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「社会的なもの」考察の旅が混迷を極めていて、なぜか黒田俊雄の顕密体制論まで読むことになるという展開を迎えています。それで、いつものように行き詰まったところで、ツイッターでつぶやいたところ、ほんの少し島薗先生とやりとりをさせていただきました。短いやりとりでしたが、面白い論点が詰まっているように思います。一応、「顕密体制とマルクス主義?」にトゥギャっておきました。

レーヴィットの二階建て論は有名で、昔の方はみんな知っていたと思いますが、なんで思い出したかというと、最近読んだ清水正之さんの新著『日本思想全史』の最後のところで、この話が書いてあったんですね。レーヴィットの話は簡単に言えば、日本人は頭で考えている西洋思想と、自分たちの生活様式が乖離していて、まるで二階建てのようで、西洋人から見ると、その間のはしごが外されていて戸惑わざるを得ない、という趣旨だったように思います。まあ、今、原典を確かめてないので不正確かもしれませんが。


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清水 正之

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いずれにせよ、この話は結構、示唆的ですよね。島薗先生から市民社会派の丸山真男の名前が出たことは偶然ですが、市民社会派の先生が実際は院生を使い倒した話などはおそらく社会科学系の研究者と付き合いがある方ならば、一度は聞いたことがあるのではないかと思います。まあ、今まではこういう言っていることとやっていることが全然違うという意味で、不誠実の一語で片付けることが出来る現象に、我々はどうしても引きつけられガチだったんですが、このレーヴィットの話って、もっと深いところに根ざしているんだろうなと考え直しています。

一つは、清水さんの日本人の思想選択の発想、これは山本七平もかつて鈴木正三をめぐって考察しました(私の中ではあの『勤勉の哲学』と『洪思翊中将の処刑』がベストだと思います)。そうはいっても、日本人の思想といっても、生活規範が伴うものはわりと実践と思想が一致していたと思います。全国津々浦々に銅像があった二宮尊徳の報徳思想なんかもそれですね。ただ、あれは尊徳自身ではなく、弟子の岡田一族が中興の祖ですが。

話が拡散するので、少しだけ戻しますが、私、このまとめのなかで最後につぶやいた島薗先生のご研究というのはたぶん『精神世界のゆくえ』が念頭にありました(私が読んだのは旧版です)。この本はベースはどちらかと言うと、丸山よりというか、知識社会学的に客観的に書こうとされているんだけれども、島薗先生自身、各種のセミナーに参加して、影響を受けたことは認めてらっしゃるんですね。


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ここで多分、問題は二つある。一つは、観察者問題。これはたぶん、現象学の影響を受けた新しい社会学(ここではアルマの『新しい社会学のあゆみ』が念頭にあります)とも通底していますね。もともと、19世紀から20世紀にかけての社会学や社会政策は、現状変更を企図する社会改良主義が根強くて、しばしば規範的思想とも結びつきやすかった。それに対して主観からは自由であり得ないにしても、それはとりあえず括弧でくくっておいて、客観的にやろうぜというのがヴェーバーの提案で、それは広く受け入れられたと思います。おそらく、その前提を継承しつつ、方法をつきつめていったら、やっぱり括弧でくくりきれないよね、というところに帰着したのではないでしょうか。

もう一つは、これも認識論という次元では前者と共通するんですが、いわゆる宗教現象になると、これが現実としてあるという前提で議論を進めるのか、ないという前提で議論を進めるのか、中立で進めるのかで立場が異なって来ます。私自身は実在論的な立場ですけれども、実際の議論を進めて行く上はそれとは別ですね。ただ「なし」という前提で進めるのは困難で、あるかもしれないけれども、ないかもしれないという玉串色でいくしかないかなと思っています。まあ、そもそも現象学自体がそもそも現代の科学がよってたつその認識基盤の問い直しという意味があったわけですから、当然ですね。

日本には、思想というより、イデオロギーや運動と結ぶついた一派がかつていて、運動ないし実践と学問の距離をいろんな分野で問題にしていました。でも、これは今、書いて来たことから考えると、だいぶ、表層の話なんですよね。だから、二階建ての思想みたいなものが成立し得る。

そうはいっても、西田幾多郎の純粋経験などは、運動と関係ない次元での、実践(この場合、経験と書いた方が正確でしょうね)と結びついていて、なおかつ現象学やプラグマティズムとも関係が深かったわけで、こういうものを背景に、進めて行く道もあったのではないかと思います。そうならなかったことを考える上での、一つの答えがレーヴィットの議論にあるように思うのです。
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宗教学者の葛西賢太さんがfacebookに紹介されていたナタリ・リュカ『セクトの宗教社会学』クセジュ文庫(白水社)、2014年を読む。セクトの理論的な探究なのかなと思ったら、本の中盤以降は、現代の新宗教セクトをめぐる状況をヨーロッパを中心に記述している。そういう意味で、情報的には有益なのだが、同時に物足りない感じがしないでもなかった。

国家や社会のあり方は歴史と土地によって、やはりそれなりに違っていて、セクトもおそらくはそのありようから無関係ではあり得ないんだなというのが感想。ということは、歴史的に見るということは、国家のありようと社会のありよう(それはオーバーラップしているときもあるし、独立であることもある)を押さえておかなければならないんだな、と思った。

現代のカルトと呼ばれるものを取り扱っているせいか、その後、穏当に変化して行く、多分、我々の語感だと結社の考察がもう少しあると良かったな。たとえば、日本の労働組合の起源の一つである友愛会(総同盟)は、今、芝のJAMが入っているビルのところにあったユニテリアンの教会で結団式を迎えた。ウェブ夫妻が描いたイギリスの18世紀末の労働組合もやはり結社的雰囲気を持っていた。

カトリックもそうだし、おそらくは日本でも、江戸時代以来の新興宗教、たとえば天理教や大本にしても、組織がしっかりと近代化したわけで、それこそはヴェーバーが重視して来た古典的な問題で、そのあたりのメカニズムにも踏み込んでいるとなお良かった。

一つ、疑問に思ったのは、カルトはともかく、結社的な組織は必ずしも、カリスマ的なリーダーがいない場合もあると思うんだが、ここはどうしても外せない要件なんだろうか。

いずれにせよ、社会運動などの考察にもとても向いていると思う。