いやあ、すごい本だった。

ぱっと、手に取って、一瞬でよい本だというのは分かったけど、ちゃんと読んでみて、これは改めてすごい本だと思った。まず、本の作り手ということでみると、30名以上が参加して、これだけ統一感が出ているもの、そして玉石混淆なく、ほぼ玉しかないものというのはちょっと類を見ない。そして、これだけ重厚なのに1時間ちょっとでとりあえず通読できてしまった。それだけ読みやすいということである。ガイドブックで読みやすいというのは最高の評価である。

構成は1章が定義、2章が歴史、3章が活動の全体像、4章がナビゲーション、参照文献、年表、索引である。1章の定義は大谷栄一さんが単独で書いているのだが、これもしっかりそこが入っていて、見通しがよい。ざっくり言えば、理論化して考えられているということに尽きるのだが、その体系をビリーフとプラクティスという縦軸と、在家と出家の横軸による四象限の図であろう。ただ、教学と実践ならば、分かるのだが、ビリーフとプラクティスで分けられるのかというところもある。ここはシンポジウムのところで書いたが、結局、社会運動や政治運動と宗教体験は違う位相のものであろう。また、日本の近代思想においてはカール・レーヴィットの二階建ての思想という問題があるのだが、体験を伴う思想というのはそのような脆弱さを克服している側面がある。そうすると、脆弱なインテリ思想と比較したとき、宗教思想や哲学は違う意味を持っているのではないだろうか。ここのところ、碧海さんの『入門近代仏教思想』はよく踏み込んで書いてあると思う。ただ、ここであえて、仏教と限定しなかったのは、ハンセン病患者へ奉仕を尽くした岩下壮一神父などが念頭にあるからである。宗教をアヘンといったマルクスを起源にするマルクス主義が一種の宗教だと言われるのも、たぶん、この運動的実践志向のゆえではないかと思う。そして、近代日本における最大の運動志向こそは日蓮主義を研究してきた大谷さんが明らかにしてきたことと重なってくる。実際に、社会運動(史)研究は思想研究と切っても切り離せないところがある(道場さんにしても絓(すが)さんにしても)。

ビリーフとプラクティスの関係にこだわるのは、キリスト教においてはたしかに教義の体系化は重要だろうが、仏教にはそうではない考え方もあるのではないかと思うからである。むしろ、「知」が体験の邪魔になるということがあるのではないか。分かりやすく言えば、念仏を唱えるということで信仰を得るという教えが難しい教義を理解できない者に対するただの方便なのか、本当に信仰に至る道なのかということである。まあ、このあたりはじつはよく分からない。体験と理解が結びつくのならば、体験しない限り、分からない世界だし、だからこそ口伝のようなものもあるのだろうとも思うが、そうであれば、そもそも人文社会科学的な学問に合うのかという問題もある。そう簡単に割り切れない。

というか、本の紹介するつもりが余計なことを書きすぎた。

この本の特徴は、なんといってもそれ自体が学際的なことだ。大谷さんの宗教をめぐる定義、仏教の定義についてもそうだが、もともと西洋の仏教学において比較宗教学が大きな役割を果たしたこともあり、キリスト教や神道、(スピリチュアリズムなども含めた)新宗教なども目配りされている(藤本頼生先生も書いてる)。習俗のところでは民俗学や新宗教研究、社会史研究などの成果が取り入れられている。また、メディア研究が重視されているのも印象深い。メディア史と並行しながら考えると面白いだろう(労働運動史はこの視点がすこぶる弱かったし、労働運動もすこぶる弱い)。もちろん、文学研究、思想研究などもちゃんと入っている。そういう意味では、広く学際的な問題に目配りしたい研究者にとって、かなり役立つガイドブックではないだろうか。

もう一つは、人物情報が本当に豊富で、その掘り下げ方もポイントが効いていて、本当にマニアにはたまらない。たとえば、石原深矛(みよ)さんが書かれた女性仏教者では横浜の橘女学校を作った土光登美が出てきて、その息子が土光敏夫であると触れている。ああそうか、第二臨調の中心人物、目刺しの土光さんはそういう背景があるのか、とか。友愛会(後の総同盟)と深い関係にあったユニテリアンと仏教の関係とか。あと、哲学者とか、学者とか、仏教社会事業家とか、そことそこが繋がるんだとか、ああこの人はそういう人だったのかというような情報がたくさん。とにかく、ええ、そうなの?というのが目白押しだった。国学、神道でもこういうの作って欲しいな。

索引は人物索引と事項索引に別れているんだけれども、事項索引もほぼ団体名とかお寺の名前とか具体名ばかりで、それがこの本の二つ目の特徴を表していると思う。最初に書いたとおり、理論がないわけじゃないんだ。でも、そういうのは入ってこない。これは酒井さんが『概念分析の社会学2』の索引で実現したのとは全く逆の行き方(単にスペースが限られていただけとは言っていたけれども、結果的には一つの模範を示したと思っている)。この辺は徹底した歴史研究の特色がいかんなく発揮されている。

しかし、待てよ。これ、入門書にしてはちょっと敷居が高くないか、という気がにわかにしてきた。どう考えても中級以上じゃないかな。体系だって整理されているという点では、さすがに学者のプロの仕事だなと思うし、素人として私が積み重ねてきた知識がクリアに整理されるのは気持ちが良いけれども、なんにも知らない人には案内人(身近で質問することが出来る先生)がいないとちょっときついかもしれない。前に有斐閣の近代経済学的な『社会政策』を激賞しながら、ちょっとレベルが高いかなと書いたけど、それより要求水準が上だね。具体性が高い情報、人物だったり、宗派、学問の流派のつながりだったりを楽しむには、それなりに事前知識がないときついもんな。そう考えると、結構、読み通すのは時間かかるかも?でも、それを補ってあまりあるだけのリターンがあると思います。あ、リファレンス・ブックのように、読みたいとこだけ、拾い読みも出来るようになってます。
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この前の吉田シンポでも少し話題になっていたので、積ん読していた『入門近代仏教思想』を読んでみた。なかなか面白かったし、有用だと思う。まず、戦間期に仏教が行ってきた社会事業などはそれこそ吉田久一の本などで割と知られていたが、思想的なインパクトを概観するような類書はあまりなかったのではないかと思う。この点は、キリスト教の方がわりとそういう本が多かった。しかし、近代日本の知的状況において、こうした仏教思想の展開とそれが及ぼした影響を知ることはかなり重要であろう。その意味で、この本はまず、宗教に関心がある人、社会改革に関心がある人、社会思想や社会政策、社会福祉に関心がある人、竹内洋の教養主義本が好きなマニアには、エア・ポケットであったし、面白いと思う。あとは、国学・神道の内部の人が、いつものような難しい漢字を多用しないで、分かりやすい新書を書いてくれれば、いろんな見通しがよくなる気がする(もっと具体的に言えば、藤田大誠さんの『近代国学の研究』のコンパクトなやつを読みたい。あれを前提に話を進めるわけにはいかないので。)。ただ、私はまず、そもそも大正時代から大学が大衆化する前までに興隆した教養主義に関心がないので、この方面の竹内洋本のファンは身近にもいたりするが、その思いはほぼ共有できない。だから、そういう意味での知的歴史に関心がない向きにはきついかもしれない。

この本自体が古い教養の香りを持っている。地の文と要約がほぼ区分できないくらいに書いているというスタイルをあえて取っているというところもあるだろうが、実はそのスタイルで全編を書ききるにはかなりの力量がいる(エネルギーというか、胆力というか)。その意味では、この本は研究者としての研鑽の結果ではあるけれども、姿勢としては若松英輔の『霊性の哲学』に近いし、それはある意味で大正教養主義的な雰囲気であると私は思う。あとはキリスト教方面では赤江達也さんあたりがこういうものを書いてくれるかもしれない。

とはいえ、ことは仏教なので、いろいろとこちらとしては期待したいこともある。はっきり言って、キリスト教の場合、日本においてはほぼほぼインテリ宗教なので、こういうアプローチをしてもよいのだが(それに社会実践を加えればほぼそれで十分である)、仏教の場合、民衆に根付いているので、もっと地べたの民衆思想的な面を知りたかったというようなことがある。たとえば、報恩思想などがそうである。これは明らかに廃れていったと思うのだが、それはなぜなのか。社会がどのように変わっていったからなのか、とか、聞いてみたい。これは労働問題、とりわけ報酬にも関わる問題である。報恩思想自体は他の文化圏でもあるが、おそらく日本では浄土宗的教えが利いていると思うので。

それから、文学ということでいうと、ベスト・セラーになった倉田の『出家とその弟子』が重要なのは異論ないが、他方で、幸田露伴や、谷崎潤一郎とその親友であって源氏物語を書くに当たっては彼の仏教方面の先生でもあった今東光(もちろん、今なお意気軒昂な瀬戸内寂聴大先生の師匠でもある)といった流れもどう位置づけるかとかは気になるところである。それから、晩年の三島由紀夫(4部作)や遠藤周作(深い河)などは明らかに仏教思想に寄っていて、その仏教との距離の取り方は大変に興味深い。個人的には中村真一郎も気になるが、まあ、ここら辺まで来ると、だいぶ、私の趣味だ。ただ、岩本裕が遺著『日本佛教語辞典』でやろうとした仕事は、日本の(古典)文学を読むには、仏教を理解することが重要であるとして、サンスクリットから漢語、日本語に至るまで博捜に次ぐ博捜による考証で、あの辞典を書ききったわけだが、日本の古典に親しんで着想を得るというのは、ある意味では王道である。谷崎、今、瀬戸はもちろん、中村の『王朝物語』もそうだし、丸谷才一も、それから、河合隼雄や映画を大ヒットさせた新海誠もそうだろう。もちろん、手塚治虫を加えてもよい(まだまだたくさんいるが、今思い出した限りで)。こういうものは、近代仏教の哲学やら何やらを必ずしも通らず、しかし、近現代を生きる中での問題意識というフィルターを使って、ある意味、古典のなかの仏教的何かを近代化(現代化)させたものを作り出しているという側面もあるように思う。まあ、普通に考えれば、文学研究なわけだが、仏教思想という観点から仏教関連の研究者が書けば、まったく違った趣になるだろう。

「近代仏教」という枠組みが重要であることも承知しているし、そこに豊富な研究が蓄積していることも分かる。ただ、仏教思想という場合は、教団や宗派およびそこから影響を受ける人以外にも、スポットを当てたものも読みたい。なお、自分でも一冊の本に要求し過ぎなことくらい分かっているのだが、仏教研究者なら碧海さんじゃなくても誰かが何とかしてくれそうと思うので、書いておきます。
土曜日に参加した吉田久一シンポジウムについて、備忘録がわりに少し書いておく。というか、長くなったので、ブログエントリにしよう。

今回のシンポジウム、参加してよかった。吉田久一展を拝観してきたこと、その図録をいただいたこと、さらに追悼本を購入して、そのときの関連論文集をいただいたこと、そして、何より吉田久一と縁の深い湘徳大学に実際に行ってみて、その関係者の息吹というか熱量に触れたことは、なかなか得がたい経験だった。日本仏教社会福祉学会、社会事業史学会、日本近代仏教史研究会の3学会共催というのも新しい試みで、それをどういう形になるか分からないけれども、続けていこうということになったのは素晴らしい。

学術的な内容という意味では、なかなか課題も多い気がしたのも事実である。まず、相互の使っている用語が異なっているので、意思疎通が難しい。全員、講座派を知っていて、理念型を知っていて、戦後啓蒙主義者のものを読んでいて、というような状況は今は望めない。そういう中で、どうやって橋頭堡を築いていくのかはかなり難しい課題である。

私は、正直に言えば、社会事業史研究側には少なからぬ違和感があった。あの『社会福祉学研究の50年』のなかで何度も大河内理論(ちなみに、社会政策分野で言う総資本による総労働の保全というあれではなくて、日本では資本主義が十分に発達していないので、社会政策が貫徹し得ず、その穴を埋めているのが社会事業であるというやつである)について語られているのだが、丸山とか講座派とか関係ない名前はバンバン出てくるのに、大河内の名前が一度も出てこないのは驚いた。念のために言うが、私はこのような意味での大河内社会政策論も大河内社会事業論もすぐにでも清算してほしいと思っている。

関連して言うと、野口友紀子さんの研究とかもスルーなのはなんでだろうと思った。あれは結構、勇気ある問題提起だったと思うけれども、黙殺はよくない。昔、野口さんから本をいただいて、エントリを書いたのだが、今見返すと、facebookの反応が430もついていて、ビビった。誰が読んでるの?

段階論については、講座派の克服という話がされていたが、それについては日本ではないけれども、方法論的に岡村重夫が試みたわけで、そういうものへの言及がなかったり、そもそも経済史の認識が50年くらい前のものであったりと、あとは細かいことは書かないけれども、いろいろ驚いた。

それに比べると、仏教側はすごく元気で、こんなにシンポジウム中に自分たちの本の宣伝をする人たちを初めて見たが、それはそれでよかったと思う。

用語の問題で言えば、まったくかみ合っていない「実践」という言葉はもうちょっと精査する必要があるだろうと思った。ざっくりいえば、仏教における実践とは、素人がイメージする限りでも「行」を含めた宗教体験のことであり、必ずしも社会運動的実践ではないだろう。もちろん、吉田がそういう活動の中から信仰を深めることについて語っていて、それを大谷さんが引いていたんだけれども、それは一つの考え方であり、個人的には共感するものの、議論が必要なところだと思う。だから、やっぱり二つは違うものと捉えた上で、その意味を考えることを課題としたい。ちなみに、これは前に読んだ蓑輪先生の『日本仏教史』の着想に触発されていて、まだ始まったばかりなんだろうなという気もしている。でも、宗教体験は宗教関連の思想では重要で、碧海さんの『入門近代仏教思想』や稲垣先生の『カトリック入門』はそういうところを押さえている(碧海さんの本は別にエントリを立てます)。

正直に言うと、一応、吉田の主要な著作は持っているのだが、吉田の研究がこれからの導きになるかというと、それは難しいだろうと思う。吉田の著作を読むと、謙遜もあるが、細かいことに拘泥するよりも(十分細かいことをやっているのだが)、とにかく概観を示すことが開拓者の役割であることをよく自覚していた。そういう意味で、フロント・ランナーは専門分化せずにいろんな議論が出来るので、吉田を通じて学際的対話のきっかけになるということはあり得る。まあ、仏教史どころか、社会政策と社会福祉さえも対話してないからな。。。

もう一つ、ずっと議論になった「近代」と「現代」の区分の話。モダニティをどう考えるのかというのは60年代以来の西洋でも一つの重要なテーマだと思うが、現代というのは、その世代で揺れる。近世の定義もそうだし。現在に近いところは時間の経過とともにズレてくるし、同じ生きているものでも世代が違うと感覚がズレるのは避けられない。それでも、モダニティで理解する局面はあって、それがなんであったのか、それを切り取った後に設定できる時期とは、という問題提起はあり得る。あり得るが、ポストモダンが言われてからもう少しで半世紀だからなあ。