1975年、カテゴリ労働史で転換点と書いたら、みなさんは何を想像されるでしょうか。日本型所得政策でしょうか。それとも、スト権ストでしょうか。私はこの年に形成された学者が中心になって形成された労働問題研究会をここであげたいと思います。とはいっても、仮説なので、みなさん、いろいろ突っ込んでください。

労働問題研究会はそれこそ大河内先生、氏原先生とか、大立者がいっぱい参加されているのですが、この政策研究の流れが翌年の政策推進労組会議を生み、あるいは蓼科(電機)・山岸(電通)の労働社会問題研究センターにつながって、最後は連合までいきます。学者サイドからは、支持政党ではなく、政策ベースで考えるべきだという提案があり、実際に多くの人が先生方からそうアドバイスされたという証言も残っています。

労戦統一についてはキーパーソンがいっぱい出てきすぎて、わけわからんことになりますが、22単組会議解散の反省を経て、政党(あるいはその背後のイデオロギー)ではなく、政策ベースで考えようということになるわけです。70年代末の総評社会党、同盟民社党の対立はこれで乗り切ろうとしたわけですが、結果的には、社公路線が社共路線を潰し、それが連合と全労連を生むわけですから、まあ、統一というか、全体でいうと、再編だったわけです。とはいえ、連合内だけでいえば、統一であり、そこに政策が重要な役割を担うことになります。

それ以前も、産別会議だって、総同盟だって、総評だって、全労会議だって、同盟だって、みんな政策は持っていました。もちろん、他の新産別や中立にしても、あるいは各単産(産別)にしても。1970年代以降、「政策」が背負わされた課題は、イデオロギー対立を超えていくことであり、そこでは学者が関与したからということもありますが、そのためにある種の客観性が志向された。ほぼ同時代的に、政治学から政策学がテイクオフしようとする黎明期でもあり、その意味で「政策」の新しい画期となった時代でした。

しかし、たとえば、国民春闘について、76年に太田薫がこういう趣旨の批判をしています。つまり、こんなに多様な要求、君らも半分もわからんだろう、俺なんかもっと覚えられん。そんなものが運動の中心になり得るのか、というのです。太田薫という人は、大衆との関係を常に考えた、というか、その距離感覚は天才であったというべきでしょう(ただし、政治に関しては???ということがいっぱいあります)。太田の持論的な春闘論というのは、金子美雄と並んで、今でも読む価値があると思います。

やはり労働組合の政策は、政策科学だとか、そういう客観性を求めるのではなく(いや、松下圭一政策科学もよしあしは別として、ある種志向性を持っていたとは思いますが)、やはり、常に多くの労働者をいかに仲間として加わってもらうか、そのためにも彼ら/彼女たち一人ひとりがそれを聞いたら、ぜひ仲間になりたい、そう思わせるようなものを目指すべきなのではないかと思います。理想論というより、原則論として。

実は数年前、連合の25周年かなんかの企画で(たぶん、『連合』だったと思います)、藁科さんが1975年の労働問題研究会の役割を強調していらっしゃいました。それはそれで、研究者としては興味深い証言ですが、私は1975年よりも前の原点に立ち戻る必要があるのではないかと思うのです。
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フリースクールで論点整理 「迫力不足」との批判も」。

新聞をソースにすると、消えちゃうので、あんまりブログエントリにしたくないんですが、あまりによく見る論点なので、ちょっと一言。私が気になったのは、「民間団体の質を保証するために、団体同士が相互評価(ピア・レビュー)するような仕組みなどを打ち出した」という記述です。これね、「民間団体が相互の活動を学び合えるように、視察交流とその報告を広く共有する仕組みを打ち出した」という風にすればいいのに、と思います。

結局、実際に行われるのは、多団体の実践を観察(視察)して、それに対しての評価をレポートするということでしょうから、人、時間、予算(の付け方は別ですが)はどちらでも変わらないわけです。

これは1950年代の勤評の頃から言われていますが、教育(あるいは福祉でもそうですが)では競争原理というのはあまり有効ではないんです。というか、競争原理が有効に働く前提条件というのは、需給何れかの過多の状況で淘汰を行うということにあるわけで、そもそも居場所づくりのように、足りてない状況で淘汰する原理でやっても意味がないわけです(淘汰まで行かなくとも、選抜ならば意味があります)。1960年代に、受験に偏差値が導入されたときに、あれは受験競争の軽減が狙われたわけで、しかし、どんな理念があっても、需要側(受験者)が供給側(合格者、ないし学校が受け入れられる数)を上回る以上、競争は減りません。

ただ、他の試みを見る事自体は有効な方法です。ですから、今学ぶべきなのは、経済でいえば、生産性視察団ですよ。海外まで行かなくとも構いません。あのときは、業界の大企業や、職種(人事、会計、生産管理等)の人たちが集まって、大体半年とか1年近くそれぞれの現場の情報交換を行って、論点を深めて、短い期間の視察を有効にしようとしたわけです。だから、その後、ドル制限などがなくなって自由に何年も行けるようになった人たちの中には、あの短い視察の方が有益だったという感想を残している人もいるわけです。

でも、そもそも大きいところじゃないと、評価しに行く余裕もないだろうから、人事交流とかで、お互いの労働力を確保しないと厳しいんじゃないかな。そのうえで、観察先から学んで、生かせること、あるいは修正した方がよいと考えたことなどをまとめればいいと思います。

ちなみに、こういったレポートを予算つけるときの材料にするというのは、1990年代に多くの日本企業が失敗した、安直に目標管理を成果主義と結びつけた、というあれと同じ轍を踏むことになるでしょう。とにかく、現場は忙しいんだから、どうせ強制的な仕組みを作るんであれば、普段はやれればいいと思っていても、時間がないから手が回らない、強制だったらやらなきゃいけない、やってみたら、意外と役に立った、という形を目指したいところです。

こうつらつら書いてきても、どっちの発想でやっても質が良くなったり、保証されたりするかどうかはたしかじゃありません。つづまるところ、良くなると信じて任せるか、うまくいかないだろうなと思って監視の仕組みを作るのかという立場の違いです。前者は提言者が責任を取って、後者は現場が責任を取る、ということです。