fc2ブログ
明日、講義で人事労務管理の一環として福利厚生制度について語ろうと思うのだが、これが意外と難しい。福利厚生制度の意味がこの20年の不況の間にどうも変わってしまったのではないかと思える。ただ、これはあくまで思えるだけで、かなり感覚的な話で、具体的に機能で考えて行くと、そんなに変わってないかもしれない。

えーと、福利厚生には大きく二つの流れがある。職員と職工。大雑把に言うと、職員の方は生活保障的な役割はどちらかというと多分、大正時代くらいから重要になってきて、それまではどちらかという娯楽が重要であったのではないかと思っている。というのも、ある程度の勤続年数が前提になって来ない、いわゆる生涯にかかわる生活保障が重要という視点があまり出てこないからだ。多分、ここらから退職金とか定年制に伴う年金などがポツポツ整備されてきたように思う。ただ、ここらあたりはあまり研究がなされてないので、よく分からない。勘。

職工の方はというと、生活保証というときに、これはスポットだから、最初からあったのではないかと思う。というか、初期の福利厚生って管理技術としては社会事業から借りてるところがすごく大きい。それは誤解を恐れずに言うと、貧困層を対象にしてたんだよね。研究史上は日露戦後以降、重工業では工場労働者と都市下層民について、前者の賃金カーブがあがってきたことで、両者の生活が異なるものとして展開して行くと言われている。これは兵藤先生あたりが広めて、その後、中川清先生がお墨付きを与えたので、まぁ、通説と言っていい。僕はそこのところに異議を唱えて、実態はそういう側面もあったかもしれないけど、階級としてはかなり同じようなものとして捉えられていて、だから社会事業=社会政策の手法で福利厚生が展開して行ったんだ、と主張している(はず)。エッセンスはそういうこと。

とはいえ、職工方面での福利厚生は戦前の紡績業では圧倒的に娯楽が重要だった。これは文化的なインクルージョンというかそういうことが必要だった。よく工場側の言うことを聞かせるようにすると言われるし、そういう側面はあるんだけど、福利厚生にはあんまりそういう機能はないんだよね。というより、工場労働の中で時間規律をはじめとした服務規定でバンバン慣習を作っていく。それにあまりに合わない人は辞めて行くから。もちろん、リテンション・コストは大きいんだけど、あまりに無理な人を止めておくのもまた全体の生産性を下げることに寄与しかねない。というわけで、そこは割り切る。というより、紡績会社の場合、10代前半の女の子から使っているわけだから、故郷が恋しくなったりする。そういう寂しい思いをさせないためにも、年上の子に世話させたり、一生懸命、娯楽を提供したりしていたわけ。でも、多分、この手のレクリエーションも大体、1970年代までね、アトラクティブだったのは。というのも、1910年代に映画、演劇、文楽まで、舶来ものから伝統のものまで、ありとあらゆる庶民娯楽を経験できた女の子はおそらく紡績工場に勤めた子だけですよ。それくらい先進的だった。でも、それは過去の話。趣味が多様化しちゃったから。

あ、インクルージョンの話を忘れた。僕が象徴的だと思ったのはかつての富士紡の工場で行われていた盆踊り大会。当時は日本各国から紡績職工が集められてくるから、1年に1度の運動会で郷里の盆踊りをそれぞれが踊る、というのをやってたんだ。壮観だっただろうな。もし、この時代のこういう映像記録でも出てくれば、間違いなく一級の文化史的史料になると思う。それはさておき、こういう手法ってそれ自体、すごいことで、アメリカナイゼーションなんかとは全然、逆。お国自慢。正味のところ、外国人労働も僕はこの方式で行けば、いいと思っている。それぞれ何かお国の自慢になるような伝統を披露しあえるというような。料理大会でも何でもいいんだけど。また、話が逸れた。

生活保証の大きな枠組みとしては共済組合しかなかった時代から、企業の役割は保険。今でも大きいのは、健康保険と雇用保険(失業保険)ですよ。このお金を支払ってくれるかどうかは超大事。僕自身、その線上を歩いているので、その有り難さと辛さ、両方、知っています。こういうのはやっぱり自分で経験しておくと、頭じゃなくて実感として理解できるね。

大きい論点は福利厚生はある意味、アウトソーシングされていること。たとえば都心だったらスポーツクラブに安く通えるとか、その気になれば生活を高められる部分もあるわけだし、生活嗜好の多様化に対応するためには、仕方ない側面がある。ただ、そうなると、完全に報酬の代替としての機能だけになって、費用を削ってくのが効率だという考えがはびこると、無駄だと言う議論が出てくる。いや、それだけじゃなかったんじゃないかといって、近年では運動会を復活させたところもある(ただし、リーマンショックの後、またなくなったかもしれない)。

考えてみれば、福利厚生制度って僕が研究を始めたときからずっと考えているテーマで、博論でもそこは詰め切れなかった。僕はそもそも小池先生の講義を聞いて、そんなに合理的な説明で切れない部分があるんじゃないか、ということで生活部分に注目して、労務管理を理解しようというのが最初の入り口だった。でも、二つの誤算があった。一つは小池先生はそういう話をしたら、そういう方面の引き出しもたくさん持っていて、全然、対立しなかった(笑)。もう一つは、このテーマはドツボだった。訳が分からん。これは上で社会事業の話も出したが(あとは領域的には社会教育も被る)、こういう境界が曖昧な分野では何十年にわたって本質論というか、学問の自分探しが行われている。そして、面白いことに、そういう問いかけがその学問を深めて行っている(ときもある)。

何が言いたいかと言うと、まとまらん。が、何か面白そうな話は出来そうかな。
スポンサーサイト



まだ何もできていないのだが、物資支援に間接的に関わることになってきて、いろいろな方向からいろいろな意見を聞く機会が増えて来たので、そのいくつかを整理してみようと思う。

まず、被災地で物資支援が足りているか、足りていないのかというと、足りていない。公式に物資支援の受け入れを中断している自治体もあり、公式か非公式かは分からないが、支援物資は足りているというところもあるようだ。これは処理能力の問題である。現に能力がないのだから、仕方ないので別の手段を考えないといけない。行政であろうと、出来の悪い組織を再生させるのは手間である。効率が悪い。ただ、個人レベルでは頼りになる人がいるので、そういう人は個人的に味方になってもらえばよい。ただ、どんなに素晴らしい人でも、個人で組織を変えるのは困難である。行政サービズの改善は期待しない方がいい。ただ、志を同じにする仲間は増やせるかもしれない。それだけである。

問題の核心は端的に言うと、ロジスティック(流通)である。被災地のどこで誰が何を必要としていて、支援したい側から見るとよく分からない。正確に言えば、ブログなどで被災地から発信しているものもあるのだが、それを探索するまでの労力はなかなか掛けられない。そういうジレンマがある。ふんばろう東日本支援プロジェクトなどは比較的、上手に機能している方だと思うが、それがすべてニーズを見たいしているわけではない。実際に、ふんばろうから支援を受けた人の話を聞いて同じものを受け取ろうとお願いしたけれども、支援を受けられなかった例も聞いた。しかし、それは常に同じ支援品をストックしているわけではない以上、当然だ。だから、完璧はいつまでも到達されない。これは問題の性質上、全体の統計が取れない以上、総量として足りているのかどうかは分からない。何れにしても、ロジスティックに問題があることは否定できない。それは永遠の課題である。今、私なりにこの課題を考えながら、何が出来るか仲間と議論を重ねているが、これはここで表明するべきことではない。

物資支援は贈与である。贈与は基本的に互酬が基本である。津波被災地の東北の方が一方的に物品を受け取ってただ喜んでいるだけでなく、申し訳ないという思いを抱くのは当然である。もちろん、支援者に直接、感謝の言葉を届けることが出来れば、それも幾分かその気持ちは薄れるだろうけれども、それでもいつまでも支援を受け続けるのが心苦しい気持ちは消えないことは想像できる。そして、私たち被災地外の人間が支援したい人たちは真にこのような健全な常識的感覚を持った方たちである。ここにジレンマがある。

首都圏の人の被災地への関心が薄れていると言われる。たしかに、関心が薄れているのは否定できないが、みんな、忘れたわけではない。何が必要か分かれば、支援したいと思っている人もたくさんいると思う。実は、そういう支援したいと思って支援出来ていない人は往々にして被災地の方に何も出来ないと申し訳ないと考えている。義捐金や物資支援もいいけれども、長期的な支援を行いたいと考えている個人や団体も数多くある。そういう立場からすれば、物資支援でさえも十分に支援しているとは思っていない。出来ることがそれしかないから、まず出来ることから支援しているのである。せめてもの自分の出来ることで、誰かが少しでも救われるなら、そういう思いの人も少なくないだろう。

こういうときに手紙のやり取りなどが出来れば、新たな交流が出来るだろう。実際に、それが被災者にとって生きがいになっているという話はいろいろな場面で聞く。だが、みんながみんな筆まめなわけではない。文字に出来なければ、言葉にできなければ、気持ちがないわけではない。ビデオで取ってウェブにアップするという手もあるが、それは恥ずかしいという人もいるだろう。そういうのはハードルが高い。このようなお互いを思いやるからこそ生じるちょっとした心のすれ違いを一つ一つほぐして行くのはとても大切なことである。だが、今は平時ではない。そういう心の葛藤を全部、承知の上で、それでもプラクティカルにやらなければならないこともあると思う。

こんなことを書き始めたのは、毎日新聞の記事を読んだからだ。この記事の中に、

福島県浪江町から山形市の借り上げ住宅に避難している女性(42)も「半年以上たったのに、ほとんど支援物資と義援金だけで生活が成り立っているのは情けない。自分で仕事をして稼いだお金で物を買わないと、生きている実感もわかない」と漏らす。

というくだりがあった。この気持ちはよく分かる。だからこそ、私は震災直後からCFW-Japanに参加して来て(この活動は今、新しい局面を迎えているが、それは何れまた)、自分の役割は雇用に関わることであり、物資支援を含む緊急支援は経験のあるNGOや宗教など、軍隊的組織の方に任せた方がよいと考えていた。実際には、ふんばろう東日本や助けあいジャパンのような、まったく新しい形のコラボレーションも生まれてきた。それは予想外だったが、私自身の持っているコネや能力を考えても、そこにコミットすることはあまり考えて来なかった。それは間違いではなかったと思っている。

私自身が方針を変えたのは、直接的には物資支援をしようという人たちと物資支援を必要としている人たちと出会ったからである。だが、もう少し考えていくと、緊急支援という従来の災害の枠組みでは考えてはダメであるということに行きついた。今回は規模が広すぎて、物理的な復興が全然、追いついていない。だから、継続的な支援をしないとダメである。神奈川にいても寒いのに、東北はもっと寒かろう。避難所があった頃も、冬物はかさばるからという理由で、支援物資の受け取りが出来ず、しかも夏になって解散する段階で、みんな何も持たないで仮設に移ったという地域もあるようだ。要は緊急支援的な援助が必要な地域も存在するということである。一般論で言えば、もともと裕福でない世帯は災害などの不慮の事態で一気に貧困世帯に陥ることがあり得る。これは歴史上、起こってきたことであり、今度もきっと生じているだろう。そういうところには支援を届けたい。

そうして、支援が必ずしも被支援者のためにならない、というのは、社会福祉や開発経済の世界では常識的に語られてきたことである。ここは実際に支援を受けている側の方の率直な感想を紹介しよう。一番、大事なことは人間は弱いからタダで支援が受けられたら、それを受けてしまう。だから、送る側も我慢しなきゃいけない場面がある、というメッセージである。

地元の経済活動を阻害する支援であってはならない、というのは重要な論点である。ほとんど顧みられなかったが、永松さんは当初、CFWの賃金水準は最低賃金以下にすべきであると主張していた。臨時的なCFWが経済復興活動を阻害してはならない、という考えからである。これは海外で行われてきたCFWの成果を受けたものである。もちろん、国内の最賃基準など考慮すべき問題があり、実践上は実現されなかったが、基本的な考え方は私も賛成したし、永松さんも今も変わっていないと思う。

今日も個人への援助は考えた方がよい、というような議論をしてきた。実は私がある個人の方を助けたい、という趣旨の発言をしたのだが、同じ助けるにしても、別のやり方を考えた方がよいと諭された。ここのブログを読んでくださった皆さんがどういう印象をもっているか知らないけれども、私はもともとは感情移入というか、肩入れしやすいタイプなので、学者モードをオフにするとそれが加速する。もちろん、冷静さを失い、感情に流されると、正しい判断が出来なくなるのは分かっている。しかし、頼るべき仲間がいると、必要なときに道を修正してくれる。有り難い限りである。私ももちろん、人は誰でも完ぺきではない。だからこそ、自分をよく知り、バランスを取る術を用意しておくというのは大切なことではないかと思う。ごめん、話が逸れた。

個人個人の支援というのはほぼ終わったかなと思っている。これからは地域の絆を取り戻し、あるいは新たに作りながらの支援に代わっていくだろう。それは中間マージンを取らない卸問屋みたいなもの(笑)。全部、ボランティアだからね。でも、問屋制って日本経済がテイクオフしていくときに重要な役割を果たしてきたんだよ……いかんいかん、先生っぽくなるから止めよう。とにかく、これからは送り手側のまとめ役と受け手側のまとめ役が重要になる。受け手側のまとめ役は同時に地域再生の錨になっていく人だと思う。そういう人たちがただ甘えているだけなのか、本当に支援が必要なのか、見極めてニーズを取って来てくれる。もう、その情報はその人たちを全面的に信頼するしかない。協業はどこかで全面、信頼しなければならない場面が出てくる。誰かに任せるというのは多分、本質的にそういうことなんだろう。