POSSE誌30号、いただきました。POSSEのみなさん、いつもありがとうございます。

最近、今野さんも『求人詐欺』を出され、今回の最初の論文もまさにそのテーマです。そのあとに、藤田さんたちの「下流社会」関連の座談会が続いていきます。サッと全体を眺め渡して、やっぱりキャッチ―な「求人詐欺」「下流社会」「ブラック社労士(ないしブラック士業)」「ブラックバイト」などが並んでいますが、それらをみていて、ブラック企業の「ブラック」という表現をめぐって議論されていたときのことを思い出して、POSSEは関係者にスティグマを与える危険性があっても、社会的な関心を得るように、問題提起していくという方向に決めたんだなと思いました。もちろん、その方法にメリット、デメリットはあるでしょうけれども、彼らはその覚悟を決めてやっているということでしょう。

あんまり社会政策が活躍する時代というのはろくでもないというのが私の意見なんだけれども、POSSE誌を読んでいると、いよいよ現代は古典的な貧困問題と労働問題を中心とした社会政策が重要な時代だというのを感じざるを得ないですよね。POSSE誌のよいところは、圧倒的な現場情報とそれに基づく政策提言だと思うんだけれども、次はもう少し、そういう情報を鳥瞰するような入門的な学問の紹介があるといいなという風に思いました。たぶん、仁平さんの連載は、若者に学問を近づけようとする一つの試みだったとも言えるんだけれども、ああいうスタイルではなくて、もうちょっとだけ固い感じのもの。言うは易く、行うは難し。ただ、そこがあると、もう一歩、深みが出ると思うんだよな。やれるとしたら、対談とか、座談会かな、そういうテーマを設定した。
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1959年の合化労連の大会で、ときの総評議長で合化労連委員長であった太田薫、事務局長の岩井章はいわゆる下呂談話を発表した。労働戦線では全労会議・総同盟との対決姿勢を打ち出した一方、共産党との共闘を視野に入れていた。労働組合では、1940年代末頃、共産党本部による内部干渉に反発し、民同が出来、その内部抗争がずっと長く続いていた。そのため、古くからの労働運動家の人たちは、今でも共産党に対してのアレルギー反応を持っている。

太田薫は66年に総評議長を辞めるが、その後も活動を続ける。太田は70年代前半に労戦統一運動に入っていった時から、自らを労働組合主義と規定し始めるが、政治的には共産党だけでなく、公明党・民社党も含めた自民党に対抗しうる革新政権の樹立を目指していた。60年代は自民・社会・民社・共産で、そこに公明が入ってくる。それが70年代後半は、ロッキードの影響もあり、自民から新自由クラブが独立、社会の方もお家騒動で江田三郎が出て、社会市民連合になり、その当時は「多党時代」と呼ばれる状況が生まれ始めていた(今の乱立からすると少ないけど)。こうした状況下で、太田が共産党に親和的なこと自体は私には少なくとも違和感はないのだが、民社党との共闘になると話は違う。というのも、そもそも59年に西尾末広を社会党から追い出したのは太田たち、社会主義協会であったのだから。

70年代後半には、松前重義が中心になって社公民中道路線が模索されていて、総評の富塚事務局長、槙枝議長もその考え方に傾いていた。それがややうまくいかなかったのは1979年都知事選で太田が立候補したときで、この選挙では太田は社会党の公認も直前まで得られず、敗北した。このとき、積極的に選挙協力したのは共産党で、最終的には社共で戦うことになった。だが、その後、社会党が総選挙で公明党と協力したことで、共産党との対立は決定的になる。これ以降、労働組合運動のなかで統一労組懇の動きが活発になってくる。統一戦線促進労働組合懇談会は、労働戦線統一ではなく、政治的な統一戦線を目標として掲げた運動であり、これは年来の共産党の考え方であった。

翌1980年、総評、同盟、中立の3つのナショナルセンターの民間産別から構成される統一推進会が生まれる。結果的には、統一推進会は統一労組懇排除の方針を打ち出すことになるが、この中心にいた藁科電機書記長は後に、統一労組懇をどうするかは内部で激しい議論が行われた結果であり、最初から決まっていたわけではないと証言している(オーラル・ヒストリー)。ただし、6人のうち2人が選別主義を否定したとのことだが、その2人が誰かは明らかにされていない。太田が都知事選に出ずに、合化労連委員長のままであれば、まったく違う方向になっただろう。

労戦統一は、1989年に現在の連合が出来たときに達成されたということになっているが、これは勝者の論理であり、共産党系の全労連と、それから連合・全労連のいずれにも行けない総評系の組合の受け入れになった全労協も出来た。しかも、新聞労連や全港湾のように、そもそもナショナルセンターに入らないという道を選んだ産別もある(そして、この両者は連合からの誘いを断っている)。共産党系の統一労組懇排除の方向は、少なくとも、自治労、日教組にとっては組合分裂の契機になった(分裂組は全労連加盟の自治労連、全教になっている)。

総同盟内での左右対立が激しくなったのが1923年くらい(共産党結党はその前年)なので、右派社会党→民社党、総同盟ないし全労会議→同盟の系譜の人たちは今でも連合にいるわけだが、もし民進党が共産党と選挙協力をしてそれを支援するということになれば、90年以上続いてきた先人たちの歴史を書き換えるかもしれない岐路に立っているといえる。

これ、「連合」成立の経緯を考えたら、大変な決断です。私が恐れている最悪のシナリオは、いずれの結論にせよ、大した論争にもならず、なんとなく決まっていってしまうことです。喧々諤々、メッチャ、揉めなきゃいかんとこですよ。
部屋の本を整理したら、孫田良平先生のところからもらってきた岡田完二郎『労働問題の背後にあるもの』が出てきた。この本の冒頭のエッセイで岡田さんが公職追放前に中労委の使用者側委員をやっていたころの話があって、面白い。ところどころ抜粋。

開会の辞のあと、「中立委員は誰が選んだんだ、僕は同意してないぞ!!」と、割れ鐘のような大声で怒鳴るものがある。見れば、荒畑さんの左で「徳田委員」と書いてある。ああ!これが有名な徳田球一氏かと私はビックリした。

芦田厚生大臣と徳球のやりとりがあったあと、大臣が職権で任命しようとすると、末弘厳太郎が

「大臣一寸お待ち下さい。今日のこの歴史的なお芽出度い日に、始めつから例外規定を適用するのはどうかと思います。私の解釈では、労働者側委員の同意というのは、その一人一人の同意でなくても、労働者側委員が寄つて相談して決めたらよいと思う。ねえ、徳田君そうしたらどうかね」と折衷案を出した。徳田委員はサツパリしたもの
「ああ、それもよかろう、じや、ここで相談しようじやないか、西尾君一緒になつて反対しようじやないか」という。そちらを覗いてみると徳田委員の左に西尾末広氏、松岡駒吉氏が座つている。その左の松田長左衛門氏は病気欠席である。西尾さんはポカポカと煙草を吹かしながら、知らん顔で天井を見つめている。徳田委員はせき込んで、
「西尾君、君は愚図愚図しているからいかん、君と僕とここで手を握れば何でもできる、人民政府だつて明日からでも出来るんだ」
という西尾さんはおもむろに口を開いて
「徳田君、君は英雄だからねえ、君の党のことは何んでも君一人で出来るが、僕等の党は下から決議決議で積み上げて来るものだから、そうおいそれと簡単には決められんよ」
と言つて全く取り合おうとしない。すると徳田委員は急に気がついたように
「考えて見りや、僕は党を代表しているので、労働組合から選ばれてるんではない。これはおかしい。労働者側委員は、一体誰が決めたんだ」
と問題の焦点が急に移つていつた。そこで末弘さんが「そんなら労働組合から、代表を選んだらいいじやないか」と突込む。徳田委員は
「それが情無いことには、選挙母体になるような労働組合の連合ができていないんだ」
と兜を脱ぐ。末弘さんが「其連合体はいつ出来るんだ」と聞くと、徳田委員が
「五月頃出来る見込だ」
と応えたので、末弘さんがすかさず「それでは五月末まで、君等もその儘やつて、中立委員もそのとき改選することにしようじやないか」と切り出した。
「うむ、それもいいな」
と徳田委員は案外あつさりと言い、ここに始めて会議が軌道に乗り、(後略)

なんてエピソードが出てきます。言うまでもなく産別会議結成前夜の話で(1946年3月のことでしょう)、ああ2・1ストの大転換までは労働組合とか関係なく、徳球が政府委員をやっていたのだなとか、なかなか感慨深いですね。この後、専従労組役員に賃金を支払ってはいけないと徳田委員、荒畑(寒村)委員と岡田委員の三人だけが主張したという不思議な組み合わせの話も面白いです。

この本自体、後半の講演を読むと、昔の使用者は博識だなあという感想と、いやいや岡田完二郎だからか、という感慨とが交差していきます。岡田はこの本が出版されたとき、宇部興産副社長ですが、宇部興産は太田薫総評議長の出身企業で、要するに、岡田と太田は対峙したんだなということもわかります(岡田が公職追放されて宇部興産に入るのは1947年です)。なお、岡田は公職追放を受けて古河鉱業社長と中労委を辞め、宇部興産を務めた後、古河系の富士通の社長になって池田敏雄を支え、日本のコンピュータ産業を飛躍させていきました。