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「経済成長は七難隠す」というのは飯田さんからよくきいたセリフだけれども、たしかに、この失われた二十年において日本経済に足りなかったのはマクロ経済政策であったと思う。最近、POSSEの台頭が目立つようになるたび、その筋の人たちがマクロ経済政策がまったく抜けていると指摘している。まあ、彼らが左派系の労働関係研究者の薫陶を受けているのだから、それはそうなるでしょう。しかし、僕はそれでも別にいいと思っている。

労使関係の分野でマクロ経済政策と結びつけた最後の議論は佐々木孝男による1984年の逆生産性基準原理であったといってよいだろう。佐々木さんは知る人ぞ知る、というか、労使関係界隈の人であれば、おそらく知らない人はいない大立者である。日本に労働生産性の各種統計を作ったのは佐々木さんと同門で親友の孫田良平先生である。同門といえば、いわゆる金子学校という、金子美雄門下である。

佐々木は「経済五カ年計画」の策定のとき、労働省から経済企画庁に引っ張られた。労働省では金子美雄の部下として幹部候補生というキャリアを積んでいたが、金子が経済企画庁に移り、これを機に呼び寄せたのである。以後、経済企画庁のキャリアを歩み、引退後、連合総研の前身の経済・社会政策研究会に所属して、そのまま連合試験を立ち上げ、初代所長に就任する。そして、有名な逆生産性基準原理を提唱するのである。これを当時の同盟が取り入れる。

逆生産性基準原理は日経連の生産性基準原理に対抗するために作られた論理であり、同盟の賃金政策に取り込まれたことから、労働側のロジックと考えられているけれども、それは物事の表層であり、本質ではない。そもそも、生産性基準原理は、日本で最初に所得政策を検討した熊谷委員会報告にあり、このレポートの原案を書いたのが佐々木孝男である。生産性基準原理に先立つこと2年、1967年のことである。

1960年代から70年代にかけては物価安定が経済政策の課題であり、そのためには生産性上昇分と賃金上昇分を均衡させなければならない。というのが所得政策の考え方だった。ただし、日本では熊谷委員会もその後の馬場委員会、隅谷委員会も所得政策を見送った。日本型所得政策と言われるのは、オイルショック後、1975年、桜田武が中心になって前年の49%越えの賃上げを15%に収めさせたときくらいものだろう。これを痛み分けで労働側も飲んだ。文字通り、労使で解決した形になった。ところが、この話にはおまけがあって、このときの春闘をめぐって、金子意見と労働組合側で対立があっことが元生産性本部の河鍋巖氏の証言で明らかになっている(こういう仕事はさすが梅崎さん)。金子美雄は生産性本部を作ったときから中核にいたわけだけれども、一貫して労働者の生活を考えている。これは戦時中から変わらない。そして、何より統計的データに基づいて、ここまでは賃上げ出来るという風に考えていたということである。これはすごい証言だよ。これで金子さんの新賃金論ノートを読み込める。これを企業別組合の問題だと労働省関連の人は受け取った。金子さんからhamachanに至るまでずっと継承されてる。

でも、これ以降、日本は物価を安定させたことも事実だし、僕はその点では桜田さんの判断が誤りだったと思わない。当時のパターンセッターは鉄鋼で、その中心は新日鉄。その会長稲山嘉寛を説得した。この当時の鉄鋼業って、原価+適正利潤とかいう程の売り手市場の商売なので、一企業という観点から言えば、15%以上の賃上げに応ずることは困難じゃなかったと思う。それでもあえて、抑えたというのは私心を超えた政治的判断だったと思う。この後、第二次オイルショックも日本がもっとも上手に切り抜けることになる。生産性基準原理が本当に効いたのはこのときだった(その前は問題にされなかった)。ただ、これをもって賃金闘争が死んだ、という組合関係者は少なからずいる。僕もそのことは否定しない。

ただ、この物価安定を前提として、逆生産性基準原理が作られる。すなわち、物価が安定しているんだから、賃金上げて、消費を増やして、内需拡大しないといかんというのである。この背景には貿易黒字が外交問題になっていたということもあり、そこから内需拡大型への転換への必要が訴えられたのである。ロジックはまったくその通りなんだけど、でもね、なんというか、訴えてこない。これは感覚的なもの。

1971年、有名な「くたばれGNP」が朝日新聞で連載され、流行語になる。当時は住宅問題と公害問題で、重工業化、産業化への疑問が投げかけられた時期である。実は、1960年代の最初の時期から金子さんは生産性成果配分委員会のレポートで社会保障との連携を書いてはいるけれども、60年代後半まで顧みられることは少なかった。それがこの時期から前面に出てこざるを得ない。そして、春闘も春季生活闘争みたいに多様化してくる。このあたりが時代の境目だった。厚生省は賃金統制の頃から社会政策的賃金を訴えていたけれども、ある意味で社会政策の発想は単純であった。結局、春闘もその枠組みを超えることが出来ていない、今も。それが分からなければ、賃金がなぜ重要なのかということも十分に説明することが出来ないのではないかと思う。
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ポリティカル・ユニオニズムに濱口さんが反応してくださって、問題提起してくださったのですが、私の率直な感想で言うと、企業別下部構造などというものはアプリオリに存在していたわけではない、ということを主張したいと思います。そもそも、企業別組合は戦後に出来たものです。

まず、スタートは戦後の総同盟や新産別の組合再建の方が早かった。これが第一。つまり、ナショナル・センター主導で始まったということがポイントです。おそらく、もし日本の労働組合の本質というものがあるとすれば、労働組合というものがその黎明期においてインテリをエンジンにしていた経験を持つというところにあるのではないでしょうか。それが右派系の場合、というか、総同盟(戦前のですよ)は鈴木文治から松岡駒吉ないし西尾末広に上手にスイッチすることが出来た。もし、1921年に棚橋小虎がやめていなかったら、事態は少し違う方向に向かっていったかもしれません。でも、松岡が中心でよかったと思います。

先ごろは端折って書きましたが、正確に考えるならば、日本の労働組合が最初に飛躍的に発展するのはロシア革命の影響です。1920年ごろの総同盟のアジびらを読めば、後に共産党で暗躍する野坂だけではなく、鈴木文治や松岡駒吉だってどうしてどうしてロシア革命の影響を受けています。影響というのがひっかかるなら、刺激を受けていると言い換えましょう。何度でも言いますが、日本の労働運動の基盤はナショナル・センターにありました。だからこそ、ポリティカル・ユニオニズムというものが先行した。これは致し方なかった面があります。

協調的労使関係という言葉は誤解を生みやすいので、大分注意して使いたいんですが、協調的労使関係を掲げていても社民右派というのは基本的に戦闘的です。なかなか戦わないけど、戦い出したら、徹底的にやり通す。どうも歴史的にそういう傾向があるみたいです。

で、たぶん、誤解のもとなのは、欧米のビジネス・ユニオニズムはその下部構造にトレード・ユニオニズムを持っていて、しかも、それがソーシャル・ユニオニズムの母体にもなっているという点が重要です。これが結局、日本は作れなかった。でも、ソーシャル・ユニオニズムは慈善活動なんかともつながっているので、そういう鉱脈は日本にはもともとないのです。いや、正確に言えばありますよ。講のような組織はそれですね。でも、そこと組合活動は結びついていない。初期のトレード・ユニオンが秘教的儀式をやっていたことはよく知られていますが、日本はせいぜい友愛会の結党式が芝の教会でやられたという程度です。キリシタンですからね、在来宗教と結びつかなかったわけです。よい悪いは別にして。

まぁこの秘教的雰囲気は既に19世紀にはなかったわけですが、それにしてもです。ここから近代に対応するべく、ヨーロッパは濱口先生の言葉に合わせるならば、ジョブ型に組みなおしていく。日本は地域別、地区別からスタート。地区といっても大きい事業所は一つ。その事業所は地区の色合いが強かったけれども、それが1920年代の紡績、具体的に言って富士紡から、事業所間の企業内連携を意図的にやる。それを指揮したのは松岡です。その富士紡も戦後に事業所別組合の元トップが集まって、連合的な企業別組合を作る。その上部団体が言うまでもなく全繊同盟(現UAゼンセン)なわけですが、ゼンセン同盟の統制力が弱かったことがあったでしょうか。こういうことを踏まえるならば、もし上部団体の力が弱かったとすると、それはナショナル・センターや産別の経営能力の問題だと僕は考えているのです。
年末から戦後の賃金史を考えていて、その絡みで労働運動の歴史も考えていたわけですが、やっぱり賃金を勉強する際に労働組合のあり方という、やや大上段に構えた問題を考えないといけないと思います。私はずっと言っているのは、労働組合は本来、熟練工から始まったのであり、腕があるということこそが交渉力の源なんだ、ということです。それを忘れてしまってはいけない。これは言い換えれば、ビジネス・ユニオニズムと言ってもいい。

それでも、労働組合運動は、その運動の本質として、おそらく二つの情熱があった。その一つは間違いなくビジネス・ユニオニズム。そして、もう一方はソーシャル・ユニオニズム。実は連合が出来た後、遅々たる歩みではあっても、ソーシャル・ユニオニズムが少しずつ進んできていた。そして、00年代以降、苅谷学力論争から格差社会へと論壇のシフトがあって、派遣村などに象徴される貧困の問題、非正規と正規の格差の問題が取り上げられることになって、活動としてはユニオンであったり、まぁ、こちらのソーシャル・ユニオニズムが重要になってきました。

でも、もう一つ、今は歴史のかなたに消えてしまった「ポリティカル・ユニオニズム」というのもあったと思うんですね。でも、あんまりこういう言葉はない。試しに英語でググってみましたが、まったくないわけじゃないけれども、人口に膾炙した言葉とは言えないですね。でも、1920年代の世界大恐慌を境に、経済五カ年計画に代表されるソ連の統制経済と、欧米の市場経済との対立があって、それは実は政治体制およびイデオロギーとも深く結びついていた。日本でいえば、左派は総評、新産別、右派は同盟系、中立が中立労連という形で対応していた。1940年代後半はやはりポリティカル・ユニオニズムの時代だったといっていいと思います。それが、総評でも55年を境に転換していく。55年というのは高野実から岩井章に事務局長がスイッチした年です。こうしていわゆる「岩井・太田ライン」が出来て、春闘が作られていく。これは結果的にはポリティカル・ユニオニズムからビジネス・ユニオニズムへのスイッチだったと言えるのではないかと今は考えています。同時に、この年、日本生産性本部が出来ます。そして、右派は協調的労使関係の御旗のもと、この運動に協力して行きます。ここからはビジネス・ユニオニズムの中での左右の主導権争いがあって、それが最終的に右派が勝って、IMF-JCなどの基幹産業、そしてそれを支える大企業の覇権になっていく。その帰結が連合結成になる。

こんな風に書くと誤解を生むかもしれないけれども、ポリティカル・ユニオニズムという言葉がものすごくフィットするのは日本なんじゃないかなと思います。それは組合活動がやはり圧倒的に興隆した時代がまさに冷戦構造が出来上がっていった時代とパラレルであったことが大きい。19世紀から第二次大戦まで国家というものがワッと大きくなっていった。その幻想から覚めていくのがおそらく1970年代以降、戦時国家の鬼子であった福祉国家が見直されるときでした。でも、日本では55年に転機があったと考えたい。この場合、私が重視しているのは春闘です。

私見では、ソーシャル・ユニオニズムは社民主義、労働組合主義として育っていくのが自然だったと思います。こう書いてどこまで理解してもらえるか分かりませんが、それがチェスタートンのイメージする保守であり、ヨーロッパ的には社民主義に落ち着くからです。でも、日本ではソーシャルの意味がポリティカル・ユニオニズムの文脈にみんな引き取られて来た戦後の歴史がありました。

と、まあ、本当は80年代以降のことを書きたいんですが、とりあえず、ここでこの思考はストップでいいかな。あとはヨーロッパの保守思想もちゃんと勉強したいんだけど、それは賃金の勉強が終わってからだなあ。