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Web雑誌のTraceさんに取材をいただきまして、「お給料のヒミツ」という記事がこの前、公開になりました。なかなか論文だとテーマにすることが難しいものですが、ライターさんの手を経ていますので、ずっと平易で分かりやすいものになっているのではないかと思います。

『日本の賃金を歴史から考える』のメイン・テーマの一つとして、プロパガンダということがあります。読者に訴えかけるものは、私が書くものでも例外ではありません(学術論文は違います。自分のために書くので)。この記事構成も少し気を遣ったのは、昔のお給料ってこうでよかったねという話を書きながら、それだけでは日本はやっぱりよかったみたいな話にならないようにと、あとで賃金制度は各国でお互い学習し合って進化しているということを入れた点です。この話は2ページ目に書かれていて、私が紹介した和田豊治の話とも共通しています。もし、日本の賃金に特徴があるとすれば、習俗的なレベルで信仰と結びついていたことではないかと思います。論文にしにくいというのは、これはデータの採りようがないので、意識調査も難しいのではないかと思うからです。

その一方で最近の若い人は給料をもらう事に対する感謝が足りないということを、組合の方からも人事の方からも聞きます。それはどういうことかというと、自分ができる仕事以上の給料を要求して当然だと思っているということのようです。私は二極化していて、こうして法外な(?)要求する人と、まったく不当の賃金でも沈黙してしまう人がいるのではないかと感じていて、おそらく後者が多いだろうと予想しています。モンスター・ペアレントやクレーマーなどと同じで、声が大きい人が目立つから、その人たちを代表のように感じることが多いだろうとも思います。まあ、賃金交渉もやらなかったわけですし、成果主義で賃金は仕事の成果だと教えてるんですから、それはそうなるのは当たり前ですね。

日本の賃金が欧米と比べて違う点があるとするならば、それは意外とこういうところだったのではないかと思います。歴史の浅いアメリカはともかくヨーロッパも古い時代はあったのではないかと想像していますが、調べるだけの余力はないのであくまで想像です。

さて、ゴードンさんからいただいた書評のなかで、私が「日本的労務管理」というものは戦時中からのものとしているが、それ以前も「日本的」と意識していたのではないかというご指摘を受けて、さらにその例証としてシンガーミシンの事例を提示されました。ここらあたりは方法論を明らかにしなかったので、分かりにくかったと思うのですが、私はあの4章は賃金思想史のつもりで書いたのです。その含意は、実態と思想はズレがある、ということです。

それこそ日本が欧米と違うという点については和田の論文もそうですし、明治時代からもちろん認識されていました。しかも、系譜的に言うと、和田は北海道炭礦汽船(北炭)の磯村豊太郎の盟友で、和田が唱えた日本的労使一体の考え方は北海道で会社組合として結実しました。その人事が戦後、日経連で活躍した前田一です。ただ、1920年代の会社組合はアメリカでもよく見られたもので、特に日本的ではないですが、この時期のモダニズム(共産主義革命などを含む)への反感とともに日本の伝統と結びつけられやすかったのです。この会社組合と1925年に石川島造船から始まった日本主義組合が合流してさらにいろんな人が乗っかって産業報国会になります。この産報が途中で変質して「新体制」を担う代表のように捉えられるのです。ここまで来て初めてプロパガンダとしての「日本的労務管理」ということが大々的に言われるようになります。それが講座派の議論などと相まってアベグレンに繋がっていくということなのです。ですから、それまでもあるのですが、外国との違いを意識せざるを得なかった人たちはマイノリティだったと思います。

そして、私は実態の方については1940年代説を採っていません。それはゴードン先生の『日本労使関係史』の書評でも書いたとおり、ゴードン=菅山の1950年代説に私も同意しています。ただ、ここでのポイントはそれはブルーカラーの話で、シンガーミシンはホワイトの話だということです。ホワイトの研究はそれ自体が近年、始まったばかりですし、まだまだ国際比較という段階には来ていないでしょう。私は労使関係というのは、少なくとも今まではローカルな部分が大きいと思うので、それは日本は日本、アメリカはアメリカ、ドイツはドイツなどと各国ないしさらに細かい地域ごとで特徴があると考えています。とはいえ、退職金(ホワイトカラー、ブルーはまた別)と賞与金は日本に特徴的な慣行だっただろうと思いますが、たしかめてみないと何ともいえません。
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昨日、2015年春闘・賃金講座、満員御礼、盛況のうちに終わりました。本当にありがとうございました。時間を少し勘違いしてしまったため、私が10分ほど余計にしゃべりすぎましたが、中野さんのご報告は素晴らしかった。

労働運動の実地の経験のなかから、「要求」とは何か、「交渉」とは何か、ということを根本から考えさせられる内容でした。参加された皆さんがどう感じられたのか、それが今後、どう生きてくるのか、楽しみです。

話の本筋ではないのですが、政府はこういう賃金の問題とどうつきあっていけばよいのか、ということをご質問で受けました。それについては、私は労働相談センターを拡充して、そこに労働組合、人事のOBの人に手伝ってもらうことが必要だとお話ししました。この内容は、昨年、ラジオでお話しさせていただいたものと同じが、実はそのときの文字起こしを日刊読むラジオさんでやっていただいていました。ちょっと、「で」という接続詞とも間投詞ともつかない間抜けなところがいくつかありますが(お願いだから、校正させてください!)、こちらもご参考にどうぞ。

賃金の歴史から紐解く政労使会議の正しいあり方

それから、ラジオ出演後に私が補足したエントリがこちらになります。

労働相談センターに労使のOBを送り込むというアイディアは何人かとお話ししましたが、結構、よい反応をいただきました。

なお、当日の様子は、まずいところはカットした上で、労働法律旬報に掲載していただく予定です。そちらも発行されましたら、お知らせしますので、どうぞよろしくお願いします。
ゴードン先生の書評の最後で、

労働組合のリーダー、組合員、そして企業の人事・労務管理担当者にとって非常に有用な資料であるだけでなく、労働や労務管理の歴史に関する講座の教科書として役立つであろう(そのような講座が日本で-又はどこか他で-継続して広くもたれているかどうかは別問題である)。評者はこれらのグループすべての方々に本書を推奨した。

と触れられていて、濱口先生からも「本書の書評の形を借りて、労働の歴史をまともに語ることがほとんど絶え果てた現代日本の知的状況をやんわりと皮肉っているようにも思われました」と解説されていました。

私個人としては連合総研の前賃金プロジェクトであの本を出版することが出来たわけですが、プロジェクトとしては本と報告書が出て終わってしまっているわけです。もちろん、我々の手を離れ、実際の現場で使っていただいている場合もあります(後からそのように伺いました)。しかし、全体としては不完全燃焼で終わってしまっています。このままでは行けない。運動を起こすなら、今が勝負だからです。

そういう思いもあり、当時の盟友の中野さんにも協力してもらい、このたび、賃金講座を一回だけですが、とりあえず開催することにしました。主催は旬報社、働く文化ネットワークにもご協力をいただきました。


 このたび「2015春闘・賃金講座」を開催いたします(主催・旬報社、後援・NPO法人「働く文化ネット」)。長く続いた不況の下で、春闘も賃金交渉も困難な局面に置かれてきました。そのなかで、成果賃金など経営側の賃金体系見直しの動きに振り回されたり、ベースアップと定昇の区別がわからない、 賃上げ要求の仕方がわからない、交渉が行き詰まったときの対応がわからない、という声も聞こえてきます。
 昨年の春闘からベア要求をする組合も増えてきて、いま改めて賃金制度の沿革や、春闘の意義などについて確認することが重要になっています。本講座では、2015春闘の本番を前にして、基礎的なことをおさらいすると同時に、具体的・実践的な課題について学び合える場を用意しました。
 皆さんのお役に立てればと思います。ふるってご参加ください。

日時:2015年1月17日(土) 13:15~17:00 
会場:連合会館5階 502会議室
資料代:500円

講師とテーマ:
金子良事(法政大学大原社会問題研究所)「賃金の理論と歴史」
中野治理(JAM本部)「春闘の意義と実践」

*お申し込みは下記チラシの申込書にご記入のうえ、ファックスをお願いいたします。
詳しくはこちらから→チラシ(PDF:626KB)


『日本の賃金を歴史から考える』の「はじめに」の最後のところで、私は「願わくば、本書がかつての熱い賃金の時代を現代に呼び起こすきっかけにならんことを」と書きました。思いはそのときから変わりません。

私のような無名のものが自分からこのような企画をやっても、おそらく人は集まらないだろうと思い、昨年の12月、主要産別30弱、ビラを持って営業に回らせていただき、あとは機会を捉えて、お会いした方には声をかけさせていただきました。労働組合から先行して回ったのは賃金交渉が要求から始まるからです。

もちろん、あの本で書いたように、賃金に関わるプレイヤーは労働組合だけでなく、人事、コンサル、行政など多角的です。しかし、今回は残念ながら、時間の制約で労働組合と厚労省しか回ることが出来ませんでした。中野さんのお話はもちろん、労働組合の立場に立ったものですが、同時に、すぐれて実践的であるからこそ交渉とは何かを考える内容になっています。私の話は理論的に内部労働市場や外部労働市場を考察し、決定方式(内部)、賃金水準(外部、内部)という観点から春闘および賃金制度を歴史的に考察するものです。

ぜひ一緒に熱い時代を作りましょう。
年末に刊行された『日本労働研究雑誌』2015年1月号でアンドルー・ゴードン先生に『日本の賃金を歴史から考える』を書評していただきました(刊行後、3ヶ月経つとWEBでも読めるようになるので、そうしたらリンクを貼りたいと思います)。ありがとうございました。

年末に濱口先生にご紹介いただいていたのですが、最後に研究所に行ったときにバタバタして確認できなかったので、ついつい時間が過ぎてしまいました。ゴードン先生からは温かい言葉と厳しい言葉を両方いただきました。本当にありがたいことです。学術的には、非常にクリティカルな批判なのですが、電車で気軽に読める入門書という本書のコンセプトではそこまで描けなかったというところもあります。

主な批判点は三つです。初めの二つが具体的な話で、最後の一つは大きな話です。

第一に、これは私自身がゴードン先生の『日本労使関係史』で提起した問題がブーメランで返って来たのですが、戦時期以前の政府の役割をもう少し書くべきではなかったのかということです。ゴードン先生は退職積立金法を具体的には指摘されています。第二に、戦時期の制度として、重要事業場労務管理令の意義について触れないのはどうしてかということです。最後の一つは、より労使関係という観点から、このやり取りを書くべきではなかったか、ということです。

具体的な論点については、期せずして、この二つともに冨樫総一さんがなさったお仕事ですね。冨樫さんは金子美雄さんの盟友でもありました。退職積立金法及退職手当法は若き日の冨樫さんが独力で書かれた法律です(沼越正己『退職積立金及退職手当法釈義』有斐閣という本がありますが、このなかで冨樫さんの協力を得たという記述があり、孫田先生がおっしゃるにはこれは当時の役所用語で、実際は冨樫さんが書いたという意味だそうです)。また、重要事業所労務管理令で、職員の給与について大蔵省から厚生省に権限を移管させたのも、同じく彼の力です。冨樫さんは亡くなった後、『冨樫総一』という追悼集が出ています。冨樫さんのことはもう少し触れても良かったかもしれません。冨樫さん本人の「重要事業場労務管理令解説」が近代デジタルライブラリーで読めます。

ただし、なぜ、この二つをオミットしたのかということについては、単純に答えてしまうと、複雑で難しすぎるからということがあります。まず、退職積立金及退職手当法をもし書くのであれば、当然、戦後の失業保険(雇用保険)まで書かなければなりません。本書の弱いところは年金を含む社会保険や社会保障との関係が十分に論じていないことです。テクニカルに言えば、菅沼隆先生の「日本における失業保険の成立過程」を要約すればよかったのですが、私自身が社会保険あるいは社会保障の研究を十分に分かったと言える領域まで達していないということがあります。特に、社会保障との関係をちゃんと描きたかったのですが、それは実力不足でした。それは第8章の生活賃金が困難という話だけしか書いていないこととも関係しています。ただ、これ以外については、私はコンサルタント業務をバックアップしたことこそ、官僚の役割だと思っていたので、そのことはそれなりに書いたつもりです。

二つ目の点、重要事業場労務管理令についてはたしかに触れておく必要があったと思います。私の場合、紡績をフィールドにしていたため、職工の定期昇給というのは明治以来、存在している制度で、とりわけここでの画期ということを意識していませんでした。ただ、ゴードン先生が指摘されている点はおそらく勘違いではないかと思います。「全ての労働者に6ヶ月ごとに最低限の額を引き上げた賃金を支払うことを義務づけた」規定は「重要事業場労務管理令」にもその「施行規則」にも見当たりません。ただし、厚生省労働局「重要事業場労務管理令運用方針」というパンフレットのなかにある「工員昇給内規記載例」というものがあり、そこには類似の規定があります。これはあくまで賃金規則のうちの昇給内規の模範例であって、強制法規ではありません。いずれも近代デジタルライブラリーで確認できます。強制法規は賃金統制からそんなに大きく変わっていなくて、規則変更の届け出先が地方長官から厚生大臣に変わったことくらいです。重要な変化は、職員の給料の所管が大蔵省から厚生省に移管されたことです(45年には全職員が移管されます)。これは戦後の労働基準法などを考える際にも重要です。それから、この法令は労働行政的には労務統制(職安系)と賃金統制の統合という意味もあります。

ですが、それにしてもこの重要事業場労務管理令は触れておくべきでした。これも書かなかったのですが、重要事業場労務管理令を契機に労務監理官が出来、金子美雄さんたちは現場に出て行きます。このときの経験が戦後、コンサル業務をやるのに役に立ったと後に回想されています(というか、このときの指導行政こそコンサルだったと思いますが)。戦後は金子さんのもとに集まった役人、組合、人事、研究者たちは金子学校と呼ばれ、各方面で大きな影響を与えるようになります(これは知っている方はそうだよなと思われたと思います)。

何が複雑で難しいかと言えば、法令の制定の経緯の説明はどうしても堅くなるし、難しくなってしまいます。そういう意味では、私は説明を省いてしまったこともいくつかあります。正直、このレベルでも書きすぎたかなと思ってるくらいです。重要事業場労務管理令までには第一次賃金統制例、賃金臨時措置令、会社経理等統制令、第二次賃金統制令がどのように変わって行ったのか、そして、指導行政としての「賃金形態ニ関スル指導方針」の成立過程まで全部、書かなければなりません。これが学術論文であれば、「戦時賃金統制における賃金制度」を参照の一行で終わるのですが、そういうわけにもいきません。

これは三つ目の点とも関係します。労働側の果たした役割をあまり重視していないというのは、半分くらいその通りで、それは今までの労使関係研究から見れば、十二分に批判されるべき点です。ただし、労使交渉というのはすごく難しく、賃金というテーマでそのやり取りの機微が分かるように書くとなると、かなり具体的な制度をふまえて、交渉の詳細に立ち入って記述せざるを得ません。それはこの入門書ではちょっと難しいのです。実際、富士紡の賃金制度なども丸めて書いてあります。この本、賃金に関する大まかな考え方は割と書いてあるのですが、細かい制度がどうなっているかというのは淡白です。それは個別の賃金制度を理解するのはやはり専門家でないと厳しいという判断です。ですから、労使交渉の部分を諦めたのは、純粋にテクニカルな理由なんです。ただ、意図せざる結果として、労使のせめぎ合いという非常に重要なところが描けなかったというのは痛恨です。正直、ぐうの音も出ません。ごめんなさい。

以下いくつかの細かい点について。

日本の賃金の特殊性については、実は今月20日にWEBで公開される記事のお手伝いをしたので、それが公開されたら、私の考え方を少し整理して、書きたいと思います。

第6章はかえって混乱を招くのではないか、というのは私も実は書いている途中で同意見でした。しかし、内部の意見で残そうという声があり、残しました。結果的には、以前、スクール・ソーシャルワーカーのguriko_さんから好意的な評価をいただき、私も触発されてエントリを書きました。一人でも現場の悩みに活かしてくれる方がいらっしゃったら、それで著者冥利に尽きます。

もう一つ、私は全然、比較経済史に通じていないのですが、そのような褒め言葉をいただきました。これはちゃんと比較的視点を持って今後も研究に精進せよというメッセージだと思って、頑張りたいと思います。

ゴードン先生、改めて感謝申し上げます。ありがとうございました。
日高昭夫さんの「ローカル・ガバナンスにおけるコミュニティの意義」という短い論文が数年前の自治労の機関誌に掲載されました。自治労の機関誌ですから、まあ電子化される気遣いもないのですが、これはすごく重要な論文で埋もれさせておくのはもったいないと思います。

日高さんの議論で面白いのは、自助、共助、公助という普通、我々が知っている区分はあまりよくないと言っています。少し引用しますが、


いわゆる「補完性の原理」とそれが連動することで、「自助」→「共助」→「公助」という垂直的な階層関係の上層に「公助(正確には上記の公助①の機能)」を配置する結果、現実の政治行政機能としては、財政危機などを背景として,たとえば生活保護制度の見直し論の一部にみられるような「自助責任」を過大評価し、行政縮小(公助②の機能も含めた役割回避)を促進する論理に与しやすいのである。


この公助①、公助②というのは日高さんの定義ですが、それを理解するために、図を確認しましょう。貼り方がよくわからないのでサムネイルになってしまいましたが、クリックして大きくしてみて下さい。

五助論

この図は本当に優れてると思うのですが、日高さんの定義では、個人や家族の「自助」を基盤に、民間企業や事業所などの「民助」、NPOなどの「協助」、自治会などの「共助」を分けて捉えています。そして、それをオーバーラップする存在として行政の「公助」があり、さらにはこのすべてを含む形で「新しい公共」が構想されています。この図の難点は「協助」と「共助」の読みが同じ「きょうじょ」であることくらいでしょうか。「共助」を「相互扶助」とすれば分かりやすかった気もしますが、二文字にしたいですし、相互を削ったら意味が変わっちゃいますしね。

私も現実的にこの五区分はすごく大事だと思っています。サッチャーの保守改革の一つの焦点は「民営化」なんですが、日本ではこれはすぐに企業がやるみたいな話になってしまいます。ところが、イギリスでは思想的にはオークショットなども入っていると思いますが、「公助」から「協助」の復活という意味も込められていたんですね。これはこの図を見ると、よく分かります。

また、もう少し精密に見ると、「民助」と「協助」の交叉するところに、社会的企業や企業のCSRなども位置づけられるでしょう。よく言われるように、日本ではこの「協助」の伝統が弱い。これは慈善事業の伝統がないからで、近代以前における教団という意味での宗教の歴史が欧米と異なることがあります。だから、前線のNPOを支援するような、たとえば日本で言えば、松原さんたちのシーズのような活動はなかなか一般には認知されないんですよね。彼らの地道な活動があればこそ、我々は震災のときに支援金という寄付のやり方が実現できたわけでですが、そういうことはあまり普通の人は知らない。

同時に、震災、この方、NPO活動が注目を集めて、地道に小さくよい活動をしているところもあるのですが、この活動が「新しい公共」を代表してしまった。しかし、実際には町内会や自治会のような「共助」が重要な役割を果たしました。こうしたもののうち、仮設の自治会はそれでも支援が入ったところもありますが(実際には自治会長さんが個人負担したところも少なくないでしょう)、圧倒的に多くは支援を受けられなかった。それは「新しい公共」の中の議論にちゃんと位置づけられていなかったからですね。もっと言えば、「協助」の中には従来の生協や労働組合もあります。今回の大震災では、生協も、それから労働組合も多いに活躍しました。しかし、多くの人にはその活動はよく知られていません。なお、労働組合のなかには今なお、支援活動を継続しているところがあります。

いずれにせよ、現実的に日高五助論はこれからこうした問題を考えて行く上での基盤になり得るでしょう。
島薗進先生の「19世紀日本の宗教構造の変容」『コスモロジーの「近世」』岩波書店、2001年を読みながら、暗澹たる気持ちになっている。この論文自体は、マクロの大きな話(史観)をどう捉え直すかということで、島薗先生は、中核になる人をポンとおいて、その人を批判しながら、ご自分のコアの主張を組み立ていく手法が得手のようだ。そんなことはどうでもいいんだけれども、今、アメリカ社会学を横目にみながら、日本の社会学を考え直し、やがてはそれを横目に見ながら、社会政策を考え直そうという、自分で書いていてもややこしい話を考えていて、そのプロセスでやっぱり宗教は外せないなと薄々思っていたことを再確認させられたからである。

まず、19世紀欧米では大雑把に言って、啓蒙主義から近代科学主義への転換が起こりつつあり、経済学や社会学が20世紀をまたぎながらエスタブリッシュされていった。なんで欧米の人たちは宗教にそんなにこだわるの?というのが宗教を専門としない大方の社会科学者の感想ではないかとも思うが、もちろん、それは重要な意味を持っていると思う。たとえば、パースのプラクティズムは実在論を基礎においている点において、啓蒙主義から近代科学主義への転換の後押しをしたと思われるが、それ自体、多いに宗教的な気質をもっている気がする。たとえば、日本にも多いに影響を与えたウィリアム・ジェームズは心霊現象研究会の会長も務めた。これは19世紀スピリチュアリズムを科学的に研究しようとした人たちの集まりである。まあ、そんなことはどうでもいいが、思想や哲学という形では日本にも同時代の欧米の「宗教」の影響は入って来ている。

加えて、日本独自の宗教事情というものも考えなくてはならない。ざっくり言うと、宗教は19世紀や20世紀的社会では古いものであるはずだったが、日本では外来思想としては気づかない形で、最新のものとしてやって来たという二重構造がある。まず、それを相対化しなくてはならない。一方で、思想や社会意識の歴史のような研究があり、宗教意識がどのように変化して来たのかということを考える必要がある。これは島薗論文の主題でもある。あと、有名なのはショーペンハウアーやついこの前、大著も翻訳されたマックス・ミューラーの比較宗教学のようなものは、まさにウェスト・ミーツ・イーストなのである。これは私が常識的に知っている限りでも19世紀初頭以来、何度か大きな波があるように思う。そうすると、宗教自体も大きく変わっている時期でもある。サンスクリットの文献学的研究は明らかに聖書の文献研究の蓄積の成果だよな。などと考えていると人生があと三回くらいないと終わらない。

ま、しかし、社会政策という観点から言うと、少なくとも内務省の神社政策、それから教団の近代化を経験した仏教等の社会事業やキリスト教の動向などは必ず押さえなくてはならないだろう。さらには、そこに今書いて来た、社会思想の問題および諸社会科学との関係などは最低限整理したい。今日、読んでいたなかでは、奥井復太郎の最初の研究がラスキンとジェームズで、クラクラした。どう考えても伊藤邦武の研究を勉強し直さないといけないではないか(ラスキンを扱った『経済学の哲学』中公新書、『物語哲学の歴史』中公新書、それからプログマティズムの研究)。

えーと、つながりが面倒なんだけど、明治40年代以降の神社政策は自治行政政策と密接していて、それはさらに都市社会政策とも関係している。で、奥井はその都市社会政策からスタートして都市社会学を日本で確立させた学者の一人。また、同様に都市社会学を確立させた人の一人に磯田英一がいるが、磯田は東京市の役人出身。このあたりは基本文献として、以前に島薗先生に紹介された藤本頼生『神社と社会事業の近代史』が控えている。これは一回、通読したけど、一回読んで分かるもんじゃないんだよな。