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今回の濱口先生の「労使関係の「近代化」の二重性」で主要な論点は出尽くしたといってもいいと思います。おそらく、我々はここから現代の問題を考えて行かなければならない。

濱口さんとの間で交わされた議論は、労働運動をいくつかの層で考えなければならないことを示唆しています。私はいつも講義でもナショナルセンター、産別、企業別組合、事業所の4層構造を教え、戦前は一番、上と下から組合運動が始まり、徐々に産別が形成され、企業別組合(戦後ですが)が形成されていったことを説明します。組合運動を企業別組合だけで理解してはいけない、と。本当はここに一般組合や地域別組合が入ってくるわけですが、とりあえず、企業別組合が複層的な構造の中にあることから理解してもらわなければならない。しかし、実はこれでさえも戦後の労使関係を語る上では不十分であり、それはこの上に国際的労働関係が抜けているからです。そして、合わせ鏡のようにして、この複層的な労働運動の主体の横には言葉の狭い意味での「政治」があるわけです。

日本の組合は何れにせよインテリから始まった。それは否定できません。右派組合の総同盟(=友愛会)でさえも鈴木文治が始めたし、1910年代の幹部は学卒者が少なくない。でも、左派が出て行ったり、棚橋小虎が有名な「労働組合に還れ」を書いて出て行ったりして、1920年代には少なくとも松岡駒吉が完全にトップであった。このクラスになると、学卒とか労働者出身とかそういう符号付けはあまり意味をなさなくなってきて、個々の固有名詞が独自に意味を持っていると思います。戦後の右派組合の源流も松岡が作ってきたことは、オーラルヒストリーで大分、明らかになってきた。というのは、誰に聞いても松岡の名前が出てくるからです。組織的には企業別組合は産報の影響を受けているのは明らかなんだけど、それ以前から企業内の事業所連合というのは存在したことはあまり知られていない。戦前の日本製鉄では産報を作って行くにあたって労働組合の存在を調べるんだけれども、その頃の日本製鉄は総同盟系の右派組合で、もうちゃんと、企業内連合を作っていた。これを調べさせたのが当時の平生会長であり、言うまでもなく間もなく日本産業報国会会長に就任します。私は富士紡の労働運動を見て、組織論的に考えて、事業所が連携して企業別連合を作るのは戦術・戦略的に考えて当然であると主張してきましたし、どうも日本製鉄の人たちも同じだったようです。すなわち、組織的に繋がって活動してるかどうかという問題意識で調査し、果たして、連合組織があったということになったのです。

ヨーロッパの近代というけれども、結果的には組織という面からいえば、日本のシステムの方がよほど近代的だった。言ってみれば、日本は企業(株式会社)という近代的仕組みの中に封建的慣習を残してきたけれども、ヨーロッパはトレードという古い仕組みの中を近代的リニューアルしようとしてきた(私はジョブ型というのは反対でトレードというべきだと思っている)。ここがポイントです。だから、私の企業別組合論というのは、内容は小池先生の説とは違うけれども、結論的にはやはり最先端論です。そして、モデルは紡績企業にある。欧米ではブランチのある紡績企業というのは出てこなかったけれども、日本はわりと初期からたくさんの工場を持っていた。その企業が世界を制覇して行った。別に日本にもギルド的組織がなかったわけではなく、明治期に壊したんだよね。最後まで残ったのが鉱山の友子同盟だと思います。

要は「ビジネス・ユニオニズム」の「ビジネス」をどう理解するかということ。ここにいつも論点になってくる「近代」理解が重要になってくる。集合的バーゲニングといったって、戦前からやっているところはやっていました。ただ、産別ということになると、必ずしもそうではなかった。それはやりたかったけれども、なかなか出来なかったのです。私の見るところ、繰り返しになりますが、労使関係というよりも、労労関係が大きかったように思います。ここから先は私自身も実はよく分かっていない。分かっていないけれども、やっぱり分水嶺は1970年代にあると思います。企業別労働組合強化路線と同時に動いていたのは労働戦線統一ですから。企業別組合を軸に協調的労使関係を主導してきた人たちは同時に、もっと大きなストーリーの主役でもあったと言えるんです。

こっちのより大きい連合に繋がっていくストーリーを重視するならば、部分的に企業別組合を強化する方向があったとしても、それは必ずしも企業内封鎖市場に繋がるとは限らない。むしろ、問われるべきなのは、企業別組合を強化したことよりも、なぜ職種や産業を飛び越えて、労働戦線統一を急がなければならなかったのか、ということではないでしょうか。労働の業界でよく言われるような、総評と同盟でやってた方がよかったんじゃないか、といった連合の現在地を考える始まりにもなり得るでしょう。

というか、まだ社会全般に浸透してないけど、個別には産別は試みて来たし、今もやっていると思いますよ。「職業能力」と「職種」の設定という大事業。
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市原先生にすごくグッドタイミングで論文が送られてきました。『社会を問う人びと』岩波書店、2012年、所収の「「労働」の社会と労働者像の変容」です。全体的にはメンバーシップ論で日本の労働者像を描いているんですが、私が昨日、やられてこなかったという労労関係のところの話も踏み込んで、書かれています。こんなにはっきりと、労働運動は右派が左派に勝ったんだ、それはインテリ中心の左派に、役付工クラス中心の右派の現実路線が勝っていったというような形で書いた人はなかなかいない。特に、この産別会議はインテリ中心、総同盟はたたき上げ中心という風な切り口で、描いていった人はいないのではないかと思います。そして、この市原史観の背後には、梅崎さんたちが積み重ねてきたオーラルヒストリーの膨大な蓄積があるわけです。まあ、ポイントは宮田義二ですね。

宮田が企業別組合を重視したことと、メンバーシップ論というのは遠いんじゃないか、と私は思います。私ももちろん、宮田回顧録は読みましたし、奥田先生の遺著も読みました。そこらあたりからイメージするにやはりポイントは八幡製鉄時代の地道な組合活動です。宮田さんが何をしたかと言うと、左派中心だった八幡の組合をひっくり返した。と、こう書くと、いかにも政治闘争をしたかのようですが、私が強調したいのは、協調的労働組合路線でありながら、会社からの補助金を一切、受けなかった。会社から立派なことをやっているから協力したいという申し出があったにもかかわらず、それはすべて断って、毎回の勉強会は看護婦をしていた奥さんからおにぎりだけが仲間たちに提供されたんです(奥田先生の本に書いてあります)。小池和男先生から繰り返し受けた教えは、金に対する態度でその人物を見定めるということでした。この点において宮田は文句なく立派であり、それを最後の本に書いた奥田先生も見事です。関係ないですが、今回の震災においてもNPOはこの審判に立たされるでしょう。まず、岩手沿岸では際だって目立っていた山田の大雪りばぁねっとが表ざたになりましたが、今後、似たようなことは起こるはずです。美しい未来への夢ばかり語っていても、人焉んぞ隠さんやであります。

結局、企業、というか自分の本拠地をベースにしていくというのは、それまでの(左派)指導層にかき回されたという思いが強かったのではないか、と想像します。であるならば、これは、協調的労使関係、現実主義とは結びつけられるかもしれないけれども、別に企業別組合とは結びつける必要がないのではないかと思います。そうそう私は小池先生の説のうち、内部労働市場から企業別組合を解き明かす説だけには納得していないんですね。でも、市原先生は大まかにはこの小池説を採っていると思います。
さあさあ御立合い、御用とお急ぎでない方は聞いておいで、見ておいで、濱口金子劇場、始まるよ。

というわけで、今回はまた強烈なのが来ましたね。最初にhamachanが私の書評スタンスを批判されているのですが、微妙な違いなんか、こんな字数で表現できるわけない、というのが一つ。それに細かく書いたってどうせみんな分からんでしょうし、分かっている人は、私の文章を読めば、全部分かった上で、書き分けているのが伝わるはずだからいいのです。実際、濱口さん自身は分かった上で書いているわけですし。

ゴードンさんの研究はたしかに、実証的にも優れていて、その点を微細に評価するという方向もあったと思います。ただ分かる人には、というか、実際に資料を読んでどういう風に労使関係を描こうかという苦労した経験のある人には伝わるように、その機微も書いてあります。具体的に言えば、ゴードン先生さえも意識されなかった賃金制度への注目であり、京浜工場地帯という切り取り方への注目なのです。ただ、先生自身は雇用保障に関心を持っていたそうです。いずれにせよ、こうしたことを詳しく書けば、超マニアックな書評が出来上がったことでしょう。

私自身はあんまり学術論文で大きな話をするのは好きではないのですが、今はあまりにもグランド・セオリーというか、そういう大きな話を出来る人がいなくなってしまった時代なのです。だからあえて、私はクリアカットして、20年代説、戦時説、50年代説という切り分け方をして、大きな見取り図を描こうとしたのです。まあ、理念型的ですね。ただ「微妙な感じ」を知りたい人には分かるように兵藤、間、孫田などの主要論客の学説と実証的証拠などポイントで捉えて分析してありますから、このあたりは完全にプロ仕様になっています。成立時期の対立という一面的な理解で、「微妙な感じ」を感じ取れない人には理解できないはずですから、何を言っているんだろう?と不安になって下されば、それで十分です。

ただ、ここからが捻じれてややこしいんですが、濱口先生はもっと大きい話をしようとしています。これが主要な第二のポイントですね。それは現在に繋がる社会保障と日本的雇用との連動が硬直化している問題、その原因が何かを捉えようという話です。というか、平たく言うと、そこに話が収斂させていこうとしている。それがメンバーシップ論です。ですが、多分、20年代の話は50年代の話には直接、繋がらない。

たしかに戦後の労使関係、とりわけ企業別組合が念頭にあって、メンバーシップ論は展開されて来ました。でも、これは昔、私が反論しましたが、戦前と戦後をそこで連続的に見るのは難しい。そもそも、戦前の労働運動は今よりもはるかに意識が高く、社会とか労働者階級というものをしっかりと捉えていたといっていい。そもそもミスリーディングも何も、とりあえず研究史上、重要だと思われきてようなので、触れておいたんですが、はっきり言って、メンバーシップの問題で労使関係を切っていく視点は二村、ゴードン、禹に至るまでみんなダメだと私は思っているんです。だから、ほとんど無視した。それだけのことです。

日立のような学歴至上主義の会社で、あいつより俺の方が優秀だったけど、うちが貧乏だったから学校に行けなかったがために、という恨み節をもっているところは、そこが決定的に重要かもしれませんが、50年代の鉄鋼労働者はおそらく、ホワイトカラーと同じ処遇をされるよりも競馬・競輪の方が重要だったのではないでしょうか。そういう労働文化を変えようとしたのは、むしろ、八幡製鉄に始まる技術革新のために、熟練工を再教育していくという中で生まれた気がします。どちらかというと、労働側(ないし労働組合)は受け手だった。ただ、これもケースによるでしょう。

戦前の労使交渉は協議、交渉、争議という形ではなく、協議するところもあるけれども、争議で初めてテーブルにつくという場合が少なくなかった。交渉が始まるのは20年代後半くらいからです。その意味で争議は今よりもはるかに重要でした。争議というのは、イコール、組織運動的な意味での労働運動ではない。いわゆる山猫ストのようなものも少なくない。もちろん、それをも労働運動に含めてもいいし、平たく言えば、それは定義の問題ですが、組織運動化した労働運動とはとりあえず分けて考えましょう。そうした争議総体の中で、なお認められていないというメンバーシップの問題が言われていたと理解すべきでしょう。日鉄機関方争議はたしかにあれは企業別組合だし、そういう意識でやっていますが、1910年代の組織的労働運動家はおそらくそうではない。彼らはプロレタリア文学やそれに類するもので勉強して労働者意識を作っているのだから、縦の組合(工場委員会含む)は当然、糾弾の対象です。これと1950年代の話とは全然、繋がらない。

私の理解では、企業別組合の問題は労使関係の問題という側面からよりも、労労関係の方から捉えて行った方が話が早い。要するに、労働運動における組織論の問題です。で、平たく言ってしまえば、日本は友愛会設立以来、個別組合より先にナショナルセンターが出来て、それが左右の逆転はあってもリーダーであったわけですが、それによる統制が大企業の組合に効かなくなった。つまり、最初は多分、松岡あたりの右派が指導して、企業別組合を作って行ったんだと思いますが(私はこの点ではその方が交渉力があったからそういう戦術を選んだと解釈しています)、青は藍より出でて藍より青しで、大手の企業別組合の方が強くなってしまった。一番、象徴的なのはJC春闘ですよ。そもそもナショナルセンターや産別で徹底的に大手企業別組合と戦ったのは、業界ナンバーワン企業の東洋紡や鐘紡を除名した全繊くらいじゃないですか。それを企業内労使関係で回収していくのはおかしな話だと思います。もちろん、この背景には政治的対立(含むイデオロギー対立)、人間関係的対立などがグチャグチャにあるわけです。

企業別組合は半封建社会論と当時結び付けられていて、それが批判対象でもあった。大河内先生は学問的にウェバー的な型論的な考えをもっていて、それは単純な半封建社会批判ではなかったけれども、批判はしなくてもそういう現状認識は共有していた。同時にその認識枠組みは運動側には共有されていた。彼らは生の事実は事実で知っていたけれども、それを整理して理解するときには人が作った枠組みに頼った。なぜ、こんなことを書くのかと言えば、そもそも先に学者の労働運動批判があって、それこそが企業別組合=半封建社会批判というテンプレートだった。これも大きな意味をもっています。というのは、これ自体がイデオロギー含みであり、これが労働運動とも連動していたことは確認するまでもないでしょう。

この運動を理解するときに、イデオロギーとかプロパガンダとか、そういう側面をどう相対化していくのか、ということは私は重視していますが、今まではあんまり明示的には議論されてこなかった気がします。そして、すべての運動にはプロパガンダが決定的に重要です。敗戦直後は工職身分一体化はスローガンでは訴えられたけど、それは職員層も生活のために労働運動(賃上げ)をしていく必要があり、うがった見方をすれば、労働運動の中で工職で分断してしまうのはあり得ない事態だという背景があったのではないか、という風にも捉えられます。

もうひとつ捻じれがあるのが、戦後、組合が沢山出来たとき、産報の看板を掛けかえたところもたくさんあった。それを濱口さんは企業別組合という文脈で見ている。それはそれで間違っていないんだけど、大企業の企業別組合が労働運動の中で強くなっていったのはそれとは別に考える必要がある。それはチェックオフやユニオンショップなどの組織化戦略と無縁ではない。私はその両方とも労働運動の本質から考えると、邪道だと思うし、そう言っても来たけれども「そんなこと言ったって金子さん、それじゃ役員に誰もならないよ」という現実もあるし、あったわけですし、それを日和見主義と取るか、すべての偉大な政策は妥協の産物であるという精神で行くかは立場の違いです(私自身は後者ですが)。

日本には現場主義というのが明治からあって、それは技術史の人たちの中では、移植産業だったからという説があり、そう大雑把にいってもその解釈にはいろいろあるでしょうが、大枠には私もそれでいいと思う。それが協調的労使関係の基盤にあると思いますが、そこを論じていくと時間が足りないので、今日はこのへんにしておきましょう。