2017年06月25日 (日)
先日来、友人の酒井泰斗さんのツイートで知ったWorkFlowyを使っている。その使い方を知るために、概説書をいくつか読んでみた。私は大学生から院生にかけて、よく知的生産術関係の本を読んでいて、どうやって研究すればよいのかということを自分なりに考えてきた。ある程度、方法が確立したら、あまりそういうものを読まないので、今回は久しぶりにそういうものを読んだ。完全に浦島太郎であった。この分野はどうやら今はネット上ではライフ・ハックという名前で展開している。今でも本屋の棚で使われている昔からの言葉でいえば、仕事術といったところだろうか。
それでいくつかの本を読んだのだが、私が読むべきだと思ったのは二冊。とりわけ、その中でもすごかったのはTak.さんの『アウトライナー実践入門』である。それから、Tak.さんも自分の本と補完する形で位置づけている彩郎さんの『クラウド時代の思考ツールWorkFlowy入門』である。私がわざわざエントリを立ち上げた理由は二つあって、一つは『アウトライナー実践入門』のアマゾン評価が一つだけあるのだが、低すぎること。もう一つは、この6月中はキャンペーン中で『クラウド時代の思考ツールWorkFlowy入門』がKindleで500円になっていることである(先月、買ったばかりなのに!まあ、それでもその価値は十分あった)。
『アウトライナー実践入門』にははっきり言って蒙を啓かれた。この本はもちろん、必要最低限のソフトウェアの使い方も説明しているのだが、いわゆる解説本ではなく、それがアウトライナーの性格を考察する上で、必要な素材として登場している。実際、詳しい使い方については『WorkFlowy入門』やその著者のブログなどを紹介して、そちらに譲っている。だから、これは知の道具としてのアウトライナーを徹底的に考察したものである。
この本の中で、ああそういうことかと分かったのは、Wordのようなソフトは文書を最終的に仕上げることが念頭に置かれていて、アウトラインモードもアウトプット段階が想定されているのに対し、アウトライナーは文書を書く前の準備作業的な段階で活躍するということだった(5.1)。結論だけ言えば、そういうことになるのだが、この本が面白いのは具体的なやり方よりも、そのソフトウェアの設計思想的な面を掘り下げていることにある。こういうタイプの本は日本では実はあまりなかったのではないかと思う。
ざっと見た感じでは、著者はおそらく40代後半から50代前半くらいで、90年代から20数年間の(IT関連?の)仕事での経験、それから、いわゆる日本の知的生産の技術関係の本や英語のハウツー本を読んでいるのではないかと思う。80年代くらいの記述が同時代的な観察なのか、それとも本から得た知識を披露されているのか、私には判断がつかなかったが、90年代以降はかなり同時代的観察だと思う。ソフトの発展に付き合ってきたユーザーであることは間違いない。ご自分で技術がないという書き方をされているので、おそらくはプロジェクトマネジャーになって、プログラムの一線からは下がられて、管理をされているのかなというのが私の想像である。
こういうタイプの本は、実は20年くらい前にはほとんどなかった。もともと『知的生産の技術』以前のノウハウは、どうしても心構えの話から切り離しがたく、そこをドライにばっさり言ったのが梅棹先生の革新的なところだった。その後、こういうものは学者やジャーナリストのような、お金をもらって文章を書くという意味で、プロの人たちが書くものしかなかった。他方で、ガイドブックも入門レベルの操作ガイドというものが圧倒的に多かったと思う。これはPC関連だけでなく、ハウツーもの全般に言える日本の特徴で、入門書から次のステップに行く本がどの分野でも手薄になりがちである。そこはさすがプラグマティズムの国、アメリカはもういいよ、というくらい原理的なことも書いてある。
自分の仕事経験とそれを考察するための勉強をらせん状のように、少なく見積もっても20数年以上、繰り返して深めてきた人が惜しげもなく、そのノウハウを披露しているというのがこの本の魅力である。たとえば、さらっと、官公庁の文書を読むときに、その文書を取り込んだら、筋が読みやすくなったと書いてある。官公庁の文書は、たとえば白書の概要をみれば分かるが、非常にポイントを絞って、よくまとめられている。ただ、これはこういうものに慣れたら読めるのであって、そのためにこういう読み方があるのか、ということが勉強になる。実は、これは結構重要なことで、かつて小河原誠さんが『読み書きの技法』ちくま新書という名著を書かれたのだが、読むことと書くことを一体の技術として掘り下げられていた。おそらく著者は経験から学んだことをさらっと書いているだけなのだが、実は、この経験から学んだことが原理的に考え抜かれたこととズレていない、というのがこの本の面白いところである。一つ一つ解析してもいいが、そんなものを読むより、ぜひこの本を読んで欲しい。
しかも、すごいのは徹底していることだ。一つは、これまたさらっと、お勧めはしませんが、私は本を全文書き写したこともあります、と書いてある。わざわざ書いてあるというのは、それが完全に無駄な経験だと著者が思っていないことを表していて、しかし、忙しい人たちにそれを勧めるのは現実的ではない、ということを承知しているのである。逆に言えば、これを読んでやってみようという人は感覚の優れた人たちである。写経的方法は案外と功徳があって、論理を追えるだけでなくて、それを書いた人の文章の生理のようなものが分かる。現代では、浅田次郎が三島由紀夫の小説をかつてすべて書き写して、文章修行したことが有名かもしれない。私も昔、尊敬する先生の博士論文の序章を書き写したことがあるし、読めない資料を頭から書き写していったことがある。頭で理解できないときは手を動かすというのは大事な経験則だと思っている。
もう一つ、圧巻なのは文書作成のプロセスを詳細に具体例で示しているようである。おそらくレポート指南の本でもここまでプロセスに降りて丁寧に議論しているものはない。本多勝一の『日本語の作文技術』のなかの文章を細かく切り刻んで分析したり、丸谷才一の『文章読本』における大岡昇平の文章を素材にしたレトリックの解析などはあっても、プロセスを追って思考が深まっていくというのはなかなか見れるものではない。本書の「3.1メモを組み立てて文章化する」とPart7の「フリーライティングから文章化する」は必読である。
あと、こういうタイプの本の常として、対談や鼎談が利用されており、それもまた有益な視点を提供している。いろいろあるんだな、というのが分かるので。
とにかく読んで、使ってみて下さい。あとで、三段落目からこの直前までをアマゾンのレビューにコピペしておきます。
それでいくつかの本を読んだのだが、私が読むべきだと思ったのは二冊。とりわけ、その中でもすごかったのはTak.さんの『アウトライナー実践入門』である。それから、Tak.さんも自分の本と補完する形で位置づけている彩郎さんの『クラウド時代の思考ツールWorkFlowy入門』である。私がわざわざエントリを立ち上げた理由は二つあって、一つは『アウトライナー実践入門』のアマゾン評価が一つだけあるのだが、低すぎること。もう一つは、この6月中はキャンペーン中で『クラウド時代の思考ツールWorkFlowy入門』がKindleで500円になっていることである(先月、買ったばかりなのに!まあ、それでもその価値は十分あった)。
『アウトライナー実践入門』にははっきり言って蒙を啓かれた。この本はもちろん、必要最低限のソフトウェアの使い方も説明しているのだが、いわゆる解説本ではなく、それがアウトライナーの性格を考察する上で、必要な素材として登場している。実際、詳しい使い方については『WorkFlowy入門』やその著者のブログなどを紹介して、そちらに譲っている。だから、これは知の道具としてのアウトライナーを徹底的に考察したものである。
この本の中で、ああそういうことかと分かったのは、Wordのようなソフトは文書を最終的に仕上げることが念頭に置かれていて、アウトラインモードもアウトプット段階が想定されているのに対し、アウトライナーは文書を書く前の準備作業的な段階で活躍するということだった(5.1)。結論だけ言えば、そういうことになるのだが、この本が面白いのは具体的なやり方よりも、そのソフトウェアの設計思想的な面を掘り下げていることにある。こういうタイプの本は日本では実はあまりなかったのではないかと思う。
ざっと見た感じでは、著者はおそらく40代後半から50代前半くらいで、90年代から20数年間の(IT関連?の)仕事での経験、それから、いわゆる日本の知的生産の技術関係の本や英語のハウツー本を読んでいるのではないかと思う。80年代くらいの記述が同時代的な観察なのか、それとも本から得た知識を披露されているのか、私には判断がつかなかったが、90年代以降はかなり同時代的観察だと思う。ソフトの発展に付き合ってきたユーザーであることは間違いない。ご自分で技術がないという書き方をされているので、おそらくはプロジェクトマネジャーになって、プログラムの一線からは下がられて、管理をされているのかなというのが私の想像である。
こういうタイプの本は、実は20年くらい前にはほとんどなかった。もともと『知的生産の技術』以前のノウハウは、どうしても心構えの話から切り離しがたく、そこをドライにばっさり言ったのが梅棹先生の革新的なところだった。その後、こういうものは学者やジャーナリストのような、お金をもらって文章を書くという意味で、プロの人たちが書くものしかなかった。他方で、ガイドブックも入門レベルの操作ガイドというものが圧倒的に多かったと思う。これはPC関連だけでなく、ハウツーもの全般に言える日本の特徴で、入門書から次のステップに行く本がどの分野でも手薄になりがちである。そこはさすがプラグマティズムの国、アメリカはもういいよ、というくらい原理的なことも書いてある。
自分の仕事経験とそれを考察するための勉強をらせん状のように、少なく見積もっても20数年以上、繰り返して深めてきた人が惜しげもなく、そのノウハウを披露しているというのがこの本の魅力である。たとえば、さらっと、官公庁の文書を読むときに、その文書を取り込んだら、筋が読みやすくなったと書いてある。官公庁の文書は、たとえば白書の概要をみれば分かるが、非常にポイントを絞って、よくまとめられている。ただ、これはこういうものに慣れたら読めるのであって、そのためにこういう読み方があるのか、ということが勉強になる。実は、これは結構重要なことで、かつて小河原誠さんが『読み書きの技法』ちくま新書という名著を書かれたのだが、読むことと書くことを一体の技術として掘り下げられていた。おそらく著者は経験から学んだことをさらっと書いているだけなのだが、実は、この経験から学んだことが原理的に考え抜かれたこととズレていない、というのがこの本の面白いところである。一つ一つ解析してもいいが、そんなものを読むより、ぜひこの本を読んで欲しい。
しかも、すごいのは徹底していることだ。一つは、これまたさらっと、お勧めはしませんが、私は本を全文書き写したこともあります、と書いてある。わざわざ書いてあるというのは、それが完全に無駄な経験だと著者が思っていないことを表していて、しかし、忙しい人たちにそれを勧めるのは現実的ではない、ということを承知しているのである。逆に言えば、これを読んでやってみようという人は感覚の優れた人たちである。写経的方法は案外と功徳があって、論理を追えるだけでなくて、それを書いた人の文章の生理のようなものが分かる。現代では、浅田次郎が三島由紀夫の小説をかつてすべて書き写して、文章修行したことが有名かもしれない。私も昔、尊敬する先生の博士論文の序章を書き写したことがあるし、読めない資料を頭から書き写していったことがある。頭で理解できないときは手を動かすというのは大事な経験則だと思っている。
もう一つ、圧巻なのは文書作成のプロセスを詳細に具体例で示しているようである。おそらくレポート指南の本でもここまでプロセスに降りて丁寧に議論しているものはない。本多勝一の『日本語の作文技術』のなかの文章を細かく切り刻んで分析したり、丸谷才一の『文章読本』における大岡昇平の文章を素材にしたレトリックの解析などはあっても、プロセスを追って思考が深まっていくというのはなかなか見れるものではない。本書の「3.1メモを組み立てて文章化する」とPart7の「フリーライティングから文章化する」は必読である。
あと、こういうタイプの本の常として、対談や鼎談が利用されており、それもまた有益な視点を提供している。いろいろあるんだな、というのが分かるので。
とにかく読んで、使ってみて下さい。あとで、三段落目からこの直前までをアマゾンのレビューにコピペしておきます。
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2017年06月25日 (日)
濱口先生から問題提起をいただいたのですが、すっかりお返事がおそくなりました。すみません。
私はこの日本で「公正」という概念を探求することに意味があるとは考えません。それは公正という概念が法学や思想の言葉であったり、あくまでヨーロッパ由来の概念で、それが多くの日本人の思考様式に定着しているとも思えないからです。もう少し範囲を限定した「公正な賃金」についても、それを原理的に探求することが重要だとはまったく思いません。ただし、これはあくまで日本では、という限定つきの話です。
結論だけ言ってしまえば、公正は常に目指しておくべきものであって、公正な賃金はあくまで社会において公正が達成できた後に賃金として具体化するのであって、賃金を変えれば、社会の公正が達成するというのは、賃金制度を変えれば経営改革が実現できると考えるのと同様に倒錯した話で、そのようなあるべき「公正な賃金」は少なくとも私は存在しないと考えています。もちろん、その達成すべき公正に向かうための順番としてパターンセッターに賃金が来てもいいわけですが、個人的にそれは難しかろうと感じています。
1970年代、福祉国家の見直しが行われた時期に、社会政策の見直しも行われ、その中で香川大学の木村正身先生が「労働条件と福祉条件」という論文を書かれました。その最後の結論が生活ニードの充足または福祉は反福祉状態からの回復というネガティブな形で具体的に検証されるとしました。この考え方は、実はここだけではなく、日本人の「権利」理解にも通ずるところがあります。それは権利が侵害されている反権利状態において、はじめて権利の意味が理解されると言い換えることが出来るでしょう。私は正直、驚いたのですが、わりと尊敬する友人も権利をそのように教えているという話でした。これは裏返すと、「権利」というと左派が文句を言っていてうんざりするという反応になるわけです。
しかし、ヨーロッパでは最大保守のカトリックのカテキズムのなかにも、というよりは、カテキズムのなかにこそ「人権」概念の説明があります。私自身はカトリックではないですが、カトリック的な思想はわりと好きなので、抵抗感はありません。なぜ、カトリックの話を出したかと言えば、人知を越える秩序(もちろん自然法も深く関わっています)が、現在、それを信じるか信じないかは別に、思想的に脈々と受け継がれているからです。本当はそこに体験しているかいないかという軸もあり得るのですが、それは除外しておきます。なお、第二バチカン公会議ではカトリックは他宗教のうちにみえる真理のあり方も認めるようになりましたし、キリスト教からもジョン・ヒックのような宗教多元主義も出て、スピリチュアリティを重視する立場はわりと広く見られます(日本でも宗教者災害支援連絡会はこうした理念を共有していると言えましょう)。
もちろん、その普遍的な意味を重視しない立場もあり得るわけで、尾高朝雄の「法哲学における形而上学と経験主義」はその一つです。端的に言うと、尾高は経験は誤ることもあるのだから、正しい経験に上書きすればよいという相対主義を提示していて、その論理だったら自然法はいらなくなるし、実際いらなくなると言っています。ただ、自然法というか、キリスト教における経験とは元来、ある種の神秘体験、絶対的な体験を意味していたのだろうと思うので尾高的な議論が正しいとも思わないのですが、この現代の法治国家においては、尾高の方が現実的でしょう。我々は自然法の思想的流れを引き継ぐコモンローで、いかに妻が夫の従属物であると言われても、まったく説得されないわけです。こういうのは男女の性的役割分業や多様な性のあり方を問い直してきたジェンダー研究や、作られた意味の問い直しをしてきた社会構築主義に多くを学ぶことが出来るでしょう。
ここで終わると話が進まないので「公正な賃金」にうつりますが、結局、相対的にどう納得させるのかという話に過ぎません。相対的価値観を前提とした世界のなかで、どれだけ多くの人を納得させるロジックを持てるのか、というコトになると思います。そして、濱口先生が考えているのはこの意味での労働組合が人々を納得させる賃金の主張をするということでしょう。ただ、今のところ、公正の概念は、権利が毀損されている状態の人を通じてだけしか持ち得ません。この場合、多くの人が気の毒だなと認める場合には、そういう共通了解が得られやすいのですが、それが回復されるべき権利という思想信条によってなされるのか、たんに気の毒な状態を誰もが見たくないだけなのか、よく分かりません。
日本にも比較的広まっている「公正な賃金」に近い考え方にフェア・トレードがあります。これはイギリスで始まった発展途上国からの商品にちょっと高めにお金を払って、そのお金で彼らの所得(賃金だけではないので)を向上させようという考え方です。どれだけその理念に賛同しているかは別にして、東京にいれば、フェア・トレードを掲げたコーヒーを飲むことも珍しくはありません(というか、説明書きを読まないと気づかない)。でも、これも突き詰めれば、国際的な児童労働においては子供たちが福祉を毀損されている状態に対しての異議申し立てであり、それを他者を糾弾するのではなく、連帯の力で変えていこうという話です。
連合の須田さんも公正な賃金などないとおっしゃっています。その言いたいところをまとめると、最初から公正な賃金などというものが存在するのではなく、みんなで納得が出来る賃金を作っていくしかないんだということです。須田さんは別に尾高の論文なんか読んでないと思いますが、結果的に彼の理念に近いことをやっています。
それでもなぜ「同一労働同一賃金」という言葉に多くの人が引きつけられるのでしょうか。同一労働同一賃金という言葉が一体何を指し示すのかというのは昔から議論があったところで、なかにはそういう曖昧な表現が良くないから、同一価値労働同一賃金と言うべきだという主張もありました。しかし、結局、今でも人々の間に残っているのは「同一労働同一賃金」という表現です。それは男女差別を解消する、後に人種差別を解消する、差別という社会的な不公正を解決する、そういう理念として受け取られてきたからです。
昔、何十年も前、ある大物政治家が予算を持ってきてこれで保母さんたちの賃金を上げてくれ、やりかたはお前たちに任せるといってきたそうです。当時の担当の方たちは、彼女たちの賃金を上げようと工夫しますが、結局、他の公務員とのバランスで、大して上げられないで終わってしまったそうです。その話を聞いたときに、賃金論なんかに意味があるのかということを言われたのですが、それに対して、私は意味なんかないですよとお答えしました。ただ、一つ言えるのは、賃金を変えて社会を変えようとするのは社会改革である。社会改革をやると思って漸進的にやるしかない、と。
思想というのは、そんなに複雑なものは不要なんです。敵を含めた他者へのコンパッション(愛情といってもいいですが)と社会をよくしようという社会改良主義を胸に秘めていれば、それで十分です。あとは最後まで投げない根気じゃないですか。
このようにまとめてしまうと、ずっと議論してきた年功的な賃金(ないし職能資格給)的な世界だけで成立していかなくなっているのに、それに代替する制度(たとえば、職務分析にもとづく職務給ないし職種給)について論じていないではないかと言われそうです。まあ、しかし、その問題はその問題で重要なのですが、持続可能性を担保してどのように制度を考えていけばよいのか、その設計思想にはどういうものがふさわしいのかという議論は、別に公正な賃金論とは関係ないんですね。
それについての私の考えは、約めて言えば、賃金だけで考えていても仕方ない、社会保障もセットで考えなければならない、地方単位ではなく国家単位で考える必要がある(シビル・ミニマムではなく、ナショナル・ミニマムで)、ということですが、これ、もういろんなところで書いているし、言っても来たので、今回は繰り返しません。一つだけ、日本的雇用システムを補完する財形貯蓄はいいんですか?と、組合と経営者の労使だけが制度を作ってきたわけじゃないですよね、と確認しておきたいと思います。
私はこの日本で「公正」という概念を探求することに意味があるとは考えません。それは公正という概念が法学や思想の言葉であったり、あくまでヨーロッパ由来の概念で、それが多くの日本人の思考様式に定着しているとも思えないからです。もう少し範囲を限定した「公正な賃金」についても、それを原理的に探求することが重要だとはまったく思いません。ただし、これはあくまで日本では、という限定つきの話です。
結論だけ言ってしまえば、公正は常に目指しておくべきものであって、公正な賃金はあくまで社会において公正が達成できた後に賃金として具体化するのであって、賃金を変えれば、社会の公正が達成するというのは、賃金制度を変えれば経営改革が実現できると考えるのと同様に倒錯した話で、そのようなあるべき「公正な賃金」は少なくとも私は存在しないと考えています。もちろん、その達成すべき公正に向かうための順番としてパターンセッターに賃金が来てもいいわけですが、個人的にそれは難しかろうと感じています。
1970年代、福祉国家の見直しが行われた時期に、社会政策の見直しも行われ、その中で香川大学の木村正身先生が「労働条件と福祉条件」という論文を書かれました。その最後の結論が生活ニードの充足または福祉は反福祉状態からの回復というネガティブな形で具体的に検証されるとしました。この考え方は、実はここだけではなく、日本人の「権利」理解にも通ずるところがあります。それは権利が侵害されている反権利状態において、はじめて権利の意味が理解されると言い換えることが出来るでしょう。私は正直、驚いたのですが、わりと尊敬する友人も権利をそのように教えているという話でした。これは裏返すと、「権利」というと左派が文句を言っていてうんざりするという反応になるわけです。
しかし、ヨーロッパでは最大保守のカトリックのカテキズムのなかにも、というよりは、カテキズムのなかにこそ「人権」概念の説明があります。私自身はカトリックではないですが、カトリック的な思想はわりと好きなので、抵抗感はありません。なぜ、カトリックの話を出したかと言えば、人知を越える秩序(もちろん自然法も深く関わっています)が、現在、それを信じるか信じないかは別に、思想的に脈々と受け継がれているからです。本当はそこに体験しているかいないかという軸もあり得るのですが、それは除外しておきます。なお、第二バチカン公会議ではカトリックは他宗教のうちにみえる真理のあり方も認めるようになりましたし、キリスト教からもジョン・ヒックのような宗教多元主義も出て、スピリチュアリティを重視する立場はわりと広く見られます(日本でも宗教者災害支援連絡会はこうした理念を共有していると言えましょう)。
もちろん、その普遍的な意味を重視しない立場もあり得るわけで、尾高朝雄の「法哲学における形而上学と経験主義」はその一つです。端的に言うと、尾高は経験は誤ることもあるのだから、正しい経験に上書きすればよいという相対主義を提示していて、その論理だったら自然法はいらなくなるし、実際いらなくなると言っています。ただ、自然法というか、キリスト教における経験とは元来、ある種の神秘体験、絶対的な体験を意味していたのだろうと思うので尾高的な議論が正しいとも思わないのですが、この現代の法治国家においては、尾高の方が現実的でしょう。我々は自然法の思想的流れを引き継ぐコモンローで、いかに妻が夫の従属物であると言われても、まったく説得されないわけです。こういうのは男女の性的役割分業や多様な性のあり方を問い直してきたジェンダー研究や、作られた意味の問い直しをしてきた社会構築主義に多くを学ぶことが出来るでしょう。
ここで終わると話が進まないので「公正な賃金」にうつりますが、結局、相対的にどう納得させるのかという話に過ぎません。相対的価値観を前提とした世界のなかで、どれだけ多くの人を納得させるロジックを持てるのか、というコトになると思います。そして、濱口先生が考えているのはこの意味での労働組合が人々を納得させる賃金の主張をするということでしょう。ただ、今のところ、公正の概念は、権利が毀損されている状態の人を通じてだけしか持ち得ません。この場合、多くの人が気の毒だなと認める場合には、そういう共通了解が得られやすいのですが、それが回復されるべき権利という思想信条によってなされるのか、たんに気の毒な状態を誰もが見たくないだけなのか、よく分かりません。
日本にも比較的広まっている「公正な賃金」に近い考え方にフェア・トレードがあります。これはイギリスで始まった発展途上国からの商品にちょっと高めにお金を払って、そのお金で彼らの所得(賃金だけではないので)を向上させようという考え方です。どれだけその理念に賛同しているかは別にして、東京にいれば、フェア・トレードを掲げたコーヒーを飲むことも珍しくはありません(というか、説明書きを読まないと気づかない)。でも、これも突き詰めれば、国際的な児童労働においては子供たちが福祉を毀損されている状態に対しての異議申し立てであり、それを他者を糾弾するのではなく、連帯の力で変えていこうという話です。
連合の須田さんも公正な賃金などないとおっしゃっています。その言いたいところをまとめると、最初から公正な賃金などというものが存在するのではなく、みんなで納得が出来る賃金を作っていくしかないんだということです。須田さんは別に尾高の論文なんか読んでないと思いますが、結果的に彼の理念に近いことをやっています。
それでもなぜ「同一労働同一賃金」という言葉に多くの人が引きつけられるのでしょうか。同一労働同一賃金という言葉が一体何を指し示すのかというのは昔から議論があったところで、なかにはそういう曖昧な表現が良くないから、同一価値労働同一賃金と言うべきだという主張もありました。しかし、結局、今でも人々の間に残っているのは「同一労働同一賃金」という表現です。それは男女差別を解消する、後に人種差別を解消する、差別という社会的な不公正を解決する、そういう理念として受け取られてきたからです。
昔、何十年も前、ある大物政治家が予算を持ってきてこれで保母さんたちの賃金を上げてくれ、やりかたはお前たちに任せるといってきたそうです。当時の担当の方たちは、彼女たちの賃金を上げようと工夫しますが、結局、他の公務員とのバランスで、大して上げられないで終わってしまったそうです。その話を聞いたときに、賃金論なんかに意味があるのかということを言われたのですが、それに対して、私は意味なんかないですよとお答えしました。ただ、一つ言えるのは、賃金を変えて社会を変えようとするのは社会改革である。社会改革をやると思って漸進的にやるしかない、と。
思想というのは、そんなに複雑なものは不要なんです。敵を含めた他者へのコンパッション(愛情といってもいいですが)と社会をよくしようという社会改良主義を胸に秘めていれば、それで十分です。あとは最後まで投げない根気じゃないですか。
このようにまとめてしまうと、ずっと議論してきた年功的な賃金(ないし職能資格給)的な世界だけで成立していかなくなっているのに、それに代替する制度(たとえば、職務分析にもとづく職務給ないし職種給)について論じていないではないかと言われそうです。まあ、しかし、その問題はその問題で重要なのですが、持続可能性を担保してどのように制度を考えていけばよいのか、その設計思想にはどういうものがふさわしいのかという議論は、別に公正な賃金論とは関係ないんですね。
それについての私の考えは、約めて言えば、賃金だけで考えていても仕方ない、社会保障もセットで考えなければならない、地方単位ではなく国家単位で考える必要がある(シビル・ミニマムではなく、ナショナル・ミニマムで)、ということですが、これ、もういろんなところで書いているし、言っても来たので、今回は繰り返しません。一つだけ、日本的雇用システムを補完する財形貯蓄はいいんですか?と、組合と経営者の労使だけが制度を作ってきたわけじゃないですよね、と確認しておきたいと思います。
2017年06月18日 (日)
お返事が遅くなってすみません。ある学会報告の要旨を作成するのに英語が必要で、四苦八苦していました。
今から思うと、私の書き方が悪くていくつか、混線があるので、少し整理したいと思います。
第一に、私が批判した「新しい賃金」は連合評価委員会の最終報告です。具体的には、次のように書いてあります。
これが新しい賃金と銘打ちながら、むしろクラシカルな議論になっていて、あたかも新しい賃金であるかのように言うのは嘘である、というのがまず、私の批判です。ただ、これはちょっと、アンビバレントなところがあって、おそらくこれを書いた人たちも、問題提起的な意味で「新しい賃金」という言い方をしたのでしょう。それは濱口先生の『新しい労働社会』がクラシカルな議論のリニューアルという側面がありながら、ラベルとしては「新しい」と銘打ったことと軌を一にしているでしょう。この点ではこの本についての議論をしたときに既に確認してあるので、特にお互いに誤解の余地はありません。
その一方で、「新しい」を真に受けている人が多すぎるのではないか、そして、それはこういう切り取り方、打ち出し方にも問題があるのではないか、というのが私がわざわざ批判した点です。そういう意味では濱口先生の議論をたとえばジョブ型雇用といってもそんなに単純な話じゃないんだよというような留保までは丁寧に読まないで、ジョブ型雇用という概念がやや一人歩きしている気がしますが、そのような誤解は単に勉強不足のパッと出てきた評論家であればそんなのは無視すればよいではないかということでいいのかどうか。
第二点は、たぶん、ここが論点ですが、職能資格給制度の批判の意味です。濱口先生が批判される保守主流の職能資格給批判は、その内容の当否を別にしても、1990年代後半から2000年代前半までは意味があったと考えています。ただ、現在では職能資格給が職務と限定なしの能力の伸長を促進する制度としてではなく、まったく逆に、職務が変わらないならば賃金は上げないという賃下げの道具として利用されるようになってきた、という問題があります。
ここで明らかになったことは、従来、語られてきた濱口先生が批判されている解釈が職能資格給そのものを正確に説明するものではなかったということです。職能資格給は、濱口先生が従来、批判されてきたような解釈のように運用することも出来るし、まったく逆に、能力とは関係なく仕事の配置という意味で、賃下げに利用することも出来ることが確認されたということです。私が変な形で小池先生の議論を擁護したので話がややこしくなりましたが、それは切り離しておきましょう。ここでのポイントは、現在、職能資格給として考えるべきポイントは後者の方で、前者の方については放っておいていい(鉄鋼はじめこうした制度を維持しているところももちろんあります)というのが私の考えです。ただ、ここで前者の性格を批判すると、後者の性格が見えにくくなる。そうすると、結果的に、職能資格給の従来の運用を改め、職務給化=賃下げあるいは賃金ストップをバックアップすることになっている。
濱口先生の議論のフォロワーはここくらいまでしかついてこないで、メンバーシップ型社会からジョブ型社会への転換というところで留まってしまう。いや、ご本人の意図がそこにないことは分かってますよ。昔、議論したように『新しい労働社会』のなかでも重要な点は書かれていて、それをめぐって議論したわけですから。
簡単に言えば、労使関係論抜きの職務型・職種型賃金やジョブ型社会への移行すべき論というのはダメであるということです。ここは評価が難しいところですが、たしかに濱口先生がメンバーシップ型とジョブ型という言い方で、昔ながらの議論をリニューアルしたことで、労働関連の議論は活発になったと思います。ただ、それがあまり深まる方向に行かなかったのではないか、やはり分かりやすいキャッチフレーズは功罪相半ばするのではないか、という気持ちが私の方にはあるんですね。それを活発にするのは労働法の濱口先生ではなく、我々だろうという批判ももちろん、甘んじて受けます。
というか、そもそも論でいうと、濱口先生とはここ数年、何度も議論して、問題提起をしてきました。それを読んでいますという人にはよくお会いするんですが、正直、いやいやあんたは発信しろよ、と思う人もいるわけです。私が一番、最初にあの論争を始めたときも、あの頃、濱口先生は池田信夫氏の分析をいっぱいやっていたのですが、そんなことよりももっと大事なことがあるだろうと思って仕掛けたのです。それに当時博士論文を書き終わったくらいの私がそういうことを始めたら、私でさえ出来るのだから、ハードルが下がって、もっと同じようなことがたくさん起きると思っていたのですが、これは完全に当てが外れました。今回の『労働情報』だって、そういう論争の活発化を狙ったんでしょうけれども、なかなか難しいですね。
第三に、ここから、私が歴史をやっているからこそ、濱口先生に歴史の話をさせてしまったのですが、正味のところ、今、歴史なんかはどうでもいいです。それよりも現在が熱い。多くの皆さんに読んで欲しいのは情報労連のReportに濱口先生が書かれた最新の論稿をはじめとした特集記事です。産業別最賃が重要であるということは既に指摘されていましたが、今回の論稿は働き方改革に絡めて、それをさらに踏み込んで書いています。というか、私、これを読んで、結構、驚いたのですが、情報労連の戦略にかかわるようなことを具体的に指摘されています。おそらく、濱口先生の読みもこのタイミングが一つの勝負どころだということでしょう。
その話の前に、上の話の整理をもう少ししておきましょう。結局、ジョブ型社会論は労使関係論と不可分にあるということです。もちろん、『新しい労働社会』の第4章で私たちが論争したように、というより、私かどうかはともかく、濱口先生は最初から労使関係についての論争になり得る種をあの章に仕込んでいました。それが上からの組織化の話です。しかし、それがあまりにもジョブ型社会ということで、労使関係とは切り離される形で人口に膾炙してしまった。私が本の中でジョブ型をトレード型と言い換えたのにはそういう含意がありました。ただ、一方で、トレードは中核的労働者なので、大企業正社員から零れ落ちる層を捉えるという濱口先生の問題意識からすると、ジョブ型しか表現しようがないかもしれません。
そうはいっても、実は私も現在の労使関係でもっとも重要な論点については濱口先生とまったく同じ考えで、直近でもっとも労使関係の再活性化を行う可能性があるホット・トピックは産別最賃の利用だと思っています。これを労組が戦略としてどう考えていくのか。正直に言うと、今の情報労連には結構、期待しています。機関誌Reportは2016年10月の産別最賃に続いて、2017年6月に再び最賃特集の中で産別最賃を取り上げて特集しています。10月には私もインタビューを受けて、濱口先生と一緒に並びましたが、組織的に産別最賃を戦略的に取り上げようという感じではありませんでした。しかし、今回の特集は、情報労連全体かどうかはともかく、少なくとも機関誌編集部は勝負をかけて来たなと感じています。先ほどのリンクを貼った濱口先生の記事の横のバナーに特集記事が読めるようにリンクされていますので、そちらも全部、読んでください。どれも重要な記事です。
特集の解説を書こうとすると、また時間がかかってしまうので、ここではこの特集の持つ可能性だけ触れておきます。正直な話、ここ数か月は日本の組合の情宣はなぜこんなにダメなのかという話を多くの人に問いかけ、意見交換してきたりしたんですが、今回の情報労連Reportはひょっとしたら、面白いことになるかもしれません。この特集には単に組合員や一般読者だけではなく、執行部、その他産別、連合への問題提起の意図もかなり入っている。しかも、それがWEBの媒体で読める、というのは大きいです。情宣が問題提起して、それを運動に反映させるということが起こり得るのか。今後の情報労連をはじめとした産別の動きにも注目です。こういう問題に関心があるマニアックな方は、つしまさんのツイートもフォローしてください(まあ、でもあんまり注目されると、彼が動きにくくなるかもしれないので、本当に関心のある方だけでお願いします)。
今から思うと、私の書き方が悪くていくつか、混線があるので、少し整理したいと思います。
第一に、私が批判した「新しい賃金」は連合評価委員会の最終報告です。具体的には、次のように書いてあります。
これまでの「会社あっての従業員」という分配論を乗り越え、働く者にとっての「公正な」分配論を積極的に主張し、同一価値労働同一賃金を要求してゆく根拠を確立することになる。「働きに見合った処遇」を得るためには、年功型賃金から職務型・職種型賃金への移行を働くものの視点に立って実現させることが重要である。
それと同時に、生活の視点に立って、生活を保障する全国的なミニマム基準について、社会保障制度等との関連も含め検討し、組合独自に考案することが必要である。こうしたルールの設定は未組織労働者にとっては特に必要であるが、このような底辺をしっかりと支える制度は、組織労働者にとっても重要な意味を持つものである。働く者の視点に立った、新しい賃金のあり方を確立させることは、重要な問題である。
これが新しい賃金と銘打ちながら、むしろクラシカルな議論になっていて、あたかも新しい賃金であるかのように言うのは嘘である、というのがまず、私の批判です。ただ、これはちょっと、アンビバレントなところがあって、おそらくこれを書いた人たちも、問題提起的な意味で「新しい賃金」という言い方をしたのでしょう。それは濱口先生の『新しい労働社会』がクラシカルな議論のリニューアルという側面がありながら、ラベルとしては「新しい」と銘打ったことと軌を一にしているでしょう。この点ではこの本についての議論をしたときに既に確認してあるので、特にお互いに誤解の余地はありません。
その一方で、「新しい」を真に受けている人が多すぎるのではないか、そして、それはこういう切り取り方、打ち出し方にも問題があるのではないか、というのが私がわざわざ批判した点です。そういう意味では濱口先生の議論をたとえばジョブ型雇用といってもそんなに単純な話じゃないんだよというような留保までは丁寧に読まないで、ジョブ型雇用という概念がやや一人歩きしている気がしますが、そのような誤解は単に勉強不足のパッと出てきた評論家であればそんなのは無視すればよいではないかということでいいのかどうか。
第二点は、たぶん、ここが論点ですが、職能資格給制度の批判の意味です。濱口先生が批判される保守主流の職能資格給批判は、その内容の当否を別にしても、1990年代後半から2000年代前半までは意味があったと考えています。ただ、現在では職能資格給が職務と限定なしの能力の伸長を促進する制度としてではなく、まったく逆に、職務が変わらないならば賃金は上げないという賃下げの道具として利用されるようになってきた、という問題があります。
ここで明らかになったことは、従来、語られてきた濱口先生が批判されている解釈が職能資格給そのものを正確に説明するものではなかったということです。職能資格給は、濱口先生が従来、批判されてきたような解釈のように運用することも出来るし、まったく逆に、能力とは関係なく仕事の配置という意味で、賃下げに利用することも出来ることが確認されたということです。私が変な形で小池先生の議論を擁護したので話がややこしくなりましたが、それは切り離しておきましょう。ここでのポイントは、現在、職能資格給として考えるべきポイントは後者の方で、前者の方については放っておいていい(鉄鋼はじめこうした制度を維持しているところももちろんあります)というのが私の考えです。ただ、ここで前者の性格を批判すると、後者の性格が見えにくくなる。そうすると、結果的に、職能資格給の従来の運用を改め、職務給化=賃下げあるいは賃金ストップをバックアップすることになっている。
濱口先生の議論のフォロワーはここくらいまでしかついてこないで、メンバーシップ型社会からジョブ型社会への転換というところで留まってしまう。いや、ご本人の意図がそこにないことは分かってますよ。昔、議論したように『新しい労働社会』のなかでも重要な点は書かれていて、それをめぐって議論したわけですから。
簡単に言えば、労使関係論抜きの職務型・職種型賃金やジョブ型社会への移行すべき論というのはダメであるということです。ここは評価が難しいところですが、たしかに濱口先生がメンバーシップ型とジョブ型という言い方で、昔ながらの議論をリニューアルしたことで、労働関連の議論は活発になったと思います。ただ、それがあまり深まる方向に行かなかったのではないか、やはり分かりやすいキャッチフレーズは功罪相半ばするのではないか、という気持ちが私の方にはあるんですね。それを活発にするのは労働法の濱口先生ではなく、我々だろうという批判ももちろん、甘んじて受けます。
というか、そもそも論でいうと、濱口先生とはここ数年、何度も議論して、問題提起をしてきました。それを読んでいますという人にはよくお会いするんですが、正直、いやいやあんたは発信しろよ、と思う人もいるわけです。私が一番、最初にあの論争を始めたときも、あの頃、濱口先生は池田信夫氏の分析をいっぱいやっていたのですが、そんなことよりももっと大事なことがあるだろうと思って仕掛けたのです。それに当時博士論文を書き終わったくらいの私がそういうことを始めたら、私でさえ出来るのだから、ハードルが下がって、もっと同じようなことがたくさん起きると思っていたのですが、これは完全に当てが外れました。今回の『労働情報』だって、そういう論争の活発化を狙ったんでしょうけれども、なかなか難しいですね。
第三に、ここから、私が歴史をやっているからこそ、濱口先生に歴史の話をさせてしまったのですが、正味のところ、今、歴史なんかはどうでもいいです。それよりも現在が熱い。多くの皆さんに読んで欲しいのは情報労連のReportに濱口先生が書かれた最新の論稿をはじめとした特集記事です。産業別最賃が重要であるということは既に指摘されていましたが、今回の論稿は働き方改革に絡めて、それをさらに踏み込んで書いています。というか、私、これを読んで、結構、驚いたのですが、情報労連の戦略にかかわるようなことを具体的に指摘されています。おそらく、濱口先生の読みもこのタイミングが一つの勝負どころだということでしょう。
その話の前に、上の話の整理をもう少ししておきましょう。結局、ジョブ型社会論は労使関係論と不可分にあるということです。もちろん、『新しい労働社会』の第4章で私たちが論争したように、というより、私かどうかはともかく、濱口先生は最初から労使関係についての論争になり得る種をあの章に仕込んでいました。それが上からの組織化の話です。しかし、それがあまりにもジョブ型社会ということで、労使関係とは切り離される形で人口に膾炙してしまった。私が本の中でジョブ型をトレード型と言い換えたのにはそういう含意がありました。ただ、一方で、トレードは中核的労働者なので、大企業正社員から零れ落ちる層を捉えるという濱口先生の問題意識からすると、ジョブ型しか表現しようがないかもしれません。
そうはいっても、実は私も現在の労使関係でもっとも重要な論点については濱口先生とまったく同じ考えで、直近でもっとも労使関係の再活性化を行う可能性があるホット・トピックは産別最賃の利用だと思っています。これを労組が戦略としてどう考えていくのか。正直に言うと、今の情報労連には結構、期待しています。機関誌Reportは2016年10月の産別最賃に続いて、2017年6月に再び最賃特集の中で産別最賃を取り上げて特集しています。10月には私もインタビューを受けて、濱口先生と一緒に並びましたが、組織的に産別最賃を戦略的に取り上げようという感じではありませんでした。しかし、今回の特集は、情報労連全体かどうかはともかく、少なくとも機関誌編集部は勝負をかけて来たなと感じています。先ほどのリンクを貼った濱口先生の記事の横のバナーに特集記事が読めるようにリンクされていますので、そちらも全部、読んでください。どれも重要な記事です。
特集の解説を書こうとすると、また時間がかかってしまうので、ここではこの特集の持つ可能性だけ触れておきます。正直な話、ここ数か月は日本の組合の情宣はなぜこんなにダメなのかという話を多くの人に問いかけ、意見交換してきたりしたんですが、今回の情報労連Reportはひょっとしたら、面白いことになるかもしれません。この特集には単に組合員や一般読者だけではなく、執行部、その他産別、連合への問題提起の意図もかなり入っている。しかも、それがWEBの媒体で読める、というのは大きいです。情宣が問題提起して、それを運動に反映させるということが起こり得るのか。今後の情報労連をはじめとした産別の動きにも注目です。こういう問題に関心があるマニアックな方は、つしまさんのツイートもフォローしてください(まあ、でもあんまり注目されると、彼が動きにくくなるかもしれないので、本当に関心のある方だけでお願いします)。
2017年06月15日 (木)
今回、私が『労働情報』、というよりは龍井さんに頼まれて、対談を引き受けて、それをネタに大槻奈巳さんと禿あや美さんが対談を行い、それに遠藤公嗣先生と濱口さんがコメントを付す、という運びになりました。濱口先生の記事については一部、先生自身がブログで引用されています。
数年来、濱口先生との論争を何回かここで繰り広げてきたわけですが、はっきりと批判しなかったことがあります。それは小池和男先生の議論の濱口さんの利用の仕方と職能資格給制度の批判、それからジョブ型雇用の推奨が単なるプロパガンダに過ぎない、という事情についてです(小池先生の研究については先生が文化功労者になられたタイミングでこのエントリで紹介しました)。まあ、現実に影響がなければ、私は誰がどんな議論をしていてもまったく気にならないのですが、2000年代以降、とりわけここ数年は職能資格給の「職務」と給与をわりと厳密に結びつけた運用によって賃下げを行うことが広まっており、そういう意味では、職能資格給があたかも職務と切り離された制度であるかのような認識に基づいて行われる議論は現時点では有害であるということです。
私が対談の中で批判したのは、連合の『連合評価委員会最終報告』です。リンクも貼りましたので、ぜひ10ページの賃金論を読んで下さい。対談の冒頭で新しい賃金論と言っているけど、ずいぶん、クラシックなものを持ってきたなあと言っていますが、一番の問題は、職務給や職能資格給の厳格な運用で、仕事が変わらなければ賃金を上げないというロジックで、企業が賃金を抑えてきたのに、水準問題を抜きに、その意図はどうであれ、企業側と同じように職務給を提唱するのは利敵行為ではないか、ということです。この「利敵行為」は対談原稿が上がってきた段階ではまったく違う表現に変えられていましたが、編集の段階で私が元に戻しました(なお、これは校正ではありません)。
私個人は『連合評価委員会最終報告』をまったく評価しておらず、これが労働運動のビジョンを描いたなどという評価を聞くと深くため息をつかざるを得ないのですが、公平を期して言えば、この文書は二つの大きな歴史的意義を持っています。一つは2000年代前半はまだ労働運動のなかでは非正規の労働条件を改善することは正社員の労働条件を切り下げることだという認識が広くあったのですが、現在は連合の非正規労働センターの創設、派遣村等を経て、そういう認識は、少なくとも大声で主張できないように、トレンドが大きく転換しました。今や安倍政権でさえも同一労働同一賃金を政策の根幹においています。もう一つは、外部からの評価を受けたという点です。今日はこのレポートの批判がメインではないので、先に急ぎましょう。
上に書いた私の挑発的な問題提起に対して、まっすぐ答えてくれたのは濱口先生だけです。濱口先生は水準の問題と制度の問題を、分配の正義と交換の正義という言い方で、この両者のバランスを取ることを提言されています。今の問題は、私は交換の正義だと思っていて、連合評価委員会最終報告や禿さんや遠藤さんや遠藤さんの小池批判を援用し続けてきた濱口さんの議論が、企業側に利する水準の切り下げにしか役立っていない、ということです。
そもそも論で言うと、職能資格給はその制度の根本は職務分析によって職能を定めていくので、まったく空疎な能力ではないのです。ですが、その制度の伝道師であった楠田丘先生が嘆いていたように、日本では職務分析が行われず、1990年代くらいまでは職能資格給が運用されてきたのです。職能資格給にはもともと顕在的な能力を評価するはずだった職務分析を前提にする限り、『虚妄の成果主義』で高橋先生が述べたような、潜在的な能力の評価などという機能が入っていたわけではないのです。少なくとも、賃金論においては。それがなぜ、そのような運用が出来たのかといえば、ハイパーインフレから高度経済成長、要するに、バブル崩壊(ちなみに元日経連の成瀬さんは1985年のプラザ合意が転換点とおっしゃっています)まではそれなりに賃上げ=賃金総額の積み増しが行われていたからです。
私は今、年功賃金の能力給説も、生活給説も、かなり後付けの説明だと思っています。もちろん、組織がピラミッド構造である以上、勤続年数の積み上げとそのピラミッドを上っていくことはオーバーラップしますし、それは能力も上がっていくので、そういう意味ではもともと右肩あがりの賃金にはそういう性格がありました。ただ、それが従業員の大部分をカバーしたことは大雑把に言えば、戦後の経済のなかでそうなったと言えるでしょう。これは遠藤さんというか、多くの人がそう思っている日本型雇用システムが1960年代に作られたという話とも整合します。
まあ、もともと小池先生のブルーカラーのホワイトカラー化というのは、1970年代後半の賃金カーブを比較して導出した推論に過ぎないのです。ただ、その推論がとても魅力的で、二村先生をはじめとして多くの人をインスパイアして、小池先生自身もその直観にもとづく研究を重ねられてきたのです。なお、90年代に議論になった仕事表の実在については、そのうち出る『経営史学』の『「非正規労働」を考える』の書評に書いておいたので、興味がある方はそちらを読んで下さい。
濱口先生は周知の通り、ジョブ型雇用の重要性を訴えてきたのですが、私はそんなものは当初から無理だと言っています。これは前にも議論になりましたが、今の時点で新たにジョブ型のようなものを企業を超えて作るとするならば、大がかりな職務分析が必要です。これに対して、濱口先生は以前、ヨーロッパではそこまで厳密な職務分析をやらずともジョブ型が成立しているということを仰ったのですが、それは私から言わせれば、トレードの近代的再編をやったからで(二村先生の言葉を借りれば、クラフト・ユニオンの伝統の刷新)、それがないところでは何かしらの努力が必要でしょう。それは私が思いつく限りでは職務分析しかないわけです。
しかし、現在の状況で、それを実現するのは無理です。無理ではないというならば、財務省を説得して予算を獲得してくるか、財界や労働組合にその資金を提供させるかが最低限必要ですし、予算が確保できたら、それだけの大規模な職務分析を行う人が必要になりますが、どう考えてもそんな人数は日本にはいません。スクール・ソーシャル・ワーカーを全国に配置しようとしたって、全部は無理だよと言うのと同じです。ちなみに、アメリカが今のような世界を作ることに成功したのは、第一次世界大戦時の陸軍の170万人適性評価をやって、総力戦体制あるいはその後のニューディール的な世界で、公的部門がお金を出してそういう調査をやるということが可能だったからです。このようなドラスティックな革命が実現できたのは完全にこのようなタイミングの賜物で、もう今からこのような予算を通すことは日本だけでなく、どの国にも出来ないでしょう。
濱口先生の政策提言は、実現する見通しがあって行うものと、とりあえず極端なことを言ってみんなに考えさせるための問題提起の二つのパターンがあって、この一連の議論は私は後者だと思っていたし、その限りでは何の問題もないのですが、繰り返していうと、近年の職務給・職能資格給の厳格化による賃下げが進展するなかでは、労働条件の低下にしか寄与していないと思うので、ここであえて批判しておきました。ただ、ジョブ型雇用の提唱との関連で言えば、単に考えさせるための提言(新しい労働社会のときの議論がそうです)というよりは、その論理構成から考えて、労働組合への叱咤激励というか、愛情表現なのかなという印象も持っています。それこそ内務省社会局以来の忘れられた伝統です。
じゃあ、どうすればよいのかということですが、それは今回の原稿で濱口先生も書いている通り、福祉国家として生活できる賃金水準を確立することに他なりません。この抽象レベルでは答えは明らかですが、現実的には非常に難しい。たとえば、濱口先生は産業別とおっしゃいますが、複数のアルバイトを掛け持ちしているような働き方の場合、そのすべてが同一産業とは限らないので、産業別という視点では結構、こぼれ落ちてしまうでしょう。もう数年来、考えていますが、ここのところで道筋をつけるには、私にはまだ時間が必要です。誰が生活を保証するのかは、藤原千沙さんも連合総研のDIOで問題提起されていて、濱口先生も丁寧にこの記事を紹介したエントリを書かれています。
数年来、濱口先生との論争を何回かここで繰り広げてきたわけですが、はっきりと批判しなかったことがあります。それは小池和男先生の議論の濱口さんの利用の仕方と職能資格給制度の批判、それからジョブ型雇用の推奨が単なるプロパガンダに過ぎない、という事情についてです(小池先生の研究については先生が文化功労者になられたタイミングでこのエントリで紹介しました)。まあ、現実に影響がなければ、私は誰がどんな議論をしていてもまったく気にならないのですが、2000年代以降、とりわけここ数年は職能資格給の「職務」と給与をわりと厳密に結びつけた運用によって賃下げを行うことが広まっており、そういう意味では、職能資格給があたかも職務と切り離された制度であるかのような認識に基づいて行われる議論は現時点では有害であるということです。
私が対談の中で批判したのは、連合の『連合評価委員会最終報告』です。リンクも貼りましたので、ぜひ10ページの賃金論を読んで下さい。対談の冒頭で新しい賃金論と言っているけど、ずいぶん、クラシックなものを持ってきたなあと言っていますが、一番の問題は、職務給や職能資格給の厳格な運用で、仕事が変わらなければ賃金を上げないというロジックで、企業が賃金を抑えてきたのに、水準問題を抜きに、その意図はどうであれ、企業側と同じように職務給を提唱するのは利敵行為ではないか、ということです。この「利敵行為」は対談原稿が上がってきた段階ではまったく違う表現に変えられていましたが、編集の段階で私が元に戻しました(なお、これは校正ではありません)。
私個人は『連合評価委員会最終報告』をまったく評価しておらず、これが労働運動のビジョンを描いたなどという評価を聞くと深くため息をつかざるを得ないのですが、公平を期して言えば、この文書は二つの大きな歴史的意義を持っています。一つは2000年代前半はまだ労働運動のなかでは非正規の労働条件を改善することは正社員の労働条件を切り下げることだという認識が広くあったのですが、現在は連合の非正規労働センターの創設、派遣村等を経て、そういう認識は、少なくとも大声で主張できないように、トレンドが大きく転換しました。今や安倍政権でさえも同一労働同一賃金を政策の根幹においています。もう一つは、外部からの評価を受けたという点です。今日はこのレポートの批判がメインではないので、先に急ぎましょう。
上に書いた私の挑発的な問題提起に対して、まっすぐ答えてくれたのは濱口先生だけです。濱口先生は水準の問題と制度の問題を、分配の正義と交換の正義という言い方で、この両者のバランスを取ることを提言されています。今の問題は、私は交換の正義だと思っていて、連合評価委員会最終報告や禿さんや遠藤さんや遠藤さんの小池批判を援用し続けてきた濱口さんの議論が、企業側に利する水準の切り下げにしか役立っていない、ということです。
そもそも論で言うと、職能資格給はその制度の根本は職務分析によって職能を定めていくので、まったく空疎な能力ではないのです。ですが、その制度の伝道師であった楠田丘先生が嘆いていたように、日本では職務分析が行われず、1990年代くらいまでは職能資格給が運用されてきたのです。職能資格給にはもともと顕在的な能力を評価するはずだった職務分析を前提にする限り、『虚妄の成果主義』で高橋先生が述べたような、潜在的な能力の評価などという機能が入っていたわけではないのです。少なくとも、賃金論においては。それがなぜ、そのような運用が出来たのかといえば、ハイパーインフレから高度経済成長、要するに、バブル崩壊(ちなみに元日経連の成瀬さんは1985年のプラザ合意が転換点とおっしゃっています)まではそれなりに賃上げ=賃金総額の積み増しが行われていたからです。
私は今、年功賃金の能力給説も、生活給説も、かなり後付けの説明だと思っています。もちろん、組織がピラミッド構造である以上、勤続年数の積み上げとそのピラミッドを上っていくことはオーバーラップしますし、それは能力も上がっていくので、そういう意味ではもともと右肩あがりの賃金にはそういう性格がありました。ただ、それが従業員の大部分をカバーしたことは大雑把に言えば、戦後の経済のなかでそうなったと言えるでしょう。これは遠藤さんというか、多くの人がそう思っている日本型雇用システムが1960年代に作られたという話とも整合します。
まあ、もともと小池先生のブルーカラーのホワイトカラー化というのは、1970年代後半の賃金カーブを比較して導出した推論に過ぎないのです。ただ、その推論がとても魅力的で、二村先生をはじめとして多くの人をインスパイアして、小池先生自身もその直観にもとづく研究を重ねられてきたのです。なお、90年代に議論になった仕事表の実在については、そのうち出る『経営史学』の『「非正規労働」を考える』の書評に書いておいたので、興味がある方はそちらを読んで下さい。
濱口先生は周知の通り、ジョブ型雇用の重要性を訴えてきたのですが、私はそんなものは当初から無理だと言っています。これは前にも議論になりましたが、今の時点で新たにジョブ型のようなものを企業を超えて作るとするならば、大がかりな職務分析が必要です。これに対して、濱口先生は以前、ヨーロッパではそこまで厳密な職務分析をやらずともジョブ型が成立しているということを仰ったのですが、それは私から言わせれば、トレードの近代的再編をやったからで(二村先生の言葉を借りれば、クラフト・ユニオンの伝統の刷新)、それがないところでは何かしらの努力が必要でしょう。それは私が思いつく限りでは職務分析しかないわけです。
しかし、現在の状況で、それを実現するのは無理です。無理ではないというならば、財務省を説得して予算を獲得してくるか、財界や労働組合にその資金を提供させるかが最低限必要ですし、予算が確保できたら、それだけの大規模な職務分析を行う人が必要になりますが、どう考えてもそんな人数は日本にはいません。スクール・ソーシャル・ワーカーを全国に配置しようとしたって、全部は無理だよと言うのと同じです。ちなみに、アメリカが今のような世界を作ることに成功したのは、第一次世界大戦時の陸軍の170万人適性評価をやって、総力戦体制あるいはその後のニューディール的な世界で、公的部門がお金を出してそういう調査をやるということが可能だったからです。このようなドラスティックな革命が実現できたのは完全にこのようなタイミングの賜物で、もう今からこのような予算を通すことは日本だけでなく、どの国にも出来ないでしょう。
濱口先生の政策提言は、実現する見通しがあって行うものと、とりあえず極端なことを言ってみんなに考えさせるための問題提起の二つのパターンがあって、この一連の議論は私は後者だと思っていたし、その限りでは何の問題もないのですが、繰り返していうと、近年の職務給・職能資格給の厳格化による賃下げが進展するなかでは、労働条件の低下にしか寄与していないと思うので、ここであえて批判しておきました。ただ、ジョブ型雇用の提唱との関連で言えば、単に考えさせるための提言(新しい労働社会のときの議論がそうです)というよりは、その論理構成から考えて、労働組合への叱咤激励というか、愛情表現なのかなという印象も持っています。それこそ内務省社会局以来の忘れられた伝統です。
じゃあ、どうすればよいのかということですが、それは今回の原稿で濱口先生も書いている通り、福祉国家として生活できる賃金水準を確立することに他なりません。この抽象レベルでは答えは明らかですが、現実的には非常に難しい。たとえば、濱口先生は産業別とおっしゃいますが、複数のアルバイトを掛け持ちしているような働き方の場合、そのすべてが同一産業とは限らないので、産業別という視点では結構、こぼれ落ちてしまうでしょう。もう数年来、考えていますが、ここのところで道筋をつけるには、私にはまだ時間が必要です。誰が生活を保証するのかは、藤原千沙さんも連合総研のDIOで問題提起されていて、濱口先生も丁寧にこの記事を紹介したエントリを書かれています。
2017年06月03日 (土)
渋谷さんの『女性活躍「不可能」社会ニッポン』、だいぶ、前にいただいていたのですが、一回紹介しようとしてエントリを書いていたところ、手違いで消えてしまったので、悪いなと思ってそのままにしていました。すみません。先日、ある機会でこの本の話が出て来たので、新たな気持ちで書いてみたいと思います。
この本は主婦パートの二つの労働運動の事例の詳細なルポルタージュです。名古屋銀行と有名な丸子警報器です。1章から3章は主婦パートにかかわるマクロ的な把握を行っていて、4章(名古屋銀行)と5章(丸子警報器)がそれぞれ詳しい事例になっています。マクロで押さえておかなければいけないのは、主婦パートの多くは生活が楽なわけではなく、満足度が高いというアンケート結果も、その聞き方は不十分なものであるという認識です。正直、ここら辺は玄人でなければ、その当否を検討することは難しいと思いますが、自分の身近なところで、どちらがリアルか、そういう感覚を大事に読んでいただきたいと思います。
労働の現場から労働問題を考える点では、この本の問題意識は東海林さんの『15歳からの労働組合入門』と共通していますね。普通は労働運動にかかわることが難しい主婦パートがどうして労働運動に携わるようになったのか、そしてどのように交渉していったのか、そういうリアルな経過が描かれています。正直、こういうノンフィクションは、要約すると魅力が半減するので、読んで面白さをぜひ体感してほしいです。
この本の中で面白いのは、参議院議員に立候補するところですね。私は労働組合の政治活動について、よくウェブ夫妻の『産業民主制』の19世紀のジャンタの問題意識の話をするんですが、歴史を話さない講義ではどう説明するのか難しいと思います。現在の労働組合の政治活動は、昔からやっている共産党支持は理解できますが(私がこの立場であるというわけではありません、念のため)、連合が民主党、民進党をなぜ支持するのかほとんど理解しがたいです。本当は、話はシンプルなんです。自分たちの労働条件をよくするように、それを実現するために働く人を議員として送り出す。この本で立候補した坂さんはまさに自分たちの労働条件をよくするために議員になろうとしたわけです。
この本を読んでも、団体交渉や上部組合とは何かということを説明できるようにはならないでしょう。しかし、なぜ一人ではダメだったのか、なにを解決しようとしたのか、そのためには職場をなぜ超えていく必要があったのか、そして、なぜ立候補までしようとなったのかということを考えることはできます。そして、こうした活動を支えた家族の姿を通じて、家庭における主婦のあり方についても問い直しています。性別役割分業やワーク・ライフ・バランスという言葉で介さずに、誰にとっても重要な家族を考える上でもよい本になっています。労働運動に携わる人だけでなく、多くの人に読んでほしいと思います。
なお、家族関係については、柏木恵子先生の『子どもが育つ条件』岩波新書もお勧めしています。
この本は主婦パートの二つの労働運動の事例の詳細なルポルタージュです。名古屋銀行と有名な丸子警報器です。1章から3章は主婦パートにかかわるマクロ的な把握を行っていて、4章(名古屋銀行)と5章(丸子警報器)がそれぞれ詳しい事例になっています。マクロで押さえておかなければいけないのは、主婦パートの多くは生活が楽なわけではなく、満足度が高いというアンケート結果も、その聞き方は不十分なものであるという認識です。正直、ここら辺は玄人でなければ、その当否を検討することは難しいと思いますが、自分の身近なところで、どちらがリアルか、そういう感覚を大事に読んでいただきたいと思います。
労働の現場から労働問題を考える点では、この本の問題意識は東海林さんの『15歳からの労働組合入門』と共通していますね。普通は労働運動にかかわることが難しい主婦パートがどうして労働運動に携わるようになったのか、そしてどのように交渉していったのか、そういうリアルな経過が描かれています。正直、こういうノンフィクションは、要約すると魅力が半減するので、読んで面白さをぜひ体感してほしいです。
この本の中で面白いのは、参議院議員に立候補するところですね。私は労働組合の政治活動について、よくウェブ夫妻の『産業民主制』の19世紀のジャンタの問題意識の話をするんですが、歴史を話さない講義ではどう説明するのか難しいと思います。現在の労働組合の政治活動は、昔からやっている共産党支持は理解できますが(私がこの立場であるというわけではありません、念のため)、連合が民主党、民進党をなぜ支持するのかほとんど理解しがたいです。本当は、話はシンプルなんです。自分たちの労働条件をよくするように、それを実現するために働く人を議員として送り出す。この本で立候補した坂さんはまさに自分たちの労働条件をよくするために議員になろうとしたわけです。
この本を読んでも、団体交渉や上部組合とは何かということを説明できるようにはならないでしょう。しかし、なぜ一人ではダメだったのか、なにを解決しようとしたのか、そのためには職場をなぜ超えていく必要があったのか、そして、なぜ立候補までしようとなったのかということを考えることはできます。そして、こうした活動を支えた家族の姿を通じて、家庭における主婦のあり方についても問い直しています。性別役割分業やワーク・ライフ・バランスという言葉で介さずに、誰にとっても重要な家族を考える上でもよい本になっています。労働運動に携わる人だけでなく、多くの人に読んでほしいと思います。
なお、家族関係については、柏木恵子先生の『子どもが育つ条件』岩波新書もお勧めしています。
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