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昨日、「「日本的雇用システム」の生成と展開」公開シンポジウムに参加して来ました。主催のフェア・レイバー研究教育センターはいつもながらに仕事が早く、早速、昨日の様子がYoutubeにあがっています。なんで6月の日付なのかは謎ですが。

参加者の年齢層が異様に高かったのが印象的でした。高須さんは若手の院生も来ているからといって、最初に発言を促されたんですが、あの年齢構成で前席のほとんどを年輩者が占めているような状況で、発言するのは相当に勇気が必要で、ハードル高かったですね。高須さんが20代って言わなきゃ、最初に発言したのになあ。

内容は基本的に連合総研の報告書をベースにしているので、そんなに真新しいというような論点はありませんでした。木本先生の家族、地方の雇用という視点から出た問題、フロアからも元高校の先生が教え子たちの進路から提起されていた問題、いわゆる大企業モデルである日本的雇用システムに包摂されない人たちをどう考えるのか、という点は逸することが出来ない話です。まあ、ただ「新しい日本的経営」を提起した人たちも、組織内という点では異なるものの、大企業正社員モデルに関しては同じ問題意識を持っていたわけですが。

高橋さんはご自分の経験をお話しされたようでいて、本質的なところで佐口先生の議論の足りないところ、とりわけ今後の労働運動に必要なことを提起されていたように思います。一つは、労働運動の現場の大半はエスタブリッシュされたところじゃないんだということで、観光労連の話ですね。これは派遣事業にも繋がります。もう一つは、地域労働運動をどう捉えるのかということです。もちろん、佐口先生もそのことは分かっているんだけれども、枠組みは伝統的なものを使っているので、どうも座りが悪い。佐口先生のために一応、裏話的に言うと、これはそもそもの連合総研の企画段階から、今までの議論で十分でないのは分かっているけれども、総括してこれからを考えましょう、という趣旨だったので、まあ、仕方ないかなと思います。

私としては、三つの論点を出しました。一つ目は、木本先生の戦前の紡績企業についての議論への疑問です(放っておいてもよいのですが、動画に残るそうなので、後述します)。二つ目は、定期昇給の定義についてです。三つ目は、公務員労働、教育労働運動をどう考えるのかという問題です。まずは後ろの二つから。

佐口先生の定期昇給の定義は、実際の発言を確認していただければいいんですが、要するに、年功賃金カーブの分散が小さい状態と理解すればよいと思います。それはその限りでは間違っていません。1950年前後に経営側が定期昇給と言いだしたのは別の文脈だと思いますが、00年代以降の問題としては、たしかにこの意味での定期昇給と年功賃金カーブ体制の崩壊なので、よしとしましょう。

公務員労働については準備が全然ないので、答えられないということでした。敵方の政策であるアベノミクスによって伝家の宝刀である賃金交渉を復活させてもらって、その総括をしないうちに、平和運動として新安保反対運動に向っている流れを、私は冷ややかに見ているので、その話はやりとりのなかで少ししたかったなと思いました。

さて、木本先生への質問ですが、私の指摘の仕方がまずかったなと今は反省しています。私が指摘したのは二点で、男女別の管理というのは、もともと労働供給側の事情を反映したもので、雇用契約としては男女ともに3年間の期間契約なんだということです。ところが、木本先生は前の部分に反応されて、ジャネット・ハンターだけでなく榎さんの研究も引き合いに出されて、会社側が意図的に作った面を読み込んだんだ、あなたの読み込み方の方が間違っているのではないかと反論されました。

ハンターさんの研究にしても、榎さんの研究にしても、その「読み込み方」はいろいろと突っ込みどころがたくさんあるのですが、細かく言うと、皆さんも分からなくなると思うので、端的に言いましょう。重要なのは男女ともに3年契約だったということです。紡績だって1930年前後には富士紡でも鐘紡でも解雇条件闘争しますが、他産業よりも摩擦がはるかに少なかったのは、形式上は再契約しないという手段があったからなんですね。これは男女とも同じです。

ただ、このやりとりでつくづく感じたのは思考習慣の違いですね。イデオロギーに関心があるのはもちろんよいのですが、歴史研究者はそんなフワッとしたものだけではなく、根拠となる事実をまず見定めて、その上でイデオロギーも考えるんですよ。もちろん、私はその方法が一番よいと考えているわけではありません。昔からよく言われているように、山内史朗先生が『誤読の哲学』でテーマにしたような地平もあるわけで、オリジナリティのある思考というのはしばしば誤読や曲解の中から生まれてくるのです。あんまり書くと、また炎上するような気もするんですが、まあ、その路線で成功できるのは一握りだと思うので、そこに突っ込んでいくのは、費用対効果が悪いというだけです。

話がそれたついでに書いておくと、若い頃、私は、その思想家よりも実力がない人がその思想家のことを研究したものを読んでもまったく意味がないと思っていました。これは間違いでした。オリジナリティのある思想家はしばしば着想、直観に優れていても、それを最後までブラッシュ・アップするとは限りません。ですから、細かい間違いはよくあります。それを修正し、個別の問題系を深めていくのは大事なことで、そういうことを徹底的に考えるには翻訳がよいと思います。つまらない論文よりも質の高い翻訳の方が遥かに学術的な価値が高いのに評価されないというのは、つまらない論文よりも質の高い史料解題の方が遥かに学術的価値が高いのに評価されない、という事情によく似ています。お互い、つらいですなあ。
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