2017年01月19日 (木)
稲葉さんから新刊の『政治の理論』中公叢書が送られてきて、早速、二日かけて読んでみた。いろいろな感想が駆け巡っていったけれども、我々の学問的なアイデンティティでいうと、社会政策は政策である以上、最後は稲葉さんが示したような広義の「政治」学に戻っていかなければならない、ということだ。それはある時期には国家学と呼ばれてもいた。この問題意識はどれくらい共有されているかどうか分からないけれども、非常にプラクティカルなレベルでは岩田正美先生の『社会福祉のトポス』を例外として、私が直接、知っている人では稲葉さんとしか共有していない、と思う。イギリス流のソーシャル・ポリシーは、もともと日本と違って社会学と社会福祉(ないし社会事業)学が分離せずにソシオロジーだったところに、パブリック・ポリシーを潜り抜けて生まれたという経緯があるので、それは政治学を潜り抜けてきたともいえる。私に言わせれば、前段のソシオロジーの部分は、日本では社会福祉学でほぼ事足りる。だが、肝心の政治学との接合が必ずしもうまくいかなかった。その理由を書くのはここの趣旨ではないので省略したい。
やはり世代差というのを強く感じた。もちろん、稲葉さんと私では一回り以上、もっと離れているのだが、別に我々の方が若いから稲葉は古いなどというバカなことをいうつもりはない。むしろ、まったく逆で、我々後進のものには書けないなと思ったのである。というのも、稲葉さんは東西冷戦体制の中でアカデミックなトレーニングを受けて、その途中でその体制自体が崩壊し、それに伴って崩壊していった学者も横で見ている。それはその時代に居合わせなければ経験しえないものである。
身もふたもない言い方をするが、日本の社会政策という研究領域は、領域社会学が生まれる以前から存在しており、その時代からの伝統である社会調査および歴史研究によって今なお命脈を保っている。大河内以降、というよりは、より広く日本資本主義論争以降のマルクス経済学が没落しても大して変わらないのはそういう理由による。私はこのポスト・マルクス主義の共通言語の必要性をずっと言ってきて、それはどの領域でも一定の賛成を得られるのだが、実行に移すとなると難しい。それに何より、やはりマルクス主義諸学と決別するにせよ、あるいは現代的にリニューアルするにせよ、ギリギリ稲葉さん世代までのマルクス諸学を潜り抜けてきた人たちがやるしかないのではないか、という気がした。実際、稲葉さんの仕事はそういう性格が強くある。
今回の『政治の理論』は、岩田正美先生の『社会福祉のトポス』と案外、平仄が合っていて、稲葉さんが言う「有産者市民」というのは岩田先生のいう「一般化」の対象と重なっている。ここでいう一般化とは一般的な労働・生活様式を安定的に維持することを目的として、獲得される社会福祉というか政策のトポスを得るためのロジックである(ありていにいえば、多くの人が対象となって、予算が要求される政策である)。だが、一般化の議論だけでは、特定化のロジックを取り込むことはできない。この隘路をどうクリアするのかは難しい。有産、無産という言い方にこだわるならば、無産から抜け出すことが出来ない人をどのように組み込むのかということでもある(実際には特殊化の対象はもう少し様々なフェーズに分かれる)。ただ、無産者という言葉をスタートに、雇用社会を解き明かしていくのは稲葉さんのオリジナルな論じ方だろう。だから、6章、7章は稲葉さんの資本主義論である。
アーレントとフーコーを足掛かりにして、経済学・社会学の最新の知見を踏まえと、謳い文句にはあるが、本書にはほとんど社会学は出てこない。社会構築主義の話が一行出てくるくらいで、ほとんど影響はないし、『社会学入門』の最後で重視したマートンの中範囲の理論はさらっと登場させる余地はあったと思うし、登場させていれば、二つの本の連絡が出来ていてよい感じだったと思うけれど、登場していない。それには理由があって、この本は冒頭で規範的政治理論と実証的政治理論を区分して、前者に立つと明言して、そもそも「政治」とは何かを考察することになっているのだが、その試みは実際は政治経済学の復権であろうと思う。そこにはあまり社会学の入り込む余地はない。
ちなみに、日本でも戦後、政治学と経済学を結び付けようという動きがあって、たとえば猪木正道先生(河合栄治郎の弟子)は成蹊大学の政治経済学部を作るのに尽力した(が、60年代の改組で政治経済学部はなくなっている)。猪木、関嘉彦といった社会主義右派の河合学統は、政治学に流れて行ってしまい、しかも、河合事件の影響もあって、大河内ら社会政策組と交わることはなかった。これも日本の社会政策が政治学、行政学系の政策科学とあまり交差しなかった原因の一つであろう。思いついたので、忘れないうちに書いておく。
話を元に戻す。この本全体を貫いている前提は、フーコーの統治論を媒介に、政治の意味を拡張させるという姿勢である(アーレントの「政治」が狭いというのはここで召喚される)。端的に「コーポレート・ガバナンス」と表現しているが、これはいわゆる企業統治のことではなく、コーポレートは広く法人を意味しており、法人をどう統治するのかというほどの意味である。こうした意味で「政治」を使っていたのは濱口さんかなと思う。広田(照幸)理論科研のときの講演はそういう含みがあった。ただ、文脈によっては狭い意味での政治活動(ロビーイングによる政策の実現)などで使う。稲葉さんと私の日教組まわりの話のエントリは後者の意味である。個人的なことを言えば、労使関係研究にわりと丁寧に付き合ってきた稲葉さんがあえて「コーポレート・ガバナンス」というところもポイントだとは思う。
大きく言えば、本書の中にも書いているが、政治学が経済学を下位に置こうととしながら、逆に経済学の下位に置かれてしまったという状況を前提として、「政治」と「経済」を考え直すというのがこの本の大きいテーマであろうと思う。だから、いわゆるギフト・エコノミー的なものはほとんど出てこないし、非営利的なコーポレーションも出てこない。ここが「協同」とか「連帯」という言葉が出てこない原因でもある。それは第9章で宗教のアンビバレントな扱い方にも見えてくる。この辺りはそもそも「宗教」がキリスト教的な古い概念で考えられてるなあという感じもするし、十分に論じられているとは思えない。だが、稲葉さんの懐疑の精神についてはこの章を読むだけでも十分に伝わる。宗教というよりは、社会主義などの運動の「べき」論が不毛な結果を生んできた歴史から来る、それ自体は全うな警戒心ではあるのだが。
この本を読んで、じゃあ見通しが良くなるかと言えば、うーん、分からん。少なくとも政治学の動向を知らない人が読んでも、地図にはなり得ないと思う。具体的に言うと、たとえば、政治学のなかでは新しい社会運動という、もうそれ自体古くなってしまった研究領域や、住民参加のまちづくりなどの領域があり、さらにはそこに専門職がどのようにかかわるかなど、それは学際的な要素を含みながら、今なお重要なテーマであろう。これは稲葉さんが最後でいう地方政治、コーポレート・ガバナンス、労使関係と陸続きなのだが、そういうことは書いてないので、いきなりは分からない。だから、高校の公民科レベルの知識がないというのはちょっとした脅し文句で、基本的には一回入門してなんとなく政治学が分かった人が、もう一回政治を考えてみようというくらいじゃないとしんどい。ただ、この政策作成プロセスへの参加という論点になると、実は社会学が貢献する余地がかなり出てくるのだが、本書はその手前で終わっている(し、そのこと自体は悪いことでもない)。
中公新書には、飯尾潤『日本の統治構造』、清水唯一朗『近代日本の官僚』、門松秀樹『明治維新と幕臣』、岡田一郎『革新自治体』などの基本書がそろっているので、それだけで現実的な日本政治を考える際には既に見通しが良い。思想では宇野重規『保守主義とは何か』が出たので、これと稲葉さんの本を新書で出そうとしてたのだから、さすがである。ただ、今回の稲葉さんの本はこれらに比べると、オリジナルな思考というか、自分で考えなおすというのが強く出ており、やはり分量だけでなく、その内実からも叢書にせざるを得なかっただろう。
冒頭で「右も左もわからぬ若い学生さんよりは、大学を出てからしばらく経って、仕事と家庭で難渋し、テレビで見るだけでなく実際にわが身に降りかかる政治の不条理に少しばかり慨嘆して、学問というもののありがたみが少しばかり身に染みてきた、向学心のある社会人の皆さんの方が、本書を楽しんでいただけるだろう」と書いてある。こういう記述を読むと、普通の人は「えっ?」と戸惑われるかもしれない。稲葉さんの本はかつては「ヘタレ・インテリ」による「ヘタレ・インテリ」のためという趣向で書かれていた。普通の人には何を言っているか分からないと思うが、ある種の斜めに構えた自虐的な毒っ気があって、その名残がたまに出る。とはいえ、稲葉さん自身は『不平等との闘い』以降、というか、東日本大震災以降、かなり真っ直ぐに語るようになられたと思う。ただその補正具合はここら辺が限度、つまり正面を向き切らないというところが懐疑の精神とも繋がっているのだ。
「政治」について、あるいは「運動」や「労働」について考える皆さんには、間違いなく刺激になるところが多いと思うので、ぜひ頑張って読んでみてほしいと思う。大切なのは、多くのことを知るのではなく、自分なりの経験や知識をもとに考えてみることだ。稲葉さんの本の大事な美点は「楽しんでいただける」という娯楽性を忘れていない点で、難しいので全部を理解するのはできないかもしれないけれども、頑張った先に楽しめる境地は確実にあるし、それは頂上まで登らなければ味わえないわけでもない。
やはり世代差というのを強く感じた。もちろん、稲葉さんと私では一回り以上、もっと離れているのだが、別に我々の方が若いから稲葉は古いなどというバカなことをいうつもりはない。むしろ、まったく逆で、我々後進のものには書けないなと思ったのである。というのも、稲葉さんは東西冷戦体制の中でアカデミックなトレーニングを受けて、その途中でその体制自体が崩壊し、それに伴って崩壊していった学者も横で見ている。それはその時代に居合わせなければ経験しえないものである。
身もふたもない言い方をするが、日本の社会政策という研究領域は、領域社会学が生まれる以前から存在しており、その時代からの伝統である社会調査および歴史研究によって今なお命脈を保っている。大河内以降、というよりは、より広く日本資本主義論争以降のマルクス経済学が没落しても大して変わらないのはそういう理由による。私はこのポスト・マルクス主義の共通言語の必要性をずっと言ってきて、それはどの領域でも一定の賛成を得られるのだが、実行に移すとなると難しい。それに何より、やはりマルクス主義諸学と決別するにせよ、あるいは現代的にリニューアルするにせよ、ギリギリ稲葉さん世代までのマルクス諸学を潜り抜けてきた人たちがやるしかないのではないか、という気がした。実際、稲葉さんの仕事はそういう性格が強くある。
今回の『政治の理論』は、岩田正美先生の『社会福祉のトポス』と案外、平仄が合っていて、稲葉さんが言う「有産者市民」というのは岩田先生のいう「一般化」の対象と重なっている。ここでいう一般化とは一般的な労働・生活様式を安定的に維持することを目的として、獲得される社会福祉というか政策のトポスを得るためのロジックである(ありていにいえば、多くの人が対象となって、予算が要求される政策である)。だが、一般化の議論だけでは、特定化のロジックを取り込むことはできない。この隘路をどうクリアするのかは難しい。有産、無産という言い方にこだわるならば、無産から抜け出すことが出来ない人をどのように組み込むのかということでもある(実際には特殊化の対象はもう少し様々なフェーズに分かれる)。ただ、無産者という言葉をスタートに、雇用社会を解き明かしていくのは稲葉さんのオリジナルな論じ方だろう。だから、6章、7章は稲葉さんの資本主義論である。
アーレントとフーコーを足掛かりにして、経済学・社会学の最新の知見を踏まえと、謳い文句にはあるが、本書にはほとんど社会学は出てこない。社会構築主義の話が一行出てくるくらいで、ほとんど影響はないし、『社会学入門』の最後で重視したマートンの中範囲の理論はさらっと登場させる余地はあったと思うし、登場させていれば、二つの本の連絡が出来ていてよい感じだったと思うけれど、登場していない。それには理由があって、この本は冒頭で規範的政治理論と実証的政治理論を区分して、前者に立つと明言して、そもそも「政治」とは何かを考察することになっているのだが、その試みは実際は政治経済学の復権であろうと思う。そこにはあまり社会学の入り込む余地はない。
ちなみに、日本でも戦後、政治学と経済学を結び付けようという動きがあって、たとえば猪木正道先生(河合栄治郎の弟子)は成蹊大学の政治経済学部を作るのに尽力した(が、60年代の改組で政治経済学部はなくなっている)。猪木、関嘉彦といった社会主義右派の河合学統は、政治学に流れて行ってしまい、しかも、河合事件の影響もあって、大河内ら社会政策組と交わることはなかった。これも日本の社会政策が政治学、行政学系の政策科学とあまり交差しなかった原因の一つであろう。思いついたので、忘れないうちに書いておく。
話を元に戻す。この本全体を貫いている前提は、フーコーの統治論を媒介に、政治の意味を拡張させるという姿勢である(アーレントの「政治」が狭いというのはここで召喚される)。端的に「コーポレート・ガバナンス」と表現しているが、これはいわゆる企業統治のことではなく、コーポレートは広く法人を意味しており、法人をどう統治するのかというほどの意味である。こうした意味で「政治」を使っていたのは濱口さんかなと思う。広田(照幸)理論科研のときの講演はそういう含みがあった。ただ、文脈によっては狭い意味での政治活動(ロビーイングによる政策の実現)などで使う。稲葉さんと私の日教組まわりの話のエントリは後者の意味である。個人的なことを言えば、労使関係研究にわりと丁寧に付き合ってきた稲葉さんがあえて「コーポレート・ガバナンス」というところもポイントだとは思う。
大きく言えば、本書の中にも書いているが、政治学が経済学を下位に置こうととしながら、逆に経済学の下位に置かれてしまったという状況を前提として、「政治」と「経済」を考え直すというのがこの本の大きいテーマであろうと思う。だから、いわゆるギフト・エコノミー的なものはほとんど出てこないし、非営利的なコーポレーションも出てこない。ここが「協同」とか「連帯」という言葉が出てこない原因でもある。それは第9章で宗教のアンビバレントな扱い方にも見えてくる。この辺りはそもそも「宗教」がキリスト教的な古い概念で考えられてるなあという感じもするし、十分に論じられているとは思えない。だが、稲葉さんの懐疑の精神についてはこの章を読むだけでも十分に伝わる。宗教というよりは、社会主義などの運動の「べき」論が不毛な結果を生んできた歴史から来る、それ自体は全うな警戒心ではあるのだが。
この本を読んで、じゃあ見通しが良くなるかと言えば、うーん、分からん。少なくとも政治学の動向を知らない人が読んでも、地図にはなり得ないと思う。具体的に言うと、たとえば、政治学のなかでは新しい社会運動という、もうそれ自体古くなってしまった研究領域や、住民参加のまちづくりなどの領域があり、さらにはそこに専門職がどのようにかかわるかなど、それは学際的な要素を含みながら、今なお重要なテーマであろう。これは稲葉さんが最後でいう地方政治、コーポレート・ガバナンス、労使関係と陸続きなのだが、そういうことは書いてないので、いきなりは分からない。だから、高校の公民科レベルの知識がないというのはちょっとした脅し文句で、基本的には一回入門してなんとなく政治学が分かった人が、もう一回政治を考えてみようというくらいじゃないとしんどい。ただ、この政策作成プロセスへの参加という論点になると、実は社会学が貢献する余地がかなり出てくるのだが、本書はその手前で終わっている(し、そのこと自体は悪いことでもない)。
中公新書には、飯尾潤『日本の統治構造』、清水唯一朗『近代日本の官僚』、門松秀樹『明治維新と幕臣』、岡田一郎『革新自治体』などの基本書がそろっているので、それだけで現実的な日本政治を考える際には既に見通しが良い。思想では宇野重規『保守主義とは何か』が出たので、これと稲葉さんの本を新書で出そうとしてたのだから、さすがである。ただ、今回の稲葉さんの本はこれらに比べると、オリジナルな思考というか、自分で考えなおすというのが強く出ており、やはり分量だけでなく、その内実からも叢書にせざるを得なかっただろう。
冒頭で「右も左もわからぬ若い学生さんよりは、大学を出てからしばらく経って、仕事と家庭で難渋し、テレビで見るだけでなく実際にわが身に降りかかる政治の不条理に少しばかり慨嘆して、学問というもののありがたみが少しばかり身に染みてきた、向学心のある社会人の皆さんの方が、本書を楽しんでいただけるだろう」と書いてある。こういう記述を読むと、普通の人は「えっ?」と戸惑われるかもしれない。稲葉さんの本はかつては「ヘタレ・インテリ」による「ヘタレ・インテリ」のためという趣向で書かれていた。普通の人には何を言っているか分からないと思うが、ある種の斜めに構えた自虐的な毒っ気があって、その名残がたまに出る。とはいえ、稲葉さん自身は『不平等との闘い』以降、というか、東日本大震災以降、かなり真っ直ぐに語るようになられたと思う。ただその補正具合はここら辺が限度、つまり正面を向き切らないというところが懐疑の精神とも繋がっているのだ。
「政治」について、あるいは「運動」や「労働」について考える皆さんには、間違いなく刺激になるところが多いと思うので、ぜひ頑張って読んでみてほしいと思う。大切なのは、多くのことを知るのではなく、自分なりの経験や知識をもとに考えてみることだ。稲葉さんの本の大事な美点は「楽しんでいただける」という娯楽性を忘れていない点で、難しいので全部を理解するのはできないかもしれないけれども、頑張った先に楽しめる境地は確実にあるし、それは頂上まで登らなければ味わえないわけでもない。
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