夏休みに二回ほどCFW-Japanの永松さんに被災地調査に連れて行ってもらいました。その後、途中同道した吉田律子さん(@サンガ岩手)さんと一緒に宗援連に行ったり、その翌日に吉田さんから紹介された方と意気投合して、週末には某研究会に行ったりして、なかなか輪は拡がっております。その間、雨ニモマケズプロジェクト実行委員会の仲間の土方さんは、これまたすごい活躍ぶりで人脈を広げ、復興食堂田野畑村の応援にも行ってきて、そういえば、その報告飲み会も楽しみ。

「楽しみ」なんて言うと、不謹慎に聞こえるかもしれませんね。実際、今回の調査で伺ったお話しの中ではそんなに簡単に「楽しい」なんて言えない厳しい現実もありました。それでも今はあえて「楽しさ」が大切なんですよ。それは我々被災地外から支援活動を行うものにとってはね。

前述の某研究会では、実際に支援活動をしている人たちが多く集まって、私自身はもっと大きなマクロの視点から話をしたんです。そうしたら、参加者の一人の方から「そういうマクロの問題はいいから、一人ずつ何がやれるかが大事だ」という意見を述べられ、自分がいかに人から非難されようと、信念をもって支援活動をしてきたかということを説明されました。ここに二つの問題があります。

第一に、今の支援活動で決定的に重要なのは後方支援です。日本では、と言いたくないけれども、思わず補給戦の重要性を理解しなかった日本陸軍以来の宿痾ではないかと考えたくなります。たとえば、東日本大震災支援全国ネットワーク(JCN)の事務を一手に引き受けているNPO団体シーズは10人弱の少数精鋭で、資金繰りに苦しみながらかつ、みなボロボロになってやっています。これを支援する枠組みはうまく作れていない。その他、現場レベルだとコーディネーターが決定的に足りない。となると、ある程度はこれを量産する仕組みを考えなければならないわけですが、そういう議論はなかなか起こって来ないんですね。

で、その後の飲み会ではここから話が展開して意気投合したんですが、支援活動はモノがある人はモノを出して、カネがある人はカネを出して、チエがある人はチエを出す、そういうことが必要だという話をしました。現場と全体との兼ね合い両方を考えるのって、一人の人間にも出来ますけど、それでさえ頭の切り替えが必要なんです。そうなると、現場に重点を置くプレーヤー、全体に重点を置くプレーヤー、両方が必要になるはずです。ただ、どちらの立場で行くにしても、やはり「楽しさ」ということがないとなかなか継続できない。これは5,6年、あるいは10年は掛かります。だから、持続して行くためにはどうすべきかということはとても大切な問題なんですね。その一つがシンプルだけど、「楽しさ」じゃないかと思います。

それから、これはまったく私の独断と偏見ですが、政府・行政には、直接、働きかけるルートがない場合は、批判さえもほとんど意味がないと思います。いや、実際には役所の構造を理解して、然るべき部署に働きかける必要がある人はそうした方がいいですし、実際、やっています。それ以外で自分たちでやれることは、他人を批判する前にやればいい。原則はそうじゃないかと思います。

第二の問題点は、ボランティアの独善性です(この点は途中でその方がいなくなってから、仰った方が何人かいらっしゃいました)。平たく言えば、我々が支援するために、被災者は被災したわけじゃない、という当たり前のことです。緊急支援という局面はもう終わりました。もちろん、物質支援(たとえば、仮設住宅で十分に買い物が出来ない)などの支援も相変わらず必要です。しかし、その一方で、そろそろ被災者・支援者という考え方から抜け出て、ただの仲間として一緒に新しいものを作っていく、そういう時期になってきているように思います。本当の仲間だったら関係は対等ですから、ボランティア的偽善性は入る余地がありません。

でも、難しいのはここから新たに支援活動をやりたい人でしょう。あるいは、そういう方は今までもやりたいと思っていたいけれども、どうすればいいのか分からなかったので参加できなかったと云う場合もあるでしょう。支援活動に入るのは正直、難しいです。僕らもそうですが、やはり、2,3日行って、それで信頼関係を築くのは難しいんです。そういう意味では、既に何らかの関係を作っていないと難しい。しかも、結果的に言えば、多くの人との関係を同時的に作るには仮設住宅よりも避難所の方がよかったんですね(避難所から仮設に移るというのは、多くの方が指摘しているように、単にプライバシーが確保された万歳!などというだけではありません)。そこで考えられる方法は、支援者と繋がるという方法ではないでしょうか。

実は支援活動は間歇的にいろいろやられているのですが、なかなか横の連携が出来ていない。そういう意味で、もし横の連携が取れていれば、効率よく、効率という言葉が嫌であれば、より多くの人に支援の手が届かせることが出来るかもしれないのです。土方さんや僕なんかは雨マケとしてそういう連携を作っていきたいので、まず東京でそういう人たちを繋げようという風に考えて、個人的にいろいろ動いています。何が出来るか分かりませんが、いろいろ繋がっていきましょう。

また、続きを書きましょう。

連絡先 金子良事 ryojikaneko@gmail.com
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夏学期の終わりに復興食堂に遊びに来てくれた学生と一緒に帰ったことがありました。そのとき、彼が興味深いことを言ってました。私の講義は難しいし、全部理解できているとも思っていないけれども、それでも緊張感があるからいいんだ。どういうことかと思ってもう少し詳しく聞いてみると、今、大学では高校生までの復習のような簡単な授業もあって、そんなものは教科書を読めばわかるので、寝てしまう、と。正直に言えば、メチャクチャ嬉しかった。でも、そういう意見もあるんだなと客観的に聞いている自分もいました。

大学の講義の意味って何だろうというのは、私もそこに関わるものとして素朴に考えます。大上段に構えれば、ミルの『大学教育について』のような考え方に私も基本的に賛成します。ただ、逆に言うと、職業訓練だって突き詰めて言えば、実践的に役立つ知識だけを教えているわけではないんだと思うので、この二分法がかえって不要な混乱を招いているような気がしないでもない。たとえば、旋盤の動かし方は実践的な技能かもしれませんが、新井さんが教えるコミュニケーション・スキルのようなものは、すぐに役立つというより、今後その能力を伸ばして行く上での基盤的な能力とでもいうんでしょうか、そういうものを培うものだと私は思っています。そうすると、これは昔から「教養」と呼ばれてきたものと境界が難しくなる。まぁ、実態としてはそれでいいんでしょう。

冬学期の私の非常勤の講義は「労使関係」と「生産・人事管理」です。非常にざっくり言ってしまえば、「労使関係」の方は合理的にゴリゴリ押して行っても最後にはグレーなところがあるよ、というような「交渉」を理解する上での重要なことを身につけてもらいたいなぁと思います。「生産・人事管理」はその逆で20世紀の企業人(工場人)は合理的をゴリゴリ推し進めていって、ここまで到達しましたよ、というところを紹介したい。そういう意味では両方が近いんだけど、両極かもしれません。だけど、こっちじゃない極もあるんだよ、という世界をチラチラと紹介しながら、進めていければいいですねぇ。