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そういえば、春に『ビジネス・レーバー・トレンド』に春闘関連の記事を書きました。この雑誌は少し時間がたつと、公開になるんですね。リンクを貼っておきます。

なぜ、時機を逸しても書いておこうかと思ったのかというと、ここのところ、また組合の方といろいろお話しする中で、今、この問題は重要だなと感じるところがあったからです。

このエッセイでは、今年の春闘を一過性のものにしないために何が必要なのか、ということを書きました。春闘を支えてきた基盤が融解しているのだから、それを立て直さなければ、長期的な仕組みとしては成り立たない、という点。その際には、対立およびそこから生まれる緊張感の重要性をいくつかの角度から書いています。

究極を言えば、相手と戦って極限まで追い詰められた状態になると、敵・味方関係なく、人間として誰が信頼できるかということが分かります。味方で誰が信頼できないかはかなり重要な情報です。もう一つ、専門性を深める研究とそれを支える体制が必要だということです。

専門を極めると、「無知の知」、何を知らないかが分かり、賃金で解決できる問題と賃金で解決できない問題を峻別できます。どんなに問題が重要であっても、解決できないのです。一番大事なのはどこがボトル・ネックになってるか、そして、その問題はどういう性質の問題なのかを認識することが重要ですよね。

内容よりも今はまだ生きた制度的仕組みを再構築させる時期じゃないかなと思います。
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教育文化協会は年に数回のペースで本を紹介しています。その中で先月、私の本を取り上げていただきました。ありがとうございます。色んな方にコメントをいただきましたが、この書評はまさに眼光紙背に徹すという域までいっていますね。

一番驚いたのは、この部分です。

著者の意図は、日本の賃金の歴史研究を通して現状の問題に対する実践的意識を高め、賃金についての議論を再び活性化させることにある。賃金を取り巻く周辺事項―例えば「被用者の従属制と生活の保障」「請負賃金と生活賃金」など、多様な切り口で検討を加えながら、もう一度賃金の歴史を学び直すことで、これからの労使関係や労務管理の在り方に新たな議論が生まれることを著者は期待する。


これだけ多様な論点を散りばめてあるのに、こんなに的確な切り取り方があるのかと驚きました。「被用者の従属性と生活の保障」というのは、雇用関係の本質を支配・従属関係と捉え、労働法関係でいう指揮・命令権の根底に何があるのかを表しています。その代わりに生活を保障するということが含まれる。この点こそ森建資先生の『雇用関係の生成』以来のテーマで、答えはないけれども、私の雇用関係、労使関係、理解の根幹でもあります。

「請負賃金と生活賃金」とは、賃金の算定基準をどこに置くかで、この二つの区分だと、仕事基準と生活基準という括りがハッキリ分かります。これは現代の問題関心に置き換えると、成果主義賃金か年功賃金かとするのが一般の理解を得られやすいでしょう。しかし、この表現だと、年功賃金とは何かの部分でつまずきます。年功賃金が単純に生活ベースなのか、それ自体が仕事の評価なのか、ということです。要はいろんな要素を混ぜ合わせた総合決定給なので、年功賃金ってどんな議論をするにも、理論的にはあんまりよい例ではないのです。個別の年功賃金がどういう性格を持っているのかということについては、1給与規則などの規定を確認、2運用を直に聞く、3過去の運用の移り変わりを文書と証言で再検証、というプロセスを踏まないと、確定できないのです(こうした緻密な作業こそがかつての労働問題研究の十八番だったわけですが)。

この二つ目の切り出し方は、雇用と請負の二つをどう考えるか、ということにも繋がります。たとえば、応用問題として派遣労働を考えてみると、これはこの二つが組み合わさったものなのですね。派遣先からすれば請負だし、派遣元からすれば雇用。しかし、指揮命令権は(形式はともかく実際は)派遣先というような捻じれがあります。そこで実際の指揮命令関係がどうだったのか、ということが争点になってきたりするわけです。そこに、生活保証(長期ではなく、短期の生活を維持させるという意味で、生活保障ではなく、保証を使っています)をどうするか、という問題が入ってきます。ここの問題は第8章で大分、踏み込んで書いています。

で、なかなか包括的な文献を出せずに申し訳ないんですが、あまり注目されないこの分野、私は大きく二つの系統を頼りにしました。一人は高野剛さんの一連の論文です。高野さんは玉井金五先生のお弟子さんで、家内労働を歴史的に分析されています。そういえば、一度も書いたことがなかったかもしれませんが、じつは同世代の社会政策・労働問題研究者の中では、私が注目している人の一人です。本のなかでは、これって形で紹介していないので、大変申し訳ないのですが、それはあまりにいろいろ読み込み過ぎて、そういう形で紹介するのが難しくなってしまったのです。ごめんなさい。

もう一つは、濱口先生の『労働法政策』。この前、濱口先生とのやりとりで、『新しい労働社会』は応用編総論、『日本の雇用と労働法』が原論だと修正されてしまいましたが、本当に何度も繰り返して読むべきなのは『労働法政策』なんですね。分かりやすく言うと、私の場合、学生にどうやったら分かってもらえるかなと考えるときは新書の方を見直し(て、結構難しくて絶望し)ますが、いろんな物事の原理原則を考え直すには『労働法政策』を読み返します。これこそ網羅性、それから一歩踏み込んだ記述、歴史的経緯が丁寧に描かれています。まあ、場外ホームランの序説(笑)は一回でいいですが。

さて、話を戻して書評の方、

ただ歴史の各段階において、賃金のあり方に重要な意味をもつ労働組合の立ち位置が明確ではないように思われる。この点は労働組合の関係者が自ら考えよ、ということなのであろうか。


という点ですが、これはこの本が私一人のものではなく、連合総研、各産別との共同作業の賜物で「日本の賃金」の姉妹編だということで、原則的には組合については組合の方が書いて、大きい話を私がするという役割分担だったのです。
今の労働問題をどう考えるのか、という風に聞かれるときに、メンバーシップ型とジョブ型という考え方が今やもう、かなりデフォルトになって来たなというのが私の実感である。おそるべきhamachanの影響力。

濱口新書四部作のなかで、原論とも言うべきは『新しい労働社会』と『日本の雇用と労働法』で、応用編が『若者と労働』『日本の雇用と中高年』ということになるだろう。前に議論した中で濱口先生が説明されていたのは、労働法と社会政策・労働問題研究の架け橋になるような議論がない、という現状認識とそこに橋を架けるという問題意識のもとで、『日本の雇用と労働法』が展開されたと言えよう。そのときに私が書いたのは、それこそが法社会学のやるべきことではないか、ということであった。『日本の雇用終了』で展開された「生ける法」としての「フォーク・レイバー・ロー」はまさにこの問題への解決の道筋の一つであると言える。濱口先生の議論は、良い意味で厚生省以来の労働政策の伝統を継承している。それはどういうことかと言えば、社会的制度の狭間の中で社会的弱者として生きる以外にない人たちに対して、制度的なところで解決できるところを解決しようということである。

で、もう一つ、成果主義という一大問題があって、これが誰の目にも、日本の経済を良くするという方向に寄与しなかったことだけはたしかである。その明らかになったことを踏まえて、日本の賃金をどう考えるか、という問題意識を持っておられる方もいる。これは基本的にメンバーシップ型の中をどうやって運用して行くか、という問題である。この点については、濱口先生はじつはほとんど発言されていないと思う。というのも、それを発言する必要もないからである。

昨今、流行りの限定正社員とは別の意味で、日本版ジョブ型というあり方が実現する可能性はある。それは今、一部の企業が持っている、あるいは導入しようとしている複線型人事である。つまり、管理職コースと専門職コースに分かれる。ちなみに、濱口先生がいうメンバーシップ型社会では入社時には「空白の石版」であることが求められるが、入ってからは基本的にある特定の職(営業だったり、人事だったり、製造だったり)に就く。そういう前提があるから、専門職コースが作れるのである。ちなみに、大きな組織が機能分化=専門化するのは当然である。

ただ、私が日本版ジョブ型と断ったように、これは基本的にメンバーシップ型の変形でしかない。だから、昔、営業畑というようなものがあるじゃないか、という意見があった時に、いやそういうことではない、と濱口先生が説明したことがあった。おそらく、複線型人事というのは、日本の遅い昇進を前提にしており、したがって、キャリア十数年から先の話である。その地点から様々な分野を経験させるというのは、あまり効率的ではないし、まったくないとは言わないけれども、そんなに多くはないだろう。だが、これに伴って、雇用契約のあり方が変わるだろうか。おそらくは変わらない。だから、メンバーシップ型内の変容なのである。要するに、今の限定正社員の議論と同じで、現状追認的な意味がある。昔から地域限定正社員というのはいる。ただし、その中でも優秀な人は、工場移転などのときに、会社から声がかかる。それでも家の事情で行けない場合は退職することになる。会社も退職されるのは嫌だから、そういう工場移転などの段階になるまでは転勤させないのである。

限定正社員、ジョブ型正社員は、その導入の意図は、非正規などの労働条件の改善だが、正社員と非正規の低水準均衡を生み出すかもしれない。言い換えれば、正社員の労働条件悪化を招くかもしれない、ということである。理屈では必要だと分かっていながら、おそらく、組合の人たちのなかにはそういう危険性がぬぐえないのだろう。それももっとものことだと思う。雇用ポートフォリオ論ももともとそれが唱えられたときには、多様なライフスタイルを引き受ける制度として登場したわけだが、実際は非正規の拡大という、不安定な層を増加させる方便に使われることになってしまった。杞憂というだけで片づけられないのも故なきことではない。