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間先生の言葉の使い方って、労働関係=賃労働(隅谷史観)で、労使関係は集団的労使関係のことを指して使っている感じがする。ゴードン先生も雇用関係と労使関係で、そこはほぼ近いと思う。この点はまず、確認。

昨日の夜、少し予告的にメモしておいたけど、ゴードン先生の著書はやはり、通史的に描き切ったというところが大きいと思う。日本的雇用慣行は1920年代に作られたというのが通説で、これは主として兵藤先生に負っているところが大きいんだけれども(ちなみに、尾高煌之助先生も1920年代説)、ゴードン先生はそれに対して、孫田先生の戦時起源説も踏まえて上で、いやいや、実際に定着したのは1950年代でしょ、と提示している。菅山さんの書評にも書いたけど、僕は正直、2010年代において日本的経営の起源という問題設定はどうでもいいと思っている。それでも、研究史として総括しておく必要はある。まぁ、起源説はゴードン先生と菅山さんの説の1950年代で決着でいいんじゃないかな。僕もゴードン先生が重視された賃金制度の変化で、実証的な証拠はOKだと思っている(ただ、ここのところは入門書で少し詳しく書いておいたけど)。1910年代後半から1920年代はゴードン先生も重視ししているが、そこを描いた第3章は「最初の試みの失敗」と書いている。ただ、訳書では「労務管理改革と労働運動」になっている。こちらの方が描かれている事実の意味は理解しやすいが、研究史的には元のタイトルの方がゴードン先生の意図を理解しやすい。

この賃金制度の変化については、ゴードン先生の本を読めば、1920年代に能率賃金を志向して、科学的管理法をベースに出来高制度を結構、入れたけれども、戦後の統制賃金を経て、戦後はみんな月給制度になった、ということだろうと思う。ゴードン先生は日給から月給制度への変化を重視している。これは工職身分格差という点で考えたら、そう見えるかもしれないけど、賃金形態論から見ると、査定付の定額給であることは変わらない。この点では中西先生が描いているとおり、明治20年代の長崎造船でもおそらく賃金査定はあったと見られている。それに戦前も大きい事業所は月払いだから、日給から月給に変わったことがどれだけ労働者にインパクトを与えたのか、ここは議論の余地があるだろう(明治30年代はいろんな工場がそれこそ地域の事情にあわせて、週払いだったり、10日払いだったり、いろいろだったけれども、それがいつの間にか月払いに収斂していった。多分、その要因は事務手続き上の煩雑さを減らすためだと思う)。また、森建資先生が書いた八幡の賃金仮説では基本給ベース(日給)はずっと根強く存在していたとしている。論点は1920年代に能率給を入れたときに、どれだけこの日給ベースの秩序を保ったのか、否かという実証になってくるだろうと思う。

まとめると、こんな感じだろうか。1920年代までに直接的管理が成立する(兵藤説)。その直接的管理のもとで、科学的管理法を導入し、様々な能率賃金を入れようとする。しかし、それは労働者側からの反発もあり、貫徹し得ない。そうこうするうちに、戦時賃金統制に入る。その統制で、工職身分差の撤廃が志向されながら、賃金制度の改革が志向される(孫田説)。しかし、それは戦争中は実現せず、実現を見るのは1950年代に入ってからである(ゴードン説)。

骨格の理解はこんなところでよしとしよう。あとは、京浜工業地帯を集中的に実証の対象にしていることの意義をもう少し整理して書こう。それはブログエントリにするまでもないかな。ただ、研究史的には重要だから、地図は入れてほしかったな。多分、二村先生は半世紀以上東京暮らしなので、すっかり自明のことになっていると思うけれども、関東以外の人間は日本人でも関東の地図なんか分からないと思う。
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すみません。このブログ、元々は誰かに理解してもらうことを前提に書いてません。今回のエントリは完全に僕の頭の中を整理するためだけに書いていますので、あしからず。

ゴードン先生の『日本労使関係史』の書評を書こうと思って、また、昨年の菅山さんのときと同じように、何から書けばいいのか、途方に暮れている。というか、この本は翻訳される前から、既に三つも書評が出ていて、そのうち池田信先生が書いたものはwebで読める。だから、内容の詳しい紹介はいらないかなと思う。

原題を直訳するとこの本は『日本における労使関係の展開:重工業1853-1955』となって、ほぼ近代100年をカバーすることになる。このタイトルはこの分野の人はみんな知っている兵藤釗『日本における労資関係の展開』の影響を受けている。でも、「使」か「資」かで全然、意味が変わってくる。ゴードン先生は労資関係ではなく、雇用関係と労使関係で描こうとした。これは兵藤先生とそれを批判的に乗り越えようとした中西洋先生とは完全に違う道を歩んでいる。

1970年代まで「労使関係」をメインに使っていたのは、間宏などの産業社会学の一派と氏原正治郎である。氏原グループと一般に呼ばれる人たちも「労資関係」を使っている人が多い。70年代から80年代にかけて当該研究のトレンドを劇的に変えてしまった小池和男先生はこの使用方法にあまりこだわりを持っていらっしゃらなかった。古いものは労資関係、そのうちに労使関係に移行していった。日経史関連はそのバックグラウンドが講座派であれ、宇野派であれ、マルクス経済学だから、西成田さんなどは基本的に労資関係だったと思う。

そういう意味ではちゃんとこの転換を意識して行ったのが佐口和郎ということになる。佐口先生は社会経済史学にこの本の書評を書いているけれども、そこでこの「労使関係」の意味をはっきり書いている。ただ、佐口先生の労使関係とゴードン先生の労使関係のイメージはズレている。佐口先生は『産業民主主義の前提』の中でちゃんとゴードン先生も引いて「労使関係」という視点の先駆者として触れているけれども、その理論的なバックボーンはダンロップだ。じゃあ、ゴードン先生とダンロップは結びつくのかというと、少し距離がある。ゴードン先生の労使関係はlabor relationsであり、ダンロップの方はindustrial relationsである。当然、佐口先生は後者を意識していたはずだ。

日本の労働問題研究者たちは、そのスタート地点でウェブ夫妻と格闘している。アメリカの研究をした神代先生でさえそうである。小池先生には1960年代にダンロップの著作についての研究ノートがあるが、そこには自分の調査研究が出来た後でこれに気づいたけれども、重要だと思うから検討するということが書かれている。それ以降の世代(念頭に置いてるのは仁田先生や石田光男先生)はダンロップをそのキャリアの初めの頃に読んでいる。そういう意味ではゴードン先生がこの研究を始めた1970年代には少しずつ状況が変わり始めていた。でも、ゴードン先生はlabor relationsという。英米のindustrial relationsではなく。そこで、カギになるのは雇用関係を重視するという視点である。

そこで、もう少し時代をさかのぼってみよう。戦後の第一世代である大河内一男、隅谷三喜男はどちらかというと日本独自の型を探索していた。大河内先生の隅谷先生の『日本賃労働史論』の書評を読むと、そのことがはっきり書かれている。詳しく書くと、この当時の講座派は共産党の運動と大分、結びついていて、革命運動と研究を区別しない人が少なからずいた。この点、講座派にカテゴライズされていたけれども、大河内先生はまったく違う立ち位置にいて、ウェバーの理念型論をベースに抽象的なレベルで各国の型を抽出することが重要だと考えていた。出稼ぎ型論というのはそういう文脈で読まなければならないので、1930年代のソーシャル・ダンピング論の文脈と区別できないのは筋が悪い。結果的に、藤田若雄の労使関係論というのはこれに近かった。

で、なんでこんな話をしたかというと、ゴードン先生の労使関係論は実は間宏の労働関係論の影響を受けているという話をしたかったからだ。間さんの大出世作『日本労務管理史研究』を読むと、しっかりと「労資関係」では行きませんよ、「労使関係」「労働関係」で行きますということが書いてある。間先生は紡績労働史の先駆者でもあるのだが、いかんせん先行研究の成果の摂取の仕方がカオス過ぎる。中西洋先生はそこの弱い部分を突いて「いわゆる『日本的労務管理論』について」という、もう後には何も残んないよね、という論文を書かれた。

間先生が影響を受けたのは氏原正治郎ではなくて、藤田若雄の「年功的労使関係論」ではないかと思う。これが今、考えると混乱を招いた。ここで唐突だが「伝統」という言葉を考えたい。実は「伝統」には二つある。本当に昔から続いている伝統、たとえばお祭り(最近作られたものもあるけど)と、近代に入ってから作られた「伝統」である。社会史の中ではこれまたイギリス労働史からキャリアをスタートさせたホブズボームという人が「伝統の発明」という概念を提唱している。もっとも、ホブズボームの提唱は間先生の研究の数年、後だが。

間先生は事実上、「日本的労務管理」や「日本的経営」について二つの議論をしている。一つは商家の伝統のような江戸以前からの伝統の話。もう一つは、近代に入ってから作られた伝統。すなわち、間先生は「日本的経営」は明治40年代から大正年間に作られたとしている。ただ、概念としてちゃんと提示していないから、ここは分かりにくい。もっと明示的に議論したら、大分、変わったはずだ。みんな伝統=前近代の残滓だと思ってたから。近代に作られた伝統という発想はなかったと思う。でも、事実上、間先生はそういう問題を論じている。どうでもいいけど、僕は社会学畑出身でない労働研究者の中ではおそらく一番、間宏を丁寧に読んだと自負しているので(大分、忘れちゃったけど)。

誰か産業社会学の人がしっかり論じてほしいけれども、ゴードン先生が引き合いに出すドアの『イギリスの工場、日本の工場』はもともと間先生たちとチームを組んでやったものの成果である。残念ながらドアの方が圧倒的によかったので、忘れ去られているが、間先生も『イギリスの社会と労使関係:比較社会学的考察』として成果をまとめている。ドア先生の著作にどれくらい間宏の影響があるのか、というのは、とても重要なポイントだと思う。なぜか?ようやく、ここでゴードン先生に戻ろう。

ゴードン先生がドアを批判して経営者側ではなく、労働者側に重点を置いて、歴史を描きたいといったとき、おそらく間先生が重要になるのではないか、と思う。つまり、なぜ産業社会学というアメリカのindsutrial relationsからスタートした学問領域であるにもかかわらず、そして大勢は労働社会学へ移行していったにもかかわらず、間先生だけは最後、経営社会学にたどり着いたのか、そういう問題が伏線として眠っている(まあ、僕はどちらでもいいけど)。もし、ゴードン先生が英語圏の読者でなく、日本語圏の読者、それも研究者に向けてこの本を書いていたら、僕は間宏がもっと前面に出てきたのではないかと思う(ちなみに、間先生の『日本労務管理史論』が抄訳で英語になったのは1989年である。僕は重工業だけを取り扱ったのは訳者のサコ・マリさんが間先生の議論が持つパースペクティブをよく分かってなかったからだと思っている)。

労使関係っていうと、多くの人は主役は労働者だと思う。実際、みんな、労働者、資本家or経営者の両方がアクターとして登場しないと分からない。そういう意味では、労使関係と言いながら、結構、経営に重点があるよね、というバランスをゴードン先生は整えたと思う。佐口先生は、あの世代の東大労働問題研究者らしく、中西洋を超えるという課題があるから、労使関係における国家の役割が結構、重要な問題意識になっているので、おそらくゴードン先生の議論をもっともきっちり継承したのはウさんの『「身分の取引」と日本の雇用慣行』だと思う。

さて、そろそろ、話を整理できそうな気がしてきた。

インスピレーション:トムスン、トマス・C・スミス→社会史的発想
戦前の基本的な流れ:兵藤釗(氏原)→間接管理から直接管理
「labor relations」分析枠組み:ドア、間宏
戦時期から戦後の史観:金子・孫田グループ(ただ、ゴードン説は戦後)→官僚中心説

とりあえず、ここでいったん切り上げて、また仕切り直しましょう。