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大原社会政策研究会の仲間、小尾晴美さんから『日本の保育労働者』をいただきました。超お勧めです。おりしも、濱口先生と女性労働についてのやりとりをしているところに、すごくよいタイミングでした(FC2でamazonリンクがなくなったので、こうやって貼っておきます)。理論の話よりも、労働問題はやっぱり実態が命です。濱口先生も私もたぶん、そっちの方がいいんですよね。これはそういう意味でも断然、お勧めです。

この本は小尾さんたち五人のグループの研究成果で、私たちはこの本が出たことで、現在の保育労働の問題について適確な見取り図を手に入れることが出来るようになったとことをまず喜びたいと思います。そして、言うまでもなく、保育労働はほとんどが女性労働ですから、ここには女性労働の論点もかなり詰まっています。前回、少し書いた雇用労働はボランティア労働とあわせて考察しなければならない、ということを書きましたが、保育と福祉はまさにこの論点の具体的な現場ですね。さて、目次で内容を確認して行きましょう。

序章 政策課題としての保育労働研究の意義(垣内国光)
第1章 戦前の保育労働者状態と社会的地位(義基祐正)
第2章 北海道保育者調査に見る現代の保育労働者状態(川村雅則)
第3章 保育者の職務内容と知識・技能習得過程(小尾晴美)
第4章 ライフヒストリーに見る保育者としてのキャリア形成(奥山優佳)

序章では、政策課題として保育労働力問題が位置づけられています。「労働力」と言った場合の含意は、量という意味で、簡単に言えば、政策的に保育を拡充する方向が目指されているものの、その労働供給が間に合わないということです。そこから、保育労働の問題点が整理され、本書の構成の意図が説明されています。

1章の歴史分析は、絶対主義天皇制とか、独占資本主義とか、今ではあまり見かけなくなった言葉がいっぱい出て来て、細かいところでは引っかかるのですが、現状を知るためには歴史を知らなければならない、という問題意識は重要だし、大切にしたいですね。2章はアンケートとインタビューを織り交ぜながら、保育労働者の現状を浮き上がらせています。ソースは北海道のものですが、論点を見ると、おそらく全国的に普遍性があるんでしょうね。ただ、単純集計だけなので、せっかくですから、紀要にでも統計解析もやったらいいと思います。本の中に入れる論文としては、現場の人にも呼んでもらうためには、こちらの方がよかったでしょう。

さきほど雇用労働とボランティア労働についてあわせて考えると書きましたが、この論点にひきつけて一言で言えば、保育労働問題の本質は専門職という職種に特有の「やりがい搾取」の構造なのです。この問題は『日本の賃金を歴史から考える』の第6章で書いていました。以前、guriko_さんもスクール・ソーシャル・ワーカーとしてここの部分を紹介して下さって、私もそれに応じて「ケア労働、あるいは感情労働」を書きました。

あれを書いたときには、私も問題の構造を読み切れてなかったです。私はアダム・スミスの西洋の古いプロフェッションの報酬の説明を引いて、

(彼らの高い報酬の源である)信用は彼らの仕事の方法や労働条件が悪いからという理由でそうなのではない。社会においてそれくらいの信用が要求されるほど重要だと格付けされるから、そういう報酬でなければならないのである。p.125


と説明しました。そして、

ある産業の労働条件は、労働組合(産別)、使用者団体、業界団体などの産業内の団体の力だけで決まるわけではない。むしろ、当該産業の外部とのかかわりあい、社会的認知や信用度によって決まるのである。つまり、社会の中で高く評価されなければ、賃金も高くならないのである。p.134


と書きました。私の評価は一般論として間違っていないのですが、実はこの趣旨の話を出版前に議論したことがあってその時、これでは現に労働条件が低い職種が社会から認められていないと理解され、多くの人を傷つけると言われました。しかし、集団的労使関係によって社会的地位を高める必要性を改めて強調するためにこれを残しました。実は、136頁で低賃金の説明に支払能力を付け足したのは、このやりとりがあったからなのです。ただ、今回、改めて私が構造を読み切ってなかったと思いました。

一文で言ってしまえば、ある職種の労働条件が低い場合、その職種が高く評価されていないからではなく、高く評価されているからこそ労働条件が低いことがある、ということです。簡単に言えば、高尚な職業=お金に頓着しない⇒お金を払わなくても良い、というメカニズムが働いているということです。アダム・スミスとはまったく逆の結論です。だから、保育もそうですが、専門職=聖職論が出てくるところは危ないのです(言うまでもなく、有名なのは教師聖職論ですね)。

ということを考えると、脱神話化です。特に、第3章の小尾論文と第4章の奥山論文はこの本の中でも双対をなしていると言ってよいでしょう。それぞれの論文の出来も重要ですが、この二つがセットになっていることが重要です。

小尾さんの論文は徹底した保育の「技能」解析です。この論文は伝統的な労使関係手法と同じです(本人がどれくらい意図しているかはよく分かりませんが)。すなわち、ワーク・オーガニゼーションですね。実はさらっと、重要なことが「おわりに」に書いてあるので、引用しておきます。

複雑化した勤務シフトや非正規化に伴う正規/非正規間の職務分担のあり方によって情報共有の阻害が起こり、職員間の連携に支障をきたすということが明らかになっている。これらのことがより進んでいけば、まますともに高い保育の質を目指そうと議論できるような保育者集団の形成の条件は困難になっていくであろう。そうであれば、現在の知識・技能習得システムの維持が難しくなっていく可能性が考えられる。p.154


保育を図書館やアーカイブズに置き換えてもそのまま通用しそうですが、それはさておき、ここで書いてある通り、この論文は正規労働者の技能形成の問題を扱っており、非正規の技能習得の話は別稿に委ねられています。ただ、これは両輪ですよね。そのことは頭の片隅に入れておいて、この論文のすごさを見て行こうと思います。

そもそも、産業を問わず、これだけ精細に仕事内容に立ち入った分析はなかなか出来ません。たとえば、小池先生たちの『ものづくりの技能』はその出版に際してトヨタ社内で問題になったほどで、結局、どこも真似できないという意見が勝って、出版されたそうです。それくらい技能の重要なところに迫っている。その小池先生たちの2000年代の仕事の中でブルーカラーのトップ層が製品開発に携わったりする例が出て来ていますが、研究者が実際にその場に参加できるわけではありません。しかし、小尾さんの論文では、重要な会議の議事録から引用されていたりまします。ここまで行ったのは、彼女が数年にわたって時には一緒に働きながら参与観察して信頼を得たからで、こんな水準の研究は誰でも出来るわけではありません。労使関係研究としても卓越している、と言っておきましょう。具体的に言うと、中村圭介・石田光男『ホワイトカラーの仕事と成果』よりも上です。この本の書評で労務屋さんが書かれていた「仕事管理、とりわけフォーマルな仕事管理としてはPDCAサイクルはたしかに重要でありキーポイントでもありますが、いっぽうで日常の業務レベルでは、いつ起きるか、なにが起きるかはわからないけれど、しかし必ず発生してくる変化(小池和男氏のいう「不確実性」)に対する対処というものがPDCAと同様の重要性を持ってきます。デパートの事例などではその一端も示されてはいますが、やはり若干の物足りなさは感じます。」といった問題は、小尾論文では丁寧に分析されているので、というか、それがメインテーマなので、おそらくビジネスの世界の実務家が読んでも、面白いと思います。

他方で、技能形成には長期の観察が必要です。その意味で、一人のインタビューを粘り強くまとめた奥山論文も価値の高いものです。小尾論文と奥山論文は技能形成の経糸と緯糸です。岸政彦さんが『街の風景』や『断片的な社会学』の中で、あえて分析しないでインタビューの地の分をそのまま活かすという手法を採られています。奥山さんの論文も、たとえば、発言をコード化して解析するというようなことは行われておらず、むしろ、本論はインタビューからの抜書きとそれを補うような背景知識が添えられている。これはこれでかなりしんどい作業だったと思いますが、結果的に、この人の保育士としてのキャリアが見えてくるようになったと思います。こういうタイプの研究は、事例の代表性とかいうイチャモンを付ける人がいるものですが、一つの事例を深く分析することでしか分からないこともたしかにあるので、価値は非常に高いと思います。

なお、本書はこのエントリよりも平易に書いてあるので、どなたでも気軽に読めます。こんなに難しくなっちゃって全然、宣伝にならなかったじゃんと頭を抱えていますが、それくらい学問的にも興味深いことが書いてあります。小尾ちゃん、ありがとう!
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濱口先生が私の前エントリを枕に「竹中理論はなぜ使えないのか」ということを書かれているのですが、もう少し内在的になぜ今、読んでもあまり意味がないのか、ということを考えてみたいと思います。まあ、しかし、私は竹中恵美子を読もうとは思っても、自分から『家父長制と資本制』を再読しようとは思わないですし、大沢さんの『企業社会を超えて』もそうですね。今、ちょっと読み返してみたら、やっぱり古いなと感じました(竹中先生ほどではないにしても)。今、読むなら、やっぱり『生活保障のガバナンス』ですよ。これ、大沢先生の中で一番じゃないかなと思います。

でも、アカデミックなトレーニングをするという意味では、竹中先生の方がよいと思いますよ。濱口先生も言及されている大沢さんの竹中批判については完全に的外れで、その昔、大河内先生の型論が批判されたときとまったく同じパターンの理解不足ですから、これを仮に論争と呼ぶならば、完全に竹中先生の勝ちです。要は、特殊というのは抽象次元の問題で、すべて現象は特殊なのであって、理論をやっている人は現象の対極として普遍を考えますから、特殊という言い方をするんですね。大河内先生のときは日本特殊論、竹中先生のときは女性特殊論というのがひっかかったわけです。そういう発想自体がそもそもどうなの?というのは問いかけてもいいですが、あまり生産的にはなりませんよ。読みやすさの問題では、理論志向かどうかというところもありますね。

まあ、そんなつまらないことはどうでもいいんですが、なぜ竹中先生の議論が今一つ、私に響かないかと言うと、マルクス主義の用語ということだけじゃなくて、ちょっと別の次元の話なんです。竹中先生はその当時の労働問題研究は製造業の労働者を問題にしていたのに対し、そこに女性労働者の問題を押し込もうとされたんですが、そのときに設定枠組みを根本から鍛え直すというよりは、もとの資本制モデルを近代家族に拡張したんですね。そこは建て増しじゃなくて、建て替えなきゃいけなかったんじゃないの、というのが私の感想なんですよ。

近代家族というのは、産業化によって人口増加が起こって近代都市が誕生し、そこに登場してくるというのが一般的なストーリーなんですが、これで語っちゃっていいのは1920年代前半くらいまでで、ミルズのホワイトカラーも1950年代には出ているし、要は工場労働者だけで都市もそこの近代家族も語れないんですね。それと同時に農村も入れれば、さらに日本全体を語れないのも明らかなんですよ。まあ、竹中先生も不生産労働の増加という形で第三次産業に触れたりもしているんですが、じゃあ、それで大きな枠組みが組み替えられたかと言われれば、やはりそれはなされていないんですね。

だから、その延長線上にある竹中先生のアンペイド・ワーク論も、ほとんど興味がないんです。アンペイド・ワーク論はある特定の運動においてはすごく重要で、その限りにおいて、というか、そのアクチュアルな国際的な展開とあわせて理解すべきですが、理論的に探究することについては展望が開けないんじゃないかなと思っています。実際は、どう測定するかという技術的な問題なんですよ。もっとも、そのどう測定するかということは、思想と無縁ではないので、そこから切り込むことも出来ますが。

そもそも雇用関係をつきつめて考えると、労働の対価が賃金でなければならないということ自体近代の発想であって、必ずしも雇用関係の必要条件じゃないんですね(もちろん、濱口先生のように政策志向で労働問題を考えるならば、対価としての賃金は所与の条件です)。そこまで行くと、雇用関係そのものの問い直しにもなります。この点は実は森建資先生の『雇用関係の生成』木鐸社の主テーマで(実はジェンダー問題もサラッと触れられていますが)、様々な社会関係を考察して行くことになるでしょう。そうすると、ジェンダーの問題もあるんだけど、福祉的就労や、ボランティア・ワークの問題をどう考えるのか、それと雇用労働はどう違うのか、同じなのか、雇用労働の中で自主性をもって仕事をすること(自発性)とボランティア精神はどう違うのか、といったことをどんどん問いかける必要が出て来るでしょう。そこまで来ると、ことは労働そのものの考察になりますから、今、ジェンダーを仮に「作られた社会関係」と定義するならば、具体性が高すぎて、理論的につきつめて考えて行くと、捨象することも可能だろうと思います。

マルクス主義は左派運動的には支配・被支配と独立や自由、自主性の問題と密接に歩んで来ました。でも、その問題を突き詰めていくと、どちらかというと、権力の問題になって、政治学や政治哲学(ないし思想)の方が得意分野なんですよね。男性社会の無意識のなかに隠された権力性みたいな話なんですが、それを批判するんであれば、別にマルクス主義である必要はどこにもなくて、スーザン・M・オーキンやマーサ・ヌスバウムのようなリベラリズムの立場からの批判もあり得るわけです。むしろ、ラディカル・フェミニズムとマルクス「経済学」系の労働問題の接合って、そんなに相性よいんかいなという疑問もあります。

西洋文化圏の人たちが西洋思想を乗り越えようとするのは分かるんですが、本当は日本で同じような仕事をやって欲しいんですよね。たとえば、丸山眞男の政治思想史、あるいはそのフォロワーたちを批判的に乗り越えるようなフェミニズムの本とかです。丸山に「女性」が出てこないと指摘するだけでは不十分で、それを入れたら、どういう風に彼の議論を組み替えることが出来るのかというところまで示して欲しいのです。まあ、ないものねだりをしても仕方ないので、次は岡野八代先生の『フェミニズムの政治学』とリベラリズム系のフェミニズムを比較して勉強しますかね。
今日は終日、都立図書館にこもってました。いろいろ、勉強していたのですが、最初は竹中恵美子先生の全集を読んでいました。ただ、結論から言うと、いろんな意味でなかなか難しいなと感じました。

実は、昨日、ウィメンズプラザで読もうと思って行ってみたんですが、見事に全集が置いてませんでした。たぶん、予算がないんでしょうね。切ない。そこに置いてあったのが『竹中恵美子の女性労働研究50年』という本です。結果から言うと、全集ではなくて、この本から読んでよかったと思いました。なかなかのめぐりあわせです。なんでこの本を読んでよかったと思ったのかと言われると、一つは全集の方にも書いてあるんですが、この本自体が全集のきっかけになったんですね。そして、もう一つ、この本は半分くらいは運動で実勢に竹中先生に関わった女性たちが回想を書いていて、それが結果的に竹中先生の価値を高めていると思います。伍賀偕子さんの文章も良かったな。いろいろ大阪の戦後労働運動の歴史を勉強させてもらいました。

伍賀さんには以前、エル・ライブラリーのブログで私の本を紹介していただいて、さらには勉強会でご一緒しました。質問の時間のとき、男女の賃金格差のことを少し発言されて、やりとりをしたことが印象に残っています。私に主義主張があるとすれば「中庸」しかないので、どちらかの立場を強調するということはありません。伍賀さんはもちろんそれも分かった上で、もう少し踏み込んで書いて欲しかったと控え目におっしゃいました。だから、もし伍賀さんやその仲間たちの文章を読んでいなかったら、私が竹中先生の文章を読むという気持ちも多分、異なっていたでしょう。しかし、教師として偉大であるということと、研究への評価とは私の中ではまったく別次元の話です。

結論から言ってしまえば、今、竹中恵美子著作集で読むべきものはほとんどない、というのが私の印象でした。それは竹中先生の研究の価値がないと言っているわけではありません。研究書をもとにしている1巻、2巻は今でも相当にレベルが高い。しかし、それは相当に当時の研究を勉強されていることから来ていて、敗戦後から60年代にかけての労働問題研究の研究史をきちんと勉強していない人にはほとんど理解できないでしょう。その意味で、若い人には勧めません。もし本気で勉強したいのならば、まず『文献研究日本の労働問題増補版』総合労働研究所、1971年や中西洋『増補日本における「社会政策」・「労働問題」研究』東大出版会、1982年に出てくる研究動向を押さえる必要があります。しかし、これは東大に偏っていますから、その他に藤林敬三に始まる慶応グループ(西川俊作、佐野陽子ら)の労働市場研究、吉村励の研究、下山房雄『日本賃金学説史』、小池和男の60年代までの仕事(あえて東大グループに入れません)などの専門領域の他に、マルクス経済学や当時の宇野経済学の基本的知識は必要でしょう。ただ、そういうものを一通り、勉強してきて、あえて言いますが、そのほとんどはアウト・オブ・デートです。それくらい時代が変わっているのです。

ただ、学問として竹中理論(と言えるものがあるかどうかは謎ですが)を勉強するならば、これらの作業は必須でしょうね。少なくとも、竹中先生は若いときのこういう研鑽で自分の学問的な基盤を作っています。その上で、60年代以降のラディカル・フェミニズムやマルクス主義フェミニズムの影響、同時代の労働組合運動の影響を受けて、その後の議論を積み重ねています。ですから、そうした背景を勉強しないと、そもそものスタートラインにつけないと思います。その作業を今、やる必要があるのかと問われたら、私は別にいいんじゃない?とお答えします。そのときどきに書かれたものは、その当時のことを知るためには重要な研究でしょう。特に、7巻の「1980年代マルクス主義フェミニズムについて」「新しい労働分析概念と社会システムの再構築」は重要な論文でしょう。

竹中先生の功績の中で、おそらく考える必要があるのは、資本制社会ということと、近代の家族(家父長制)の原理を同一線上に捉えたことの意義でしょう。女性の問題は家族の先にあった。アンペイド・ワークの問題もここに接続しています。それは二つの点で意味がないわけではありません。一つは、経済的な論理で統一的に問題を考えたこと。そして、もう一つは、経済的な論理に乗っかって運動的な提言が出来ることです。しかし、限界も大きい。そもそもこれが理論的に考えられたこと。1960年代までだったら、そうした姿勢でも構わなかったでしょう。ただ、現在は実証的な研究をちゃんと参照する必要があります。その当時からあるものとしては、有賀喜左衛門の家族研究、最近では近代日本の家族制度が作られたものとして、戸籍制度自体の研究も進んでいます。これらを入れたらどういう枠組みになるんでしょうか。総じていえば、資本の側からの捉え方であって、逆側からの視点が弱いですね。たとえば、家族研究の他に、慶応の生活構造グループのような視点も必要でしょう。しかし、家族研究、生活研究を潜り抜けて、もう一度、戻って来て、竹中理論を鍛え直す必要があるのかと考えると、竹中先生が60年代にそうしたように、現代にあうように自分たちで考えた方がよいのではないか、と思いますね。そのためには、哲学、政治学(あるいは政治思想)、社会学などをもっと貪欲に取り込む必要があるでしょう。

さて、次はどこに向いますかね。