2013年11月25日 (月)
さっきまで、大槌町の大ヶ口集会所で開かれていたNHKの収録に参加していました。POSSEの渡辺君が話をするというので、どんなもんだろうと聞きに行ったのです。出てきた論点はそれほど真新しいこともなかったですが、いろいろと聞いて、頭の中の整理にはなりました。
岩手沿岸部、とりわけ大槌を中心に考えるなら、一番の問題点はコミュニティが分断されてしまったことなんですね。働かない人のなかに働く気持ちにならない人もいるという意見が強くあって、その背後にあるのは不安感だということが語られていました。いろいろと話が行き交ったのですが、私が聞いている限り、つづまるところ、震災前には強力なコミュニティがあって、みんなそこに強く結びついていた。それがなくなったことが、そういうものがあまりない地域で暮らしている私のような者から見ると、想像できないほどの不安感を呼び起こしているんだろうなということを感じました。
じつはこれに対する対策はほとんどとられていません。研究者の中には、それが必要であるということに気が付いていた人はそれなりにいましたが、衆寡敵せず、ほとんどそれを知ることは出来ません。政策面で見ても、この問題を克服するような施策が打たれているかと言えば、必ずしも打たれていないのが現状です。
具体的に行政のセクションで言えば、生活は福祉の問題であり、雇用は商工労政の問題です。また、生活に関わる育児が重要であるという観点からみると、教育もまた関連します。これは中央官庁の系統からいえば、厚労省、経産省、文科省がそれぞれ関係します(保育は厚労省ですが)。役場の中でもこうしたセクションの連携はとれていません。とれていませんというか、とらなければならない、という事態は震災を機に進展したのです。たとえば、福祉セクションは震災後、ボランティアの対応に追われ(それはそれで重要な局面もありましたが)、通常の福祉行政が出来ない状態でした。従来の福祉施設も震災のダメージを受けており、たとえば、就労の面で仕事がなくなるなどの状況に直面しており、従来の領域の福祉行政でさえも仕事は増えているのです。これに付け加えるのは無理です。
現場レベルではこうしたことが無理であるのみならず、中央の方もほとんど事態を理解できておりません。今なお、2000年代に問題になった非正規問題に縛られる形で、正社員化こそが至上命題のごとく考えられているのです。さらに、ミスリーディングなのは、有効求人倍率ばかりに捉えられているわけです。これは専門的に言えば、潜在失業を考えていない。日本の有効求人倍率はハローワークに行って求職活動した人のみ求職者にカウントされます。大槌から釜石小佐野にあるハローワークまで車がなければ、片道500円以上、往復で1000円かかります。求人情報はたとえばマストやローソン、役場でも配られています。ということは、実際にハローワークまで出向いて、求職活動をするのはまさに応募するときなのです。ということは、求人倍率は多めにカウントされていろと考えて当然でしょう。
コミュニティの崩壊は不安感を引き起こしているだけではありません。昔ながらの「子どもは宝」という文化が残っている沿岸部では、当世流に言えば、社会的子育てが実現できていた側面があります。ところが、これが出来なくなってしまった。そうなると、女の人たちは育児、介護等で時間が割かれ、ますます仕事に行くのが困難になってしまった。さらに、仮設住宅で職場と家が遠くなってしまった。バスで送迎があったとしても、時間的にかりに片道15分だったとしても往復で30分かかります。主婦にとって30分は結構、大きい。これに拘束時間が長ければ、ほぼ立ち行かなくなります。また、通勤手段を自分で持たないということは、かりに子どもが熱を出して迎えに行かなければならなくなったとき、職場で帰ることが許されても、実際には迎えに行けないわけです。もちろん、人手不足の会社がこれをフォローするのは無理でしょう。
渡辺君がブラック企業というより、震災以降の雇用条件が悪くなっているということで呼ばれましたが、被災地全体で荒んで暴力的になっているのはじつは職場だけでなく、家庭でもそうであり、DVの問題も増えています。仙台のブラック企業の話は都会の話なので、今野君が言うようにこれに対抗できるのは組合ですが、組合が問題に気付くのにも遅いので、これを少しずつ啓蒙して行くという段取りで間違いありません。すぐには解決できませんが、POSSEに引き続き頑張ってもらうしかない。それ以外の話は大槌、釜石でもありますが、解決は難しい。少なくとも今の私の立場では解決策は容易に提示できる状態ではありません。というのも、一般論を述べても仕方ないからです。
よく被災地の心のケアといいますが、心のケアはじつは大して役に立たない。はっきり言って焼け石に水です。もちろん、対処療法としてはやった方がマシですが、これだけ大量に出現し始めているということは、地域の社会問題なのであって、それを解決しないことには解決できないのです。あとは、支援者と被災者あるいは後背地の方も含めて消耗戦です。
この他に住む場所の問題、復興計画の遅れなど、様々な複合的な要因があるのは言うまでもありません。こらはいずれも今のとても厳しい状況です。でも、すべては正確な状況把握から始まるほかないのです。とりあえず、メモ代わりに、公にしていいことだけ、書いておきます。
岩手沿岸部、とりわけ大槌を中心に考えるなら、一番の問題点はコミュニティが分断されてしまったことなんですね。働かない人のなかに働く気持ちにならない人もいるという意見が強くあって、その背後にあるのは不安感だということが語られていました。いろいろと話が行き交ったのですが、私が聞いている限り、つづまるところ、震災前には強力なコミュニティがあって、みんなそこに強く結びついていた。それがなくなったことが、そういうものがあまりない地域で暮らしている私のような者から見ると、想像できないほどの不安感を呼び起こしているんだろうなということを感じました。
じつはこれに対する対策はほとんどとられていません。研究者の中には、それが必要であるということに気が付いていた人はそれなりにいましたが、衆寡敵せず、ほとんどそれを知ることは出来ません。政策面で見ても、この問題を克服するような施策が打たれているかと言えば、必ずしも打たれていないのが現状です。
具体的に行政のセクションで言えば、生活は福祉の問題であり、雇用は商工労政の問題です。また、生活に関わる育児が重要であるという観点からみると、教育もまた関連します。これは中央官庁の系統からいえば、厚労省、経産省、文科省がそれぞれ関係します(保育は厚労省ですが)。役場の中でもこうしたセクションの連携はとれていません。とれていませんというか、とらなければならない、という事態は震災を機に進展したのです。たとえば、福祉セクションは震災後、ボランティアの対応に追われ(それはそれで重要な局面もありましたが)、通常の福祉行政が出来ない状態でした。従来の福祉施設も震災のダメージを受けており、たとえば、就労の面で仕事がなくなるなどの状況に直面しており、従来の領域の福祉行政でさえも仕事は増えているのです。これに付け加えるのは無理です。
現場レベルではこうしたことが無理であるのみならず、中央の方もほとんど事態を理解できておりません。今なお、2000年代に問題になった非正規問題に縛られる形で、正社員化こそが至上命題のごとく考えられているのです。さらに、ミスリーディングなのは、有効求人倍率ばかりに捉えられているわけです。これは専門的に言えば、潜在失業を考えていない。日本の有効求人倍率はハローワークに行って求職活動した人のみ求職者にカウントされます。大槌から釜石小佐野にあるハローワークまで車がなければ、片道500円以上、往復で1000円かかります。求人情報はたとえばマストやローソン、役場でも配られています。ということは、実際にハローワークまで出向いて、求職活動をするのはまさに応募するときなのです。ということは、求人倍率は多めにカウントされていろと考えて当然でしょう。
コミュニティの崩壊は不安感を引き起こしているだけではありません。昔ながらの「子どもは宝」という文化が残っている沿岸部では、当世流に言えば、社会的子育てが実現できていた側面があります。ところが、これが出来なくなってしまった。そうなると、女の人たちは育児、介護等で時間が割かれ、ますます仕事に行くのが困難になってしまった。さらに、仮設住宅で職場と家が遠くなってしまった。バスで送迎があったとしても、時間的にかりに片道15分だったとしても往復で30分かかります。主婦にとって30分は結構、大きい。これに拘束時間が長ければ、ほぼ立ち行かなくなります。また、通勤手段を自分で持たないということは、かりに子どもが熱を出して迎えに行かなければならなくなったとき、職場で帰ることが許されても、実際には迎えに行けないわけです。もちろん、人手不足の会社がこれをフォローするのは無理でしょう。
渡辺君がブラック企業というより、震災以降の雇用条件が悪くなっているということで呼ばれましたが、被災地全体で荒んで暴力的になっているのはじつは職場だけでなく、家庭でもそうであり、DVの問題も増えています。仙台のブラック企業の話は都会の話なので、今野君が言うようにこれに対抗できるのは組合ですが、組合が問題に気付くのにも遅いので、これを少しずつ啓蒙して行くという段取りで間違いありません。すぐには解決できませんが、POSSEに引き続き頑張ってもらうしかない。それ以外の話は大槌、釜石でもありますが、解決は難しい。少なくとも今の私の立場では解決策は容易に提示できる状態ではありません。というのも、一般論を述べても仕方ないからです。
よく被災地の心のケアといいますが、心のケアはじつは大して役に立たない。はっきり言って焼け石に水です。もちろん、対処療法としてはやった方がマシですが、これだけ大量に出現し始めているということは、地域の社会問題なのであって、それを解決しないことには解決できないのです。あとは、支援者と被災者あるいは後背地の方も含めて消耗戦です。
この他に住む場所の問題、復興計画の遅れなど、様々な複合的な要因があるのは言うまでもありません。こらはいずれも今のとても厳しい状況です。でも、すべては正確な状況把握から始まるほかないのです。とりあえず、メモ代わりに、公にしていいことだけ、書いておきます。
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2013年11月16日 (土)
朝日新聞の澤路さんが昔のツイートを拾ってくださって、ふと、今考えていることとリンクしたので、メモ代わりに書いておきます。
最近、考えているのは、今現在進めている、戦前から産報にかけての労働組合をどう理解するかという問題なんですが、そこで1920年代の産業合理化を契機に、分配問題から生産問題へという主張があったことに気が付いたんです。昨日、この点はつぶやきましたが、1929年の大恐慌を契機に、有効需要不足に陥ったわけです。それが産業合理化運動にもつながっていく。でも、産業合理化運動自体は無駄をなくして、むしろ生産していくというロジックなんですね。
すごく大雑把に言うと、1920年代までの労働運動は左右問わず、基本的には階級闘争史観だった。それに反発したのが日本主義組合ですが、これは少数派。だって、総同盟右派、いわゆる社民右派が右翼と呼ばれていたわけですから、今の私たちの感覚からいうと、ちょっと理解しづらい。でも、階級闘争史観というのは、資本主義の横暴に対して労働組合は物申す、というのが共通しています。ざっくり言ってしまえば、その物申し方の方針の違いで、政治活動をやり、喧嘩して行ったのです。そういうゴタゴタが企業別組合を志向させていく。
実は、これは戦後もある意味、同じだったと言えなくもない。結局、同盟は分裂してからもずっと労働戦線統一ということは考えていた。でも、それが結局、実現できなかった。だから、連合結成も民間大企業の動きが決定的になったという経緯があります。それはよくもわるくも、ソーシャルであるよりも、ポリティカルであるということに重きを置かざるを得なかったという歴史的事情がある。
工業倶楽部が戦前、労働組合に賛成しなかったのも結局はそこです。総同盟が東京製綱でどんなに立派な実践をやっていても、それはだって、松岡がいるからでしょ?と思われていた。松岡がいなくなったら、綱領なんて簡単に変わるでしょう、という疑念があった。この時代ですから、組合も資本家もいつ殺されるか分からない。総同盟が現実路線に戻ったと言っても、階級闘争主義は残っているし、信用ならんというのが根底にありました。組織としての一貫性はあやしい。それは半分くらいは工業倶楽部の人たちが正しい。だって、友愛会=総同盟は創業から40年の半分くらい、1910年代後半から10年、それから戦後の総評が出来る直前まで何度も右と左の間を行ったり来たりしている。松岡は一貫していたかもしれないけれども、組織としてはフラフラしていたと評価されても仕方ない面があります。
幸か不幸か、日本のソーシャル運動がもっとも輝かしい時代に最重要な運動の一つが大正デモクラシーだった。大正デモクラシーはなにも普通選挙権獲得だけが活動の全体ではないんですが、みんなそう思った。だから、ポリティカルにならざるを得なくなった。ここに不幸があったんですね。その代わり、ポリティカルとソーシャルが結びついて、ポリティカルを嫌った人がソーシャルまでも一緒に投げ捨てるという事態が起こった。その代わり、組合活動はビジネスユニオニズムで行く。これは同盟系の運動方針、生産性向上に協力するという戦後の方針、戦前の産業能率増進に協力するという総同盟の方針とも一致するわけです。
でも、こうなってくると、もう分配より生産全盛なんですね。一応、戦前から臨時工問題は一貫してやっていますよ。1920年代から高度成長に至っても。でも、それも生産が全部、分配を解消するみたいな話になってしまった。事実、臨時工問題は生産が解決してしまったかのように見えたわけです。ビジネスがポリティカルとソーシャルを乗り越えて行ってしまった。それは分配から生産へという大河内社会政策論の道でもあった。でも、今、それは行き詰まっています。
詳しく説明しないで、宣言だけします。忙しいからです。我々は今、ソーシャルということを改めて考え直さなければならない時期に来ている。一応、組合も1990年代からそういう問題意識を持っていて、連合だってそういう動きはある。たとえば、高木郁朗先生の『共助と連帯』はそういう問題意識で書かれています。また、中村圭介『地域を繋ぐ』もそういう問題意識で書かれている。中村先生なんかそういうことを考える人なのかと驚きました。でも、両方、よい本だけど、売れてなくて絶版。
ポリティカルが死んで、ソーシャルも死んだ。もちろん、NPOその他、新しい社会の動きは出ています。でも、私はまだよく分からない。正直、私が信頼に足る歴史はまだ書かれていません。信頼に足るとは現代の問題を考える腹の据わった歴史という意味です。ただ、私ももう傍観者ではなくて、一プレイヤーとして参加していますので、全部は書きませんが、このあたりのことはみんなで考えていきましょう。
なんかここまでブラック企業の問題なんかが世の中を覆ってくると、大河内先生の「総資本による総労働の保全」としての社会政策こそが一番、大事なんじゃないかと時々、思えてくる。
https://twitter.com/ryojikaneko/status/372741253437210624
最近、考えているのは、今現在進めている、戦前から産報にかけての労働組合をどう理解するかという問題なんですが、そこで1920年代の産業合理化を契機に、分配問題から生産問題へという主張があったことに気が付いたんです。昨日、この点はつぶやきましたが、1929年の大恐慌を契機に、有効需要不足に陥ったわけです。それが産業合理化運動にもつながっていく。でも、産業合理化運動自体は無駄をなくして、むしろ生産していくというロジックなんですね。
すごく大雑把に言うと、1920年代までの労働運動は左右問わず、基本的には階級闘争史観だった。それに反発したのが日本主義組合ですが、これは少数派。だって、総同盟右派、いわゆる社民右派が右翼と呼ばれていたわけですから、今の私たちの感覚からいうと、ちょっと理解しづらい。でも、階級闘争史観というのは、資本主義の横暴に対して労働組合は物申す、というのが共通しています。ざっくり言ってしまえば、その物申し方の方針の違いで、政治活動をやり、喧嘩して行ったのです。そういうゴタゴタが企業別組合を志向させていく。
実は、これは戦後もある意味、同じだったと言えなくもない。結局、同盟は分裂してからもずっと労働戦線統一ということは考えていた。でも、それが結局、実現できなかった。だから、連合結成も民間大企業の動きが決定的になったという経緯があります。それはよくもわるくも、ソーシャルであるよりも、ポリティカルであるということに重きを置かざるを得なかったという歴史的事情がある。
工業倶楽部が戦前、労働組合に賛成しなかったのも結局はそこです。総同盟が東京製綱でどんなに立派な実践をやっていても、それはだって、松岡がいるからでしょ?と思われていた。松岡がいなくなったら、綱領なんて簡単に変わるでしょう、という疑念があった。この時代ですから、組合も資本家もいつ殺されるか分からない。総同盟が現実路線に戻ったと言っても、階級闘争主義は残っているし、信用ならんというのが根底にありました。組織としての一貫性はあやしい。それは半分くらいは工業倶楽部の人たちが正しい。だって、友愛会=総同盟は創業から40年の半分くらい、1910年代後半から10年、それから戦後の総評が出来る直前まで何度も右と左の間を行ったり来たりしている。松岡は一貫していたかもしれないけれども、組織としてはフラフラしていたと評価されても仕方ない面があります。
幸か不幸か、日本のソーシャル運動がもっとも輝かしい時代に最重要な運動の一つが大正デモクラシーだった。大正デモクラシーはなにも普通選挙権獲得だけが活動の全体ではないんですが、みんなそう思った。だから、ポリティカルにならざるを得なくなった。ここに不幸があったんですね。その代わり、ポリティカルとソーシャルが結びついて、ポリティカルを嫌った人がソーシャルまでも一緒に投げ捨てるという事態が起こった。その代わり、組合活動はビジネスユニオニズムで行く。これは同盟系の運動方針、生産性向上に協力するという戦後の方針、戦前の産業能率増進に協力するという総同盟の方針とも一致するわけです。
でも、こうなってくると、もう分配より生産全盛なんですね。一応、戦前から臨時工問題は一貫してやっていますよ。1920年代から高度成長に至っても。でも、それも生産が全部、分配を解消するみたいな話になってしまった。事実、臨時工問題は生産が解決してしまったかのように見えたわけです。ビジネスがポリティカルとソーシャルを乗り越えて行ってしまった。それは分配から生産へという大河内社会政策論の道でもあった。でも、今、それは行き詰まっています。
詳しく説明しないで、宣言だけします。忙しいからです。我々は今、ソーシャルということを改めて考え直さなければならない時期に来ている。一応、組合も1990年代からそういう問題意識を持っていて、連合だってそういう動きはある。たとえば、高木郁朗先生の『共助と連帯』はそういう問題意識で書かれています。また、中村圭介『地域を繋ぐ』もそういう問題意識で書かれている。中村先生なんかそういうことを考える人なのかと驚きました。でも、両方、よい本だけど、売れてなくて絶版。
ポリティカルが死んで、ソーシャルも死んだ。もちろん、NPOその他、新しい社会の動きは出ています。でも、私はまだよく分からない。正直、私が信頼に足る歴史はまだ書かれていません。信頼に足るとは現代の問題を考える腹の据わった歴史という意味です。ただ、私ももう傍観者ではなくて、一プレイヤーとして参加していますので、全部は書きませんが、このあたりのことはみんなで考えていきましょう。
2013年11月10日 (日)
萬年先生に振られていたのに、答えるのを忘れていました。法政大学大原社会問題研究所を少し宣伝しますね。うちの研究所は1919年に大原孫三郎によって創立されました。1919年というと、ILOが創立された年です。ILOというのは、労働者、使用者(資本家)、政府のうち、それぞれから代表を出して、国際会議をして、国際的な労働基準を作って行こうという機関です。日本は最初の年から参加していますが、その最初の年の労働者代表を出すので、ものすごくもめました。途中はすっぽり、省略しますが、このときのゴタゴタで高野岩三郎東大教授が東大を辞めることになり、その高野博士を所長に迎えて作ったのがわが大原社会問題研究所です。
うちの研究所は中興の祖であった二村一夫先生の方針で、開かれたアーカイブズということでやっておりまして、研究者に限定せずに、どちらの方でもいらっしゃることが出来ます。ただ、何分、古い資料を扱っているので、保存状態が悪かったり、今、まさに整理中の資料についてはお見せすることは出来ません。とはいえ、戦前期の協調会が持っていた文献資料なんかは閲覧が可能です。私は月曜日と水曜日には原則的に出勤していますので、声を掛けて下されば、ご案内もできます。ぜひお運びください。
とはいえ、うちは関東の中でも相原かめじろ台からバスで15分くらいという山奥にありますので、都内の人も一日仕事になってしまいます。まして地方からだとちょっと大変ですね。あと、食事は学食しかありません。近年の文献だったら、もちろん、東京都労働資料センターや日比谷図書館、JILPTの図書館が便利です。あと以外にも女性に関するところだったら、東京ウィメンズプラザもいいかもしれません。青山学院大学の目の前で場所がよいので、美味しいお店もいっぱいあります。気分を変えたいなら、江の島にあるかながわ女性センターも私は好きです。ただ、江の島は少し離れないと、ご飯を食べるお店は高いかな。古い文献なら大原社研、戦後の労働資料だったら飯田橋の東京都労働資料センターとJILPTがよいと思います。JILPTより飯田橋の方がアクセスはしやすいかな。
西日本の方はぜひ谷合館長が頑張っている大阪のエル・ライブラリーもご利用ください。
うちの研究所は中興の祖であった二村一夫先生の方針で、開かれたアーカイブズということでやっておりまして、研究者に限定せずに、どちらの方でもいらっしゃることが出来ます。ただ、何分、古い資料を扱っているので、保存状態が悪かったり、今、まさに整理中の資料についてはお見せすることは出来ません。とはいえ、戦前期の協調会が持っていた文献資料なんかは閲覧が可能です。私は月曜日と水曜日には原則的に出勤していますので、声を掛けて下されば、ご案内もできます。ぜひお運びください。
とはいえ、うちは関東の中でも相原かめじろ台からバスで15分くらいという山奥にありますので、都内の人も一日仕事になってしまいます。まして地方からだとちょっと大変ですね。あと、食事は学食しかありません。近年の文献だったら、もちろん、東京都労働資料センターや日比谷図書館、JILPTの図書館が便利です。あと以外にも女性に関するところだったら、東京ウィメンズプラザもいいかもしれません。青山学院大学の目の前で場所がよいので、美味しいお店もいっぱいあります。気分を変えたいなら、江の島にあるかながわ女性センターも私は好きです。ただ、江の島は少し離れないと、ご飯を食べるお店は高いかな。古い文献なら大原社研、戦後の労働資料だったら飯田橋の東京都労働資料センターとJILPTがよいと思います。JILPTより飯田橋の方がアクセスはしやすいかな。
西日本の方はぜひ谷合館長が頑張っている大阪のエル・ライブラリーもご利用ください。
2013年11月10日 (日)
お会いしたことのない方ですが、大河内満博さんにツイートで言及していただきました。
社労士関連で講師をなさってるんですね。そこで歴史を意識しながら、法律を教えているそうです。もうピッタリ、私と問題意識を共有していただきました。法の考え方はところどころ、入っています。私なりに生ける法と制定法の両方を意識しています。
濱口先生は紹介文に雇用の全体と書いて下さったんですが、実はそれはことの半分です。重要なのは、雇用と対比される請負も総合的に把握したことです。もちろん、濱口先生はそんなことは承知で、帯文としての分かりやすさから雇用の全体と書いて下さっているわけですが。戦前の雇用と請負を見ると、属人給と出来高給(請負給)の関係が分かります。これは第1章を読むと、分かります。ここのところは大河内さんには響いてくださったみたいです。続いて、こんなツイートを呟いておられます。
賃金統制の一部が労働基準法に反映されたことは、金子さん本人から孫田先生聞いていて、私もそれを伝承しています。この記述は賃金臨時措置令、賃金統制令、労働基準法に引き継がれたんですね。95頁にこんな記述を入れておきました。
編集で字が変えられてるな汗。正確は精確の間違いです。意味が違います。気が付かなかった。それにしても、こんなマニアックなところをよく引き受けてくださいました。ありがとうございました。ちなみに、常用、常傭と日雇、日傭ないし臨時という使い方も昔からの名残りですね。
@junposha 『日本の賃金を歴史から考える』を一気に読んでしまった。普段から労働法の歴史を意識しながら講義をしている私にとって、労働法の周縁部分である賃金論を歴史的視点から知ることは非常に興味深かった。歴史を振り返って今を考える、やはり「温故知新」なのだと改めて思う。
社労士関連で講師をなさってるんですね。そこで歴史を意識しながら、法律を教えているそうです。もうピッタリ、私と問題意識を共有していただきました。法の考え方はところどころ、入っています。私なりに生ける法と制定法の両方を意識しています。
濱口先生は紹介文に雇用の全体と書いて下さったんですが、実はそれはことの半分です。重要なのは、雇用と対比される請負も総合的に把握したことです。もちろん、濱口先生はそんなことは承知で、帯文としての分かりやすさから雇用の全体と書いて下さっているわけですが。戦前の雇用と請負を見ると、属人給と出来高給(請負給)の関係が分かります。これは第1章を読むと、分かります。ここのところは大河内さんには響いてくださったみたいです。続いて、こんなツイートを呟いておられます。
【労働基準法】平均賃金の最低保障額を定める労基法12条1項1号に出てくる「出来高払制その他の請負制」という部分は、民法上の請負契約とはほとんど関係ない。出来高払制と請負制とは同じ意味だと考えておいてよい。出来高賃金のことを請負賃金と呼んでいた戦前の名残にすぎない。
賃金統制の一部が労働基準法に反映されたことは、金子さん本人から孫田先生聞いていて、私もそれを伝承しています。この記述は賃金臨時措置令、賃金統制令、労働基準法に引き継がれたんですね。95頁にこんな記述を入れておきました。
基本給という言葉が最初に使われたのは1939(昭和14)年に施行された賃金臨時措置令の第三条である。「本令に於いて基本給と称するは定額賃金制に於ける定額給又は請負賃金制に於ける保証給若(もしく)は単位時間給」(原文はカタカナ,旧字)と定義されている。1939年といえば日中戦争中で当然,職能資格給の登場以前であるが、要するに当初,基本給は単なる固定給を意味していたのである。非専門家がこの条文を正確に理解する必要はないが,ついでなので解説しておこう。請負賃金は出来高賃金と同じ意味である。
編集で字が変えられてるな汗。正確は精確の間違いです。意味が違います。気が付かなかった。それにしても、こんなマニアックなところをよく引き受けてくださいました。ありがとうございました。ちなみに、常用、常傭と日雇、日傭ないし臨時という使い方も昔からの名残りですね。
2013年11月10日 (日)
萬年先生からご紹介いただきました。ありがとうございます。
同一労働同一賃金の話のところで、いきなりマタイ書20章のエピソードを出すのは結構、インパクトがあるみたいですね。日本では聖書なんてそんなに読まれていないと思っていたので、どうかなと思っていただのですが、何人かからはよい反応をもらいました。よい反応というのは驚いた、ということです。この話、有名なのは後の者が先になり、後の者が先になるという警句ですね。
それにしても、やっぱり萬年先生の中では、僕は佐々木輝雄先生を再紹介した人なんですね笑。萬年先生の貼ってくれたリンクもいいんですが、本人としては一番力を入れて書いた佐々木輝雄論は、こちらになります。佐々木先生は職業訓練の歴史研究で深い業績を残した方です。もともとの出自は教育史というのも面白い。
次の次くらいには人材育成と教育を両方視野に入れた近代史も書きたいなあ。
同一労働同一賃金の話のところで、いきなりマタイ書20章のエピソードを出すのは結構、インパクトがあるみたいですね。日本では聖書なんてそんなに読まれていないと思っていたので、どうかなと思っていただのですが、何人かからはよい反応をもらいました。よい反応というのは驚いた、ということです。この話、有名なのは後の者が先になり、後の者が先になるという警句ですね。
それにしても、やっぱり萬年先生の中では、僕は佐々木輝雄先生を再紹介した人なんですね笑。萬年先生の貼ってくれたリンクもいいんですが、本人としては一番力を入れて書いた佐々木輝雄論は、こちらになります。佐々木先生は職業訓練の歴史研究で深い業績を残した方です。もともとの出自は教育史というのも面白い。
次の次くらいには人材育成と教育を両方視野に入れた近代史も書きたいなあ。
2013年11月09日 (土)
都内の一般書店では先週から『日本の賃金を歴史から考える』が並ぶことになりました。この間、濱口先生をはじめ、たくさんの皆さんに宣伝していただき、感謝申し上げます。ありがとうございます。
今回の本は「多くの皆さんに賃金についてもう一回考えてもらおう、そして、そこから労使関係や労務管理を考えてもらおう」という気持ちで書きました。ですから、全体的にはこのブログよりも平易に書いてあるつもりです。はじめにも書きましたが、想定している読者層は一般の方です。学者の皆さんは読んで頂ければ、社会政策、社会福祉、経営史(労務管理史)、労働史などに関連することに関しては、私がオリジナルに考えたことも入れてあります。ただし、学術論文の体裁は一切取りませんでした。さすがに、一段落ほぼ内容を教わった場合はオリジナルに言及しましたが、それ以外のところに関してはほぼ出典をあげていません。読みにくいからです。
隠れた売りとしては、図表もたった一枚しか入れてないことでしょうか。一枚以外は全部地の文です。賃金の本で統計数字を使った表が一枚もないのは多分、私の本が空前絶後じゃないかと思います。濱口先生のエントリのブックマークに帯文に比べたタイトルのやる気のなさという風に書かれてしまいましたが、嬉しいなと思いました。もともとこの本のタイトルは企画元の連合総研内で議論していたときは『日本の賃金』でしたが、昔ベストセラーになった小島さんの同名の本もありますし、どうしようかなと考えていたときに、ふと力が抜けて浮かんだのがこれでした。でもね、余計な力が入っていないこととやる気がないのは全然別です。
一般論で言っても、時系列に並べるのか、論点別に並べるのかって難しいんですよね。時系列を軸に論点を全部、盛り込むのはちょっと無理でした。ですが、緩やかな論点別にしてみたら、ほぼ賃金に必要な論点は網羅できるんじゃないかなと思って、やってみました。どうでしょう?それから「考える」をタイトルに持ってきたということは、私なりに「へえ、昔、そういうことがあったんだ」という歴史を描きたいのではなく、今のそれぞれ持っている問題意識に引っかかって、その一つ一つを考えて欲しい、というメッセージを込めているんです。そのために、本来、プロの歴史研究者だったら絶対にやらない、丸めて書くということを意識してバンバンやっています。その方がエッセンスが分かりやすいからです。
あと、私は知らなかったんですが、書店用のチラシに、連合の総合労働局綜合局長の須田孝さんが推薦文を寄せてくださいました。須田さんは震災の年、副事務局長をやってらして、私は連合と法政大学との共同プロジェクト、就労・雇用研究会でご一緒してました。須田さんいわく、
第1章の冒頭は和RING-PROJECTが釜石の平田自治会(下の方の仮設ね)主催したバザーから始まりますし、第8章の社会的賃金もやはり被災地についての思いを込めました。でも、一言でそれを受け取ってくれたのは嬉しかったですね。
各地で議論して下されば嬉しい限りです。
追記
アマゾンでは数週間待ちで、ご迷惑をかけております。
ヨドバシ.comではすぐに配達してくれますので、ご利用いただければ、幸いです。
今回の本は「多くの皆さんに賃金についてもう一回考えてもらおう、そして、そこから労使関係や労務管理を考えてもらおう」という気持ちで書きました。ですから、全体的にはこのブログよりも平易に書いてあるつもりです。はじめにも書きましたが、想定している読者層は一般の方です。学者の皆さんは読んで頂ければ、社会政策、社会福祉、経営史(労務管理史)、労働史などに関連することに関しては、私がオリジナルに考えたことも入れてあります。ただし、学術論文の体裁は一切取りませんでした。さすがに、一段落ほぼ内容を教わった場合はオリジナルに言及しましたが、それ以外のところに関してはほぼ出典をあげていません。読みにくいからです。
隠れた売りとしては、図表もたった一枚しか入れてないことでしょうか。一枚以外は全部地の文です。賃金の本で統計数字を使った表が一枚もないのは多分、私の本が空前絶後じゃないかと思います。濱口先生のエントリのブックマークに帯文に比べたタイトルのやる気のなさという風に書かれてしまいましたが、嬉しいなと思いました。もともとこの本のタイトルは企画元の連合総研内で議論していたときは『日本の賃金』でしたが、昔ベストセラーになった小島さんの同名の本もありますし、どうしようかなと考えていたときに、ふと力が抜けて浮かんだのがこれでした。でもね、余計な力が入っていないこととやる気がないのは全然別です。
一般論で言っても、時系列に並べるのか、論点別に並べるのかって難しいんですよね。時系列を軸に論点を全部、盛り込むのはちょっと無理でした。ですが、緩やかな論点別にしてみたら、ほぼ賃金に必要な論点は網羅できるんじゃないかなと思って、やってみました。どうでしょう?それから「考える」をタイトルに持ってきたということは、私なりに「へえ、昔、そういうことがあったんだ」という歴史を描きたいのではなく、今のそれぞれ持っている問題意識に引っかかって、その一つ一つを考えて欲しい、というメッセージを込めているんです。そのために、本来、プロの歴史研究者だったら絶対にやらない、丸めて書くということを意識してバンバンやっています。その方がエッセンスが分かりやすいからです。
あと、私は知らなかったんですが、書店用のチラシに、連合の総合労働局綜合局長の須田孝さんが推薦文を寄せてくださいました。須田さんは震災の年、副事務局長をやってらして、私は連合と法政大学との共同プロジェクト、就労・雇用研究会でご一緒してました。須田さんいわく、
賃金の歴史は深い。極めて意義深い問いを我々労働者に投げ掛ける。被災地と賃金の復興が重なり合う書でもある。
第1章の冒頭は和RING-PROJECTが釜石の平田自治会(下の方の仮設ね)主催したバザーから始まりますし、第8章の社会的賃金もやはり被災地についての思いを込めました。でも、一言でそれを受け取ってくれたのは嬉しかったですね。
各地で議論して下されば嬉しい限りです。
追記
アマゾンでは数週間待ちで、ご迷惑をかけております。
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2013年11月05日 (火)
何度聞いても、名前を覚えられない・・・。昨日、大槌・釜石地区の住民会議に出席しました。初めての試みといっても、僕も含めて、学者の方も何人も入られていて、みなさん、黒子役に徹していました。僕は喋っちゃいましたが。正直に言うと、今後の課題も多いと思います。でも、第一回としては大盛況だったと思います。個人的な失敗は片方の襟がセーターが出ていない状態でNHKさんのニュースで放映されたことでしょうか。髭もそってないし、ひどい・・・。
それはともかく、僕が何を喋ったかというと、安渡のお母ちゃんたちの気持ちを代弁したんです。スタートから昔の良かったことを話してもらいました。その後、震災後、どうしたいかという話をしました。次に町方の人の気持ちも聞いたんですが、それは全体ではお話ししませんでした。タイミングを逸したというか。
震災で近所がなくなってしまった。友人は遠く離れて会えない、内陸に行った人もいる。小さい子どもも高齢者も一緒に安心して暮らせる住みやすい町になって欲しい。というのが彼女たちの一番の願いでした。これだけを聞くとそれはそうだよなという内容ですが、じつはそこには震災前の具体的なイメージがあります。
大槌町安渡はもともと住民の繋がりが強い地区で、公民館運動もさかんでした。そこでは公民館まつり(芸能発表会あり)、盆踊り、部落運動会、世代間交流としてさつまいもを一緒に植える、小正月のみづきだんご作り、8月6日の大仏さんまつり(つけげまんじゅう)、六大工さんで安渡小学校の児童が新巻鮭づくり体験(六大工さんは今は大ヶ口で旅館を経営されています)、漁協婦人部と安小児童によるさけ汁づくり体験、小学校低学年のさけの稚魚放流といった年中行事に、月一回のお茶っ子。このお茶っ子は高齢者が自分で歩いてきて自分で歩いて帰るのがポイントだったそうです。
でも、大槌では小学校も統合され、安渡小学校は廃校になりました。震災前は水産加工があって、そこで若いお母さんたちは働いて、安渡保育所に子どもを預けていました。今のままで果たして子どもたちは戻ってくるのか、それがみんなの心配ごとでした。また、住む場所も問題です。住む場所の問題というと、すぐ浸水域か高台かといった話になりますが、ここで出てきた話はそういう種類の話ではありません。まず公営住宅に個人だけでなく、希望地域で入れて欲しいということでした。さらに、震災で家族を亡くされたお母さんたちは、長年住み慣れた安渡に残るのか、実家に戻るのがよいのか、迷っている方もいるそうです。
僕は発表のときに、コアな安渡の話をします。といって、語り始めたわけですが、神は細部に宿り給う、実は問題は安渡にとどまらないわけです。やはり同じような地区を超えて課題を抱えていて、だからこそ一般性、普遍性を読み取らなければならない。最後の家族を亡くしたお母さんがどこに戻るのかというのは、ある意味、沿岸の地域的な構造をビビッドにあらわしているのです。沿岸は地区の連帯、あるいは縛りがとても強いけれども、実は女の人たちは結婚によってその縛りを超えていく。沿岸では離婚率が高く、ことに吉里吉里などはいわゆる出戻りが多いといわれています。統計的にとったわけではないので、正確かどうか分かりませんが、吉里吉里はお金を持っている人が多いので娘を呼び戻すと聞いてきましたが、多分、吉里吉里に限らず、子どもの頃から地域で育てられているので、受け入れる包容力があるのだと思います。でも、若いうちに戻ってくるのは戻って来やすいかもしれませんが、何十年経つとやはり、状況は変わってくる。長く暮らした土地がよいのか、自分の故郷の地区がよいのか、正解はありません。ただ、そこに難しい問題が横たわっていることはたしかです。
この企画を持ってきたグループが防潮堤反対というか、防潮堤を考え直すという志向を持っていたので、ニュースなんかはそういうところがクローズアップされたけれども、住民の意見はそれだけにとどまらなかったんです。そして、そのことの方が重要です。
僕はすごく印象に残っていたのは赤浜の古舘さんでした。古舘さんは大槌婦人連合会の副会長でもあるんですが、はまゆりの復元プロジェクトを推進しようとしています。個人的には僕はこの案にあまり賛成ではないんだけど、古舘さんが女のくせにとか暴力的に最初から話を聞いてもらえないことが多い、だから、そういう風にさえぎらないで欲しいということをおっしゃって、その勇気にとても心打たれました。
超えていくべき課題は防潮堤だけではないんです。とりあえず、お母ちゃんたちの知恵を聴いて、それを町づくりに活かす、そういう経路をちゃんと考えたいなと僕は思いました。他にもいろいろ思うところはありますが、それは追々、書いていきましょう。
それはともかく、僕が何を喋ったかというと、安渡のお母ちゃんたちの気持ちを代弁したんです。スタートから昔の良かったことを話してもらいました。その後、震災後、どうしたいかという話をしました。次に町方の人の気持ちも聞いたんですが、それは全体ではお話ししませんでした。タイミングを逸したというか。
震災で近所がなくなってしまった。友人は遠く離れて会えない、内陸に行った人もいる。小さい子どもも高齢者も一緒に安心して暮らせる住みやすい町になって欲しい。というのが彼女たちの一番の願いでした。これだけを聞くとそれはそうだよなという内容ですが、じつはそこには震災前の具体的なイメージがあります。
大槌町安渡はもともと住民の繋がりが強い地区で、公民館運動もさかんでした。そこでは公民館まつり(芸能発表会あり)、盆踊り、部落運動会、世代間交流としてさつまいもを一緒に植える、小正月のみづきだんご作り、8月6日の大仏さんまつり(つけげまんじゅう)、六大工さんで安渡小学校の児童が新巻鮭づくり体験(六大工さんは今は大ヶ口で旅館を経営されています)、漁協婦人部と安小児童によるさけ汁づくり体験、小学校低学年のさけの稚魚放流といった年中行事に、月一回のお茶っ子。このお茶っ子は高齢者が自分で歩いてきて自分で歩いて帰るのがポイントだったそうです。
でも、大槌では小学校も統合され、安渡小学校は廃校になりました。震災前は水産加工があって、そこで若いお母さんたちは働いて、安渡保育所に子どもを預けていました。今のままで果たして子どもたちは戻ってくるのか、それがみんなの心配ごとでした。また、住む場所も問題です。住む場所の問題というと、すぐ浸水域か高台かといった話になりますが、ここで出てきた話はそういう種類の話ではありません。まず公営住宅に個人だけでなく、希望地域で入れて欲しいということでした。さらに、震災で家族を亡くされたお母さんたちは、長年住み慣れた安渡に残るのか、実家に戻るのがよいのか、迷っている方もいるそうです。
僕は発表のときに、コアな安渡の話をします。といって、語り始めたわけですが、神は細部に宿り給う、実は問題は安渡にとどまらないわけです。やはり同じような地区を超えて課題を抱えていて、だからこそ一般性、普遍性を読み取らなければならない。最後の家族を亡くしたお母さんがどこに戻るのかというのは、ある意味、沿岸の地域的な構造をビビッドにあらわしているのです。沿岸は地区の連帯、あるいは縛りがとても強いけれども、実は女の人たちは結婚によってその縛りを超えていく。沿岸では離婚率が高く、ことに吉里吉里などはいわゆる出戻りが多いといわれています。統計的にとったわけではないので、正確かどうか分かりませんが、吉里吉里はお金を持っている人が多いので娘を呼び戻すと聞いてきましたが、多分、吉里吉里に限らず、子どもの頃から地域で育てられているので、受け入れる包容力があるのだと思います。でも、若いうちに戻ってくるのは戻って来やすいかもしれませんが、何十年経つとやはり、状況は変わってくる。長く暮らした土地がよいのか、自分の故郷の地区がよいのか、正解はありません。ただ、そこに難しい問題が横たわっていることはたしかです。
この企画を持ってきたグループが防潮堤反対というか、防潮堤を考え直すという志向を持っていたので、ニュースなんかはそういうところがクローズアップされたけれども、住民の意見はそれだけにとどまらなかったんです。そして、そのことの方が重要です。
僕はすごく印象に残っていたのは赤浜の古舘さんでした。古舘さんは大槌婦人連合会の副会長でもあるんですが、はまゆりの復元プロジェクトを推進しようとしています。個人的には僕はこの案にあまり賛成ではないんだけど、古舘さんが女のくせにとか暴力的に最初から話を聞いてもらえないことが多い、だから、そういう風にさえぎらないで欲しいということをおっしゃって、その勇気にとても心打たれました。
超えていくべき課題は防潮堤だけではないんです。とりあえず、お母ちゃんたちの知恵を聴いて、それを町づくりに活かす、そういう経路をちゃんと考えたいなと僕は思いました。他にもいろいろ思うところはありますが、それは追々、書いていきましょう。
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