。ざっくり言うと、社会福祉の歴史研究は方法論が甘いところがあったんだけど、野口先生はそこで新しい方法を見出そうとしている。それが成功しているのか、失敗しているのかは微妙なところですが、本来は非常にポレミークな研究だと思います。問題は投げかけられた方が、それに反応するだけの気概があるかどうかですね。
この本の意義を理解するには、予備知識が相当に必要なんですが、社会事業史っていうのは、総体的にその時代に使われていた表現を大事にしてきたと思います。これは吉田久一先生の作った伝統じゃないでしょうか。吉田先生は雑誌とか、大学の講義名に、昭和○○年に使われたから、ここからは社会福祉の時代だと考える、というような非常に徹底して史実を大事にする手法を使われました。ただ、これは名人芸なんですね。野口さんはこの伝統をもう少し方法論的に高めて、抽象度を上げて理論的なレベルでも検討に耐えうるような方法を提示されようとした。その意味では批判的に先行研究を摂取しようとされています。この姿勢は学ぶべきものがあると思います。
たしかに、吉田先生の研究って、方法論的には甘い、と私も思います。野口さんの初めのモチーフは、そもそも社会事業研究なのに大河内一男の外在的な社会事業論に引っ張られるなんておかしいじゃないか、ということだと思いますが、吉田先生は後世の我々から見れば、その引っ張られた代表的研究者の一人でしょう。ただ、1950年代の草創期には社会政策学からの独立、というのが非常に重要なトピックだったんですね。ここらあたりの話を知りたい方は『社会福祉学研究の50年』というマニアックな本がありますから、ぜひご覧ください。吉田先生はじめ、色々な方の歴史的証言も沢山あります。
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実は、私自身も「社会政策」とは何かという問題を考えていくにあたって同様の問題にぶち当たったのですが、吉田先生がクリア出来なかった問題があります。それは歴史普遍的な意味での「社会事業」と20世紀以降出現してきた「社会事業」の区分をどうするか、という問題です。狭義に考えれば、19世紀の慈善事業は社会事業ではないとも言えます。では、その狭義の「社会事業」と「慈善事業」に通底する何かを表現するときどうすればいいのか?これは社会事業が看板であったときには、わりとルーズに社会事業と呼んできたし、社会福祉が看板になってからは社会福祉と呼んできたんですね。でも、それってある意味では、問題を解決することにはならないんですね。これは社会政策も同じで、シュタイン以前のものを本当に社会政策って呼んでいいの?ということは必ず問題になるはずなんです。
野口さんが出された答えは、なかなか面白い。方法的には過去の論者の「社会事業論」を分類整理していくんです。その整理の仕方も秀逸だと思いますが、これは方法的にもっと面白い問題を含んでいる。色々な定義をしていこうとすると、「社会事業って結局、具体的に何?」という素朴な疑問を突き付けられるときが来ます。野口さんはそこをわざと融通無碍に言って、その境界線が時代によって変化していく、それこそが社会事業の特徴なんだと切り返して行くわけです。実は、現在の社会福祉論の中でも固有論だとか、領域をどう理解するかというのは一つの大きい論点ですが、そこに一つの回答を提出したと見ることもできます。社会事業と社会教育はある意味では非常に近いところにあるし、その含まれる範囲が非常に広くて境界が曖昧という共通点を持っています。その意味では野口さんの提示された方法は汎用性が高いんですね。
ですが、実は野口さんの方法は「社会政策」にも適用できるのではないか、ということがあります。そして、それを適用してしまうと、野口さんの議論の非常に重要な部分が切り崩されてしまう。というのは、野口さんは「社会政策」については大河内社会政策論で氷漬けにしているんですね。だから、社会政策論も大河内さんの議論じゃなくて野口さんの方法でやったらどうなるだろう?という問題があります。研究のプラクティカルな作業から言えば、実は野口さんは「社会政策」についても論文だったら、すぐに一本くらいまとめられる蓄積を持っていると私は思います。それは「社会事業」と「社会政策」が隣接していて、そこを軸に議論している人が多いですから。実際、野口さんもそれを踏まえて書いているから、その事情がよく分かります。
私自身は野口さんとは方法的に全然、別に「社会政策」を定義しました。私がやろうとしたことはとてもリスキーなんですね。あんまり一緒にされたくないけど、あえて正直にいえば歴史社会学です。歴史系の学会誌であれば絶対通らないだろう水準でしか考証作業をしていません(心意気としてはT.H.マーシャルがやろうとしたことを部分的に試みました。私の方が彼よりも抽象的な理論志向が若干強いですが)。ただ、その一方で大きい問題を考えてはいます。いろんな歴史的な事例を大括りに考えて、その共通性を私なりに摘出しました。それが秩序政策が根本にあるんだ、ということです。だから、社会変動が起こると、秩序を取り戻す=均衡を取ろうというメカニズムが働き、そのときこそ社会政策が発展すると考えています。こういう大きい議論を考えるのは歴史研究では難しくなっています。それは方法的洗練とも関係しているというのはみんな、知っていることだろうと思います。
野口さんは「防貧」を社会事業の核に置きました。それは彼女が依拠する方法によって、当時の論者たちがそこを重視したからです。ただ、ここからが玉井さんよりも優れている点で、「防貧」の言葉の多様性というものを丁寧に考証しています。ここが彼女の強みです。でも、それって、ある意味、この時代を切り取るにはよいけれども、もう一段深層(というものが本当に存在するかは謎ですが)を掘り下げていくには限界があるのではないかということでもあります。「社会事業」発生前の「(歴史普遍的)社会事業(我ながら、怪しいネーミングだが)」をどう捉えるのかという問題に行きつくでしょう。
そうはいっても、玉井さんが「社会政策」を防貧で捉えている以上、その議論と野口さんの社会事業論がどう交錯しているのかというところはちょっと知りたいところでしたが、あんまり検討されていませんね。正直に言うと、私は玉井先生の議論はほとんど意義が分からないんです。
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なんかもう少し書いた方がいいと思うのですが、推敲してたら多分、ブログエントリにならないので、前みたいに思い付きだけを並べてあげておきます。また、そのうち、思いついたら書くかもしれません。
2011年08月07日 (日)
仙台に来ています。東日本大震災と職業訓練討論会に出席しました。手弁当です。
スピーカーの方のお話しは体験に基づくもので、とても参考になりました。とりわけ、飲み会の席で伺ったお話しがとても勉強になりました。日本的デュアルシステムはすごく役に立つ。その内容を詳しく伺っていると、まったくもともとの制度設計とは関係ない次元で役に立っているということなんです。つまり、中小企業と訓練生のマッチングになる、と。本当は中小企業のおやじさんたちもよい人材がいれば欲しい、でも職安に求人を出して失敗したりすると、出さなくなってしまう。その彼らの潜在的ニーズを引き出すのにはデュアルシステムが重要だというのです。
それはどういうことでしょうか?デュアルシステムは教科書的に言えば、訓練所での畳の水練だけではダメで、技能形成に派企業のOJTが重要だという話になっています。しかし、労働問題の研究者からすれば、そんな短期間で技能が身に付くわけがない、机上の空論だと思ってしまいがちです。もちろん、そのときに1級技能士のような技能が身に付くわけがない。基礎の部分だけで十分で、一回話をしただけでは採用は分からないけれども、1か月も見ていれば互いの人間性が分かる、それはもちろん、2,3カ月と長い方がいいけれども、1か月でも十分だということです。つまり、古臭い家族主義の中小企業のおっちゃんと、訓練センターの方が両方、義理人情の分かることが大事だという共通価値観を持っていることが成功のポイントのようです。あえてパラフレーズすれば、デュアルシステムは技能形成というより、マッチングシステムとして効いている、ということになりましょう。技能形成という側面をまったくオミットしてしまって、長めの採用試験と考えれば、インターンも含めて、大いに意味があるということになりましょう。
もう一つ、伺ったお話しで興味深かったのは、今、(津波)被災地の若者が流出している。若者は決断が速い。彼らがどこに行くかと云うと、北上とか盛岡、そして仙台です。そうすると、企業も優先枠を設ける。なぜなら、彼らを雇うと国から補助金が出るからです。そうなると、ただでさえ厳しい雇用状況の仙台の若者たちは、本当は地元にいたいけれども、どこか別のところ、東京に出てこなければならなくなっているそうです。おそらく、移動した両者ともに元には戻らない。被災地の若者雇用は大切です。でも、彼らがいなくなると、被災地は本当に再建が難しい。年寄りばかりが残ることになる。これが今の大問題だそうで、市の復興会議でもそれが最大の懸案事項になっているようです。
それから、twitter上では何度か議論になったコミュニティの問題、突っ込んで聞いてまいりました。やっぱり、震災前は古い共同体(かつての部落)をもとに地域が出来ていたけれども、それが地域ごとなくなってしまったところが相当にある。だから、新しいコミュニティを構築しなければならない、という話でした。また、仮設住宅に入っていくと、みんなバラバラになるから、分断されてしまうので、やはり、新しいものを作る必要があるとのことでした。
討論会全体は建築の話が多かったので、私は建築に集中するのはよくない。建築需要はせいぜい2,3年、長くても5年だから、全然将来に繋がらない。臨時失業対策は結局、高度成長になっても撤退できなかったという話をしました。その愚を繰り返すことになる、と。それに対しては他の産業が復興するまでの一時避難的な雇用であるという話をされていましたが、少なくとも、それをやっている時期に次の新しい動きを出しておかないとダメになってしまう、そういう議論をしました。
いきなり話が飛ぶようですが、私は今回の震災を機に、男社会はやめて女中心社会にシフトすればいいと思っています。まぁ、そこまでキツイ言い方は酔っぱらうまでしませんが、意外と実感としては、その通りだという男性が結構います(あんまり女性で賛成する人には出会いませんが笑)。シラフの時は女性の雇用を考える必要があるということは主張しました。臨時失業対策で最後まで残るのは戦争未亡人の寡婦たちです。それがある意味では日本の女性福祉を歪めているんですね。こういうことは避けなければならない。
そこまでラディカルな話じゃなくても「生活」というとき、男性より女性の方が智慧が上である、ということはほとんどの人が認めるところじゃないでしょうか(もちろん、個人差はあります)。生活に根差したコミュニティ作りの中心担い手は女性がいいと思うのです。といっても、そんなに美しい話じゃないですよ。たとえば、情報を採ってきてくれるならば、噂好きのおばさんに賃金を払ってもいい、そういう意味です。それは都会的な感覚からいえば耐え難いパノプティコンです。それでも、仮設住宅での孤独死が避けられるならば、その方がいい。すべて実践はセカンド・ベストです。何かを得るためには、何かを失う覚悟が必要です。
まぁ、そういうギリギリの話じゃなくても、個人的にはこの震災関連でお会いした女性たち何人かにインタビューして、そのバイタリティというか、パワーを本にして伝えたいと思っています。もちろん、女性中心社会と云ったって、実務的にはケース・バイ・ケースです。しかし、運動は極端なことをいって、方向を示さなければならないから、目指す方向はこちら側だということはやはり言っておきましょう。もちろん、三陸に仕事を!プロジェクト浜のミサンガも素晴らしいですけれども、もっと継続性のある仕事もみんなで考えていきたいところです。
後は東北は相当に国際結婚も進んでいて、故国に帰らなかった外国人も相当いて、その支援をしているという女性にも出会いました(教育学博士)。私の周りにも興味のある方がいそうですね。機会があれば、どんどん繋ぎますよ。
あ、もう一つ、教育で重要なのは防災教育、減災教育ですね。災害の記憶は必ず風化していく。それへの対応は教育しかありません。不幸中の幸いなのはこの個人メディア時代、多くの映像が残っています。こういうものを教材にして減災教育を作っていくのは教育学者の責務でしょう。
明日は宮城ポリテクセンターを見学です。
にしても、意外と復興食堂が知られていないことが分かったので、まだまだ宣伝しないと!
スピーカーの方のお話しは体験に基づくもので、とても参考になりました。とりわけ、飲み会の席で伺ったお話しがとても勉強になりました。日本的デュアルシステムはすごく役に立つ。その内容を詳しく伺っていると、まったくもともとの制度設計とは関係ない次元で役に立っているということなんです。つまり、中小企業と訓練生のマッチングになる、と。本当は中小企業のおやじさんたちもよい人材がいれば欲しい、でも職安に求人を出して失敗したりすると、出さなくなってしまう。その彼らの潜在的ニーズを引き出すのにはデュアルシステムが重要だというのです。
それはどういうことでしょうか?デュアルシステムは教科書的に言えば、訓練所での畳の水練だけではダメで、技能形成に派企業のOJTが重要だという話になっています。しかし、労働問題の研究者からすれば、そんな短期間で技能が身に付くわけがない、机上の空論だと思ってしまいがちです。もちろん、そのときに1級技能士のような技能が身に付くわけがない。基礎の部分だけで十分で、一回話をしただけでは採用は分からないけれども、1か月も見ていれば互いの人間性が分かる、それはもちろん、2,3カ月と長い方がいいけれども、1か月でも十分だということです。つまり、古臭い家族主義の中小企業のおっちゃんと、訓練センターの方が両方、義理人情の分かることが大事だという共通価値観を持っていることが成功のポイントのようです。あえてパラフレーズすれば、デュアルシステムは技能形成というより、マッチングシステムとして効いている、ということになりましょう。技能形成という側面をまったくオミットしてしまって、長めの採用試験と考えれば、インターンも含めて、大いに意味があるということになりましょう。
もう一つ、伺ったお話しで興味深かったのは、今、(津波)被災地の若者が流出している。若者は決断が速い。彼らがどこに行くかと云うと、北上とか盛岡、そして仙台です。そうすると、企業も優先枠を設ける。なぜなら、彼らを雇うと国から補助金が出るからです。そうなると、ただでさえ厳しい雇用状況の仙台の若者たちは、本当は地元にいたいけれども、どこか別のところ、東京に出てこなければならなくなっているそうです。おそらく、移動した両者ともに元には戻らない。被災地の若者雇用は大切です。でも、彼らがいなくなると、被災地は本当に再建が難しい。年寄りばかりが残ることになる。これが今の大問題だそうで、市の復興会議でもそれが最大の懸案事項になっているようです。
それから、twitter上では何度か議論になったコミュニティの問題、突っ込んで聞いてまいりました。やっぱり、震災前は古い共同体(かつての部落)をもとに地域が出来ていたけれども、それが地域ごとなくなってしまったところが相当にある。だから、新しいコミュニティを構築しなければならない、という話でした。また、仮設住宅に入っていくと、みんなバラバラになるから、分断されてしまうので、やはり、新しいものを作る必要があるとのことでした。
討論会全体は建築の話が多かったので、私は建築に集中するのはよくない。建築需要はせいぜい2,3年、長くても5年だから、全然将来に繋がらない。臨時失業対策は結局、高度成長になっても撤退できなかったという話をしました。その愚を繰り返すことになる、と。それに対しては他の産業が復興するまでの一時避難的な雇用であるという話をされていましたが、少なくとも、それをやっている時期に次の新しい動きを出しておかないとダメになってしまう、そういう議論をしました。
いきなり話が飛ぶようですが、私は今回の震災を機に、男社会はやめて女中心社会にシフトすればいいと思っています。まぁ、そこまでキツイ言い方は酔っぱらうまでしませんが、意外と実感としては、その通りだという男性が結構います(あんまり女性で賛成する人には出会いませんが笑)。シラフの時は女性の雇用を考える必要があるということは主張しました。臨時失業対策で最後まで残るのは戦争未亡人の寡婦たちです。それがある意味では日本の女性福祉を歪めているんですね。こういうことは避けなければならない。
そこまでラディカルな話じゃなくても「生活」というとき、男性より女性の方が智慧が上である、ということはほとんどの人が認めるところじゃないでしょうか(もちろん、個人差はあります)。生活に根差したコミュニティ作りの中心担い手は女性がいいと思うのです。といっても、そんなに美しい話じゃないですよ。たとえば、情報を採ってきてくれるならば、噂好きのおばさんに賃金を払ってもいい、そういう意味です。それは都会的な感覚からいえば耐え難いパノプティコンです。それでも、仮設住宅での孤独死が避けられるならば、その方がいい。すべて実践はセカンド・ベストです。何かを得るためには、何かを失う覚悟が必要です。
まぁ、そういうギリギリの話じゃなくても、個人的にはこの震災関連でお会いした女性たち何人かにインタビューして、そのバイタリティというか、パワーを本にして伝えたいと思っています。もちろん、女性中心社会と云ったって、実務的にはケース・バイ・ケースです。しかし、運動は極端なことをいって、方向を示さなければならないから、目指す方向はこちら側だということはやはり言っておきましょう。もちろん、三陸に仕事を!プロジェクト浜のミサンガも素晴らしいですけれども、もっと継続性のある仕事もみんなで考えていきたいところです。
後は東北は相当に国際結婚も進んでいて、故国に帰らなかった外国人も相当いて、その支援をしているという女性にも出会いました(教育学博士)。私の周りにも興味のある方がいそうですね。機会があれば、どんどん繋ぎますよ。
あ、もう一つ、教育で重要なのは防災教育、減災教育ですね。災害の記憶は必ず風化していく。それへの対応は教育しかありません。不幸中の幸いなのはこの個人メディア時代、多くの映像が残っています。こういうものを教材にして減災教育を作っていくのは教育学者の責務でしょう。
明日は宮城ポリテクセンターを見学です。
にしても、意外と復興食堂が知られていないことが分かったので、まだまだ宣伝しないと!
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