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去年の年末、おらが大槌復興食堂の夜の部がスタートした日、僕は久しぶりにゲンちゃん(下玉利元一)に会いに行った。彼は仕事をしていたので、その間、そこに客として来ていた阿部兄弟とひろよちゃん、それから大槌スタンディングスタンディング(SDSD)のリーダー岡野君に混ぜてもらって、同じテーブルについて話をした。でも、僕もなんとなくうまく話題作りもできなくて、ただ何度も岡野君が僕の出身校でもある法政というつながりで、まるで空白を埋めるように江川江川と言っていたのは覚えている。僕らが話をしたのは「支援」についてだった。彼らは物資支援を受けないでやってきた、という。もらい慣れこそが自分たちをダメにししてしまうと思った。実際、そういう人たちも出ている。だから、俺たちはもらわなかった、と。その一方で、初対面の僕にさえも、町に足を運んでくれた支援者への感謝の気持ちを繰り返し話してくれた。あれからいろいろな場で何度か顔を合わせることはあるけれども、その後、親しく話をする機会はない。でも、僕は君たちがあの晩、僕に示してくれた友情を忘れたことは一度もない。だから、あえて誰も面と向かって言わなかったことを言おう。おおつちありがとうロックフェスは間違っている。

僕は去年の夏、本家の復興食堂を土方君たちと東京に呼んで、一緒に代官山店をやった。復興食堂はもともと、テっちゃん(松本哲也)とゲンちゃんがみんなが笑って話せる居酒屋のようなところを作りたいということで始まったプロジェクトだ。炊き出しでも、ちょっといいものをみんなに食べてもらいたい、そういう思いで走り抜けた。復興食堂の仲間はもともとの知り合いで、そのころ、毎週末、三陸沿岸で必ず炊き出しをやっていた。みんな素人だから、テントの扱い方も知らずに借りたテントを置いておいたら飛ばされちゃって、後で弁償したという失敗話も代官山の夜に聞いた。そういう経緯なので、僕は彼らが県外に出てくるのを最初、ためらって、そこでどんなやりとりがあったのかも知っている。でも、結果的に彼らは県外に出てきた。そして、被災地外と被災地がつながる、それが継続的な支援にとって必要なことだ、ということを知ったのだ。

ちなみに、今はどうか分からないが、支援すると言って当時、関東で彼らを呼ぶところも、謝礼どころか交通費さえも人数分、出さないところもあった。これは復興食堂だけに限ったことではない。みんなは知らないかもしれないが、東京で現地の支援団体を支援するといいながら、結果的にはそのイベントのネタにしているだけのところも少なくない。呼んでくれる方もみんなが必ずしも賛成してくれるわけではないから、自分の裁量で一生懸命働きかけて、何とかして支援しよう(最近では風化させないようにしよう)という気持ちで動いている。だからこそ親分(内輪だけ分かるように名前は出しませんが)も「足が出ても、行かなきゃ行けないときもあるんだよ」と語っていた。彼らからすれば、僕がこんなことを書くのも快く思わないだろう。ただ、被災地外の支援者は今後もこの事実をよく考えてほしい。本筋じゃないけど、大切なことなので書いておく。

復興食堂の名前を大槌で使わせて欲しいという申し出があった。彼らはそれを受けた。「おらが大槌復興食堂」が誕生した。そして、ゲンちゃんは単身、大槌に移り住み、おらがで一緒に働きだした。一スタッフとして。彼は支援者という言葉にこだわったが、僕の目から見れば、彼はおらがのSDSDと友人になった。もともと彼らを結びつけたのは石垣ロックフェスティバル前夜祭。どこまで書いていいのか分からないけど、ゲンちゃんは盛岡のいしがきミュージックフェスティバルにも関わった一人。そこでSDSDは自分たちの手で大槌でもロックフェスをやりたいと願った。その彼らが念願のロックフェスをやろうとしている。その目前まで迫っている。ひろよちゃんたちが一生懸命、募金活動をしてきた姿もFBを通じて見てきた。みんながどんなにこのイベントを楽しみにしているのかもよくよく分かる。

今年の3月13日の夕方、沿岸部に津波注意報が発令された。沿岸部の町はパニックに陥り、大槌町では町役場の人たちが全員、城山に避難し、県からの連絡がまったく取れなくなった。大震災の日、加藤町長をはじめ、町役場の精鋭たちが被災後に勇敢にも対策本部を立て、津波で亡くなってしまったことは町の誰もが知っている。だから、僕は逃げたこと自体を責める気はない(ただし、その逃げて打ち捨てるような場所に、昨年決めたとはいえ8億円をかけて、新しい町役場を作ろうとしているのは正気の沙汰とは思えないが)。みんな忘れていた津波の記憶を思い出したのだ。

話は変わるが、釜石市の大町では多くの居酒屋が再開している。そこに入っているのは、建設関係やボランティアなどの外部の人たちだ。地元の人はそんなに頻繁に飲みに行く余裕がないという経済的な事情もあるかもしれないけれども、何よりも津波浸水区域の真ん中で飲み食いをするのは危険すぎる。彼らは津波の本当の恐怖も、避難路さえも知らない。もし、夜、次の津波が来たら、全滅だろう。常々、そんなことを考えて釜石を歩いている中で、一昨日、こちらの大学生と話をした。自分は被災地に行ったけれども、友人ではまだ行ってない友人もいて、ありフェスに行きたいと思っている人が多いそうだ。関東にいて、東北のことを思っているけれども、何もできていない自分にもどかしさを感じている人たち、何かきっかけを探している人たちが数多くいる。でも、彼らは城山に急いで逃げなければばならないことを知らない。そんな人たちが君たちが企画したロックフェスに当日、急にやってくる。彼らは支援者ではないかもしれない。でも、君たちは全国から大槌を思う人たちを呼んでいるんだ。その人たちの命を守れるのか。

不意の災害があって、仕方なく誰かを救えない、という話じゃないんだ。僕が言うよりも本当に津波の怖さを知っているのは君たちじゃないか。大震災で多くの人が犠牲になったけれども、これがまだ意識の高い東北の人たちだからこれだけの被害で収まったともいえるんだ。震災以前に関東近辺で意識が高いのは静岡くらいだよ。そういう何も知らない人たちがやってくるんだ。君たちに呼ばれて。その本当の重さを分かっているのか。その1日に津波が来る可能性は低いかもしれない。実際に津波は来ないだろう。でも、君たちが大勢の人に呼びかけたこと、そして、その人たちに対してリスクの説明を十分にしなかったという事実は消えない。平成16年に想定宮城沖地震のシュミレーションによって「これより先津波浸水想定区域」の看板を作りながら、十分な備えをしなかった者たちと同じことを繰り返すことになる。しかも、今度はシュミレーションではない、実際に経験しているにもかかわらずだ。被災地から一番伝えるべきことはありがとうなのか。来たるべき震災に備えるために、経験を伝えること、それこそがお返しになるんじゃないのか。

大槌の中ではあの津波浸水区域の北小に仮設商店街を作ったこと、そして、何よりも外からのゲストであるボランティアを宿泊させていることに賛成しない人たちも多くいる。遠野まごころネットはあくまで大槌の外の団体だ。臼沢さんは大槌で生きていくかもしれないけれども、まごころの人はどんなに一生懸命、仕事をしてくれても、引継ぎをしていつでも大槌を去ることが出来る。僕はいまだ大槌に住んでいるわけでもないし、外から来ているよそ者に過ぎない。でも、君たちは違う。大槌が好きで、大槌で生きていくんだろう。今、大槌の人たちとともにやらなければならないことはロックフェスなのか。もちろん、ロックフェスを喜ぶ人たちもいるだろう。でも、何も知らない人たちを大勢、浸水区域で集めること、見ている人たちは見ている。

繰り返すけれども、君たちが一生懸命、募金活動をやっていたことは知っている。働く場も失い、生活も苦しい中で支援を受けて感謝はしているけれども、何もできない、そういう人もいると思う。そういう中でも少しでもお金を出してくれる人もいるだろう。その気持ちは本当に尊いものだと思う。でも、やるならば、そういうお金だけでやるべきだった。支援を受けながら、支援ありがとうというイベントを打つことにはすごく違和感を覚える。それは筋が通らないだろう。今まで支援を受けないで頑張ってきたことは何だったんだろう。あの夜、僕は支援を受けてもいいんじゃないかと言ったと思う。でも、君らはそこを譲らなかった。歌なんか何も歌わなかったけれど、僕はたしかにそこに本物のロックを見た。みんなで何かを一緒にやりたいという気持ちは分かるけど、本当に苦しいときに頑張って守り通したロック魂を捨ててまで、君たちが盛大なロックフェスにしようとしていることはとても残念だ。それは僕にはもうロックだとは思えない。
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