2014年08月11日 (月)
『デモクラティック・スクール』に出ていたコンテンツからコンピテンシーへというのは、労働の世界で言えば、職務から職能へとう変化と同じである。最近の動向で言えば、職務から役割へ、ということである。
この前、ある研究会で議論になったが、制度というのは100点のものを作れるわけではないので、80点くらい取れれば上出来で(そうはいっても初期設計は大事なので)、あとは運用で修正して、加点して行く。こう書くと、PDCAサイクルのように思われるかもしれないが、別にPに戻らなくてよい。Aまでを集積させて、10年くらい経ったら、大きい制度改定をすればよい。というのは、人がそれくらい経つと、入れ代わるし、制度設計は教育効果が高いからである。
その意味で、なんだ昔と同じことをやってるじゃないか、ということになるが、それが成功していたならば、昔と同じ経験をした方が良いのである。とはいえ、技術革新で、たとえば今は1960年代になかったパソコンなどがあり、まったく同じではない。この前、雑談で、賃上げノウハウが必要だけれども、今の時代にあったパソコンを使ったハウツウなどがすごく必要になっているという話になった。ディテールは異なる。だから、奉じる必要はないが、原理原則は知っておいた方がよい。
職務から役割への変化は、昔と同じ、人を動かすのに自由度が高いからである。これは日本企業を真似して、欧米で1980年代にブロードバンドが重視されたのを繰り返している。これは経験する必要はなかったなとは思う。
教育に戻すと、日本の学校教育って現場では一度もコンテンツ・ベースであったことないのではないか。多分、ずっと生活指導的なものが重要な位置を占めていた。これは一概に言えないけれども、儒教的な伝統の影響が下地にあって、それがいつかやまびこ学校的な何かに転換して行ったような気がする。いずれにせよ、生徒の面倒、みるよね。ここのところは平田満先生から頂いた「僕の教師修行」が理論的に優れていたと思う。
この前、ある研究会で議論になったが、制度というのは100点のものを作れるわけではないので、80点くらい取れれば上出来で(そうはいっても初期設計は大事なので)、あとは運用で修正して、加点して行く。こう書くと、PDCAサイクルのように思われるかもしれないが、別にPに戻らなくてよい。Aまでを集積させて、10年くらい経ったら、大きい制度改定をすればよい。というのは、人がそれくらい経つと、入れ代わるし、制度設計は教育効果が高いからである。
その意味で、なんだ昔と同じことをやってるじゃないか、ということになるが、それが成功していたならば、昔と同じ経験をした方が良いのである。とはいえ、技術革新で、たとえば今は1960年代になかったパソコンなどがあり、まったく同じではない。この前、雑談で、賃上げノウハウが必要だけれども、今の時代にあったパソコンを使ったハウツウなどがすごく必要になっているという話になった。ディテールは異なる。だから、奉じる必要はないが、原理原則は知っておいた方がよい。
職務から役割への変化は、昔と同じ、人を動かすのに自由度が高いからである。これは日本企業を真似して、欧米で1980年代にブロードバンドが重視されたのを繰り返している。これは経験する必要はなかったなとは思う。
教育に戻すと、日本の学校教育って現場では一度もコンテンツ・ベースであったことないのではないか。多分、ずっと生活指導的なものが重要な位置を占めていた。これは一概に言えないけれども、儒教的な伝統の影響が下地にあって、それがいつかやまびこ学校的な何かに転換して行ったような気がする。いずれにせよ、生徒の面倒、みるよね。ここのところは平田満先生から頂いた「僕の教師修行」が理論的に優れていたと思う。
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2014年08月11日 (月)
澤田稔さんと森直人さんとプチ読書会を開くために、『デモクラティック・スクール』を読んでいる。内容ももちろん、面白いのだが、この2世紀の越し方行く末を考えると、なかなか示唆的な部分が多い。
金井延は19世紀末、社会政策の基本理念を、資本主義ではなく、社会主義ではなく、社会改良主義である。この当時の彼が言う社会主義とは、資本主義の否定、所有の否定である。ここでの論点は所有であった。現実に起ったソビエト共産主義や中国共産主義は、分権という意味で民主主義的ではなく、中央統制という性格を強く持ったが、全員参加型の昔の農村社会はメンバーでさえあれば(女性は排除されやすい)、たしかに民主的に参加し得た。農村社会が封建的であるというのは、意思決定プロセス自体は民主的な面も持っており、決定基準にしばしば昔からの慣習が重んじられ、勢い、年輩者の言う事が重きを置くようになったからであろう。技術革新のペースが遅く、大きな変化が乏しい近代以前の農村では、そうした考えは合理的であったし、たまに来る大きな変化である自然災害についても、年輩者の方がノウハウを持っていたということは想像に難くない。もし、そういう古い農村の意思決定プロセスに民主主義との齟齬があるとすれば、事前調整が行われることであり、その過程で個々人の意思が封じ込められることにあろう。ここにおいて対立軸は、戦後日本において言われた、古い封建制と新しい民主主義である。まあ、私は説得の仕方が押さえつけるのではなく、一人一人と膝づめで、納得させるのであれば、古い方がかえってよいのではないかと思わなくもないが。
日本で批判派というと、それは何らかのマルクス主義の影響を受けている人達のことを意味する。しかし、『デモクラティック・スクール』に登場するアメリカの批判派は社会主義ではなく、金井のカテゴリーで言えば、間違いなく社会改良主義に属する。日本で言えば、社民右派である。この本に出てくる実践教育の試みが、社会問題の多くを抱える困難な地域で行われていることは注目に値するだろう。その意味で、社会政策を勉強する我々も学ばなければならない。ただし、非常に意地の悪い言い方をすれば、困難な地域だからこそ、こうした実践が必要となる。こうした実践とは自らの力で、状況を改革して行く能力である。これは方向としては、コンテンツ・ベースから、コンピテンシー・ベースの教育への移行と軌を一にしているようだ。
などとダラダラと考えて来たが、この本の事例が物語っていることは、教員が既存の知識を教えるということではなく、実践的な活動を生徒とともに行うということである。言い換えれば、学校以外でも、企業でも、あらゆる社会組織で同じことが起り得るということである。しかし、これは研究者の研究会や組合の研究会でも結局、同じことではないかとも思う。このやり方はリーダーシップのあり方が、古い「俺について来い」型では困難で、近年、アメリカで注目されているサーバント・リーダーシップの考え方に近い。ただ、今、「俺について来い」型が古いタイプと書いたが、日本の大企業では、かつては血気にはやる若者の空回りするほどのやる気を、うまく微調整して、目的を達成させるようなリーダーシップが珍しくなかった。たとえば、八幡製鉄の技術トップ、湯川正夫を始めとした当時のトップはその例であろう。そうでなければ、君津製鉄所は作れなかったと思う。ただし、これは昔話で、今は「大人(たいじん)」がいなくなってしまった。そして、それを理想とする生き方もなくなってしまった。これは多分、漢学を中心とする東洋哲学の後退とも関係しているような気がする(まったくのあてずっぽう)。
ただ、正義とか、コモン・グッドとか、いかにもキリスト教の国で、それを実践と結びつけなきゃ気が済まないのは、いかにもプラグマティズムの国だよなと思う。この部分は日本ではあまり意味がないだろうと思う。なぜなら、日本ではあまりイデオロギーでガチでぶつかり合うということがないから。昔の右派、左派、あるいはその内部での争い、というのは、イデオロギーとしての対立よりも、人間的な、党派的な対立という側面が強かったのではないか、と思っている。より正確に表現するならば、イデオロギー対立さえも党派的対立が飲み込んでいく、とした方がよいかもしれない。逆に言えば、人間関係的な、つまり、田中角栄的手法で、なんとかなっちゃうんだ。何より、本音と建て前を別に分けているので、建前を一生懸命議論している人たちには、あるいは建前と実践的本音を統合させようとする試みを行っている人達にたいして、なんでそんな面倒なことやるのかという疑問を持ちつつ、面倒で大変だということは分かるし、自分でその試みを理解するまでに至るのも大変だと分かっているからスルーするために、軽蔑とは違うまさに人間関係的な、労いとして「お疲れ様」という一言にその思いが集約されてしまう。
金井延は19世紀末、社会政策の基本理念を、資本主義ではなく、社会主義ではなく、社会改良主義である。この当時の彼が言う社会主義とは、資本主義の否定、所有の否定である。ここでの論点は所有であった。現実に起ったソビエト共産主義や中国共産主義は、分権という意味で民主主義的ではなく、中央統制という性格を強く持ったが、全員参加型の昔の農村社会はメンバーでさえあれば(女性は排除されやすい)、たしかに民主的に参加し得た。農村社会が封建的であるというのは、意思決定プロセス自体は民主的な面も持っており、決定基準にしばしば昔からの慣習が重んじられ、勢い、年輩者の言う事が重きを置くようになったからであろう。技術革新のペースが遅く、大きな変化が乏しい近代以前の農村では、そうした考えは合理的であったし、たまに来る大きな変化である自然災害についても、年輩者の方がノウハウを持っていたということは想像に難くない。もし、そういう古い農村の意思決定プロセスに民主主義との齟齬があるとすれば、事前調整が行われることであり、その過程で個々人の意思が封じ込められることにあろう。ここにおいて対立軸は、戦後日本において言われた、古い封建制と新しい民主主義である。まあ、私は説得の仕方が押さえつけるのではなく、一人一人と膝づめで、納得させるのであれば、古い方がかえってよいのではないかと思わなくもないが。
日本で批判派というと、それは何らかのマルクス主義の影響を受けている人達のことを意味する。しかし、『デモクラティック・スクール』に登場するアメリカの批判派は社会主義ではなく、金井のカテゴリーで言えば、間違いなく社会改良主義に属する。日本で言えば、社民右派である。この本に出てくる実践教育の試みが、社会問題の多くを抱える困難な地域で行われていることは注目に値するだろう。その意味で、社会政策を勉強する我々も学ばなければならない。ただし、非常に意地の悪い言い方をすれば、困難な地域だからこそ、こうした実践が必要となる。こうした実践とは自らの力で、状況を改革して行く能力である。これは方向としては、コンテンツ・ベースから、コンピテンシー・ベースの教育への移行と軌を一にしているようだ。
などとダラダラと考えて来たが、この本の事例が物語っていることは、教員が既存の知識を教えるということではなく、実践的な活動を生徒とともに行うということである。言い換えれば、学校以外でも、企業でも、あらゆる社会組織で同じことが起り得るということである。しかし、これは研究者の研究会や組合の研究会でも結局、同じことではないかとも思う。このやり方はリーダーシップのあり方が、古い「俺について来い」型では困難で、近年、アメリカで注目されているサーバント・リーダーシップの考え方に近い。ただ、今、「俺について来い」型が古いタイプと書いたが、日本の大企業では、かつては血気にはやる若者の空回りするほどのやる気を、うまく微調整して、目的を達成させるようなリーダーシップが珍しくなかった。たとえば、八幡製鉄の技術トップ、湯川正夫を始めとした当時のトップはその例であろう。そうでなければ、君津製鉄所は作れなかったと思う。ただし、これは昔話で、今は「大人(たいじん)」がいなくなってしまった。そして、それを理想とする生き方もなくなってしまった。これは多分、漢学を中心とする東洋哲学の後退とも関係しているような気がする(まったくのあてずっぽう)。
ただ、正義とか、コモン・グッドとか、いかにもキリスト教の国で、それを実践と結びつけなきゃ気が済まないのは、いかにもプラグマティズムの国だよなと思う。この部分は日本ではあまり意味がないだろうと思う。なぜなら、日本ではあまりイデオロギーでガチでぶつかり合うということがないから。昔の右派、左派、あるいはその内部での争い、というのは、イデオロギーとしての対立よりも、人間的な、党派的な対立という側面が強かったのではないか、と思っている。より正確に表現するならば、イデオロギー対立さえも党派的対立が飲み込んでいく、とした方がよいかもしれない。逆に言えば、人間関係的な、つまり、田中角栄的手法で、なんとかなっちゃうんだ。何より、本音と建て前を別に分けているので、建前を一生懸命議論している人たちには、あるいは建前と実践的本音を統合させようとする試みを行っている人達にたいして、なんでそんな面倒なことやるのかという疑問を持ちつつ、面倒で大変だということは分かるし、自分でその試みを理解するまでに至るのも大変だと分かっているからスルーするために、軽蔑とは違うまさに人間関係的な、労いとして「お疲れ様」という一言にその思いが集約されてしまう。
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