キャッシュ・フォー・ワークといっても、実は理論的にちゃんと考えている人は、私の見る限り、当初から今に至るまでほとんどいない。特に、従来の雇用(労働)問題とキャッシュ・フォー・ワークの違いが何であるかということを説明できる人はほとんどいないのではないか。

現実に起こった、キャッシュ・フォー・ワークを見ると、いくつかのパターンがある。統計の取りようがないので、割合は私の勘であるが、次のような5種類がある。私のメイン・フィールドの釜石市・大槌町の例をあげてみよう。

第一は、純粋に地元の人たちが立ち上げた団体である。たとえば、復活の薪を作っていたNPO法人吉里吉里国である。今は第二弾の復活の薪を作ろうと色々と準備をしているところである。ただし、彼らにしても技術的な援助は外部(四国のグループ、名前を失念した。ごめんなさい)から受けている。このパターンが一番少ない。

第二は、外から入ってきた個人が立ち上げたケースである。このエリアでいえば、瓦礫のキーホルダーを販売している和Ring-Project(池ノ谷さん)、手芸用品(その他)を販売している大槌はらんこ・かまいし恋の峠うのすまい他(サンガ岩手の吉田さん)がそうである。ありていにいえば、資金力が弱い。厳密に言うと、初期の大槌復興刺し子プロジェクトもそうなのだが、今は吉野さんごとテラ・ルネッサンスが抱えているので、第三のケースに入れておこう。

第三は、外部の有力NPO(ないしNGO)が支援している場合である。これはこの地域であえていえば、テラ・ルネッサンスの刺し子プロジェクトである(本当は第二の変態と見るべきかもしれない)。他の地域で言うと、CFW-Japanとも早いうちから連絡を取り合っていた山形県に本拠を置く国際ボランティア団体IVY(アイビー)の試みである。彼らは石巻市と気仙沼市をフィールドにしている。多分、このケースが割と多い。

第四は、外部の企業が支援した場合で、この沿岸部最大のものは三陸に仕事を!プロジェクトであり、バックには博報堂その他の企業が付いている。有名な浜のミサンガである。これがキャッシュ・フォー・ワークに入るのかどうかは微妙であり、永松さんも著書の中では確信犯的にこれをキャッシュ・フォー・ワークと呼んだと書いてある。

第五は、政府の緊急雇用助成の枠組みを使ったもので、いわゆる「日本はひとつしごとプロジェクト」である。この枠組みをもっとも有効に使ったのは福島県である。ここで活躍したのがうつくしまNPOネットワークである。釜石市でもっともこれをうまく使ったのは我々と一緒にやってきた@リアスであり、継続して由比藤さんが担当して来た。キックオフはその一つである。この第三と第五のハイブリッドのこのケースがもっとも多いと思われる。

結果的にみると、我々のやったことが沿岸部のCFWを大分、苦しめることになってしまった。我々が本来、支援したかったのは第一から第三のキャッシュ・フォー・ワークであるが、博報堂がバックにあると見られた「みさんが」が入ってしまったために、第五のルートとの繋がりを断ち切ってしまった。つまり、博報堂のような企業に金が流れるのを振興局から嫌われたらしい。事実関係で言うと、みさんがプロジェクトも博報堂が会社として最初から乗り気であったわけではなく、少数の有志がそういう方向に巻き込んだ経緯があった。我々はその間の事情も知りつつ、政府だけではなく、一般企業も入る必要があるという判断で、彼らをバックアップした。個人的には、被災地支援を通じて仲間になった同士が、ただでさえ忙しい博報堂の業務の中、ただでさえ少ないプライベートの時間も被災地のためにと全国を飛び回り、企画書を書いていることも知っているので、別によい悪いを議論する気持ちはない。彼女たちが自分たちの活動が回り回ってどうなってるかを知らないように、被災者やその人たちに近い人たちも彼女たちの奮闘ぶりを知らない。全体を見渡すのはいつも難しいのだ。もちろん、私も私の仲間もそこまでは見通せてなかった。智慧が足りなかった。だが、復興は始まったばかり、この借りは必ず返す。

とまれ、結果として「新しい公共」の理念を体現すると思われているNPOに金が流れやすくなっている。岩手で言えば、@リアスや遠野まごころネットワークである。「新しい公共」をNPOだけで語るのも大問題で、この前、仁平さんの発表のときにも、その議論をしたのだが、それはまた次の機会に書くことにしよう。
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皆さま、遅ればせながら、あけましておめでとうございます。年末年始と2週間ほど釜石、大槌に入っておりまして、あまりにもなじんでしまい、あれこっちに住むんじゃないのと言われる始末でした笑。有り難いことです。でも、しっかりいろんな方にもお会いしてきましたよ。そんなわけで、今年は年賀状を書く時間もなく、欠礼しております。もう少し余裕が出来たら、お手紙を書かせていただきたいと存じます。ごめんなさい。

刺し子プロジェクトの吉野さんが、震災以後に会う人とそれまでの友人とは全然、濃さが違うというような話をされていて、私もまったく同感でした。被災地、あるいは支援活動で会う人は、一瞬で、普段の人間関係なら考えられないようなことまで、深く付き合うことになったりします。そのやり取りはとてもスリリングです。被災地で起こる時間速度は、なかなか想像を絶します。今回は2週間もいたんですが、調査というより、限りなく実践活動に近いので、この人とこの人を会わせたらいいとか、この人に会って顔を繋いで行こうとか、そんなことばかりやっていました。怒られるかもしれないけど、なんか仲良くなって行くと、調査モードと言うか、完全に仲間モードになっちゃうんですよね。でも、そうじゃないと、実践が難しい。そういう側面もあると思います。

釜石、大槌を見て来た印象ですが、和Ring-Projectの池ノ谷さん曰く、クリスマスで町の雰囲気が変わったそうです。私も23日に入ったのですが、たしかにクリスマス・イブのケーキを買う皆さんのどことなく華やいだ雰囲気というのは、それまでになかったものなのかもしれません。少しずつ、立ち上がろうという機運が出てきた、という風に言ってよいかもしれません。ここらあたりで今までの活動を少し振り返ってみつつ、現状を考えて行きたいと思います。

私たちがCFW-Japanでやって来た活動は本来のCFWだったのかとふと思う事があります。そういう総括はほとんどやられていない。CFW-Japanは今は一般社団法人化して、永松さん、それから労働新聞社静岡支社の由比藤さん、私の三人が社員で、それに福島のうつくしまNPOネットワークの鈴木さん、ワカツクの渡辺さんが理事という体制になっています。今までのCFW-Japanは永松さんの最初の私案があって、それに大きな影響を与えたのが由比藤さんでした。例の日本はひとつ仕事プロジェクトに取り入れられたやつです。厚労省だけでなく、雇用助成が降りてくるから、それを現地の活動と結びつけることと、というのがCFW-Japanの最初の活動でした。

CFW-Japanは最初はメーリングリスト上でいろいろな議論をやっていました。私は最初から緊急支援は自衛隊、消防がやるべきで、我々の出る幕ではないと思っていたので、その当時使っていた言葉で言うと、第2フェーズに備えるために議論を重ねるべきだと考えていました。そういう考えなので、私は一度もいわゆるボランティア活動もしていないし、義捐金を出したこともありません(個人的なカンパは付き合い上、何回かしてますけど)。全然自己完結じゃなく、友達のところに毎回、お世話になってます。

4月の中頃でしたか、釜石出身の女性の方の紹介でMLに加わっていた@リアスの鹿野さんが我々の議論に業を煮やして、いったいいつの震災の話をしているんだ、将来に起こる震災の話をしているのか、という趣旨のメールを送って来られました。そのメールは実は少なからぬメンバーに影響を与えました。ちなみに、その頃、議論してた内容は地域通貨で、それが縁で私は一面識もない岡田真美子先生にメールを差し上げ、メンバーになってもらいました。CFWのMLは休業状態なので、関係は途絶えましたが、岡田先生は宗援連の幹部の一人なので、その方面で個人的には御縁が繋がっています。地域通貨の重要性は僕は今でも疑っておりませんし、実現に向けての道筋もないわけではありません。それはもう少し形になったらお話しします。

4月の終わり頃にCFWは最初の会合を持ちました。永松さん、由比藤さんの路線が必ずしも全体のコンセンサスになっておらず、結果的に、初期のMLで私以外ではもっとも投稿していただろう川井さんがその会合を機に、CFWを抜けることになりました。これは明らかにコミュニケーション不足で、元々、一度も会ったことのない見ず知らずの人々がWEB上で集まって始まったことですから、そういう限界がありました。私は個人的には川井さんとの縁が切れるのはもったいないと思ったので、飯田さんを誘って、一緒に活動をして行くことになりました。これはその後、雨マケになります。結果的に、初期の主要メンバーの両方と繋がって動いているのは私だけですね。MLが低調になったのはこのときの失敗があったことと、私も含めて議論の中心になっていた人たちがそれぞれの活動に傾注して行った結果、MLに精力を傾けなくなったためです。

その後、永松さん、由比藤さんは鹿野さんをサポートしていて、現在も@リアスとCFW-Japanは共同でプロジェクトを立ち上げて行こうとしています。が、内容は今最終の詰めている段階なので、そのうちに紹介します。実務的な面では由比藤さんが全力でサポートしてきました。大まかに言うと、国からの助成を最大限に利用しながら、事業を遂行するという仕組みです。日本はひとつ仕事プロジェクトも本来は、それぞれの下からのニードを吸い上げて、そこにお金を落とすというのが制度理念であったはずですが、実際には必ずしもそういう風にはなっていない。結果的にこの枠組みを比較的、上手に使ったのが福島県で、これは仕事のマッチングについてはうつくしまNPOネットワークに人のマッチングについては人材派遣会社に丸投げするという形でしたが、当初は絶対的な業務量が方になっていた行政をうまく補っていました。それでも限界があります。しかも、これに対して、宮城県、岩手県は完全に遅れを取っていた。

限界と言うのは、突き詰めるところ、アイディアの限界ではないかと私は考えています。永松さんを中心に、私も夏にはいろいろなところで調査させていただきましたが、最初こそ災害FM、買い物支援(御用聞き)、住宅見回りなど、いくつかの新しい試みに感動したものの、逆に言うと、その後はどこも似たようなことをやっているという印象に変わってきました。もちろん、制度設計上、最賃よりも高い賃金水準に設定したため、たとえば、近くのスーパーが再会した時にパート労働を圧迫したのではないかなどの懸念もありました。しかし、これもパートに来なくなったのは人が引っ越したためかもしれないし、緊急雇用の人とそこが重なっているのかどうかも検証はされていません。もし、重なっていたとしても、それはそれで一定の役割を果たした、といってもよいでしょう。

ただ、永松さんの発言がにわかに行政の人にも影響を与えるようになったため、彼が例示したことが役所で言うところの「前例」扱いになって、結果的に本当に新しい枠組みを認めないように作用したのではないか、という疑いを持っています。それでも、これはCFWの原点である、本格的な経済復興までのつなぎとしてのCFWという役割としては十分であったかもしれません。しかし、政府の資金に頼っている以上、撤退の時期が難しく、永松さんは当初から違うと主張されていましたが、私は戦後の失業対策と同じ問題に直面するだろうと思っています。緊急支援まわりで兵站戦になぞらえた議論が出てましたが、戦争で難儀なのは撤退戦です。プラクティカルには、失業対策事業のときに暗躍した某党のような人たちがいなければ、撤退自体は可能です。でも、撤退の後に何が残るかは課題として必ず出てくる。その先は見えていない。だから、私は最初から産業政策と結びつけて議論すべきだと言って来ました。でも、すべきだ論は今の時点では意味がない。実際にどう産業を興して行くかが重要です。その点は機会を改めて書きます。

秋口になるまで永松さんはCFW-Japanを法人化して事業を展開させようとは考えていませんでした。そういう意味では鹿野さんのところのサポートは由比藤さんおよび彼の活動を全面的にバックアップしてくれた労働新聞社さんの限定的な支援に終わっていた可能性もありました。秋ごろまでの、CFW-Japanの活動の大きな柱は啓蒙活動というか、実際に自然発生的に出来たCFWの試みを調査して、それを紹介して行くというところにありました。それがブログでのレポートに繋がります。次回はこのあたりの試みを紹介して行きましょう。