深夜のツイートをhamachanに捕捉されまして、エントリにしていただいたので、少しこのことについて書き足しておきます。以前、濱口先生と議論したのは労働組合の三つの機能で、一般に言われるビジネス・ユニオニズムとソーシャル・ユニオニズム、そして、あまり一般に使われることのないポリティカル・ユニオニズムでしたけれども、私の発言の趣旨は前二者が十分に育つ前に、ポリティカルに直面せざるを得なかったということです。

ソーシャルがナショナルにひきつけられていくのは、政府などの一部の指導層が誘導したというよりは、日本主義組合ですよ。これは反共であり、反近代=反欧化という側面を持っていました。で、結果的に、共産主義のカウンターパートという役割を果たすことになるわけで、この流れが戦時期のソーシャルに流れ込んでいく。普通選挙も重要ですが、その施行以前からとっくに組合は、政治運動の渦中にありました。なお、この時期の労働組合はある意味、社会運動のリーダー的な存在でした。というのも、数年ですが、労働組合運動が早く始まったから、運動のノウハウも持っていたからです。それで、組合の話だけ、とりあえずします。

普通選挙があろうとなかろうと、ロシア革命以降は、労働組合は政治運動のなかに飛び込んでいったわけです。ところが、総同盟は、というより、関東の執行部は、有名な現実主義路線を展開しようとします。これは通常、労使協調路線という点だけが理解されているわけですが、実は1922年の大会の時点では普通選挙の要求さえも取り下げていた。この数年前、棚橋小虎が有名な「労働組合に還れ」という論文を書きます。政治運動じゃなくて、本来の労働組合運動に戻ろうという呼びかけです。棚橋はこの直後、総同盟を辞めますが、松岡・鈴木らは基本的に同じ立場とみていいでしょう。その彼らは、政治運動自体を放棄しようとしていた。それをすぐに撤回したのは普通選挙が実現したからです。まあ、ここら辺は「工場委員会から産業報国会へ」の中に書きましたので、ご関心のある方はご覧下さい(41頁です)。そういう経緯があったので、もし、もう少し普通選挙が実現しなければ、労働運動は大きく変わったかもしれません。

その理由も書こうかと思いましたが、それはあまりに学術から離れるので、やめておきましょう。ぜひ聞きたい人は、土曜日の社会運動ユニオニズム研究会にいらしてください。空き時間にでも直接、お話しします。予約は明日までで、たぶん、まだ空きがあるでしょう。というか、その準備をしなければならないのです。
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孫田先生が8月の末に亡くなりました。ある日、孫田先生から直筆の死亡通知が届きました。最後まで律儀で、細やかな心遣いが伝わってくる文面と、あの青い万年筆はまぎれもなく懐かしい先生のそれでした。

孫田先生にはここ10年くらいお世話になりました。直接的に講義やゼミを受けたわけではないですが、金子美雄文書の現物を前に、あれは2006年でしたか、毎日のように早稲田の図書館で説明を受けていたのですから、他の人には得がたい教えを受けたわけで、そういう意味では私は最後の弟子を名乗ってもいいかもしれません。アカデミックの狭い世界では師弟関係というのは、指導教官と学生という形が一般的で、その限りでは私は森建資先生の弟子なのですが、森先生以外にも決定的に影響を受けたのは、孫田先生であり、小池和男先生なのです。

孫田先生は新聞記者を志して早稲田に入られたわけですが、終生、早稲田を愛していらっしゃいました。塩沢昌貞の銅像の前で戦前の社会政策に貢献したことを教わったり(塩沢はコモンズと同じくイリーの弟子です)、北澤新次郎や間宏先生のこともよく話されていました。そういえば、大隈重信の話はされなかったですね(大隈は明治中期に社会政策導入にも貢献しています)。その在学中に繰り上げ卒業という形で戦争に行き、帰ってきて中央労働学園の研究部に入学します。ここで佐々木孝男さんと出会うのです(この話は前にも書きました)。このとき、佐々木さんとともに一緒だったのが総評の調査部長だった小島健司さんで、三人で大橋静市先生に師事します。そして、佐々木先生と孫田先生は、大橋先生の元部下であった金子美雄さんの元で3年間、修業するように指示されるのです。

本というのは一回出版してしまえば、読んでいただいた読者の皆さんのものですから、どういう読み方が正解であるということはありません。ただ、あえて私自身の気持ちを告白すれば、『日本の賃金を歴史から考える』の第7章は、志半ばで亡くなった連合総研初代所長の佐々木孝男さんへのオマージュのつもりで書きました。あの章は政労使の三者構成を重視する私の労使関係観を描いたものです。孫田先生からはすぐにお手紙をいただいて、佐々木先生のことを書いたことへの感謝の言葉が綴られていました。ただし、その後、直にお会いしたときに、生産性基準原理はもともと60年代の最初にある組合がやっていて、佐々木先生の独創ではないと教えていただきました(その組合の名前を失念してしまいました!東京○○だったような。。。)。

孫田先生が晩年、賃金について繰り返し述べられていたのは、生活賃金という発想がなくなってしまったということでした。何度もこの点は強調されています。私も実はあの本の中で、暫定的な回答さえも示すことが出来ませんでした。私自身、あれを書いた時点ではどこから取り組んでいいのか分からなかったというところがあります。ただ一つだけ言えるのは、生活賃金という枠組みから我々が考えていく、労使双方の課題はもはやかつての電産型賃金のような議論ではないということです。

この問題には大きく二つの軸があるでしょう。一つは、最低生活費を保証する社会保障(ないし社会福祉)と賃金のミックスを考えること。これは最低賃金と生活保護の関係、あるいは一人親一人子どもモデルというような議論などが含まれます。これは理論的にはそんなに難しくなくて、藤原千紗さんの論文や三山雅子さんの論文などに基本的な論点は整理し尽くされています。ただし、実際にどうすればよいのかということはかなり難しい。国、地域、企業、労働組合等、それぞれのやれること、やるべきことはたくさんあります。

もう一つは、賃金水準が低くないケースで、賃金カーブと生活が全然無関係になってしまっているなかで、どのように賃金と生活の関係を考えるかです。どういうことかというと、企業が従業員の生活内容についてあれこれ考えるのは、現代では生活が苦しい正社員が一定程度出てきたときなので、それがなければ、基本的にはそんなに考えないということなのです。言い換えれば、大企業などで十分満足できる水準で賃金が支払われているところは、生活費以上払っているという理由で、生活と賃金を考えなくてよいということなのです。しかし、これから介護などのケアの問題を考えていくと、賃金だけではなく、様々な労働条件の複合解を模索していかなければならないという状況です。福利厚生や賃金、社会保障を含めた再検討ということになるでしょう。逆に言えば、日本的福祉システムなどに安住せずに、企業の労使関係、労務管理のなかから、社会保障へ提言していくということも重要になるでしょう。たぶん、最大の鍵は、労働時間で、ありていに言えば、ワーク・ライフ・バランスなのですが、これまた難しい。ただ、昔の専業主婦が家庭の万般をやって、夫は会社にフルコミットするというのはシステムとして維持しがたいので、規制という考え方ではなく、どうガバナンスするかということが企業にとっても重要になるでしょう。ちなみに、なぜ維持できないかというと、介護の問題が大きいです。一番分かりやすいのは独身男性一人のケース。これは配偶者によるケアを期待できません。次に、兄弟がいない一人っ子夫婦の場合、両親が同じ地域に住んでいればいいですが、都会で出会って結婚したりすると、そういうわけにはいかないですよね。夫両親、妻両親、本人家族がバラバラに住んでいたら、妻だけでケアを担いきれないのは物理的に必然です。こんな例はいくらでも考えられます。ただ、これは高度成長期以降の労働移動や企業に転勤の自由裁量を大きく認めてきた帰結でもあるのです。

結局、ここ数年、考えてきたことは、孫田先生が最後に問題提起されていたことを、私なりに受け止めた帰結のような気もします。そうやって動き出したことは少しずついろんな人を巻き込んで行き、そして、今度は私を通じて誰かにまた違った形で、しかし、本質的な部分もたしかに伝達されて行く。春闘復活から二年、あと数年が勝負です。
『社会政策:福祉と労働の経済学』有斐閣をいただきました。ありがとうございます。この間、バタバタしていて、いただいてから時間がずいぶん経ってしまいました。すみません。近年の社会政策のテキストとしてはもっともよいと言ってもよいかもしれません。

本書の特色は二つあります。一つ目は、社会政策独自のディシプリンという問題はオミットして、マルチ・ディシプリンを所与とした上で初歩的なミクロ経済学の立場から社会政策を分析していること。二つ目は、対象範囲を労働政策と社会保障政策プラス住宅政策と定めて、各論に理論的な分析だけでなく、制度的なディテールも書き込んでいること。これだけの分量で、歴史から最新の動向までよくここまで書き込んだなと思って、かなり驚いています。

こういう本を読むときに困るのは、私自身はもうある程度、初歩のミクロ経済学も分かっているので、経済学に親しみがない読者がこの本でどれくらいこうした手法に馴染めるのか、その見通しが立たないということです。たぶん、安藤至大さんの『ミクロ経済学の第一歩』なんかを読むとよいだろうと思います。経済学というと、それだけで蛇蝎のごとく嫌う人がいますが、それはたぶんに誤解に基づくこともあり、一通り、経済学の考え方を身につけておくのはよいと思います。積極的な効用は、センなどの厚生経済学の基本的な考え方が身につくことです。センの議論が社会政策分野でも広く受け入れられていることはご存じの通り。消極的な効用は、新自由主義=経済学=社会政策(ないし社会保障)の敵といったような、不毛な図式から自由になれることでしょう。

大河内一男・高田保馬論争のときに、問題になったディシプリン問題があります。社会政策学が独立するためには、独自のディシプリンが必要で、もしそれがないならば、経済学による社会政策分析、社会学による社会政策分析などの既存のディシプリンの応用問題になるだけだということです。結局、前者の道の探求はなされなかったので、今は後者のみが残っています。ところが、マルクス経済学凋落以降、経済学をベースにして社会政策全体に取り組もうという試みはほとんどなされてこなかったんですね。それはまず、労働経済学で労働政策部分は代替されたからです。そういう意味では、この本は労働経済論プラス経済学による社会保障解釈、という風に言ってよいでしょう。社会保障や社会福祉の経済学的分析という切り込み方自体も珍しいかもしれませんね。

社会政策そのもののディシプリンを放棄するならば、何が社会政策なのかという選択問題が発生します。この本は労働政策、社会保障、住宅にしたわけですが、これは2015年の世間相場的にはまずまずではないかと思います。一つは、社会学的社会政策を訴えていた方たちが、労働政策の重要性も指摘した上で、社会福祉ないし社会保障を重視していった結果、労働政策と社会保障を総合的に捉えることを社会政策とするというのは今ではあまり違和感がないのではないかと思うのです。もう一つは、その動きの震源であるヨーロッパでは、住宅政策をソーシャル・ポリシーの一つに位置づけるのがわりとよくあるということです。教育が入ってればなおよかったと思いますが、紙幅の都合と、メンバー構成の問題でしょうから、現実的には十分です。

でも、なお社会政策をなぜ労働政策と社会保障政策を包含したものと捉えられるのか、という問いには答えなくてはならないでしょう。これを突き詰めていくと、現実的に重視すべき政策を並べるだけではなく、社会政策そのものをどう捉えるのかが問われざるを得ない。もちろん、答えは一つではなく、ある立場からのものになるでしょうが、それでも統一的なモノが欲しいところです。そうでなければ、それこそソーシャル・ポリシーの輸入だけで事足りてしまうからです。ただ、これはそれぞれに問われる問題であって、この本の著者たちだけに背負わせるべきものでないことも、言うまでもないでしょう。

それにしても、よい本でした。お勧めです。