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学生のレポートを指導するときに、ネットで調べないで、本を読んだ方がいいという意見があるんだけれども、これは端的に言うと、時代錯誤だ。デジタルとアナログ、それぞれの良さはあるんだけど、アナログの良さも教えながら、デジタルの世界でどう活かすかも教えて行かなければならない。数年前、ある研究会で、学生の就職活動のテーマの報告があって、そのときに学生がネットでジャンク情報を集めがちだが、図書館で有価証券報告書をしっかり読んだ方がずっと有効だという話が出た。しかし、その有価証券報告書も今はネットでしか読めない。

労働関係の情報はネットの情報をあまねく集めることが出来れば、ほとんど必要なものは集まってしまう。というか、hamachanのブログをチェックして、ちゃんとソースを丁寧に全部読めば、それだけで専門家以上の知識を身に付けることが出来るだろう(ただし、その専門家の専門分野以外についてだが)。それも一つの勉強法である。それに今年の労働経済の分析も出来がよいので、下手な本よりこちらの方がバランスもよいし、教科書に最適である。もちろん、全文をネットで読むことが出来る。むしろ、私たちに必要なのは、スマホもそうだが、学生の端末環境をよく知って、適切なチャネルを教えることでないかと思う。

とはいえ、大枠では重要なことは、情報の取捨選択の技術である。ただ、これは基本的に本もそうだが、やってみるしかない。試行錯誤のうちに上達する。もちろん、傍らについていてあげれば、的確に今度はこういう本を読んでみたら?というアドバイスは出来るが、それがなければ、なかなか出来ないだろう。しかし、本の取捨選択もそうだが、勉強して向上心があれば、そのうち、レベルの高い本を求めるようになってくる。ネットの情報も同じだろう。成長すると、自分のアンテナにひっかかってくるものが変わってくる。

私自身は大原社研というアーカイブズにいるので、分類の仕方なども考えざるを得ないし、たとえば、本当はキーワードの付与などもある程度の基礎的な教養があることも知っているが、学者でも普通は、そこまでなかなか考えない。経験だけで行っていいと思う。
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私が労働問題研究を始めた2000年代の前半、左派の凋落は痛々しいほどだった。原因ははっきりしていて、かつては社会科学の基礎教養とも言うべきだったマルクス経済学が、90年代のソ連崩壊とともに徐々に影響力を失ったからである。「マルクス」まわりの最大の魅力はまさに社会科学万般から哲学に至るまで接合するパースペクティブを持っていたことだった。だから、異分野の対話を行いやすかった側面がある。それにマルクス経済学の成果がことごとく無に帰したわけではない。通俗的に言えば、資本主義対社会主義、アメリカ対ソ連の対立があり、フリードマンらの新自由主義とマルクス経済学が構図上、対立しているように見えたのである。だから、ソ連が崩壊したことはマルクス経済学が敗れたかのように見えたのであり、それがトレンドになった。否定すべくもない。

左派の労働問題研究はある意味、50年以上も前に完成されており、私の見るところ、90年代前半まではそれなりの論客がいたような気がする。しかし、その後の世代継承はうまく行かなかったのではないだろうか。これは統計をとったわけではなくて、個人的な実感でしかない。左派にシンパシーを持つ人はいつの世も一定数いる。そのシンパシーを持つ人の労働問題に関する議論がレベルが下がっていたのである。私は別に左派ではないけれども、おせっかいながら、左派ならここはこう言うべきなんじゃないの?と思う場面が何度もあった。

そういう中で登場してきたのはPOSSEである。熊沢先生、木下武男先生が彼らを育てたとはいえ、その間の世代があまりにもさびしいという感じがするが、この数年で本当にPOSSEは新しい世代の左派の代表になった。それはとても大事なことであり、ある意味、一安心である。問題は社民右派である。もはや、右派ってね、自民党のことだけじゃないんだよ?知ってる?と確認しなければならない状況である。かつてブログでも紹介したが、関嘉彦先生の晩年の述懐、社会民主主義は日本に根付かなかった、というのは残念ながら、否定しきれない。組合関係の中では今から思えば、同盟と総評が一緒になってしまったために、緊張関係がなくなったと悔やむ声がある。それももう一つある。なんとかならないかねぇ。

濱口先生に「集団的労使関係なき権利教育は「窮鼠猫を噛む」か」というリプライをいただきました。ええ、分かってますとも。ただ、今、僕のまわりの人が変わってきて、百姓一揆の意味が交渉だなんて一言だけ書いても分からないので、こんな風に書いたのです。昔の専門家にさえ分かんなくていいや、という頃でしたら、前提にして書いたでしょうね笑。ちなみに、争議とか、一揆とかを交渉の一プロセスと捉える見方は、先年亡くなったホブズボームが機械打ち毀し運動で有名なラッダイド運動に採用したものです。でも、一つずつ説明すると、ディレッタントな気分なんだよな。

まあ、さりはさりとて、基本的な問題意識はそんなに変わりません。ただ僕が言いたいのは集団的労使関係でも個別労使関係でさえもないんですね。分かりやすく言ってしまえば、ゼミで違うと思ってるんなら手を上げて言えよ、というくらいのものです。じゃあ、なんで百姓一揆なのかということですが・・・。

百姓一揆を使ったのは僕が今いる大槌が三閉伊郡一揆の中心地だったからですが、まあ、百姓一揆というのは命をかけた異議申し立てなんで、みんなの記憶に残る反抗はこの一揆であり、命をかけての方が記憶に残ってるわけで、その交渉プロセスなんて誰も興味ないのです。であるならば、少なくとも今の世の中、交渉するのは命がけじゃなくても出来るから、というメッセージの方が大事なんです。

そんなことは多分、先刻承知で、これを機会に集団的労使関係と個別労使関係の重要性を盛り上げようというのが濱口先生の意図だとは思いますが、無理です。そもそも労働組合運動がユニオンと理解されかねない形勢ですよ。個人的労使関係を解決するのに組合が出て来て、会社が相手にしないと団体交渉権違反を勝ち取るんですから、それじゃ組合の法的に保障された強さは実感できるかもしれませんが、団体交渉のなんたるかは全然分からない。

交渉という言葉がまずかったかもしれませんね。僕が言う交渉というのは、こうやっていつもみたいに濱口先生とのやりとりも含めて考えてるんです。こういうやり取りは別に最初からゴールが決まってるわけではなくて、お互いに途中ゴールみたいな意図は込めるけど、そこからズレて行って、面白い展開になることもある。それもでもお互い言い合わないと成立しない。でも「よく濱口先生とあんな風にやりとりできますね」としばしば言われて、「何言ってるんだ、お前」と思う僕は日々、絶望しているわけです。罵倒し合いじゃない生産的な議論ってあるんですよ、というのを伝えたかったのになあ。伝わってないんですよね。自分でやれないと思っちゃうんですかね。楽しいのになー。
火曜日の労働環境論の講義で、大学生の就職問題を話そうと思って、関連文献の読み返しをしている。その中で、前に目を通したことがあるはずなんだが、改めてそうなんだよなと思ったのが居神浩「ノンエリート大学生に伝えるべきこと」であった。この論文の素晴らしいところはいくつもあると思うけれども、私が今回、もっともそうなんだよなと思ったのはタイトルにした「異議を申し立てる力」である。実は最近、私はまったく違う二つの経験から、この問題が重要だなと感じていたからである。

一つは、非常勤先の学生さん、どこの学校で話をしていても同じように感じている。最近、初めて私のテストで異議申し立てをして来た学生がいて、単に成績の見直しを迫るのではなく、自分は自分なりに勉強して来てクリアできたと思った、何が悪かったのか教えてほしいというので、とても感激した。テストの異議申し立てがあると、教員は動揺することも多いと思うが、自分なりに勉強して来て出来たと主張できる学生との対峙は喜びである。その結果いかんを問わず、立派であると言わざるを得ない。ただ、このようなケースは稀である。

もう一つは、支援に来ている沿岸で感じることである。行政の対応、その他、みんな、不満はたくさんある。でも、それをうまく異議を申し立てる術を知らない。申し立てない理由は、学生とは違うけれども、技術として異議を申し立てることがある、ということをやはり知らない。

さて、理由は別にして、異議を申し立てることが出来る、ということをどうやったら伝えることが出来るかのだろうか。私は権利教育というのは筋が悪いと思っている。そんな生存権ギリギリのところまで追い詰められてから戦かうのではなく、もっと交渉するということをちゃんと日常的な行為として身につけるべきだと思う。それがないと、結局、窮鼠猫を噛むみたいな話になり、追い詰められて一寸の虫にも五分の魂があることを見せつけたいという運びになる。それではまったく生産的ではない。ただの百姓一揆である。

しかし、交渉を教えるのもまた難儀である。実際、やってみせるのが一番の教材ではあるのだが、それを目の前で見ても、何も感じられない人もいる。それは前提として、自分がやってもダメだということがある。ここではたしかに居神さんが書いているように、自信の回復が必要なんだろうなと思う。でも、これ、結局、カウンセリングの領域に近い。ということは、これやったらNGというのはあるけど、これさえやっておけばOKというのはない、ということなんだな。結局、対機説法という当たり前の結論に落ち着く。そりゃ、そうなんだけどさ。